第48回 丸山 茂雄 氏 株式会社に・よん・なな・みゅーじっく 代表取締役
株式会社に・よん・なな・みゅーじっく 代表取締役
林 博通氏の紹介で、今回ご登場頂いたのは(株)に・よん・なな・みゅーじっく 代表取締役 丸山茂雄氏です。CBSソニー設立と同時に入社された丸山氏は以後、数々のヒット曲を手掛けつつ、EPICソニーの設立を初め、絶えず音楽業界を牽引し続けてきました。またゲーム業界の勢力地図を塗り替えたプレイステーション生みの親としての姿も記憶に新しいはずです。今回のインタビューでは幼少時代から始まり、現在代表を務める(株)に・よん・なな・みゅーじっく設立に込めた思いまで語って頂きました。
プロフィール
丸山茂雄(まるやま・しげお)
(株)に・よん・なな・みゅーじっく
代表取締役
1941年生 東京都出身
1966年 3月 早稲田大学商学部卒業
同年 4月 (株)読売広告社入社
1968年 6月 CBSソニーレコード入社
1978年 8月 EPICソニーレコード設立
同社企画制作2部部長
1988年 3月 CBSソニーグループ 取締役
1992年 1月 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 代表取締役副社長
1993年 11月 (株)ソニー・コンピュータエンタテインメント設立
同社代表取締役副社長
1997年 10月 (株)ソニー・コンピュータエンタテインメント 代表取締役副会長
1998年 2月 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 代表取締役社長
1999年 4月 (株)ソニー・コンピュータエンタテインメント 取締役副会長
2000年 12月 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 取締役
2001年 4月 (株)ソニー・コンピュータエンタテインメント 取締役会長
2002年 6月 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 退職
同年 7月 (株)ソニー・コンピュータエンタテインメント 取締役
ソニーアドバイザー
2003年 3月 (株)に・よん・なな・みゅーじっく設立
代表取締役
- 医者になる定めだった少年時代
- 文学少年→ラグビー漬けの高校時代
- 入社試験で大喧嘩!?
- 音楽業界と製薬業界の共通項
- 大ヒットの感触を追い求めて
- プレイステーション開発秘話
- 自分が今聴きたい音楽を紹介したい!
1. 医者になる定めだった少年時代
--前回の林 博通さんとはいつ頃お知り合いになったんですか?
丸山:キョードー・ウドー全盛期に第三勢力として、林さんがリスクを負って色々おやりになっているときに知り合いましたから、長い付き合いですね。
--林さんはとてもエネルギッシュな方でした。
丸山:林さんは極めて合理的な考え方をする真っ当な人だと私は思っていたんですが、その真っ当な考えが業界に通じないといつも怒っていましたね(笑)。その怒り方がとても激しくて私は好きでした。時々林さんに会うと、業界の人々を片っ端からまな板の上にあげて、「あいつは駄目だ」「こいつは駄目だ」とやるわけですよ(笑)。しかし彼一流の見方は「もっともだな」と思うことも多くて凄く面白かったので、しょっちゅう一緒にご飯を食べながら悪口を聞いていました。彼の会話にはリズム感があって、会話をしながらラップを聴いているような気分になったものですが、最近はジェントルマンになってしまったので、面白くないんですよね(笑)。
--それでも取材でお会いしたときはすごい勢いを感じましたよ。
丸山:最近一緒に食事をするときに「お前最近面白くないぞ」とか言うと、「丸さん、私だって大人になったんですよ」って言うんです(笑)。人間はお金が儲かり始めると保守的になる、その典型が林さんですかね(笑)。最近は業界内でも林さんの悪口を言う人は少なくなったと思うんですが、私は最近になって悪口を言い出していますね(笑)。
--(笑)。昔は林さんの考えが業界内で通じなくて怒っていたと先ほど仰っていましたが、林さんに対して反発も凄かったんですか?
丸山:林さんが「こうあるべきだ」と言うことを、みんなが「NO」と言ってましたからね。最近は林さんが言っていることの方が合理的であると理解されてきましたね。
--その「合理性」という部分に関しては、林さんはインタビューの中で力説されていました。
丸山: 私も林さんが言っていることの方が合理性があるとずっと思ってきましたからね。そうやって合理性のあることを言っているのにみんな「違う」とか「協力できない」と言うから、彼は悪口を言うわけです。それは人格の誹謗ではなく、合理性があるにもかかわらず、それに対して「NO」と言うとは、なんという奴らなんだ! という部分が林さんの中にはありましたからね。
--不合理なことに対する理不尽な思いがあったと。
丸山: そうですね。
--対して丸山さんは林さんにとって良き理解者であったわけですね。
丸山:理解者というほど林さんと私は年が離れていませんよ(笑)。でも、私がソニー時代に林さんと一緒にZeppを作ったんですよ。
--そうだったんですか! 知りませんでした。
丸山:その当時、音響とPAの会社がコンサートの中で占める比重があまりにも大きくて、彼らはフィーですから必ず支払わなくてはいけないんですが、キャパが2000人の小屋で500人しか入らなくても、そのフィーを取っていくんですね。ですからどんなに私たちがしっかりビジネスをやったとしても、コンサートをやったらアーティストに入ってくるお金はゼロで、周辺の人間ばっかり儲かってしまうという構造があったんです。
--業者だけが儲かってしまうと…。
丸山:そうです。会場の借り賃であり、PA、照明、それに付随したイベンター、トランスポート、あとミュージシャンですよね。これらの人たちはみんなギャランティーをもらいますが、本人だけがもらえず、アカを被るという不思議な世界がずっと続いたんです。それで最初に林さんと「照明をやろうか?」と話し合っていたんですが、それも大変だなと思っていたときに赤坂ブリッツが出来て、「こういうふうに楽器だけ持ってくればいい環境を作れば、全ての問題が解決する」と思い、Zeppを全国に作りました。
--Zeppの発案者は丸山さんだったんですか?
