第63回 加山 雄三 氏
今回の「Musicman’s RELAY」は作曲家 千住明さんからのご紹介で、”永遠の若大将” 加山雄三さんのご登場です。慶応義塾大学法学部を卒業後、’60年東宝に入社され、「若大将シリーズ」にて一躍若者達のスターになった加山さん。ミュージシャンとしても’65年の『君といつまでも』が大ヒットし、以降数多くのヒット曲を送り出しました。俳優、ミュージシャン、そして海にスキーにと縦横無尽に駆けめぐるスポーツマンであり、画家としてもご活躍と、一つの肩書きだけには到底収まりきらない幅広さで、まさに「加山雄三」というひとつのジャンルを形成していると言っても過言ではありません。今年古希を迎えられ、ますます精力的に活動される加山さんにお話を伺いました。
プロフィール
加山雄三(かやま・ゆうぞう)
1937年4月11日神奈川県生。慶應義塾大学法学部卒業後、’60年東宝入社。「男対男」で映画デビュー。’61年、映画『大学の若大将』に主演し、大人気となった「若大将シリーズ」がスタート。黒澤明監督の『椿三十郎』『赤ひげ』にも出演。歌手としては’65年に「君といつまでも」が大ヒット。以後も『お嫁においで』など数々のヒット曲を世に送り出す。幼少より作曲を始め、弾厚作のペンネームで、ロック・ポップスからクラシックまで幅広いジャンルの楽曲を創作し続けている。近年では音楽活動の他に、加山雄三絵画展や、陶芸の分野でも個展を開催するなど、他方面に渡って活躍。今年(’07年)古希を迎え、4月20日のゆうぽうと簡易保険ホールを皮切りにコンサートツアー「KOKI」がスタート。また毎年恒例となっている「第5回 湯沢フィールド音楽祭2007」の開催もひかえている。
1. 孤独の中で打ち込んだ音楽と絵画
--前回ご登場いただいた千住明さんとの出会いはいつ頃だったのですか?
加山:実は千住明君が高校生の時に、彼が通う慶応高校の学園祭に行ったんです。それまで僕は学園祭とか一切行ったことがなかったんですが、昔から懇意にさせていただいていた扇千景さんの息子さんも同じ高校に通われていて、扇さんから「息子のために学園祭に行ってあげて」と一言お願いされまして(笑)、「講演会をやっても学生は話を聞かないだろうし、どうせ昼寝しちゃいますよ」と言いつつ、初めて学園祭に行きました。その講演会の会場に若き日の千住君もいたんですね。
その時に僕の話を聞いて、「音楽ってすごい」と思ったって千住君は言うんです。なぜかというと、話だと面白くないだろうから、途中でギターを手に歌を歌ったんです。そうしたら、今までの講演会では居眠りをしているか、喋っている生徒が多かったのに、僕が歌っているときには一人もそういうことをしていなかったことに千住君は仰天して、「音楽の力は凄い」と思い、自分も音楽の道を志したらしいんです。今彼は立派な音楽家になっていますから「それはよかったね」と思えますが(笑)、それが本当だとしたら音楽の影響って大きいんだなとつくづく思いますね。
--ここからは加山さんご自身のお話をお伺いしたいと思います。加山さんは昭和12年のお生まれですが、どのような家庭環境でお育ちになったんでしょうか。
加山:ある意味では豊かな家庭であったことは事実です。当時はステレオや蓄音機すら家の中にない時代ですが、そういうものがあったということは、音と遭遇するのに非常に恵まれた環境だったと思います。実は親父(上原謙氏)が学生時代クラシックに憧れて、クラシックのアルバム収集を大学の時からやっていたんです。
ところで「アルバム」という言葉がどうして付いたか説明すると、当時は一つの交響曲を78回転のSP盤で聴くとほんの一部しか聴けないわけです。SP盤初期の頃は裏面もないですから、枚数を重ねていかないと交響曲を全部収めることができない。つまり、SP盤を何枚か重ねていって、写真のアルバムと同じように本のような形にしたものが「アルバム」だったわけです。
--そういったアルバムはお父様が若い頃から集められたものなんですか?
加山:そうですね。僕の祖父は親父が14、5歳の時に病気で亡くなっていて、祖父は陸軍大佐だったので軍人恩給だけで生活をしていたんです。ですから、親父はアルバイトをして、昼ご飯を抜いたりしてレコードを買ったというエピソードがあるんですが、そうやって苦労をして手に入れた大切なレコードを時々親父が聴いているのを子供心に覚えています。また、母親は流行歌や日本の民謡が非常に好きな人で、それをSP盤で集めて聴いていました。その両方の音楽を聴きながら育ったので、音楽に対して早い時期から興味を持てたんだと思います。
--それはおいくつくらいからですか?
