第53回 佐藤 剛 氏 ファイブ・ディー 株式会社 代表取締役
ファイブ・ディー 株式会社 代表取締役
今回の「Musicman’s リレー」は、(株)ジャパン・ライツ・クリアランス 代表取締役 荒川祐二氏からのご紹介で、ファイブ・ディー(株) 代表取締役 佐藤 剛氏のご登場です。大学卒業後、週刊ミュージック・ラボの営業・編集に携わり、甲斐バンドのマネージメントを経て、ファイブ・ディーを設立後、THE BOOMを始め、数々のアーティストをプロデュース。ファイブ・ディーを、HEATWAVEや中村一義、ハナレグミといった個性的で、実力あるアーティストを擁するプロダクションへと育てられた佐藤氏に、ご経歴から音楽業界の現状に対するご意見など、お話を伺いました。
プロフィール
佐藤 剛(さとう・ごう)
ファイブ・ディー株式会社 代表取締役
1952年岩手県生まれ、幼稚園から高校まで仙台で育つ。
1974年に明治大学文学部演劇科卒業後、週刊ミュージック・ラボの営業・編集・ライターを経て、
1977年からアーティスト・マネージメント及びプロデュースに携わる。
1982年、ファイブ・ディー株式会社を設立。
1988年から本格的にプロデュース業を開始。プロデューサーとしてTHE BOOM、ヒートウェイヴ、中村一義、SUPER BUTTER DOGなど多くのアーティストを手がけている。
2002年、東芝EMI、ロードアンドスカイ・オーガニゼイションとともに株式会社ファイブスターズを設立。
- 常に「裏側」を意識したおませな少年時代
- 入院生活から過激な文系高校生へ
- 大学入学早々、イベントプロデュース
- 営業から原稿書きまで八面六臂の活躍
- 甲斐バンドの成功とファイブ・ディー設立
- 音楽プロダクションの理想型を求めて〜THE BOOMとの出会い
- 勝負は死ぬまで終わりじゃない
- フェアでポジティブな方向性の模索
- 今は問題解決の大きなチャンス
- 配信のスタンダードを確立しよう!
1.常に「裏側」を意識したおませな少年時代
--まず、前回ご登場頂いた荒川祐二さんとのご関係について、伺いたいのですが。
佐藤:荒川さんと最初に会ったのは、彼がまだ電通にいる時だったんですが、直接会う前から、音楽ソフトに関して関心が高く、企画にまで積極的に関われる、非常に優秀な人が電通にいるという噂は聞いていました。また、ファイブ・ディーと同じビルにあるプロマックスとディスクガレージは、守備範囲はちょっとずつ違うけれど、中心にあるのは音楽ということで、連携して仕事をしていたので、プロマックスと荒川さんが非常にいい仕事をなさっていたのを遠くから眺めていたんですが、荒川さんが電通からプロマックスに移ってこられたことで、何度か直接仕事をするようになったんですね。
その後、著作権法改正に伴い、新しい著作権徴収団体を考えていこうということで、僕も音楽制作者連盟(以下 音制連)の方々から誘われて、勉強会に参加していたんです。それで、ジャパン・ライツ・クリアランス(以下 JRC)として船出をしようとしたときに、吉田拓郎さんの歌じゃないですが、「新しい船を出すときには、新しい水夫の方が良いんじゃないか?」ということと、JRCを立ち上げたときに参加していたメンバーは、ある種、音楽制作者兼マネージャーという方々が中心だったので、それとはちょっと違う舵取りの方が良いんじゃないか? ということで、代表を荒川さんにお願いしたわけです。
--ちなみに、明日(9月7日※取材当時)から宮沢和史さんの「Shima-Uta(島唄)」が、日本人として初めて、世界20カ国のiTunes Music Store(以下 iTMS)で同時配信されるそうですが、これも荒川さんのところでやるわけですよね?
佐藤:ええ、JRCの子会社であるグローバル・プラスがやります。僕のほうは良い音楽を作ることと、そのための環境を守っていくという点に特化して自分の会社をやっているつもりなので、そこから先の配信に関しては、JRC、グローバル・プラスと二人三脚という形で、宮沢和史の5曲を20ヵ国に世界同時配信します。しかも、それはCD音源の二次利用ではなくて、この配信のために録音されたものを使うんです。
--配信のために録音したんですか?
佐藤:そうです。
--つまり、ダウンロード・バージョンというわけですね。
佐藤:ダウンロード・バージョンというよりは、今、ダウンロード時代に入ったときに、一番いい音源といいますか、この楽曲に関するベスト・ヴァージョンを録れるのは今なんじゃないかと思ったので、録音し直そうと考えたんですね。
つまり、今年の1〜2月に宮沢がツアーでヨーロッパを回ってきて、外国での『島唄』の反応にすごく手応えを持って帰ってきたので、そのときの演奏を、もう一回、世界に向けて『Shima-Uta』として出そうじゃないかということで、そのツアー・メンバーで全て録音しました。
--逆に言うと、まだCDになっていない音源なわけですね。
佐藤:なっていないですね。まずはダウンロードがあるという考えで、CD音源の2次利用としてではないんです。いずれCDにもしようと思っています。
--さて、ここから佐藤さんのお話を伺っていきたいと思いますが、まずご出身はどちらですか?
佐藤:生まれたのは岩手県 盛岡市の外れの都南村という山間なんですが、今は盛岡市に併合されてしまいました。
--音楽との最初の関わりはいつ頃ですか?
佐藤:多分2、3歳の頃に、父親が運転する車でかかっていたラジオが、最初の記憶だと思います。曲でいうと、春日八郎の『お富さん』ですね。
--春日八郎ですか(笑)。
佐藤:そうです(笑)。『お富さん』が大好きで、車の振動に合わせて歌ってはゴキゲンになっていたそうです(笑)。これは30歳くらいになって沖縄音楽に触れてから初めて気がついたんですが、『お富さん』という曲は、実は沖縄音階と沖縄リズムなんですね。
--なるほど。確かに言われてみるとそうですね。
佐藤:作曲の渡久地政信さんは確か奄美の方で、あの曲のリズムは実はスカなんですよ。「ンチャ、ンチャ」というリズムがね(笑)。沖縄のカチャーシーと同じリズムですから、僕がその後、THE BOOMや喜納昌吉とチャンプルーズで沖縄音楽をやったり、レゲエやスカに興味を持って何度もジャマイカ録音に行ったりすることと、何か繋がっているなと思いましたね。
--その後、好きになった音楽は何ですか?
佐藤:僕の家は、その後仙台に引っ越して個人商店を始めました。小学校1〜3年くらいまでは商売を始めたばかりなので、どちらかというと貧しい方で、小学校4、5年くらいでようやく人並みという感じだったんです。なので、小学校5年生くらいでテレビが家に入ってきて、小学校6年生でモノラルの電気蓄音機を父親が買ったんですが、そのときに近所の電気屋が試聴盤で付けてくれたのが、民謡『八木節』だったんです。
--『八木節』ですか…渋いですね(笑)。
佐藤:でも、さすがに『八木節』1枚だけではもの足りないので、初めて買ったレコードが、梓みちよの『こんにちは赤ちゃん』。つまり渡久地政信から、間に民謡を挟んで、永六輔/中村八大のコンビへと来るわけです。それとTVの歌番組は良く見ていて、そこで好きだったのが、舟木一夫、橋幸夫、西郷輝彦の元祖・御三家ですね。
--御三家の中では誰がお好きだったんですか?
佐藤:僕は常に天の邪鬼なので、一番人気のあった橋幸夫よりも舟木一夫の方が好き、舟木より少し遅れて出てきた西郷輝彦の方が好きとなり、そして、かわいそうな三田明に一番同情がいくと(笑)。でも、橋幸夫と三田明は共にビクターで、作曲は吉田正さんですから古いタイプで、その点、西郷輝彦の方が詞も曲も新鮮で、レコードを全部集めたのは西郷輝彦。そこで僕は浜口庫之助さんと出会うんですね。
--当時から佐藤さんは作曲者にまで意識が行っていたんですね。
佐藤:常に作詞家・作曲家で聴いていました。だから、「ジャンルを横断してヒット曲を出し、しかも一人で作詞・作曲をやっている。浜口庫之助という人はすごいな!」と思ったんです。
--曲は何ですか?
