第49回 廣瀬 禎彦 氏 コロムビアミュージックエンタテインメント株式会社 取締役代表執行役兼最高経営責任者(CEO)
コロムビアミュージックエンタテインメント株式会社 取締役代表執行役兼最高経営責任者(CEO)
丸山茂雄氏の紹介で、今回ご登場頂いたのは、コロムビアエンタテインメント(株)取締役代表執行役兼最高経営責任者(CEO) 廣瀬禎彦氏です。
IBMの凄腕営業マンとして数々の受注を獲得し、その後アスキー、セガ、アットネットホームとコンピュータ〜インターネット業界の先頭を走り続けてきた廣瀬氏。そんな廣瀬氏がコロムビアのTOPに就任された時は業界内に大きな衝撃が走りました。インタビューでは廣瀬氏の輝かしいキャリアから、コロムビアミュージックに来られた理由や今後の音楽業界に対する予測までたっぷり語って頂きました。
プロフィール
廣瀬禎彦(ひろせ・さだひこ)
コロムビアミュージックエンタテインメント(株)
取締役代表執行役 兼 最高経営責任者(CEO)
<経歴>
1943年生 慶応大学大学院工学研究科 修士課程 卒業
1969年 3月 日本アイ・ビー・エム株式会社 入社
同年 4月 同社 金融機関開発本部 都市銀行担当営業所長
1982年 1月 IBM Corporation 出向 Corporate Marketing Staff
1986年10月 日本アイ・ビー・エム株式会社 広報・宣伝部長
1989年 1月 同社 西部営業統轄本部長
1991年 4月 同社 コンシューマ事業部長
1996年 1月 株式会社アスキー 常務取締役
同年 6月 同社 専務取締役
同年10月 株式会社セガ・エンタープライゼス 代表取締役副社長
1998年 6月 アットネットホーム株式会社 代表取締役社長 兼 最高経営責任者
1999年10月 コロムビアミュージックエンタテインメント株式会社
2004年 1月 代表執行役 兼 最高経営責任者(CEO)
コロムビアミュージックエンタテインメント株式会社
同年 6月 取締役代表執行役 兼 最高経営責任者(CEO)
- 接点の多かった丸山茂雄氏
- 出世の秘訣は「素直さ」〜廣瀬氏のIBM時代
- アスキーの再建と大川功氏との出会い
- 高速ネットワーク化への道〜きっかけはドリームキャスト
- 三度目の誘いでレコード会社へ転身
- 2005年はビッグヒットを狙う!
1. 接点の多かった丸山茂雄氏
--前回ご登場頂いた丸山茂雄さんとの出会いはいつ頃だったんですか?
廣瀬:私は’90年代前半から日本IBMでパソコン事業に関わっていまして、特に企画の仕事をしていたんです。IBMという会社はそれまで企業向けのビジネスをしていた会社ですから、コンシューマー用というのは経験がないため不得意だったんです。それが、’94年頃からパソコンの本格的な普及に伴い、企業用からコンシューマー用に商品系列を広げる責任者をやっていました。そこで、「Aptiva」という名前でコンシューマー用のパソコンを出したんですが、当時はNECの98シリーズが全盛ですから、98に対抗するために音楽を扱ったり、CDを使えるようにしたりと色々模索する中で、当時SME(ソニー・ミュージック エンタテインメント)にいらした丸山さんのところに飛び込んでいったのが最初だと思います。
--具体的にはどのようなことを相談されに行ったんですか?
廣瀬:用件が何だったかはっきり憶えていないんですが、「この人は美味しそうだ」と思ったんですよね(笑)。
--(笑)。当時丸山さんはSMEの社長に就任されていたんですか?
廣瀬:社長か副社長だったと思います。その時に紀尾井町のSMEの素晴らしいオフィスで、「音楽会社っていうのはかっこいいな」と思いましたね(笑)。
--その後も交流はおありなんですよね?