丸山:私というよりも私と林さんの2人が「照明役から始めよう」というのが発展してZeppになったんです。ですからZeppの発案者は林さんですよ。
--ここからは丸山さんご自身のお話を伺いたいのですが、ご出身はどちらですか?
丸山:生まれてからずっと東京です。私は昭和16年生まれですから戦前の生まれなんですが、飯田橋のそばの大曲というところに同潤会のアパートがありまして、そこに住んでいました。戦争で周りが全部焼けてしまってもそのアパートだけ鉄筋ですから残って、戦争が終わってからもそこにいました。
--いつ頃まで同潤会アパートにいらしたんですか?
丸山:学生の間はそこにいたんですが、結婚して市ヶ谷に移りました。そうしたら、その家から歩いてわずか50メートルくらいのところにCBSソニーが引っ越してきてしまったんです(笑)。
--通勤費いらずのいい社員ですね(笑)。
丸山:会社が引っ越してきたときは参っちゃいましたね(笑)。最初は市ヶ谷から六本木まで通っていたんですが、CBSソニーは5年で儲かったので市ヶ谷に自社ビルを造って、引っ越したんです。本当に嫌でしたよ(笑)。ビル建設が始まったときに「こんなところに会社が来ちゃうのか…まいったな」と思いましたね(笑)。会社終わってからわざわざタクシーに乗って六本木まで飲みに行って、また帰って来るという感じでしたね(笑)。
--ご兄弟は?
丸山:姉と弟の3人兄弟です。
--丸山さんのお父様は丸山ワクチンの開発者である丸山千里博士というのは有名なお話ですが、幼少時はお坊ちゃまだったんですか?
丸山:微妙ですよね。父はちゃんとした学者ですから、グレるわけにはいかないというところがありますよね。もともと自分も医者になろうと思っていました。
--そうなんですか。
丸山:医者になろうと思っていたけど、出来が悪くて医者になり損なったんです。
--ご兄弟の方々の中でお医者さんになられた方はいらっしゃるのですか?
丸山:姉は女ですからそういう気がなかったんですが、家中で医者になるのは私だとみんなが了解していて、弟も医者になる気はなかったですね。よくあるじゃないですか? 小学校の時に天才、中学でそこそこ、高校に入って超低空飛行になっちゃったというパターンだったんです(笑)。でも親は子供の頃のイメージで私はちゃんと医者になれると思いこんでいましたから、ならなかったときに愕然としていましたね(笑)。
--その件に関しては親不孝だったんですね(笑)。
丸山:そうですね(笑)。
--では、お医者さんを継がれた方はいらっしゃらなかったわけですね。
丸山:ただ開業医ではなかったので、「仕方がないな」という話になって、私は文系に進みました。
2. 文学少年→ラグビー漬けの高校時代
--中学・高校は公立ですか?
丸山:そうです。あの頃は中高一貫教育のちょっと手前ですから、僕の同級生が開成や麻布に行った時に「なんで開成、麻布に行くんだろう?」と思いましたね。
--その頃の開成・麻布は行こうと思えば行けるような学校だったんですか?
丸山:行こうと思えば行けたでしょうね。だって私は小学校の時は天才ですからね(笑)。いやらしい言い方になってしまいますが、東大へ行く人数で言えば、当時東京の学校だと日比谷が150人、次に新宿、戸山が120人で、私の行った小石川高校が100人から120人くらいいましたが、開成・麻布は90人とかでしたからね。
--まさに都立全盛の時代だったんですね。
丸山:都立全盛期ですね。
--さきほど「高校に入って超低空飛行になった」と仰っていましたが、それでも早稲田大学に入られたわけですからすごいですよね。
丸山:今から見ればそうですが、当時は私のクラスの男子35人中13人が東大、3、4人が東工大、あと千葉大、東京医科歯科大、一橋大に行った奴を合わせるとクラスの半分くらいになりましたからね。それで私立に行くのは7、8人で、そうなると早稲田、慶応になるじゃないですか(笑)。
--その当時の都立は凄く優秀だったんですね!
丸山:塾が出来て競争が激しくなったのは団塊の世代からで、私はその手前ですから、ちょっと出来がよければそれが普通だったんですよ。塾で受験術なんて教わりませんから、みんな自分で受験術を編み出すわけです。ですから自分にとって最も効率のよい勉強法を開発した奴が「頭のいい奴」ということですから、気の利いた奴はみんないい学校に行けちゃいますよね。
--小学校の時は天才だった丸山さんはなぜその後超低空飛行になったんですか?
丸山:私は中学までスポーツをやったことがなくて、本をたくさん読んでいたんです。それで高校に入った時に「本ばっかり読んでいるのは、少年らしくない」と自分で思ったんですよね(笑)。
--自己分析されたわけですね(笑)。
丸山:そう(笑)。「これはスポーツをやらなくてはいかんな」と思ったんですね。通常中学でスポーツをやり、その延長線で高校でもやるわけじゃないですか? でも私は中学ではやっていなかったので、今さら野球やバスケをやるわけにもいかないと思って、その頃中学にないスポーツがラグビーだったんです。ラグビーは中学では殆どやらないし、レギュラーの数も15人と多いですから、「ラグビーならレギュラーになれる可能性がある」と思ってラグビーを始めました。
--では、高校時代はラグビー中心の生活だったんですか?
