第66回 武部聡志 氏 プロデューサー/アレンジャー/キーボーディスト
プロデューサー/アレンジャー/キーボーディスト
今回の「Musicman’s RELAY」はヴァイオリニスト 葉加瀬太郎さんからのご紹介で、プロデューサー/アレンジャー/キーボーディスト 武部聡志さんのご登場です。国立音大在学中からプロとして活動を始められ、以後キーボーディスト、アレンジャーとして数多くのアーティストを手掛けられた武部さん。’83年からは松任谷由実さんのコンサートツアーの音楽監督を担当され、一青窈さんをはじめ多くのアーティストをプロデュースとまさに日本のポップミュージックの第一線でご活躍です。また、CX系『僕らの音楽〜OUR MUSIC〜』の音楽監督としての姿を思い出される方も多いかと思います。そんな武部さんに今までのキャリアを振り返っていただきつつ、現在の音楽業界について感じられていることや、これからアーティストを目指す人たちへのアドバイス、そしてご自身の夢まで伺いました。
プロフィール
武部聡志(たけべ・さとし)
プロデューサー/アレンジャー/キーボーディスト
大学在学中よりキーボーディスト・アレンジャーとして数多くのアーティストを手掛ける。
1983年より松任谷由実コンサートツアーの音楽監督を担当。1990年より本格的にプロデューサーとしての活動を始め、一青窈、Lyrico、大黒摩季、今井美樹etc.のプロデュース、CX系ドラマ「BEACH BOYS」、「西遊記」etc.の音楽担当、CX系「僕らの音楽〜OUR MUSIC〜」の音楽監督等、多岐にわたり活躍している。
また、日本工学院専門学校にてミュージックカレッジ エグゼクティブアドバイザーを務める。
1. 受験勉強とピアノの日々
−−前回ご登場いただいた葉加瀬太郎さんと最初に出会われたのはいつ頃だったんですか?
武部:葉加瀬さんのプロデュースをしているロビー和田さんが麗美という女性アーティストを手掛けていまして、その麗美にユーミンが曲を提供する流れの中で、僕もコンサートをお手伝いしたりお付き合いがありました。そのロビーさんのところで新しいクラシック・ユニットをやるとご紹介いただいたのがクライズラー&カンパニーで、ライブを観に行って「面白いことをやっているな」という印象を持ったのが最初ですね。それ以降はテレビ番組でご一緒したりしたんですが、先日初めて彼のニューアルバム『SONGS』にプロデューサーとして参加してお互いに意気投合しました。
−−葉加瀬さんとの正式なレコーディングはそれが最初だったんですね。
武部:それまではNHKの番組で葉加瀬さんと一青窈が共演をするので僕がアレンジして演奏したり、『LOVE LOVE あいしてる』という番組で葉加瀬さんにプレイヤーとしてゲスト参加してもらったり、割とそういうワンショット的な仕事だったんですが、今回初めてちゃんとした形で作品を残したという流れですね。
−−わかりました。ここからは武部さんのお話を伺いたいのですがご出身はどちらですか?
武部:出身は東京の田園調布です。完全にお坊ちゃんという感じですよね(笑)。祖父、親父、僕と三代で東京の人間なので、東京出身のひ弱さと適当さを持ち合わせているというか、ハングリー精神があまりないんです(笑)。要するに地方から東京に出てきて頑張るぞ! みたいな意識があまりないんですよね。
−−音楽に最初に触れられたのはおいくつの時だったんですか?
武部:4歳違いの兄がいるんですが、兄も僕も小さい頃からピアノを習っていました。これは後から知ったんですが、僕は兄が習いに行っている音楽教室に、赤ん坊の頃からおんぶされて一緒にいたらしいんですよ。たぶん、そういうことから絶対音感が身についたんじゃないかなと思います。僕自身も3歳からエレクトーン、4歳からピアノを始めたんですが、その当時はピアノを習いに行くというと女々しいとか、女の子みたいだと結構いじめられたりするものですが、僕はピアノがすごく好きで、習いに行くのもあまり嫌がらずに楽しんでやっていたようですね(笑)。
−−ポピュラーミュージックとの出会いはいつ頃ですか?
