第65回 葉加瀬 太郎 氏 ヴァイオリニスト
ヴァイオリニスト
今回の「Musicman’s RELAY」は谷村新司さんからのご紹介で、ヴァイオリニスト 葉加瀬太郎さんのご登場です。東京芸大在学中の’90年、クライズラー&カンパニーのヴァイオリニストとしてデビューされ、セリーヌ・ディオンとの共演で一躍世界的存在になった葉加瀬さん。’96年ソロ活動を開始以降、ジャンルを越えた音楽活動を展開。コンピレーションアルバム『image』のツアーや夏のイベント『情熱大陸』、また、レーベルの音楽総監督を務められている『HATS』やラジオのパーソナリティー、そして画家としてもエネルギッシュに活動されています。昨年ソロ活動10周年を迎えられ、今年7月には初の全オリジナル曲によるニューアルバム『SONGS』を発表された葉加瀬さんに、今までのキャリアを振り返っていただきつつ、ニューアルバムやイベント、ツアーについてじっくり伺いました。
プロフィール
葉加瀬太郎(はかせ・たろう)
ヴァイオリニスト
1990年 KRYZLER&KOMPANYのヴァイオリニストとしてデビュー。セリーヌ・ディオンとの共演で一躍、世界的存在となる。’96年解散後はソロとなり、国境やジャンルを越えオリジナリティに富んだ独自の世界観を創りだす。’02年自身が音楽総監督を勤める「アーティスト自身が自由に創作できるレーベル」 “HATS”を設立。’03年よりプロデューサーとしても本格的に活動。“HATS”に於けるアーティストプロデュースやハウステンボスのイベント、大阪ミナミの「なんばパークス」などを総合的にプロデュース。また、「テレビ朝日開局45周年記念ドラマ ‘流転の王妃 最後の皇弟’」の全音楽を担当。「中島美嘉ビューティフルライヴ」のトータルプロデュース。全世界で大人気のロールプレイングゲームPS2「ファイナル ファンタジーXII」のメインテーマ曲を担当するなどプロデューサーとしても幅広く活躍し、J-WAVE「ANA WORLD AIR CURRENT」のパーソナリティや個展を開く画家としての顔も持っている。毎年恒例となっている自身の全国コンサートツアーや、夏の野外イベント、イマージュの全国ツアーなどを含め、年間100公演にも及ぶ。
1.初恋がヴァイオリンのモチベーション?
--まず最初に前回ご登場いただいた谷村新司さんとの出会いをお伺いしたいのですが。
葉加瀬:谷村さんと初めてお会いしたのは僕のラジオ番組にゲストで来てくださったときなんですが、谷村さんは一言目に「会えると思っていたよ」とおっしゃって、すぐに意気投合をしました(笑)。J-WAVEで8年やらせていただいている『ANA WORLD AIR CURRENT』で旅について色々なお話を伺いました。谷村さんも僕の音楽をずっと聴いてくださっていたみたいで、すぐに「飯行こうよ」とお誘いを受けまして(笑)、それからは色々と連絡を取り合っている間柄ですね。
--では、公私にわたってのご関係ということですか。
葉加瀬:残念ながらまだ仕事をご一緒したことはないんですが、ちょくちょくメールでやりとりしていますね。谷村さんは凄いバイタリティーの持ち主ですし、考え方が普通じゃないですから「なんだ! このオヤジは!?」と思いつつも(笑)、音楽だけにとどまらず、色々なことを教えていただいています。
--ここからは葉加瀬さんのお話をお伺いしたいのですが、ご出身は?
葉加瀬:僕は1968年大阪生まれです。
--大阪のどちらですか?
葉加瀬:生まれたのは市内なんですが、3才の時に千里ニュータウンに引っ越しましたので、いわゆる団地っ子です。その当時の千里ニュータウンには子どもが一杯いて、小学校も1学年10クラスありました。要するに高度成長時代で、ただ前を向いているだけの時代ですね。実はつい二ヶ月くらい前に上海に行ってきたんですが、あの当時の日本にそっくりでした。上海も2年後に万博をひかえ建築ラッシュですし、みんなが右肩上がりで成長し続けることを信じて疑わないと言いますかね。まさに僕らの世代もそうでした。
--ご家庭内に音楽的な環境はあったんですか?
葉加瀬:全くありませんでした。父親はサラリーマンでしたが飲食関係の仕事をしてまして、本職以外にワインの勉強をしてサントリーのワインスクールでソムリエを育てるという仕事もしていました。その当時、まだワインのソムリエという言葉が日本には全然ない頃ですね。普段は大阪会館というホテルのようなところで仕事をしていましたが、日曜日はずっと家でワインの勉強をしている父親の姿しか知りません。母親は僕が生まれた頃には主婦をしてましたが、もともとは美容師でした。僕には2人の妹がいて、いわゆる2DKの公団の団地に家族5 人住んでいましたから、ご飯を食べた後はちゃぶ台をたたんで、お布団を敷いてみんなで寝ていました。
--ヴァイオリンはいつから始められたんですか?
葉加瀬:ヴァイオリンは4才からです。
--始めるきっかけは何だったんですか?
