第64回 谷村新司 氏 音楽家/上海音楽学院教授
音楽家/上海音楽学院教授
今回の「Musicman’s RELAY」は加山雄三さんからのご紹介で、音楽家 / 上海音楽学院教授 谷村新司さんのご登場です。’71年、堀内孝雄さんと結成され、’72年5月に矢沢透さんが加入したアリスでの活動は言うに及ばず、ソロ活動、また楽曲提供を通じて『いい日旅立ち』『昴』『群青』 また加山雄三さんとの競作である『サライ』など、日本のスタンダードナンバーともいえる楽曲を多数発表。その後、活動を中国及びアジア、そして欧米へと広げられ、’04年からは上海音楽学院教授として、中国の若者達に音楽の持つ力や素晴らしさを伝えています。今回、5年ぶりのオリジナルアルバム『オリオン13』を発表された谷村さんに少年時代の思い出から、上海音楽学院のお話やニューアルバムについてまでお話を伺いました。
プロフィール
谷村 新司 (たにむら・しんじ)
音楽家/上海音楽学院教授
1948年12月11日大阪府生。
1971年、堀内孝雄、矢沢透とアリスを結成し、1972年3月、「走っておいで恋人よ」でデビュー。「冬の稲妻」「帰らざる日々」「チャンピオン」など数多くのヒット曲を出し、1981年に活動停止。その後ソロ活動、また楽曲提供と活動の場を広げ、「いい日旅立ち」「昴」「群青」「サライ」など、日本のスタンダードナンバーともいえる楽曲を多数発表。1981年にアリスとして北京でのコンサートを皮切りに、中国及びアジアでの活動をライフワークとして続けている。その一方で活動の場をアジアから欧米へと広げ、1988年からの3年間は国立パリ・オペラ座交響楽団等と競演。2004年3月、上海音楽学院教授に就任。現在もアーチスト活動を続けながら、中国を中心としたアジアにおける青少年のポップカルチャーの育成につとめている。
- 芸妓、舞子を見ながら育った少年時代
- 洋楽のサウンドと和のボーカルの融合
- 後先考えずにひたすら音楽に打ち込んだ学生時代
- 聴いてくれる人が待っている〜アジアに音楽を伝えるために
- 活動を白紙にして見えてきたもの〜上海音楽学院教授に就任
- 心の命ずるままに素直にいこう
1. 芸妓、舞子を見ながら育った少年時代
--最初に前回ご登場いただいた加山雄三さんについてお話を伺いたいのですが。
谷村:加山さんは僕達の世代にとって憧れですし、加山さんの映画と音楽で僕らは青春を過ごしてきました。加山さんはスーパーの上にスーパーが付くスターだったんですね。大阪にいた頃に『若大将シリーズ』を観て、「東京の大学はこんなに華やかで、ラブロマンスに溢れているんだ」と思っていましたし、映画の舞台は京南大学という大学なんですが、真剣に「京南大学へ行きたい!」と思っていましたからね。
--それは中学生ぐらいのときですか?
谷村:高校1年生ぐらいだったと思います。東京の大学に行くんだったら京南大学だなと(笑)。だから、京南という学校がないことに気づいたときは結構ショックでした(笑)。
--実際に加山さんとお会いになるきっかけは何だったのですか?
谷村:加山さんとは子供の学校の繋がりで、父兄として最初出会ったんです。それでサマーキャンプで子供たちを喜ばせるために一緒に音楽やろうという話になって、小さなやぐらを作ってその上で一緒に歌ったりしたのが初共演です。そのときに「子供たちは一番シビアな観客だな」と感じました。毎年やっていて随分鍛えられましたね。子供達は大人のように気を使って無理して聴かないので、つまらないと寝るんです。その前の方で寝ている子供達をどうやって起こそうかなとか、子供たちが眠くならないように手拍子をこんな感じで打ってみようとか、加山さんとは色々と考えましたね。その後、決定的にご縁ができたのは『サライ』を一緒に作ったときです。そこからはより深いお付き合いになりました。
--『サライ』での競作は加山さんのほうからお声が掛かったんですか?
谷村:もともと24時間テレビから企画が出ていて、加山さんが「詩だったら谷村」と仰ってくださったんです。僕にしたら加山さんと一緒に作品が作れるということはすごく光栄ですし、それは是非やらせて頂きたいと。それ以来、加山さんとの個人的なお付き合いがずっと続いています。今度の古希のアルバムの中でも2曲、「これは谷村君に詩を書いてもらいたい」と指名してくださって、すごく嬉しいです。
-- 加山雄三さんの素晴らしさはどこにあるとお思いですか?