廣瀬:はい。私は’96年にアスキーへ転職したんですが、’97年11月に’98年度の情報処理学会のキーノート・スピーカーに、すでにSCE(ソニー・コンピュータ エンタテインメント)へ移っておられた丸山さんがなられて、その当時、私はアスキーの専務でメディア側でしたから、丸山さんのインタビューをする役目だったんですね。ところが’98年の正月に私はセガへ移ったわけですよ(笑)。
--インタビュアーである廣瀬さんがライバル会社へ移られたわけですね(笑)。
廣瀬:今さら組み合わせは変えられませんからね。私はプレイステーションの対抗馬として次世代ゲームマシン(ドリームキャスト)を発売するためにセガへ行ったわけです。ですからインタビュアーじゃなくて、競争会社対決みたいになってしまったんですね。
--ライバル同士ですものね。
廣瀬:でも私はゲーム会社が初めてで、インタビュー自体も’98年2月のことでしたから「知らない」ということがまだ通じて、もっぱら元アスキー専務の立場で丸山さんに色々インタビューをしました。何を隠そうゲーム会社に入りたての頃に、インタビューを通じてゲーム会社をやる上での秘訣を丸山さんから聞き出したわけです(笑)。
--盗み取ったと(笑)。
廣瀬:普段だったら競争会社の役員にそんなにベラベラ喋れないでしょうけど、私はメディアの顔をして聞きたいことは殆ど聞いてしまいましたね(笑)。
--丸山さんも太っ腹ですね(笑)。
廣瀬:その他にも丸山さんと私は同じゲーム業界にいましたから、色々接点がありました。今度は私が音楽業界に来ましたので、まずはご挨拶に伺いました。もう一つ面白い話があって、私はコロムビア以前にアットネットホームというブロードバンド・インターネットの会社にいたのですが、一昨年の6月くらいに西麻布イエローを借りて、イベントをやっていたんです。何故イベントをやっていたかというと、当時ブロードバンド・インターネットで音楽や映像を流したかったんですが、レコード会社が全然貸してくれないわけです。そこで、「貸してくれないならライブをやって、それを撮ろう」と、’03年頃は月1回イベントをやっていました。その一つがイエローでのイベントで、DJイベントを中心にそこにライブを絡めてやっていたんです。そのライブに沖縄のバンドが出てまして、そのバンドを丸山さんが育てていたらしく、会場に来てくださったんですね。久しぶりでしたからご挨拶したんですが、丸山さんは私が観客として来ていると思ったらしく、まさかイベント・オーガナイザーだとは思っていなかったわけです(笑)。私がコロムビアに来てから丸山さんが「そういえば前はずいぶん珍しいところで会ったね。あの時は何をやっていたんだっけ?」と聞かれて、「いや、あのイベントは私がやっていたんですよ」と言ったらビックリしていましたね(笑)。
--廣瀬さんがコロムビアに来るとなったときに、丸山さんは何か仰っていましたか?
廣瀬:「やっぱりエンターテイメントに戻ってきたな」と言われましたね。その言葉は今でも強く印象に残っています。
2. 出世の秘訣は「素直さ」〜廣瀬氏のIBM時代
--ここからは廣瀬さんご自身のお話を伺いたいと思います。まずご出身はどちらなんですか?
廣瀬:生まれ落ちた瞬間は島根県松江市なんですが、育ちはほとんど東京です。小学校は今は無き千代田区立永田町小学校です。
--どのようなご家庭だったんですか?
廣瀬:父親はサラリーマンで、母親は専業主婦というごく一般家庭でしたね。
--とりたてて特別なことはなかったですか?
廣瀬:そうですね。父親が音楽が好きだったくらいですね。
--廣瀬さんと音楽との関わりはどのような感じだったのですか?
廣瀬:弟が1人いるのですが、小中高と私も弟も楽器をやっていました。私は中3くらいからオーボエを吹いていて、弟は打楽器をやっていました。オーボエ奏者になりたくて一生懸命練習をしていたんですが、高校2年か3年のときにハインツ・ホリガーというドイツ人のオーボエ演奏家が来日しまして、その演奏を聴いた途端に「これは無理だ」と感じまして(笑)、普通の大学へ行きました。弟はぎりぎりまで音楽をやりたくて芸大を目指して芸大の有名な先生に習っていたんですが、芸大の打楽器科の定員が4人で、その先生の弟子の中で弟は6番目だったので、そうなると一浪しないといけないというんで、結局弟も普通の大学を受けましたね。
--廣瀬さんはどんな少年だったんですか?
廣瀬:好奇心は旺盛だったでしょうね。
--やはりプロジェクトを起こして、リーダーをやるような性格だったのですか?
廣瀬:いや(笑)、そういうことをやりだしたのは大学に入ってからですね。でも、やりたがり屋ではありましたね。自分が主役になるのは好きではないんですが。
--プロデュースしたりするのがお好きだったと。
廣瀬:そうですね。人を舞台に上げて踊ってもらうのが好きなんですよ(笑)。
--大学は慶応大学の工学部でいらっしゃいますが、どうして工学部に入ろうと思ったんですか?
廣瀬:色々な工学部を受けたんですが、一浪して受かったのが慶応だけだったんです。はじめは慶応を受ける気はなかったんですよ。月謝が高いという印象と、生徒がキザったらしいという感じがしていて、一応自分では硬派のつもりでしたからね。でも、予備校の数学の先生が「これから電子計算機というものが出てきて、そのプログラマーが将来花形になる」と言われまして、その言葉が頭に残っていて、その当時、電子計算機に関する学科、特にソフトウエアに関する学科があったのが慶応くらいだったんで受けたわけです。そして、入学をきっかけに電子計算機にはまりました。今から考えますとエンジニアとしての才能なんかなくて、単に新しもの好きで人が知らないであろうことをやっているのが面白かったんですね。そして、その勢いで日本IBMに入ってしまったんです。
--以前別のインタビューで、「十分な研究環境が欲しくて日本IBMを選ばれた」と仰っていますね。
廣瀬:大学でコンピュータを触っているときに、すごく企業とギャップがあったんですよ。つまりIBMのような企業の方が遙かに進んでいるわけです。それから大学の高学年と大学院生のときに国産メーカーでソフトウエア作りのアルバイトをしていたんですが、IBMとの違いがあまりにもはっきりあって、「コンピュータのことを本気で経験・体験するんだったら、IBMに行くしかないな」と思ったんです。
--IBMに入るというのは難関だったんじゃないですか?
廣瀬:いや、まだその当時は電子計算機というのはキワモノの世界で、当時の主流は自動車産業や、東レだとか帝人といった化学繊維の会社が花形でした。あとコンピュータよりも電子工学の方が主流でしたね。
--廣瀬さんが大学に通われていた当時というのは、電卓とかはあったんですか?
