第58回 秦 幸雄 氏 株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント コーポレイト・エグゼクティブ ネット&メディアビジネスグループCOO
株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント
コーポレイト・エグゼクティブ ネット&メディアビジネスグループCOO
今回の「Musicman’s リレー」は、エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ(株) 代表取締役社長 林 真司さんからのご紹介で、(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント(以下 SME) コーポレイト・エグゼクティブ ネット&メディアビジネスグループCOO 秦 幸雄さんのご登場です。CBS・ソニー入社以後、洋楽を中心に営業や企画・宣伝に携わられ、その後もアーティスト・マネージメントや「ゼップ構想」の実現に尽力。現在はSMEのIT戦略の中心としてご活躍されている秦さんに、その幅広いキャリアのお話から、デジタル時代のレコードメーカー、音楽業界の在り方について伺いました。
プロフィール
秦 幸雄(はた・ゆきお)
(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント
コーポレイト・エグゼクティブ ネット&メディアビジネスグループCOO
昭和24年(1949年)10月24日生
昭和47年(1972年)4月 シービーエス・ソニーレコード(株) 入社
(現(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント)
以後、企画制作、EPICソニー/企画制作、A&R、
海外渉外、販売促進 等を歴任
平成 2年(1990年)1月 同社 営業本部大阪営業所 所長
平成 5年(1993年)4月 (株)ソニー・ミュージックアーティスツ 常務取締役
平成 8年(1996年)1月 (株)ソニー・ミュージックコミュニケーションズ 取締役
平成 9年(1997年)2月 同社 常務取締役
平成 9年(1997年)6月 (株)ホールネットワーク 代表取締役社長
平成13年(2001年)12月 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント デジタルネットワークグループ 本部長
平成15年(2003年)3月 同社 コーポレイト・エグゼクティブ 就任
平成17年(2005年)5月 (株)ソニー・カルチャーエンタテインメント 代表取締役 就任
1. 町には絶えず音楽が流れていた
--前回ご登場頂いた林 真司さんとはいつ頃お知り合いになったんですか?
秦:僕がゼップをやっている時に、エイベックスさんに出資して頂いていたので、比較的エイベックスの役員の方々とは繋がりがあったんですが、林さんとすごく親しく付き合いだしたのは最近です。ここ2年くらいは、林さんに何人か加えて、定期的にお会いしています。
--林さん以外の方もエイベックスの方ですか?
秦:いえ、他の会社の方々です。SMEとエイベックスさんは、企業のDNAや社風は違うんですが、林さんとは色々なところで話が合うことが多くて、林さんからすごく刺激を受けています。
--ここからは秦さんご自身のことを伺いたいと思います。ご出身はどちらですか?
秦:群馬県の桐生市です。桐生はもともと織物の町なんです。町中を歩いていると織物の工場があって、生家もそういった小さい町工場を経営していたんです。当時はラジオをかけっぱなしで工員さんたちが織物を織ったり、ミシンで縫製していたので、町中に音楽が流れていました。工場と言っても、普通の家をちょっと大きくしたようなところですから、僕が勉強できないくらい家までラジオの音が聞こえてきました。当時のラジオは今よりも音楽をたくさん流していたので、家のどこにいても音楽が流れてくる生活でした。
--絶えず音楽が流れる環境だったわけですね。
秦:ですから、これは病気に近いと思うんですが、今も音がないと駄目なんです。車に乗っていてもそうですし、自分の部屋もアメリカのネットラジオを大きなスピーカーに繋げて、ずっと流しています。これはおそらく幼少期から高校生まで、そういう環境の中で生活していたからだと思います。
--桐生にいた当時聴かれていたのは、FMではなくAMですか?
秦:群馬県の南部は東京の放送がTVもラジオもそのまま届くので、ニッポン放送、文化放送、TBSの3局をよく聴いていました。
--FENとかも入ったんですか?
秦:FENはギリギリでしたね。自分の部屋で自分のラジオを聴けるようになったのは受験生の頃なので、その前までは単純に流れていただけで、自分で聴こうと思って聴いていなかったですからね(笑)。でも、あの時代の流行歌は洋・邦ともにいまでも耳に残っています。
--それはのちの就職なりに影響を与えましたか?
秦:そうですね。就職面接でも話した憶えがあるんですが、その音楽の原体験が後に与えた影響は圧倒的に大きかったと思います。ですから、楽器もギターは少し弾きますが、行くところはカラオケなんですよ。
--カラオケですか! それは洋・邦歌われるんですか?
秦:邦は一切歌わないんです。広尾にある外国人専用のカラオケ・ハウスに行きます。今アメリカのカラオケはCDなのですが、そのCDを輸入している、プレスリーだけで300曲くらいあるようなお店で、おそらくそこは世界で一番レパートリーがあると思います。仲間が数名いるんですが、そこに毎週のように通っています(笑)。
--ちなみに十八番は?
秦:僕は歌が上手じゃないので、これを歌わせたらという曲はないんですが、レパートリー的にはどうしても’60年代イギリスのマージービートや、ポップスになりますね。向こうのカラオケはオリジナルと同じようなコーラスが入っているので、ロックでも気持ちのいい曲とか、ポップ系の曲を歌うことが多いです。
--どのぐらいの頻度でそこには行かれているんですか?
秦:実は週1回行こうとしているんですが、さすがに行けないですね。でも平均して2週間に1度は行っています。
--一回行くとどのくらい歌われるんですか?
秦:そこはボックスではなくて、3〜40人入れるライブハウス型で、外国人客が7割なんですよ。ということは1曲4分とすると、10人いたら40分に一回しか回ってこない。ですから、人が一番いない時間、いない日を我々は狙うんです。
19時に会社を出て、食事も摂らずにダッシュで店へ行って(笑)、外国人は22時頃に来ますから、それまで歌って、人がそんなに増えなければ23時ぐらいまで歌うので、3人くらいの時だと22、3曲歌います。
--カラオケというか、ライブハウスという感じですね。
秦:本当にライブですね。マイクは5台設置してあって、ちゃんとPA装置もあって、店内はすり鉢状でステージが一番低い位置にあるんです。ですから、最初は恥ずかしいんですよ(笑)。でも、ボックスで歌うのとは別世界です。
--ちなみにそういう姿を社員の方々に見られても、全然平気ですか?