佐藤:やはりラテン風アレンジが強烈だった『星のフラメンコ』が決定打でしたね。
--先ほど「ロッテ歌のアルバム」のお話が出ましたが、TVの影響は大きかったですよね。
佐藤:NHK でやっていた大人向けの洒脱なセンスが売りの「夢で会いましょう」が大好きで、完全に中村八大さんで育っちゃっているんですね。もちろん「シャボン玉ホリデー」も「ザ・ヒットパレード」も見ていたんですが、やや子供向けに感じられて、僕の中では圧倒的に「夢で会いましょう」なんです。そこに出てきた渥美清さんとか、越路吹雪さんとかが持つ大人のエンターテイメント性みたいなものに、すごく惹かれていました。
--洋楽との出会いはいつですか?
佐藤:小学校6年のときです。あるクラスメイトが授業が終わって掃除をするときに、机の上に飛び乗り、ホウキを逆さに持ってギターを弾くマネをして、ビートルズの話をしたんですね。それでビートルズの存在を知って、ラジオで曲を聴いたとき即座に「いいな」と思ったんですが、それ以上にショックを受けたのは、ローリング・ストーンズの『テル・ミー』です。
『テル・ミー』という曲のタンバリンが、スネアとずれている。タメがあるというよりもずれているとしか思えないんですが(笑)、そこにばかり耳が行くんですね。つまりずれているんだけど、何か面白くて、かっこいい。つまり、ビートが後ろにたまっているという感覚があって、それで「ビートルズよりストーンズの方がかっこいい」と勝手に決めて、それから「ストーンズ命」みたいになりました。もちろん同時進行でグループサウンズとかフォークソングも全部聴いていましたし、ビートルズにもメロディーやハーモニーの斬新さに打ちのめされていたんですが、ストーンズはもうちょっと不良っぽくて、サウンドも荒々しくて、そのグルーヴにずっと惹かれていたんです。
それで、ローリング・ストーンズのアルバムをようやく買えるようになったのが、中学校2年生くらいだったと思うんですが、そこにプロデューサーのアンドリュー・オールダムがメッセージを書いていたんですね。その頃は「ミュージックライフ」や「ティーンズビート」といった音楽雑誌には全部目を通していて、マネージャーやプロデューサーが何をやっている人かというのを何となくは理解していたので、「そういう人たちが裏でバンドを形作っているんだな」と思ったんです。
--つまり、バンドの裏側に興味が行ったんですね。
佐藤:僕は与えられたものを享受するだけでは満足できなくて、その裏側を知りたい方なんです。そうするとハーマンズ・ハーミッツにも、デイブ・クラーク・ファイブにも、それぞれに裏方がいて、作戦を考えているということがわかるわけです。バンドのメンバーだけでやっているとは思っていませんからね。だから、中学2 年くらいにはもう、日記に「こういうバンドを作れたらいいな」と色々楽器編成とか考えて書いていましたね。
--もうその頃からプロデューサーになることを考えていたんですね。
佐藤:ええ。エレキギターを買って自分達でバンドをやり出した友達もいたので、「コピーをするのなら、この曲が良いよ」とか、「この曲は難しくない割に、かっこよく聞こえるんじゃないか?」とか、アドバイスしていましたから。
--つまり、佐藤さんは中学の頃からずっとプロデューサーをされているわけですか(笑)。
佐藤:多分そうなんですよ(笑)。あと、音楽と同時に映画を滅茶苦茶観ていましたね。小学校5年くらいから、2〜3日に一度くらい映画を観に行っていました。映画って面白い作品を作っているのが誰かすぐにわかるわけです。つまり、監督と脚本家とプロデューサーですよね。ただその当時は大映、東宝、松竹、日活、東映といったような会社が主で、プロデューサーも独立プロデューサーではないですから、そうすると監督と脚本家の名前を見ていれば、観なくても面白いか面白くないか、なんとなくわかるんです。結局、映画や演劇やショーみたいなものは、要するに総合芸術なんだなというようなことは、かなり前から思っていました。
--おませな中学生ですよね。その歳でそんなことはなかなか考えませんよ(笑)。
佐藤: 5年くらい前に中学校の同窓会で30年振りくらいに同級生達に会って、自分の現在の仕事について話したら、女性陣が「わかる、わかる」と言うわけですよ (笑)。それで「何でわかるの?」と聞いたら、「昔から怖くて近寄り難かった」とか、「大人びていて、違う世界の人に思えた」とか言われました。
--ちなみに学業やスポーツはどうだったんですか?
佐藤:中学の頃は剣道部で剣道をやってましたし、生徒会の副会長とかやってましたが、割と不良ぶってましたから、勉強はあまりせずに、いつも映画館に行ってましたね。
--かっこいいですね。モテモテだったんじゃないですか?(笑)
佐藤:少しは(笑)。でも、同学年とは付き合ったこともないですし、多分敬遠されていたんでしょうね。
--一言で言うと、頭がよかったんですね。
佐藤:頭がいいというのとは、ちょっと違うと思うんですよ。一言で言うと…ませていたんですね(笑)。
2.入院生活から過激な文系高校生へ
--高校は仙台の男女共学の学校に行かれたんですか?
佐藤:いや、仙台には男女共学の高校がないんです。一高、二高、三高と、一女、二女、三女と完全に別です。それで基本的にバンカラ。一高、二高というのが超受験校で、私は仙台の東部に住んでいて歩いて通える距離にあったので、一高を受験します。東部にある中学は、席次が1番から 30番までは一高を受けろと言われるんですね。それで、僕は一高に入りました。
--高校でも剣道をされたんですか?
佐藤:学校自体がバンカラなところですから、剣道や応援団は、いかにもむさいので(笑)、野球が好きだったこともあって、軟式野球部に入りました。それで、中学では不良ぶっていた僕が、高校に入って心機一転、部活動に打ち込んでいたんですが、10月の新人戦の直後に結核を罹って、2ヶ月半入院したんです。
--何だか出鼻をくじかれた感じですね。
佐藤:またその2ヶ月半の入院が暇なんですよ。当時は病室にテレビがない時代でしたから、やることといったら本を読むか、レコードを聴くくらい。まあ病気なんだから本当は休んでいなければならないのですが、ちょうどその頃、大型のステレオを買ってもらったので、病室に持ち込んで、ヴァニラ・ファッジとか、ビートルズの『サージェント・ペパーズ』とか、もちろんローリング・ストーンズからクラシックに至るまで、とにかく持っていたアナログ・レコードを徹底的に聴き込みました。小説は大江健三郎、石原慎太郎、三島由紀夫を同時に読んで…みたいな感じでしたね。
--せっかく部活動でリフレッシュしていたのに…。
佐藤:そこでまたググッと文系に引き戻されちゃったんです(笑)。音楽、映画、本。その3つがやはり好きだったんですね。それで、退院しても学校へ行かなくなって、図書館へ行くか、パチンコ屋へ行くか、映画館にいるかでしたね。
--なぜ学校には行かなかったんですか?
佐藤:バンカラでも進学校ですから、休んでいたことで学業に遅れが出て、追いつくのが大変で、そうなると単純に行きたくなくなる。他にもやりたいことがたくさん出てきましたしね。あとその頃は、もう学生運動が盛んになっていたので、集まりとかデモがたくさんあるんですよ。そちらに行く方が優先でした。村上龍さんの『69』という小説とほぼ同じ世界です(笑)。彼とは年も同じなので、身の回りに起こったことはあの小説の主人公達と同じです。
--またまた大人っぽい高校生ですね。ちなみに、どんなところでたむろしていたんですか?
佐藤:「邪宗門」という大人びていて退廃的な、バロック音楽がかかっている店が仙台にあるんですが、そこに大学生とか詩人風の人とか一杯いるわけですよ(笑)。そういう人たちに若干憧れを持ちつつ、出入りしたりしていました。ちなみにそこにいつもいた女子高生が、1学年下の小池真理子さんでした。
--あの直木賞作家の小池真理子さんですか?
佐藤:そうです。彼女は『邪宗門』というタイトルの小説も書いていますね。別に仲良かったわけではないですけど、顔と名前は知っていました。
--大変綺麗な方ですよね。
佐藤:当時から神秘的な少女と言いますか、綺麗な人がいるという感じでしたね。そんな大人びたところに行きつつ、2日に1回は映画館で、70ミリ超大作のロードショーからヤクザ映画の3本立てまで、という生活でした。
--映画は邦画を観ることが多かったのですか?
佐藤:邦洋問わずあらゆるものをです。「007」シリーズも好きでしたし、西部劇も好きでした。キューブリックの『2001年 宇宙の旅』には特に感銘を受けました。邦画ではクレイジーキャッツから相当に、生きていく上での影響を受けています(笑)。
--お小遣いは結構もらっていたんですか?