谷村:僕はよく言うんですが、加山さんは「加山雄三」というジャンルなんですね。だからそのことに日本の音楽業界の人は早く気づいてほしいなと思います。歌謡曲だったりポップスだったり懐メロだったり、色々なところへ入っている加山さんはすごい人なんですよということをね。一枠で納まっている人は割とわかりやすいですが、みんなが理解しやすいけれど納まりきっていない加山雄三という存在は本当にすごいと思います。
-- 加山さんは「加山雄三」の一言でしか表現のしようがない感じですよね。
谷村:そんな加山雄三が70歳で走り回って歌っているというその格好良さですよね。まだ20代の子にはピンとこないと思うんですが、50代・60代の人間からすると、もう「すごい!」としか言いようがないんですよ。だから加山さんが走ってくれていると僕らも好き勝手に暴れていられる。そんな存在でもありますね。
--私も小さい頃は「大人になったら加山雄三になればいいんだ」と思っていました。
谷村:みんな加山さんみたいになれそうだと思うんですが、やはり加山さんは多才な才能をもっていらっしゃって、そのそれぞれが加山雄三ワールドなんですよね。本当に素晴らしいと思いますね。僕は加山さんを日本の宝物だと思っていますから。
--本当ですよね。早く国民栄誉賞をあげてほしいって感じですよね。
谷村:日本という国は特に文化に対しての感覚はかなり低いと思います。みんな「芸能人」みたいな捉え方をしている人が多いですからね。でも、ヨーロッパやアメリカではアーティストは敬意を表してくれる存在です。だから、僕は加山さんに対してはいつも敬意を表したいと思っています。加山さんはイギリスで言うところの「サー」ですよね。でも、加山さんは「そんなものどうでもいいや」と思っているから余計すごいんです。
--あんなに素晴らしい曲を数多く作られているのに、「音楽は趣味だ」と仰っていますからね。
谷村:加山さんが「趣味」と言っているのは、プロを突き抜けてる方の「趣味」なんです。突き抜けた人は楽しんじゃっているから趣味と言える。プロのときは楽しむより「やらなくてはいけない」という意識の方が強いですから、まだそこそこなんですよ。
--加山さんはすごい域の方なんですね。
谷村: もう達人の域ですね。だから僕がいつも憧れているのは、加山さんのようなプロを突き抜けたスーパーアマチュアなんです。スピリットがアマチュアで技術とかもろもろのことがプロを超えてる存在。
--一番かっこいいですね。
谷村: そう、「趣味だよ」と言えちゃっているのが一番かっこいいんです。
--ここからは谷村さん自身のことについてお伺いしたいと思います。まず幼少時代の家庭環境に関してお伺いしたいのですが、大阪で生まれたということは谷村さんに大きな影響を与えましたか?
谷村: もちろんどこで生まれたかということはすごく大きいですし、大阪から東京へ出て来たときには「違う国に来た」と思うくらい、東京と大阪では気質も人との接し方も真逆です。この間、作家の浅田次郎さんと対談したんですが、浅田さんは江戸っ子で、侍の気風がずっとある町に生まれ育ったので、「武士は食わねど高楊枝」と言いますか、バッと見栄を張る。そういうのが関西からすると「あんな風にやられたらかっこええな」と思いますね。ところが大阪は町人の文化なので全部本音なんです。その本音のエリアから割と立て前のところに入っていったときのとまどいというのが最初はありました。だから今でも大阪に戻るとホッとします。
--お父様が事業をなさっていたそうですが、何をされていたんですか?
谷村: 父は洋服の付属品を作っていたんですが、一方で株の相場師もしていまして、そっちの方が好きで主力でやっていたみたいです。
--今風に言えば投資家ですか?
谷村: 投資家と言うと全然ニュアンスが違うんですね。相場師としか表現できない。投資家ってお金だけが目的みたいになってしまいますが、相場師は僕が子供心に見ても、ちょっとロマンがあったんですよね。そんなに上がらない株だけど、その会社に惚れ込んだりしちゃってる、みたいなね。
--個人的ディーラーですね。
谷村: そうですね。そこで損しても「こういう会社は出てこんといかん」みたいなことを父はポツリと言っていました。そういう父親像というのは子供心にかっこいいなと思っていました。
--お話だけ伺うと豪快なイメージの方を思い浮かべるんですが、どんなお父様でしたか?