廣瀬:電卓は無かったんですよ。当時あった計算機はモンロー式と呼ばれている機械式計算機が主流で、大学4年くらいに大きな電卓が出てきて価格は10万くらいした…そんな頃ですよ。
--そんな時代にコンピュータの世界に目を付けられたのは先見の明がありますよね。
廣瀬:やはり予備校の先生の一言ですよね。
--それを素直に受け取られたというのも凄いですね。
廣瀬:いや(笑)、本命の大学に入れなくて慶応に入ってしまっただけですよ。
--廣瀬さんのIBM時代のご活躍は大変有名ですが、簡単に言ってしまいますと「無茶苦茶仕事ができた」ということですよね?
廣瀬:仕事ができたというよりも、上司とお客さんに恵まれましたね。最初の5年間は社内業務だったので自由度の高い部署で、上司も結構太っ腹で、割とのんびりとした雰囲気でした。で、「こんなにのんびりしていていいのかな?」と思って、営業部門に飛び出したんです。営業部門に飛び出してからは、お客さんの部長に可愛がられましたね。それがすごく追い風になりました。
--お客さんに可愛がられる秘訣は何なんでしょうか?
廣瀬:素直なんでしょうね。それにお客さんの言うことをよく聞いてあげましたから(笑)。上司に言われたらカチンと来ることも、お客さんに言われたらもっともだと思うじゃないですか? それじゃないでしょうかね。
--それはどんな仕事にも共通することですよね。
廣瀬:そうですね。お客さんは120点くらい要求するじゃないですか? それでこっちが80点くらいしかできないなと思っても、お客さんも歩留まりを考えて言っているから、80点でも褒めてくれるんです。それで上司には一生懸命売り込んでくれるから、やはり大切なのはお客さんとの関係ですよ。
--お客さんが出世させてくれたと。
廣瀬:そうです。これはサラリーマンで外を出歩いている人はほとんどそうじゃないかな? 営業部門の責任者をやったときには、部下がお客さんにちゃんと評価されているかということを一番心配しました。うちの営業がお客さんに大事にされている限りは商売を失いませんからね。そういう意味で私は、営業にはまったんでしょうね。
--今、会社員の人は全員耳に留めるべきことですね。
廣瀬:上司にはゴマすりになるじゃないですか? でもお客さんに対してはどこまで行ってもゴマすりになりませんからね。
3. アスキーの再建と大川功氏との出会い
--廣瀬さんはIBMの中ではほぼ頂点まで行かれたわけですよね?
廣瀬:いやいや、途中下山ですよ(笑)。これ以上長く居ると足抜けできなくなるという(笑)。
--もう少しIBMに居ようという考えはなかったんですか?
廣瀬:コンピュータの世界を順番に話しますと、まずメインフレームという大きなコンピュータがありまして、その次にオフコン(オフィス・コンピュータ)が出てきて、その後パソコンが出てきて、それからインターネットが出てきたわけですが、私はちょうどその流れで仕事をしてきました。最初は、大型コンピュータで銀行のオンラインを手掛けて、オフコンをちょこっとやって、コンシューマー用パソコン「Aptiva」を売るときにはインターネットのハシリをくっつけて、そこでIBMの商品は終わりだったんですよ。つまり出口が無くなってしまったわけです。それで色々眺めていたらアスキーという会社がパソコンの本を一杯出しているわけですね。それで「パソコンのことをもっとやりたい」と思ったんですが、不思議なことにメーカーへ行ってパソコンを作るという発想はなかったんですよ。また、その頃は通信会社といったらNTTしかなかった時代でしたから、インターネットをやろうという発想もなかったんですね。ですからアスキーに行けばパソコンのことが仕事になりそうだと単純に考えて、西(和彦)さんとも顔馴染みだったので、アスキーに転職したんです。
--それは西さんからお声がかかったんですか?
廣瀬:実は’90年代の初めくらいから「転職をするときはアスキーでお世話になろう」という話はしていたんですよ。それで’96年の春頃にアスキー内部で騒動が起きて、西さんから「大変や」と電話がかかってきて、「Aptiva」もいい感じでスタートしたし、そろそろいいかなと思ったんです。
--実際にアスキーへ行かれてどうでしたか?
廣瀬:大変でしたね(笑)。IBMという超大型企業からベンチャーのアスキーですから、落差はもの凄くありました。ただ、IBMではできなかった幅の広い仕事ができたのがよかったですね。
--あのアスキーの騒動は西さんと他の取締役との感情的な対立だったんですか?