加山:3、4歳の頃ですね。もう気がついたときには家の中に音が溢れていました。今の時代からすれば当たり前のことですし、むしろ今は過剰なくらいでしょうが、あの時代にしてみれば、そういう環境がない限り、こういったチャンスはなかったと思います。
--とても珍しい環境ですよね。
加山:ええ。珍しいと思います。その中で小学校4年の頃にたまたまピアノを弾ける女性が家に遊びに来て、家にあるオルガンを弾く姿に魅せられて、「自分もやりたい」と思いました。振り返って考えてみると、物事に対して非常に好奇心が旺盛だったと思います。また、時代背景としてゲームやTVといった娯楽もなく、楽器すらない、今から考えると何にもない時代だったんですね。遊ぼうと思っても独楽や凧、メンコぐらいなもので、それ以外は何もない。ただ、そんな環境の中で工夫をして自分で楽しむということが自然と身についたんだと思います。
--学校ではどのような生徒だったんですか?
加山:茅ヶ崎の小学校ではある種除け者にされていたんですよ。
--加山さんが除け者なんて全然想像できませんね。原因は何だったのですか?
加山:友達がみんな粗末な洋服を着ている中で、僕はきちっとした洋服を着させられて、自分でもそれが普通だと思っていたんですが、みんなからどこか敬遠されているような状態でした。ですから、なかなか仲間に入れてもらえなかったので、教室の中でノートのうしろに絵を描いたり、音楽室に行ってオルガンを弾くとか、孤独な中でも楽しむようにしていました。それが小学校の低学年で、その頃にもらった成績表で一番良かったのが絵と音楽だけで、それ以外は「良」とか、さすがに「可」はなかったですが(笑)、あまり成績が良くなかったですね。絵と音楽に関しては高校までずっと成績が良かったです。
小学1年生の頃の音楽では、先生が和音、今で言う「トニック」「サブドミナント」「ドミナント」の三種類をオルガンで出して、それを答えるという授業をしていまして、昔ですから「ドミソ」ではなくて「はほと」と答えるわけですが、先生がオルガンを鳴らした瞬間に私が「はほと!」と答えると、それを真似してみんなが「はほと!」と言うんです。逆にわざと黙っているとみんな答えられない(笑)。音楽に対する耳の良さというものが小学1年生の頃からあったというのは、それ以前の音楽的環境によって自然に身についていたんでしょうね。
--音に対する鋭い感覚はすでに小学校の頃からお持ちだったんですね。
加山:そうですね。和音に関しては確実に分かっていました。また、絵も好きですからよく描いていましたが、描けば描くほど上手くなっていくのを実感していました。小学校2年生のときに、お婆さんに連れられて登山電車に乗ったときの絵が今ミュージアムに飾られているんですが、描写の遠近が非常にしっかりしているんです。その絵は写生しているわけではなくて、家に帰ってきてから描いたものなんです。つまり物を見たら、それを記憶にとどめて描くということができたんですね。また、小学6年生の時に鉛筆で描いた校内の風景画があるんですが、それを今見ると「なかなかここまでは描けないよな・・・」と思うようなことをきちっとやっているんですよ。自分でも感心するくらい(笑)。ですから、孤独に追いやられたり除け者にされたりしても、ひがんだり落ち込むことなく何かに打ち込んでいれば、いずれ役に立つんだと声高に言いたいくらいですね(笑)。
--スポーツだ何だという前に、そういったアカデミックな才能の方が先に開かれたんですね。
加山:実は僕は1歳になるかならないかくらいの時に内蔵系の大病をしているんです。それまではまるまる太っていたんですが、一瞬にして痩せてしまいました。それで両親が僕の健康を気遣って、茅ヶ崎という自然の豊かなところに移り住むことになるんです。このまま都会の中にいたら、病弱な人間になってしまうだろうと。茅ヶ崎に移り住むことは僕を自然の中に放り出すことによって逞しくなってもらいたいという両親の願いだったんです。茅ヶ崎での生活は自然の中で自由でありながら、自然との闘いでもあるという厳しい環境でした。実際に泳げるようになったのは小学4年生くらいなんですが、まだプールなんてない時代ですから、海の荒波の中で泳ぐうちに相当鍛えられました。
2. 「若大将シリーズ」の成功と現実とのギャップ〜黒澤明監督との出会い
--加山さんは学生時代、俳優になろうと思ってらっしゃったんですか?
加山:いや、全く思っていませんでした。本当はサラリーマンになろうと思って、三菱商事とアサヒビールの会社資料をもらってきていました。
--では、俳優を志すきっかけみたいなものがあったんですか?
