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第56回 吉田雄生 氏 (株)ワタナベエンターテインメント 取締役制作本部・音楽事業本部長

インタビュー リレーインタビュー

吉田雄生 氏
吉田雄生 氏

(株)ワタナベエンターテインメント 取締役制作本部・音楽事業本部長
(株)プレミアミッション・ジャパン 代表取締役社長

今回の「Musicman’s リレー」は、(株)ワタナベエンターテイメント 代表取締役社長 渡辺ミキさんからのご紹介で、同社 取締役制作本部・音楽事業本部長 吉田雄生さんのご登場です。ニッポン放送時代には制作されたラジオ番組で数々の賞を受賞され、Jリーグ設立の際に企画した『oleole〜we are the champ』はミリオンセラーを記録します。また、新人アーティストの発掘・育成にも積極的に携わり、現在はワタナベエンターテイメントにてアーティストのプロデュースに邁進する吉田さん。そのクリエイティブな感性は高校時代に培われたものでした。

 

プロフィール
吉田雄生(よしだ・たかお)
(株)ワタナベエンターテインメント 取締役制作本部・音楽事業本部長
(株)プレミアミッション・ジャパン 代表取締役社長


1962年生まれ。横浜国立大学経済学部卒。
1989年株式会社ニッポン放送入社。日本のプロサッカーリーグ=Jリーグ設立に携わり、1993年自ら企画した「oleole〜 we are the champ」がミリオンセラーを記録。ラジオ番組では「有森裕子アトランタ42.195キロ」、「倉本聡・ニングル」などで放送文化基金、民間放送連盟賞など数々の賞を受賞。1997年編成副部長、2000年編成部長、2001年制作部長を歴任。新人のアーティスト、パーソナリティの発掘に力を注ぎ、オールナイトニッポン、ミュージックソンのプロデュースのみならず、横浜アリーナでのイベント、オールナイトニッポンレコードのプロデュースなども手がけた。
2004年2月株式会社プレミアミッションジャパンを設立。代表取締役社長。
同年4月株式会社ワタナベエンターテインメント取締役制作本部・音楽事業本部長に就任し、RAGFAIR、INSPi、より子、ビアンコネロ、甲斐名都など手がけている。

 

    1. 全ての基盤は都立西高にあり
    2. 想定外の留年からニッポン放送入社
    3. サッカーのテーマソングを作ろう!〜『oleole〜we are the champ』の大ヒット話
    4. いかに面白い話題を持ってくるかの競い合い
    5. 今度は作る方に回りたい〜エイベックス 松浦氏との出会い
    6. 今は音楽が楽しくて仕方ない〜アーティスト達との二人三脚

 

1. 全ての基盤は都立西高にあり

−−前回ご登場頂いた渡辺ミキさんとは、いつ頃お知り合いになったんですか?

吉田:ミキさんとは僕がニッポン放送の編成副部長をやっていた10年前に、ディスクガレージの中西さんに紹介されて、初めてお会いしました。その頃、ミキさんは渡辺プロの副社長をされていて、ネプチューンを売り込みに来たんですが、僕はデビューしたてのトライセラトップスがすごくいいなと思っていたので、「よかったらトライセラでオールナイトニッポンをやりませんか?」とお話したら、「ニッポン放送はどちらかというとネプチューンなんじゃないですか!?」と(笑)。そんな出会いでした。音楽を基調にしつつ、お笑いやバラエティーと色々やるところが、渡辺プロもニッポン放送も似ていたので、親しくさせて頂くようになりました。

−−つまりネプチューンを売り込みにきたプロダクションの副社長と、放送局の編成副部長がトライセラトップスというアーティストで結びついたと。

吉田雄生2

吉田:「トライセラって良いですね!」といったら、ミキさんは驚いていましたからね(笑)。僕は今も昔も、若い人達を世に出すことにすごく興味があります。また、新しい才能を見つけることはラジオの使命だと思っていましたし、そこに喜びを感じていたんです。それが高じて、もっと根元的なマネージメントやプロデュースというところに辿り着いたのかなと思いますね。

−−だからワタナベエンターテインメントで、実際にアーティストのプロデュースを手掛けられるようになったんですね。

吉田:そうです。ニッポン放送を辞めた時期に、やりたい新人アーティストが3人ほどいましたので、その3人を預かって頂く形で、ワタナベエンターテインメントの音楽事業本部自体を僕が見ることになりました。結果的にはRAG FAIR、INSPiに、僕が連れてきた より子、ビアンコネロ、甲斐名都、それとRAG FAIRの土屋礼央がやっているズボンドズボンという計6アーティストを今見ている状態です。僕としては「マネージメントまでできるかな?」と思っていたんですが、ミキさんと組めば色々教えて頂きながらできるかなと思って。

−−では、ミキさんとは社長とその部下という関係ではなく、パートナーに近いんですか?