廣瀬:そうですね。長年の摩擦じゃないかと思います。その当時は気づきませんでしたが、その後色々見て分かったことは、ベンチャー企業が上場をして、株を公開した瞬間、それは個人企業ではなくなるわけです。ただ創業者はいつまでたっても自分の会社だという意識があるわけですね。そうするとどうやったって摩擦がおきます。上場していないオーナーカンパニーだったら右のポケットに入っているお金も、左のポケットに入っているお金も同じですが、株式を公開した途端にそれは別ですよね。「ベンチャーは上場したときが難しいんだな」と勉強しましたね。
--私たちの印象からだと、ソフトバンクの孫 正義さんよりも西さんの方が先を行っている感じがしていました。
廣瀬:先見性ということからすると、西さんは凄いと思います。例えば、今インテルに次ぐマイクロプロセッサの会社でAMDというのがあるんですが、それがまだガレージカンパニーの頃に投資をしたり、早い段階から西さんは「Yahooに投資するべきだ」と主張していたんですが、その当時アスキーは興銀の管理のもとにあったので、そのお金が自由にならなかったんですね。その結果、孫さんがYahooを買ったんですが、一番最初にYahooに目を付けたのは西さんだったと思いますね。
--そうだったんですか…知りませんでした。
廣瀬:何度か西さんに連れて行ってもらって、ビル・ゲイツに会ったことがあるんですが、西さんとビル・ゲイツの会話を聞いていて「この二人は同じレベルの頭の構造なんだ…」と思うような会話ですからね。
--ただ噂ではお金の使い方がすごいとか聞きますよね。
廣瀬:凄い先見性がある反面、お金の計算に関しては無頓着という部分があったかもしれません。でもそういうものだと思います。
--そうなると西さんのような天才肌の人に信用できる経理・財務のブレーンがいたら、鬼に金棒だったんですね。
廣瀬:もう少し早く一緒に仕事ができたら、それなりに西さんの役には立てたと思いますが、時期的にかなり難しかったですからね。
--廣瀬さんの力を持ってしても、「時すでに遅し」の感があったんですか?
廣瀬:「時すでに遅し」と言ったら不自然なんですが、実は’96年にはバブルの崩壊が始まっていたんですね。それで今までのゆとりが無くなってきて、だんだん締めつけが出てくるような状況だったんです。ですからその影響もあったと思いますね。それがなかったら、まだまだ上手くいったと思います。
--そこで以前からお知り合いだったCSKの故 大川功会長に助けを求めたわけですね。
廣瀬:そうです。資金注入をしてもらったわけです。
--その大川さんとはIBM時代から因縁があると伺ったんですが、大川さんとの出会いはどんな感じだったんでしょうか?
廣瀬:もともと大川さんと親交があって、大川さん自身も資本を入れていた信販会社がありまして、その信販会社の大きなビジネスがCSKに決まりそうだったんですね。その信販会社は九州の会社で、私も当時九州にいたものですから私のテリトリーだったんです。ですから我々にとってはその仕事をCSKに獲られたら、売り上げにも影響しますからまずいわけです。それで多少強引な手を使って(笑)、その仕事をIBMが獲ったわけです。でもその当時は大川さんがそれほど思いをかけておられるお取引先だとは知らなかったんです。それは東京に戻って、大川さんと接点ができるようになってから人伝えに聞いたんですね。信販会社のオーナー社長さんは大川さんに株を持ってもらっていたわけですが、大川さんは私に恨みを言わずにそのオーナー社長さんに「義理のない奴だ!」と怒りを向けられていましたね(笑)。
--さきほど「多少強引な手を使った」と仰っていましたが、廣瀬さんの提案の方が優れていたからこそ受注に成功したわけですよね。
廣瀬:安心感があったんですね。CSKさんの提案は信販会社さんのシステム運用事業を請け負うというものだったんですね。IBMもやろうとしていたことは同じなんですが、私はもう一歩踏み込んで、システム運用事業を請け負うと信販会社さんのシステム部門はいらなくなるので、頭脳部分である企画部門は信販会社さんに残して、残りはIBMが一緒にサービス会社を作りましょうと提案したんです。つまり共同事業の提案をしたんですね。システムを預けるときに一番心配なのは信頼性の問題ですが、自分のところの人間を預かって共同事業化してくれれば、頼む側は安心ですよね。しかも10年間の長期契約にしたんです。社長さんにしてみればシステム運用を任せるとして、余った社員をどうするか? という問題は後々解決しなければならなかったんですが、IBMの場合は注文を出すことによって、それも全部解決されるわけです。
--それはやはり「強引な手」というよりも、廣瀬さんの提案の方が魅力的に感じたからこそだと思いますよ。大川さんはどのような方だったのですか?
廣瀬:強烈な個性ですよ。IBMの頃、CSKさんや大川さんと仕事上の接点が色々あったんですよ。当時IBM内部では「大川さんは食えない人だ」というのが定評だったんですね。ですから、どちらかというと組みにくいというイメージがありました(笑)。ただお世話になるようになってから分かったのは、大川さんは徹底的な反権威主義なんですよ。だからIBMだけが反権威主義の元ではなくて、あらゆるものがそうなんですよ。逆に人に対して分け隔てなく対応される方で、よく威張り散らしたりする人がいますが、全然そういうことがない人でした。
--あくまでも権威に対する反逆児であったと。
廣瀬:それは大川さんの成り立ちからでしょうね。裸一貫でCSKという会社を作られて、大変苦労をされて、ベンチャー会社で上場第一号の会社にまで育てられたわけですからね。そういったところで権威を嫌っていたんでしょうね。
--大川さんは晩年セガに対して1,000億近く私財を投じられて、その後お亡くなりになりましたよね。
廣瀬:そうですね。すごい額を投じられて…それは潔いですよね。ポーンとお金を出した気構えというか気迫がわかりますね。
--大川さんが亡くなった後、ご子息などに会社を継がせたんですか?