葉加瀬:もちろん両親が始めさせてくれたんですが、ただ4才なので僕自身何も記憶がないんですね。ですから、始めたきっかけは憶えていなくて、後で聞いた話によると父の友達が音楽を薦めてくれたらしいんですが、とにかくその時代のニュータウン子というのは、それまでの子ども達とはちょっと違って、習い事がたくさんあるんですよね(笑)。公文式の算数・国語から始まって、新聞社が主催するサッカー教室、水泳教室、そういうものを当たり前のように習っていたんです。うちの母親は非常に教育熱心だったと思うんですが、放課後は1週間全部習いごとで詰まっていました。
--ヴァイオリンだけなさっていたわけではなかったんですね。
葉加瀬:はい。サッカーや剣道、水泳に絵画教室、公文もやっていましたし、普通の塾にも通っていました。とにかく毎日毎日習い事をしていました。
--それはハードな生活ですね。
葉加瀬:ハードでした (笑)。でもそれが当たり前だと思っていましたからね。もともとはその1週間のうちの金曜日がヴァイオリンの日だったというだけです。記憶があるのは小学校1年生、2年生くらいからなんですが、その頃になるとヴァイオリンをやるのは当たり前になっているので、毎日練習しなさいと言われて練習していましたけれど、「練習が好き」という子どもはなかなかいませんから・・・(笑)。
ただ、自分の中で変わってきたのは10才、小学4年生のときなんです。当時、電車の駅で2駅分くらい同じ千里ニュータウン内で引っ越しをしたんですが、転校先の新しいクラスに伸子ちゃんという可愛い子がいて(笑)、実は伸子ちゃんがヴァイオリンを弾いていたんです。しかも僕よりも猛烈に上手だったので、それが僕のモチベーションになったんです。
--その子にいいところを見せようと(笑)。
葉加瀬:それもありますし、単純にお話がしたかったんです(笑)。その伸子ちゃんが実は団地も隣の棟に住んでいまして、彼女と「毎日学校ヘ行く前に15分でも、20 分でも練習しよう」と約束をしました。その練習のおかげで毎日登校時間ギリギリになってしまい、彼女と一緒に学校まで走っていました(笑)。それで、学校が終わったらすぐに家に帰って練習を始めて、2、3時間練習すると伸子ちゃんに電話をして、「息抜きにバトミントンでもしようか」と遊んだりしていましたね(笑)。
--なんだか微笑ましいですね(笑)。
葉加瀬:その子とは結局5年生、6年生と同じクラスで、中学校も同じ学校に行きました。また、僕は小学5年生くらいからヴァイオリンのレッスンとは別に、毎週土曜日に相愛学園の音楽教室へ午後1時から9時まで通っていたんですが、そこでも伸子ちゃんと一緒でしたし、高校は京都市立堀川高校音楽科というところに進学して、結局東京芸大に入ったんですが、実は高校も大学もその伸子ちゃんとずっと一緒だったんですよ。大学を卒業するまでですから、12、3年一緒でした。
--その方とは今でも交流があるんですか?
葉加瀬:彼女は今ミラノに住んでいるので、ミラノに行ったときは会いますね。
--なんだか結婚しても不思議ではないくらいの強い結びつきですよね。
葉加瀬:そうですよね(笑)。初恋の人だったことは間違いないですが、それだけ一緒にいるものですから兄妹みたいになっちゃったのかもしれませんね。一度高校の時に他の女の子と付き合っていて、振られたときに「恋愛に疲れた・・・伸子、俺と付き合ってくれよ・・・」と言ったら、「アホか! お前!」と言われて頭をパーンと叩かれましたけどね(笑)。
2.クラシックのヴァイオリニストになることしか考えていなかった
--いつ頃、ヴァイオリニストになる決意されたんですか?
葉加瀬:もう中学の頃はヴァイオリン弾きになることしか考えていなかったです。小学校5、6年生くらいから東儀祐二先生という五嶋みどりさんをはじめ、数多くのヴァイオリニストを育てられた有名な先生に巡り会って、その先生が堀川高校から芸大に進まれていたので、迷うことなく先生と同じ道へ行くと決めました。それからは毎年行われる全日本学生音楽コンクールの課題曲を練習するために夏休みを全部返上して、毎日10時間以上弾いていたと思います。
--凄い練習量ですね・・・。
葉加瀬:というか、僕にはそれしかなかったんですよね。中学時代の人生におけるプライオリティーは「コンクールに出て賞を獲ったら新聞に名前が出る」、それだけでした(笑)。その頃は単なるクラシックおたくの子どもでしたから、お小遣いで買うのは全部クラシックのアルバムで、小さな家だったので自分の部屋はなかったんですが、自分のスペースが押し入れの一角にあって、そこにブラームスやバーンスタインの写真を貼り・・・つまりピンナップするアーティストがみんなクラシックの作曲家や指揮者、そしてヴァイオリニストでした(笑)。もちろん友達はビートルズやジャーニーとかを聴いていましたし、テレビでベストテンとかを観ることもありましたが、当時の僕には音楽とは思えませんでした。
それが高校に入ると、音楽科だったのでみんな僕みたいな奴ばかりで、「ここは俺にとって天国だ」と思いましたね(笑)。ベートーベンの5番はカラヤンが良いのか、バーンスタインが良いのかというような話をみんなとできる喜びと言いますかね(笑)。高校の頃もクラシックに限らず色々な音楽が聞こえてきてはいましたが、オーケストラをやったり、室内楽をやったりすることに夢中でしたね。
--では、音楽以外の思い出となると?
葉加瀬:もちろん恋愛もたくさんしましたし、酒や煙草を始めたりと色々な喜びは知っていきましたが (笑)、やるのは同級生と朝までブラームスを聴いて語り合い、そして、自分の恋愛とブラームスのクララに対する恋愛とを重ね合わせたりすることなわけですよ(笑)。変な子ですよね(笑)。でも、結局これってロックにのめり込むのと何ら変わりはないんですよね。
--では、そのころは演奏家になるということ以外のものは何も見えなかった?
葉加瀬:それはずっとそうですね。大学に入るまではクラッシックのヴァイオリン以外は全くイメージしたことがなかったです。子どもの時から唯一自分で観ていたテレビ番組が『N響アワー』だったんですね。その『N響アワー』で僕の高校の先輩でもある堀 正文さんがコンサートマスターとして弾いている姿に凄く憧れていました。とにかく芸大に入って、N響のコンサートマスターになりたい。そうしたら毎週テレビに出られるというね(笑)。
--(笑)。堀川高校から芸大の受験というのは一発で受かったんですか?