丸山:そうですね。でも私は運動神経がないので、人よりも苦労をするし、疲れるんです(笑)。ラグビーをしに学校へ行って、疲れ切って家に帰り、ドーッと寝るという毎日だったので、勉強をする暇がなかったというだけなんです(笑)。いわゆる「軟派」になっている暇すらなかったですね。
--中学時代からガラリと世界が変わりましたね。
丸山:変わりましたね。でも運動が中心の高校ではなかったですから、柔いと言えば柔いんですよね。その高校の間に本を読むのをゼロにしたわけではないですから、本を読んだり、芝居やコンサートを見に行ったりしていました。
--その頃はどのような本を読まれていたんですか?
丸山:小説ですね。当時は高度経済成長の初めで、まだ教養主義が強力にはびこっている時代ですから、文学全集がやたらと発行されて、私の家が買ったのが新潮社が出した世界文学全集で、それが毎月配本されてくるわけです。すごい厚さでしかも二段組ですから強力ですよね。それは中学の時から配本されていたんですが、その時は歯が立たなくて、高校になってから過去の分も含めて読み出しました。全部でのべ100冊以上ありましたね。
--とてもアカデミックな少年ですよね。周りもそういう雰囲気はあったんですか?
丸山:なかったですね。そういう意味では少し浮いていたと思います。
--まさに文学少年ですね。
丸山:そうですね。ただその頃は「面白いな」と思ったけど、後から読み返してみると全然読み方が浅いですね。つまり男女関係のことを分からずに読んでいるわけじゃないですか? 単に字面を追っているだけだから、後から読むと「こんなことだったの?」というようなことがよくあります。私は若いうちに読み過ぎたのかもしれません。
--今、男女関係というお言葉が出ましたが、現実の男女関係はどんな感じだったのですか?
丸山:赤線がなくなったのが、私が高校一年の時ですから昭和32、3年でしたが、それまでは基本的に「素人さんを泣かせてはいけない」という考え方がしっかりありました。ですから女の子と話すまではいいけど、それ以上はいかないというのが私たちの世代の共通したところですね。私は大学に入ってからもラグビーをやろうと思っていたんですが、高校のOBから「大学でやってもお前は芽が出ないから、高校の監督やれ」と言われて、大学に入ってから高校のラグビー部の監督をやったんですよ。高校の監督をやっているときに団塊の世代が選手で、こいつらが素人さんにバンバン手を出しているわけですよ(笑)。逆に私たちのちょっと前の世代は、先輩が青線に連れて行くわけです。つまりプロ相手の性体験が高校のうちにあるわけです。私たちの時は赤線・青線はなくなってしまっていたし、素人さんにも手を出せなかったのに、下の世代は素人さんとよろしくやっているわけですよ(笑)。
--まさに「空白の世代」ですね(笑)。
丸山:そうですね。昭和14〜19年生まれは、そういったことに関してどっぷり遅れてしまった世代なんです。
--どんな人間もその世代の雰囲気から逃れることは出来ないんでしょうか?
丸山:絶対に出来ませんね。雰囲気とか風潮といったものの影響は大きいと思います。
3. 入社試験で大喧嘩!?
--大学を卒業なさって、読売広告社に入社されていますが、これには理由があるのですか?
丸山:大学では保険のゼミをとっていて、卒論ではパブリシティーと宣伝をテーマにしたので、保険会社に入ろうか、広告代理店に入ろうか考えていたんですが、保険会社の入社試験で大喧嘩になってしまったんです。
--入社試験で喧嘩ですか!(笑) 何がきっかけで喧嘩になってしまったんですか?
丸山:これは向こうに非があるとはとても言い難いんですが、保険のゼミが割と有名なゼミだったので、当時20社あった保険会社のうち18社に対して2人ずつ推薦枠があって、教授が推薦をすれば入社できるわけです。そのゼミは1学年20人しかいませんから、全員どこかには入れる計算になるんですが、20人の内10人しか保険会社に行きたいという人がいないので、先生が36枠ある内の上位の保険会社から生徒を割り当てていくと、下位の方にいかなくなってしまうじゃないですか? 先生としては満遍なく入れないとまずいんですね。
--入社実績を作っておかないといけないわけですね。
丸山:そうです。私はゼミの幹事をやっていたので、先生が「お前のクラスで就職に困っている奴はいないか?」と聞いてきて、私はそういう奴を先生のところに連れていって面接するんですね。いい先生で面接をしたその場で「君はゼミ生だ!」と認定するわけです(笑)。それでそいつと一緒に明治生命を受けろと先生から指令が出たので、2人で受けに行ったのですが、明治生命の人事係長がうちのゼミのOBで、連れて行った奴の顔を見て「見たことのない顔だな」と言うんですよ。それで「よく休んでいたもんで…」とか言って誤魔化していたんですが、連れていった奴を試験すると言いだしたので、「ゼミの人間なのに試験するなんておかしいじゃないですか」と揉めて、そこから滅茶苦茶になってしまいましたね(笑)。
--今の就職難からは想像も出来ない話ですね(笑)。その当時は就職しようと思ったら結構簡単に就職できたんですか?
丸山:ゼミに入っていたら、できましたね。
--丸山さんも喧嘩しないで普通にしていたら生命保険に入社されていたわけですね。
丸山:そうですね。それで先生のところに謝りに行ったときに「他の保険会社に行くか?」と言われたんですが、「保険会社はもう勘弁してくれ」と断って、自分で就職先を探したんです。
--それで読売広告社にお入りになったわけですね。何年在籍されたんですか?
丸山:2年ちょっとです。
--その間は何をなさっていたんですか?
丸山:営業ですね。
--どんなクライアントを担当されていたんですか?
丸山:不動産会社、そごう、京王百貨店、ソニー、そんなものですかね。
--代理店時代の想い出は何かありますか?