武部:兄の影響で小学校3年生くらいからベンチャーズに代表されるエレキ・ブームに触れるようになりました。当時譜面がなくても耳で聴いてパッとコピーできたので、割とポップスに親しんだのも早かったんです。もう小学校の頃からポップスの曲をコピーして弾いたりしていましたから。
−−では、子どもの頃から音楽漬けの日々という感じだったんですね。
武部:そうですね。最初ベンチャーズの影響で兄弟でギターをやりたいと思って、子どもですからベニヤ板に針金を張ったような自作のギターを作って、兄と一緒に弾いたんです(笑)。そうしたらある日突然、親父が「今日からこれで練習しろよ」と本物のエレキギター2本とアンプを買って帰ってきたんです。それは僕が小学校3年の時で、親父がエレキギターを買ってきてくれたことで、毎日練習するようになりました。ですからポップスはギターから入ったんです。当時のポップスって、ビートルズにしても何にしてもギターで弾くと楽しいものが多かったですしね。
−−コードなんかは自己流で覚えられたんですか?
武部:実は叔父さんが進駐軍のキャンプを回っていたジャズギタリストだったんですよ。その叔父さんの家へ行って、簡単なコードの押さえ方を教わり、耳で聞いたものを自分で押さえながらベンチャーズをコピーしました。それが小学校の頃です。
僕が中学に上がる頃は中学受験が流行みたいな時期で、親はみんな子どもを私立のいい中学に入れるために、小学校5年くらいの頃から塾に通わせていました。僕も毎日塾に通って、丸2年間は受験勉強ばかりやっていました。親父としてはいい中学・高校に入れて、大学は東大に入れたいと思っていたらしいんですよ(笑)。ですから「ピアノなんかやらなくていい。勉強しろ」と言われたんですが、僕はピアノが好きだったので、「ピアノだけは止めないから!」と食い下がったらしいんです。
−−本当にピアノがお好きだったんですね。
武部:そうですね。受験勉強をしている最中もピアノだけはずっと習いに行っていました。ピアノが好きだったのか、音楽が好きだったのかわからないんですが、もしかしたら受験勉強のストレスを音楽で解消していたのかもしれませんね。
−−普通の子どもらしい野球やサッカーといったスポーツとはあまり縁がなかったんですか?
武部:放課後、他の子たちはサッカーやキャッチボールをしていましたが、僕は塾があるから帰ったり、ピアノをやっているから突き指をしちゃいけないとか全然やらなかったですね。だから、運動に対するコンプレックスって未だにすごくあるんですよね(笑)。
2. バンド活動に熱中した学生時代
−−猛烈な受験勉強をされて中学はどちらへ行かれたんですか?
武部:麻布中学です。福田康夫総理と同じ学校ですね(笑)。麻布出身でミュージシャンというのは本当に少なくて、山下洋輔さんや神津善行さんくらいです。小学校の頃はその地域で1番勉強ができていたはずなんですが、いざ麻布に入るとそういう人たちが集まってきていますから、いきなり300人中150番くらいになってしまうんですよ(笑)。そこで一つ目の挫折を味わって、ましてそのまま高校まで行けますから勉強よりも音楽に行ってしまうんですね。
中学に入った頃はいわゆるサイケデリック・ロックやアート・ロックと呼ばれていた、例えばジミ・ヘンドリックスやクリーム、そしてウッドストックという時代で、そこをリアルタイムで経験したということは、ミュージシャンになる上で非常に大きかったと思います。
−−すでに中学からバンドを組まれていたんですか?
武部:ええ。クリームのコピーバンドを組んで、ギターを弾いていました。僕は中学・高校時代はずっとギターを弾いていたんです(笑)。学園祭で「EL&Pをやりたいからキーボード弾いて」と頼まれたときは弾いたりしましたが、当時のロックはギターが主力でしたからね。鍵盤楽器はドアーズ、あとEL&P、イエス、ピンク・フロイドといったプログレでは使われていましたが、レッド・ツェッペリンにしろグランド・ファンク・レイルロードにしろ目立つのはギターですから(笑)。今でも残っているようなロックの名曲をギターで完コピしたことは、プロになってからもものすごく役立っていますね。
−−ちなみにその当時は髪の毛を伸ばされていましたか?
武部:胸元まで伸ばしていました(笑)。僕が中学2年くらいの時からキョードーが『ロック・カーニバル』というイベントを始めて、ロック・アーティストが来日するようになったんです。一発目がジョン・メイオール、続いてBS&T、シカゴ、フリー、グランド・ファンクの後楽園球場、そして、ツェッペリンと僕はそれを全部観に行ったんですよ。それでそのパンフレットにあるミュージシャンの写真を持って、「これと同じ髪型にしてくれ」と(笑)。
−−(笑)。麻布は髪型・服装は自由だったんですか?