谷村: 父は明治の人ですからどちらかと言うと無口で繊細な人でしたね。もともと父は奈良の人間だったんですが、大阪へ丁稚奉公で出てきて、商売の暖簾分けみたいな形で自分のお店を持ち、母と出会いました。両親は二人とも明治生まれなので、あまり馴れ初めとだとかは一切しゃべらなかったんですが、晩年、酔っぱらっているときに「見合いだったの?」と聞いたら、「いや違う」と言ったときに、「おお、恋愛だったのか」とびっくりしたことがあります(笑)。二人揃って結構モダンなんですよ。
--家庭環境は普通の家庭とは一風違った家庭だったんですか?
谷村: 全く違いましたね。母親が長唄の三味線をやっていましたし、姉は6歳から地唱舞をずっとやってたので家に帰ると三味線がいつも鳴っていて、姉が中学で名取になってからはお弟子さんが20人ぐらいいました。だから不思議な家だったんですよ。周りの子たちは日曜日になるとお父さんに連れられて動物園や映画館、デパートに行ったりしていましたけど、うちは遊びに行くのがだいたい祇園街でしたからね。舞子、芸妓の世界。みなさん芸者と芸妓を混同して、遊郭と一色単に見ているんですが、実は全く違う世界なんです。
--いわゆる祇園のお茶屋さんですか?
谷村: そうです。そういう場所と遊郭は外から見ると一色単に見えるんですけど、芸を自分たちの拠り所としている世界というのはものすごく厳しい世界なんです。僕は小学校の頃からそういう世界を見て育ちました。
--お茶屋さんに家族で行って歌や踊りを見ているわけですか?
谷村: ええ。僕以外はみんな端唄や俗曲をやったりしながら、芸妓さん、舞子さんと一緒にわいわい遊んでいるんですが、僕は子供でしたから退屈でしょうがなかったです。そして「舞子さんと隣の部屋で遊んどき」とか言われて、出たての舞子さんと2人で遊んでいたんですが、気がつくとその舞子さんの膝枕で真剣に寝てるみたいな感じでしたね。
2. 洋楽のサウンドと和のボーカルの融合
--祇園中探しても谷村さんのような小学生はいないでしょう?
谷村:周りには全くいなかったですね。小学校の音楽の時間に「好きな歌を歌ってください」と先生から言われて、みんなが童謡を歌っているときに、僕はお座敷で覚えた都々逸を歌っていましたからね。
--そういったご経験は谷村新司という音楽家を形成する上で影響はありましたか?
谷村:その影響はものすごく大きいです。僕は中学生くらいから洋楽に憧れてPPM(ピーター・ポール&マリー)とか、ああいったモダン・フォークにどんどん傾倒してオリジナルを作り始めたんですが、そのときに自分の歌の中に不思議なこぶしがあることに気付くんですね。これは演歌のこぶしとは全然違うこぶしなんです。
--演歌とは違うけれど和のイメージ?
谷村:そう、和なんです。洋楽のサウンドに乗っかっている和のボーカルという不思議な世界観と言いますかね。アリスがそういう世界なんですね。だから、アリスの音楽はすごくオリジナルなものだと僕はいつも思ってたんです。アリスの中ではそんなに和を強調した曲は多くないですけど、ソロでやっている世界というのは割とそっちの方ですね。やはり小さい頃から見聞きしていたものが自然と体の中に入っていたんでしょうね。
--お茶屋さんだけでなく、家でもそういう音楽を聴かれていたんですか?
谷村:姉の稽古とかずっとありましたから、家の中には長唄、清元、常磐のレコードが絶えず流れていましたし、そういったSP盤やLP盤がたくさん家にはありました。
--では、一番最初の音楽的な洗礼はそういった音楽なんですね。
谷村:そうですね。あと、テレビから流れてきた歌謡曲です。そして、自分が好んで聴いていたのはモダンフォークみたいなアメリカの音楽でした。
--その当時はフォークブームだったんですか?
谷村:いや、僕らがギター弾き始めたのはブームの前です。ギターを弾く人があまりいなかった頃で、ギターさえ弾けばモテると思っていた時代でした。教則本などなにもなかったので、全部耳で音を取っていました。昔はPPMのような3人組のレコードだと、左のパートの人は左のスピーカーから聞こえてくるステレオだったんです。
--ステレオでも音の分離がはっきりしていましたよね。
谷村:はい。センターに一人と左右に一人ずつがバランスよく聞こえるというね。僕は左のポールのパートをやっていたので、左のスピーカーだけを鳴らしながらギターの音を一音ずつ耳で拾ってコピーしていました。そうこうするうちに、小室等さんのギター教則本やPPMフォロワーズみたいな人たちが出てきて、それで自分がやっていたことはこういうことなんだと初めてわかりました。そんな時代ですね。だから、最初の日本のニューミュージックとかフォークで出て来た連中はほとんどみんなその世代ですよね。井上陽水や南こうせつ、泉谷しげるとかはみんな僕と同い年です。
--洋楽を受け止めて、自分たちのオリジナルを模索した世代?
