第55回 渡辺ミキ 氏 (株)ワタナベエンターテインメント 代表取締役社長
(株)ワタナベエンターテインメント 代表取締役社長
今回の「Musicman’s リレー」は、(株)ディスクガレージ 代表取締役社長 中西健夫氏からのご紹介で、(株)ワタナベエンターテイメント 代表取締役社長 渡辺ミキさんのご登場です。大変華やかな家庭環境の中で厳しく育てられた少女は、演劇との出会いによって、偉大なる父 渡辺 晋氏と同じくエンターテイメントの世界を目指します。時には反発し、議論を交わした父亡き後、約20年に渡り渡辺プロダクション・グループを率いてきたミキさんが再認識した「渡辺 晋のメソッド」とは?
プロフィール
渡辺ミキ(わたなべ・みき)
(株)ワタナベエンターテインメント 代表取締役社長
1960年4月23日生。日本女子大学 国文科卒。
父は渡辺プロダクション創立者の故渡邊晋氏。母は現会長の渡邊美佐氏。ミュージカルプロデュースの勉強を経て、1986年に(株)渡辺エンタープライズ代表取締役に就任。翌年、(株)渡辺プロダクション取締役に就任後、1995年には代表取締役副社長に就任。2000年にはワタナベエンターテインメントを設立し、代表取締役社長に就任。数々の番組制作をはじめ、吉田栄作・松本明子・中山秀征・飯島 愛・ネプチューン・RAG FAIR・波田陽区・青木さやか・アンガールズなどのアーティストプロデュースを手掛ける。また、アウトオブオーダー等の舞台プロデュース、書籍・映画「プラトニック・セックス」のコンテンツプロデューサーとしても活躍。2004年4月に総合エンターテイメントスクールのワタナベエンターテイメントカレッジ、同年10月にワタナベコメディスクールを設立し、ともに理事長に就任。現在に至る。
1. クリエイティブな環境の中で育った少女時代
−−まず、前回ご登場頂いた中西健夫さんとのご関係について伺いたいのですが。
渡辺:ロックバンドのプロモートと言えば、ディスクガレージと以前から認識しておりまして、ぜひ一緒に仕事をさせて頂きたいと思っていたんですが、どのようにコンタクトをとればいいのかわからなかったので、ユイの後藤由多加社長にお願いしてご紹介頂いたのが最初の出会いです。
−−ミキさんの方からコンタクトをとられたわけですね。
渡辺:そうです。そこで後藤さんが「ディスクガレージの社長も素晴らしい人だけど、現場を仕切っているのは副社長の中西君なので、是非、彼も紹介するよ」とおっしゃっていただいて、当時のディスクガレージ社長 市川義夫さんと共に中西さんをご紹介頂きました。
−−それは何年前のお話なんですか?
渡辺:11〜12年前です。私はそれまで長戸大幸さんと一緒に、KIX-Sという女性二人組のユニットや吉田栄作をプロデュースしていたんですが、ディスクガレージさんのプロモートやコンサートの仕切り方とは違った風土で、スターやヒット曲作りを模索したので、ディスクガレージさんと一緒に仕事をさせて頂くことで、「どこが一緒で、どこが違うのか」を是非勉強したいと思っていました。
ですから、そのためには、断られるかもしれないけれど、とにかく飛び込んでみて、トップの方と直接お話したいと思いました。その後、市川さん中西さんから多くのことを学ばせて頂き、刺激も受けましたし、色々な方々もご紹介して頂き、新しい扉を開くきっかけを作って下さいました。
−−中西さんは大変お酒がお好きだと伺ったんですが、一緒に飲みに行かれたりするんですか?
渡辺:中西さんの親父ギャグに付き合いつつ飲みに行きます(笑)。おかげさまで、早めに突っ込む事が、上手になりました(笑)。
−−楽しそうなご関係ですね(笑)。
渡辺:楽しいギャグと、そうでないギャグがありますが(笑)、楽しくお仕事をご一緒させて頂いています。
−−ディスクガレージとのお仕事は今も継続されているんですか?
渡辺:はい。私は不器用なので、仕事を深く追求しながら、同時に沢山の方々から学ぶことが下手で。ですから、何かを追求するときには、そうと決めているわけではないんですが、気付くと2〜3社くらいと仕事をさせていただいていることが多いですね。
−−どのパートナーとも深く長くお仕事をされるわけですね。
渡辺:そうする事によって、弊社の特徴や癖、個性を鏡に写すように教えて頂いていると思います。
−−ここからはミキさんご自身のお話を伺いたいと思います。お父様はあまりにも有名な渡辺 晋さんですが、どのような家庭環境でしたか?
渡辺:家にスターの方々がいらしたり大変華やかで、活気溢れる家庭だったんですが、とてもけじめがついていました。それはどういうことかと申しますと、妹と私は同居していた父方の祖母に育ててもらったんですが、祖母からはいつも「あなた達はゼロから学ぶために、当たり前の環境の中で学んで行かなくてはならないのだから、けじめをつけましょう」と言われていたんです。
−−おばあさまがとてもしっかりされていたんですね。
渡辺:はい。福岡出身で明治生まれの祖母に厳しく育てられた部分と、色々な垣根を取り払ったクリエイティブな空気の中でもの作りを追求している人達が共存する環境でした。
−−渡辺 晋さんはお父さんとしてはどんな方でしたか?