廣瀬:継がせませんでしたね。大川さんはよく「事業は一代」と仰っていました。自分と共に自分のやってきた事業は消えて然るべきだし、事業も他の人が継いだらスタイルが変わるのは当然と考えられていたでしょうね。
4. 高速ネットワーク化への道〜きっかけはドリームキャスト
--話は戻りますが、アスキー再建の件で大川さんのところへお願いに行ったら「よくぞ来た」と大歓迎されたと。
廣瀬:そうは言われませんでしたけどね(笑)。「酷いのを持ってきたなあ」って顔をされましたよ(笑)。
--それなのにどうして大川さんはアスキーをそこまで面倒見たんですか?
廣瀬:アスキーってすごく変わった魅力のある会社なんですよ。アスキーとリクルートは対照的な会社だと私は見ているんですが、リクルートという会社は完全に実用的サービスをする会社なんですね。対してアスキーは非実用的サービスなんですよ。早い頃からパソコン雑誌を出しましたけど、その頃のパソコンなんかごく限られた人が使っていて、まだ何もできなかったでしょう? 今の週刊アスキーだって他のパソコン雑誌と較べて、どちらかというとお遊び的です。つまりアスキーはもともとお遊び感覚の精神状態を事業化している会社なんです。アスキーとリクルートという二つの会社を見たときに、実用一辺倒の事業ってみんな見えていますから、面白味に欠けるじゃないですか? でも確実なんですね。対してアスキーは危なっかしいですけど、何かありそうだという期待感があるんです。その期待感が大川さんにとっても魅力だったんだと思います。
--そして、すぐにアスキーからセガへ移られて、ゲーム機「ドリームキャスト」に携わるわけですね。結果的にソニーの「プレイステーション2」に負けてしまったわけですが、 廣瀬さんご自身が関わられた時間は短かったですよね。
廣瀬:2年間ですね。難しいことがいっぱいありました。ソニーとセガのゲームマシンを作る過程での一番大きな違いは、意思決定者が一人だったか、そうでなかったかなんですね。ソニーは久夛良木(健)さん一人なんですよ。セガの場合は技術面での意思決定者は二人いたんです。そこで意思決定者が二人いると中庸を行ってしまうわけです。今から思うとその違いだと思いますね。
--セガでは具体的にどのような仕事をされていたんですか?
廣瀬:私はどちらかというとビジネス・コーディネーションのようなことをしていました。技術面での一人は入交(昭一郎)※さんというまさに天才エンジニアで、もう一人はセガでずっとゲームマシンを作ってきた佐藤(秀樹)さんですね。その二人とも一家言あるわけじゃないですか。で、それぞれもっともだから、できあがったものはそれをミックスした形になるんですね。どうもテクノロジーの成果物というのは「1+1=2」ではなくて、「1+1=0.8」とか「0.7」になりますね(笑)。
--それぞれでゲーム機を出せばよかったかもしれませんね。
廣瀬:それをやるお金がありませんでしたね。もしお金があったら、携帯用ゲーム機と据え置きのものを作るという可能性はあったかもしれません。
--セガで2年間を過ごされた後、アットネットホームに移られますが、このきっかけは何だったのですか?
廣瀬:「プレイステーション」に対抗するためには、「ドリームキャスト」はインターネットの機能を取り込んだゲームマシンでないと勝ち目がないという意識があったんですよ。これに対して「ゲームマシンにインターネットの機能があってもしょうがない。ゲームマシンはゲームマシンだ」という考え方もあったのですが、「ゲームマシンはゲームマシンだ」という戦い方をしたら、プレイステーションと同じ土俵になってしまう。土俵が違うところでの価値設定が必要ではないか? ということでネットの機能をつけて、それを売りにして発売したんです。ただやっているうちに気付いたんですが、’98年、’99年はまだネットの速度が16kbpsとか32kbpsで遅かったんですよ。
--確かにあの頃のネットは遅かったですよね。
廣瀬:ですから、ゲームマシンをネットにつないだとき、その遅さがネックになったんです。その時、「インターネットのスピードが少なくともこの10倍にならなくては駄目だな」と考えました。当時は10倍でいいと思っていたんですよ(笑)。そのためには高速インターネットが必要だなと、ちょうど’99年の前半にアメリカからヨーロッパに「ドリームキャスト」のビジネスを展開しているときに気が付いて、同時にアメリカではAT&T、ヨーロッパではブリティッシュ・テレコムと色々な協力関係を作って展開しようとしていましたから、通信のこともずいぶん勉強したわけです。それで大川さんと「打てば響くようなネットの速さが必要だ」と話し合っていたら、AT&Tの関係会社で高速インターネットサービスをしている会社があったんですよ。それは当時アメリカで「アットホーム」と呼ばれた会社で、何となくその会社の存在は知っていて、アメリカのセガはアットホームと組んでネットワークサービスのためにゲームを提供していたんです。
そうしたらたまたまアットホームが日本に進出しようとしていて、それをやる人材を探しているというんで、大川さんに「ドリームキャストのアメリカ、ヨーロッパでの発売がきちんとできたら、次はこれをやらしてくれないか?」という話を’99年の6、7月くらいから出していたんです。それでヨーロッパでの発売が終わって、アットホームの立ち上げを始めたわけです。会社を始めた当初は大川さんも出資してくださることになっていたんですが、実は住友商事さんとアットホームがすでに株式を80億くらい発行していて、立ち上げ当時は資金的に増資の必要もなかったので、住友商事さんと大川さんに話し合ってもらって「増資の折には是非」という話になったんです。それでアットホームを始めた一年後に大川さんはお亡くなりになってしまったわけです。
※入交昭一郎氏…’63年本田技術研究所に入社。1990年本田技研副社長を経て、1993年にセガに入社。副社長に就任。1998年2月に前社長、中山隼雄の後をついで社長に就任。
5. 三度目の誘いでレコード会社へ転身
--ちなみに今アットネットホームはどうなっているんですか?
