第59回 堂山 昌司 氏 東芝EMI株式会社 代表取締役社長兼CEO
東芝EMI株式会社 代表取締役社長兼CEO
今回の「Musicman’s リレー」は、(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント コーポレイト・エグゼクティブ ネット&メディアビジネスグループCOO 秦 幸雄さんからのご紹介で、東芝EMI(株) 代表取締役社長兼CEO 堂山昌司さんのご登場です。8才までアメリカで過ごされ、全く日本語が分からないまま日本へ戻られた堂山さんは、ソニー(株)入社を皮切りに、(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント(米国)、(株)BMGジャパンなど、数々の企業でのご活躍を経て、2005年から東芝EMI(株)の社長に就任されました。そんな堂山さんにご自身のキャリアから学生時代の想い出までたっぷり伺いました。
プロフィール
堂山昌司(どうやま・しょうじ)
東芝EMI(株)
代表取締役社長兼CEO
1958年(昭和33年)10月10日生
1983年(昭和58年) 3月 中央大学 商学部 卒業
1983年(昭和58年) 4月 ソニー(株) 入社
ビデオ事業本部セールス&マーケティング
1990年(平成2年) 6月 ハーバード大学経営大学院修士課程(MBA)卒業
1990年(平成2年) 7月 ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ
エンターテイメント事業戦略本部バイス・プレジデント
1992年(平成4年) 4月 兼 ソニー・ミュージックエンタテインメント(米国)
ファイナンス&ビジネス・デベロプメント
シニア・ディレクター
1997年(平成9年) 1月 BMGクラシックス(アジア太平洋地域担当副社長)
1998年(平成10年) 4月 (株)BMGファンハウス取締役
2000年(平成12年) 4月 アット・ジャパン・メディア(株) 代表取締役社長兼CEO
兼 (株)MTVジャパン代表取締役会長兼CEO
2001年(平成13年) 11月 (株)BMGファンハウス取締役副社長
2005年(平成17年) 1月1日 東芝EMI(株) 入社
2005年(平成17年) 1月27日 同社 取締役社長
2005年(平成17年) 6月30日 同社 代表取締役社長兼CEO就任
- アメリカにいる頃は日本人という意識がなかった
- やりたいことだけに取り組んだ学生時代
- 最初の配属は国内営業!?〜ソニー入社
- 英語で喋るとアグレッシブ!〜堂山さんの留学時代
- コーポレート・ジェットでひとっ飛び!
- やりたいことをやってこい!〜後押しした丸山さんの一言
- 新しい東芝EMIを作るために
- 毎日が楽しい、夢のあるチャレンジでありたい
1. アメリカにいる頃は日本人という意識がなかった
--前回ご登場頂いた秦 幸雄さんとはいつ頃お知り合いになったんですか?
堂山:おそらく日本レコード協会の広報委員会でお会いしたのが最初だと思います。秦さんは当時からデジタル系に取り組まれていて、デジタルについてとても詳しく、しかも、話すことが結構過激だったので、「いいキャラクターだな」と思っていました(笑)。また、大人しい方が多かった委員会の中で、秦さんが上手く引っ張ってくださったので、ずいぶん助けられた記憶があります。
それ以来、僕自身もソニー出身ということもあるんですが、共通の知人も交えてよくお会いしています。秦さんはお酒を飲みませんが、よく喋り、歌い、非常にざっくばらんに、あまり気を使わないでお付き合いさせていただいています。
--ここから堂山さんのお話に移りたいと思いますが、ご出身はどちらですか?
堂山:僕は生まれがアメリカなんです。
--格好いいですね。
堂山:あんまり言わないようにしてるんですが・・・(笑)。イリノイ州のど田舎で生まれました。当時、自分は日本人という意識もなく、人から日本人と言われてはじめて「ああ、日本人なんだな」と思うくらいで、日本語も喋れませんでしたし、字も書けませんでした。
--お父様のお仕事の関係でアメリカでお生まれになったわけですか?
堂山:父親は学者ですが、アメリカで博士号取るために大学院へ行っていたんです。父親は大学の教授なので真面目と言いますか、いつも研究をしてるか出張して学会に出席してるかで、家にはほとんどいませんでした。いたとしても食卓で原稿書いていたり、いつも勉強していたので、「なんで父親はこんなに勉強するのかな」と思ってました。学生の僕は全然勉強していなかったから(笑)。
--あまり「勉強しろ」とは言われなかったんですか?
堂山:わりと放任主義の家庭で、「自分で考えて勝手にやれ」みたいな感じだったので、両親から勉強しろと言われたことはないですね。
--ちなみにお父さんは何の研究をされてたんですか?
堂山:物理です。金属の物性みたいなものが専門で、今でも現役で研究を続けています。
--勉学一筋の人ですね
堂山:そうですね。でも、父親が大学の先生だから子供もよくできるだろうと思うと、全然そんなことはなくて、子供は反発するしあんまり勉強しないんですよ。父親はいつも「馬鹿だな」とか、「なんで、分からないところを聞きに来ないんだ」と言うから聞きに行くと、短気なので、「なんでこんなのが分からないんだ!」と怒るわけです(笑)。それが嫌で、だんだん聞きにいかなくなってしまいました。
--音楽との出会いはおいくつの頃でしたか?
堂山:クラシック・ピアノを3才から12才まで習っていました。シカゴに住んでいた頃に習い始めたんですが、日本と違って練習のカリキュラムが決まってないんです。先生の方針と自分の実力次第で難度の高い楽曲も練習させてもらえるというものでした。毎週先生の前で練習してきた課題曲を弾いて、その日の出来具合で「☆」のシールがもらえるんですが、金の☆が貯まると作曲家のミニ石膏像をもらえるので、☆を集めるのが楽しみでした(笑)。イリノイ州の検定をとったり、演奏会で弾いたりして、今では想像できませんね。
--勉強と同じように音楽を自由に楽しんでたんですか?