武部:僕が入ったときに麻布は学園紛争があって、制服が廃止になったんです。
−−対して開成はその当時はまだ坊主でしたよね。
武部:そうですね。ですから麻布は異端でしたね。自由な校風を売り物にしていたという部分もありましたが、色々なタイプの生徒がいました。制服が廃止になっても学ランを着てくる奴もいれば、ロンドンブーツを履いてラメのジャケットを着ている奴もいる(笑)。そういった生徒たちが一緒の教室で授業を受け、別に反発もせずに話している。すごくいい校風でしたね。
−−ちなみに異性とのお付き合いは?
武部:早かったと思いますよ。中3の頃から彼女はいました。モテるためのバンドという部分もありますからね(笑)。私立校は横のネットワークがあって、麻布だと近くに女学館や東洋英和がありましたからそこの生徒たちと仲良くなり、学生主催のパーティーみたいなところでよくバンド演奏をしました。
−−つまり、スターだったわけですね(笑)。
武部:そうです。当時はね(笑)。
−−高校生なのかミュージシャンなのかわからないような生活ですね(笑)。その頃にはお父さんが望まれたエリートへの道は見えなくなっていたんですか?
武部:全然なかったですね。ロック・ミュージシャンに憧れていましたから、そういう格好をしていましたしね。でも、プロになることに対してその時は現実味がなかったですから、単純に憧れとしてやっていただけですね。
−−そして、国立音大に進まれるわけですよね。
武部:ええ。要するに麻布で勉強せずにバンドばっかりやっていたので、入ったときは300人中150番だったのが、これは忘れもしないんですが、最後は324人中323番だったんですよ(笑)。それで「このままじゃ、絶対に大学に行けないぞ」と学校から言われて、高校3年のときに「潰しがきくから一応大学くらいは出ておいた方がいいのかな?」と考えまして、その時に入れそうなところが音楽大学しかなかったんです(笑)。普通の大学だと何教科か試験がありますが、音楽大学は音楽以外は英語と国語だけで、しかも簡単だったんですね。それで高校3年の夏休みくらいから課題曲だけ練習して、それで国立音大に入りました。ですから、別にクラシックを本格的にやりたかったわけでもなかったんですね。
−−音大というのはそんなに簡単に入れるものなんですか?
武部:僕が受けたのは「ピアノ科」のような特殊技能が必要な科ではなくて、「教育科」という音楽の先生になるための科で、音大の中では割と簡単な科なんです。でも、音大に行っても相変わらずバンドをやっていましたし、20歳のときからプロになっていますから、大学にはとりあえず行ってみたという感じです。
−−ちなみに卒業はされたんですか?
武部:卒業はしました。麻布に教育実習にも行きましたから、中学全教科と高校音楽の教員免許は持っています(笑)。
−−大学時代はどのような音楽活動をされていたんですか?
武部:中学・高校時代にやっていたハードロックみたいなものから、だんだんニューミュージックの前段階である日本語のロックに興味が移って、その中でもサディスティック・ミカ・バンドやはっぴいえんどといったバンドに憧れました。それで自分たちのバンドでやるんだったらオリジナルをやろうと、大学に入ってやったアマチュア・バンドではオリジナルを作って演奏していました。多分、その頃からキーボードというものを本格的に意識し始めたんだと思います。
あと、僕が18歳の時にそれまでロックバンドしか聴かなかったのがスティーヴィー・ワンダーを聴いたことで、「こんな音楽があるんだ」とものすごくショックを受けました。当時のスティーヴィー・ワンダーは『キー・オブ・ライフ』に向かっていく一番実験的で、色々なアプローチを試していた時期で、それがすごく新鮮でした。もし、スティーヴィー・ワンダーと出会っていなかったらキーボーディストになっていなかったくらい影響を受けたと思います。それでスティーヴィー・ワンダーの曲をコピーしながら、コード進行やヴォイシングを耳で探っていくことからクラシックやプログレのピアノではない、いわゆるポップスとしてのキーボードを学びました。
−−その頃からキーボードへ移行されていったんですね。
武部:これはプロになってからの話ですが、その当時出会ったギタリストは本当にみんな上手かったんですよ。その時に自分のギタリストとしての腕ではプロとして絶対に通用しないと思いました。今、ハーフトーンでマネージメントをしている鳥山雄司君と知り合ったのは20歳くらいのときなんですが、彼のプレイを見たときに「こいつは上手いな! とてもかなわないや・・・」と思いましたね(笑)。
3. プロデビューのきっかけはかまやつひろし氏〜ハーフトーンミュージック設立
−−プロのミュージシャンとして活動を始めるきっかけは何だったのですか?