葉加瀬:ええ。芸大のヴァイオリン科を受けに来るのが1学年大体200人、そのうち入れるのが20人くらいですから倍率10倍強です。でも、芸大は附属高校があるので、ここからエスカレーター式で上がってくる人がいて、僕らの学年は10人いましたから、残りの枠は実質10なんです。
--たった10人ですか・・・。
葉加瀬:でも、小さい頃からずっとコンクールで戦ってきているから、同じ年代の上手い奴というのは東京に何人、大阪に何人、九州に何人と分かっているんです。その中でお金持ちはみんな私立の桐朋へ行きますから、そこから何人か削られ、残りは何人と大体分かる。だから一杯受けに来ていてもあまり関係ないんです。「ミスさえしなければ何とかなるな」と自分でも分かっているから(笑)。
ところが大穴みたいな奴もいるんですよね(笑)。僕が受験したときに一次、二次を通っている中に見かけない奴がいて、芸高みたいな制服を着ているので「お前、どこから来たの?」と聞いてみたら、「僕は長野です」と言われて、「長野にそんな奴いるんだ! 聞いてないよ! 番狂わせだ!」と(笑)。そいつは頭のよい県立長野高校出身で、共通一次も1,000点満点中900点以上とっていたんですね。それで「東大に行こうか芸大に行こうか、まだ迷っているんだ・・・」と言っていて、「だったら、東大に行けよ!」と正直思いましたね(笑)。結局彼とは同級生になり今でも友達ですけど、そういう受験だったんです。更に言うと芸大の入試における音楽史やソルフェージュは、堀川高校の1年生の終わりくらいのレベルなんですよ。堀川でやっていたものの方がよっぽど難しかったので、そういう心配はあまりなかったですね。
3.セックス・ピストルズの衝撃〜刺激的な芸大生活
--いよいよ東京芸大での生活が始まったわけですね。
葉加瀬:芸大に入って、4年過ごして、留学とかして、その間にコンクールでも受けて・・・といういわゆるヴァイオリンのソリストとしての、あるいはコンサートマスターとしてのレールを僕自身はイメージしていたんですよ。そのことに対して何の迷いもなかったんですが、芸大というところのマジックというか、通り一本挟んである美術学部の連中に大きな影響を受けたんです。
まず一番初めに「新入生歓迎祭」というオリエンテーリングを兼ねたお祭りで、僕は今までに聴いたことがない音楽が一杯耳に飛び込んできたんです(笑)。芸大は雅楽部からバリ・ガムラン部まで色々ありますから、それまで音楽だとは思えなかったロックやジャズをはじめ様々な音楽がバーッと聞こえてきました。その中でも一番僕の心を掴んだのが、美術学部の学生がやっていたセックス・ピストルズのコピーバンドだったんです。美術学部の学生の中でも彫刻や油絵といったファイン・アート系、つまり卒業してからも就職が全く見込めない人たちは(笑)、きまってローリング・ストーンズか、ボブ・マーリーか、ピストルズなんですよね(笑)。逆にデザイン科の人たちはそれこそテクノを聴いたり、流行のクラブ・ミュージックを聴いたりね。
--クラシックの耳にピストルズはどのように響いたんですか?
葉加瀬:やはり大きな音というのに一番感動したんでしょうね。僕の中でそれまで一番大きな音の音楽は、1,000 人でやるマーラーの交響曲第8番だったんです。それが4人でドカドカやっていて、その周りで何百人も踊っている光景にバックリやられてしまって、そこからどんどん美術の人たちと仲良くなっていったんです。
--芸大に入ってからはどのような生活だったのですか?
葉加瀬:住んだのは上石神井にある芸大寮という学生が運営をしている自治寮で、何でもアリなところでした。寮費なんて2,000円ですよ(笑)。食事を毎日頼んでも一月10,000円くらい。でも、金のない奴らばっかりだから、午後10時になると「盗食」というシステムがあって、残っている食事はみんな食べていいんですよ(笑)。だから『ニュースステーション』のオープニングが聞こえてくると、みんなバーッと食べて、ご飯は次の日のお弁当分までとっておいて・・・という奴ばかりでした。これ、本当の話ですよ(笑)。
--(笑)。なんだか芸大って個性的な人がたくさんいそうですものね。
葉加瀬:彫刻・油絵とかになると10浪、20浪の人とかいますから、同じ学年で40才の人とかいるわけですよ。そういう人たちは家に妻子を置いてきて、寮で制作に没頭しているわけです(笑)。そういう見たことのない人たちと毎日酒を飲み、アートについてや人生について語り合っていたので、わりと考え方が滅茶苦茶になっていきました。でも、彼らはみんなクリエイションをしている人たちだから、僕からしたら格好いいとしか思えないんですよね。僕はずっとクラシックをやってきたにもかかわらず、そこで彼らの格好良さにやられて、「何か作らなきゃ」という気持ちになりました。
つまり、今までヴァイオリンを弾いてきても、「結局ベートーベンやブラームスをコピーしているだけじゃん」みたい気分になったんです(笑)。必死に練習して、どんなにレッスンを受けても「これってビートルズのコピーバンドと何が違うんだよ」と、18、19才の頃に生意気にも思ったんです(笑)。そうなるとレッスンを受けに行って先生から「モーツァルトのビブラートはこうで、ベートーベンはこう」とか言われると、「先生、モーツァルトやベートーベンに会ったことあるのかよ!」とか思っちゃうわけですよ(笑)。それで、僕自身クラシックは大好きですけども、「いっぺん距離を置かなきゃな」という感じになったんでしょうね。
--それは大学入学直後ですか?
葉加瀬:直後です。だから何のために芸大に入ったか分からない感じですよね。でも、芸大に入ることによって、友達は一杯できましたし、その中で自分は絵を描き始めたり、曲を作り始めたりしました。また、今のところヴァイオリン科では最初で最後だと思うんですが(笑)、学園祭の実行委員長をやったりしました。
--やはり、そういう役回りをみんなやりたがらないんですか?
葉加瀬:そうですね。みんな練習時間を重んじますから、そういうことをやる人が器楽科にはいないんです。とにかく僕は大学時代「祭り」ばっかり作っていました。メガホンを持ってみんなに「一緒に何かやろう!」と声をかけて、ずっとタテカンを書いていました。僕はどこか学生運動みたいなものに凄く憧れていたんです。だから、大学生というのはタテカンを書くものだと思っていました(笑)。
--でも、世代的には学生運動は終わってしまっていたと。
葉加瀬:僕が生まれた年あたりがピークでしたからね。今でもお祭りみたいなものは大好きですから、『情熱大陸』のライブや『live Image』をやったり、みんなからは「何も変わらないね」と言われるんですが、そのころから人を巻き込んで、何かイベントを起こすということに興味がありました。
--もうその頃から葉加瀬さんはプロデューサーだったんですね。
葉加瀬:その時は真剣に「美術の学生と音楽の学生はもっと交流しよう」ということばかり訴えていました。「何で一緒にやらないんだ」と言ってね。例えば、美術の学生に第九を唄わせるとか、あるいは音楽の学生にデッサン会をさせて、みんなにデッサンしてもらうとか、そういう企画をいつも書いては、実行していました。
--芸大って音楽の方はお坊ちゃん・お嬢ちゃんの美しい世界で、美術はぐちゃぐちゃで、そこに交流はほとんどないと聞いたことはあるんですが、その壁を壊そうとしたんですね。
葉加瀬:でも、お坊ちゃん・お嬢ちゃんという言い方は少し違うんですよね。一番それっぽいヴァイオリン科でも、さっき話したようにお金持ちの子はみんな桐朋とか私立に行きますからね。芸大ってなんだかんだ言って、年間20万円で通える学校だから、みんなバンカラで雑草のような奴ばかりでした(笑)。ヴァイオリン科は20人中男が 2、3人しかいないのが普通で、女の子たちは2年生になったときに「芸術祭」という学園祭で、弦楽科は必ず彫刻科と御輿を担いで谷中中を回るんですが、それまでヴァイオリンしか弾いてこなかった子がそこで初めてワイルドな男に出会って、外の世界を知り、お付き合いが始まるんですよ(笑)。まあ、その後はいつも大変なことになりますけどね・・・(笑)。
4.芸大在学中にクライズラー&カンパニー結成
--芸大に入られて、クライズラー&カンパニーでデビューされるまでは、どのような活動をされていたんですか?