堂山:それが、勉強とは違って親が厳しくて、金か銀の☆がもらえないとレッスン翌日の日曜日に遊びに行けず、一日中ピアノの練習をさせられていました。
--意外ですね。では、カラオケとかも上手で?
堂山:才能はないと思いますが、自分では音感は良いはずだと思っています。だからといって歌がうまいかというと、そこにはつながらないみたいですね。カラオケは下手なので、証明できます(笑)。でも、自分でも不思議なんですが、クラシックのコンサートで寝たことがないんです。オーケストラのひとつひとつの楽器の音を一生懸命聞いてしまうからなんでしょうね。最近は仕事で疲れているので、寝てしまうかもしれませんが(笑)。
--今でもピアノを弾くことはあるんですか?
堂山:日本に戻ってからは学校の勉強についていくのに必死だったので、12才でピアノをやめてからは一切弾いていません。いつか仕事を辞めて時間ができたら、またピアノを弾きたいと思っています。
--日本にはおいくつで帰ってこられたんですか?
堂山:8才で日本に帰ってきました。当時は帰国子女を受け入れる学校があまりなくて、インターナショナルスクールや私立も色々と規則があって入れなかったんです。だから、近所の公立の小学校に入学しました。
--日本に帰ってきて、ギャップやカルチャーショックはありましたか?
堂山:その頃は帰国子女は珍しかったし、子供ながらに「嫌われたくない」という思いもあるんですね。だから、一生懸命クラスに溶け込もうとしました。例えば、よくわからなくても冗談に一緒になって笑ってあげるとか、相手に合わせてあげるとか、そういう性格になってしまったような気がします(笑)。むしろ大変だったのは勉強の方で、帰ってきたときには日本語が全然分からなかったわけですから、本当に苦労しました。
--言葉は基本ですものね。
堂山:最初に教えてもらった国語の先生がとてもいい先生で、毎週漢字のテストをしてくれて、そのおかげで漢字も書けるようになったんですが、試験になると聞かれていることがよく分からないんですね。
--質問の意味がよく分からないと。
堂山:そうです。あと英語の成績が良くなかったです。なぜかというと、日本の英語のテストは日本語に訳す問題があるのに、日本語自体ができないから全然訳せないし、逆に「英訳しなさい」と言われても、問題文がよくわからないので訳もできない。それに日本の試験では答えが一つに決まっていて、それ以外の答えは×になるんです。アメリカ人の立場で言えば、言い方はいくらでもあるわけで、これでも正しいと思っても、「学校で習ったのはこうだから、これじゃないとだめだ」と×になってしまう。
--出題者の意図まではわかりませんからね。
堂山:変な教育だなと感じていましたね。
2. やりたいことだけに取り組んだ学生時代
--勉強に追いついてきたのはいつ頃だったんですか?
堂山:中学2、3年でやっと学校のトップ10番ぐらいに入れるようになって、高校は都立日比谷高校へ入学しました。日比谷だったら寝てても早稲田や慶応に入れるだろうと何もしなかった・・・わけじゃないですが、学園祭の実行委員長や部活動にのめり込んで、全然勉強しませんでした。
--部活動は何をされていたんですか?
堂山:僕は生物部に入っていて、プランクトンの顕微鏡写真を撮ることに熱中していました(笑)。皇居のお堀にはどんなプランクトンがいるんだろうと、こっそりお堀の水をすくったりね(笑)。今でもその「皇居のプランクトン」という僕の撮った写真が学校に残っているらしいです。
--それはお父さんのDNAですかね。
堂山:どうなんでしょうね(笑)。でも、僕は全然勉強しなかったですからね。大学受験の時にも、みんなが「受験用の証明写真が高い」と言っていたので、僕は写真部にも入っていたので、証明写真を撮ってあげたりしていました(笑)。
--バイトですか?(笑)
堂山:いや、お金は全然取らなかったです。注文を受けると、背景になるような壁を見つけて撮って、できあがった写真を希望のサイズに切って渡していました。
--何だか余裕ですね(笑)。
堂山:受験間際なのに余裕だったんですよ(笑)。僕は動物の生態学に興味があったので、京都大学の動物学科に行きたかったんですね。でも、成績が良かったわけではないですから、担任の先生からは「受かるわけない」と。それでも「とにかく受けてみたい」と言ったら、「君は高校までに充分色々な経験をしてきてるから、ここらへんで少し横道に逸れてもいいだろう」と言われて、で、受けても当然落ちるわけです(笑)。ただ、「受験勉強どうなってる?勉強しろ」と言うような親ではなかったので、「しょうがない、1浪だ」といたってマイペースに予備校通いをはじめました。
そこで今度は都立西高出身の友人ができて、ほとんど予備校には行かず、二人で喫茶店に入っては、色々な話をしていました。そんなことしているうちになんとなく1年が過ぎてしまい、当然また大学には受からないわけです。それで2浪ですね(笑)。
--2浪だったんですか・・・(笑)。
堂山:そうなんです(笑)。さすがに2浪目となると親も「どこ受けるんだ?」と訊いてくるので、「やっぱり京都大学で動物学や生態学をやりたい」と言ったら、「物理ができるのか?」と。それで「物理は普通かな」と答えたら、「それなら理系はやめろ」と。父親は理系のプロですから、その人が「理系やめろ」と言うんだったら、これはきっと正しいんだろうなと素直に思いましたね。
--理科系は向いてないと思い直したんですね。
堂山:ええ。「物理のできない人が理系に進んでも出世はしない」と言われると、なるほどと思って即、文系に変更してしまいました。ところが、僕は国語の成績がすごく悪かったんです。それが、通っていた予備校で、成城大学の中西進先生という万葉集の権威の先生が国語を教えていたんですが、その授業を聞いていたら、ある日突然、国語に目覚めたんですよ。
--ある日突然ですか・・・すごいですね。
堂山:それ以来、国語の試験というと満点連発で、予備校が隔週でやっていた論文コンテストにも入賞するようになって、だんだん自信がついてきたんです。それで、僕も単純だから「国語いいじゃないか! よし、成城大学の文学部へ行くぞ!」と(笑)。ただ、文系の勉強を全然してないのに入れるわけないんですね。最終的に入ったのが中央大学の商学部。これが父親としては恥ずかしくてしょうがないわけですよ。教授仲間には言いたくなかったようです(笑)。
--中央大学でもですか?