谷村:そこに自分たちの詩の世界と一緒にどんな世界が作れるか、というのにみんな燃えていました。オリジナルを作りたかったという世代でしょうね。
--オリジナルを作り始めるきっかけは何だったのですか?
谷村: コピーをやっていると、いくら上手にコピーをしてもオリジナルには勝てないことに気付くんですね。PPMのあのアンサンブルを再現しようとしても、まず声が違いますしキャリアも違いますからね。そんななかで自分たちにしかできないものを作りたいと中学3年ぐらいから思い始めたんです。
--ちなみに谷村さんは曲と詞はどちらから先に作られるんですか?
谷村: みなさんは作曲が得意な人が曲だけ作って後から詞を当て込むパターンか、詞が得意な人が後から苦心して曲を付けるというパターンしか思いつかないんですが、僕はほとんど同時なんです。 ミュージシャンの発想の人が言葉をサイドディッシュのように考えたり、逆に言葉だけの人がメロディーをサイドディッシュのように考えたりしていると、どこかで無理が出てくることが多いと思うんです。
--つまり谷村さんは一つの世界がイメージできたら曲も詞も自然に生まれると。
谷村: そうですね。詩を書き始めながらメロディーを歌っています。だからその作業自体は大体1時間ぐらいです。
--例えば『昴』はどのぐらいでできた曲なんですか?
谷村: 『昴』はきっちり作って1時間半ぐらいですね。僕はわかりやすくお話するために、「ウンコです」とよく言うんです。なにを食べていたか、その結果としてウンコは出るので、バランスの良い食事をしているといいお通じが出来るはずですよね(笑)
3. 後先考えずにひたすら音楽に打ち込んだ学生時代
--高校に入られてからはもう音楽中心の生活だったんですか?
谷村:そうですね。勉強が好きじゃなかったので、絵を描いているか音楽をしてるかですね。
--絵も描かれていたんですか。
谷村:絵を書くのが好きだったので、大学は美大に行きたかったんです。でも、調べてみるとすごい競争率でしたから、これは無理だなとすぐわかりました。今の子たちには想像つかないでしょうが、倍率が52倍とか58倍とか当たり前だったんですよね。100人ぐらいが一斉に試験受けて、そのうち通るのが2、3人だとわかっていましたから試験受けながら「こりゃ駄目だな」と思いましたね。結局一次で落ちて浪人するのが嫌だったので2次を受けたんですが、その時に受けた桃山学院大学でも倍率は28倍ぐらいでした。
--受験の厳しさが現在とはまるっきり違いますね。
谷村:今の受験は僕らの感覚からすると受験でもなんでもない感じがします。それぐらい強烈な時代でしたからね。だから今、「団塊の世代はこれからどこへ行くのか」と心配されますが、心配してもらわなくても全然大丈夫だと思ってます。僕らは「人と比べられないように自分をどうすればいいか?」としか考えられなかった環境の中で、ずっと生き抜いてきた連中ですから、「ほっていてくれて大丈夫だよ」とみんな思ってると思います。それは多分、僕らより下の世代の人が心配してるだけなんじゃないかなと思いますね。
--本格的な音楽活動はやはり大学に入ってからですか?
谷村:そうですね。大学にさえ入ってしまえば、学校に行かなくてもいいと思っていましたから。これで好きなことが思う存分やれるとひたすら音楽に打ち込みました。でも、それで生活していくなんて発想もなく、ただ何かに憑かれたように音楽をやってました。
--後先何も考えずに。
谷村:ええ。だから今の子たちは先を考え過ぎているというか、先を考え過ぎて先を心配し過ぎて、だからやめようとなってしまっているように感じます。僕らは後先考えずにひたすら音楽に打ち込んでいました。大人の人からは「そんなことやってて将来得するの?」とかよく言われましたが、そういったことを一切考えなかった奴が今残っている奴ですよ。
--後先考えなかった奴が今残っている・・・これは強烈な言葉ですね。
谷村:そのうちにそれによって少しずつ生活ができ始めていることに気づくみたいな感じですよね。そもそも、こういう風な生き方をした人がこうなっているという前例がなかったですからね。遥か遠くに加山雄三さんがいたぐらいで。
--何も不安を感じなかったわけですよね。
谷村:はい。きっと何かを信じていたんですよね。
--今から考えるとそれは何だと?