丸山:あの頃は「マーケティング」という言葉が輸入されて、みんなが使うようになってきた時期で、アメリカの事例を翻訳している本を読んだりしていたので、そんなもんだろうと思って入社したら現実はそうではなかったですね。本によればクライアントと代理店が対等で、両方が協力しながら新しいマーケット活動をするとなっているのに、現実はクライアントの方がずっと偉くて(笑)。まあ当たり前の話なんですが、「代理店のやることなんてないじゃないか」と代理店に失望したんですね。今から考えればもう少しやりようがあったんじゃないか? と思いますけどね。
--今もその力関係は変わっていないんでしょうかね?
丸山:昔に較べたら代理店の地位も向上しましたし、なにより能力が上がりましたよね。ですから今だったら代理店の仕事は面白いのかもしれません。
--では、丸山さんの広告代理店での仕事はあまり面白いものではなかったわけですか?
丸山:何年間かは丁稚奉公というのは当たり前だと私は思っていたんですが、問題は10年くらい先輩がどんな行動をしているかなんですね。読売広告社の先輩達が会社を終わって、縄のれんで酒飲んで上司の悪口ばっかり言っているのを見ると「三十過ぎてこんな人生じゃまずいよな」と考えたわけです。重要なのは憧れるような仕事をしている先輩がいるかどうかですよね。
4. 音楽業界と製薬業界の共通項
--その後CBSソニーが設立された瞬間、手を挙げられたわけですが、どういった経緯でCBSソニーに入社されたんですか?
丸山:当時終身雇用が当たり前で、途中入社が難しい世の中だったじゃないですか? そんな中でCBSソニーは途中入社でいいという募集要項だったんです。
--このときCBSソニーは何人募集したんですか?
丸山:人数は明記していなかったのでわかりませんが、すごく有名な広告がありまして、ボーンと会社のマークがあって、国籍・年齢・経歴は問わない、とにかく音楽の好きな人が条件と書いてあるんですよ。
--かっこいい求人ですね。
丸山:ええ。だから応募してみたんです。
--倍率は高かったんですか?
丸山:高かったと思います。
--そして集まったメンバーというのはどんな分野から来たんですか?
丸山:色々いましたね。橋梁屋とか薬品会社のセールス、証券会社、印刷会社、化粧品会社…。
--他のレコード会社から引き抜いてくるとか、そういう風じゃなかったんですか?
丸山:合弁会社の時に条件を付けられたんですよ。資本が自由化されてきて、外資が全額出資するのは駄目だけど50%ならいいということなった時の第1号の会社がCBSソニーなんです。それまではアメリカの会社は日本で会社を作れなかったので、CBSも日本コロムビアとライセンス契約をして音源を出していたわけです。結局戦後、日本の産業を守るためにそういう規制があったわけじゃないですか? それが50:50まで緩和されたわけですね。その時に合弁会社をやってもいいけど、他社から人を引き抜いたりしてはいけないというのが条件だったので、素人を集めるしかなかったんです。
--でも現実的に一人も同業者がいないということはなかったんじゃないですか?
丸山:同業者で来たのは制作で亡くなった雨森さんという方と酒井政利さんが日本コロムビアから、営業では中野さんという方が1人、レコード会社から来たのはこの3人で、あとは全員他業種からです。
--実際にCBSソニーに入社されて、最初はどんな印象を持たれましたか?
丸山:そもそもレコード業界がどういう業界なのか知らないじゃないですか?(笑) 社員の人数が少ない割にリリースする量は多くて、特に洋楽はどんどんリリース出来るわけでしょう? それまでの音楽業界の商習慣を大賀(典雄)さんが片っ端からぶち壊したわけです。それに対して旧体質の人が怒っているわけじゃないですか? ところがそれに対して私たちは対応しなくてはいけないんですね。もう業界中が大騒ぎしているわけですからね。
--イメージとしては「黒船来襲!」といった感じですものね。
丸山:私たちはその対応で目の回るような忙しさでした。
--丸山さんの最初の部署はどちらだったのですか?
丸山:私は営業です。仙台に赴任したんですが、肩書きは仙台出張所の所長代理でした。東京営業所の仙台出張所の所長代理…でも部下なしなんですよ(笑)。「東北六県はお前一人でやれ」と言われて、それで終わりですもの(笑)。
--東北六県を一人で担当ですか…。
丸山:私はそれまで北は日光までしか行ったことがなかったんですよ(笑)。それでとりあえず仙台へ行って、店を契約して回ったんです。
--冬場は辛そうですね…。
丸山:新幹線なんてありませんから、全部在来線で回るわけじゃないですか? そうするとどうやったって時間が足りなくて、旅につぐ旅でしたね。
--景色はどこか寂しいですしね(笑)。
丸山:寒いですし、人はいないし、「レコード売れるのかな?」と思いましたね。
--その所長代理は何年やられたんですか?
丸山:1年半やりました。
--「こんなことだったら読売広告社にいればよかったな」とは考えられませんでしたか?
丸山:それはなかったです。仕事をしている実感と「これを続けていれば何かものになりそうだ」と感じていました。
--昭和43年当時、邦楽の制作は始まっていなかったんですか?
丸山:いや、始まっていました。ジャニーズ事務所のフォーリーブスが最初です。
--フォーリーブスがCBSソニーの第1弾アーティストなんですか?
丸山:第1弾アーティストとして何組かいる中の1組です。全部で6人か7人がデビューしてますね。
--仙台に1年半いらっしゃった後は、どこへ行かれたのですか?
丸山:東京に3ヶ月いて、次は香港ですね。
--香港ですか! いきなり飛ばされるんですね(笑)。
丸山:香港には2年いました。
--香港での生活はいかがでしたか?