加山:大学を卒業する半年前に友達が遊びに来たんですが、部屋に置いてあった会社資料を見て、「これはなんだ?」と訊いてきたので、「いや、就職しようと思って」と言ったら、彼は「お前はなに考えてるんだ。学生時代、遊んでばかりで全然勉強なんかしてないじゃないか。でも、お前はスポーツと音楽だけはできるだろう。それを生かさない手はない。しかも親父さんには資産はないかもしれないけど、暖簾はあるじゃないか」と言ったんですよ。
確かにそうなんですが、俳優は自分の性に合わないと思っていました。そうしたら、その友達から「お前、船が好きだろう。前に造船技師とか船のデザイナーになりたいって言ってたじゃないか。だったら、一稼ぎして自分で船を造ればいいじゃないか」と言われて、ポンと頭に明かりがついたわけです。ですから、僕は非常に不純な動機で俳優になったんです(笑)。それで親父に相談したら「とんでもない! 馬鹿なことを言うな」と一喝されました。
--お父様は俳優になることに対して反対されたんですか。
加山:母親は「おまえがやりたいんだったら」と賛成してくれたんですが、親父は「プライバシーのない生活はお父さんだけでたくさんだ。お前には地味でもいいから、きちっとした仕事をやってもらいたい」、「有名になることということがどれほど大変か・・・。お前にそれを味あわせたくない」と大反対だったんです。その説得にあきらめかけたんですが、「やっぱり船を造りたいしな・・・」とそれしか考えていなかったですから(笑)、再度お願いをして、結局三度目の説得で親父が「自分でまいた種は自分で刈り取るという覚悟でやれるか?」と承諾してくれました。
実はその時に母親から「実はあなたが中学生の時に松竹や大映から話があったけれど、お父さんは『家庭の中のことは一切出さないのが私の主義だから』と全て断っていた」と聞きました。また同時に「世間の人たちはあなたが大学を卒業するまであなたのことを知らなくて、自由奔放にのんびりと生活ができただろう。それがプライバシーのある生活なんだ。ところがプライバシーが無くなったときには色々な意味で自由にならなくなるんだよ」とも言われたのですが、この言葉の意味がのちのち痛いほど分かりました(笑)。
--加山さんは東宝と専属契約を結ばれるわけですが、なぜ東宝を選ばれたんですか?
加山:それは株価が一番高かったからです(笑)。株価が高ければ経営的に一番しっかりしているだろうし、母体には小林一三さんが築き上げた阪急電鉄がありましたからね。
--大学を卒業されていきなりカメラの前にお立ちになったわけですよね。簡単にできるものなんですか?
加山:早口言葉や発声といった基礎的なことは同じ頃に入社した俳優さんたちと一緒に、2ヶ月くらい毎日訓練させられましたから、カメラの前に立つことに対しては何となく想像がついていました。ただ、可笑しくもないのに笑わなくてはいけなかったり、好きでもない女性とラブシーンをしなくてはならなかったりと、そういったことがくだらなく思えてきて、いつ辞めようかなと思っていたんです(笑)。
程なく「若大将シリーズ」が大当たりしましたが、私には基礎がなくて、とても不安になりました。他の俳優さんのように、10年くらい下積みがあって、その中で訓練し辛いことを乗り越えて俳優になる人の方が羨ましく思っていましたし、自分は長い竿の先にぶら下げられて、いつ倒れるかわからない状態にいるような気分でした。
--あの若大将を演じながら、そのようなことを考えていたんですか・・・。
加山:自分は普通の人間なのにどうしてスーパーマンみたいに描かれたり、やたら女性にもてる役をやったりと、「現実はそうではないだろう!」という風にどうしても思えてしまうんです。そのギャップを埋めるのが非常に辛かったです。私は普通に電車で撮影所まで通っていたのが、電車に乗ったら身動きがとれなくなるような状況になったときに、「何でこうなるのか」という気持ちの方が強かったですね。でも、東宝もお客さんが入るとなれば、立て続けに「若大将シリーズ」を企画しますからね。
--当時は毎月撮っているような感じですか?