武部:20歳くらいのときにたまたま行っていたリハーサルスタジオが、かまやつひろしさんやユーミンがリハーサルをやっていたスタジオで、そこには当時珍しかったんですが、ハモンドB-3やソリーナといった楽器が常設してあって、キーボード弾きにはたまらない場所でした。そこに出入りしているうちに知り合ったのが、かまやつさんのバンドのメンバーで、そのときのかまやつさんのバンドには2人キーボードがいて、1人は今ラテン界の巨匠である森村献さん、もう1人が山本達彦さんだったんです。ただ、山本達彦さんがデビューすることになったのでキーボードが一人いなくなると。それで音大出でちょっと弾ける奴がいるということでバンドに誘われたのが20歳の時です。
−−プロデビューのきっかけは、かまやつひろしさんだったんですね。
武部:そうです。かまやつさんのバンドに参加したのが、僕のプロとしてのキャリアの一番最初です。ですから、僕の音楽人生の中で絶対に足を向けて寝られない、親代わりとも言える人がかまやつさんなんです(笑)。今でもかまやつさんに言われたら何でもやろうといつも思っています。
かまやつさんと知り合ったことでユーミンとも知り合いましたし、田辺エージェンシーのタレントのバックバンドをやるようになり、その中で色々な人と仲間になっていったんですね。アルフィーも20歳くらいからの付き合いで、僕らが清水健太郎さんのバックバンドをやり、アルフィーが研ナオコさんのバックバンドをやり、歌番組や『8時だよ!全員集合』『カックラキン大放送!!』といったバラエティー音楽番組によく出ていました。
それまで『夜のヒットスタジオ』はダン池田さんとニューブリードだったのが、だんだん歌う人が自分のバックバンドを連れてテレビ番組に出るようになっていきました。それで僕も本当に色々な人たちのバックバンドをやるようになって、かまやつさんのバンドをきっかけに、久保田早紀さんの『異邦人』の時は1年中バックバンドをやっていましたし、寺尾聰さんの『ルビーの指輪』のときも1年中バックでピアノを弾いてました。
−−一年中ですか・・・。
武部:1年間月曜日と木曜日のスケジュールは押さえられているんです。月曜日は『紅白 歌のベストテン』、木曜日は『ザ・ベストテン』でね(笑)。そのくらい寺尾さんの『ルビーの指輪』は売れましたからね。
−−その頃にはどこか事務所に所属されていたんですか?
武部:僕は23歳の時に自分の会社を作っているので、ハーフトーンミュージックは’80年設立ですね。
−−そうなんですか! 随分早い時期にご自分の会社を作られたんですね。当時としてはとても珍しいケースだったんじゃないですか?
武部:そうですね。その時はかまやつさんのバックバンドだった人たちや寺尾さんのバックバンドだった人たちで、自分たちのためにオフィスを作ろうと集まったのが最初ですね。その中で社長を決めて、デスクを一人雇い、みんなのマネージメントを始めたのが一番最初です。
−−ハーフトーンミュージック設立の一番の目的は何だったのですか?
武部:当時のミュージシャンって、虐げられていたとは言いませんが、カードも作れなかったですし(笑)、例えば、一人で仕事をしていても事務所からはギャラが何ヶ月も支払われなかったりだとか結構多かったんです。そこは会社という単位でまとまり、例えば、このバンドのメンバーのギャランティー一式を幾らで、こういう期日に欲しいと言うことによって、ミュージシャンの生活安定や地位向上をさせたいというのが最初の志でした。みんな20代の若造でしたが、集まることによって数が力になった部分もあると思いますし、僕たちのやり方にシンパシーを感じてくれたミュージシャンが色々集まってきたのがハーフトーンミュージックの成り立ちです。
−−武部さんの音楽家としての業績もさることながら、ビジネス面での功績もすごいですね。
武部:いや、それはたいしたことないですよ(笑)。金儲けしようとか、何か売ろうというよりも、そうやって信頼できる仲間が集まって音楽を作っていくということがベースにあったから上手くいったんだと思います。
−−最初はユニオンみたいな感覚だったんですか?