堂山:父親は東大の先生ですからね。東大の先生の間で、自分の息子はどこの大学に行っているか結構話題になるそうです。「お宅の息子さんどうでした?」「うちの子は東北大学に行った」とか、「うちは東大」とか。
--確かにその辺と比べられてしまうと・・・。
堂山:そうなんです(笑)。でも、僕からしてみれば「やった、大学入ったぞ!」と思うわけです。
--まあ2浪ですからね(笑)。
堂山:ええ、2浪ですから(笑)。言い訳になったのが、祖父も中央大学だったんですね。でも、祖父は名門の法学部だったんですけどね(笑)。
--大学時代はどんな生活ぶりだったんですか?
堂山:大学時代も勉強に燃えてはなかったですが、企業研究や企業分析が好きだったので、すぐにゼミに入りたかったんです。ゼミは普通3年生から入れるんですが、1年生でも入れてくれないかなと探してたら、「経営と情報システム」というゼミに入れてもらえました。そこで松下電器やトヨタ自動車といった会社分析を本にまとめて、出版社から出していました。
あと、英語力は勉強しないとどんどん落ちていくので、夜は「サイマル・インターナショナル」という専門学校に通って、同時通訳や経済英語、社会英語のコースを2年間取っていました。
--サークル活動はされていたんですか?
堂山:当時、テニスとスキーが流行っていたので、僕も浮わついたサークルに入っていました。
--いわゆるチャラい系ですね(笑)。
堂山:そうです(笑)。夏はテニス合宿で飲んで遊んで、冬はスキーへ行ってたんですが、ある日、学校に行ったら友人がテニス・ラケットを持っていたので、「テニスやるんだっけ?」と訊いたら、「カッコつけだよ」と言ったんですよ。もうその瞬間に「テニスやめた」と(笑)。ラケットをただ持ってる姿が急にチャラく見えてしまったんです (笑)。
あと、これを言うとちょっとうさんくさいと言われるんですが(笑)、「ビューティーオール学生協会」という組織で活動していました。
--名前からして怪しいですね(笑)。
堂山:本当に怪しいんです。これはあるお金持ちの学習塾オーナーが、普通のビューティーコンテストではなくて、知性を兼ね備えた理想の男性・女性を選ぼうと作った会なんです。例えば、消防庁のキャンペーンガールに入れたりするんですが、僕は渉外部長として(笑)、スポンサーを見つけてきたり、イベントを仕掛けていました。
--いわゆるイベント系サークルのハシリみたいな感じですね。
堂山:そうです。早稲田や立教と、横断的にやっているサークルでした。1つ違いの姉も一緒に入ってたんですが、当時テレビによく出ていた早稲田大の「バンザイ同盟」というサークルがあったんです。基本は早稲田の学生なんですが、僕も姉のつてで入れてもらいました。このサークルは、当時はテレビ番組で学校対抗のように学生を使う番組がたくさんあったので、そこに「バンザイ同盟」としてどんどん出ていって、転勤のときのバンザイとかひたすらいろいろなパターンのバンザイをしていました(笑)。
--そのサークルを仕切ってたんじゃなくて、自らバンザイをやっていたんですか?(笑)
堂山:自らやってました(笑)。今でも「バンザイ同盟」が掲載された雑誌を取ってあります。それは結構遊びでやってましたね。
--そういう遊びな部分と真面目に勉強している部分と、結構触れ幅が大きいですね。
堂山:二重人格なんですよね、そこは(笑)。
3. 最初の配属は国内営業!?〜ソニー入社
--就職ではなぜソニーを選ばれたんですか?
堂山:アメリカに住んでいるときに、僕はソニーを日本の会社と思ってなかったんです。日本に帰ってきて、ソニーという看板を見ると、何となく良いイメージがあって、「ソニーって面白そうだな」と思っていました。実はソニーしか受けなかったんです。これもいい加減なんですが、ソニーに入れなかったら浪人じゃないけど、アメリカへ勉強しに行こうかなと考えてたんです。そうしたら、運良く入社できました。
--運良くと仰いますけど、すごい倍率だったんですよね?
堂山:当時、理系は800人くらい採用していましたが、文系は40人くらいしか入れませんでしたね。そういう点では中央大学からソニーへ行くなんて画期的な出来事で(笑)、就職活動の時期になると、中央大学へ行って色々話をさせていただいたりもしました。
--ソニーに入社されて、最初はどちらに配属されたんですか?
堂山:僕は海外事業部に行く夢を持ってソニーに入ったんですが、最初の配属は国内営業だったんです。とてもショックで、配属初日に1人ずつ抱負を言わされたんですが、「なんで国内営業本部に配属されたのか、未だにわかりません」と役員に向かって言ってしまいました。
--それは強く出ましたね(笑)。
堂山:組織とか上下関係というものがよくわかっていなかったんですね(笑)。さすがに相手も大人ですから、「君の言いたいことは分かる。でも、国内の営業を勉強することは先々で役に立つはずだから、とにかく1年頑張ってみなさい」と言われて、僕は素直に「まあそういうもんかな」と納得しました(笑)。
--実際に国内営業の仕事はどうだったんですか?