廣瀬:今ももちろんありますよ。私が関わった4年間で売上100億の会社になりました。それで「もうこの会社もでき上がっちゃったなあ。次はどうするかな?」と考えていたときに、レコード会社の話が来たんです。
--それはお話が来たんですか?
廣瀬:来ました。ただ最初は別のレコード会社から話が来たんですよ。
--そうだったんですか!
廣瀬:その時は「こんなハイテクの美味しい仕事をしているのに、いまどき斜陽のレコード会社なんて、何考えているんだ」と言って(笑)、その話を蹴飛ばしたんですよ。
--私も正直そう思いますよ(笑)。
廣瀬:それはフォーマルに来た話なんですが、二つ目はインフォーマルに全然筋違いのところからまた話が来て、「2ヶ月前にレコード会社なんてないと断った」という話をして、断って、それで三つ目にコロムビアの話が来たんです。そこではたと考えたんです。1年の間に私が別の仕事をしているのを承知の上で、「レコード会社をやらないか?」という話が三つも来る理由を二つ考えたわけです。一つは「もうそろそろ今の仕事は卒業しなさい」ということ。もう一つはやったこともない業態の話が三つも来るということは、人から見たら私は音楽業界に向いていると思われているのかもしれないと(笑)。じゃあ、素直に人の言うことをやってみるかと思ったのが、そもそもコロムビアという会社を考えてみようかなと思ったきっかけですね。
--もし一番最初にコロムビアの話が来ていたら、どうしていましたか?
廣瀬:蹴飛ばしていたでしょうね。
--では条件とか細かい話ではなくて、何か運命的なものを感じられたわけですね。
廣瀬:そうですね。それで「コロムビアはこんな会社です!」と公開資料が来るわけですよ(笑)。「知ってるよ、倒産寸前の会社だろ」とか思いながら(笑)、公開資料を見つつ色々調べたんです。そうしたら幾つかのことがわかった。この会社は’91年以来ずっと赤字だったんですよ。それで何が原因なのだろうと考えてみたら、’89年6月24日に美空ひばりさんがお亡くなりになったため、’90年3月期決算は黒字だった。ところが’91年から赤字になったということは、ひばりさんが亡くなった途端にこの会社は駄目になったわけです。で、それを会社として気付いてないから「何故自分たちが駄目なのか分かってないな」と思ったのが一つ。もう一つはこの会社の設立は1910年で、そこから94年経っているわけでしょう? もしかしたクビになってしまうかもしれないけど、ひょっとしたら私がこの会社の100周年を体験できるかもしれないと考えたんですよ。
--(笑)。
廣瀬:私はIBMという大きな会社で真っ当なサラリーマンをやって、ベンチャー企業に行って、ゲーム会社に行って、そして自分の会社を作らせてもらいました。でも自分で会社をスタートさせた人が、100周年を迎えるなんてことはあり得ないわけです。でもこういう転職をすると可能性があるじゃないですか?(笑) だからこれは面白いと。それが二つ目の理由です。三つ目はコロムビアには音楽資産が一杯あることです。ソフトウエアは作ったものを何度でも売ることによって儲かるんですよ。新しいものをどんどん作っても儲からない。この会社もたくさん持っている音楽資産を再活性させれば、儲かるはずだと思ったわけです。しかもこれからは高齢化社会になっていきますから、子供向けのポップスは子供の数が減るにしたがいマーケット自体が小さくなっていきますが、逆に演歌のマーケットはだんだん大きくなります。なのでマーケット的にも(コロムビアは)いいんじゃないかな? と考えました。
--ということは計算の上で、コロムビアにいらっしゃったわけですね。
廣瀬:そうです。
--そしていらっしゃってたった一年ちょっとで黒字になったわけですよね?
廣瀬:黒字になりつつありますね。
--それはもうお見事と言うしかないですよ。
廣瀬:’91年以来、疑問を持たずに’91年以前の感性というか惰性でずっと仕事をしてきていたのが、少し目が覚めて「こういう風にやればいいのか」とやり方が変わってきたのが、業績回復の理由でしょうね。でも、工場を入れて600人の社員全員が何をやるべきかわかって動いているかというと、そうは思わないんですね。せいぜい二割五分くらいが少し気が付いたかな? という感じで、残りの七割はまだどうなっているのか分からないままで、ここまで来ているでしょうね。ですから現在は少し目を覚まして、動き出したという状況ですから、2005年度はどれくらい意識が戻るかにかかっているでしょうね。
--社員の方々との交流はどのようにされているんですか?