渡辺:芯の通った大きな人という印象が強いですね。父が亡くなったときに、ウシオ電機 会長の牛尾治朗さんが当時まだ今ほどは、有名でなかった相田みつをさんの本をくださったんですが、その中の“おてんとうさまのひかりをいっぱい吸った、あったかい座布団のような人”という一節を指して、「これが晋さんだ」とおっしゃったんですね。「この座布団がありがたくて、気持ちよくて、みんなが集まったんだ」と。
−−娘さんから見ても、素敵で偉大なお父さんだったんですね。
渡辺:ただ、けじめが付いていないと大変叱られました。また、自分がやりたいことや目的をプロセスによって都合よく変えてしまったり、目的が曖昧で揺らいでしまうことによって、周りに誤差が生じたり、わがままを周囲に強いるようなところがあると、父はすごく怒りました。
−−つまり逃げ道を作ることを許さないと。
渡辺:もちろん普段はそんなことを追求されないんですが、学校選びや仕事といったことに関しては厳しかったですね。社会人になりたての子供に対してであっても、ちゃんと真っ向から意見を言ってくれましたし、その言葉によって、自分自身ではしっかり考えていたつもりでも、いかにツメが甘かったかなど、わからされた事が沢山ありました。
夢や目標を持つこと自体が目的ではなく、夢は目標に向かう覚悟や責任感を伴ってこそ尊いのであって、「夢だというなら、おまえはどこまでの覚悟を持っているんだ」と誘導してもらったような気がします。
−−そこまで偉大で格好いいお父さんだと、周りにいる男の人が甘く見えてしょうがないとか、そういう気持ちになったりしませんでしたか?
渡辺:あまり較べなかったですね。先ほどお話させて頂いたことは、大人になって父と議論するようになってからのことですし、中学校や高校くらいのときに憧れていた人と父を普通は比較したりしないじゃないですか?(笑)
−−確かにそうですよね(笑)。対してお母様の渡辺美佐さんはどのような方ですか?
渡辺:母は大変かわいらしく、才能があって華やかで、周りの方々が自然と楽しくなるような雰囲気を持つ人ですね。
−−お母さんとしての渡辺美佐さんは?
渡辺:私の幼少時代は、母は仕事しかなかったですね。のちに友達のお母さんとの比較で、「我が家は特殊なんだ」ということが段々わかってきたんですが、生まれたときからそうだったので特殊だとも思わなかったですし、祖母がしっかり育ててくれましたので不自由は感じていませんでしたね。
2. 演劇との出会いが世界を変えた
−−家が芸能の仕事をしていると自覚されたのは何歳くらいですか?
渡辺:物心つく頃からだと思います。日劇や国際劇場に連れて行ってもらったり、父が『ザ・ヒットパレード』に出演する姿をテレビで見たのをおぼろ気ながら憶えています。ですから、それが特別なこととも思っていませんでしたし、梓みちよさんや中尾ミエさんといったタレントさん達も家に住んでいましたので、遊んでもらいながら成長するような感じでした。
また、年頃の女の子がたくさんいるのに、色気がないと言いますか、ざっくばらんな家だったので、家に帰ってくると20時くらいにはみんなパジャマになるんですよ(笑)。
−−パジャマ一家ですね(笑)。
渡辺:本当にそうなんです(笑)。父にとってタレントさんも、子供や妹みたいな感覚だったんでしょうね。
−−つまりミキさんは知らず知らずのうちにエンターテイメントの世界の中で育っていったんですね。
渡辺:タレントさんが歌のレッスンをしている光景は私にとって普通のことでした。あとアイドル誌の取材の方々がよく来られて、家の庭で写真撮りをすることが結構あったんですが、絵作りに子供が一緒に居た方がいいとなると、「ミキちゃん! いらっしゃい!」と呼ばれて…(笑)。梓みちよさんの『こんにちわ赤ちゃん』がレコード大賞を獲ったときは、梓みちよさんと赤ちゃんという画が欲しいということで、まだ小さかった私の妹が大活躍していました(笑)。もう本当に小道具ですよね。
−−(笑)。そのようなご環境の中でお育ちになった少女時代のミキさんはどのような性格だったんですか?
渡辺:変に大人びてしまって、「ここでは笑ってあげた方がいいな」とか、すごく気を遣う子供でした。あと、コンプレックスの塊ですね。母を筆頭に周りは光輝く人々ばかりだったので、「自分はつまらない人間だ」ということを潜在意識化に叩き込まれてしまったんです。ですから、私は劣っている人間だと、過度に思っていたような気がします。
−−そんな風に思っていたんですか…。
渡辺:はい。それは誰に何かを言われたからではなくて、勝手にそう思っていました。「私の事はいいから」という感じでした。
−−確かに家の中に光り輝くスターたちがいたわけですからね。
渡辺:しかも、昭和30〜40年代は芸能界が今よりももっと注目されている時代でしたから、「ナベプロの娘だ」ということで、上級生とかが私を見に来ちゃうんです。私が沢田研二ではないのに、私が沢田研二であるかのように見られてしまう。それが本当に嫌でした。恥ずかしくて。あと、そういう家の娘だから、不良である危険性ありと思った方もいたらしく、上の学校へ入るたびに、入学式前に祖母が呼び出されて、一応事前に注意を促されていたようです。
−−でも、どちらかというと物静かなお子さんだったんですか?