吉田:気持ち的にはそうですね。ミキさんを社長としても、プロデューサーとしてもすごく尊敬していますし、ミキさんも僕のことを尊重してくれますので、良い関係が築けていると思います。ワタナベエンターテインメントはここまで渡辺ミキプロデュース作品でやってきたと思うんですが、渡辺ミキプロデュース作品じゃないものでヒットを生んで欲しいというのが、彼女が僕と組んだ最大の理由じゃないかなと思っています。

−−新しい血の導入ですね。

吉田:そうですね。その責任をすごく感じていますし、僕も2年かかろうが3年かかろうが、ヒットを生みたいなと思っています。

−−ここからは吉田さんご自身のお話をお伺いしたいと思います。ご出身は東京ですか?

吉田:生まれは山梨なんですが、2歳の時から東京でしたので、ほぼ東京っ子です。学校はそれこそずっと公立で、高校は都立西高だったんですが、西高というのが僕にとっては大きな転機になりました。

−−都立西高はどんな学校だったんですか?

吉田:西高は非常に自由でクリエイティブな学校で、とにかく行事が多いんですね。1ヶ月くらいスポーツ大会をやっていたり、僕は記念祭で上映するコメディ映画を撮っていたんですが、それも1年がかりで撮影していました。今で言うと『電波少年』みたいなことをやる「浪漫クラブ」という映画クラブが十何代続いていまして、本当に酷いことをやっていたんですよ(笑)。

−−そのクラブではどのようなことをされていたんですか?

吉田:例えば、成田空港ができたときだったので、各国の国旗をパンツに付けて、空港内をパンツ一丁で行進をして、捕まるところを隠し撮りしたり、中国大使館の前で麻雀とか、後輩に鯉のペインティングをさせて皇居のお堀に飛び込ませて、ポップコーンを投げ入れたり…(笑)。すごく危ないことをしていたんですよ。もう何回も補導されました(笑)。

−−すごい伝統ですね!(笑)

吉田:補導されて「今日は学校がない」と言うと、警察から学校に電話がいくじゃないですか? でも先生も分かっていて、本当は休みじゃないんですけど、「休みです」と警察に言ってくれたんです(笑)。

−−本当に自由な校風ですね(笑)。

吉田:でも、頭のいい人は滅茶苦茶頭がよかったので、入学した瞬間に「勉強じゃ、絶対にこいつらに負ける」と思いました。ですから、「別のことで生きていこう」と思って(笑)、映画を作ったり、音楽をやったりするのが好きだったので、「エンターテイメント方面だな」と思ったんですね。今の基盤は全て西高にありますね。「いつに戻りたいか?」と考えたら、僕は高校ですね。

 

2. 想定外の留年からニッポン放送入社

−−大学はどちらへ進まれたんですか?

吉田:横浜国立大学です。うちは父親が銀行員で、その父親から「経済学部に行っておけ。文学部はやめろ」と言われまして(笑)、経済学部に入りました。

−−その後、就職活動をされてニッポン放送に入られたんですね。

吉田:いや、実は博報堂から内定を貰っていて、研修まで参加したんですが、学校の単位が2つだけ足りなくて、その年は卒業できなかったんです(笑)。

−−それで1年ブランクがあるんですね。

吉田:そうなんです。それで2年目はずっと就職活動をするのも嫌だったので、マスコミの中で一番最初に決まったところにしようと思っていて、ニッポン放送から最初に内定が出たので、ニッポン放送に入りました。

−−就職にはさほど苦労されなかったんですか?

吉田:どちらかというと楽しんで就職活動していましたね。面接するときも、「面接官はどういう人なのかな?」という感じで。ニッポン放送の面接ですごく印象に残っているのは、鹿内春雄さんですね。あの人のオーラはすごかったです。質問をしてくるのは別の人なんですが、「この人を口説けば入れる」と一瞬にして思いました。

−−それは実質的な会社のオーナーだからそう見えたわけではないですよね。

吉田:不謹慎なことに、僕は鹿内春雄さんという人をあまりよく知りませんでした。実はそれまでニッポン放送に全然興味がなくて、前年は受けてもいないんですよ。留年したので、「入社試験が早いところはないかな?」と探していたら、「ニッポン放送 ディレクター募集」と書いてあったので、「これにしよう」と軽い気持ちで受けたんです。ですから鹿内春雄さんのことは、試験後に色々調べて「この人はすごい人なんだな」と分かりました。今でもあのオーラはすごかったなと思いますし、是非一緒に仕事をしたかったですね。

−−ちなみにご兄弟は皆さん普通のご職業に就かれているんですか?