加山:そうですね。すごい本数をこなさなくてはならなくなりますし、それと同時にテレビ番組にも出るようになりましたから、酷いときは平均睡眠時間が3時間という日が3週間くらい続いたこともありました。ですから、昭和38年に黒澤明監督の『椿三十郎』という作品に遭遇するまでは、「いつ辞めるか」しか考えていなかったです。でも、黒澤さんという人に会ったときに、「こういう映画を作れる人がいるんだったら、俺はこの世界に残りたい」という気持ちになりました。
翌年(昭和39年)に撮影が始まった『赤ひげ』では、その気持ちが決定的なものになったと思います。私が演じた「保本登」という青年医師が「赤ひげ」に寄せる気持ちが、加山雄三が黒澤明に思う気持ちと重なりました。最初は御殿医を目指していて、「こんな汚い養生所なんてとんでもない」と思っていた保本が、素晴らしい人間関係に遭遇した時に初めて「養生所に残る」と思ったように、私も「映画なんてくだらない」と思っていた自分が情けないと思い始めて、「俺はこの世界に残るぞ」と思いました。ですから、黒澤さんとの出会いは人生の転機だったと思います。
--やはり黒澤監督はそんなに凄い人だったんですか。
加山:映画を作るということに対しての能力とハート、自分の手腕と言いますか方法論、これは誰も太刀打ちできないくらい凄い方です。スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスが彼と会って握手をしただけで涙を流すくらい感動したというようなエピソードがたくさんあるじゃないですか。彼らには黒澤さんがそれだけ素晴らしい作品を作ってきている人間であることが分かるんです。アメリカのハリウッドにいる人たちの中でも、世界的に名を馳せている人たちは、黒澤さんの価値というものを見抜いています。
そんな黒澤さんの偉大さに触れたときに、僕の心が動いて「この世界でしっかり地に足をつけて歩いていくぞ」という気持ちになりました。振り返ると仕事を始めた頃は今のように責任を持って仕事をしていなかったと思いますし、ずいぶん気楽にやっていたなとも思います。特に「若大将シリーズ」では自分の好きなことだけをやって、その結果みんなが大騒ぎしてくれるんですから、こんなにいい話はないなという感じでした。でも、黒澤組に入り、本当に苦しみながら映画を作り上げている姿を目の当たりにして、そういう苦しみが芸術的価値の高いものを生むんだということがよく分かりましたね。
3. 音を作ることの面白さを発見した手製チェンバロ
--曲作りを始めるきっかけは何だったのですか?
加山:バッハのチェンバロの曲を聴いたときに「非常に細い音を出しているけれど深い音だな」と感じ、「ピアノをなんとかチェンバロの音にできないか」と色々考えて、ピアノのハンマーに細く切ったブリキを巻いたんです。それで弾くとチェンバロみたいな音になるんですよ(笑)。
--そのチェンバロを作られたのはおいくつの時ですか?
加山:14歳の時です。それを使ってバイエルをバッハっぽく適当に弾いていたら、親父が「チェンバロみたいな音だな。どうやったんだ?」と訊いてきたので、仕組みを見せたら「お前馬鹿なことやってるな。今弾いていたのはバッハの曲か?」と訊かれて、「いや、勝手に弾いていただけだ」と言ったら、「おお、そうか。お父さんはピアノが好きだから、いずれピアノ・コンチェルトを書いてプレゼントしてくれよ」と言われたので、「いいよ」とまあ簡単に言ったんです(笑)。本当に書き始めたのは何十年も後なんですが(『父に捧げるピアノコンチェルト』)、自分で音を作ることの面白さを発見したのは、チェンバロの音をピアノで出せたことがきっかけですね(笑)。その頃に作ったのが『夜空の星』の原型です。
--『夜空の星』、K.1(注:加山さんは作曲した曲にKから始まる「Kナンバー」という作品番号を付けている)ですね。
加山:そうです。当時作ったものとはサビなんか全然違うんですが、一昨年の45周年記念コンサートの時にオープニングでオリジナル・バージョンを電気チェンバロで弾いて、それから『夜空の星』に変わっていくという構成で演奏したんです。
--そのオリジナル・バージョンは覚えていたんですか?