佐藤:いえ(笑)。塾のテキスト代を使ったり、参考書代と言ったり、はたまた親の商売の目を盗んでは、お金をくすねて(笑)。
--(笑)。ご両親は何の商売をされていたんですか?
佐藤:果物屋さんです。
--そこでお釣りをごまかして、懐へ…(笑)。
佐藤:そうですね(笑)。あと積極的に配達とか、店の手伝いをしましたし、いくらでもごまかせるんですよ。親もわかっていたとは思うんですが、半分、見て見ぬ振りでしたね。
--ちなみにご兄弟は?
佐藤:3つ違いの妹が1人います。
--ということは、兄弟から文化的影響を受けたとか、そういったことはなかったんですね。
佐藤:ほぼ自力でしたね。ラジオを聴いたり、図書館に行って本を読んだり、自分から情報を求めていったので、家族や先輩という影響はほぼ皆無だったんじゃないですかね。むしろ自分が影響を与える側だったと思います。
--それは学校の友達に影響を与えるということですか?
佐藤:そうですね。高校に入ったときには、ようやくちょっと話をする仲間ができて、例えば、僕の後ろに座っていたのが佐藤康和といって、のちにYAS-KAZという名前でデビューしたんです。
--パーカッショニストのYAS-KAZさんが同級生だったんですか。
佐藤:名前順だから、僕の後ろの席に座ってたんです(笑)。彼は学校に来ないことで有名で、その頃からジャズをやっていました。僕も授業に出ないし、彼も学校に来ないので、3年生の時に出席日数が全然足りなくて、僕と佐藤康和の名前が、ずっとトップに貼り出されていました(笑)。でも、実はそれでも相当に出席をごまかしてはいるんですよ(笑)。出席を取らない先生とか、代返をクラスメイトに頼んでいるとか。それでも出席日数が足りないと言われているわけですから、ほとんど学校に出てなかったんですよ。
また、同じクラスに長崎正稔という男がいて、彼は22歳からずっと仙台で「ピーターパン」というロック喫茶をやっていて、今年で30周年になるんですが、その店は矢野顕子さんや大貫妙子さん、ムーンライダースの鈴木慶一さんが仙台に行ったら、必ず行く店なんです。その3人が同じクラスにいるというね (笑)。
--そういう時代だったんですか? それとも、そういう人たちがたまたま集まっただけなんですか?
佐藤:たまたまでしょうね。時代もあったのかもしれませんが、そんな例は他にはあまりないみたいですから(笑)。
--仙台という街が、全体的にそういう雰囲気を持っていたわけではない?
佐藤:それはないでしょうね。そのクラスが珍しいケースだったんでしょう。
--でも、最終的には高校を卒業できて、進学もされたわけですよね?
佐藤:ええ。それだけ映画とか音楽とか文学とかへ関心が行っていたら、当然東京に出たいじゃないですか? 実は高校時代にも夏休みは東京の予備校で大学入試の勉強をするという名目で、東京へ行ったりしていて、実際は映画とかデモの毎日でしたが、「東京にいなきゃ、話にならないな」と思っていたので、どうしても東京の大学に入りたかったんです。
父親は割と堅い人だったので、はじめはとにかく旧帝国大学しか認めないと言う。でも成績が成績ですから私立大しか狙えない。「早稲田、慶応なら許す」とやっと折れてもらえたので、「すべり止めに日大の芸術学部も…」と言ったら、親父が「日大なんて聞いたことがない。しょうがないから六大学だったら許す」と(笑)。それで慶応と明治は受かったんですが、一番行きたかった早稲田に落ちちゃって、結局明治に行くことになるんです。
--なんで慶応に行かれなかったんですか?
佐藤:文学部には落ちて、合格したのは法学部だったんですよ。
--なるほど(笑)。でも、慶応に受かっていたのに、何だかもったいないですね。
佐藤:明治は演劇学科だったので、そっちにしたんです(笑)。ところが大学には受かったんですが、今度は高校の出席日数が足りなくて、卒業が危ない(笑)。だけど高校側としては、僕に居てもらうと困るわけです。
--それはなぜですか?
佐藤:僕はある種の「過激派」と思われていたので、早く卒業して欲しいんですね(笑)。で、同級生のバリバリ闘士は「来年以降も、ここでオルグする」と留年して学校に残る戦術をとっていた(笑)。彼らと僕に一緒に残られると困るんですよ。結局、春休みに7日間くらい連日全く同じ問題の試験を受けさせられて(笑)、僕は追い出されました。
3.大学入学早々、イベントプロデュース
--大学に入学されてからは、どのような感じだったのですか?
佐藤:大学に入学して、キャンパスに足を運ぶと、色々なクラブが新入生を勧誘していたんですが、僕は初めから映画研究部を目指したんです。敬愛する川島雄三監督がいたという明大映研に入るために東京へ出て来たんですから。そこで勧誘している人たちとちょっと話をしたら、「昼休みに部室に来い」と言われて、行ってみたら先輩達の間では「すごい面白い新入生が来た」という話になっていたんです。
--大物が来たぞと。
佐藤:その時、僕は「少年ジャンプ」と「アサヒ芸能」を手に持っていたんですね。その頃はみんな「少年マガジン」と「朝日ジャーナル」を持っていたんだけど、僕は「少年ジャンプ」と「アサヒ芸能」(笑)。それだけで目立った。その時に会った築波さん(現 オーケープロ副社長)に、高校時代にエロ映画と差別されていた若松孝二の映画は全部観ているし、ヤクザ映画では加藤泰が特にいいとか言ったら驚かれました。それで大久保さんという映研の主みたいな人がいて、その人に引き合わされたんです。
ちなみに、その大久保さんというのが、今有名な脚本家の大久保昌一良さんだったんです。その時、大久保さんは4年生だったはずなんですが、何故か1、2 年が通う和泉キャンパスにいて(笑)、それで大久保さんから、その年の6月にやる学祭のオールナイト・イベントをいきなり任されたんですよ。
--いきなりイベント・プロデュースですか(笑)。なんだかんだで30年間くらい同じことをされているんですね(笑)。ちなみに高校の文化祭なんかもやっていたんですか?
佐藤:学校行かないくせに、仕切ってましたね(笑)。文化祭で「シャボン玉ホリデー」のハナ肇とザ・ビーナッツのギャグをネタにしたパロディ芝居をやって、脚本・演出みたいなことをやってました。あと、高校で野球ができなくなった後も、野球部のマネージャーは引き受けていて、何をしたかというと、寄付金を集めて、寿司屋とか小料理屋に会場を用意して、試合終了後に先輩と宴会をする、そのセッティングだったんです(笑)。
--それはもうマネージャーの域を越えていますね(笑)。まさにイベント・プロデューサーですよ。
佐藤:だから、中学校くらいの時からずっとマネージャーやプロデューサーをやっているような気分なんです(笑)。
--もう天職ですね(笑)。
佐藤:たぶん(笑)。今考えてみると、ずっとそれをやっているんだな、という感じはしますね。
--大学1年から学祭を仕切って、以後4年間ずっとされたんですか?
佐藤:ずっとです。もう自分が好きなことをやっていましたね。その当時、僕は平山三紀さんのコンサートを開いています。『ビューティフルヨコハマ』や『真夏の出来事』は、作曲家 筒美京平さんの大傑作だと思っていたんですが、まだ、当時はあまり評価が高くなかったので、平山三紀さんをメインにしたイベントをやりたいと。米軍の基地内でやっているソウルバンドですごくいいバンドがいるので、それを連れてきたいとか、オープニングでは下田逸郎や南正人といった自分が好きなシンガーソングライターを出してとか、そういうこともやっていたんです。
--ちなみにイベントがない間は何をされていたんですか?
佐藤:音楽を聴いているか、本を読んでいるか、バイトをしているかですね。
--バイトは何をなさっていたんですか?
佐藤:親戚が経営している工場で、朝から晩まで働いたり、人を派遣する怪しい手配師みたいなことをやっていたりと、色々ですね。
--イベントだけで儲かっていたということではないんですね。
佐藤:イベントでは全然儲かってないです。それは自分の儲け話ではなくて映画研究部の仕事というか。だから、自分の食う分は、バイトをして稼いでいました。
--授業には出ていなかったんですよね? 演劇学科でも関係なかったですか?
佐藤:全然行きませんでしたね。演劇の授業も、1回も受けた記憶がありませんね(笑)。
--演劇学科というのは、本来どんな勉強をするんですか?
佐藤:演劇研究ですよね。でも詳しくは知りませんというくらい、演劇にはそれほど興味がなかったんですね(笑)。紅テントや黒テントには足を運びましたし、演劇学科にいる仲間の芝居の音楽とかを手伝ったりはしてましたけども。
4.営業から原稿書きまで八面六臂の活躍
--それで大学は卒業できたんですか?