吉田:いや、そうでもないんですよ(笑)。父親は銀行員ですが。僕の祖父がとても変わった文化人みたいな人だったんです。若い頃は非常に優秀な人で、東大を出て青年将校になり、戦争が終わったら弾けてしまったらしく(笑)、40才くらいから詩作を始めて、僕が子供の頃には何もしていなかったですね。一日中、新聞と本とテレビを見て、いきなり議論をふっかけるみたいな感じでした(笑)。

−−ちょっと変わったお祖父様ですね(笑)。

吉田:缶ピースを見て「今日はどれがのまれたがっているかな?」なんてことを言うような人でした(笑)。

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−−すごいですね(笑)。お祖父様はどうやって生計を立てていたんですか?

吉田:本当に何もしてなかったですからね。それで父親は苦学生だったので、お金に困らないように銀行へ入ったんです。父親としては子供達にそういう苦労を味あわせたくないから、とにかくやくざな道に進まないように、「経済学部に行っておけ」と言ったんですが、僕はやくざな道に入ってしまったと(笑)。姉も親のコネで入った証券会社を2年で辞めて、「シナリオを書きたい」と、親から勘当同然で富良野塾へ行っちゃいました。

−−倉本 聰さんの『富良野塾』ですか。

吉田:そうです。実は中学の時から「東芝日曜劇場」をいつも見てて、「このドラマ面白いな。誰が書いているんだろう?」と思って、テロップを見ると必ず「倉本 聰」と出てくるわけです。それで僕は倉本さんの本を片っ端から借りて、姉にも紹介したら姉もハマってしまったんです。

−−つまり、お姉さんの富良野塾行きのきっかけは吉田さんだったんですね(笑)。

吉田:そうですね(笑)。その後、僕も姉を通じて倉本さんとは親しくさせて頂きました。倉本さんはニッポン放送出身で、僕がニッポン放送に内定したときに、もう大学は2単位取ればいいだけでしたから、倉本さんに「君も富良野に来れば?」と言われて、僕も富良野に行っていたんです。それでシナリオの書き方を聴講生で勉強したりしました。

 ニッポン放送に入ってからも、倉本さんにラジオドラマを書いて頂いたり、一緒に番組を4、5本作りました。面白い話なんですが、倉本さんがニッポン放送にいたときは、羽佐間重彰さんのAPだったんです。それで、そのAPの下にアルバイトがいて、それが亀渕昭信さんだったと(笑)。また、倉本さんの同期が元社長の川内通康さんだったりして、そういう人脈も後々わかりました。ちなみに僕はコネなし入社なんですが、入社してからは倉本さんのおかげで割と得しましたね。

−−そのお姉さんは現在、脚本家をされているんですか?

吉田:吉田紀子と言いまして、今は売れっ子の脚本家で、『Dr.コトー診療所』の脚本とかを書いています。

−−そうなんですか。でも、せっかくお父様が頑張られたのに、お祖父様のDNAを変えることはできなかったんですね…。

吉田:どこかで祖父の血があるんでしょうね。多分、父親もそれは感じていたんじゃないかなと思いますし、父親も実はそうしたかったんだろうと思います。だから、姉が脚本家になったり、僕がニッポン放送に入ってからは、逆にすごく応援してくれました。

 

3. サッカーのテーマソングを作ろう!〜『oleole〜we are the champ』の大ヒット話

−−ニッポン放送に入られて、最初はどこに配属されたんですか?

吉田:僕は制作に行きたかったのですが、スポーツ部へ配属されてしまって、騙されたような気分で野球のディレクターになりました(笑)。

−−『ショウアップナイター』ですね。

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吉田:そうです。そこで深澤 弘さんというすごいアナウンサーに出会いました。大変厳しい方で、放送マンとしてのイロハを叩き込まれました。深澤さんはとにかく細かい人で、朝出社すると色々な人を呼び出してダメ出しをいっぱいされるんですが、初めは声すらかけてくれませんでした。それで「声をかけられ始めたな」と思ったら、今度はダメ出ししかされないわけです。なので、「この人を何とかギャフンと言わせたい!」という思いがすごくあったんですが、まだ周りがよく分からないので、1年目はおとなしくしていました(笑)。

 当時のスポーツ部のディレクターは昼近くに出社して、ミーティングして、球場に行って、番組のディレクションをして、また昼出社するみたいな人達が多かったので、シーズンオフになると本当に暇で、みんな麻雀とかやっていたんです。それで仕事はどんどん下に振られるんですが、ある時「ドキュメンタリーを作れ」と言われまして、「ドキュメンタリーとか得意だ。しめしめ…」と思い、わざわざ台湾へ取材しに行って、当時ジャイアンツにいた呂 明賜(ろめいし)という台湾出身の選手を題材にドキュメンタリーを一本作ったんです。それを聴いたリスナーや社内の人達やアナウンサーが、「面白い」と評価してくれたのがすごく自信になって、「2年目は少し攻めようかな?」と思いました(笑)。