谷村:こんなに打ち込んで心を込めてやっているんだから、良くないわけがないといいますかね。僕らの代には「残ろう」と思ってやっている奴ってあまりいないと思います。「残ろう」というネガティブな発想ではなく、みんな「この次はどうしようかな?」とポジティブに考えていたと思います。
--では、大学4年間の思い出はひたすら音楽活動のみですか?
谷村: 音楽活動のみですね。あとは他の学校の文化祭に死ぬ程たくさん出ていました。まだアマチュアですから、出演料じゃなくてみんな交通費という名目でお金をもらったんですが、交通費だったら往復1,000円もあれば済みますから、実際はかなり多くもらっていたと思います。そのうちに口コミで色々な学校から出演依頼が来るようになりました。
--谷村さんは大学入った瞬間から今日までアーティスト活動以外のことは何もやってないっていうことですよね。
谷村: それに近いですね。でも、友達を助けるためにアルバイトをしたりはしましたけどね。
--それは何をされたんですか?
谷村: 歌を歌ってたお友達の女の子のお父さんが突然亡くなられて、家が大変な状態になったときに、彼女をボーカルにして、僕ら二人がギターで初めてナイトクラブへ歌いに行きました。で、ギャランティは全部彼女に渡していました。
--それもミュージシャンとしての稼ぎですよね。
谷村: そうですね。ナイトクラブという大人の世界で僕らはフォークソングを歌っていました。そのときにたまたまそのナイトクラブで僕らの歌を聴き「あなたたちの歌とてもいいですね」と仰ってくれて、休憩のときにジュースをごちそうしてくれた人がいて、それがデビュー当時の西川きよしさんです。だから、きよしさんとはすごく長いお付き合いなんですよ。
--今でも西川きよしさんとは深い交流があるんですか?
谷村: そんなに頻繁にはお会いしませんが、「あのときの男の子が谷村さんですよね」と、そこで出会ったときのことをきよしさんも覚えてらっしゃいます。あのときジュースをごちそうになったことは、僕らにとって何よりも嬉しい出来事でした。
--やはりお聞きしたいのが細川健さん(現(株)ポリスター 代表取締役)との出会いなんですが、最初の出会いはどこだったんですか?
谷村: ’70年の大阪万博です。彼はカナダ館にアマチュアバンドを仕込んでPRしていたんですよ。僕らは歌える場所はどこでも行きましたから、そこで歌って、そして歌い終わって楽屋にいたら彼がきて、「スマン。俺はお前らを騙そうと思ってた」と僕らに謝ったんです。そんなに本音で喋る奴ってあんまりいませんから、もうそこで「こいつはすごい奴だな」と思いました。それで「お前らの歌ええな。お前らの歌をアメリカ人に聴かせてやろうやないか!」と彼が言って、その年の夏にはもうカナダのバンクーバーに居たんですね。そこから僕の人生が音をたてて変わっていきました。
--では、細川さんにとってもやはり谷村さんとの出会いは大きかったと。
谷村: 二人にとって大きかったはずですよ。二人が出会ってなかったら彼もポリスターを作ってないでしょうし、今のアップフロントの前進であるヤングジャパンというのも二人で作った会社ですからね。「ヤングジャパン」という名前には、自分たちが日本を背負うという意識が込められています。それはアメリカをずっと回って、たくさんの人に助けられて日本に辿り着いたときに感じた二人の本音なんです。
--どのくらいの期間アメリカをツアーされていたんですか?
谷村: 2年続けて夏場40日間です。移動は全部バスで、ほとんど行き当たりばったりに近かったですね。
--その度胸ってすごいですよね。英語で歌っているわけではないんでしょう?
谷村: ええ。自分の歌をアメリカの人たちに聴かせに行っているんだから、なんで英語で歌わなくちゃいけないんだと思っていました。実はアメリカ・ツアー中にたまたまジャニス・ジョップリンのステージを観たんですよ。僕はそのときまでジャニス・ジョップリンのことは全く知らなかったんですが、彼女の声を聴いた瞬間「すごい!」と感激しました。やっぱり国だとか言語だとか、あとロックだとか、フォークだとか言っているのってバカじゃないのと思いましたね。音楽は感じるか感じないか、それだけの問題だと思いました。
4. 聴いてくれる人が待っている〜アジアに音楽を伝えるために
--アリスはものすごいライブ数をこなしてたというお話がありますよね。
谷村:年間250〜300ステージくらいやっていました。
--ほとんど毎日に近いようなライブ数ですよね。
谷村:そうです。というか、一日5本とか。文化祭の頃は一個終わったら、また次に飛び出してという感じでした。でも、もうやりたかったからやっていただけなので、物事をネガティブに考えていなかったですね。
--ただでは済まない量ですよね。週5日会社に行ったとしてもせいぜい年間220日ぐらいですからね。
谷村:でも、会社に行く人は行かなくちゃいけないから行っているでしょう?