佐藤:それが卒業できたんですよ。2年まではほとんど単位がなかったんですが、学生運動で大学も混乱していて、長期にわたってロックアウトされたりとかで、3年になってから一気に60単位くらい取って、4年でも同じくらい取れたので、卒業のための勉強だけはしたんです。
でも、3年4年で一番何をしたかというと、「将来何をしようかな?」と真剣に考えることで、大映の撮影所に行って、映画製作の現場を見たり話を聞いたりして、「映画なのかなぁ…」と考えていたんですが、自分でも何をしたいのか、実はよくわかっていなかったんですね。その頃、音楽で食えるなんて、夢にも思ってもいませんでしたしね。
なので、映画か物書きなのかなと思っていたんですが、僕が卒業した’74年というのは、大手の映画会社は斜陽産業で新卒を取らなかったので、行きようがなかったんですね。で、親は家業を継ぐために仙台に帰ってこいと言いますし、でも帰りたくはないしという綱引きの中で、卒論で選んだテーマを深く学びたいといつしか考え始めていたんですね。
--その卒論はどんな内容だったんですか?
佐藤:「日本の大衆音楽の誕生と未来」というタイトルで、副題が「3分間の芸術〜山口百恵論」。当時の僕は歌謡曲も演歌もすごく好きで、藤圭子とか大好きなんですが、花の中3トリオと呼ばれる中で、特に山口百恵の登場によって、「今までではありえなかったような新しい表現の歌が生まれる可能性があるんじゃないか?」とか(笑)、そういうことを書いていて、これが面白くなったんです。
その卒論は’73年一杯くらいで書き上げたんですが、調べているうちに三木鶏郎や中村八大、服部良一といった人たちのことがわかってきて、そういう過去の人達が残したものと、はっぴいえんどや岡林信康から始まった運動や、商業的なもの/非商業的なものが、今後どうなっていくのかといった研究をするのが、面白かったんです。その時、初めて「音楽をもうちょっと勉強したいな」と思って。
--音楽が再び学校に引き戻したんですね(笑)。
佐藤:それで大学院に入って、あと2年間くらい大衆文化と音楽や映画、漫画といったサブカルチャーについて研究したいと思ったんですが、大学院の試験には落ちてしまって。さすがに虫が良すぎますからね。それで切羽詰まって「大学院と同じくらい勉強できるところはないかな?」と思って、新聞の求人広告を見ていたら、たまたまミュージック・ラボという会社の「営業部員募集」という広告が載っていたんです。そこには「当社はアメリカのビルボードと提携している音楽業界誌」とあって、その「ビルボード」という言葉に「これだ!」と思ったんです。
--やはりビルボード・チャートもチェックしていたんですか?
佐藤:中学生の頃からビルボードのTOP100チャートはずっと気になっていました。なので、「ビルボード・ジャパンがあるんだ!」と思って、なんとかして入りたいなと。でも、「営業」は自分の性に合わないとも思ったんですが、営業1名だけの募集と言われて、それで試験を受けて、面接まで行ったんですね。その面接が、当時ミュージック・ラボの代表だった岡野弁さんで、「なんでうちに来たいのか?」と訊かれて、正直に「大衆音楽についての勉強をしたかったんですが、大学院に落ちたので、ここで働きながら勉強したい」と言ったんですよ(笑)。
これはラッキーだったんですが、岡野さんは産経新聞の記者出身のジャーナリストであり、音楽評論家でした。音楽そのものに造詣が深くて、気骨のある方で、理屈っぽいところがあったんですね(笑)。それで岡野さんに「この“学校”に何年ぐらいいるつもりなんだ?」と訊かれたので、「3年たったら卒業して、どっちの道に行くか決めますので、3年は居させてください」と言ったら、「面白い」ということで採用されて、本当に3年で”卒業”しました(笑)。
--その3年間は営業をされていたんですか?
佐藤:営業のまま3年です。営業をやって1年くらいで、ある時売り上げ1番になっちゃったんですよ。それで、何をしたかというと、「このままだと今の成績が限界だから、これ以上伸ばすんだったら、新たなページを作って下さい」と申し出て、「今後伸びるのは主流の歌謡曲ではなくて、フォーク系とか、あるいはロックと呼ばれるものなんだ」とそれに特化したページを作るよう編集部に頼んだんです。まだ、「ニューミュージック」という言葉はなくて、僕は「フォーク&ロック」と呼んだですが、ちょうどキティがレーベルとして立ち上がる準備をしていたりだとか、そういう状況だったので、「これからはコレだ!」と思ったんです。
でも、当時の編集長や編集部員の方々が、そっちの方に目を向けてくれないんですよ。しょうがないので、「自分で原稿を書くから、広告のページを4〜6 ページくれ」と岡野さんに直に頼んだんです。「それに見合う広告は必ず取ってくるから」と。それで毎週そのページを全部書きました。
--そこではどのようなことを書かれていたんですか?
佐藤:実はここに現物があるんですが、(ページをめくりながら)中島みゆきさんとか、ウエストロード・ブルース・バンド、紫、Char、佐藤博…「注目される浜田省吾」とか書いていますね。
--これを全部書いたんですか…。
佐藤:毎週、全ての取材をほとんど1人でやって、1人で書いていました。
--一番いいところにページをもらっていますね。
佐藤:広告は僕が取ってくるものが多かったですからね。
--スーパー社員ですね! 広告は一番取ってくるわ、記事は書くわ(笑)。
佐藤:そうですよね(笑)。これは矢野顕子さんのデビュー時のインタビュー記事ですね。もうこのときに僕は、「彼女は日本の音楽業界に収まらないから、将来はきっと外国に行くんじゃないか?」と書いているんですよ。
--確かにその通りになってますよね…すごいですね。
佐藤:こう見ていくと自分の趣味丸出しです(笑)。
--営業で一番になれた秘訣はなんだったんですか?
佐藤:当時からレコード会社の宣伝部とかは、オリコンのチャートしか気にしてなかったんですね。なので、営業に行ってもオリコンにしか出稿する意味がないとまず言われて。でも、ミュージック・ラボはジャーナリスティックな面や国際性に見どころがあるので、ある程度だけお付き合いしますという感じだったんですね。そこに僕が食い込むとなると、この「フォーク&ロック」を活用するしかないわけですが、実は一般誌の方で、「平凡パンチ」や自動車の雑誌、女性誌などの音楽ページにレギュラーでアルバイト原稿を書いていたので、「そっち(アルバイト原稿)で取り上げるし、ミュージック・ラボでも書きますから、広告下さい」と頼むと、「3つくらいの媒体で書いてくれるならいいよ」となるわけです。
--つまりその営業成績は、ミュージック・ラボの力と言うより、佐藤さんの力だったわけですね。
佐藤:おそらくそうなんですよ。ミュージック・ラボの力だけじゃないとは思います。そのうちにコンサートへ呼ばれれば、「どうだった?」と意見を求められるようになったんですね。そういうときに、僕は褒めるばっかりじゃなく、悪いことも平気で言うので、逆に信用されるようになって、だんだん制作サイドに引き込まれていったんです。それで、時には「レコーディングに来てくれ」とスタジオまで呼ばれて、歌詞を直したりしましたからね。
--歌詞を直す、ですか?
佐藤:「こうしたらいいんじゃない?」とか、アドバイスをしました。そうやってスタジオで少しづつ制作の現場に立ち会うようになって、ミュージック・ラボを卒業したら制作者になろうと固まっていきました。
5.甲斐バンドの成功とファイブ・ディー設立
--そういったことを3年間続けて、どんなことを学ばれたとお考えですか?
佐藤:会社には十分貢献しましたし、学ぶことは学んだと思います。変な話ですが、物書きじゃ食えないなとか、実際に自分で物を作った方が早いなと思いましたね。批評や紹介記事よりも実践したほうが自分には向いているかなと思って。その後、シンコーミュージックで仕事をするようになりました。
--シンコーミュージックに行かれたんですか!?
佐藤:でも、まだシンコーには入社せずに、甲斐バンドのマネージャーとして、シンコーからギャラをもらいながら、1年間くらいは原稿も書いていました。
--ちなみに誰に声をかけられたんですか?
佐藤:その当時の甲斐バンドのマネージャーをやっていた武石さんという女性から呼ばれて、まずは1年契約でやったんです。
--具体的には、どのようなことをされていたんですか?