堂山:新入社員は最初、研修をやるんですね。普通は店で立って販売員をやるんですが、僕と何人かは訪問販売の会社で、鞄一つにソニーのカタログと契約書を入れて、一般家庭と職域を3ヶ月間営業で回りました。
その時の先輩がいい人で、朝「出るぞ」と言って、どこ行くのかなとついていったら喫茶店に入るんですね。「すいません、営業に行かなくていいんですか?」と訊いたら、「コーヒーでも飲んで行こう」と。しばらくコーヒー飲んでたら「お前、帰っていいよ」と言われ、「そのかわりに20時に○○に来い」と。「何でですか?」と訊くと、その時間になると浦安の方に運送会社の寮がたくさん集まっており、戻って来た運転手さん達に商品を売っていました。トラックの運転手さんってお金を持っていても買い物に行く時間がないので、喜ばれてたんですよね。
--だから、こちらから出向いて売るわけですね。
堂山:その先輩はそういう職域をたくさん握っていたんです。「一緒に行こう」と毎晩そういうところに行って、相当売りました。
--営業成績は良かったんですか?
堂山:ナンバーワン・セールスになりました。でも、所長とケンカになってしまったんですよね。
--原因はなんですか?
堂山:毎日、前日の営業報告を朝礼でするのですが、僕は、本当は売上があるのに「0です」と報告したんです。翌日の朝にまた「0です」、その翌日も「0です」と(笑)。所長から「堂山、いい加減にしろよ」と言われても、「いや、売れないんですよ。0です」とそれを1週間くらい続けてから、いきなり「百何十万です」と報告したら、この野郎と(笑)。
--おちょくってるんじゃないですか(笑)。
堂山:実は先輩にそそのかされてやっていたんです(笑)。そんなこともあって、所長にも随分気に入っていただきました。
--研修期間が終わると、どこかへ配属されるわけですよね?
堂山:そうですね。当時、電車でしか出張できない新潟、長野、山梨を担当しました。本社の営業ですから、すごい権限もありましたし楽しんで仕事ができました。例えば、春商戦で何万台ビデオデッキ売るとして、拡売費として何億使いましょうとか、マーケティングで何億使いましょうとか、そういう大きな予算を動かすことも全部経験させてくれました。
そのうちに担当地域を大きくしてもらって、最後は秋葉原をやらせてもらえるんですが、やはりこの地域が一番難しくて、キャンペーンガールを雇って、サトウ無線や石丸電気の前でキャンペーンをやったり、予算のかけ方もすごかったです。営業は結果を出していけるので、すごく面白かったですね。
--営業は何年間おやりになったんですか?
堂山:2年くらいです。その後、1年間だけ井深会長(故井深大氏:ソニー(株) 名誉会長)の秘書をやりました。当時、井深さんは幼児教育にご興味があって、その海外との関連をお手伝いしていました。その後、現場に戻してもらって、海外事業本部で北米担当として、またビデオの販売を2年やり、その後でハーバードのビジネススクールへ行くためにソニーを辞めました。
--ハーバードへは会社のお金で行ったんじゃないんですか?
堂山:それが留学制度の社内選考に落ちたんです(笑)。でも自分で受けて学校自体は受かったので、会社に再度掛け合ったんですがダメで、ソニーを退社して留学したんです。
4. 英語で喋るとアグレッシブ!〜堂山さんの留学時代
--ハーバード大学のMBAって、数あるMBAの中でも最高峰の難易度ですよね。
堂山:そうですね。多分、運が良かったんですよ(笑)。
--勉強は続けてやってらっしゃったんですか?
堂山:半年くらい集中して勉強しました。僕は朝型だったので、朝4時くらいに起きて勉強してから、会社に行く時期もありました。
--そもそも、なぜMBAを取りたいと思ったんですか?
堂山:大学で動物学を勉強したかったことにもつながるんですが、もともと「組織行動論」を学びたかったんです。特にソニーは常に組織を変える会社だったんですが、組織は「生き物」ですのでそんなに変えていたら安定もしないし、結果が出る前にまた変えてしまうので、組織と事業育成とのかかわりに興味をもっていました。ただ、色々な授業を受けますから、企業組織論自体はそんなに深く勉強しませんでした。
--ハーバード大学では何年間学ばれたんですか?
堂山:2年間です。朝から晩までとにかくものすごく勉強しました。ハーバードのMBAには日本人が結構多いんですが、いくら英語が上手くても、かなり積極的に手を挙げて発言したり、他の人の意見に対して素早くロジカルな回答を、全部英語で組み立てなくてはいけないんです。さすがに日本ではそういう教育を受けていませんし、シャイな部分もあるので、なかなか大変な2年間でした。
日本人はどうでもいいようなことにあえて手を挙げないじゃないですか? でも外国人はとりあえず先生に注目してもらうためには何でもします。しかも、授業での発言が7割、ペーパーテストが3割のポイントになるんです。だから現場での争いになるんですね。
--あえて議論をさせるって感じなんですか?
堂山:そうです。社会に出て自分が企業に入ったときに置かれる状況を、授業でそのまま再現するんです。これは役に立ちました。苦手なタイプとも平気で議論できるようになりました(笑)。
--ここでの経験なしにそれは成し得なかった?