丸山:最初の半年はどうしたらいいのか分からなかったですね。当時の香港は海賊盤の全盛期で、A面サイモン&ガーファンクル、B面ビートルズみたいな(笑)、そういう時代だったんです。それでチャイニーズを雇って、というよりも代理店を選んだんです。それで選んだ途端に仕事をしなくていいわけです。代理店にやらせれて、それをスーパーバイズすればいいんですからね。
--具体的にはどんな仕事をするんですか?
丸山:CBSとの契約で、極東はCBSソニーが責任を持つことになっていたので、香港で商売にならなくても、やっているという実績を上げないと契約違反になってしまうわけです。だから、香港でもやれということになったんですが、「真面目にやんなくてもいいぞ」というのも片方にあったんです。
--でも海賊盤全盛の当時の香港で、正規盤は売れたんですか?
丸山:サイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』なんかは1万枚以上売りましたし、アンディ・ウイリアムスの『ある愛の詩』も1万枚を越しましたね。売れないか? と言われれば売れていたんですよ。
--香港ではどちらにお住まいだったんですか?
丸山:山の中腹ですね。
--当時の香港は今とは違った雰囲気だったんですか?
丸山:最近行っていないのでよく分かりませんが、当時の香港はものすごく貧富の差があって、まだイギリス領の頃ですからイギリスを中心とした白人が優位で、日本人は微妙な場所にいるわけです。太平洋戦争の時は香港を日本が占領したわけじゃないですか? その時に酷い目に遭わされたと思っているイギリス人はたくさんいるので日本人が大嫌いなイギリス人がいる一方、日本の経済力が上がってきたから「日本人も大事にしましょう」というイギリス人もいて、中国人も同じように日本人のせいで酷い目に遭ったと思っている中国人もいれば、日本人のおかげである種独立気分になれていると思っている人もいて、何層にも分かれている部分があり、そう簡単に割り切れない非常に難しい地域でした。
--20代後半での海外暮らしですから、色々楽しいことがあったのでしょうね?
丸山:当時の香港は、日本の銀行や商社、証券会社のオフィスは半径300メートルくらいの中に集中しているわけです。しかも山の中腹(高級住宅街)にみんな住んでいますから、全員知り合いになってしまうので、あらゆるプライベートなことがばれるじゃないですか?(笑) 結局ばれちゃって大ひんしゅくを買ってしまったんですが…(笑)。
--ちなみに何がばれてしまったんですか?(笑)
丸山:それは言えませんよ(笑)。ただ、そのおかげで人格が変わってしまって(笑)。
--硬派な青年が変わってしまったんですね(笑)。
丸山:そうですね。硬派な青年が軟派になりましたね。だから東京に戻って、邦楽に移っても、乱れた芸能界の中に違和感なく入れたんですね(笑)。
--前のままだったら違和感を憶えたでしょうね。
丸山:もう全然馴染めなかったでしょうね。
5. 大ヒットの感触を追い求めて
--さきほど東京に戻られて邦楽に移ったと仰いましたが、すぐに制作へ行かれたんですか?
丸山:いや、東京に帰ってから2年間営業をやって、それから制作ですね。ですから会社に入って6年くらい経ってから制作に移ったんです。
--具体的にはどのようなことをされたんですか?
丸山:宣伝ですね。
--その移動というのは丸山さん自身が希望を出されたんですか?
丸山:いや、会社からの命令です。当時私は「ずっと営業でいいかな?」と思っていたんです。
--今まで丸山さんご自身の音楽的バックボーンのお話が出てこなかったんですが、音楽を演奏されたり、聞かれたりはしていたんですか?
丸山:家にピアノがあって、母親がピアノを弾いていました。姉もクラシックをピアノで弾いていました。それで「あなたも弾きなさい」と言われて、弾いてみたけれど逃げ出した、と。高校生になってからステレオを買ってもらって、最初に買ったレコードはクラシックですね。クラシックのレコードを3、4枚買ってもらって、擦り切れるまで聴きました。その影響でN響の定期会員になって、高校の時はラグビーをやりつつずっと聴いてました。それでラジオから流れてくる音楽は何かと言えば、まだビートルズじゃないですからね。プレスリー、ポール・アンカの時代でそれを聴いていました。大学に入ってからはモダンジャズですね。ジャズを聴かなきゃ、大人になった感じがしないじゃないですか?(笑)
--ジャズ喫茶で難しい顔をしながら聴いていたわけですか?(笑)
丸山:そう(笑)。片手に岩波の雑誌「世界」と「朝日ジャーナル」、「平凡パンチ」とわけわかんないですよ(笑)。
--制作に移られて、どのような方々を手掛けられたのですか?
丸山:私はメインの人ではなかったので。メインは稲垣(博司)がやっていましたからね。山口百恵とかね。
--それで酒井さんが郷ひろみとかを手掛けられていたと。
丸山:山口百恵・郷ひろみといった主流は稲垣・酒井というラインでやっていて、吉田拓郎や山本コータロー、ばんばひろふみといったフォークをやれと言われて、私はそっち側をやったわけです。
--その頃の印象深いお仕事は何ですか?
丸山:太田裕美ですね。彼女はもともとアイドル志望だったんですが、20才を過ぎちゃって「20才を過ぎてアイドルは無理だろう」ということになって、それでディレクターの白川(隆三)と相談して、ちょうど小坂明子が『あなた』を出したときだったんですが、「あの曲は良すぎる。次から次へあんなにいい曲を書けるわけがない」というすごく乱暴な発想をしまして(笑)、「小坂明子はこの曲の後はしばらく出てこないだろうから、太田裕美をピアノの弾き語りでデビューさせれば、小坂明子の後釜として上手くいくかもしれない」と思ったんですよ。それでこっちは本人が曲を作るんじゃなくて筒美京平・松本隆コンビで、この二人を使っていれば曲を次々と作れる(笑)。それが大成功で、本当に考えたとおりになったんですね。
--それもマーケティングというのでしょうか?