--谷村さんたちは好きでやっている。
谷村:はい。だからさっきお話した趣味と仕事の違いですね。趣味で楽しんでやっている人は「行かなくちゃいけない」なんて発想を持っていないから根本的に違ってくる。「聴いてくれる人が待っている」と考えますから、ストレスになるわけがないです。やらされていると思うような仕事だったら、聴かされているお客さんのほうが迷惑だと思います。だから、やりたくないのにライブをやらなくちゃとか言ってる人は、とてもストレスがたまっているんだろうな・・・って思いました。
--では、ほとんどストレスのない音楽活動をなさってきたと。
谷村:そうですね。ただ、音楽業界のシステム化がどんどん進み、初めに歌があってビジネスがあったのに、ある時期からだんだん逆転して、歌が全部ビジネス・ミュージックになってきた。だから、その時点で音楽業界に興味がなくなりましたし、別にそこに所属する必要もないので、自分たちでレーベルを作ってやり始めました。
--好きなことをやるために元々やっていたのに、それがビジネス優先になってしまうのはおかしいと。
谷村:会社を大きくしてしまって、「その200人の社員を食わすにはランニングコストが・・・」という考え方は流れが逆です。いい歌があってそれを伝えたいから自然にスタッフが増えてきているチームと、大きな図体があって社員を食わすために音楽やっているチームとは、向かっている方向が真逆です。
--ベクトルが全然違いますよね。
谷村:はい。15年ぐらい前に僕は「そういうやり方はいずれ潰れるよ」とたくさんの人に言いましたが、みなさんあんまり実感がなかったみたいです。僕らは’84年からアジアに向かったんですが、周りはみんな「儲からないのにバカじゃないの?」と言っていました。そのときに僕は「儲かるために音楽をやっているの? 音楽をお金だけで計算しているの?」と思いましたね。それは音楽を侮辱しているし、音楽がなめられていると僕は感じました。みんなのスピリットはどこへいってしまったのって。
--それが84年頃ですか。
谷村:そう、僕らがアジアに向かい始めた頃です。貨幣価値も違いますから当然のごとく持ち出しでした。でも、アリスの頃にみんながたくさんレコード買ってくれて、お金をいっぱい預かったと僕らは思っていました。それを貯めて利子はこれだけで・・・という生き方を僕らがすると思って、みんなが僕らのレコードを買ってくれたわけでは決してないんですね。だから、その預かったお金を今度はどこへつぎ込んでいくかということが大事だと考えていました。そして、アジアに音楽、歌を伝えるために行こうとやり始めて、それが上海音楽学院に繋がっていきます。だから大陸の人たちは谷村がお金儲けで音楽をしていないとみんな知っていますし、とても信頼してくれています。
5. 活動を白紙にして見えてきたもの〜上海音楽学院教授に就任
--上海音楽学院の教授を引き受けるまでの経緯をお伺いしたいのですが。
谷村: 実は生き方をもう一回確認するために、2003年に活動を全部白紙に戻したんです。
--何が活動を白紙に戻すきっかけとなったんですか?
谷村: 仕事でエクスキューズして家庭を振り返らず、それが当たり前だと思い込んでいる・・・僕はずっとそれが負い目だったんですね。それまではライブを年間200回、300回とやっていましたから。
--音楽に没頭している間、家庭はどうなっていたんだろうみたいな・・・。
谷村: そうです。子供たちと過ごす時間もほとんど取れない。それでも入学式とか授業参観には隙間をぬって出てたんですが、本当に家族として子供たちといい想い出や時間をほとんど作れませんでした。だから、妻や子供たちとちゃんと話す時間を作るために活動を一回リセットしたいと思ったんです。それでまずは身辺を整理するために、今まで長くお付き合いしていたイベンターの方々に集まってもらって、自分の考えを全部説明しました。そして、ファンクラブを解散し、事務所も一年かけて閉じました。
--本当に0からのスタートですね・・・。
谷村: でも、0になって初めて見えることもありました。それは「何でもできる」ということです。「業界の」みたいなナンセンスなものにとらわれない。だから物事の見え方はすごく明瞭になりました。そして、一旦からっぽにして、これからどうしようかと言っていたときに、上海音楽学院の教授の話が来たんです。そのときに「天命ってこういうことなんだな」と思いました。からっぽにしたから道を教えてくれたんだな、と。ツアーをやっていたら当然お受けできない話ですし、たくさんのスタッフを抱えていたらジャッジメントできなかったと思います。
--上海の学生たちと日本の同世代の若者やミュージシャンを目指しているような人たちと何か違いは感じますか?