秦:ええ。全然平気です。ただ、この話をすると面白がって、みんな来たがるので連れて行くんですが、一回来たら嫌になるんです。というのも、我々が歌う歌は、皆がほとんど知らない歌なんですよ。例えば、ホリーズだったら『バス・ストップ』はどこのお店でも入っていますが、それ以外は入っていませんから。その店だとホリーズだけでも10曲以上ありますから。つまり、アメリカのヒットチャートに入った曲はほとんどカラオケになっていて、それをマスターが輸入してくれるわけです。
--でも、秦さんがそういった曲を歌われると、外国人のお客さんは「よく知っているな」とビックリするんじゃないですか?
秦:いや、外国人の年齢層が若いので、彼らも知らないです。僕の仲間はほとんどが50代なので(笑)。
--こう言ったら失礼ですが、なんだか異様な集団ですよね。
秦:(笑)。でも、それを知って、日本全国から歌いに来るんですね。実は海外でも有名で、僕らはイスラエルのTV局に取材されたことがあるんですよ。歌っているところを撮られたんですが…。
--そのお店の名前はなんというんですか?
秦:是非宣伝してください(笑)。「SMASH HITS」と言いまして、広尾商店街の一番奥にあります。でも、あんまり混まれると、困っちゃうんですよね(笑)。本当に20人来たら、順番が回ってこなくなるので、僕らは帰ります。
--本当に歌いたいんですね。
秦:マスターも二次会ノリで来るお客さんを嫌がるんです。つまり、ピュアに歌うことを楽しんでいる人たちが集う店ですね。
--お店では’60年代の歌に限るわけではないんですよね?
秦:全然。でも外国人が来てラップを歌われると、「もう帰ろうかな…」という気分になります。ラップだけはさすがに歌えません(笑)。
2. 混乱の中で過ごした大学時代
--話を戻しまして、高校までは桐生にいらっしゃったんですか?
秦:そうです。
--高校時代はどんな学生生活を送っていたんですか?
秦:高校時代はサッカーをやっていたんですが、結構いい加減で、週2回練習していただけでした。それ以外の日は友達の家に行って、当時はビートルズにはまっていましたから、ビートルズの新しいレコードが出ると、ギターが上手な友達にコードを聴き取ってもらって、彼にそれを一生懸命教わって、2人で歌ったりしていました。一緒に歌うのが楽しいと言うよりも、コードを聴き取って、あーだこーだやっているのが楽しかったです。
--やはりビートルズは、秦さんにとっても圧倒的な存在だったんですか?
秦:そうですね。特に僕は『ラバーソウル』以前のライブ感のあるビートルズが大好きで、熱中していました。ビートルズの日本公演も行こうとしたら、教育委員会から「東京に行った生徒は処分する」と通達が来たので、仕方なくTVで見ました。
--そういう時代だったんですね…。
秦:とにかく、聴くのはビートルズを中心に当時のヒットチャートに熱中していました。お小遣いは全部シングル盤を買っていましたし、友達とコードを聴き取っては歌ったりしていました。音楽にとられる時間がどんどん多くなっていって、サッカーも2年生の途中でやめてしまいました。
--秦さんはまさに団塊世代ですよね。受験とか大変だったんじゃないですか?
秦:僕は’49年生まれですが、その前の’48年が一番人口が多いわけです。ですから、その人達が浪人で降りてきて、史上最大の受験戦争と言われた年なんです。
--一クラスに50人とかいた時代ですよね。
秦:3つくらい年上の人は5クラスしかないのに、急に僕らの1才上からクラスが10に増えるみたいな感じです。ですから、クラブ活動も甲子園に行った野球部以外はあまり盛んじゃなくて、どちらかというと家に帰って勉強…してはいないんですが、しているフリをするみたいな高校時代でした(笑)。
--大学から東京にいらっしゃったわけですよね。
秦:そうです。浪人だけはしたくなかったので、どこでも受かればいいと思って、受かったのが上智大学だった、ということです。あとは、大学のイメージですね。あの校舎を見た途端に、「これはいいな」と思いました。
--あの四ッ谷の校舎ですよね。
秦:そうです。遊びに行くのはマージャン、ボーリング、ビリヤードみたいな世界だったんですが、麹町周辺から赤坂の方に結構ボーリング場があったので、その周辺とか、あと体育の授業で迎賓館、当時赤坂離宮と呼ばれていましたが、その周りを一周マラソンしていました。今、通勤であそこを通っています。
--大学時代はどんな学生時代だったんですか?
秦:本当に最悪の学生時代で、上智は学園紛争がない学校だと聞いていまして、それも入学した理由の一つなんですが、入学した年に大紛争が起こって、入学した年の12月に学校がロックアウトされてしまったんです。
--ロックアウトですか…上智と聞くと、女の子達に囲まれて、楽しそうな感じがしますけどね。
秦:僕もそのイメージで入ったんですが…(笑)。でも登校したら、いきなり立看があるんですよね。それを見た瞬間、「こんな学校じゃないはずだ…」と思いましたね。しかも、ロックアウトされた翌年の6月まで「廃校になる」という噂があったりしました。
--廃校ですか! すごいですね。
秦:母体がイエズス会なので、「こんな学校は潰してしまうだろう」という噂が立ったんですね。実は山本コータローと同じクラスで、同じクラブだったんですが、彼は頭がいいので、ロックアウトの間に一橋大学に移っちゃいました。
つまり、僕らの学年は授業がほとんどなかったんです。ですから、ロックアウトされるまでの半年で上手く学生生活のペースに乗れた人は良いんですが、乗り遅れちゃうと授業やクラブから全部脱落しちゃうんです。僕は完全に脱落組だったので、そのあとは全然学校へ行かずに、バイト、マージャン、ロック喫茶という学生生活だったので、今思うと「一体何をやっていたんだろう?」という感じですね(笑)。
--今の秦さんのお立場を考えますと、「学生時代っていらないのかな…?」と思うようなお話ですね(笑)。
秦:(笑)。レコード会社は全然関係ないですよ。
--まさに「学歴無用論」ですね。
秦:あと、卒業する年には学費闘争が起こって、授業の半分くらいが無くなってしまったんです。それでほとんど試験も卒論もなく、簡単な試験で卒業させてくれたと言いますか、「出してくれた」と言うのが適切だと思います。だから、「優」の数なんて、本当に1ケタしかなくて、就職試験はほとんど良いところを受けられなかったです(笑)。当時は「優」の数が15以上ないと学校も推薦してくれませんでしたから。
--まさに混乱の中で大学4年間を過ごされたと。
秦:本当にそうですね。
3. CBS・ソニーが放った強烈なイメージ
--そんな中、CBS・ソニーに入社されるわけですが、当時のCBS・ソニーは創業したてですよね。
秦:僕が大学1年の時(’68年)に創業しています。僕はその頃CBS・ソニーの存在を知らなかったんですが、大学2、3年生の頃に、当時CBS・ソニーが「ニューロック」と言って、シカゴやBlood, Sweat & Tearsを、ポリドールがジミ・ヘンドリックスとかを「アートロック」と言っていたんですが、そういうジャンルが大きく出してきて、その時にCBS・ソニーのLPが僕には衝撃的にかっこよく映ったんです。
--それはどのようなLPだったんですか?