廣瀬:昨年、社員全員とランチを一緒にとっていまして、3回終わっています。最初社員は「この人誰?」って思うわけですよ。経歴は音楽ゼロですし、この業界にいい年したオッサンが来て(笑)。
--「わかっているのかな?」という感じですか。
廣瀬:そうですね。とんでもないのが来ちゃったんじゃないか? とかね。
--そのランチは大勢でとられるわけですか?
廣瀬:20人くらいで食事をしますから、社員を一回りするのに20回ランチをします。ですからさっき言った3回というのは3周したということですね。
--そういうことですか! ということはもう60回近く社員の方々とランチをご一緒されているわけですね。
廣瀬:そうですね。私に対してのコミュニケーションもそうですが、社員同士のコミュニケーションもとることができたのでそれがよかったですね。ただ私が社員に色々話して、言っていることが伝わっているかというと大間違いで、与えているのは安心感だけなんですよ。あるいは身近な存在だという印象を与えているだけであって、私が喋っていることを相手が全て理解しているとは思えないし、思うのも無理です。
--逆に言うとランチを3周りされても、まだ目が覚めていない社員が7割近くいるわけですよね?
廣瀬:危機感がないといいますかね。でもそんなこと言ったって、ずっと赤字でも給料が減ったわけではないし、ボーナスは出るしという気持ちが底流にありますからね。変わった人が来て変わったことを言っているから、じゃあやってみようかな? という風に思っているのが15%〜20%くらいです。でもそれも増えてきているとは思ってますね。
--今までコロムビアに欠けていたものは、危機感なんでしょうか?
廣瀬:やはり伝統の壁が非常に厚くて、外界の冷たさが入って来なかったですね。その壁の厚さとは日立製作所に守られていたんでしょうね。それで日立製作所という箱が無くなっても余韻が残って暖かかったんでしょう。
6. 2005年はビッグヒットを狙う!
--今後音楽業界はどのようになっていくと予測されていますか?
廣瀬:年度初めの幹部会議でも話したのですが、音楽業界はここ数年で曲がり角に来たわけです。’00年、’01年から曲がり始めて、完全に方向転換をするのが’08年くらいだと思うんですよ。ですから今年はちょうど曲がり角の頂点に来ているわけですが、なぜ方向転換が起こったかというと、それはインターネットですね。今は一番苦しいときで、インターネットが出てきたことによって既存のビジネスが揺さぶられている。揺さぶられているんだけど、揺さぶっている本体(インターネット)の方で音楽ビジネスはまだ立ち上がっていない。したがって揺さぶりで音楽業界が落っこちてきていて、インターネットも上がっていない状態なわけです。ネットの影響を受けるということから言うと、音楽業界は底まで来たんじゃないかと私は思っていて、曲がりきったときが次のビジネス展開です。それが’07年、’08年になると私は予測しています。
--曲がりきるまで、まだ時間がありますね…。
廣瀬:この2年間は非常に厳しいと思います。ただ、エンターテイメント・ビジネスというのは、ディマンドに限りがあるわけではなく、我々がディマンドを作り出すことができますから、CDの売り上げは落ちるかもしれませんが、ネットやDVDなどでディマンドを膨らますことができます。したがって、この1、2年で舵をきって、’07年、’08年ぐらいになっているであろう形に我々がどうやってスムーズに適合していくか、あるいはほんの少し先取りするかということが、これからの経営のポイントだろうと思っています。
実は私自身はネットが音楽ビジネスを喰うとはあまり思っていないんです。逆にネットが音楽ビジネスを拡げてくれると思っているんです。例えば、FM放送が始まったときに我々が何をしていたかというと、一生懸命FMのエアチェックをしていました。そして今ダウンロードされるのが、当時のエアチェックに似たようなものじゃないか? と思っているんです。つまりFMは音楽ビジネスにとってプロモーション・メディアだったんです。音楽そのものではなかった。ネットも私はそう思っています。もちろんダウンロードできるとか、デジタルだから劣化しないだとか色々言うことはできるんですが、所詮プロモーション・メディアだと思っています。つまりネットを上手く使うことによって、CDなり別のパッケージをより効果的に宣伝できる。あるいはもっと言ってしまうと、今プロモーションするのにTVだ、タイアップだ、FMステーションのスポットだとお金を払っているわけですよ。ところが携帯電話で着うたをダウンロードする場合は聞く人がお金を払ってくれるわけです。つまりプロモーションをやって、お金をもらっているわけです。だから、我々は徹底的にネットをプロモーションに使おうと思っています。それがコロムビアのネットワークに対する対応です。それからCDをより丁寧に作ることが、「ネットからダウンロードしてくるものは音楽ではなく、所詮”音楽的情報”だ」という違いを明確にすることになり、音楽パッケージの価値はより出てくるはずです。
--今後も主流はパッケージであると。
廣瀬:パッケージが無くなることはないと思います。でもパッケージはパッケージとしての付加価値を追求しなくてはいけません。ネットで聞くような音楽と質的に変わらないような音楽をCDにしたって、それは売れなくなります。
--個人的にはDVD-AUDIOなどの次世代メディアに進んで欲しいなと思っています。
廣瀬:そういう意味で、パッケージは音質の追求が強まるでしょうね。さらに言うと、ライブとユーザーとの距離がネットによってさらに近くなると思うんです。それも我々の今後のサービスの一つではないかと思っています。’07年、’08年の当社の状況は、もちろんパッケージ・ビジネスがあります。それからネットワークを使った配信プロモーションがあります。しかし、これは”音楽的情報”であって、あくまでも音楽はパッケージにあり、ライブの感覚を味わえるという観点でネットでのリアルライブがあるというのが我々の事業イメージです。あとネットライブなどでアーティストとリスナーの距離が近づくことを考えると、レコード会社ももう少し直接アーティストとの接点を作っていくべきじゃないか? と思いますね。今は事務所との契約でアーティストのパッケージを作るわけですが、我々自身ももう少しアーティストに直接関わらないといけないと思っています。
--ソニーはすでに事務所を作り始めたりしていますね。
廣瀬:そうですね。我々も必然的にそうなります。そしてメジャーとインディーズとの垣根をどんどんなくして、スムーズにできないか? と考えています。何故かというと、アーティストを一人デビューさせるために必要なコストが、ネットを使うことによってずっと安くなるんですね。ですから今よりももっと敷居を低くしてデビューさせることができればと思いますね。
--今まで日本のレコード会社はネットに音源を出すことに対してとてもガードが堅く、それ故にネットの発展の妨げにもなっていたわけですが、今後コロムビアは音源をオープンにしていくわけですか?