−−なるほど(笑)。

吉田:それで「ショウアップナイター」を見たときに、テーマソングが古色蒼然としたマーチだったので、先輩のディレクターに「もっとビートがきいた、今っぽいテーマに変えないとまずいですよ」と言って、次のシーズンになるときに、ジングルからテーマから全部勝手に変えてしまったんです。

 そうしたら深澤さんに「”ショウアップナイター”の伝統を何だと思っているんだ!」とすごく怒られまして…(笑)。そこで「前のテーマソングは古いと思いません?」と反論したら、「リスナーというものを考えろ」と言われました。つまり、「野球のリスナーは、どの年代だ」と。そんなことは考えたこともなかったので(笑)、「確かにそうだ」と思い直しまして、深澤さんに音を聞いてもらいながらダメ出しをしてもらったら、驚いたことに深澤さんはジャズに大変造詣が深く、「ここにブラスを入れろ」とか「ここのビートは強すぎるから抑えめに」とか、色々アドバイスしてくれたんです。そこで「この人は話せる人なんだな」とわかりましたね。それでテーマを一新して、楠瀬誠志郎さんにジングルを作ってもらったら、また深澤さんに怒られまして…(笑)。

−−それはなぜですか?(笑)

吉田:「ジングルに”ニッポン放送”って名前がどこにも入ってないじゃないか!」と言われて(笑)、楠瀬さんにもう一度お願いして、ジングルを作り直しました(笑)。そうやって、会社の中で自分のテリトリーを少しずつ作っていって、最終的には深澤さんに一番可愛がられたと思います。

 結局2、3年野球番組をやったんですが、先ほどもお話したようにシーズンオフは本当にやることがないので、誰でもやっていい枠を使って、ドキュメンタリーやドラマをたくさん作りました。

−−そういった作品で賞をお獲りになったんですか?

吉田: そうですね、幸運にも賞を結構いただけたんです。その後、当時スポーツ部内にサッカー担当がいなかったので、「サッカーが大好きなので、やらせてください」と申し出たら、軽くOKが出て、サッカーを担当するようになったんですよ(笑)。

 それでサッカー担当になったんですが、暇なので、毎朝出社する前に日本サッカーリーグへお茶を飲みに行っていたんです。当時総務主事が川淵三郎さんで、副総務主事が木之本興三さんだったんですが、「サッカーのプロ・リーグを作るんだよ」とおっしゃるので、「いいですねー。でも今500人くらいしか客が入らないんだから、難しいんじゃないですか?」と言ったんですよね(笑)。でも「今野球人気が下降気味だから、サッカーはもっと地域密着で盛り上げるんだ」とおっしゃるんで、これは本当に面白そうだなと思って、当時のスポーツ部長や編成局長に「サッカーはプロをやるらしいんですけど、ニッポン放送は早めに噛んでおいたらどうですか?」と、協会の方々に会わせたり、試合を観に連れていったりしました。

−−まだ、どうなるか分からないJリーグにいち早く着目したわけですね。

吉田:当時日本サッカーリーグに関わっていたのは、主に博報堂とニッポン放送だけだったんですね。つまり立ち上げの初期段階から関われたので、非常に大きなアドバンテージを持てたんです。だから、Jリーグの開幕イベントもニッポン放送がやりました。その時に野球になくて、サッカーにあるものは歌だと。各チームの応援ソングや代表の応援ソングを仕掛けていったら、若い人に受け入れられるような新しい世界が作れるんじゃないかな? と考えていました。

 当時、音楽に関してはソニーがJリーグの独占権を持っていて、ポニーキャニオンは後発でした。そのポニーキャニオンの方から相談を受けたときに、ふと’92年のヨーロッパ選手権のハーフタイムで流れていた曲が、非常に面白かったことを思い出しまして、「これをカバーしようよ!」と提案したのが、『oleole〜we are the champ』なんです。

−−あの曲をやろうと言いだしたのは吉田さんなんですか!

吉田:そうです。プロジェクトメンバーを作って、この曲をテーマソングにして売っていこうと。そこでプロモーションのやり方や、イベントのやり方を学びましたし、ニッポン放送がどうとか、ラジオがどうとかを無視した動きをかなりしていました(笑)。

−−でも、すごく楽しかったでしょうね。

吉田:本当に楽しかったですね。一夜にして変わっていく感じがあったんですよね。ニッポン放送社内でも「Jリーグなんて、何やってるんだか…」という冷たい視線から、急にスター扱いされるというか(笑)。曲もミリオンセラーになりましたしね。

−−『oleole〜we are the champ』はミリオンだったんですか…。

吉田:気持ち的には廊下の端っこを歩いていたのが、突然社内でもみんな知っているみたいな雰囲気になって、楽しい絶頂の時に編成へ異動になっちゃうんですよ…(苦笑)。そこからはずっと編成・制作でした。

 

4. いかに面白い話題を持ってくるかの競い合い

−−でも、吉田さんのことですから、編成では編成なりに面白いことを見つけていくんでしょう?