秦:他のメーカーはビニール袋に帯が掛かっていたんです。で、ビニール袋をあけて、試聴ができたんです。CBS・ソニーのレコードはビニールシールドが掛かっていたので試聴ができないんですが、帯ではなくキャップが被さっていたんです。このキャップがジャンルによって同じ色に統一されていて、感覚的に惹かれたんです。
また、会社の雰囲気が何となく分かったのが、大学3年のときにCBS・ソニーのあるレコードを買ったら、ペラペラのDJコピーが1枚付録で付いていたんですが、そのジャケットが、「アビーロード」のパロディで、社員の人たちが歩道を歩いている写真だったんです。それが堤 光生さん、高橋裕二さん、高久光雄さん、菅野ヘッケルさんという当時のEPICチームの社員だったんです。
つまり、そのDJコピーは、EPICレーベルのサンプラーだったんです。実は音にはあまり興味がなかったんですが、そのジャケット写真を見て、「社員がこういうことをやってしまう会社」という強烈なイメージにまた惹かれたんですね。その2年後に自分が彼らの部下になるとは夢にも思わなかったです(笑)。
--もうここしかないと思われたんですか?
秦:就職の時に真っ先に入りたいと思いました。
--そして、希望通りに入社されたと。
秦:そうですね。
--大学が大変だった割には、就職はバッチリですね。
秦:当時、CBS・ソニーは小学校から大学までで、一番自信のある成績表を提出してくれということで、母親に訊いたら小学校の頃の成績表はもうないと言っていたので、中学校の成績表を出しました(笑)。つまり、大学の成績はあまり関係なかったんです。
--それはユニークですね(笑)。
秦:ほとんど面接重視の会社で、しかも面接官が現場の若い人でした。僕も入社2年目には面接官をやっていましたから。
--当時からやり方が新しかったんですね。でも、大変な競争率だったんじゃないですか?
秦:筆記試験の会場が学習院大学の校舎だったんですが、そこで6,000人が試験を受けているんですよ。これはあり得ないと思いました。
--6,000人ですか! それで何人採用になったんですか?
秦:大卒で50人、高卒入れると100人くらいだったと思います。でも、当時のCBS・ソニーの社員が300人くらいの時に100人採ったわけですから、急激に会社が大きくなるときだったんだと思います。
--そこを通り抜けられたということは、やはり秦さんは優秀だったということでしょうか?
秦:大賀さん(大賀典雄氏:ソニー(株) 相談役、(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 名誉会長)が「総務が面接して、レコード会社の社員の資質がわかるわけない」とおっしゃって、現場の人間が面接をしたんですが、現場の人間といったって入社1、2年目の社員が面接するわけですから、仲間感覚で見ていて、「こいつと一緒に働く」という感じで採用したのかなと思うんですけどね。
--最後は役員面接とか、大賀さんとお会いになるとか、そういう形だったんですか?
秦:最後は、大賀さん、小澤さん(小澤敏雄氏:(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 相談役)さんとの面接です。でも、今から考えると、あまり突っ込まれなかったので、そこはやや儀式だったのかなと思いますけどね。その前の部・次長面接が一番きつかったんじゃないかと思います。
--その辺りに丸山茂雄さんがいたということですか?
秦:いや、丸山さんは当時そんなに偉くなかったですから(笑)。僕が入ったとき、丸山さんは東京営業所の所長です。部長は当時4人くらいしかいませんでした。洋楽で一番年上の人は32、3才で、現場はみんな25才以下みたいな感じです。
--滅茶苦茶若かったんですね。
秦:クラブ活動みたいな感じです。
4. エア・プレイを稼げ!〜深夜放送局回りに奔走の日々
--入社された頃のCBS・ソニーは創業当時のエイベックスのような若い会社だったわけですよね。
秦:そうです。僕らの年は洋楽の宣伝部門に4、5人しかいないところに7人ほど入りました。なぜかと言えば、各社の先輩達が深夜放送局回りというのを始めたので、とにかく深夜に放送局を回る若いのを入れようということで、配属されたわけです(笑)。7人入ったうちの1人がパブリシティー担当で、1人FM担当がいたので、実質5人で深夜放送局回りをしました。だから、その仲間との絆がいまだに強いんです。
--深夜放送局回りとは具体的にどのようなことをされていたんですか?
秦:単純にレコードが出たら、そのレコードを持って深夜番組をオンエアしている放送局を回るみたいな感じでした。
--あの当時、CBS・ソニーの深夜放送局回りのパワーは凄かったですよ。
秦:当時のCBS・ソニーはシングルヒット志向だったので、そこに人を投入したんです。
--それは放送局に行って、「曲をかけてくれ」とお願いするために、人をつぎ込んでいたということですか?