葉加瀬:大学に入ってすぐにポピュラー音楽に興味を持ったといって、芸大の教務部へ行ってもそういう仕事は紹介してくれませんから、僕はちょっとでも早く音楽業界に足を突っ込んでおかないと駄目だと思っていました。普通、芸大生のバイトというと、子どもを教える先生やオーケストラのエキストラとかなんですが、僕が一番初めに獲ってきた仕事は近藤真彦さんの明治座公演だったんです。一部は時代劇『森の石松』、休憩を挟んで二部は歌謡ショー。そのストリングスを3ヶ月やりました(笑)。とにかく目立てば次の仕事に繋がるという考えしかなかったので、その近藤真彦さんの仕事の時も芸大 1年生なんだけど、「コンサートマスターをやっていいですか?」と一番良い席をとって、全部僕が仕切りました(笑)。そこでとにかく目立つ服を着て、バンドの人たちとも仲良くなるために出来るだけ飲みに行きましたね。
そのあとに劇団四季『ウエストサイドストーリー』のオーケストラ・ピットの仕事をいただきまして、そこでピアノを弾かれていたのが宮川彬良さんだったんですが、他も錚々たるメンバーでした。ピットの中でも結局やりたいことは同じで、目立てばいいわけですからヴァイオリンのフレーズがきたらピットの中でも椅子の上に立つ(笑)。そうするとピットから顔が出るんですよね(笑)。その姿を見て役者達からも「あの変なヴァイオリンは誰だ?」と気にかけられて、仲良くなる。でも、浅利慶太さんが抜き打ちでチェックにいらっしゃるんですよね(笑)。そのことをみんなは知っているんだけど、僕だけ知らなくて、しかも教えてくれない(笑)。それでいつもの調子で椅子に立ってヴァイオリンを弾くと、始末書を書かされて、その日のギャラはなくなるんです(笑)。
--ピットの中では立っちゃいけないんですね。
葉加瀬:あたりまえじゃないですか!(笑) ピットはオーケストラを隠すために壁があるんですからね(笑)。いつも先生に呼び出しを食らっては怒られていました。でも、僕はそれで良いと思っていたし、そうこうしているうちに段々とストリングスの仕事を頂くようになりました。それはお金のためではありましたけど、同時に音楽業界のことを知っていきたいという気持ちもありました。仕事で来ている人はできるだけ後ろで弾くんですね。それだと駄目だからできるだけ前に行くようにしたら、色々な方々からかわいがっていただいて、大晦日なんかレコード大賞と紅白歌合戦を掛け持ちでやったりしていました。そうやって仕事をしながら、同時に自分のプロジェクトも色々やっていました。
--クライズラー&カンパニーはどういったきっかけで結成されたんですか?
葉加瀬:クライズラー&カンパニーは本当に偶発的にできたグループなんです。当時の僕はプログレッシブ志向なものから、ミニマルなものまで色々なバンドをやっていました。実はピストルズ以降、僕にとってのポップの入り口は坂本龍一さんなんです。坂本さんがちょうど『NEO GEO』が出したあたりから自分でもそういう志向の曲を書いて、打ち込みも始めて、ミディとか色々なところにデモテープを送ったりしていましたが、全く未来がつかめず・・・(笑)。
そんなときに単純にバイトとして町田の小さなカフェで「ヴァイオリンとピアノで何かやらない?」とコンサートを頼まれたんです。お客さんが20人くらいのティータイム・コンサートだったんですが、その店にピアノがないということで、買ったばかりのDX-7Ⅱを持っていって、それで演奏したんです。ただ、そのDX-7Ⅱを寮から運ぶ足がなかったので、後輩の中で誰か車を持ってないかと探していたら、昨日納車になった奴がコントラバス科にいると。それが竹下欣伸で、僕は先輩風を吹かせてその車で運ばせて(笑)、そのキーボードを弾いてもらったのが斉藤恒芳になるんですが、芸大のピアノ科からプレイヤーを探すと、みんなピアノ以外は弾かないので、作曲科の中で一番軟派そうな奴を探して、結果、それが斉藤だったんです(笑)。
その時に斎藤から「何を弾いたらいいの?」と訊かれたので、「クライスラーなんかをちょろちょろっと伴奏してよ」と頼みました(笑)。確か1時間くらいのコンサートを2回やったんですが、そこにたまたま僕のプロデューサーであるロビー和田さんが観に来ていた、というかケーキを届けに来ていたんです (笑)。その当時、彼はサイドビジネスでケーキ屋をやっていて、そのケーキをカフェのママに届けに来たと。
--そこで発掘されたというわけですか。
葉加瀬:そうですね。カフェのママにロビー和田さんを紹介していただいたんです。でも、ママから「こちらはロビー和田さんといって、これまでに和田アキ子さんや西城秀樹さん、松本伊代さんを育てられた方で、芸能界にとても力がある方なのよ〜」と言われて、ロビー和田さんは胸元まで開いた真っ赤なシャツを着て「よろしくちゃーん」という感じで、正直「こりゃ関係ないや」と思ったんですよ (笑)。先ほどもお話しましたが、僕は「坂本龍一になりたかった男」ですから(笑)。
--自分とは路線が違うと(笑)。
葉加瀬:ところがその後、ロビーさんから芸大の寮に毎日のように「一度会って話を聞いてくれ」と電話がかかってくるんです。それで実際にお会いして「お前は何がやりたいんだ?」と訊かれたので、「スターになりたい」と言ったら、「一緒にやろう」と言われました。その時にロビーさんから「この前、お前達が弾いていたのはクラシックか?」と訊かれたので、「そうです。クライスラーと言って100年くらい前のヴァイオリン弾きで、それまで50分あった曲を自分で弾くために3分にした男です」と説明したら、「面白いじゃないか。じゃあ、クライスラーの曲をバーンとアレンジして、ショーでお前達はステップを踏みながらブヮーっと、バーンと、ガーンとやるんだよ!」と言われて、その時はロビーさんの仰ったことが全く理解できなかったんですよね(笑)。僕はもうちょっと知的な路線で行きたかったんですが、「バーン! バーン! バーン!だよ!!」と言われて・・・(笑)。
結局、半年後くらいにプロジェクトがスタートしたんですが、「”3人”と言うのが面白いから3人でいろ」とか、僕は芸大をいち早く辞めたかったんですが、「学校は辞めるな。芸大生がこういうことをやるから面白いんだ。授業へは行かなくてもいいから、授業料だけ払っておけ」と言われて、芸大生3人組としてデビューしたわけです。
5.アルバム制作からデビューまでの長い道のり
--クライズラー&カンパニーでの活動は最初から順風満帆だったんですか?