廣瀬: そうですね。先ほども言いましたがネット配信に関してはあくまでも”音楽的情報”であって、音楽ではないと考えていますから。
--やはり音楽業界全体がオープンになっていくべきだとお考えですか?
廣瀬:いや、音楽ビジネスの形態も今後多様化していきますから、必ずしも全部が開かれる必要はないんですよ。ただ我々の場合は古い音源も含めてたくさん持っているので、それを開放することによる新しいディマンドが出てこないかと思っています。またネットを使っていくと、ネットでの商売のやり方がわかってきますから、そこで新しい何かを得ることができればと思います。当社が今年度やろうとしているのは、アーティストはネットからデビューする。そして色々な曲をネットで流して、その中でダウンロードが一番多かった順番にアルバムにすると。そうするとネットを使うことによって、CDが生まれるという逆の形になるじゃないですか? それは実験的にやってみようと思っています。
--今、廣瀬さんが仰った曲がり角の曲がりが意外にきつくて、みんなどういう風に走ったらいいのかよくわからない状態ですね。あまり勢いよく走ってしまうと飛び出してしまいますし…。
廣瀬:そうですね。ある意味、車と同じで減速しないといけないんですよ。
--そして出口が見えかけたところでアクセル全開にするのを、みんな待ちかまえているんですよね(笑)。
廣瀬:大切なのはその見切りですよね。その時までにやっておかなくてはならないことは、とにかく新しい環境への社員の適応性を高めておくことです。
--そういったことも含めて、社員の方々にメッセージはございますか?
廣瀬:そろそろコーナーの先が見えかけていると思うんですね。我々は見え始めた先に対して、それぞれが準備をすることでしょうね。それは技術的なこともあるでしょうし、音楽のコンセプトが多様化すると思うので、そこを理解することと、それからネットの素晴らしいところは今までライブでしか持ち得なかった双方向性を距離を越えて持てるところなので、それを我々の音楽ビジネスに生かす手はないのか考えることが大切でしょう。
--廣瀬さんが予測する’07年、’08年に曲がり角を曲がりきって、そして創業100周年を迎えられるわけですが、無事に迎えられそうですか?
廣瀬:’04年度はひょっとしたら黒字なるかもしれませんが、それほど安心はしていないですね。もし今年も同じように黒字になれたら、あるいは去年よりもさらに良い状況で黒字になれたら多分大丈夫ですね。ただ今年は社屋の移転や、CD売り上げに対するネットの影響など色々なことがあるんですよ。それから十何年ぶりに黒字になったら社員が安心してしまう恐ろしさとかね(笑)。
--でも昨年の一青窈のヒットから、最近の木村カエラのヒットなど明るい材料もたくさんありますよね。
廣瀬:去年1年間は一生懸命我慢して利益をはじき出したというのが実態なんです。でも音楽ビジネスはやはりビッグヒットが出てこそ、その醍醐味があると思うんです。今年、来年はそれを狙いたいですね。
--本日はお忙しい中ありがとうございました。コロムビア ミュージック エンタテインメントの益々のご発展をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
インタビュー前に廣瀬氏の経歴を調べている時は「何故これだけのキャリアの方が音楽業界にいらっしゃったのか?」と少なからず思っていたのですが、実際にお話を伺って納得してしまいました。今後の音楽業界とは切っても切り離せないインターネットに対する廣瀬氏の経験・知識が求められていたのはもちろんのこと、氏の好奇心旺盛で柔軟な姿勢はエンターテイメントとの親和性が高いと感じました(余談ですが、廣瀬氏の机の上には膨大な数のCDが山積みされていました)。就任されてたった一年でコロムビアで黒字転換させた事実がそれを物語っていると思います。廣瀬氏率いるコロムビアは今後益々目が離せない存在になりそうです。
さて次回は、大学在学中にロックバンド「少年ナイフ」のディレクターを務め、郵政省入省後はマルチメディア政策、インターネット政策を推進。現在は(社)音楽制作者連盟 顧問をはじめ数々の要職を務められているスタンフォード日本センター研究所長 / 国際IT財団専務理事 中村伊知哉氏です。お楽しみに!