加山:全然忘れていなかったですね。最初は部分的に忘れていたんですが、色々思い出しながら弾いているうちに全部思い出しました。
--ギターで書かれた曲が多いのではないかと思っていたんですが、そんなことはないんですね。
加山:ギターで曲を作るのはもっとずっと後の話です。一番最初にエレキ・ギターで曲を書き始めたのは大学3年くらいじゃないかなと思います。それが『恋は紅いバラ』です。最初はギターで旋律を奏でて、そこに多重録音でベースやサイドギターの音を入れた曲だったんですが、それにあとから慌てて英詞をつけたんです。で、近所に住んでいたアメリカンスクールの奴に英語としておかしくないかを確認して完成させました(笑)。
その後、「若大将シリーズ」のプロデューサー藤本真澄さんから「他に曲はないのか?」と言われたときに、「こんな曲があるよ」と『恋は紅いバラ』を持っていったら、「日本語の歌詞じゃないと駄目だ!」と言われて、英詞を訳すことになってお願いしたのが、当時、東宝の宣伝部にいた岩谷時子さんなんです。それで岩谷さんに訳していただいて、「日本語で歌うのは苦手なんだけどな」と思いつつやったのが『恋は紅いバラ』なんです。『恋は紅いバラ』はKナンバーで言うと7番で、それまでに『白い浜』という曲の原型や『北風に』という曲があって、あとは捨てたと思います。
--『恋は紅いバラ』もそうですが、やはり加山さんの曲は「若大将シリーズ」から流れてくる印象が強いですね。
加山:もし普通の職業をやっていたら、会社の仲間たちとバンドをやって終わりだったのかもしれませんが、たまたま職業が俳優で、しかも映画の中で若大将というヒーローに遭遇し、その中で自分の作った歌を運良く披露できましたからね。どうしてそんな恵まれたことになったんだろうと自分なりに分析してもよく分からないんですが(笑)、世の中のニーズとプロデューサーの考えが非常に一致していたんでしょうね。
--私は『夕陽は赤く』で終わりが6thの音になっているのがとても新鮮だなと感じたんですよ。
加山:そうなんですよ。それはクラシックをよく聴いていたからできたことだと思うんですが、編曲家の森岡賢一郎さんから「トニックに行くときは普通ドミナントを通過するんだ。でも、あれにはドミナントないんだよね」と指摘されて、「G♭マイナーの次にEの6thに行っているものね。そういえば変だね」と言ったら、「いや変じゃないんだけど、作曲家としてそういうところへ行くのは珍しい」と言われましたね。
また、あの曲のギターを「小指が届かない」と言って弾けない人が結構いるんですよ。この曲の2度目のレコーディングをするときに、プロのギタリストが弾けないのを見て、改めて「えっ!?」と思いましたが、つまりこれは僕がギターを誰からも習っていない証拠で、僕はコードとか独特の押さえ方をしているんです。ですから、学生時代のバンド仲間からは「なんだその押さえ方は?」とよく馬鹿にされていました(笑)。
--例えば、あの当時ベンチャーズや寺内タケシさんのギターからはあまり聴かれないようなコードが、加山さんの曲には使われていて「新しい」と思いました。それは意識せずにされていたわけですね。
加山:そうなんです。良いと思うからその通り弾いているだけなんですよ。だから、僕はやる気になった時じゃないと作曲はしません。乗ってくるとどんどん曲ができるんですが、結果あまり考えすぎないでできた曲なので、みんな良い出来ですね。逆に悩んで作った曲は最終的にみんな捨てています。
--また、加山さんは日本の宅録の元祖だとよく言われていますよね。なんでも自宅にはワイヤーレコーダーという物があったと伺いました。
加山:ワイヤーレコーダーはまだテープレコーダーが生まれる前のレコーダーです。要するにうちの親父もそういった新しい物に興味を持つ好奇心旺盛な人だったので、それでワイヤーレコーダーを手に入れてきたわけです。それを使って初めて録音をして、自分の声を聞いたときに「俺ってこんな声しているんだ!」と驚きましたし、これは面白いなと思って、ピアノを演奏して録音してみたりと、それこそ宅録の原点みたいなことをやり始めました。そのすぐあとにテープレコーダーが生まれて、そのテープレコーダーとワイヤーレコーダーの二つとも家にあったので、これをピンポンしていくとダビングができて、一人でカルテットくらいのことができてしまうんです。
--日本人初の多重録音ですね。
加山:全く初だと思います(笑)。多重録音なんて日本ではまだ誰も知らない頃でしょうしね。その時に本当にたまたまなんですが、メリー・フォードとギタリストのレス・ポールが多重録音をしているLPが家にあったんですよ。それを聴いたときに「一人でやっているのか・・・凄い!」と思いました。例えば、奥さんのメリー・フォードが一人でデュエットしている。しかもものすごいコーラスまで入っている。ギターも被せて色々なことをやっている。それで「俺もやってみよう」と本格的に始めたわけです。だから、そのレコードがなければ多重録音への興味もそこまで加速しなかったかもしれません。実際にやってみるとマイクを通しているから重ねていくと音が悪くなるんですよ。レス・ポールはすでに4トラックとか8トラックを使っていたと後に知ることになるんですが、その当時はそんな物があるなんて知らないですからね(笑)。
4. 必要は発明の母〜ボート造りに熱中
--スキーはおいくつから始められたんですか?
加山:滑り出したのは5歳くらいだと思います。ただ子供用のスキーがなかったので、地元の子供が履いているスキーを借りて滑ったのが最初です。
--スキーにはお父様に連れて行ってもらったんですか?