葉加瀬:いや、結構大変でしたね。「この人がアレンジするから」とロビーさんが連れてきたのが鷺巣詩郎さんですから、当時は「俺たちどこへいっちゃうんだろう・・・?」と思いました(笑)。デビューアルバムは昔のフリーポート、今のSOLでレコーディングしたんですが、鷺巣さんがどんどん打ち込んでいき、その後に僕たちの時間を与えてくれて、その上にアレンジしていく。そのうちにだんだん作業が密になり、結局、鷺巣さんとはアルバム2枚をがっぷり四つで作りました。そこでスタジオワークの楽しさを知りましたね。その頃はほぼフリーポートに住んでいるような状態でした。
ただ、1枚目はできてからリリースするまでに1年かかっているんです。最終的にはEPICから出るんですが、最初は小杉理宇造さんのムーンでやる予定で、それこそオリコンには毎月のように広告が出るんだけど、イニシャルがとれないとロビーさんがいつも蹴って、蹴って・・・(笑)。ですから2年間ぐらい「来月出るんだ!」と思って取材とかも受けるのに、ロビーさんから「デビューやめた」と言われ続けるわけですよ(笑)。「もう、このオッサンは信じられない!」とそこまで思いましたが、最終的には丸さん(丸山茂雄氏)が「一緒にやろう」と言ってくれて、ようやくデビューしました。ですから僕らの2枚目はすぐに録れたんです。曲もありましたし、なかなかレコードは出ませんでしたが、自主的にライブは沢山やっていたので。
--でも、そのロビー和田さんの根気強さは凄いですよね。
葉加瀬:未だに何を考えているのかわからない人ですけどね(笑)。ロビーさんは非常に感覚的な方で音楽的な話をするのも、僕らは「ドレミ」で話した方が早いんですが、ロビーさんは「バーン! ドーン!と行けばいいじゃない」ですからね(笑)。一緒にやろうとなってからしばらくしてから、ロビーさんが初めて「リハーサルをやるためにスタジオをとった」とおっしゃってくださったんですよ。それまで自分たちで小さなリハーサル・スタジオをとってやっていたものだから嬉しくて、「なんだかプロっぽいな」なんて話していたんですが、「その日は楽器はいらない。ジャージ着てスニーカー履いてこい」と言われたんですね。それでスタジオに行ったら黒人の先生がいて、カセットで音楽を流しながら、ずーっと振り付け(笑)。「なんで芸大に入って、俺ら3人揃って一日中ボックスの練習をしているんだよ!」って思いましたね(笑)。
--(笑)。でも、それがクライズラー&カンパニーのショーに繋がっていくわけですか。
葉加瀬:そうですね。今だったら絶対にできませんが、クライズラー&カンパニーのステージは、イントロや間奏のときの立ち位置からステップまで全部決まっていたんです。だから、ヴァイオリンを弾いていない間はみんなでフォーメーションを組んで、ずっとステップを踏んでいました。そうやって始まったバンドですが、どんどんロック色を強めていくことになりまして、僕のプログレ志向みたいなものが出てきて、一曲20分の曲を書いては「こんな曲使えねえ」と言われたり(笑)。そういったフラストレーションを上手くライブで解消しながら、結局6年間活動したんですが、’93、4年くらいからバンドに変な色合いが付いてきたんですよ。
--それはどういったことなんですか?
葉加瀬:クライズラー&カンパニーというバンドは、クラシックの曲をポップにアレンジし、ショーとしても魅せる。そして、タイアップを一杯とって、CMでたくさん曲が流れていたので、博報堂や電通といった広告代理店が非常に使いやすいバンドだったんですよ。つまりクラシックの曲があって、「これがこういう風になります」とメーカーにプレゼンしやすいわけです。だって、まだ何のたたき台も出来ていないのに、スタジオには代理店の人が居るような状態でしたから・・・(笑)。
--なんだかCM業界人みたいな感じですね。
葉加瀬:何かね(笑)。それに違和感を感じつつ、ツアーはずっとやっていたんですが、その頃からTVの番組で中西圭三君とかと絡み始めたり、歌の人たちと何かできないかと模索し始めて、ロビーさんから「誰か組んでみたい奴はいるか?」と訊かれたので、「マライア・キャリーとかホイットニー・ヒューストンとか?」なんて僕らは適当なことを言うわけですよ(笑)。それでロビーさんが連れてきたのがセリーヌ・ディオンだったんです。セリーヌを初めて見たのは『美女と野獣』が出た直後の初来日公演で、会場は中野サンプラザだったと思うんですが、「太郎、彼女どう?」と訊かれて、「歌はすごく上手いけど、あの雰囲気は日本人には濃すぎるんじゃないの?」って答えたのを憶えています(笑)。
--最初はそういう印象だったんですか(笑)。共演のきっかけは何だったのですか?