秦:そうです。ですが、僕らが入社したときも、曲をかけてもらうのが大変でした。当時のAM放送は音楽に頼らず、喋りで聴取率をとっていて、特に深夜放送は愛川欽也さんや落合恵子さん、みのもんたさんといった方々の喋りが中心でしたから、その喋りの合間にかけるレコードは何でもいいわけです。その何でもいいところに向けてプロモーションするというのは、もうお願いするしかないんです(笑)。
--その当時はどんな一日だったんですか?
秦:僕らは14時頃会社を出て、まず最初にニッポン放送へ行きます。でも、サンプル盤を持っていっても、「はいはい、ごくろうさん。早く帰りなさいよー」といった感じです(笑)。次に向かうTBSラジオは、比較的にプロモーションしやすかった。当時、山本コータローが喋っていて、彼とは大学時代の友達だったので「秦、かけてやるよ」と言って、結構かけてくれたりしました。
それで、最後の文化放送が戦場なんです。文化放送の「セイ・ヤング」は24時半から始まるので、大体選曲が22時からギリギリ24時の間に決まるんです。レコード会社のプロモーターの控え室みたいな部屋があって、そこへディレクターが来て選曲するんです。
--そこでお願いするわけですね(笑)。ラジオ局のディレクターというのは、そこまで偉かったんですか?
秦:レコード会社の社員にとっては、選曲権を持っているディレクターはやはり偉かったです。ディレクターのタイプに合わせて、あらかじめ能書きを準備したり、選曲中にこれみよがしにジャケットをちらつかせるとか(笑)、色々な作戦で臨みました。
辛いのはそこから後で、ディレクターが選曲表に書いて、「わかった」と言って選曲表を持って消えたとしても、それがちゃんとオンエアされたかを必ず確認して、翌日お礼をしないといけないんです。だから、毎日27時まで聴いていないといけない。
--毎日深夜放送を聴くんですか…それは大変ですね。
秦:当時、会社は六本木にあったんですが、「セイ・ヤング」の選曲が終わったら、安い食堂で食事をして、そばの銭湯に入って、会社に24時半頃に戻って、僕は家が遠かったので、友達の家か会社に泊まってラジオを聴きました。曲がかかったら、すぐにスタジオに電話をした方がいい場合や、逆にかけると怒られてしまう場合もあって。中には、スタジオに直接行って御礼をした方がいいディレクターもいる。ディレクターそれぞれに合わせた御礼の仕方があったんです。
--曲がかかったか、かからなかったか、実際に聴かないと分からないですものね。
秦:選曲表に書いても、かからない場合がありますから。またわざとそれをやる人もいるんです(笑)。選曲表を見て、放送を聴かずに、「ありがとうございました」なんて言っちゃうと、「ん? お前聴いてないな」と(笑)。
--それまたいやらしいですね!
秦:ディレクターがかけようとしても、愛川欽也さんが「このままいっちゃおう」と言えば、曲はかかりませんからね。だから2時間1曲もかからない日が何日も続いたこともありました。
--僕らが何気なく聴いていた深夜放送の裏側では、そんなことが行われていたんですね…。
秦:大変激烈な世界でしたが、とても楽しかったです。
--すごい倍率をくぐり抜けて、やっと入社されたにもかかわらず待っていた世界が、そういう世界だったんですね。
秦:そうです。他にも色々な販促活動をやるんですが、基本的に「曲をかける」ことにしか頭を使っていないわけです。会社での事務作業はタクシー代の精算と、あと「ミッシェル・ポルナレフ来日決定!」みたいなニュースがあれば、チラシを作ってゲステットナー印刷機というガリ版印刷のちょっといい印刷機で刷るんです。それを放送局で配ったり…なんちゅう仕事だと思いました(笑)。
--今もそれは続いているんですか?
秦:いや、今はもう少しシステム化された音楽のプロモーションが確立していますから。
--しかし、いかに若いとはいえ、相当シンプルに考えないとやってられない仕事ですよね。
秦:考える暇すらなかったです。13時に出社をして、会社内は結構女の子がいて楽しかったのでウロチョロしていると、先輩に「お前らは会社に仕事はないはずだから、早く出ていけ」と怒られて(笑)、外に出て24時頃帰ってくるわけです。
ですから、放送局に行かなくていい土曜の出社はものすごく楽しかったですね。平日と同じく13時頃に出社して、その日は経費の精算をしたり、翌週のことを考えたり、グダグダしていても怒られないんです(笑)。また、終業が18時15分だったんですが、その終業が楽しみで楽しみで。
--ささやかな楽しみですね(笑)。
秦:本当にささやかですよ。だから、夜にみんなでお酒を呑むとか、マージャンするとか全く無縁の数年間でした。
5. 洋楽一筋から演歌の世界へ?
--そのような生活のペースはいつぐらいまで続いたんですか?
秦:深夜に放送局をそのくらいのペースで回っていたのは、2年間くらいです。その後、僕は地方局の担当になったのですが、地方に行くと正反対の待遇なんです。地方は洋楽の情報がないので、東京のアーティスト担当が地方局に来るというと、もう休みも返上して出社してくれます。東京とは、雲泥の差でした。また、番組用のコメントやニュースを求められたり、番組に出てくれと必ず言われるんです。やはり、洋楽は情報を握った人が勝ちなので、当時の先輩プロモーターは情報を自分で握ってコントロールしながら、上手にマーケティングしていたと思います。
--あとディスコ回りとかもされたんですか?
秦:ディスコ回りもありました。ディスコ・カルチャーになって、ラジオよりもディスコでかかったほうがヒットするようになったんです。赤坂から始まったディスコ文化が、新宿に飛び火して、新宿のディスコでかかる曲がヒットするようになったんです。
--どの辺のあたりですか?
秦:当時だと、一棟のビルにディスコが沢山あって、「カンタベリーハウス」とかですね。映画『サタデー・ナイト・フィーバー』と、アース・ウインド&ファイアー『宇宙のファンタジー』、この2つが火を付けたディスコ文化です。そのちょっと前は「ステップ・ダンス」といって、全員が同じステップを踏んでましたから。
--ということは、昼間は会社に行かなくていい生活が長かったんですか?
秦:ディスコ回りは社員というより、どちらかというとアルバイトさんを使っていたりしたので、僕はどちらかというと’78年のEPIC・ソニーの創設に携わっていた印象の方が強いですね。
--EPIC・ソニー時代はどのような感じだったんですか?