丸山:ある種のマーケティングかもしれませんね。
--「木綿のハンカチーフ」は大ヒットしましたものね。
丸山:あれは4枚目ですね。
--主流じゃないところから大ヒットを出されたわけですが、やはり達成感はありましたか?
丸山:ありましたね。はっきり言って滅茶苦茶いい気分ですよね(笑)。だってお金を使ってないんですから。
--やはりその時の感触をずっと追い求めてきたということなんでしょうか?
丸山:そうでしょうね。
--続いてEPICソニーを設立されますが、どのようないきさつだったんですか?
丸山:太田裕美とかをやっている一方で主流のお手伝いもしなくてはいけなくて、その中で私が一番嫌だったのがいわゆる賞レースのスタッフに入ることだったんですね。基本的に「賞をくれる」と言われるのであれば、「ありがとう」と言って素直に受け取りますが、「賞をくれ、くれ」みたいな下品なことはできるか! と思っていましたからね(笑)。だけど「賞をくれ」と言わなきゃくれないじゃないですか? だから会社としてはシフトを組んで審査員のところを回らなくちゃいけなくて、それが毎年あるのでほとほと嫌になってしまって、「このセクションから外してくれ」と頼んで、一旦営業に戻りました。それで営業に戻って1年経った頃に「EPICを作るから、またお前やれ」と言われたので、「そういうのが嫌で営業に戻ったんだから、勘弁してくれ」と言ったんですが、「運営を好きにやっていい」ということだったので、やることになったんです。
--あまり乗り気じゃなかったんですか?
丸山:全然乗り気じゃなかったですね。それで「賞レースとかやらなくて済むのは何だろう?」と考えたんですね。同じように「TVのプロデューサーに“アーティストを出してくれ”と頼まなくて済むのは何だろう?」とも考えて、両方やらなくて済むジャンルはロックじゃないですか?
--それで佐野元春さんですか(笑)。
丸山:さっき言ったように私はビートルズを一番肝心なときに聴いてないでしょう? 一番感受性が強いときに聴いていたのはプレスリー、ポール・アンカですからね。だから私の体にはロックするものがないんです。だけど頭下げなくていいのがロックだと気が付いたわけです(笑)。
--そういう理由から『ロックの丸さん』が誕生したんですか…。
丸山:そう。頭を下げて媚びないというのはロックの精神と一緒じゃないですか?(笑) 私はその部分は一貫していますから、ミュージシャンと話が合いますよね。でも頭を下げること自体が嫌なんじゃなくて、理不尽なことに対して頭を下げるのが嫌なんです。
--それでEPICはロック色の強いレーベルになったわけですね。
丸山:そうですね。
--丸山さんのEPIC時代は10年ありますね。
丸山:10年と言いましても、あまりにもEPICが上手くいきすぎたので、自分が作ったチームのみんなが怠くなりましたね。つまりEPICを始めたのが37才、そこから10年ですから47才で、私が定年までEPICにいるとすると、EPIC設立当時に20代後半だった奴らは「丸さんが辞めるまであと十数年…」と思うわけですよ。しかも僕とそいつ等の距離感は一緒に年を取っていくわけですから変わらないじゃないですか? そうすると私は嫌われてるとは思っていないですし、彼らも嫌いってわけではないんだけど、この関係がずっと続くのも…という雰囲気が口には出さないけどありましたね。
--ということは自らCBSソニーに戻られたわけですか?
丸山:自分で勝手にね。
6. プレイステーション開発秘話
--CBSソニー戻られた途端、取締役に就任されていますね。
丸山:稲垣も一緒に取締役になったはずです。
--稲垣さんに対してライバル意識みたいなものはあったんですか?
丸山:ライバル意識と言っても彼と私は芸風が違うので、稲垣の領域に私は入らないように、という気の遣い方はものすごくしました。向こうも私に対してすごく気を遣っていたと思います。でも、自分で言うのも何ですが、私の方がもっと気を遣っていたと思いますよ(笑)。
--(笑)。この後はキューンレコードですか?
丸山:そうですね。キューンを作ったのも、上手くいっていなかったセクションを全部私が面倒を見ることになって、それで作ったのがキューンなんですよ。
--この「キューン」は、本当に「キューンと行くように」ということで名付けられたんですか?
丸山:そうですね。あまりキューンとは行かなかったんですけどね(笑)。それでキューンを石井(俊雄)に任せたら、またやることが無くなってしまったんですよ。私は任せたら一切口を出さないのでね。それで次はゲームですね。
--音楽からゲームとはすごい転身ですよね。
丸山:いや、あまり転身という気分ではなかったです。一番最初のアイディアはスーパーファミコンの下にプレイステーションをくっつけて、CD-ROMを入れるとスーパーファミコンで遊べるというものだったんですよ。
--そういう発想が最初にあったんですか…。
丸山:それで「そのソフトを丸さんやってくれないか?」というんで、引き受けたんですね。それで「何がいいかな?」と考えていたんですが、当時まだカラオケボックスがあまりなくて家庭用のカラオケというのが売れていたんですが、テイチクが全盛でソニーは弱かったので、「これでやれば」と考えたんです。スーパーファミコンは必ずテレビに繋がっているわけですから、そこにカラオケを入れれば「カラオケのマーケットを独占できる」という気になったわけです。
--それは画期的なアイディアですね。
丸山:そうでしょう? それでその準備をしていたら、発表の直前まで行って任天堂にキャンセルされて、パーになってしまったんですね。それで「このまま撤退するか? それとも独自にゲーム機を開発するか?」という話になって、私は「絶対にゲーム機をやったほうがいい」と主張したんですね。次の時代はCD-ROMになるとわかっていましたし、私がやめたとしても、スーパーファミコンを使った家庭用カラオケを任天堂が独自でやるに決まっていると当時思ったんです。結局任天堂はやりませんでしたが、撤退してその部分を他の誰かがやるんだから、ソニーがゲーム機をやるべきだと思ったんですよ。
--それで丸山さんが本格的にプレイステーション開発に関わるようになったんですね。その時、久夛良木さんは何をなさっていたんですか?