渡辺:どんどん地味にしよう、わざとダサくしようとしていました。また、幼稚園や小学校の低学年くらいまでは、すごくおっとりしていました。何事も人に譲ってしまうと言いますか、お人好しな性格でした。
−−リーダーシップを取るような性格ではなかったんですね。
渡辺:全然なかったですね。授業中も手を挙げられない子供でした。小学校のときは授業中も「早く授業が終わらないかな」と思っていましたし、食事も嫌いでした。でも、学校が楽しくなかったわけではなくて、友達も沢山いましたし、素晴らしい学校だったんですが、自分の人生の目的が見えずにつまらなかったんですね。
その後、小学校3、4年のときの担任の先生が腫れ物を触るような扱い方でなく、「あなたはあなたでいい」とざっくばらんに接してくれたので、その頃から少しずつ変わっていったと思います。そういうことで小学校は暗いうちに終わり(笑)、中学に入学して演劇部に入るんです。その演劇部に入ってから、性格が全部変わっていきました。演劇部に入部しても、当然演劇部内のオーディションには落ち、最初は音響効果の係になったんです。
−−裏方さんですか?
渡辺:そうです。私はそれでも全然構わなくて、わからないながらも音響効果といった裏方をやるうちに、不特定多数の人間が集まって、一つのものを作り上げるために役割分担をして、一緒に達成感を得るという社会の縮図を、生まれて初めてそこで体験したんですね。それで目が全部開いてしまいました。
−−まさに渡辺さんの世界が開けたわけですね。
渡辺:たった一回の公演で「何て人生は楽しいの!」と、周りの世界が急に白黒からカラーの世界に変わったんです(笑)。それによって勉強さえも楽しくなりました。
−−小学生のときは音楽や映画といったエンターテイメントに興味がなかったんですか?
渡辺:そんなことはなくて、好きで見聞きしていました。すごく小さいときに『クリスマスキャロル』という映画を観たんですが、映画が終わって叔母たちから「ミキちゃん、どうしたの?」と言われるくらい、人が変わったように感想を喋り続けて(笑)、「こういうのミキちゃんはすごく好きなんだね」と言われたんですが、もともとエンターテイメントの世界は好きだったんですね。
−−そういうDNAは刻み込まれていて、それが花開く機会を求めていたのかもしれませんね。
渡辺:演劇が好きだったと言うよりは、その機会が演劇部に入ることだったんだろうと思います。
−−その後、演劇部ではどのような役割をされていったんですか?
渡辺:中学3年のときには部長をやり、演出もしましたし、もちろん役者として演じました。もの作りに関われることが本当に楽しくて、理数以外の国語や歴史に対する興味は全て演劇が入り口になって広がっていきました。ですから、「子供は、興味を持てるたった1つの扉を通して、社会とかかわるチャンスを持ってる!」と今も思いますね。
3. ピラミッドの頂点=渡辺プロに対する反発〜父 渡辺 晋との対話
−−高校でも演劇を続けられたんですか?
渡辺:高校でもずっと演劇をやっていましたし、大学には演劇サークルがなかったので、色々探して早稲田大学のテアトル50というところに参加しました。そこで今では引っ張りだこの作家・演出家である鈴木聡さんが演出をして、私は1度振り付けを手伝いながら、出演した経験があります。ちなみにキャラメルボックスは後輩にあたります。また、大学時代から色々オーディションを受けていたので、たまに受かったりするとプロの舞台にも出ていました。
−−ということは、中学以降はずっと演劇中心の生活だったんですね。
渡辺:そうですね。学校を出てからもですね。
−−ちなみに家の中でのポジションは変化したんですか?
渡辺:あまり関係なかったですね。渡辺プロダクションはピラミッドの頂点にいて、優秀な人達を使い、TVを中心としたメディアを通じて世の中に発信している仕事だと当時の私からは見えていて、私がやりたかったのはピラミッドの土台作りだったんですね。そうなると絶対に舞台だろうと思っていましたし、舞台芸術の中で下支えする人になりたいという思いが強かったので、渡辺プロに対しては、すごくプロレタリアート的と申しますか、「そっちはメジャーでしょう!」みたいに感じていました(笑)。すごく青かったと思います。
−−でも、志としては素晴らしいですよね。
渡辺:いや、青かっただけです。傍から見ればナベプロのお嬢さんで、お父さんに言えばチャンスがいくらでもあるように見える位置にいながら、「そういうことじゃない」と思っていました。
−−逆にそういう立場が嫌だった?