秦:EPIC・ソニーで面白かったのは、ノーランズやフリオ・イグレシアスに代表される日本独自のヒットを創れたことで、ちょうど洋楽が一番売れていた時期なんです。FM誌4誌を足すと100万部いっていた時代です。最初の5年間でオリコン1位を4〜5曲出せて、やってて楽しかったです。
--フリオ・イグレシアスも日本独自のヒットだったんですか?
秦:いや、ヨーロッパでもの凄く火がついていて、それに目を付けたんです。もともと、EPIC・ソニー自体まだカタログのない会社だったので、まずはカタログ・アーティストを育てようとやりはじめたら、想いに反して社会現象的なブレイクを果たしてしまったんです。コンスタントに10万枚売ろうとしていたのが、いきなり50万枚みたいな感じになってしまって…(笑)。
--EPIC・ソニーでは創立メンバーとして、洋楽の企画・宣伝に携わっていたわけですね。
秦:そうです。当時のCBS・ソニーの洋楽から4人EPIC・ソニーに来て、あとは他のセクションから来て始めました。創業時の何年間かが一番楽しかったです。
--そして、’90年に大阪営業所の所長になられていますね。
秦:そうです。洋楽しかやったことのない私を、会社はいきなり大阪営業所の所長にしたわけです(笑)。一番とまどったのは、大阪の営業所に行くと基本は演歌で、レコード店さんの集まりに行くと、自社の演歌を歌わされるんです(笑)。これが辛いのは、実はEPIC・ソニーの邦楽は知っていても、CBS・ソニーの邦楽はあまり聴いてなかったんです。それでいきなり歌えと言われても、普通は歌えないじゃないですか。でも、他の所長さんは全員歌えますから、「歌えない」というのはありえないんです。
--知らないとは言えない。
秦:何となく雰囲気で歌うしかないんですが、伍代夏子さんの歌はとても難しくて、結構恥をかきましたね。
--大阪時代のエピソードなどなにかございますか?
秦:所長とは現地の「顔」なんです。ですから、冠婚葬祭といった総務的なことや、緊急対応みたいな仕事がありました。私の前任者は現CEOの榎本(和友)で、榎本は3年間務めたんですが、プロ中のプロである榎本の後に、全くの素人である私が行くというので、榎本が2週間かけてみっちり引き継いでくれました。その2週間の引継で何をやったかというと、旨い店とか、温泉はどこが近いとか、大阪でのお店や媒体の方々とのお付き合いに必要な情報を引き継いでくれるわけです。
ところが就任早々、あるトラブルに巻き込まれまして、お店に説明してまわったり、「話が違う…全然違うじゃないか!」と思ったんですが、着任最初の年ですし、このトラブルが解消されれば、2年目からは少しは楽になると思ったら、東京に戻る辞令が出たんです(笑)。
--榎本さんから引き継いだことを全然生かす間もなくという感じですね(笑)。
秦:そうです(笑)。ただ、地元の商売という濃い世界に放り込まれて、大阪のカルチャーにどっぷり浸かれたので、貴重な体験ができたと思います。
6. デジタルの極地とアナログの極地〜ゼップ構想
--東京に戻られてからは、どのような仕事をされたんですか?
秦:東京に戻って、ソニー・ミュージックアーティスツ(以下SMA)で音楽出版の仕事に携わりながら、小さい事務所を与えられて、アーティスト・マネージメントに携わりました。
--いきなりアーティストのマネージメントとは、大変だったんじゃないですか?
秦:音楽制作における一番原点のところの現場からやらされましたから、それは大変でした。それこそ全くの素人なのに3人もアーティストを預けられて、今から考えると恐ろしいです。
--人と人との話になるから大変でしょうね。
秦:営業所長はシステムで流れていく部分が多かったので何とかこなせましたが、事務所のマネージメントにはシステムはありませんから。あれほどアーティスト・マネージメントが大変だとは思いませんでした。
--所長さんとは別世界ですね。
秦:そうです。事務所も小さかったので、社長というよりももっと現場に密接で、チーフ・マネージャーみたいな仕事だったんですが、それをいきなりやらされたので、今から考えると「よくやってたな」と思います。
--何が一番難しかったですか?
秦:お母さん役、お父さん役、プロデューサー役、財布の管理から、アーティスト本人の生活も含めて、すべてやらなくてはならないんです。
--マネージメントの大変さを実感されたわけですね。
秦:結局最後までマネージメントビジネスの真髄はわからないままだったかもしれません。その後、色々な仕事を兼務しながらですが、SMA全体のマネージメント部分を見ることになりました。でも、50組100人くらいのアーティストがいる世界ですから、すごく大所帯です。
--確かこの頃からSMEの分社化が始まっていますよね。
秦:そうです。時代的にはいわゆるバンドブームが終わった後で、マネージメント的にもバンドからマルチで稼げるソロの女性アーティストにシフトして行く時期です。
--マルチで稼げるというのはどういうことですか?
秦:例えば、タレントに転身できたりとか、そういうことです。そういうトレンドの時期だったので、とても面白い時期ではあったんですが、それこそ50組100人を抱えるマネージメント会社だったので、無我夢中でやっていました。
--それにしても秦さんは入社以来、洋楽が長いながらも、色々な仕事に取り組まれていますよね。
秦:川上から川下まで全部やれたみたいなところはあります。その後、川下に近いソニー・ミュージックコミュニケーションズ(以下 SMC)に行くんですが、ここに行くことによってゼップに繋がっていくんです。
--そのゼップを立ち上げるきっかけは何だったんですか?
秦:事務所をやっていたときに、興行というのが一番大きな課題で、当時、ほとんどの興行が赤字でした。バンドブームの時から、その赤字部分をレコード会社がライブ援助費という形で資金援助をして消していたわけです。なぜならライブが最大のプロモーション手段だったから、それだけつぎ込んでいたんです。
でも、ライブが最大のプロモーション手段だった時代は終わり、TVにレコード会社の宣伝費がシフトしていったんですが、興行自体の制作費がアップし肥大化してしまった部分がどうしようもなくなっていたんです。僕がSMAに来て一番驚いたのが、「興行企画申請書」にあらかじめ赤字の欄があることでした。
--それが半ば認められていたと。
秦:そうです。僕はすぐにその欄を無くしました。
--そういった慣習が、自前の安いホールを造るきっかけになったんですか?