谷村: みんな同じ人ですから、何も変わらないです。僕は色々な国に行っていますが、国ってほとんど意味がないんですね。日本はこう言ったとか、中国はこう言ったとか、それは国という肩書き同士の話であって、人は全然関係ないです。
--一時期、靖国問題で中国の反日感情が高まったと報道されていましたよね。
谷村: それはメディアに振り回され過ぎです。
--あれはメディアだけの問題ですか?
谷村: メディアの一番大きな問題ですよね。それは中国も日本もどちらもです。メディアは一番大事なものを出さずに、国にとって都合のいいことだけをお互いに出しています。でも、両国の人たちは人としてちゃんとわかっていますよ。右だとか左だとか全く意味のない話で、もうそんなことをやっている時間はないと僕は思っています。
この間、温家宝さんが来日されて、安部総理主催の晩餐会に僕も呼ばれて『昴』を歌ったんですが、歌を聴いている瞬間って国とか主義とか全部がすっとぶということに気づく人は気づくんですね。歌を聴いているときにはみんないい顔をしています。それが音楽の本当の力であり、素晴らしさだと思います。
--上海音楽大学では人を感動させられる曲の表現の仕方とか、そういったことを教えられていると聞いたんですが、具体的にはどんな内容の授業をなさっているんですか?
谷村: みんな音楽のディテールのことばかりに興味があるんですね。HOW TOばかり知りたい。そして、この音楽はこういうふうにできていると、それを上手に説明できる人が先生になるなんてあまり意味がないです。「音楽って何か?」ということが一番大きなテーマなんですが、それを誰も知らないし、そういうことを誰も教えてくれないんですね。誰も教えてくれないなら自分が伝えなくてはいけないと思いました。
それは上海音楽学院の楊校長がなぜ僕を常任教授として招きたいとおっしゃったかにも繋がっています。上海音楽学院は国立の音大ですから、理論も技術もみんなトップクラスの生徒が集まっています。そのうえで彼らに何が足りないか、楊校長は知っているんですね。それで僕しかいないと思ったとおっしゃられたときに、この方は音楽の本質がわかってらっしゃるなと思いました。だから授業でも音楽の話は最初の一年ぐらいほとんどしてないんです。
--では、どんなお話をされてるんですか?
谷村: そうですね・・・「風ってなんだろうね」とか話したりね。これは音大で本当は一番やらなくちゃいけない授業です。おそらく音楽大学のどの教授も「ドはどうしてドって言うんですか?」という子供の質問に答えられない。「チューニングはどうしてラの音でするんですか?」と聞かれたら、「ずっとそうしてきたから」。「ずっとそうしてきたことには意味があるでしょう? それはこういう意味なんだよ」と言ってあげると、みんな「へえ」って思うんですよ。そうすることによって、自分が言葉を作り表現して伝えていくことは、学問としての「音楽」という狭いジャンルに閉じ込められるようなものではないということがだんだんわかってくる。そういうことを授業という名前でやっています。
6. 心の命ずるままに素直にいこう
--日本の音大でそういったことを教えてほしいと依頼してくる方もいらっしゃるんじゃないんですか?
谷村:中国の人たちの方が本質が見えていますし、そもそも日本でそういう依頼されたことはないですからね。今、日本は大変な状況ですよ。
--悲惨ですか?
谷村:はい。外から見ていれば日本がいかに大変な状況になっているかということがはっきりわかります。
--それは教育ということに関してですか?
谷村:教育も政治も全部ですね。実態がみなさんにはほとんど見えてないかもしれないと思いますよ。
--それはやはり中国と日本を行き来している中で、よりはっきりと見えてしまったということですか。
谷村:そうです。外から見れば、日本はこういう見え方だとわかりますし、「日本」についての勉強は個人でし続けてきて、やっとわかってきました。
--日本がそのような状況になってしまった一番の要因は何だとお考えですか?
谷村:責任はやっぱり大人です。だから大人の教育改革をしないと駄目です。日本の大人が一番子どもで、他の国へ行くと全く通用しない。アイデンティティもない。それが一番危ないと思うことですね。
--そういった思いが5年ぶりのニューアルバム『オリオン13』にも繋がっているんですか?