渡辺:そうですね。しかも目指している世界は近いだけに、余計理解されないんです。また、当時の私からすると渡辺プロの目指しているものと私の目指しているものは全く違うと思っていたんです。
−−そういうミキさんを見て、ご両親はどう感じられていたんでしょうか。
渡辺:単純に「なにつまらないことをやっているんだ」と思っていたでしょうね。気付くと娘はオーディションに落ちまくって、バイトをしながら演劇を続けており、同じような事をやっている仲間が大勢家にいたりするので、「なんだこいつらは! もういいかげんにしろ!」という感じでした。
−−正直お会いするまでは、非常に恵まれた立場にいらっしゃって、ご両親の支えの元、順風満帆で今日があると勝手に思いこんでいたのですが、全然違うので驚きました。
渡辺:私は大変不器用なんです。決して女優になりたいわけではなかったですし、舞台芸術の中で下支えをしたいと思っていても、その当時は何になりたいのか、何に向いているのかも自分でわからなかったんです。しかも、若くて門戸を叩けるのは出演者の役割だけですので、オーディションを受けるんですが、ほとんど落ちてしまうんですね。
−−確かに演出家のオーディションとかやってないですものね。
渡辺:そうですね(笑)。どうやってその世界に入っていったらいいのかわからなかったんです。歌やダンス、演技の勉強はしていたんですが、母からしてみれば、私はとても危なっかしく映ったと思います。また、父に「何をやりたいんだ?」と問われると、「ミュージカルを作るシステムを作りたい」、「今のもの作りじゃ駄目だと思う」、「これではミュージカルの裾野が広がらない」とか色々青臭いことを言っていたんですが、父はきちんと議論をしてくれました。
−−渡辺 晋さんとしては会社を継いで欲しいとか、そういう思いはなかったんですか?
渡辺:それはなかったですね。それは私が女だからということではなく、たとえ男だろうが継ぐのは無理と思っていたみたいです。父が望んだのは「自分の本分をきちんと生きる」ということだったと思います。
−−だからこそ真剣に議論してくれたんでしょうね。
渡辺:そうなんです。「演劇や舞台はそんなに甘いもんじゃない」ということですよね。また「舞台には売上の限界があるので発展性はない」とも言われました。でも、そういうことを言われると、私は「利益追求だけが仕事の目的じゃないでしょう?」と言い返してしまったり。
−−大学卒業後は就職されなかったんですか?
渡辺:卒業して就職もせずにバイトをしながら、宮本亜門さんや振付師の五十嵐かおるこさん、南流石さん、ラッキィ池田さん達とミュージカルの制作集団を作ったんです。皆、自らの肉体と声を使って表現することをプロセスとして捉えている人達ばかりだったので、ミュージカルを作って公演するために活動していました。それで小屋を借りたんですが、資金がなく困っていることを父にふと漏らしたら、「企画のヘソがない」みたいなことを言われたんです。
−−その「ヘソ」とは具体的にどのようなことだったんですか?
渡辺:今から考えると、私たちの主張や目的自体は間違っていなかったと思います。簡単に説明しますと、私たちは日本のオリジナル・ミュージカルを作りたい。その前段階として、ブロードウエイ・ミュージカルのメソッドの抽出するために、過去の名作ブロードウエイ・ミュージカルの連続上映をしようとしていたんです。ただ、父に言われたのは、人が「なるほど」と言うものであっても、それが「観たい」ものでないとお客さんもお金もキャストもスタッフも集まらないという、今思うと大事な“あたりまえ”な事でした。
そこで私なりに色々とアイデアを考えて、父に話したのがアメリカにある「バッカーズ方式」でした。アメリカのミュージカルは「エンジェル」という出資者たちがミュージカルのプレゼンを受けて、幾ら出すか決める投資対象なんです。そこで「1口10万円で550万円必要だから55口でバッカーズ・システムを立ち上げるのはどうかしら?」と話したら、「それはおもしろい」と言われました。また、「誰もやっていないから宣伝の切り口にもなる」とも言われました。
−−現在エンターテイメントに対するファンドとか結構ありますが、その先駆けだったんですね。
渡辺:今から22年くらい前の話ですから早かったかもしれませんね。ですから父は「No」を言い続けるだけでなく、新しいアイデアや自分の興味を惹くことに対しては、きちんと評価をしてくれました。また、「人と同じことをしていても駄目」ということと、「勝たなければ意味がない」ということはよく言われましたね。
−−でも、ミキさんが一から自分で作り上げたことに対しては、渡辺 晋さんも評価されていたんじゃないですか?
渡辺:作ってきたと言うほど、作れてなかったですからね(笑)。もう、行き当たりばったりで、周りから見たら、ただ遊んでいるようにしか見えかったんじゃないでしょうかね。
4. 偉大なる創業者の死〜新しい調和を求めて
−−結局ミュージカルの公演は成功したんですか?