吉田:特番の仕掛けとか、編成は編成で面白かったですね。例えば、矢沢永吉さんがウエンブリーでライブをやるということで、「ウエンブリーから生放送しましょう」と提案して、ライブが終わった後にホテルで『矢沢永吉トークレディオ from London』という番組をやったんです。矢沢さんが一人でリスナーに語りかけるスタイルの番組ですが、放送の前日に「俺は赤坂(泰彦)じゃないんだから、誰か聞き手がいなかったらできない。辞める!」と言い出したんです(笑)。結果的にお一人でしゃべっていただき、素晴らしい番組になりまして、賞もいただきました。

 また、あるスポーツ選手が日記を書くみたいにテープに気持ちを吹き込んでくれたら、何か面白いものができるんじゃないか? とずっと考えていて、それで有森裕子さんがアトランタ・オリンピックに出場したときに、1年間密着したんです。

−−何故そのようなアイデアが浮かんだんですか?

吉田:サッカー担当をやっていたときに、まだJリーグに上がっていなくて、注目されていなかった中山雅史の喋りがあまりに面白いので、ほとんどレギュラーみたいに使っていたんです。それで中山に「合宿所の各部屋に行って、インタビューしてきてくれ」とカセットを渡してたんです。

 そうしたら中山が「(ヒソヒソ声で)今からカズさんの部屋に行ってみたいと思います」、「おっと、テレビゲームをやってますね!」、「サッカーゲーム、どっちが勝ってますか?」みたいなインタビューをとってきて(笑)、これは面白いなと思っていたんです。でも、無許可でやっていたので、当然サッカー協会には怒られるんですけどね(笑)。

−−それは中山さんらしいインタビューですね(笑)。

吉田:「これはヒントになるな」と思って、有森さんに「日記を書くかわりに、テープレコーダーを持ってずっと喋ってください」とお願いしたら、「それはちょっと負担だ」と言われたんですね。そこで「留守電にメッセージを入れるというのはどうですか?」と提案したら、それならいいと。それでアトランタに行くまでの1年間有森さん専用の電話を設置して、「今日はこんな練習だった」とか、「今日の朝日は綺麗で…」とかメッセージを入れてくれたんです。その膨大な留守電テープとレースの実況と、オリンピックが終わった後にもう一回インタビューを採ったものを全部組み合わせて、レースタイムと同じ2時間半のドキュメンタリーを作ったんです。

−−それはいい番組になったでしょうね!

吉田:自分で言うのも何ですが、本当にいい番組でした(笑)。

−−やはり吉田さんは冴えてますね! 素晴らしいです。

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吉田:いやいや(笑)。そういう特番を色々とやっていたんですが、実は音楽業界とは深い繋がりもなくて、繋がりができたのが編成副部長の時なんです。

−−何か音楽業界と繋がるきっかけがあったんですか?

吉田:その当時、全盛期と較べて「オールナイトニッポン」がつまらなくなっていたので、プロジェクトチームを作りまして、色々なことを仕掛けていったんですが、その中で色々な人と出会っていったのが、音楽業界と深く繋がる非常に大きなポイントだったと思います。

−−「オールナイトニッポン」の何が問題だったんですか?

吉田:当時の「オールナイトニッポン」はトーク中心で、音楽の比重が少なかったのです。つまり音楽をヒットさせるとか、音楽業界と一緒に上がっていくとか、そういうことがなかったので、ゆずをやったり、浜崎あゆみをやったり、「これはいいな」と思うアーティストがいたら、一緒に仕掛けていきました。例えば、コブクロの時は「彼らの歌と喋りはすごい!」と思って、コンベンションで「レギュラーやろう!」と言ったりですとか、非常に独断的にやっていった時期なんです(笑)。

 なぜそういったことをやったかというと、「オールナイトニッポン」には第2部があったので、そういう人達を実験的に使って、上に上げていこうとしていたんですね。それが高じて、「オールナイトニッポン」のイベントをやったり、「オールナイトニッポンレコード(LF+R RECORD)」というレーベルを作って、インディーズのアーティストを応援しようとか、そういうことをやり始めて、その第一期生に森山直太朗がいたんです。

−−森山直太朗さんはそこから出てきたんですか!?