谷村:ニューアルバムではもっと広い大きな次元で歌っています。感じる人は感じる。感じない人はたぶん何も感じないかもしれませんね(笑)。
--その「高い次元」とは一言で言うと「ココロ」の話になるんでしょうか?
谷村:子供が「ココロってなに?」と質問しても大人は誰も答えてやれない。これは大人の問題だと思います。大人は「誰にも教えてもらえなかった」と言いますが、では「どうして学ばなかったんですか?」ということです。だから、大人にとって耳の痛い話をしてくれる本当の大人がいないというか、愛情を持って叱られたことがなかったんじゃないかなと思いますね。大人が危ないと気付いている人はもう時間がないから発言し始めています。さだまさしなんかも書き始めていますよね。どう思われてもどんなに叩かれても言うべきことは言うとみんな腹を決めたんじゃないかな。
--加山さんもインタビューの中で、「心根が重要でこれからは素直に生きていかなくてはいけないし、周りの人に対する感謝の気持ちを忘れてはいけない」と仰っていました。
谷村:そのことが全てです。加山さんが最近そういう話をされるようになって、やっぱりこの人は素敵だなとあらためて思いました。
--新作を聴かせて頂いたんですが、中に「にげない」「あきらめない」「とらわれない」「ごまかさない」「ひらきなおらない」というメッセージがありますよね。僕は今まで「いざとなったら開き直ればいいじゃないか」みたいに人によく言ってきた気がするんです。それがいいことだみたいなイメージで自分は使ってきたんです。ですから「ひらきなおらない」というと、俺は間違ってたのかなって思ったんですね。
谷村:では、開き直ってどうします(笑)?
--開き直るのは「自分を正直に出すんだ」みたいなイメージで使ってたんですよ。
谷村: それは逆のことが多いんです。自分が違っていたと思ったら、ごめんなさいと素直に言えない大人が多い。だから開き直って良くなることは何もないです(笑)。
--あと、私が開き直るというのは「覚悟を決めて肝据えて頑張れ」という意味で言っていたような気がするんです。
谷村: それは決心のことですね。開き直るんじゃなくて「決心」です。心をどう決めるかということです。色々と話してしまったのでちょっとややこしくなってしまいましたが、「かっこいいほうがいいよね」ということなんです。若い子たちの方が感性が豊かで閉じてないから、素直な部分が多いです。だから学生たちと話していてもすごく楽しい。でも、日本に帰ってきて割と同世代の人の話を聞いていると、この業界はどうのこうのってうんざりすることばかり聞かされます。あなたはその業界の人じゃないのか? もし嫌ならば辞めればいい。生活の為というのであればやればいい。そうやって生きればいい・・・ものすごく簡単な話でYES or NOなんです。だから全てをYESと腹を括ることができるんだったら、決して愚痴らない。愚痴っている姿を子供たちが見ていたら、「お父さん、かっこ悪いな」と思います。逆に大人が愚痴らないような生き方をしてると、子供たちは「かっこいいな」と感じるはずです。
--「全てをYESと腹を括って決して愚痴らない」というのはまさに谷村さんの生き方そのものですよね。
谷村: 僕はずっとそうなんです。僕は『昴』の中で「心の赴くままに」ではなく、「心の命ずるままに」と書いているんですね。「赴くままに」と言うと取りようによっては「好き勝手に」とか「我が儘に」と置き換える人がいますがそうではなくて、心がこうしようと言っていることに素直にいこう、ということなんです。今まで自分は誠意を持って思うように生きてきましたし、これからもそうしていきたいと思っています。周りがどんなレッテルを貼ろうが、なんでも”We can say yes”ですよ(笑)。
--もう一度、ニューアルバムを聴き返してみたいと思います。本日はお忙しい中ありがとうございました。益々のご活躍をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
谷村さんの穏やかな笑顔と話し方で語られた言葉のひとつひとつが、とても厳しく感じられるインタビューでした。谷村さんが15年以上前に指摘されていたという「音楽がなめられている」状況は今も続いているように感じるのは私だけでしょうか? そして、それは「ココロ」をないがしろにしてしまっている現在の日本に結びついているのではないか・・・とお話を伺いながら思いました。素晴らしい音楽が本来持つ、理屈ではなく人間の細胞にダイレクトに入っていくその力を、私たちはもう一度思い返さなくてはいけないのかもしれません。谷村さんの思いがたくさん詰まったアルバム『オリオン13』を素直な気持ちで感じてみてください。
次回は、バイオリニスト葉加瀬太郎さんのご登場です。お楽しみに。