渡辺:一応上演をして、幕を閉じるという意味では無事終了しましたが、内容的には大失敗でした。公演の宣伝も、やりながら方法論を知るような状態だったんです。スポーツ紙は夕方の方が人が居るので、夕方にただ行けばいいと思って、演劇記者の方に「渡辺ミキと申します」と自己紹介したら、どうも歓迎されている感じがするんですよね。それで「おかしいな…」と思っていたら、実は渡辺えり子さんと間違えられていたり(笑)、取材をしてもらえても掲載されるとは限らないとか、とても勉強になりましたし、同時に色々な方々にご迷惑をおかけしたと思います。
それと前後して「これだけはやらないともう家には置かない」と言われて、渡辺プロダクションの関連会社で喫茶店を経営していた渡辺エンタープライズの面倒をみなさいと言われて、エンターテイメントの仕事じゃないので抵抗したんですが、「数字の基本だけでも勉強しておきなさい」と言われて、渋々引き受けました。
−−そのお店はどちらにあるんですか?
渡辺:渋谷西武のA館中2階に今もあるんですが、現在は「EARL(アール)」、当時は「サイドキックス」という名前でした。その喫茶店の経営で原価意識を学んだと思います。
−−とてもシンプルな商売ですものね。
渡辺:全てが初めてのことだったので、大変勉強になりました。コーヒーの値段は消費者としてよく知っていたのに、その値段の中に何が入っているのか全く知らなかったわけです。坪単価、客単価、バランスシートという言葉から現場で覚えていきました。
−−いわゆる実業に初めて接したわけですね。
渡辺:そこで経営のおもしろさを初めて少しだけ味わいました。結局、22才から26才くらいまでそのようなことをしつつ、公演を2つやったんですが、それぞれ違う意味で大失敗でした。この2回目の大失敗のときに、「本当はピラミッドの底辺を支える人間になりたかったのに、これでは単に傍迷惑な人間だ…」と思い、舞台を一回封印して、エンターテイメント業界の中で一番優秀な人が集まっているところで、ゼロから勉強し直そうと思ったんですが、渡辺プロダクションに入るつもりは全くなかったんです。でも、その矢先に父が癌に冒されて余命1ヶ月らしいという話を母から聞きまして…。
−−ご病気のことは前からわかっていたことだったんですか?
渡辺:その2年前に手術をしていたんですが、それが癌だったということは母が自分の胸だけに仕舞っておいたんですね。完治するに違いないと信じ続け、病気のことを自分の胸に秘めて頑張ってきた母が、その時は「もう駄目かもしれない」と悟り、私と妹に打ち明けたんだと思います。
−−やはり大ショックですよね…。
渡辺:最初に起こった感情は怒りですね。現状を容認できないといいますか…。
−−その時の渡辺プロダクション内はどのような状態だったんですか?
渡辺:いなくなると思わなかった人が突然いなくなったので、家族だけでなく社員の方々やタレントさん達も、怒りと悲しみと戸惑いで、みなさん混乱されていました。それぞれの人生において、すごく重要な登場人物を失ったことで人生のバランスを欠いた状態でした。そこから再びバランスを取り戻し、新しい調和を作るまでにすごく時間がかかりましたし、その中で辞めていかれた方もいました。
−−燦然と輝いていたカリスマであり創業者である渡辺 晋さんが突然になくなってしまったんですものね…。
渡辺:お座布団をぱっと外されたときに、「世界ってこんなに冷たいものだったのか…」とみんな感じたんですよね。つまり、晋社長がみんなのことを守ってくれていたんですね。
−−後を託された26才の女性にとっては、ものすごくしんどかったんじゃないですか?
渡辺:会社を存続させるために適性の問題は置いておいて、娘だということだけで私と妹の名前を、父が役員をやっていた会社の役員に全て入れたんです。ですから、私は後を託されたわけではなく、仕方なく渡辺プロに入ったんです。もちろん自分なりに覚悟はしていましたが、当時は「これからどうすればいいのか…」という思いでした。
−−その当時ミキさんはどの程度渡辺プロダクション・グループの現状を把握されていたんですか?