佐藤:結局、バンドとの共同プロデュースですよね。バンドのメンバーと話をして将来の方向性を固める。一緒にスタジオに入る。ライブを企画する。とにかくアイディアを出して、理論づけていくというか。
--つまり、どうやったら甲斐バンドがもっとメジャーに、売れるようになるか、というようなことをされていたわけですね。
佐藤:甲斐バンドはデビュー後1年で、まず『裏切りの街角』でヒットが1回あったんですよね。でも、その後やや低迷気味になりました。それで、「まず、歌詞の人称を全部変えよう」という話をしたんです。つまり1人称を「僕」ではなく「俺」にしようとアドバイスしました。甲斐よしひろが志向している方向性には、当時のイギリスのロックバンドが持つ反逆児のイメージが重なって、ちょっとマッチョ的というか、ハードボイルドと言ってもいいんですが、「優しさの裏側にある強がり」みたいなものがあったんです。ということは、歌詞も「俺」のほうが絶対合うと思ったんですよ。
--それまでは「僕」だったんですか?
佐藤:そうです。それと、同じシンコーミュージックには、すでに大ブレイクしていたチューリップが所属していて、彼らはどちらかといえば優等生と見られていて、何かと比較されがちでした。だからこちらは不良性を出して、歌詞は全部「俺」にしようとか、社会的なテーマを入れようとか、そういったことをずっと言ってました。つまり、半分プロデューサーなんだけど、元ライターだから、ブレーン的な感じですね。その一方では、現場のノウハウはまだ知らないので、マネージャー見習い的な位置でした。
それでアルバムの売り上げも伸びてきて、これはいけるとなったときに、「正式にマネージャ−をやってくれ」と頼まれたんです。つまり、マネージャーじゃないと、会社の金を預けて現場を全て委せるわけにはいかないということなんですね。その頃からシンコーは原盤権を100%持ってますから、このアルバムにいくらかけて、こういう風に売って利益を出していくんだとか、全部マネージャーが責任者なんです。だから正社員にならないと委せられないと言われて、社員になったんです。それで1年もたたないうちに『HERO〜ヒーローになる時、それは今』がヒットしました。
--結局、シンコーには何年いらっしゃったんですか?
佐藤:やはり3年ですね。もうその頃には「1アーティストは、1マネージメント・オフィスでいいんじゃないか?」という過激な発想になってきたので(笑)、「ビートニク」という甲斐バンドの事務所を設立して独立し、代表としてバンド解散まで約10年間やりました。
--甲斐バンドの事務所を解散されて、いよいよファイブ・ディーを設立されるわけですが、設立当時のアーティストは誰だったんですか?
佐藤:アーティストはいませんでした。実はもう音楽業界からは足を洗おうというか、ようやく長かった勉強が終わったという感じだったんです。一通り勉強をして、甲斐バンドで実践してみたら、解散コンサートだけでも武道館5日間とか、初めての場所で大規模な野外イベントをやったりとか、ずいぶん色々なことをやらせてもらって、誰もやっていないから偉いというわけじゃないですが、「日本でこういうことをやったらすごいかな」というようなことは大概やったので、もういいだろうと思ったんです。
--では、何をやるつもりでファイブ・ディーを作られたんですか?
佐藤:それはすごくはっきりしてて、小説家と漫画家のエージェント、それとカメラマンや画家、イラストレーター、その他の才能の発掘とか、マネージメントをやろうと思ったんです。
--それでファイブ・ディーなんですか!
佐藤:「ディー」はドリームの「D」なんですが、ドリームから始まって、デザインとか「D」の付くことをいくつかやろうと思っていたんです。実はファイブ・ディーでの一番最初の仕事は、マイケル・ジャクソンの自伝『ムーン・ウォーク』の日本版を作ることだったんですよ。
--どのようないきさつで日本版を作ることになったんですか?
佐藤:マイケルが『ムーン・ウォーク』という自伝を出すと発表した段階で、当時のCBSソニー出版、いまのソニー・マガジンズが日本での権利を買ったんですね。で、買ったんだけど、その権利がとても高額だったので、初版で10万部売らないとペイできない。ついては、「確実に話題になって売れる本になるよう、相談に乗ってくれないか?」と話が来たんです。僕がそういう仕事をするために、ファイブ・ディーを作ったことを、先方もわかっていたんですね。
それで、話題性のあるそれなりに著名な作家に翻訳をやって欲しいと言われたんですが、先方からは山田詠美さんとか村上龍さんとか、色々名前が出たんですが、ちょっと違うんじゃないかなと思ったんです。名前だけを借りるんじゃなくて、ある程度思い入れがあって、後々それについてちゃんと語れる人がいいなと思って、それで前々から、田中康夫さんは意外にもかなり音楽に詳しくて、作家としても僕は評価をしていたので、「田中康夫さんはどうですか?」と提案しました。先方も「康夫さんなら話題になるし、面白そうだ」と乗ってくれて、それで直接お願いしに行ったんです。
田中さんにも快諾して頂いて、そこまではスンナリと進んだんですが、そこからが大変でした。田中康夫さんは原稿のとても遅い人で、連載もたくさん抱えていて、全然予定通りに入稿しない(笑)。それでも結果的には納得のいく本づくりができて、しかも初版10万部はすぐに完売して、増刷が決まるなど順調なスタートでした。これがファイブ・ディーにおける僕の最初の仕事なんです。で、僕はこの方向で行きたかったんですよ。
--それにしても佐藤さんの引き出しは多いですよね。音楽だけではないですからね。
佐藤:僕の中では、音楽は本流から外れているんです。なので、本当に有望な小説家を見つけたりしたかったんですが…。
--周囲がそうさせなかった?
佐藤:そうなんです(笑)。さまざまな方々が、「こういうミュージシャンがいるんだけど、是非、佐藤剛さんとやりたいと言っている」と、話を持ちかけてくる。可能性のある新人に出会えば「やってみようかな?」とどうしてもなりますし、その頃は安定して仕事があるわけじゃないですからね。
当初のファイブ・ディーは僕と経理の女性だけだったので、「なんとかなるかな?」と思っていたんですが、前述の武石さんの紹介でマネージャー志望の若者とかが来たりして、僕は気が弱いから断れなくて(笑)、「どこかに置いてあげようかな?」と思っちゃうんですよ。そうなると「何か仕事を探さなきゃ」という状態になってきて、結局、ディスクガレージさんとソニーに頼まれて、あるアーティストのマネージメントを引き受けたんですが、1stアルバム、2ndアルバムまで作った後に、そのアーティストと僕がぶつかってしまったんです。
--ぶつかった原因は何なのですか?
佐藤:現場のマネージャーにつけていたその若者が、とにかく谷村新司さんが大好きだったんですね。アーティストは本物のブルースやロックに傾倒しているから「谷村さんなんて大嫌い」。この二人が上手くいかないんですね。それでアーティストが僕に「マネージャーを変えてくれ」と言ってきたんです。その時は仕方がないので外部の人にマネージャー役を引き受けてもらったんですが、それから1年後ぐらいのある日、何かのきっかけで彼が「社長のためにも言うけども、あんな社員を置いておいたらまずいんじゃないですか?」と言ったんです。なので、僕は「そんなこと言う権利は、君にはないでしょう? それは越権行為だ」と。「僕と君は音楽的な趣向は合うけども、それと仕事は違う」と追い出して、ソニーに引き取らせたんです。
それで、ダメ出しされた社員が「自分で仕事を探します」と言って、ディスクガレージのコンサートの手伝いをやっているうちに、THE BOOMを見つけて僕のところに持って来るんです。
6.音楽プロダクションの理想型を求めて〜THE BOOMとの出会い
--その彼がTHE BOOMを見つけたんですか。
佐藤:正確にはディスクガレージの黒木君(現専務)が見つけて、育てているところを彼が手伝っていたんですね。で、ソニーからデビューすることはもう決定していて、ただマネージメントは決まっていなかったんです。
当初、黒木君がすっかり惚れ込んでいたらしく、自らの手でマネージメントをやりたいと言っていたそうです。ところが当時のディスクガレージ社長の市川義夫さんは、「イベンターは公正中立でなくては駄目、自分でマネージメントを始めるのはまずい」と仰るわけです。それで、最終的に僕のところへ持ち込まれたんです。でも、僕は先ほどお話した件でもう懲りていたので、一旦お断りしたんですが、「剛さんがやってくれれば、全て収まるんですが…」と頼まれて、もう仕方ないなと渋々引き受けたんですよ。
--THE BOOMを渋々ですか…(笑)。
佐藤:本当は嫌々なんです(笑)。先代の市川社長には本当によくしていただいたので、「市川さんの頼みだったら、断れないな…」という感じでした。市川さんは元ポリドールのプロデューサーで、森田童子をやっていた方なんですが、僕がミュージック・ラボ時代に広告をもらっていた人ですからね(笑)。それと黒木君とも1年ほど一緒に仕事をしていて、彼がそこまで惚れているなら成功の可能性も高いはずだと。ただ、「ちょっと考えたいので、時間を下さい」とお願いしたんです。つまり、何のためにやるのか、自分の中で理由を見つけたかったんですね。
その時に考えたのが、まだまだ殆どの事務所の経営というのは近代的じゃないし、アーティストとの関係もフェアじゃないなということなんですね。レコード会社が圧倒的に強い立場にいて、お金を出して事務所に援助をするから、「お前達で事務所やれ」みたいな感じでした。つまり、レコード会社に事務所がぶら下がっていたんですね。レコード会社と事務所とアーティストは、それぞれが基本的に対等であるべきなのに、全然対等じゃないわけですからね。そこで、まともなマネージメントとアーティストとレコード会社の関係を作っていくことができるんだったら、やる価値はあるのではないかと思い、その理想型を考えました。
--佐藤さんが考えた理想型とは、どのようなものだったんですか?