加山:そうですね。両親ともにスキーが非常に好きで、親戚の人たちもスキーにみんな憧れていましたので、大人数で行っていました。ですから、小学校の高学年頃からは毎年のように滑っていましたが、本格的にやり始めたのは中学生に入ってからです。
--岩原スキー場は馬車で行く時代でしたよね。
加山:実は岩原が最初じゃないんです。最初に滑ったのは湯沢駅のすぐ裏にあるかぐらスキー場です。叔父に連れられて行ったんですが、川端康成が『雪国』の執筆をした高半という宿に泊まって滑っていたのが最初です。それから、岩原のスキーロッジに行くようになりました。それから赤倉温泉へも行って、普通の旅館に泊まりながらスキーをしました。リフトができたのは岩原は早かったですし、赤倉も早かったですね。私はリフトがない頃から滑っているので(笑)。
--でも、そのお話は戦前ですよね。その頃スキーをしている人はいたんですか?
加山:あまりいなかったですね。やはり世の中の先取りをしようというファミリーであったことは事実だと思います。
--大学時代はやはりスキーに熱中されていたんですか?
加山:冬はスキーで、夏は海で泳いでましたね。
--加山さんはボートをご自分で作られていたそうですね。
加山:14歳の時に初めて造って以来、毎年のように一隻ずつ造りました。自分で設計図を書き、模型を造って水に浮かべてみたり色々と実験はしつつ、独特な製法で造っていました(笑)。二隻目の船が伊豆堂ヶ島の加山雄三ミュージアムに残っています。その船を造ったのが15歳の時なんですが、海の底を見るためにグラスボートにしているんです。どこからかプラスティックの板を手に入れてきて、それを船底に外から張って、塗装してあります。岩による傷は付いていますが、今でも水に浮かべれば水中は見えますよ。
--55年前にグラスボートですか。凄いですね。
加山:その船で江ノ島まで行って、船の上から「ここにサザエがいっぱいあるな」とか海を覗けたんです(笑)。そういうことを今から55年前にやっていたというのは、結構な知恵だと思うんですよ(笑)。まさに遊びたいための知恵です。結局は人間は遊びたい、楽しみたい、それから興味を持つことによって、発明であったり工夫していくんだと思いますね。「必要は発明の母」と言うじゃないですか。まさにその船は自分にとって必要だったんです。
また、作った船を島まで漕いだおかげで腕は逞しくなりましたし、島では長時間潜るので肺活量も増えました。やがて大学へ入った頃に親戚の家が25メートルのプールを造ったので、そこで夏は毎日のように長いときには3,000メートルくらい泳ぎました。3,000メートル泳ぐには午前中ずっと泳いで、昼飯を食べたらまた泳ぐくらいやらないと駄目なんですが、当時は水中眼鏡もかけなかったので、プールから上がると目に霞が掛かるほどでした。そのときに水の中で汗をかくという体験もしましたが、そういった経験を通じて結構鍛えられたと思います。
--若大将で見られた素晴らしい肉体はジムで鍛えたんじゃなくて、泳ぎで鍛えたんですか。
加山:いや、あれはベンチプレスやウエイト・リフティングで鍛えました(笑)。というのも、同い年のいとこがジムで鍛えていて、体を見たらすごく逞しくなっていたので、そいつに刺激されてトレーニングしました。
--要するに加山さんは負けず嫌いなんですね(笑)。
加山:そう、負けず嫌い(笑)。
5. 逆境の中で多くの人が支えてくれた
--加山さんの人生において一番の危機は、1970年にパシフィックパークホテルが倒産した頃だと思うんですが、あの出来事は加山さんには何の責任もない出来事だったんですよね。
加山:いや、責任はあるでしょう。なぜかと言ったら僕は「監査役」に入っていましたから。それから「加山雄三」という名前で叔父が大量に借り入れをしていましたからね。それは責任がないと言えばないのかもしれないけれど、結果的に関わりがあるということは僕の責任だと思います。結局、社長であった叔父もトンズラしちゃうし、みんな逃げてしまいましたから、返済能力がある、あるいはそれを処理する能力のある人間が僕しかいなかったということです。風当たりを一手に引き受けたのは僕一人ですが、これは別に自分が偉かっただろうと言いたいのではなくて、ものすごく攻撃の対象となったというのが実際のところです。
--例えば、お持ちになっていた船もみんな取り上げられてしまったんですか?
加山:いや、その時持っていた船はみんなが守ってくれました。実はその前に税務署が守ってくれたんです(笑)。税務署が赤紙を貼ってくれたから、そのために債権者が来ても船を処理できなかったんですね。それから税務署が船を処分しようとしても、船に興味を持っている人が少ないから買う人がいないんですね。でも、もし高いお金で買ってくれる人が出てきたら、返済に回しますと約束をしていました。なぜかと言えば、税金も約2億円滞納していたからで、それを元通りにするために10年かかりました。これが一番大変でした。何故かというと、税金の延滞利息はものすごく高くて、金利分を払っていくだけで精一杯なんですよ。
--税務署の金利だけで、ですか?