渡辺:私はそれ以前から渡辺エンタープライズの社長をやらせていただいていた関係上、渡辺プロダクション・グループのグループ会議には出させて頂いて、各社のバランスシートを見ていましたので多少はわかっていました。また、業績のよくない会社を畳むことによって、その負債は親会社である渡辺プロダクションの肩にかかってきますから、会社の体質を相当良くしていかないとまずいということも分かってました。ですから、私には何も出来る力がないけれども、とにかく売上と利益を上げるためだけに一生懸命邁進しようと思って、行動しました。
−−もし、渡辺 晋さんが現在もご健在だったら、ミキさんは渡辺プロダクションに入らなかったのかもしれないんですね。
渡辺:渡辺プロは父と母と一緒に会社をやってこられた部下の方々の会社だという意識がすごくありましたので、自分が作ったわけでもないのに入るのはおこがましいという気持ちが大きかったです。ですから、出来るかどうかは別にして、仕事とは自分で起こすべき物だろう、とは思っていました。
−−先ほど「エンターテイメント業界の中で一番優秀な人が集まっているところで、ゼロから勉強し直そう」とおっしゃっていましたが、期せずして渡辺プロで勉強することになったわけですね。
渡辺:でも、そこから私は勉強だと思っていませんでしたね。勉強しなくてはいけないことはもちろん山ほどあるんですが、勉強で失敗している場合じゃないですから、とにかく会社のお金を使わないで利益を上げて借金を返すという大変シンプルな目標に向かって仕事をしていました。
もちろんお客様の幸せがなければ利益は上がりませんから、スターや売れる人を作るという意識はありましたが、「いいものを作れば、みんなが最終的には喜べる」みたいな甘いことは言っていられなかったです。
−−理想論を言うような状態でははなかったと。
渡辺:肩に力を入れすぎて、すごく遠回りもしましたし、必要のないぶつかり合いもたくさんしたと思います。その頃はバブル景気の真っ直中だったんですが、私はまるで戦後まもない頃のような気分でガツガツ仕事をしました。
−−まるで戦災孤児のような。
渡辺:そうですね(笑)。あの当時の私は全くエレガントとは程遠く。まあ、今も違いますが(笑)。そのことは決して褒められたことじゃないと思いますし、尊敬もされないと思いますが、信念を持って仕事ができたので、結果的に短期間で仕事を覚えましたね。
5. 明日のお客様ありきのもの作り
−−その後、マネージメント部門を切り離し、ワタナベ・エンターテインメントを作られてから、渡辺プロダクション・グループは現代的な姿に生まれ変わられた印象があります。
渡辺:それは結果論ですね。仕事をし始めてから父との会話が多くなったと言いますか、「パパが成功させていることは素晴らしいけれど、それは私のやりたいこととは違う」とあれだけ抵抗していたのに、「なんだ同じ山だったんだ…」と思うようになりました。つまり、今まではそれが見えていなかっただけで、少しずつ霞が晴れて、到達にはほど遠いですが、上が少し見えるような状態になったんです。
−−霞が晴れたら頂点にお父様がいたみたいな感じですか。
渡辺:それは父だけでなくて、今もご活躍されている諸先輩方や、若くても力のある方々も含めてです。違う山のように思えても同じ山にしていかないと、大衆文化に貢献できる優秀なエンターテイメントとは言えないんだなと分かりましたし、仕事をするようになって父の言いたかったことが分かるのは、喜びでもあります。また、ベンチャースピリットや、常に「明日のお客様が何を喜ぶのか?」ということを考えて、そこから逆算してプランニングに落とし込んだり、新たな制度をイメージする「明日のお客様ありきのもの作り」はそのまま踏襲していると思います。
−−それはお父様のやり方に近いということですか?
渡辺:近いと思います。もちろん私がやる限りは、あくまでも私のやり方ですが、色々な方々に教えて頂いたり、社史を読んだり、昔、父と一緒にお仕事をされていた方にお話を伺ったりすると、「これは父と母がやってきたことで、私の考えではないな」と思いますね。
−−それを知らず知らずのうちに身につけていらっしゃるのは、やはりDNAなんでしょうか?
渡辺:私の個人的なリアリティーはやはり舞台なんです。目の前のお客様を喜ばすことができなければ、その後ろにいる何万人の人々を喜ばすことはできないという考え方です。おそらく父もそうで、ミュージシャンとして「いい音楽やろう」だけではなく、「お客様がつまらなそうに聴いていて、いい音楽もなにもないだろう」という思いがすごくあったみたいです。ですから、他のジャズ・ミュージシャンの方々が難しい顔をして演奏していたときに、父は「お客さんに向かってスマイル、スマイル!」とメンバーに言っていたんです。『夢で逢いましょう』の中村八大さんがカメラに向いてピアノを弾くのは、シックスジョーズ時代に「八っちゃん、お客さんの方に向いてスマイルだよ」と、父がベースを弾きながら言っていたからなんだそうですよ。
−−中村八大さんの笑顔を見ると、こちらも楽しい気分になってきますよね。
渡辺:そうですね。父自身はとてもシャイな人で、決してサービス精神旺盛ではなかったんですが、不得意ながらもお客さんの前では必ずニッコリ笑って、「笑った方がいい音楽に聞こえるでしょう?」「その方が楽しくなるでしょう?」ということを伝えていた人なんです。ですから「音楽道」だけではなく、そこにエンターテイメントの要素を持ち込んだ人なんですね。
−−そうなるとクレイジーキャッツとの結びつきも、とても自然なものに感じられますね。
渡辺:そうですね。私の中にもジャンルがないんです。最近取材で「お笑いのタレントさんが多いですが、これからはお笑いだとお考えですか?」と聞かれることが多いんですが、全くお笑いをやっているという意識はなくて、その人の才能の有り様を私たちのサポートによって広げて、お客様に届くよう助けてあげようと思うと、その人の特性によって、結果俳優になったり、ミュージシャンになったり、お笑いになったりするだけなんですね。ですから、「お笑いをやろう!」と思ったこともないんです。
−−確かにクレイジーキャッツはお笑いもやり、音楽もやり、個々でシリアスな演技をしたりと、何十年も前からジャンルに縛られない活動を実践していらっしゃいますものね。
渡辺:あえて言うとしたら、父はその人自身がブランドで、その人自身がジャンルになるような人を育てたということだったのではないかと思います。私にとっても、それが目的・目標です。
−−ワタナベエンターテインメントカレッジもそういう考え方に基づいて開校されたんですか?