葉加瀬:直接のきっかけはデヴィッド・フォスターなんです。 JTがやっていたプロデューサーズ・コンサートでデヴィッドが来日した際に僕らのビデオを見てくれて、ちょうどその時にセリーヌがゲストボーカルで来ていたので、「今度一緒にやろう」と言ってくれて、フジテレビ『恋人よ』の主題歌『To Love You More』を作ったんです。
ただ、ロビーさんはクライズラー&カンパニーというバンドを大きくするためにデヴィッド・フォスターを連れてきたわけですが、僕らの意識はもっとバンド指向になっていましたから、「なんでデヴィッド・フォスターなの?」と思っていました(笑)。僕はプレイヤーでしたが、竹下と斎藤はキーボーディスト、ベーシストであると同時にアレンジャー、コンポーザーでしたから、「デヴィッド・フォスターがいたら俺たち仕事がない」と思ったんですね。そこでみんながやりたいことと首脳陣がやりたいことがずれてきてしまって、デヴィッドの家でレコーディングして、ロスのフォーシーズンズ・ホテルに一週間くらい泊まっていたんですが、レコーディングから帰ってきては、僕の部屋に集まって「いつバンドを止めるって言おうか?」と話しあっていました。その隣の部屋ではロビーさんやデヴィッドが「これからどうする?」みたいな話を壁一枚挟んでしていたというね(笑)。
6.ポピュラーミュージックの力強さ〜セリーヌ・ディオンのワールドツアー
--そして、’96年から葉加瀬さんのソロ活動が始まるわけですね。
葉加瀬:そうですね。セリーヌがワールドツアーを始めるというので、「ソリストとして稼働できるんだったら、1曲ゲストとして弾いてみないか?」と誘われました。それで初めて行ったのがオーストラリアだったんですが、あの『To Love You More』は日本でしか発売されていなかったんです。だから誰も知らない曲だったんですが、曲が終わるとみんなスタンディングオベーションでした。曲もスケールが大きいですし、僕のパフォーマンスとセリーヌのパフォーマンスが非常にシンクしたんでしょうね。その後、『To Love You More』はラジオから火が付いたんです。「あの曲は何だ?」とみんながかけ始めて、それがカナダ、アメリカに飛び火していきました。結局3年間くらい日本での自分の活動をしながらセリーヌのツアーをさせていただきました。
--それは大きなきっかけになられたでしょうね。
葉加瀬:ええ。僕は色々なことを勉強しました。大学からポピュラー音楽の世界に入りながらも、ピストルズに衝撃を受けて、以後、坂本さんが好きになり、その間に聴いていたのがキング・クリムゾンやイエスですから(笑)、例えば、マイケル・ジャクソンの音楽の意味が僕には分からなかったんです。「何でこれが音楽なんだろう?」みたいなね。マイケルに関してはスティービー・ワンダーを聴いて、すぐに入り込めたんですが、そんな中、参加したセリーヌ・ディオンのコンサートは本当に万人がわかるように作っているし、アメリカ・ツアーで「さあ! みんなノっていこうよ!」と言って唄うのが『Teist and Shout』とか(笑)、そういう次元なんですね。ですから、セリーヌのツアーを通じて、僕はポピュラー・ミュージックのポピュラリティ、普遍性の力強さを学びましたね。
--みんなが口ずさめる音楽の力強さみたいなものですね。
葉加瀬:それまでだったら見向きもしなかった曲がものすごく力強く自分の胸に響いてくる。それがだんだん自分の作る曲にも反映されてくるんだと思うんですが、クライズラー&カンパニーを解散した後、僕はセリーヌとのツアーをやりながら、一方でワールドミュージックにはまっていたんです。ブラジル音楽、キューバ音楽を中心に南米のグルーヴにどんどんはまっていって、クライズラー&カンパニーでできなかったことを自分で一杯したかったので、1996年9月11日にクライズラーの解散コンサートをやって、翌12日から自分のプリプロに入ったことを憶えているんですが、アート・リンゼイにプロデュースしてもらって『ワタシ』というアルバムを作りました。
--アート・リンゼイにはどういう経緯でプロデュースを依頼されたんですか?
葉加瀬:もともと教授(坂本龍一氏)絡みでアートの大ファンで、是非一緒にやりたかったので、クライズラー&カンパニーでお仕事をしたオノセイゲンさんに「アートと繋げてよ」とお願いして(笑)、それですぐニューヨークへ行ったんです。とにかくアートとのレコーディングは、それまでクライズラー&カンパニーでやってきた音作りと全く違って、凄く印象的でした。
--それはどういった違いなんですか?
葉加瀬:日本人の作り方って非常に精密で、精度が高くて、それを重んじるでしょう? キーボードの斎藤なんか芸大作曲科卒だし、何よりも楽譜で書くのが早い男だから、いつも楽譜、コンピューターのデータというのを信じて音楽を作っていました。僕はそれまでアートのやり方なんて何も知らなかったですし、しかも初めてのソロアルバム、初めての海外レコーディングでしたから、150%の気合いでどの曲もフルスコアを書いて、自分で全部打ち込んだデータも参考に持っていったんです。それでアートに最初に会ったときにスコアを見せたら、「I’m sorry.I can’t read score」と言われ(笑)、次に「自分がイメージして打ち込んできたから」とデモを聞かせたら、「No,I don’t need」(笑)。結局全ていらなくなってしまったんです(笑)。
--せっかく気合い十分で準備していったものが全く不必要になってしまったと(笑)。
葉加瀬:そうですね(笑)。それでレコーディングが始まったら、ニューヨーク在住のブラジルの一流ミュージシャンがSOHOのスタジオに集結しているわけです。そのスタジオにはヴァイオリンのブースもなくて、ドラムの横にちょっと板が立っている程度で、それでセッションが始まっちゃうんですよ(笑)。僕は「これは絶対にリハだ」と思っていたんです。でもそれを全部録っていて、アートが面白いのはその後なんですよね。みんなザックリ録ってしまって、取り込んだ素材を今度はSSLを使って切り刻んでいくんです。彼にとってはSSLがDJマシーンみたいなもので、そこからはもう本当に凄い。
当時、ドラムンベースになる前のジャングルが流行っていて、「こういうリズムを打ち込みで入れたい」と言ったら、「今ここにそんなこと出来る奴いない」と(笑)。それでアートが「よし、タワーレコード行こう」と行って、ライセンスフリーのCDをたくさん買ってきて、それをサンプラーに取り込んでピーター・シェラーが組み上げたり、「この人達は何をやっているんだろう?」という感じでした。アートはまるでポエムのような指示を出して(笑)、それをピーターが作業する・・・そのスタジオ・ワークはまるで遊んでいるようにしか見えなかったですね。
--うーん、なんだかマジックのようですね・・・。
葉加瀬:今までのレコーディングとは全てが違ったんだけど、彼らのレコーディングの仕方がすごく面白くて感動したので、日本に帰ってきて同じような機材を全部買い揃えました。この間、坂本さんが僕の番組にゲストで来てくださってその話をしていたんですが、坂本さんもアートに会って、音楽の作り方を根本から変えられたと仰っていました。
7.『情熱大陸』に宿る魂とは?〜裸足で繰り広げたソロコンサート
--ソロになった当時はどのようなコンサートをされていたんですか?