秦:そこに繋がるきっかけです。SMAの終わりの2年間くらい、丸山さんたちと、「この状況をなんとかしないといけない」ということで、色々な構想を練っていました。
どうしても制作回りにお金がかかるので、制作会社を作ってしまおうとか、照明のセットを買って、照明会社を作ってしまおう、みたいな話もありました。その時に林さん(林 博通氏:(株)H.I.P.(Hayashi International Promotion) 代表取締役社長)から持ち込まれたのが、ブリッツを大阪に作ってくれという話だったんです。TBSのブリッツができたことで、楽器だけを持ち込めばライブができるホールが、日本にもやっとできたわけです。
それまでは日本のどんなホールに行っても、ロックバンドのコンサートに備え付けの機材は使えないですから、最低4トントラック、大きくて11トン車でPA、照明装置を運び込まなくてはなりません。また、ステージが大きいですから、ステージの背景も考えなくてはいけなくて、大道具が必要になる。でも、ブリッツは大道具があると逆に見づらくなりますから、単純に備え付けの照明とPAで、ライブをすればいいわけです。
--最小限の荷物を運び込めばライブができると。
秦:そうです。小さい楽器車1台あればいいわけです。ただ、東京ではそれができても、大阪に行ったときにブリッツがないことで、大阪だけのために機材や照明を全部用意しなくてはならないから困ると。そこから始まったのが、ゼップの構想です。
--自前でホールで作ってしまおうと。
秦:自前と言いますか、業界全体でそういうホールが必要だろうと考えました。
--その構想が徐々に具体化していくわけですね。
秦:ただ、当時僕はSMCのプランニング部門にいて、そこでホームページを作るビジネスを始めたところだったんです。当時、インターネット・エクスプローラーが出て、まさにインターネットが一般の人に普及する時期で、僕はそっちの世界にグッと傾倒していました。ですから、それをやろうとしていたんですが、丸山さんから「事業計画だけでも作ってくれ」と言われて、SME本社の経営企画から受注して、ホールネットワークの事業企画書を作りました。
まず、札幌には土地が見つかっていたので、手始めに札幌に作ろうと決めた一年後に、丸山さんから「お前がやるか?」と訊かれたんです。僕はインターネットの方が遙かに面白そうでしたし、将来性もあったので迷ったんです。
--そこでなぜホールネットワークを選択されたんですか?
秦:実はその半年くらい前に、「eコマース」の必要性を説いて社内中を回ったんですが、ほとんど理解を得られなかった。それで「実現はまだ先かな」と思い、ライブハウスの方をやろうと決断しました。
--それってすごい選択ですよね。
秦:そうです。どちらも「ネットワーク」なんですが、片やライブというアナログの極地、片やデジタルの極地みたいな選択ですからね(笑)。
ただ、ホールネットワークの方は、自分で事業計画を作って、土地まで見に行って、「絶対成功する」と思っていました。SMEの関連会社は、そのほとんどが分社で、ゼロから作った会社というのは少ないので、社内起業みたいな気分でした。
でも、SMEがやるというと、「川下までを独占しようとしている」と思われてしまうので、各社さんにも声をかけようと思ったんですが、あまり大々的に声をかけて、寄り合い所帯になりすぎてもやりづらくなるとも考えたので、基本的にはソニーミュージックがほとんど資本を持ちますので出資しませんか、と4社くらいにお話して、圧倒的に返事が早かったのが…。
--エイベックス。
秦:そうです。これは凄かったです。事業計画書を持っていき説明したら、あっという間に理解して頂きました。
--なぜ、そんなに早く理解されたんでしょう?
秦:例えば、洋楽を売るときに単体でアーティストを売るという意識よりも、まず基本的なシーンを作って、そこからアーティストを売っていくということをやるんですが、ディスコ・シーンのなかでアーティストをブレイクさせてきたエイベックスさんはその構造と同じなんです。だから、場がいかに大事かよく理解しているし、だからこそ、ジュリアナのあとにヴェルファーレを作られたわけです。
--エイベックスはゼップの意義をいち早く見抜いたわけですね。
秦:コンサートのコスト削減と、金のかかるコンサートは元から絶たないと駄目みたいなものがゼップ構想なんですが、あっという間に理解して頂いて、当時のエイベックスさんは店頭上場寸前だったので、決断がとても早くて、11時から1時間お話をして、16時に「乗ります」と返事が来たんです。しかも具体的な金額の提示までありました。
--そんなにエイベックスの決断は早かったんですか…。そのスピード感が躍進のヒミツなのかもしれませんね。
秦:SMEも決断は早い方だと思うんですが、それ以上でしたね。
7. スタンディング・カルチャーの確立〜ゼップの大成功
--セップを各地に作るのは大変だったんじゃないですか?
秦:これは大変な思いをしました。2年間に4つ作ったんですが、公共団体やお役所とお話をしないといけませんから。
--仕事的には不動産ディベロッパーのようなものですものね。
秦:交渉は僕一人に対して、相手は商事会社、広告代理店、スポンサーに各地方自治体と、たいてい4、5人ですから、これは強烈な体験でした。僕はある種、“SONY”ブランドに憧れて、この会社に入った面もあるんですが、この時ほど“SONY”の看板を強く感じたことはないです。
レコード会社にとってはあまり意味がないんです。“SONY”だから曲をかけてくれるわけではないですし、“SONY”だからアーティストの親御さんが安心してサインしてくれるというわけでもないです。でも、2,000人収容のライブハウスを造るとなったときに、この看板がなかったら、地方自治体もなかなか許可してくれなかったと思います。だから、僕の社歴の中で、この時が一番“SONY”の看板の力を感じたときでした。
--結局、ゼップは大成功をおさめるわけですよね。
秦:大成功です。毎年稼働率もよくなっていますし、特に名古屋が立ち上がったことで、6大都市は揃ったので、当初から目論見書に書いてあった通りに、「ゼップ・ツアー」が実現できるようになりました。三ヶ所以上のゼップを使っていただく場合、「ゼップ・ツアー」と呼んでいるんですが、今ではゼップを使う方々の7割が「ゼップ・ツアー」です。
--では、ビジネス的にも大成功ですね。
秦:そうです。ただ、非常に大きな額の借金で始めているので、それを返すのにはもう少し時間がかかるかもしれません。しかし、稼働率もよくなっていますし、ゼップの良さが理解されてきたと実感しています。
--コストの削減以外に、ゼップの良さとはなんだとお考えですか?