渡辺:ワタナベエンターテインメントカレッジを開校したのは、もっと幅広くアーティストの発掘・育成をしたいと思ったからです。本格的なオーディションも有効だとは思うんですが、10年20年この世界にいて、「いてくれてありがとう」とたくさんの人々に言ってもらえるようなアーティストを作れたら幸せだなと思うので、今輝いている人達とご縁を持つだけでなく、育成のメソッドも本格的に作っていきたいと思ったんですね。
−−だからこそライブハウス(表参道FAB)も自社でお持ちなわけですね。
渡辺:でも、この計画はまだ途中です。単体ではスタッフがしっかりやってくれていますが、構想としては優秀で力のある若者達が出てこれる一貫したシステムを整備したいと思っています。
6. 彼の仕事に感動した人が継承できる〜生き続ける渡辺 晋のメソッド
−−今の渡辺プロは、この20年間お仕事をされる中で考えていた理想の形に順調に向かっているとお考えですか?
渡辺:父が亡くなった前後はとにかく無我夢中で、自分に足りないものを得ようとしながらやってきた時期が長かったので、そういうことを考える余裕もありませんでした。でも、ワタナベエンターテインメントに現業部門を移管し、自分が作った音楽会社やモデルの会社も全部合併させて、一つの会社とした時点で、これからは誰かのために、または何かのためにやっていると思わない人生にしていこうと思い直しました。
それまでは「渡辺プロダクションのために」とか、「渡辺美佐に恥をかかせてはいけない」とか、そういう思いの方が強く、自分を犠牲にしてやってきたという気持ちがすごくありました。だから、これからは自分からすすんで全部背負っているという風に思わないと駄目だなと思ったんです。
−−晋社長が亡くなった当時、「渡辺プロもこれでおしまいなんじゃないか?」とか、「バラバラになってしまうんじゃないか?」とか、色々言われてもいましたよね。それを見事に乗り越えられて、今の時代に見合った新しい形に渡辺プロダクションを作り上げられたことは、天国のお父様にも誇れるんじゃないですか?
渡辺:いや、渡辺プロのブランドは偉大すぎて継げないですし、私はそんな器ではないと、渡辺プロに入ったときから今までずっと思ってきました。ただ「継げないんだから違うものを作るんだ」と腹をくくったのが5年前なんです。違うものを作る権利といいますか、違う人生を生きることは負けではないと、自分を許したんですね。
渡辺プロダクション、つまり渡辺 晋の意思の継承というのは、私もワン・オブ・ゼムとしてやっていきたいと思いますし、私以外の沢山の先輩方がなさっていらっしゃると思います。芸能ビジネスのすごさは、楽曲や映画のすごさと少し似ていて、楽曲で言えば、本当に価値を持つのは著作権印税が払われなくなるくらい時間が経っているのに、人々が歌っていることじゃないか?と思うんですね。誰が作ったのかわからなくなっても人を楽しませ、癒し、生活に必要なものとなっている状態は本当にすごいことだと思うんです。
父も母も業界のために、著作権や作り手・歌い手の権利を整備することに一生懸命取り組んで、そのことは本当にすごいんですが、その制度すら関係なくなってしまうのが、歌の本当の価値だと思います。渡辺 晋のメソッドの価値というのもそれと同じで、そこには税金もかからないですし、相続税を払う必要もなく、感動した人は誰でも継承できるんです。
−−無茶苦茶広い暖簾分けみたいなものですよね。
渡辺:そうです。タンポポの胞子がパッと飛んで、どこまで飛んでいったかは分からないけれど、それが新たな花を咲かせる…わたしたちのやっていることは、そういうものなんじゃないかなと思いますね。
−−しかも今はその新しいタンポポからまた胞子が飛んでいますよね。
渡辺:そこがすごいところで、この仕事の面白いところだと思います。ずっと生き続けるんですよね、時代に応じて形を変えつつも。
−−ワタナベエンターテイメントは今後どのようにエンターテイメント・ビジネスを展開していく予定ですか?
渡辺:芸能プロダクションという職種が、今まではアーティスト・プロデュースとコンテンツ・プロデュースという2本の柱でやってきたんですが、いいアーティストやいいコンテンツを作り続けるために、この二つ以外のことを勉強をしたり、アライアンスを組んで一緒に事業を展開しなくてはいけない時代に入ってきていると思います。また、メディアや流通など垣根がなくなってきていますので、誰がどういう目的でものを作りたいのかということをシンプルに見極めていくと、どうしても職種を広げざるを得なくなってくると思います。
−−音楽事業に関してはどうですか?
渡辺:昨年、より子とビアンコネロと甲斐名都という新人アーティスト達と仕事をし始めまして、基礎を構築する時期を終えたので、それぞれが次の段階に行ってくれればと考えています。
−−ミキさんは個々のアーティストとかなり深く関わり合う方なんですか?