堂山:ないでしょうね。2年間毎日のようにそういうことを積み重ねているとやはり違いますね。僕は日本語で喋ってるときの性格と、英語で喋っているときの性格が全然違うんです。最近はやや近づいてきているんですが、英語だとものすごくアグレッシブです。外国人とケンカしても自信がありますし、議論しても全然大丈夫だと思っています。でも、日本語だとあちらこちらに配慮してやりにくいこともありますね。会社でも、本当は英語で言いたいけど、日本語でどうやって言おうかな・・・と考えたりすることもあります。
--その2年間はハードそうな日々ですよね。
堂山:勉強だけではなくて、帝王学も学ぶ場として、毎週末ブラックタイのパーティーがあるんです。ですから、入学と同時にまずダークスーツと蝶ネクタイを買わなくちゃいけない。そして、パーティーに出て、友達を作ったり、国を隔てず色々な人たちとネットワークを作るわけです。
--錚々たるメンバーがやっぱりいたってことですか。
堂山:ベネトンの一族の息子だとか、皇族とか、おぼっちゃまも多いですからね。
--世界中のビジネスエリート候補が集まってるわけですね、生徒は何人くらいいるんですか?
堂山:700人くらいで、その中で日本人は17、8人ですね。
--ちゃんと卒業できる確率は?
堂山:落ちるのはほとんど1年生の時で、最後はあまり落ちません。同期の日本人で落ちた人が2人いたんですが、1年くらい他の学校へ行って、足りない部分を勉強して、また認めてもらって、1年遅れで2年生をやるんですね。
--ソニーを1回辞めて、MBAを取得されて、またソニー入っちゃうんですよね。それは何か約束があったんですか?
堂山:いいえ、卒業後はアメリカのコンサルティング会社に入ることが内定していたんですが、当時のソニー本社の経営戦略グループ部長で、最終的に副社長になられた徳中(暉久)さんから電話があって、「卒業できた」と言うと「コロンビア・ピクチャーズやCBSソニーを買って、若手でエンタテイメントを中心にやっていく人が必要になってきたので戻ってニューヨークで働かないか?」と打診があったんです。それは面白そうだなと思って、ソニーに戻りました。
--行く予定だったコンサルタント会社っていうのはどこにあったんですか?
堂山:シカゴです。実は夏にロザンゼルスのマッキンゼーでインターンをやったんですが、それも将来を考え直するきっかけになりました。養護老人ホームのチェーンを立て直すというプロジェクトで、LAのビーチ近くに家を借りたのに、アメリカのど真ん中のオマハというところでプロジェクトが動いていましたから、日曜日にLAを出て、平日はずっと老人ホームに住みこんで仕事をして、金曜日にしか帰って来れないわけです。
しかも、毎日お年寄りに接しているので「自分も必ず年老いていくのだから、人生をもう少し考えた方がいいのかな。コンサルはやりたくないな」と悩み始めたんです。当時はMBAを取ってコンサルに行くことは一つのステータスでしたが、ソニーに戻ることにしました。
5. コーポレート・ジェットでひとっ飛び!
--最初にソニーを辞められる前までは、営業としてビデオを売ったりしていたんですよね。それが戻った瞬間にいきなり「エンターテイメント事業戦略本部バイス・プレジデント(副社長)」に・・・。
堂山:ちょっと下積みもありましたが、かなり早く良いポジションに就かせていただきました。偉くなったように見えますが、タイトルが偉そうなだけです(笑)。同時期にソニーが事業を立ち上げた映画(SPE)とゲーム(SCEA)にも日本から若手が加わったんですが、この三人は今でも親しくしているくらい仲もよかったので、“ソニーの三羽ガラス”なんて言われていました(笑)。
当時社長だった大賀さん(大賀典雄氏:ソニー(株) 相談役、(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント(SME) 名誉会長)は、SMEのアメリカにしろ、コロンビア・ピクチャーズにしろ、日本人を大挙して入れたくなかったんですね。つまり、若い人間を入れて、アメリカの従業員たちと仲間になって、一緒に事業を勉強し、最終的に幹部になってくれればいいという非常に長期的なビジョンを持っていました。ですから、先程の若手三名を非常にいいポジションに置いてくれたんだと思います。
--大賀さん直々の人事だったんですね。
堂山:大賀さんの思想を受けた人事ですね。
--ちなみにソニーの中でもMBAを取っていた人が少なかったんですか?
堂山:それもありますが、僕は井深さんの秘書をやっていましたから、そこで大賀さんや盛田昭夫さんと顔を合わせる機会が運良くありました。
--まさにトップの人たちと。
堂山:そうです。若かったんですが、トップの動きはいろいろ勉強になりました。皆さんも僕の顔を覚えていてくださったので。
--井深さんや盛田さんは、まさに伝説の人物になりつつあると思うのですが、どんな人でしたか?
堂山:皆さん、素晴らしい方々でした。盛田さんはとてもエネルギッシュでした。いつも何かを考えていて、何か浮かんだらすぐに人を呼んで、その考えをぶつけていました。それに、決断が早いです。井深さんとは一緒にゴルフをしたり、別荘によく連れて行ってもらったりしました。仕事が終わって車でお送りすると「飯でも食っていけよと」と、奥さんの手料理を何度も食べさせていただき、可愛がってもらいましたね。
--そりゃあ、目をかけていないと秘書になんかしてくれないですよね?
堂山:いや、それはあくまでも人事の意向です。最初は「決まるかどうか分からない」と言われました。というのも、井深さんは気持ちが合わないと、どんなに優秀な人でも秘書にしないんですが、僕の場合は面接に行ったら割と気に入ってもらえました。僕を気に入ったというよりも、「8才までアメリカにいて、日本語がわからないまま日本に帰って来た」という僕の人生に井深さんは興味あったのだと思います。
--「こういう若者は将来どうなっていくんだろうか?」という個人的な興味ということですか。
堂山:頭の中で英語と日本語はどういう風になっているんだろう? とかね(笑)。
--その後、SMEのファイナンス&ビジネスデベロップメントを兼任されていますね。これは具体的に何をする仕事なんですか?