葉加瀬:あの頃はサンタナの『ロータス』『ムーンフラワー』といった作品に憧れ続けていて、2コードで20分のソロとかそんな音楽に傾倒していたので、コンサートもパーカッションソロ20分とかやっていましたね(笑)。曲順にまず「祈り」と書いてあって、それは全くのフリーで5 分、10分とりあえず何か見えるまでは次の曲には行かない(笑)。僕は髭を生やして裸足で、会場にはお香を焚いてコンサートをやったんですよ。そうしたらそれまでクライズラー&カンパニーを応援してきてくださったスタッフの皆さん、あるいは地方のコンサートプロモーターの人たちみんなが、「ああ、葉加瀬さんイっちゃった・・・」と(笑)。
--(笑)。
葉加瀬:「もう帰ってこない」とね(笑)。だって、コンサートの打ち上げのたびにプロモーターの人やソニーのスタッフから、「葉加瀬、目を覚ませ!」と言われましたからね。でも、僕は好きなことをやっているから楽しくてしょうがないので、彼らから言われていることの意味が分からないんですよ(笑)。バンドもツイン・パーカッション、ツイン・ギターにドラムと、10人編成のバンドで、コンサートをやればやるほど赤字です(笑)。どんどんお金は減り、お客さんも減っていく・・・(笑)。それで「これはやばい」と思い始めて、心機一転、天野清継さんや元G-クレフの柏木 (柏木広樹氏)と大ちゃん(榊原 大氏)とかに声をかけて、バンドの編成を小さくしたんですよ。それが今の礎となったんです。
それまではずっとショーアップされた音楽ばっかりだったので、今度はアコースティックでジプシーみたいな音楽をやろうと思いました。僕の周りのスタッフはロビーさんも含め「わからない」と言っていたので、試しにSOMEDAYとかPIT-INNといった東京のライブハウスで随分ライブをやりました。そこでお客さんを段々増やしていって、自分たちで持ち込む小さな照明とPAだけで、ハイエースに乗ってもう一度ツアーをスタートさせました。それが2、3年経って軌道に乗り始めたんです。
--それは97年から2000年くらいまでの話ですか?
葉加瀬:まさにそうです。また、ヴァイオリン弾きだけに留まるのが怖かったので、絵を描き、テレビの司会とか一杯やってました。そういうことをやりながらもセリーヌのワールドツアーで世界中を回ってましたから、滅茶苦茶大変でした。アメリカ・ツアーなんて3ヶ月くらいありますから、その合間に帰国すると成田にマネージャーが迎えに来ていて、そのまま直でNHKに入って、4本撮りして、家に帰って2、3時間寝てからまた成田へ向かって、そこからアメリカの次の公演地に向かうわけです。そうするとアメリカのスタッフが迎えに来ていて、そのままスタジアムへ行って5万人の前で弾く(笑)。ジェット・ラグとかそんなレベルではなくて、自分がどこにいるのかさえも分かりませんでしたね。
--聞いているだけで目眩がしそうです・・・。
葉加瀬:今は絶対に出来ないですね。しかもあの時はいつもエコノミーに乗っていましたからね。もう音楽を食って生きているような感覚でした。また、先ほどもお話ししましたが、アート・リンゼイとアルバムを作ったのをきっかけに、自分で打ち込みからなにまで全部作っていくことに夢中になった時期で、貯金を全部はたいて家にハウス・スタジオの前身みたいなものを作り、A-DATを何台もシンクして、家でどこまで作れるか没頭していました。その頃に作ったのが未だに演奏している『エトピリカ』や『情熱大陸』なんです。
--『情熱大陸』はどのようにして生まれた曲なんですか?
葉加瀬:あの曲は変な成り立ちをしていて、まず’98年か’99年にあの番組に僕が出たんです。その時のプロデューサーから『エトピリカ』を僕の回のエンディング・テーマとして使いたいと申し出があって、いっしょにオープニングの30秒のアタックを作ってくれと依頼されたんです。でも、締切まで全然時間がなかったので、僕の持っていた2曲を合わせた曲が『情熱大陸』なんですよ (笑)。それこそ、お香を焚いて裸足でやっていたライブで弾いていた曲のAメロと、そのあと小編成のバンドでライブをしていた頃のある曲のサビとして作っていた部分をくっつけて、その頃一番好きだったバイーアのサンバ・ヘギというリズムを使って、曲を仕上げて提出したら採用されちゃって(笑)、それから 2、3年はそのままだったんです。
その後、「あのアタックを1曲にする発想はないんですか?」と訊かれるたびに、「ないない。あれはアタックのために作ったものだから」と言っていたんですが、『image』というアルバムを出すときの目玉として、「バンドネオンの小松亮太というアーティストを今から売り出すので、小松亮太フューチャリングで、あのアタックを5分の曲にしてくれないか?」とソニーのディレクター青木さんに依頼されてやっただけなんです。そもそも『image』もそんなに売れると思っていませんでしたし、あくまでも仕事として受けただけでした。
--それが今や葉加瀬さんを代表する曲になってしまうんですから不思議なものですね。
葉加瀬:コンサートであの曲を弾かなかったことはほとんどありませんからね。これまで何回弾いたかわからないんですが、先ほどお話したような成り立ちの曲なので、「この曲は!」みたいな思い入れがあまりないんです。でも、お香を焚いてライブをしていたときの魂みたいなものが入っているとは思うんですよね。その当時はお金にならなかったんですが、あの当時の根性が入っていると言えますかね。だから、未だに「あの曲みたいな曲を書いてくれ」とか言われるんですが、そんなに簡単には無理なんですよ(笑)。みんな「あれを越える曲を書いてもらわないと」とか簡単に言いますけどね(笑)。
8.ミュージシャン同士の繋がりを信じたい
--今回発表されたニューアルバム『SONGS』は初の全曲オリジナルということですが、どのような想いでつくられたんですか?