渡辺:RAG FAIRはそうですね。ビアンコネロとより子は元ニッポン放送の編成部長で、アーティストを作る仕事をしたいということで弊社に来た吉田雄生さんがプロデューサーとしてやっています。私は今まで自分でプロデューサーをやるアーティストばかりでずっときているので、私以外の人もプロデューサーとしてヒットを作れる会社にしていきたいという構想を、吉田さんが入ってくれることによって叶えられるといいなと思っています。そして、私自身もアーティストとの新しい関わり方を作れたらと思っています。
−−そういった関わり方を作ると共に、ご自分の現場感覚も持ち続けていきたいとお思いですか?
渡辺:そうですね。私は「その人がどういうことに向いているか?」とか、「どういう人なのか?」を考えて、可能性を見出してあげることは多分向いているんですね。人のために何かをやっていくということに喜びを感じるタイプですので、そういう意味では立ち上げには向いている気がします。
逆に手掛けたアーティストがスターになって、お願いされるようになってからがしんどいんです(笑)。もちろん、お願いされてから力を発揮される方もいらっしゃると思うんですが、私は大変なんだけどゼロから作り上げていく方が好きかもしれません。
−−それこそが本当の意味でプロデューサーだと思います。
渡辺:ちゃんとコントロールしたり、交通整理しながらビジネスに上手く結びつけていくのが本当に下手です。ただそれですと社長としては駄目なので、自分の駄目な部分を早く見極めて、そういうところも代わりにやってくれる人を作らなくてはと思っています(笑)。
−−頂いたプロフィールにある役職だけでも、相当な数ですよね。プライベートな時間はあるんですか?
渡辺:渡辺プロに入る前から、この業界の片隅で少しでもお役に立てたらという願いがありましたので、そんなに苦じゃないです。また、同じ思いでおられる方々との出会いは喜びでもありますし、諸先輩方の考えや、すでに乗り越えられたハードルについてお話を伺うと楽しいですし、気分転換にもなりますので、プライベートのような感じにもなります。本当に好きなことをやらないと仕事は駄目だなと思いますね。仕事だと思ったらこんなにこなせません(笑)。
−−でも、昨年から続く50周年の記念事業を始め、様々なプロジェクトに関わられているので大変そうですね。
渡辺:『アウトオブオーダー』というエンターテイメント・ショーを2年前にやりまして、また来年やるんですが、そういったプロデュースからディレクションまで一貫して見る仕事を、常に最低一つは抱えている状態で。そういうプロジェクトが一番時間がかかりますね。
映画『プラトニック・セックス』のプロデュースをした5年前から、自分のスケジュールに合わせることができない、現場におけるもの作りの仕事が必ず一つあるという状況になっています。そういった仕事を通じて勉強をしながら、作りたかったものや「こう作るべきだろう」と思っていたものに自分も参加させて頂くことが増えているので、嬉しいです。「ルーティンワークだけならもっと素早くできるのに…」とも思いますが、そういった仕事を通して自分が活性化される部分もありますから、一概に大変なだけではないです。
またプロジェクトで言えば近いところでは「渡辺 晋賞」の授賞式がございます。これも3年前から構想していたものなんですが、弊社の財団法人 渡辺音楽文化フォーラムが一年に一回エンターテイメント全般のプロデューサーを対象とした賞を作ることに致しまして、その第一回目を父の誕生日である3月2日に実施致します。 (編集部注:第1回「渡辺晋賞」のニュースへのリンクはこちら)
−−「渡辺 晋賞」は何部門あるんですか?
渡辺:オールジャンルを対象に一部門のみです。エンターテイメントの新しい側面を表現されたプロデューサーを1年にお一人選びます。ですから「渡辺 晋賞」は功労賞ではないです。この賞も50周年の記念事業の一環なのですが、その他に渡辺 晋の一生といいますか、ビジネス書の側面もある伝記を作りまして、3月末に発行する予定です。
−−それは素晴らしいですね。ぜひ読ませて頂きます。
渡辺:この本が「Musicman-NET」をご覧になっている、渡辺 晋の明日の後輩となられるような若い方々の何か参考になればと思っておりますし、そういうつもりで私はこの本を作りましたので、ぜひ多くの方に読んで頂きたいですね。
−−本日はお忙しい中ありがとうございました。ワタナベエンターテインメントの益々のご発展をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
お父様である渡辺 晋氏を失い、バランスを欠いた渡辺プロダクションを見事に蘇らせた渡辺ミキさん。常に明るく、笑いを絶やさない気さくなお人柄の中にも、確固たる信念と数々の苦労を乗り越えた力強さを感じました。その軸にあるのは脈々と引き継がれる「ナベプロ・スピリット」と、エンターテイメントの世界に対する飽くなき情熱です。何度も口にされる「ものづくり」という言葉と、「お客様ありき」の考え方にそれは強く現れています。今後、ワタナベエンターテインメントがどんなものをクリエイトしていくのか本当に楽しみです。
さて次回は、ニッポン放送で手掛けられたラジオ番組で数々の賞を受賞され、現在はアーティスト・プロデュースに力を注がれている株式会社ワタナベエンターテインメント 取締役制作本部・音楽事業本部長 吉田雄生氏です。お楽しみに!