吉田:そうです。直太朗はデモテープから聴いています。森山良子さんのこともよく存じ上げているんですが、ある時、良子さんに呼び出されて、「うちの息子は本当に売れるんでしょうか?」と相談されたので(笑)、「大丈夫ですよ! あんなに素晴らしい声を持っている人はいないんですから、売れないわけがないですよ」と言ったんです。やはり彼の魅力はあの声ですからね。

−−一放送局の社員がそういったことができる雰囲気はあったんですか?

吉田:それはありました。むしろ「ラジオのことだけ考えるな」と言われていました。だから、いかに面白い話題を持ってくるか競い合いの時期だったんですね。

 これは副部長になる前の話なんですが、アミューズの大里会長とニッポン放送の宮本常務とホリプロの小田社長が、3人でご飯を食べているときに、「最近つまらないから、若手に何かやらそう」と話し合って、「アミューズの”ア”と、ホリプロの”ホ”と、ニッポン放送の”ポン”で、”アホポン・プロジェクト”だ!」と盛り上がったらしく、今のホリプロ社長の堀義貴さんと僕とアミューズの人間の3人が集められたんですが、その時点では何にも決まってないんですよ(笑)。

−−何をやれとも言われていない(笑)。

吉田:それで「オーディションをやれ! ただし予算はない!」という話になって(笑)、「誰でも気軽にオーディションができる”オーディションマシーン”があったら面白い」と、プリクラの形をしたオーディションマシーンを作ったんです。

−−ありましたね! あれですか!

吉田:「300円でスターになれる!」というコンセプトで、ナムコと組んで、ナムコ・ワンダーエッグで毎日オーディション・イベントをやって、部屋の中は応募用紙で一杯になっていました。その第1回目のグランプリが妻夫木 聡君だったんです。

−−そうだったんですか!? 知りませんでした。

吉田:あと、市川由衣さんもこのオーディションの準グランプリだったと思います。

−−あの企画から結構デビューしているんですね。

吉田:そうなんですよ。お金も儲かりましたし、もっと褒められてもいいと思うんですけどね(笑)。

 

5. 今度は作る方に回りたい〜エイベックス 松浦氏との出会い

−−ここまでお話を伺ってきますと、ニッポン放送時代はまさに都立西高時代の延長みたいな感じですね。

吉田:そうですね。面白いことをすれば何か出てくるんじゃないか? みたいな感じですね。でも、会社に守られていた部分もたくさんあったんだなと今は思います。

−−吉田さんをよく知る方々にお話を伺うと、「吉田さんは出世頭で、間違いなく社長になると言われていた」と皆さんおっしゃります。

吉田:確かに出世は早かったんですよ。でも、それは僕個人の能力というより、当時のニッポン放送が持っていた「若い人をどんどん起用していこう」という気運によるものだと思います。ですから、非常に居心地がよかったですし、色々やんちゃをやらせて頂きました。

−−では、なぜニッポン放送を辞められたんですか?

吉田雄生7

吉田:なぜですかね(笑)。もっともっと自由に面白いことをやりたい、と思ったからかな。

−−その当時のニッポン放送より面白いことが、吉田さんにとってはアーティストのプロデュースだったんですね。

吉田:そうですね。今に繋がる出会いと言えば、ミキさんとの出会いもそうなんですが、僕の中で一番面白かったのは、エイベックスの松浦さんとの出会いなんです。

 初めてお会いしたとき、松浦さんは浜崎あゆみを一生懸命売り出そうとしている時期でした。しかし、なかなか思うようにいかない。あげくに「あゆはバカ?」みたいな記事も出ていました。松浦さんは「テレビは何かを切り取るから本質がなかなか伝えられないけど、ラジオで2時間あったら彼女の本質は伝えられるんじゃないか?」と、ラジオと組みたいと言われたんですね。その時に「詞を読んでください」と言われて、読んでみたらすごくいい詞だったので、「これは全部本人が書いているんですか?」と聞いたら、「全部本人だし、直してもいない」とおっしゃるんですよ。

−−浜崎さんの詞のどこがいいと感じられたんですか?

吉田:何より一番いいなと思ったのは、タイトル以外は全て日本語で書かれていたことで、「これはたいしたもんだな」と思いました。そうしたら松浦さんが「でしょう? 浜崎はバカじゃないんだよ」とおっしゃったので、そのセリフはいいなと思い、オールナイトニッポンで『浜崎あゆみはバカじゃない』という番組をやろうと思いました。

 その後何度も打ち合わせをして、あゆにインタビューもして、エイベックスは「オールナイトニッポン」のスポットまで打ったんですが、そのスポットでは秋元康さんに「私は浜崎あゆみはバカじゃないと思います」と言ってもらいました。

−−そのスポットは憶えています。

吉田:その時に彼女には内緒で、彼女の生い立ちについて取材したものを、作家に5分から7分くらいにまとめてもらって、物語を作ったんです。それを本人に内緒で放送したら、本人が号泣しまして、それからFAXが生き物のようにリスナーからのメッセージを受信しだしたんです。その瞬間に「これは来たな!」と思いました。

−−すぐにセールスにも現れたんですか?