丸山:任天堂のスーパーファミコンにCD-ROMドライブを付けるという企画は、もともと久夛良木が自分で動いて任天堂と話をまとめたんです。
--そうだったんですか。
丸山:それがパーになってしまって、それで「ソニー独自でやるべきだ」と考えたのが、私と久夛良木の二人だけなんですね。ところが久夛良木は当時課長ですから、上には部長や事業部長がいて、大賀社長と直接話が出来ないわけです。でも私はSME(ソニー・ミュージックエンタテインメント:’91年4月社名変更)から話せる立場だったじゃないですか? ですから久夛良木は私を使って大賀さんに言いつけるわけです(笑)。
--なるほど…。ということは丸山さんがいらっしゃらなかったら、プレイステーションは誕生していなかったということですね。
丸山:それは絶対に生まれていませんよね。私が政治的な動きをしたのはその時だけです。その時は足を引っ張る人がたくさんいたんです。
--大賀さんはすぐには賛成してくれなかったんですか?
丸山:内心は賛成してくれていたのかもしれませんが、反対する人がたくさんソニーの中にいましたからね。
--反対する理由はなんだったのですか?
丸山:当時は任天堂全盛期じゃないですか? 簡単に言うとソニーが負けていい相手は、悔しいけど松下だけなんですよ。
--つまりプライドの問題だったんですね。
丸山:そう、プライドの問題。任天堂などという京都の花札屋に万が一負けたらどうするんだ! ということですよ。おかしな話ですよね(笑)。
--その後プレイステーションが発売されるわけですが、ソニーコンピュータエンタテインメント(以下 SCE)設立からどのくらいで発売になったのですか?
丸山:SCEを設立したのが’93年の11月で、プレイステーションの発売が’94年12月3日ですので、約1年ですが、会社を設立すると決めたのが’93年の1月、その前の1年くらいゴタゴタしたわけですから、発売までに約3年かかっていますね。
--このプレイステーションがまた爆発的に売れるわけですよね。これは大変大きな仕事ですね。
丸山:ここまで大きくなるとは思いませんでしたね。もちろん上手くいけば大きくなるとは思っていましたが、こんなに綺麗にいくとは思っていませんでしたね。
7. 自分が今聴きたい音楽を紹介したい!
--ここまで丸山さんの話を伺っていると、先を見る目もさることながら、大変強運な星のもとにいらっしゃいますよね(笑)。
丸山:はっきりいって運だけで来ていますからね(笑)。多分失敗もいっぱいあると思うんですが、人間の記憶とは勝手なもので、悪いことはサッサと忘れるので、引いたカードは全部当たっているような気がしますね。
--’98年にSMEへ社長として戻られるわけですが、社長は何年間やられていたんですか?
丸山:2年もやっていないんじゃないかな?
--いさぎ良い退陣のされ方だったと記憶しています。
丸山:そうですね。
--なぜそんなに早く辞められたんですか?
丸山:音楽業界のこれからはどういった方向に行くかという見方が、他の人たちと合わなかったというのが最大の理由ですね。でも言わせてもらえば「ほら見たことか、俺の言ったとおりになっているじゃないか!」と今思うんですけどね(笑)。
--それは具体的にはどのようなことですか?
丸山:旧来のレコード・メーカーのシステムが今後崩壊するから、それに合わせた体制に変えたいと強く思いました。それを急激にやろうとしたときに、社内で色々な問題が起きますよね? それを強引に私がやった方がいいのか、シフトだけ組んで次の人にやってもらった方がいいのかを考えたときに、自分が辞めて次の人に任せた方がみんなが納得しやすいだろうという判断です。今SMEはレーベルの数が10数個あるわけでしょう? ずいぶん増えているけれど、私はそれを50くらいにしようとしたんですよ(笑)。でもそれには大反対があって、でも10幾つになって今SMEは調子良いですよね。
--分社が成功したみたいですね。
丸山:ですから「言ったとおりだろう?」という気持ちもあるんですよ(笑)。
--でもいきなり「レーベルを50にしよう」と言われたら、みんなひっくり返りますよね。
丸山:私はゲームの世界に一時移ったじゃないですか? ゲームの世界ではジャッジから実施までのスピードがもの凄く速いから、それに慣れてしまって、SMEに戻ったときはゲーム業界のスピード感になっていたんですね。もちろんゲーム業界にいるときも片方で音楽をやっていたんですが、何が一番大きかったかというと小室(哲哉)君のマネージャーをやっていたから基本的にエイベックスと仕事をしていたわけです。当時のエイベックスはジャッジが早かったので、小室君がアイディアを出す、私がプランを立てる、それを提案したらすぐにOKといった感じで、すごく早い。そのスピード感をSMEに持っていったらすごく遅くて(笑)、そういうズレがありましたね。
--今のSMEは外部から見ていかがですか?
丸山:まだまだですね。不思議なのはSMEの社員一人一人を見てみると悪い奴はいなんだけど、固まりになった途端にそれぞれが牽制し合ったり、自分のタイトルにこだわったりしますね。一人一人のこだわり方はそんなにえげつないものではないんですが、それが溜まるとえらい官僚的になってしまうんですね。だからフラットな組織にしないと駄目だということです。
--配信など新たな動きを見せる音楽業界の中でレコードメーカーという存在はどのようになっていくとお考えですか?