秦:ブリッツが作られた当時、バンド・ブームが終わった頃なので、イベンターさんが「もうスタンディング・カルチャーは終わったよ」と反対したらしいんです。でも、自分でコンサートに行ってみると分かるんですが、じっと座っているだけだと音楽の意図がなかなか伝わらない場合が多い。どんなジャンルの音楽でも音楽に合わせて体を揺らしたりしたいわけです。
そういう理由で積極的にコンサートに参加するのがスタンディング・カルチャーであって、決してバンドだからスタンディングで聴いているんではないと僕は思っていました。ゼップのスタンディングのいいところというのは、例えば、アーティストとの距離が近いとか、一体感とか沢山あると思います。つまり、安いという理由だけでなく、クリエイティブな面からもゼップを使って頂いていると感じています。
--4年で6ヶ所作られたんですか?
秦:順番で言うと札幌、大阪が’98年で、’99年に東京と福岡。’00年に仙台、ちょっと間を置いて’05年に名古屋です。
--もうホールネットワークの社長としてやるべきことはやってしまったので、SME本体に戻られたんですか?
秦:いや、自分で人事を決められるわけではないので、それは違いますが、もともとゼップは10年間の限定事業ということだったんです。当時は、地主さんも土地を売りたがらなかったので、流行のテント・カルチャーじゃないですが、暫定土地利用事業という形で始めたんです。ただ5、6年だと建物にかかったコストがリクープできないので、10年ということで借りてます。
--そうなんですか! それは知りませんでした。では、10年経ったらゼップはどうなるんですか?
秦:おそらく地主さんが引き続き貸して頂ける可能性が高いと思っています。今、ゼップの集客力は凄くて、1ヶ所で年間20万人を集めていますからね。
--その後、秦さんはデジタルの世界に戻ってこられたわけですね。
秦:そうですね。ホールネットワークの社長在任中の’01年から一年間、SMEのデジタルネットワーク・グループの本部長を兼務でやるようになりました。デジタルの世界はSMC時代にインターネットに興味を持って以来、ずっとユーザーとして親しんできましたから、割とすんなり入れました。
--この辺りから配信の時代が到来してくるわけですよね。
秦:この時にはすでにビットミュージックが立ち上がっていて、ソニーミュージック・オンライン・ジャパンというSMEのホームページと、そこからのビデオクリップ配信とか色々なことを実験的にやり始めていたんですが、基本的にはとんでもない金食い虫だったわけです。
--やはりあれは相当お金がかかっていたんですか。
秦:かかっていました。当時のデジタルネットワーク・グループには、ホームページ作成、音楽配信、映像の制作グループという部門があったのですが、2年間かけて組織構造改革をやりました。そして、3、4年くらい前に「着うた®」のアイデアが現場スタッフから出てきたので、SME単独でやるのではなく、レコード会社数社が出資する着信メロディ配信のために作った(株)レーベルモバイルで始めました。
--もうその時点で「着うた®」は技術的に可能だったんですか?
秦:技術的な問題の解決案も含めて、まず最初はKDDIさんに提案しました。
8. 音楽創造のサイクルを取り戻すために
--この先、音楽配信はどのようになっていくとお考えですか? 今日現在(5/26)、SMEはi-Tunes Music Storeに楽曲提供をされていないんですよね?
秦:我々がネットという世界を見渡したときに、従来の音楽事業と違う様々な巨人達が各レイヤーに存在しているわけです。その人達に、きちんと著作権を守って頂き、音楽への対価を得るしくみを確立してもらわないと、音楽の再生産ができません。音楽業界というのは小さな業界ですから、収益を音楽の再生産に使うわけですから。
でも、ネットの世界では、ファイル容量が軽いという理由で音楽が客寄せに使われたり、会員を増やすために使われてしまったりする傾向があるので、自分たちでしっかりとした秩序を作ってから外に出て行こうと、ここ数年取り組んできました。現在、その秩序はできましたし、Yahoo!さんをはじめとして、きちんと正当な対価をお支払いしましょうというところとはビジネスを組み始めています。その中でiTMSとはビジネスを始める前の話し合いが長引いているわけです。
--日本のデジタル配信が閉鎖されている元凶がSMEなんじゃないか? とか言われていますよね?
秦:でも、お客さんにコンテンツを一番届けているのはSMEなんです。閉鎖どころか、SMEが一番最初に配信を始めていますし、音源数も圧倒的なシェアで出しているはずです。ただ、今はiTMSに音源を出していないので、そのような非難を浴びているのかもしれませんが、金輪際決して出さないと言っているわけではありません。
--では、音楽配信が浸透するに従い、今後パッケージはどのようになっていくとお考えですか?
秦: CDの生産実績の現状の数値というのは、感覚的で申し訳ないですが、長いキャリアの中で、妥当な数字じゃないかな、と思います。カラオケ・ブームとか、ダンス・ミュージックのブームとか色々なブームがあった90年代が逆に売れ過ぎていただけなのではと感じています。
--では、配信が伸びていっても、パッケージは不滅だとお考えですか?