堂山:日本で言う財務や経理といったものではなくて、アジアの子会社の経営を管理する本社側の人という感じですね。その当時、SMEは台湾や香港に子会社がありましたが、合弁が多かったんです。SMEとしては全部100%の子会社にしたいという戦略があって、僕は台湾や香港に出張し、新しい会社を作ったり、合弁を解消したり、新しい社長を入れて、スタートアップさせるという仕事をずっとやっていました。結局、台湾、香港、インドネシアの3国で3社作りました。
--’88年から何年までアメリカにいたんですか?
堂山:’97年の終わりまでいました。
--それはずっとニューヨークですか?
堂山:ニューヨークですね。ソニー・コーポレーションにいた時は音楽だけでなく、映画会社も見てましたし、ゲーム会社のアメリカを作る作業もやってましたので、毎月のようにコーポレート・ジェットでニューヨークからLAに飛んでいました。
--格好いいですね!
堂山:今から思うと格好いいんですよ(笑)。でも、自分1人では乗れないですから、例えば、ソニー・アメリカの社長がLAへ行く時に必ずお供していたんですが、これはすごかったです。まず、マンハッタンからヘリコプターでジェットが置いてあるところまで飛んで、ジェットに乗ると専属のスチュワーデスさんが「今日の食事はこれです」と運んできます。そして、LAのプライベート飛行場に着くと、そのまま車に乗り込んで豪華なホテルに直行。夜は映画スタジオへ打ち合わせに行って、プロデューサーの方たちと会食していました。ある時、撮影を見学していたら、「ケビン・コスナーです」と挨拶されたんですが、当時は「ケビン・コスナーって誰だろう?」と・・・(笑)。
--(笑)。そもそも映画とかよく分からないんですか?
堂山:いや、映画は好きなんですが、人の名前を覚えるのが得意じゃないんです(笑)。あるとき「アンディ・ガルシアです」と言われて、「誰? 俳優? プロデューサー?」と、そういうことが結構ありました(笑)。あまりにも恥ずかしいから、女優と男優の写真をファイリングして勉強しました(笑)。
6. やりたいことをやってこい!〜後押しした丸山さんの一言
--当時のアメリカでの生活というか、仕事ぶりはハードだったんですか?
堂山:ハードでしたが、とても楽しかったです。ただ、僕は本社側の人間ですから板挟みになりますし、エンターテイメントの世界では、日本人が分かったような顔をして入って来るのを嫌がるので、色々と苦労もしました。
--日本人は少なかったんですか?
堂山:SMEでは僕1人です。
--日本のレコード会社でも外資系でトップが向こうから来るという形がありますけど、その逆ですね。
堂山:でも、トップではないですから、それとはちょっと事情が違います。たかだか部長級の立場で、現場の偉い人は大勢いましたからね。僕がニューヨークにいたときも日本側のスパイだと思われて、すごい嫌がらせをされました。
--居心地がいいもんではありませんね。
堂山:そうですね。例えば、僕が19階で仕事していて、25階にはコロンビアのA&Rグループがいるとします。そのフロアにたまたま知り合いがいて、ちょっと遊びに行きました。そうすると1分後には副会長から電話がかかってきて、「昌司、お前は何で25階にいたんだ」と言われるんですよ。僕がクリエイティブのフロアに出入りすることを、彼らはものすごく嫌がっていました。外国人は自分たちが日本人にコントロールされているという風に現場には見せたくないんです。
--プライドが傷ついちゃうんですね。
堂山:そうです。即刻「もう行くな」みたいな感じですよ。実は「限界だな」と思ったのがその頃でした。
--そういうこともお辞めになる引き金になってるわけですか。
堂山:すごくありますね。あと、’96年に出井さん(出井伸之氏:現ソニー(株) 最高顧問)が社長になって、エンターテイメントに日本人をたくさん入れるようになった時期があります。それで「これからは僕のやってきたことも立場も変わるんだろうな」と思っていた頃にBMGからお話をいただいていたので転職しました。その時にニューヨークから、コンタクトのありました丸さん(丸山茂雄氏:現(株)に・よん・なな・みゅーじっく 代表取締役)に電話をして、「BMGから話が来ているんだけど」と相談したんです。そうしたら「え、辞めたら?」と(笑)。
--丸山さんらしいですね(笑)。
堂山:丸さんが「ソニーというかごの中で一所懸命やっても、誰もお前のことを認めないよ。だから一旦辞めて外に出て、外の人に評価してもらえるように頑張れよ」と言ってくれたんです。「俺がまたマーケットプライスで買い戻してやるから、やりたいことやってこい」と言いながら、丸さんが辞めちゃって・・・(笑)。でも、丸さんがそこまで言ってくれたから最終決断したんです。感謝しております。
--丸山さんのアドバイスも受けて、ソニーを辞めてBMGに移られるわけですが、まだアメリカにいらっしゃったんですか?
堂山:少しだけアメリカにいたんですが、すぐにBMGジャパンの1階に暗い倉庫みたいな部屋をもらいました(笑)。
--BMGジャパン取締役として日本に戻って来たわけですね。
堂山:その前にBMGクラシックスで太平洋地域のビジネスを統括していた時期がありまして、その時にはもう日本に駐在していました。1年くらい経った頃に、成長し続けていたBMGジャパンが初めて赤字に転落しまして、BMG本社から「昌司、BMGジャパンを立て直せ」と言われて、’98年4月にBMGジャパンに入りました。
--その時の社長はどなただったんですか?