丸山:世界的に見てレコード・メジャーは生き残れないと思います。それなのに日本は割とのんびりしていて、みんな平気な顔をして仕事をしているんですが(笑)。
--あまり危機感がありませんよね。
丸山:危機感を持った途端に解決するかといったら解決しないんですけどね。配信や権利関係をどうしたらいいかという中でレーベルゲートを立ち上げたのは私なんですが、私が作った基本的な考え方を未だに守っているんですね。つまりそれは私が’99年くらいに作った部分ですから、とっくに改訂していなきゃいけないはずなんですが、同じものを使っている。
--がんじがらめな印象を受けます。
丸山:これはあくまで「良くも悪くも」なんですが、レーベルゲートを作ることによって、レコード会社を団結させたので、割と配信業者にやられなくては済んでいますね。これは私の功績の最たるものだとは思うんです。
--手を打たれるのが早かったですものね。
丸山:早かったでしょう? アメリカよりも全然早かったですからね。だけど今度は権利者が何の努力もなく守りすぎですよ(笑)。馬鹿じゃないかと思いますね(笑)。
--その辺は高堂さん(高堂 学氏:(株)レーベルゲート 代表取締役社長)とお話になられたりしますか?
丸山:高堂が決める問題ではないですからね。それはやはりSMEの榎本(和友)社長が決めることでしょう。彼が業界のTOPなんですから、彼の決断が他の会社に影響を与えるという構図でしょう。
--以前榎本社長にお話を伺ったときに「まだまだパッケージは伸びる」と仰っていました。
丸山:今みたいなやり方をやっていたらダウンロードは伸びませんからね。「伸びないからといって、そのままでいいのか?」と思って、次にそれをひっくり返すようなことを考えようかなと思っているんですよ(笑)。
--丸山さんはSMEの社長を退かれた後、に・よん・なな・みゅーじっくを立ち上げられますが、これはどのようなお考えのもとで作られたのですか?
丸山:SMEのような規模のレコード会社となると契約アーティスト数が300とか400になってしまって、しかも社員も多いですから、どうしてもミリオンセラーを出せるアーティストを1人、できれば2人くらい育てないと会社としては成立しない。でも音楽は幅があって、旬で100万枚売れるアーティストはほんの少しで、それ以外にも「これは売れないだろうけど良い音楽だよな」という人たちがたくさんいるわけです。100万枚と言いますけど、人口から比較したらパーセンテージとしては低いんですが、社員の目はほんの少ししかいない100万枚売れるアーティストに行くわけじゃないですか? でもそこにしか目がいかないというのは音楽シーンとしてはすごく痩せていると思うんです。私がEPICにいたときは、「売れないだろうけど良い音楽」を扱っていたら、時代が移り変わって「100万枚売れるアーティスト」になったんですが、今は売れないとすぐに切られちゃうでしょう? 100万枚売れるアーティストは「どうぞSMEさん、エイベックスさんおやり下さい」でいいんですが、私が今聴きたい音楽はそれ以外にたくさんある。そういうアーティストの作品を紹介していこうと思い、に・よん・なな・みゅーじっくを立ち上げました。
--ビクターの高垣健さんがやっているBabestarのような動きがメジャーレーベルの中にも出始めてきているようですよ。
丸山:個々のスタッフの思いはそういうのがあったとしても、会社という仕組みの中で生き残れるのか? ということは別問題じゃないですか? レコード会社はどこも切羽詰まっていますから、大量に売るという方向に行きがちですからね。そうは思っていてもそれが出来るかは別ですけどね(笑)。
--大変失礼な言い方かもしれませんが、丸山さんは考え方が柔軟で、とてもお若いですよね。
丸山:(笑)。
--HPで丸山さんが立命館大学で行った講義の模様も見たんですが、その中で学生達に向かって「君たちもレコード会社くらい自分で作れ」と仰っていますよね。
丸山:そうです。
--その実践を丸山さんが身をもってなさっているのが、に・よん・なな・みゅーじっくなわけですね。に・よん・なな・みゅーじっくの今後の課題は何だとお考えですか?
丸山:私のやっている音楽は、たぶん5,000人がいいなと言ってくれる音楽だと思っているんですが、宣伝にお金をかけられませんから、その5,000人に届けようがないんです。つまり需要があるのにお客さんに届かないもどかしさがあります。
--ディストリビューションがない?
丸山:いや、情報でしょうね。だから、それを解決する画期的な方法を思いついたので、夏ぐらいまでには具体化しようと思っているところです。
--それはここでは言えませんか?
丸山:今は言えないですね(笑)。私の今考えていることは、音楽業界の新しい方法論になるかもしれないと思っています。
--では、その発表を楽しみにしています。本日はお忙しい中、ありがとうございました。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
丸山氏のお話を伺ってまず驚かされたのが、その柔軟かつ大胆な発想力でした。今までの慣習や常識に惑わされることなく、自身の素早い状況判断のもとに考えられた戦略の正しさは、氏の実績の数々が物語っています。音楽だけに限らず、エンターテイメント・ビジネス全般を視野に入れた丸山氏の存在感は、今後も益々増していくのではないかと感じました。それにしてもインタビューの最後で語られた「画期的な方法」という言葉が気になりますね。
さて次回は、日本IBM、アスキー、セガといったPC〜インターネットの世界で大活躍された異色のキャリアをお持ちのコロムビアミュージックエンタテインメント(株) 代表執行役兼CEO 廣瀬禎彦氏です。お楽しみに!