吉田:その放送の翌日にCDの売上がそれまでの倍になりました。僕はこれが媒体としての醍醐味だと思いますし、このことで松浦さんとの関係性もできたと思っています。その時に、今までやって成功させてきたことは、自分は第三者として立ち会ってきたものばかりなので、「今度は作る方に回りたいな」と思ったんですよね(笑)。

−−松浦さんになっちゃった方が早いやと。

吉田:いや、そんな恐れ多いことは考えていないです(笑)。今僕はゼロからやっていますから、そんな気持ちは全くないですし、易々と松浦さんのようにはなれませんからね。

−−その一環として(株)プレミアミッションジャパンを作られたんですか?

吉田:いや、(株)プレミアミッションジャパンはディスクガレージの中西さんと作った会社で、この「Musicman’sリレー」で中西さんもお話されていたサッカーの仕事を一緒にやっている会社で、海外のエンターテイメントやサッカーを輸入したり輸出したりしています。会社名の通り、「プレミアなコンテンツをミッションする」ことを目指した会社なんですね。

 例えば、我々からしたらスペイン・リーグのバルセロナと仕事できるなんて、思ってもみなかったんですね。ところが実際にチャレンジしてみると、関係さえ築ければ、ただ輸入するだけじゃなくてコラボレーションできるんだと、この2年で感じています。だから今は、なるべく手の届かないと思っていたようなコンテンツをやりたいなと思っているんですよね(笑)。

−−人間と人間が仕事をするわけだから、そこには会社の規模や資本は全く関係なくて、大切なのは信用だと、中西さんも仰っていました。

吉田:そうですね。外国人に「お前の会社の売上はどれくらいだ?」なんて聞かれたことがないですものね。これが日本だと「会社案内を見せて頂けますか?」とか、必ず言われます。外国人は成功したら信用する、失敗したら次へ行くくらいの感じですが、そこはしたたかにリスクヘッジをやっていると思いますし、彼らみたいにクリエイティブな部分とビジネス的な部分をちゃんと使い分けることが自分もできればいいなと思いますね。

 

6. 今は音楽が楽しくて仕方ない〜アーティスト達との二人三脚

−−吉田さんが連れてこられたビアンコネロ、より子、甲斐名都との出会いは?

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吉田:ビアンコネロは九州に観に来ないかと誘われて、ライブを観た瞬間「これは面白い。こいつらは売れる」と思いました。今ユニバーサルでやっているんですが、そろそろ勝負できる感じになってきています。より子は森山直太朗と同じで「オールナイトニッポンレコード(LF+R)」の第一期生で、その時から一緒にやっています。

 甲斐名都はちょうど二年前にライブを観たときに、その声の綺麗さにまず驚いたんですが、音が彼女の質と合っていなかったので、ゼロから始められるかを本人と話し合って、一緒にやるようになりました。彼女はそれまで作詞・作曲をしたことがなかったんですが、ソングライティングについて全部教えて、2年暖めて、今年いよいよデビューさせようと思っています。

−−金の卵を一杯抱えられているわけですね。

吉田:でも、まだ卵なんですよね。それをどう孵化させるかということです。

−−アーティストに対してはどのようなアドバイスをされているんですか?

吉田:もちろん一人ずつ違います。RAG FAIRには、「自分たちの乗っているこの船はこれからどこに行くんだろう?と考える時期が来ていることに、君らは気付いていない」と。

 例えば、他の人は自分の意志で船に乗っているわけです。そして、一生懸命漕いでるうちに腕の力が付いてきて、ちゃんと漕げるようになり、「この船じゃ物足りないから、もう少し大きい船に乗ろう」と考えるけれど、RAG FAIRには、その感覚がないんですね。ですから「今後どこに行きたいのか?」を全員に聞いて、もちろん6人いますから答えはバラバラなんですが、その中でどこに向かうのか旗印を立てるのが、僕の役目でしょうし、「ここに行くんだ!」と言ったときに6人が納得するようなところまで話し込む必要があります。

−−なかなか根気のいる作業ですね。

吉田:RAG FAIRが出てきたときは、ヴォイス・パフォーマンスに対して「声だけでやっているなんてすごいね」と言ってくれたけれど、新鮮度はどんどん落ちてきて、次の新鮮な人を求めていくわけです。ですから、自分たちが同じことをやっていたんでは、あとから出てくる人に負けるのは当たり前なんです。「自分たちはどこへ行きたいのか?」、「どういうところで成功したいのか?」、そのイメージを持って船を進めていかないと、やはり宝の島には辿り着けないです。いつまでも「誰かがこの船を進めてくれる」と思っていたら、そこへは辿り着けないぞと言っています。