佐藤:原盤も出版も全てアーティストと事務所が持つべきだということと、事務所とアーティストの関係は対等であるべきなので、THE BOOMのメンバー4人と僕の5人で、1人20万ずつ出して100万円の会社を作り、5分の1ずつの発言権を持つようにしようと考えました。あと、作詞・作曲にしか払われないバンドの印税分配もおかしいと思っていたんですね。バンド自体が音楽を生み出す一番のもとなのに、バンドは無視されて、著作権者というところだけに印税が行く。それが不公平のもとだと感じていました。
バンドというものは、このメンバーだからこういう演奏ができて、こういう曲を書こうとなるわけで、そこが抜けおちていると思ったんです。そこで、印税を作詞者・作曲者に加えて編曲者=バンドを入れて3等分して、編曲の権利を4等分しよう とか、そういうことを色々考えました。それで、こういうことを実践できるんだったら、僕がやる意味があると思って、そのプランを文章にまとめて携えて、初めてTHE BOOMのメンバーに会ったんです。
--初めてTHE BOOMのメンバー達と会ったときは、どんな感じだったんですか?
佐藤:初めて会ったのはデビュー4ヶ月前で、その時に「頼まれたんで、君たちをやることにしたけれど、やるからには本気だ」と正直に話しました。あと、メディアに頭を下げなくてもいいように、自分たちでメディアを持たなくては駄目だとか、音楽雑誌に頭を下げて、ヨイショ記事を書かれているようじゃ駄目だとか、コンサートが終わって打ち上げと称して毎晩酒飲んでいるから駄目になるんだとか、そういうことまで細々書いた書類を見せて、「こういうことを君たちとやろうと思っているんだけど、それでいいんだったら、君たちが僕と組めばいいし、違うなと思ったらやめてもいいんだよ」と言いました。
--つまり下心なしで引き受けられたわけですね。
佐藤:そうです。だから1stアルバムに関しては、全くプロデュースに関与してないです。僕はフェアなシステムを作りたかっただけで、あとはマネージャーと、プロデューサー的立場だったディスクガレージの黒木君と、熱意あるディレクターだったレコード会社の上原さんとで作ってくださいとお願いしていました。僕はそこには関与しませんよ、ということだったんですね。
--プロダクションの新しいコンセプトを立てるのがメインであったと。
佐藤:僕は早く違う方へ戻りたかったんです(笑)。でも、実際にTHE BOOMのライブを見たら、「このバンドは素晴らしいな」とか、「このボーカルは天才かもしれない」とか、僕にとっては邪心がモヤモヤ出てきたんです (笑)。でも、音楽に関しては任せていましたし、本当に僕は僕でまた別のことをやろうかなと思っていました。にもかかわらず、いつの間にか宮沢と共に物作りをするようになり出すんですよ(笑)。
--あとはズルズルと(笑)。
佐藤:結局、THE BOOMを世に出してみたら、思った通りの反応はあるし、才能あるブレーンも集まってきて面白いし、バンドは日毎に成長するしで、やはりワクワクしてきますからね。そのうちにあちらこちらから頼まれ事も多くなってきて、縁がある人がどんどん入ってきて、今日に至るわけです(笑)。
7.勝負は死ぬまで終わりじゃない
--ファイブ・ディーには、The BOOM以外にも素晴らしいアーティストがいますが、佐藤さんご自身が見つけてきたアーティストはいらっしゃるんですか?
佐藤:いないんです。みんな向こうから頼ってくるか、レコード会社とか事務所との契約が終わって行くところがなくて来たとかですね。
--ということは、プロデューサーとしては、素材を見てから考えるわけですか?
佐藤:そうですね。与えられた材料を見て、分析します。無い物ねだりをしないというのが基本です。
--言葉は悪いですが、配牌なりに上がると。
佐藤:そうです。ただ配牌なりなんですが、いつも役満は狙っているみたいなね(笑)。どんなにひどい配牌でも、役満を狙っていないと、やっている意味がないと思っています。ただ、もう一つ言うと、勝負は長丁場でエンドレスなんです。半チャン4回じゃないんですよ。阿佐田哲也じゃないけど、死んだときが勝負の終わりだから、「長いよな〜」と思う反面、死ぬまで終わりじゃないと思っています。だって、5年後にヒットする曲、10年後にヒットする曲、日本じゃ駄目だったけど外国でヒットする曲だってあるわけですからね。
これは自慢でもなんでもないんですが、ここから出たいというアーティストを呼び止めないし、逆に居たいという人は、どんなに経済的に苦しくても、全部居させようと思っているんです。そのためにはどんなことをしてもいいかな、と思っています。
--すごいスタミナですよね。
佐藤:スタミナというか、逆にスタミナがないから、そのくらい放り投げておかないとやってられないという感じはあるんですよ(笑)。瞬間的には集中してやれるんだけど、コツコツと一つのことに集中できないと言いますか、飽きちゃうんです。
--でも、佐藤さんの器の大きさをひしひしと感じます。だからこそ、これだけアーティストが佐藤さんの周りに集まってくるんだと思いますよ。
佐藤:いや、僕はそういうアーティスト達に教えられているんです。いまだに勉強していますね。僕も色々教えますが、物を作るのはアーティストにしかできませんからね。
--今後のファイブ・ディーはどういう方向を目指して行くんですか?
佐藤:もう、何も目指していません。僕自身は会社自体に対しては、興味がないんです。
--では、佐藤さんがいなくなったら、ファイブ・ディーは残らない会社なんですか?
佐藤:残らないというよりも、みんなバラバラになっていいように、権利関係も整理しているところです。それぞれがアーティストに帰属すればいいと思っているんで、僕の他に誰かがまとめることはできないのではと思います。つまり、僕個人の趣味趣向やキャラクターで、何とかこうなっているだけで、盤石なものはなにもないんですよ。それでも何となくまとまっている、それでいいんです。
--ちょっと跡を継ぎようがない感じですよね(笑)。
佐藤:そう思いますけどね。寄り合い所帯といいますか、組合みたいなものなので、組織とかに執着する気は全然無くて、それよりも個々のアーティストやマネージャーが、一人一人ここで色々なことを学んでいってくれればいいんです。物の考え方、勝負の仕方、あるいは粘り強くやれば報われることもあるんだなということを、実際に見てってくれればいいです。そして自立してもらえればいいんです。
--でも、そういう風にしようとして、バラバラに空中分解する会社もたくさんありますよね?
佐藤:ありますね。でも、うちだって今現在そうなっていないだけで、いつそうなるかわかりませんよ。だって、僕がどんなことをしてきたか、うちの社員でも知らない人が殆どなんですからね(笑)。多分このインタビューを読んで、「そんなことをやっていたんだ」と思う人は多いと思いますよ(笑)。
8.フェアでポジティブな方向性の模索
--音楽配信がいよいよ本格化する中で、今後、業界が取り組むべきことは何だと、佐藤さんはお考えでしょうか?
佐藤:まずはデジタル時代におけるフェアなルールを確立することです。アナログからデジタルへの変化や、インターネットの普及によって、21世紀に入って革命的な変化が起こったわけです。通信と放送も変わろうとしていますし、なにか社会を成立させているこれまでの基本的なものの考え方の一部を変えていかないと、スムーズに進まないなと思うようなことが、幾つか起きていると思います。
こと日本の音楽に関して言うと、アナログ盤が生まれ、産業として成立し始めた頃に作ったルールやシステムに全部乗っかったまま、今日に至っているじゃないですか?