堂山:修さん(佐藤 修氏:(株)ポニーキャニオン 代表取締役会長 / 日本レコード協会会長)です。修さんとはいろいろ頑張ったんですがいつのまにか田代さん(田代秀彦氏:現(株)デジタル・ラボラトリー代表取締役社長)が来て(笑)。あの飄々とした雰囲気で(笑)。ある国際会議に初めて田代さんが来るというので、みんな「どんな人なんだろう?」と思っていたら、飛行場でばったりお会いして、早速その日の夜から朝までバーで飲みました(笑)。翌日、正式に会議が始まって、一応会議が始まる前に人事のトップから新しいエグゼクティブの紹介をしなくてはならないんですが、田代さんが来ないんですよ(笑)。
--主役が来ない(笑)。
堂山:主役が来ないんです。壇上で紹介をする予定でしたので、さすがにまずいじゃないですか。即座に「これは寝てるな」と思ったので、すぐホテルへ戻って部屋に電話してみたら、やっぱり寝ていました(笑)。
--さすが大物ですね(笑)。ビジネスの方はいかがでしたか?
堂山:田代さんは全て僕に任せてくれましたから、BMG時代に田代さんにお伺い立てたことはあまりないと思うんですよ。そういう意味では良い勉強をさせていただきました。
--その後、社長に就任されたアット・ジャパン・メディアというのは存じ上げないのですが、これはどのような会社なのですか?
堂山:海外の知人から「100億円のファンドがあるので、日本でメディア系の会社へ投資するために会社を作るんだけど、社長で来ないか?」と誘われたんです。面白そうだしやりたいと思ったので、田代さんに辞めたいと伝えたら「いいんじゃない?」と。若いうちはベンチャーやるぐらいが良いと言われて(笑)、すぐにBMGを辞めて、アット・ジャパン・メディアを立ち上げました。
その会社で、2000年に今のゴンゾ・ディジメーションを作って投資したり、VIBEという音楽サイトを立ち上げたり、MTVジャパンを作り、2001年1月1日午前零時から新チャンネルで放送を開始したり、ゲーム会社を作ったりしまして、最終的にMTV、ゴンゾ、VIBEが残りました。当時、100社を超えるインターネット系のベンチャーに会うことも出来ました。
--その後、再び戻られたBMGを辞めたのはいつなんですか?
堂山:辞めたのは’05年12月31日で、’06年1月1日から東芝EMIです。
7. 新しい東芝EMIを作るために
--今回、東芝EMIは大規模なリストラをされましたが、それは堂山さんへの最初のミッションだったんですか?
堂山:それは違います。東芝EMIへ入った時に、「最初の3ヶ月間、僕はこの会社の良いところだけを探します」と社員には伝えました。悪いところから探し出すと、どうしても良いところは見えなくなりますからね。どうやってその良いものを残しつつ、新しいものに変えていくか、そういう作業を一からやりました。
その中で役員人事や人事異動、レーベルの組織改正など、かなり時間をかけてやったのですが、上期の業績もあまりよくならず、そのままではさらに業績が悪化することも懸念されたので、会社が存続して成長していくためには大きな痛みを伴ってでも抜本的な改革をせざるをえないと。EMI本社からも「スピード感が欲しい」という要望が強くでてきましたし、最終的にはEMIと東芝本社からリストラの要請を受けて実施した部分もあります。
--東芝EMIの良いところは、どこだとお考えですか?
堂山:なんといっても、東芝EMIには素晴らしい音がしっかりと集まってきているんです。本当に良いアーティストにめぐり合えていると思いますし、才能豊かな新人もたくさん集まっています。もちろん、優秀なディレクターもいます。ただ、全体的に危機感があまりなかったので、会社側が芯を作ってあげさえすれば大きく伸びると考えていますし、マーケティングやプロモーションにより力を入れていかないと折角の素晴らしいアーティストや楽曲がもったいないと感じています。東芝EMIは他社と較べても、いい音楽を見つけてくるクオリティが格段に高いんですよ。
--それは東芝EMIの伝統ですよね。
堂山:そうですね。ですから、いい音楽をちゃんと生かして、ヒットさせていかないともったいないし申し訳ないと言っているんです。社員も相当意識を変えつつありますから、成果が表れる日も近いと思います。
現在、洋楽部門の立て直しをやっていますが、僕自身が現場の宣伝会議やマーケティング会議に出席して、その中でプロジェクトの方向性や物事の考え方を聞き、一緒に考えていっています。つまり、現場の意識から変えていかなくてはいけないと考えているんです。トップダウンでは、なかなか僕の思っていることや考えていることが全員には伝わりづらいですし、結果もなかなか出てきません。一人ひとりが会社の中の自分を変えなければ会社のカルチャーは変わりませんからね。
--社員の方と直接話し合うようにされているわけですね。どのようなことを話されているんですか?
堂山:例えば今回の人員削減というのは『ミニ東芝EMI』を作るためではなくて、あくまでも『新しい東芝EMI』として成長するための改革なんです。ですから、社員には同じ仕事を少ない人数でやれなんて言っていません。大切なのは自分たちの業務が現在の人数でどこまでやれて、どこまでやらなくてはいけなくて、何がプライオリティーなのかを、今しっかりと考えて、作り直すことだと話しています。
--ダウンサイジングしたいわけじゃなくて、まさに再構築したいということですよね。
堂山:そうです。そしてより成長するためにはこの溜池の土地と建物を売却し、そのお金をもとに早期退職支援制度を実施したり、アーティストの発掘・育成やA&Rへ投資をする他に選択肢はなかったんです。
--自分の力で立ち上がるしかないと。
堂山:まさにそうです。
--溜池の本社ビルにはいつまでいらっしゃる予定なんですか?