−−大変厳しいアドバイスですね…。

吉田:でも、そういう風にすると変わりますよね。RAG FAIRは、去年、武道館公演を初めてやったんですが、声だけで30分間ノンストップのパフォーマンスをしたんです。これは大変なことで、アスリートみたいなものなんですね。そのDVDを作ったときに感じたんですが、やはりその汗が一番カッコイイし、一番素敵に見えるわけです。彼らはテレビから出てきましたから、何となく「チャラくて、汗をかいていない人」に見えるんですが、その汗を見せていくことによって、男っぽく見えてくるでしょうし、彼らももう20代後半なので、内面からの変化を一緒に作っているところです。  もちろん、彼らは渡辺ミキさんが作ったアーティストですから、彼女ともコンセプト的なことはしっかり話し合っていますし、その上で音作りも含めて、まかせてもらっています。

−−対して、吉田さんご自身が連れてこられたアーティストにはどのようなアドバイスをされているんですか?

吉田:例えば、より子というアーティストは、とても才能のある素晴らしいアーティストなんですが、作ってくる曲のレベルが高すぎるんです。スキルが上がるごとに曲が難しくなっていくと言いますか、同年代が共感するにはちょっと難しい感じなので、「どうやって繋ぐ曲を作るか?」が大切になっていくと思っています。

 僕と一緒にやることになったときは、詞を直されたり、曲を直されたりして、「自分は何のために曲を作っているのかわからない」と落ち込んでいた時期で、この1年間はその落ち込んでいた時期からのリハビリだったんです。それで昨年『COCOON』というアルバムを作って、4万枚くらい売れたんですが、この時はおっかなびっくりで、まだ本当の自分じゃなかったんですね。そして今年『second VERSE』というアルバムを出したんですが、そこではずいぶん自分が出せて、伸び伸びとしたクオリティの高い作品になりました。今度は、彼女の書く曲とリスナーの落差を埋めるための「通訳する曲」が必要だよねということを、ようやく話せる時期に来たんです。

−−本当に一歩一歩階段を昇る感じですね。

吉田:いきなり「同年代が共感するような”繋ぐ曲”を書こう」と言うと、彼女は拒絶反応を起こしてしまいます。「私は音楽ビジネスに滅茶苦茶にされている」みたいな感じだったので…。でも、「そうじゃないんだ」ということを一つずつ教えてきて、やっとこの段階で理解をしてきたわけです。では、何でそこまでやるのか?と言われれば、やはり彼女の才能を信じているからなんですよね。

 逆に甲斐名都はユーザーとの距離感や自分の音楽的レベルがちょうどいいんです。彼女はやりたい音楽をやれば、ユーザーのど真ん中に行くわけですから、非常に楽ですね。レベルを合わせていったりするのは大変難しいですし、自分が「こうやりたい!」と思っている人に、売れる曲を作らすことはすごく大変です。才能と売れることはまた別なので、その辺は本当に難しいですね。

−−では、吉田さんが目指しているご自身の姿は何ですか?

吉田:そうですね…若い人達が成功して、僕は次の若い人達とやっていることですかね(笑)。

−−ずっと現役で現場にいたいと。

吉田:やりたいですね。でも、体力的にも感覚的にもどんどん年を取ってくるでしょうから、できるかどうかわからないです。また、音楽だけをやろうとも思っていないですしね。僕はどんな分野であってもスタンスを変えないのが強みであると思いますし、一つのことだけをやれないという弱みもあります。ですから、次の段階で新しい人を発掘するときに、それを音楽でやっているかどうかは正直わからないんですが、今は音楽が楽しくて仕方ないので、しばらくは音楽どっぷりでやっていきたいと思っています。

−−吉田さんが手掛けるアーティスト達の活躍を楽しみにしてます。本日はお忙しい中ありがとうございました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

吉田さんが語るエピソードの数々は、「ものづくり」の面白さや喜びに溢れ、着眼点の鋭さや柔軟な感性、そして情熱がひしひしと伝わってくるものばかりで、そのパワーに圧倒されつつも、笑いの絶えない楽しい取材となりました。

 特に印象的だったのは、ニッポン放送時代から一貫して「常に新しい才能を見つけ、育てること」を意識していた吉田さんの姿勢です。結果アーティストのプロデュースへと辿り着いたことは吉田さんにとって必然であり、「アーティストのプロデュースは手間がかかるから大変」とおっしゃる吉田さんの表情は、今日の充実振りを物語っているように感じました。吉田さんが蒔かれた種は、手掛けられているアーティストの作品となって、きっと我々の前に姿を現すのではないでしょうか。その日が本当に楽しみです。