--「55年体制」みたいなもんですね。
佐藤:でも、根底が崩れているのに、そのシステムを利用するのはおかしいなと思います。メートル法が入ってきたのに未だに尺貫法で、しかも数字を変換せずにそのまま無理矢理あてはめるみたいなことですからね。つまり、前提条件が変わっているにもかかわらず、昔の前提条件に則った「型」の中で全てを一括して処理しようとしているから、無理がきている。
ただし、一斉に新しいものに切り替えたらいいかと言うと、必ずしもそうでもないんです。つまり、レコードをCDに二次利用する場合にどう分配するかと、はなから配信を前提としてCDが二次利用といったときの権利はどう分配したらいいのか、というようなことは別なんですね。でも、「配信ではこうあるべきだ」と答が一つしかないみたいな幻想になってしまう。幾つかのスタンダードがあっていいはずなのに、それをまだ誰も確立していない。
--確かに今現在、まだスタンダードがないですね。
佐藤:ないです。これを早く作らないと、健全な業界の発展はありえないんじゃないかなと思います。そもそもが「ダウンロード配信における分配が、JASRACでは何故7.7%なのか?」という話にもなってきます。この分配率というのは、歴史的には楽譜使用から始まっているようで、楽譜販売からレコード販売へと移行する中で、製造から流通販売に関するコスト計算をした上で、このパーセンテージが決められたようなんですね。でも、配信というのはこのシステムをほとんど使わないわけです。そうなると、この前提となるコスト計算がおかしいんじゃないかということから手をつけないといけないのではと思うんです。
--今回、宮沢さんが配信用に音源を録り直した行為というのは、それをすごくわかりやすく明示したことになりますよね。
佐藤:これはわかりやすいです。僕は今回の配信で得た収入は、基本的に著作者、レコード制作者、実演家で3等分すべきだと思っているんです。概念としては、著作物がなければそもそも吹き込むことができない。でも、吹き込むためのレコード制作、すなわちスタジオやエンジニアなど、色々なものがなければ音楽にできない。もちろん実演家がいなければ具体的な音楽にならない。つまり、この3つは必要条件なんです。この3つがなければ成り立たないんだから、その3つは基本的には同じくらいの権利あるはずだというのが、僕の素朴な考えなんです。だから、自分で作ったものは、今後そういう風に分けていこうかなと思っています。
--例えば、宮沢さんに倣って、他のアーティストも配信用に音源を新たに録り直したりしだしたら、レコード会社が出す、出さないの話ではなくなってしまいますよね?
佐藤:そうですね。だから、レコード会社が二次利用として「パッケージ化させてください」と言ってきたりとか、逆に僕らも「パッケージにしてくれませんか?」とお願いすることもあるでしょうね。
--この場合、アーティストとレコード会社との契約はどうなるんですか?
佐藤:宮沢は契約がないからできるんです。ここまで言うと殺されるかもしれないので怖いんですが(笑)、これまでのレコード会社が行ってきたアーティストとの契約自体がおかしいんじゃないかと僕は思っているんです。レコード会社のアーティスト専属契約というのを、厳しいものから緩いものまで見たんですが、そこに貫かれている思想は何なのかというと、「契約しているアーティストは、レコード会社が指定する以外の実演をやってはならない」というような禁止規定なんですね。
1970年代ぐらいまではレコード会社が持つスタジオしかなかったし、そこでしか録音できなかった。そして、レコード会社が持つ工場でしかレコードが製造できなかった。そんな昔はそれでよかったんでしょう。でも今は「良い曲ができたから、ちょっとやろう」と自分の家でプロトゥールスで録音し、ミュージシャン自身がミックスしたら、そのまま完成音源になってしまうわけです。さっきの契約だと、どこから発売するのかも決まっていないものを、違うレコード会社のアーティスト同士が、家で勝手に録音することは、やってはいけないことなんです。
--アーティストにとって、それは不自由ですね…。
佐藤:例えば、あるアーティストのライブにゲストが来て、一緒にデュエットをしたら、素晴らしい演奏になったとします。ところがその時に録音したり、ビデオに撮影したとすると、レコード会社が違うから、お互いに禁止事項を破ったことになってしまうんですね。実は契約書をよく読むと、「そういったことを目的とした演奏をやってはいけない」と書いてあるんですよ。
やはり、「音楽家が音楽をやってはいけない契約って、おかしくないですか?」というところまで、踏み込まなくてはいけないと思います。それはレコード会社を敵に回すとか、そういうことではなくて、テクノロジーの進歩がここまで来ているんだから、それに合った概念や新しい契約を考えないと駄目なわけです。そうすると分配も含めて、根本的にもっとフェアなところはどこかということを、みんなで考えなくてはいけませんよね。
--先ほども少し仰っていましたが、宮沢さんは今レコード会社との契約がないそうですが、今後もその立ち位置は変わらないんですか?
佐藤:はい。そうじゃないと世界中の色々な人と自由に音楽を作れないですからね。
--海外のアーティストも宮沢さんのようなスタンスの方が多いんでしょうか?
佐藤:そもそもが包括的に契約で縛られてはいないですね。大物でも10年間で3枚という契約を結んでいますが、それを履行すればいいわけですから、みんなトリビュートだったりとか、色々なものに自らの意思で参加したりしていますね。
--立場が強いですよね。
佐藤:強いというか、対等なんですね。「あなたのところでフルアルバム3枚出しますから、安心してください」ということなんです。海外アーティストの契約はその程度ですよ。
--ただ、レコード会社の立場からすると、今まで持っていた既得権益を手放すことになりますよね? そうすると向こうから言い出すというのは考えづらいので、こちらから問題提起していかないといけませんよね。
佐藤:僕は法律の細かいところを言いたいんじゃなくて、もっと根本的なところで、気に入ったミュージシャン同士が音を出して、録音すること自体禁止されているというのは変だなということを言いたいんです。だから、契約した枚数を期間内に出すという縛りはいいけども、それ以外のことを禁止するというのは、なるべく無くしていきたいと思っています。いい音楽をたくさん作って、いい作品になったものをたくさん売れるようにしていけばいいのに、どうしてそういう風にフェアでポジティブな方向にならないのかなと、素朴に思いますね。
9.今は問題解決の大きなチャンス
--今、レコード会社はアーティストを囲い込むといいますか、プロダクション化してきていますよね。
佐藤:理論的にはそうなるでしょうね。逆に言うと、それでいいと思うんです。
--つまり、レコード会社も一つの「音楽制作プロダクション」と認識すれば、何の問題もないと。
佐藤:何の問題もないんじゃないですかね。そういった意味では、資本の大きさを別にして、機能さえあれば、どんな少人数の会社でも「レコード会社」であって、つまり権利というのはそういうものなんじゃないかなと思うんですよね。
そもそも、レコード会社がリスクのある原盤制作をやらずに外へ出したり、タイアップが商売上で有利だからと、あちこちに出版だけではなく原盤まで権利を渡したことによって、権利が分散してしまい、そのツケが今まわっているわけじゃないですか(笑)。レコード会社が「全部が当社のものだ」としていたら、そんな風にはならなかったし、そうしたらメジャーとインディーも、もう少しクリアに分かれたんだろうけど、今は全部がグラデーションで、はっきりとした境目がないでしょう。
--持ちつ、持たれつみたいな構造が、色々なところに出ていますよね。
佐藤:そうですね。だから結果的にあいまいになって、今、非常に困ったことになっているんです(笑)。
--でも、配信が主流になることによって、すごくクリアになる可能性もありますよね?
佐藤:この機会にそうなって欲しいんです。だから僕は積極的に配信にトライしたいし、配信だけでもビジネスが成り立つというような例がたくさんあれば、アーティストやプロダクションの励みにもなるだろうと思います。
--そうするとレンタルの問題も、パッケージがないわけですから、自然と解決しますよね。
佐藤:そうなんです。そこまで明快に根元的なところまで手を付けていくことによって、新しい共存の仕方をみんなが考えるようになると思います。
--レコード会社もパッケージを売るために色々と工夫しだしていますしね。
佐藤:それでいいと思いますよ。色々と工夫して売ることを考えた方がいいと思うんです。作って流通ルートに乗せれば、だまってても売れるというところに安住していた事自体、もう足下がぐらついてるんだから考え直さなければいけないと思います。ただ、僕は被害者が出ることが嬉しいわけではないですから、レコード店、とりわけ中小のお店が苦しいこともわかっているんですが、いずれそうなるのであれば、中小のお店はそれぞれキャラクターを特化して、顧客を惹きつける努力が必要だと思います。
僕はパッケージが無くなるなんて思っていないですし、僕はパッケージが大好きですから、無くなって欲しくないと思っています。でも一方で、「これしか駄目だ」なんてことはあり得ないですよね。どんどん新しい技術が開発されていくんだから、「この技術によって、良くなることは何か?」ということを考えた方がいいと思います。
--つまり、配信時代になったときに、今までの問題点をどう解決できるか? ということも、みんなで真剣に考えましょうということですね。
佐藤:今は、すごいチャンスだと思いますね。
--その中でも一番重要なのは、先ほどお話し頂いた権利関係だと思うんですが、分配一つ取ってみても、はっきりしないとやりづらいですよね。ちなみに、音制連としては今後どのような取り組みをしていくのですか?