堂山:’08年2月までです。今はフロアやビルがバラバラなんですが、移転をしたら1フロアになりますから、大分雰囲気が変わるでしょうし、部門間のコミュニケーションもとりやすくなると思います。
--東芝EMIには古い体質が残っている雰囲気がありますか?
堂山:たくさんありますね。それがすべて悪いということではないんですが、少しずつ変えていかないと、本当の意味で変わらないですね。今まではヒットで色々な部分を隠せてきた時代だったので良かったですが、何年も厳しい状況が続くと問題もたくさん出てきます。たまたまそういう時期に僕が社長をやってるとしか思えないんですけどね。
--そうですね。誰がやってもこういう日が来ると・・・。
堂山:僕は歴史のあるこの会社を受け継いだ人間で、次の世代に引き継ぐために東芝EMIを良くしていこうと思っているだけで、それを分かって欲しいとはよく言っています。
--でも、色々と言ってる人もいますよね。
堂山:たくさんいます。会社が悪いとか、誰々が悪いとか、何でも人のせいにしてしまうけど、自分が変えていこうと真剣に取り組んだかというとそれはあまりないという人もいます。やはり自分たちで考えて、自分たちで方針を決めて、自分たちでリスクを取って、自分たちでコミットするようにしていかないといけません。なんでも会社を頼るというわけにはいかないですからね。
--東芝EMIの再構築はいつ頃を目途としているのですか?
堂山:来年の3月末を目標にしています。現在は社内に営業、経理・財務、マーケティング、制作進行の4つのエリアのワーキングチームを作り、みんなで議論して改善し、新しいプロセスを会社に入れようとしています。
それから、社員をスキルアップしていくために、経理ではない人のための「音楽ビジネスにおける経理講座」を開設したり、交渉力研修などを受けてもらい、少し刺激しようと思っています。また、管理職には外部のマネジメントやリーダーシップ研修、しばらく中断していた中堅管理職研修も再開しました。そうしないと管理職になったときに、自分が何をすべきかがわからなくなってしまうんですよ。
--リーダーシップがとれない?
堂山:部長や課長というマネジメントする立場になったのに、いつまでも現場にいる気分では、組織としてのバランスが悪くなってしまいます。そうなると組織としての力が発揮できなくなりますので、管理職に対する研修も入れて改造していかなくてはいけないと考えています。
--要するにゼロから東芝EMIという会社を作り直しているような感じですね。
堂山:気持ち的にはそうですね。ただ、アーティストには絶対に迷惑はかけないと言っています。営業所を撤退する予定もありません。今回のリストラはあくまでも成長に向けて歩き出すための社内の再構築なんです。
8. 毎日が楽しい、夢のあるチャレンジでありたい
--最後に音楽業界全体についてのお話を伺いたいのですが、堂山さんは音楽ビジネスの現状をどのように見ていらっしゃいますか?
堂山:私は今後の業界の課題として、デジタル時代にレコード会社がどのように変わっていくかということが最も大きいと思っています。レコード会社の力ではこのデジタル化の波を止めることはできません。世の中の技術が高度化し、聴き手が選択するメディアで音楽を聴く。私達が変わるしか生き残る道はないと考えています。
--EMIは、音楽配信にしてもかなり早い時期からワールドワイドに取り組んでいるような印象があります。
堂山:デジタルのビジネス・モデルは毎日のように世界中で新しいモデルが産まれています。誰もどのモデルが成功するか最初はわからないというのが正直なところだと思います。EMIグループとしても、「初期段階で失敗する、失敗から学ぶ、失敗を修正する、低コストで失敗する」を早いスピードで経験し、まずは参入してみる姿勢が大事だと考えているんです。
--パッケージに関してはどうとらえていらっしゃいますか?
堂山:もちろん、その一方で当然パッケージの存続はありますので、高付加価値商品でどこまで顧客を満足させることができるかが重要だと考えています。
--プロモーションをはじめ、音楽業界を取り巻く環境は本当に大きく変わりつつありますね。
堂山:デジタル時代は思った以上の速さで移行していくと、最近ますます感じるようになりました。ブログ、MySpace、Mixi、YouTubeと1年前は想像もしなかったビジネス・モデルが音楽業界のプロモーション等に影響を与えるようになりました。このようなスピードの中で、レコード・ビジネスを取り巻く様々なビジネス、レンタル等、今後皆で考えていくべき課題は多いと感じています。
--まだまだ変えていくべきことも多いということですね。
堂山:私達は業界の苦しい状況を第三者のせいにすることはできません。CDを買う・買わない、音楽をダウンロードする・しないはお客様が決めることです。例えばチャレンジとしてCDの価格を2,000円以下にするとか、当社ですぐに出来るということではないですが、お客様に対してまだやっていないことは、買いやすい値段で音楽を提供することだと思います。理想かも知れませんが、私は音楽業界は全盛期の売上規模に5年以内に戻す努力をすべきだと思います。そのためには毎日が楽しい、夢のあるチャレンジでありたいと願っています。
--是非頑張って頂きたいと思います。本日はお忙しい中ありがとうございました。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
最初に堂山さんの経歴を拝見したときは、思わず「超エリート」という言葉が浮かびましたが、実際にお会いした堂山さんは、その生い立ちからも伺えるようにバイタリティー旺盛で、とてもエネルギッシュな方でした。インタビューの中で「真面目な部分と遊びの部分」、あるいは「日本語と英語」を挙げて、ご自身のことを「二重人格だ」と仰っていましたが、その両面が絶妙のバランスで機能したからこそ、数々の難局を乗り越えてこられたのかもしれません。堂山さんが社員の方々と作り上げる「新しい東芝EMI」とは、一体どのようなものになるのでしょうか? 今後も注目していきたいと思います。
さて次回は、放送作家・音楽プロデューサー 木崎 徹氏のご登場です。お楽しみに!