加山:そうです。それ以外に23億借金がありました。その分は会社更生法が適用されたので、会社としては営業を続けてその利益を返済に回していました。それで裁判所がホテルを競売に掛けた方が良いということで、最低保証価格はだいたい15億で設定していたところ、フタを開けたら17億9000万をつけた人がいて、最終的に17億で売却し、差額の6億をどうやって返済していくか四苦八苦したわけです。
--それはまだ加山さんが30代の時にお話ですよね・・・。
加山:そうです。33歳でした。でも、若かったからできたとも言えます。今だったらとてもじゃないけど無理ですよ(笑)。
--その逆境をよく乗り越えられましたよね。
加山:やはり人に助けられていますね。多くの人に支えられていますよ。
--そこまで順風満帆できた加山さんが初めて大きな障害に出会ったわけで、それを乗り越えたことはやはり加山さんにとっても大きなことでしたか?
加山:「捨てる神あれば、拾う神あり」じゃないですが、僕を支えてくれた人たちがたくさんいたということです。業界の中にいた知り合いの大半が背を向けて去っていきました。そりゃそうですよね。こんな破産した人間とはもう付き合っていられないと普通は思いますよね。ところが「あいつ頑張っているから仕事をやらせてみよう」という人もいて、そういう人たちに僕は助けられたんです。だって東宝にすら随分冷たい対応をされましたからね。
--東宝もですか・・・。
加山:藤本さんのところに行って、「何か仕事をください」と言ったときも、「お前みたいに高い奴を使わなくても、今は若くて良い役者が一杯いるんだ。使う気はないから帰りな」と、けんもほろろに言われて、僕は相当東宝に貢献したつもりだったので「なんて酷いことを言うんだろう」と、びっくり仰天しました。ところがその藤本さんの冷たい態度の原因がのちのち分かったんですよ。
--何か理由があって藤本さんはそのように仰ったんですね。
加山:ええ。芝山さんという所長がいて、その所長がある東宝内部の人間に「加山が困っているだろうから」と言って、内々にお金をくれていたらしいんです。でも、僕は何も知らない。なぜならこの東宝の人間が全部着服していたからです。それが分かったのは黒澤さんが『乱』を撮影したときに馬に払うお金を同じ人間に渡したら、持ち逃げしたからなんです。幾らくれたのかわからないですが、何ヶ月かに一回「これを加山に渡せ」とくれていたらしいんですが、僕は知らないからお礼の一つも言っていないわけです。もしその場で知っていたら、土下座してでも感謝の気持ちを表しただろうと思います。それで、藤本さんはあんなにつっけんどんに当たったんだと理解しました。ただ、その事実がわかっても藤本さんや芝山所長もいらっしゃらない。
--藤本さんも芝山さんもお亡くなりになっていて、生前その話はできなかったと。
加山:できませんでした。話を聞いたのは十数年前ですから・・・。それを聞いたときに「本当に悪い奴はどうしようもないな」と思いましたね。でも、藤本さんも芝山所長もきっと天国から見てるでしょう。わかってくれているだろうと僕は信じています。
6. やりたいことは山ほどある!〜古希を迎えて
--4月11日で古希(70歳)を迎えられる加山さんですが、とても健康そうですね。
加山:そうですね。生活習慣病もないですし、引っかかるものはなにもないです。去年の秋に健康診断をしたんですが、コレステロール値、血圧、尿酸値、血糖値ともに全く問題なかったです。ただ、物忘れは多くなっていますし、人の名前がなかなか出なくなっています。そういったことで迷惑かけたらいけないですから、「しっかりやらないと駄目だ」と自分に言い聞かせています。
--ちなみにお孫さんはいらっしゃるんですか?