葉加瀬:今までは演奏家としてカバーを取り上げるのが好きだったんですが、去年はちょうどソロ活動10周年ということで、僕にとっては大先輩の古澤巌さんとアルバム(『Time has come』)を作らせていただき、また、それまでに作ってきた曲をヴァイオリンとピアノだけで演奏したアルバム(『Sweet Melodies 〜TARO plays HAKASE〜』)の2枚を出させていただいた関係上、オリジナルの新曲をあまりリリースできなかったので、オリジナルの曲を集めて、今年はもう一度初心に返って作ろうと思いました。
また、僕としては先ほどお話しした’90年代の終わりにホームスタジオで全部自分でやっていた感じではなくて、大好きなミュージシャンと一緒に作ろうと思いました。ある意味、今の僕は力が抜けているんです。例えば、羽毛田丈史さんと作るんだったら、羽毛田さんの色に染まる自分が楽しいんですよね。もちろん、鳥山雄司さんと作るのも楽しいですし、リスペクトするアーティスト、ミュージシャンの人たちが葉加瀬太郎のヴァイオリンをどういう風に見ているんだろうな、というのを今は楽しめるんですよ。
--「今は」ということは、昔はそれが嫌だったんですか?
葉加瀬:ええ(笑)。もっと言うと一枚のアルバムで色々なプロデューサーが名を連ねているアルバムが大嫌いでした (笑)。アルバムというのはトータルなものだと信じていましたから、5年前だったらこんなアルバムは絶対に作れなかったと思います。でも、今は逆に葉加瀬のヴァイオリンが芯としてずっとあり、色々な人たちの音楽が楽しめるし、僕のヴァイオリンを介して、それを紹介できるのは楽しいと思っているんです。
--それはご自分を客観視できるからこそですよね。
葉加瀬:そうだと思いますね。だから、一度こういうアルバムを出したかったんです。武部聡志さんなんて言ってみれば”プロデューサーズ・オブ・プロデューサー”じゃないですか? でも、テレビの仕事とかで曲をアレンジしてもらったことはあったんですが、自分のアルバムでやってもらったことがなかったので、今回お願いしました。で、「どんな風にする?」と訊かれたので、「とにかく金のかかった1曲を作ってください」と(笑)。「金の匂いがして、イントロで”武部聡志です!”という曲にしてください!」とね(笑)。そうしたら武部さんも悪ノリして「久しぶりに鳥ちゃんにギターソロ弾いてもらおうか?」と、「それそれ!」という感じです (笑)。やはりミュージシャン同士が仲良くなっていくのが僕は大好きですし、一番信じているんです。
--今後もツアーやイベントにと大忙しですね。
葉加瀬:そうですね。『live image』や『情熱大陸 SPECIAL LIVE』もすごく深い関係を続けさせていただいていますが、イベントが定着しているのがすごく嬉しいですね。『情熱大陸 SPECIAL LIVE』はもともとは小さなバンドでアコースティックな音楽をやっていた反動で、裸足でやっていた頃のような「ロックへの欲求」が鬱積していた時期に「何かやらないとおかしくなってしまう」と、夏に野音を東京・大阪で借りて、そこで友達をみんな集めて始めたライブが原点なんです。それを見に来ていた『情熱大陸』の番組スタッフ達が「一緒にイベントをやりましょう」と言ってくれまして、次の年から『情熱大陸 SPECIAL LIVE』というお祭りになったんです。
僕はそのときに「10年、20年掛かってもいいからこのイベントをもっと大きくしていこう」と言いました。例えば、一週間表参道や大阪だったら御堂筋をぶち抜いて、そこに世界中から色々なアーティストが集まるような、そんな音楽祭にしたいんです。そうやってリオのカーニバルみたいに音楽祭を目的に世界中からお客さんが来る街にしようよ、と。リオやサルバドールのカーニバルだって、最初は10人の行進から始まっているわけで、音楽の力は信用した方いいとみんなに言い続けました。ですから、今年のように横浜みなとみらいで2万人が集まっても僕はまだまだだと思っています。もっと、ワーッとならないと嫌なんですよ(笑)。でも、『情熱大陸 SPECIAL LIVE』が僕が考えるような音楽祭になるには10年、20年かかるでしょうから、まずは続けていくことが力になると思っています。
--『情熱大陸 SPECIAL LIVE』の出演者は本当に幅が広いですよね。
葉加瀬:僕がヴァイオリン弾きというのもありますが、色々なジャンルの人たちが一緒に参加してくれます。『live Image』でもそうですが、そこでは全然違うジャンルの人たちの間で次のプロジェクトの芽生えが一杯生まれるんですよ。僕はそれが嬉しいんですね。やはり、レコード会社とか面倒臭いことは抜きにして、アーティスト同志が何をやりたいかということが一番の基本だと思います。そうじゃないとミュージシャン同士というのは面白いことなんてないんですから(笑)。実は友達いないしね(笑)。
--(笑)。意外とミュージシャンは横のつながりがないんですかね?
葉加瀬:そうですね。こういった音楽祭とか、レコードとして形に残ることが、一番活性化することだと思うし、僕は多分そういう役回りなんだと思います。
--葉加瀬さんはそういうの得意そうですものね(笑)。
葉加瀬:大得意です(笑)。「来週よろしくね!」ってみんなに声掛けたりするのが大好きですからね。もう芸大の頃からそんなことがずっと続いているような気がしますし、これからもきっと続いていくんでしょうね(笑)。
--葉加瀬さんの考えるような音楽祭が実現するのを楽しみにしてます。今日はお忙しい中ありがとうございました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也 山浦正彦)
今回のリレーインタビューは、葉加瀬さんのエネルギッシュなお話に圧倒されつつも、絶えず笑いが巻き起こる楽しい取材となりました。以前から葉加瀬さんの周りには自発的にミュージシャンが集い、音を奏でている印象があったのですが、直接お話を伺って、その軸にあるのは葉加瀬さんの持つ人を惹きつける魅力や人柄にあると強く感じました。また、個人的にはピストルズに衝撃を受けたという葉加瀬さんのロックでパンクな姿勢、そして音楽に対するハングリーさがとても格好良く感じました。インタビュー最後に語られた葉加瀬さんが理想とする音楽祭の実現はそう遠い話ではないのかもしれません。葉加瀬さんの今後の活動から目が離せません。
さて次回は、プロデューサー/アレンジャー/キーボーディストの武部聡志さんのご登場です。お楽しみに!