秦:いや、不滅といいますと「永遠」になってしまいますので、必ず何かに変わっていくはずなんですが、今我々の売り方を見ていただいても、アーティストをより一層好きになってもらい、パッケージを所有したくなるようなマーケティングやパッケージングを心がけているんです。
「着うた®」のアンケートを採っても、アルバムもシングルも「着うた®」も買っている人が想像以上に多いんです。ですから、プロモーションしてアーティストのファンを増やしたときに、そのアーティストに関する商品の種類が増えるのはとても良いことで、配信がパッケージを侵食するみたいな話ではないと思います。
レコード業界の外にとられている分を取り戻せばいいのであって、それが今後のポイントになると思います。
--パッケージ以外の音楽流通からお金の徴収をするシステムを、もう少ししっかりしなきゃいけないということもありますね。
秦:それはとても大変なことですが、重要です。デジタル・ネットワーク時代のいいところは、きちんとトランザクションを把握して、適切に課金ができるということなんですが、現状はそこからはほど遠いんです。ファイル交換は課金がされないから問題になるわけで、友達同士で音楽ファイルを交換する時に、そこから適正なお金をいただける仕組みを作れれば、こんなに素晴らしいことはないわけです。
--ただ、課金が大変なんですよね…。
秦:これは大変なことです。
--それはいつ頃になると可能になるんでしょうか?
秦:課金の仕組みは出来ても、それをきちんと実績分配をしなくてはいけないので、そこがまた大変ですから、一朝一夕にできるものではないでしょうね。
--アメリカは定額制が多いですよね。
秦:アメリカは最初から定額制で行っていますが、分配の部分で訴訟が起こったりしていると聞いています。ビジネスカルチャーの違いも大きくて、日本はきちんと決めてからでないとスタートしませんが、アメリカはとにかくスタートしちゃうんです。そして、やっていく中で固めていく。
9. アーティストの在り方を変えるのが真のデジタル時代
--インターネットが普及したことによって、インディーズに追い風が吹き、メジャーメーカーは不要になるのではないか? という意見もありますが、デジタル時代のレコード会社の在り方についてどのようにお考えですか?
秦:インターネットという概念ができたときから、これはアマチュアとか、インディーズにとって福音であると感じました。でも、ブロードバンドになっても大成功している人は少ないですよ。それはインディーズの世界での打率と、我々が絞り込んでやっている世界での打率の違いに尽きる部分でもあります。
もちろん、我々のクリエイティビティや宣伝力を使わなくても、いい音楽は出てきます。でも、そこで考えなくてはならないのは打率の問題です。メジャーメーカーはそこでの打率を上げていかなければならないわけですね。
--分母はいくつなんだということですよね。
秦:しかも、以前は打率1割でよかったところが、今は3割、4割ないと駄目な状況です。でも、マーケティング力を上げていくことで、打率を良くしてきています。
--加えて、ネットでさらに打率を上げようとしていると。
秦:そうです。単純な宣伝媒体として考えてしまうと、テレビに集約されてしまいます。ネットの良さをフルに活用しようとすれば、究極はピア・トゥ・ピアのように企業がレコメンドするだけではない世界をどれだけ作れるかにかかっていると思うんです。
--「この曲いいよ。聴いてみて」という世界ですよね。
秦:それを概念上だけでなく、実際に作れるかどうかだと思います。
--ネット上ではレコード会社自体いらないんではないか? という意見もありますよね。
秦:レコード会社の機能の何がいらないかなんです。まず、ディストリビューションはいらないわけです。でも、我々の強みは「トータルの売る力」です。営業力も含めたマーケティング力、宣伝力、そして、クリエイティブ力です。
マネージメントをやっているとよくわかるんですが、アーティストも普通の側面を持った人たちです。だから、テーマを与えたり、デッドラインを与えることによって、いかにその力を引き出すか、ということを含めたクリエイティブなプロデュース力が必要になります。また、実力と共にそのアーティストの認知も高まっていかないとなかなか売れません。SMEはアニメとのタイアップで売ることもあるんですが、それは先にお客さんに認知してもらった上で、アーティスト・ディベロップメントで実力をつけていくケースです。
--「インターネットが繋がれば、世界を相手に商売ができる!」みたいな考えがありますよね。でも、それは…。
秦:ある種の幻想ですね。電話だって昔から繋がっているわけですから。銀座の真ん中に誰も知らないアーティストのCDを山積みにして売れるかといったら、そんなことはないわけで。
僕が入社したときに「我々はレコードの外見(そとみ)を売っているんじゃなくて、中の音楽を売っているんだ」と言われましたが、レコード会社のマーケティングというのは、もともと音楽を売っていたので、デジタル時代になっても根本的なマーケティングはそう大きく変わるわけではないと考えています。
--では、レコード会社としては今後、打率をどれだけ上げられるかがテーマとなるわけですか?
秦:旧来のレコード会社の流れの中ではそうですが、時代は絶対に変わっていくので、そうではない世界での種まきをしようと思っています。
--「旧来とは違った世界」とはどのようなものだと考えられているのですか?
秦:旧来はアーティストがいたら、まずシングルやアルバムを年一回作って、ツアーも一回やって…と、活動自体が固定化したものでしたが、ネットが出てきたことによって、我々の売り方が変わる以前に、アーティストの在り方自体が変わっていくと思うんです。それこそが本当のデジタル時代だと思います。
--SMEではそういったことに対して、現在どのような取り組みをしているんですか?
秦:単純にネットだけのレーベルからデビューさせるだけではない、もう少しクリエイティブな世界を考えています。例えば、ネットだけで音を作り上げていくような試みもやっていこうと思っています。その段階では著作権的に自由な世界を作り、音を勝手にいじることができます。次は何が来るかと言えば、「作るところまでピア・トゥ・ピア」という世界だと思うんです。
--音楽のリナックス化みたいなお話ですね。
秦:まさにそうです。曲をダウンロードして、「ギターを入れ替えてみたんだけど、聴いてみて欲しい」みたいな世界が絶対来ると思いますし、今後、SMEでも積極的に取り組んでいきたいと思っています。
--本日はお忙しい中ありがとうございました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
音楽業界の川上から川下までご経験された秦さんは、音楽配信を中心としたデジタル時代に対して、とても冷静に見ていらっしゃるのがとても印象的でした。その根底には、「自分たちの最も大切なコンテンツ=音楽を安売りしない」、また、「新たな音楽を生み出すためにいかに対価を得るか」、という一貫した考え方があるように感じました。インターネットを中心としたデジタル社会に対する認識と、レコード・メーカーにおける幅広く長いキャリア。その両方を兼ね備えているのが、秦さんの強さなのかもしれません。
さて次回は、東芝EMI(株) 代表取締役社長 兼 CEO 堂山昌司氏です。お楽しみに!