佐藤:私は答える立場にないんですが、理事長は3つ宣言していて、その中の「配信における実演家の権利をフェアにする」というのが、やはり一番大事だと思います。
--今、音楽の値段がどんどん安くなっているじゃないですか? 安いところで、演奏家なり作者が十分な還元を得られず、「音楽なんてやってらんない!」という話になっていくと、まずいですよね。
佐藤:そうなったら、本当に最悪だと思います。今現在、音楽がリスナーに届くために必要なことはなんなのかと考えたときに、配信に関して言えば、実演家と制作者と著作権者、あと配信するところがあれば、音楽を届けられますよね。では、そこにいらないものは何か。製造会社と販売会社、小売店がなくてもいいとなると、そのコストやマージンはいらないわけですから、その分を分配できるんじゃないか? とかいうことですよね。
--例えば、新曲ならその考え方が通用するんでしょうが、旧譜の配信となると、ちょっと考え方が変わりますよね。
佐藤:変わります。それは個々の事例ごとに千差万別なんですが、理屈は同じなんです。配信にかかるコストやJASRACやJRCへの著作権使用料を除いた残りは、実演家と制作者の二者で均等に分けられればいいんです。ただし、レコード会社が年間で2,000万円事務所に援助していたとか、原盤会社にも援助していたとか、あるいはこれを売るために宣伝費を幾らかけたとか、そこには個々の事情がたくさんあるんですね。
例えば、僕がインディーズでいいものを作って、結構売れてきたので、レコード会社からリリースし直したという話だったら、100%自分たちのものだから、ちょっとした宣伝費を除いて、あとは僕らのものです、と主張してもいいと思うんです。でも、レコード会社がタイアップで主題歌を取ってきたから、これくらいの宣伝費をかけて売ろうと努力をして、そのおかげでとてもたくさん売れた場合、または売れなくて原価も回収できなかった場合とか、とにかく色々なケースがあります。その時に配信で取り戻したいというレコード会社の考えは当然だし、その事情はよくわかるわけで、ここで実演家と制作者とレコード会社という新たな三者を考えなくてはいけなくなります。
その場合、それぞれがどのくらい取ったらいいのかということは、正直言うと作品ごとに違ってくる。つまりフェアにすると言うことは、そういうことだと思うんです。そこで一つずつ考えれば一番いいんですが、それではあまりに手間がかかってできないとしたら、例えば、「1/3ずつ分ける」、「レコード会社が半分とって、残りを実演家と制作者で分ける」、「パッケージの比率をそのまま当てはめる」と3つくらいのヴァージョンを考えて、そのどこかに当てはめればいいのではと考えています。
10.配信のスタンダードを確立しよう!
--話は少し遡りますが、宮沢さんの世界同時配信は、だいぶ前から計画されていたことなんですか?
佐藤:ええ。僕らがやっている音楽を世界中に届けたいとずっと思っていたんですが、パッケージだと障害がすごいあったんです。レコード会社はそれなりの量が見込めない限り、どこも相手にしてくれません。たとえばコンサートで外国に行ったとして、それが1回きりでも、そこでパッケージも売っていれば、「よかったから買ったよ」とか、「愛聴しているから、また来てくれ」と繋がっていくんです。だから、どうしてもパッケージを売りたかったんですが、パッケージで売るとなると、向こうのメジャーと話をして、断られたらインディーズと話をして…みたいなことが一杯あります。それが配信だったら、ロットの問題や、リスク、在庫の問題などがないので、「これは使わなきゃ駄目だな」と思ってたんです。
あと、変な話ですが、現在、日本のマーケットの売り上げは減っていますが、アーティストによっては配信によって、マーケットが10倍になるかもしれない。もし、10倍になったマーケットを活用して、結果を出せる人が今後出てきたら、希望は持てますよね。
--その実験材料として、佐藤さん自ら買って出たという側面もあるわけですね。
佐藤:そうですね。この先、配信が主流になってくると、音楽の聴き方も、作り方も、愛着も色々なものがずいぶん変わってくると思います。そして、否応なしに配信の時代になり、「便利になってよかったね」と言えるものと、「無くなって残念だったね」と言うものが必ず出てくると思うんですが、まずは「よかったものは、何なのか」ということを、積極的に探しに行こうかなと考えているんです。
正直言って、「圧縮データにしたら、どの音が一番良いか?」ということは、実験を始めたばかりですし、自分自身も現行の配信の音を気に入っているわけでもないです。でも、時代が変わっていっているときに、傍で眺めているのか、中に入って積極的に関わりながらも、より良い方向に変わっていけるようにするのかということで言えば、今、僕は後者の立場で、良い方向に変わるために模索をしている状況です。
--あと、今後はライブバージョンとかもどんどん配信できますね。
佐藤:そういうものだと思うんです。例えば、誰かがライブ専門ストアみたいなものを作って、そこに行ったら「公認ブートレグ屋さん」じゃないですが、あるアーティストの全公演のライブ音源があったとしたら、聴きたいと思う人は結構いると思います (笑)。僕が10代とか20代だったら、ストーンズの全公演聴きたいと思うでしょうし、高くても買います。
もし、それを喜べる人が日本に1,000人いたとしたら、世界に何万か何十万人いるはずなんです。そうしたら商売として成り立ちますし、しかもビッグビジネスです。もっと言うと、配信でそんなにたくさんのものを聴く人というのは、コアな音楽ファンなんですね。ということはその人達が次の発信元であり、口コミの宣伝マンみたいな存在なんです。
--確かにコアなリスナーを育てるのは、結構重要ですよね。
佐藤:今までみたいに「そんなものは一部の人しか喜ばないから…」ではなくて、一部の人が喜ぶのであれば配信で出せるということなんです。ここが重要だと僕は思います。
僕は未だにiPodを買っていないんですが、何故持っていないかというと、自分の持っている音源を取り込むのが面倒臭いし、そのことで時間を取られるのが嫌なだけなんです。だから、もしローリング・ストーンズの全曲入っているものがあったら、僕は買うと思うんですよね(笑)。あと、ジャズの曲が膨大に入っているとか、図書館ごと買うみたいで、嬉しいじゃないですか(笑)。
--確かにそういう商売も、今後出てくるかもしれませんね。
佐藤:配信というのは2種類あって、ぱっと聴ける手軽さと、あと一人一人がショップを経営しているようなコアな側面があると思うんですが、今後はその両極に行くと思います。そして、僕らが一番大事にしているのが、ライブラリーを持っているような人たちなんですね。この人達にどれだけ届けられるかが重要なんです。だから、分配もフェアになってくれれば、滅茶苦茶たくさん売れなくても、安定顧客だけで何とかやっていけるし、そこから制作費を逆算できる。そのために、早く配信のスタンダードができればいいなと思っています。
--やはり、配信のスタンダードの確立は急務ですね。本日はお忙しい中、ありがとうございました。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
昨年のスペシャル・インタビューに引き続き、リレーでもご登場頂いた佐藤氏ですが、そのご経歴を伺うにつれ、「まさに佐藤氏にとって、プロデューサーは天職」という思いが増していきました。まさか、中学生の時からとは…。また、音楽業界の現状に対する的確な分析と、それに基づく鋭いご指摘に、昨年のインタビュー同様、唸らされました。ただ、ときには厳しく、過激なご意見の根底にあるのは、「いかに素晴らしい音楽を生み出し、より多くの人に届けるか」というポジティブな思いであることは、このインタビューからも十分に伝わってくるのではないでしょうか。今後も佐藤氏並びにファイブ・ディーから、目が離せません。
さて次回は、’80年代以降、甲斐バンドやハウンド・ドッグ、BOφWY、レベッカといった数多のアーティスト達のコンサートを手掛けられ、近年はコンサートに留まらず、幅広く業務展開されている株式会社ディスクガレージ 代表取締役 中西健夫氏です。お楽しみに!