加山:孫は2人いるんですが、彼らとの出会いは素晴らしいですね。外に向かっては「疲れる」と言っていますが、実は癒されていると思います。この間、孫を連れてアメリカへ行って、一週間一緒に生活していたんですが、僕が一番面倒を見ていました(笑)。彼らはPlayStation2を買ってもらったばかりだから大騒ぎしていたんですが、どんどん上達していくのを見ていて、「よし、俺もやるぞ」と『バイオハザード4』なんかを一緒にやっていると周りはびっくりしますね(笑)。昔は子供が3歳の時は親として3歳と思っていたけれど、孫が6歳の時には爺さんとして6歳なんだという感覚を常に持っていたいと思います。確かに大変なこともあるけれど、学ぶべきところが非常に多いです。
ただ、孫に対して猫かわいがりはしません。それは自分の子供達に対してもそうです。小さいときから一人で寝かせるようにして、夏休みはサマースクールに入れて、親元を離すトレーニングをしていると何でも自分でやるようになります。だけど、ちょっとでも甘やかすと子供はすぐに赤ちゃん返りをするから気をつけないといけないですね。そういうことは徹底しています。
--最後になりますが、今後のご予定をお聞かせください。
加山:70歳という節目にこじつけて、70カ所のコンサート・・・と言っても無理なのでやらないですが(笑)、30カ所くらいはコンサート・ツアーをやろうと思っています。あとアルバムをしばらく出していなかったので、全部新曲のアルバムを出そうということで、この冬休みの間に曲作りをしたら12曲も作ってしまって、その中でも納得のいく曲がまだ4曲くらいなので、引き続き曲を書いて、夏頃にはなんとかアルバムを出そうと考えています。
今の時代の空気の中で作っても、「加山雄三は加山雄三だな」という音だとは思いますが、その音の中には70歳になるまでの歴史というものがあると思います。詞を書いてくれる方々もそういった内容の詞を書いてくれるでしょうし、団塊の世代の大量退職が始まり、新しい人生に入っていく人たちが大勢いますから、そういう人たちへの応援歌としても歌えるような歌を作りたいなと思います。
--では、コンサートツアーの中でもその新曲が披露されるんですか?
加山:ええ。4月20日からコンサート・ツアーが始まるんですが、その中で新曲も歌うつもりでいます。そして、11月には個展があります。この個展は昨年同様100点以上の作品を展示する予定です。
--70歳にしてますます精力的なご活動ですね。感服いたしました。
加山:まだやりたいことは山ほどありますからね。やはり音楽が大好きだから今も続けていますし、絵も好きだったから画家にもなっていますしね(笑)。
--加山さんと同世代のヒーローと言いますか、長嶋茂雄さんも体調を崩され、石原裕次郎さんもすでにこの世にいらっしゃらない中、加山さんにはこれからも輝き続けていただきたいです。
加山:長嶋さんは確かに傷を負っておられますが、それでも明るくフィールドに出てこられる姿はみんなの励みになりますし、これぞ本当のスターだなと僕は思います。歳をとれば、まして長年無理をしてきたらどこかしら具合が悪くなるのは仕方ないと思うんです。それでも頑張っている姿というのは心や体が傷ついてしまった人のものすごい励みになると思います。長嶋さんは今でも輝いていますよ。王監督だってそうです。本当に立派だと思いますね。
たまたま僕の場合は健康面には来ないですが、プライベートな面では色々と起きたりします。これはある意味試練だと思うんです。親父の言った通り、「プライバシーのない生活」がどれだけ大変であるか、有名になった人たちは大なり小なりみんな体験していると思います。でも、有名じゃない人も人生において苦しみが必ず降りかかってきて、それをどう乗り越えていくかというときに、思うことの根底にある「心根」でもって道は決まるぞと僕は言いたいですね。
--真っ当に生きろと。
加山:何が真っ当かということが分からない世の中だから難しいんです。でも、自分の心に嘘はつきたくないと思います。自分の心というものがあるんだったら、その心に「一体何をしたいのか」をよく聞いて、生きていることの価値とは一体何なのだろうか、自分の心に毎日聞きただし、反省すること、それが大切じゃないかといつも思って生きています。そもそも生きているだけで基本的に迷惑をかけているんだと皆思うべきなんです。「おかげさまで」という言葉の意味はそこにあるわけで、みんなが力を貸してくれたり、やってくれたりするから今の自分が存在するんだという感謝の気持ちを忘れずに、今後も精一杯頑張っていきたいと思っています。
--本日はお忙しい中ありがとうございました。益々のご活躍をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
我々の緊張を解きほぐすかのような笑顔で音楽や絵画について語る姿がとても魅力的だった加山さん。今回お話を伺ってみて、その創作には一貫して音を生み出すことや絵を書くことの喜びや楽しさに溢れており、それは少年の頃から何一つ変わっていないことに感動しました。また、とても年齢を感じさせない加山さんの若々しさは、あらゆる物事に対する旺盛な好奇心と情熱、そして、周囲の人々に対する感謝の気持ちを決して忘れないその心持ちにあるのではないかと感じました。加山さんの曲から感じられる優しさ、暖かさの秘密はそういったところにあるのかもしれません。インタビューでも触れられているニューアルバムも本当に楽しみです。
さて次回は、谷村新司さんのご登場です。お楽しみに!