武部:芸能界にはユニオンがありましたが、ポップスの世界ではありませんでしたからね。そこで色々な人たちとネットワークができると、「この仕事はあの人で」というように仕事の融通がきくようになりましたね。
−−ただ、社長となりますとミュージシャン以外の仕事も増えて大変だったんじゃないですか?
武部:当時は本当に両方やっていましたね。家に帰って帳簿をつけて、ハイエースを運転して楽器を運び込み、それを弾いてました(笑)。
−−余談ですが、その後カードは作れたんですか?(笑)
武部:はい。会社社長になって、めでたく作ることができました(笑)。
4.アーティストとじっくり音楽を作りたい〜年間250曲を手掛けるアレンジャーからプロデューサーへ
−−最初はバックミュージシャンとして活動を始められた武部さんですが、その後アレンジャー、プロデューサーと活動の幅をどんどん広げられていきましたね。
武部:それもやはり人とのつながりが大きいですね。かまやつさんが偉いなと思うのは、バックバンドをやっていた僕みたいな若造に自分のアルバムのレコーディングでアレンジをやらせてくれたりしたんですよ。その曲が一番最初にレコードになった僕のアレンジで、今聴いたら恥ずかしい出来だと思うんですが、そういうチャンスをいただけたということがすごく大きかったです。
またユーミンからも、彼女がプロデュースする小林麻美さんのアルバムでアレンジを頼まれました。ですから、小林麻美さんのアルバムも僕のキャリアの中では早い時期のものです。この業界は常に若くて才能のある人を捜していますから、そのアルバムを聴いた人が「アレンジをしている武部君というのは誰だろう?」と(笑)、徐々に仕事を頼まれたりしつつ、だんだん広がっていった感じですね。僕のキャリアの中ではキーパーソンみたいな人がその都度いて、一番最初はかまやつさん、その次はユーミンだと思うんですね。
あと寺尾聰さんの『ルビーの指輪』を一年中弾いていたときに、当時寺尾さんの音楽は井上鑑さんが全部アレンジされていて、パラシュートというティン・パン・アレーからの流れのグループが演奏していたんですが、『日本レコード大賞』の授賞式で『ルビーの指輪』は「作詞賞」「作曲賞」「編曲賞」、そして「レコード大賞」と全て獲ったんですよ。それで「編曲賞受賞の井上鑑さんです!」とステージに井上鑑さんが出てきて、その姿をバックバンドのメンバーとして眺めながら、「いつか井上鑑さんよりも売れるアレンジャーになる!」とその時思ったんですよね(笑)。
−−次は俺だぞと(笑)。
武部:それが’81年の大晦日ですね。
−−以後、ものすごい数のアーティストとお仕事をされていますよね。
武部:500アーティストくらいやっていると思います。
−−約30年そのペースでお仕事をされているのは驚異的ですね。そろそろ疲れたなとかお感じになることはないんですか?
武部:うーん、このペースが20代の頃から染みついていますし、まだやり足りないことがたくさんありますからね。ただ、やり方はどんどん変わっていると思います。バックバンドからアレンジャーになって、アレンジャーとして自分でも成功したなと思う時期が、いわゆるアイドル・ポップス全盛の時代だったんです。それこそ、松田聖子さんや斉藤由貴さん、薬師丸ひろ子さんとか、’83年くらいから’88年くらいまでものすごくアイドルの仕事が多くて、その中でスタジオワークを効率よくあげる術と言いますか、短時間でクオリティーの高いものを作る技は身についたと思うんです。そこで日本で活躍しているスタジオ・ミュージシャンとはほぼ全員と仕事をしましたしね。
ただ、今日は誰々、明日は誰々、明後日は誰々・・・みたいな仕事をしていると、作ったものが売れようが売れまいが実感がないと言いますか、なんだか切り売りしているような、非常に無責任な気がしたんです。そこで僕はプロデューサーとしてアーティストとじっくり音楽を作っていきたいと思いました。それはものすごい数の仕事をした反動だと思うんです。一番仕事をした年で年に250曲アレンジしたんですよ。後に筒美京平さんには「甘い」と言われましたが(笑)、それでも結構な数だったと思うんです。
−−毎日アレンジしているような感じですものね・・・。
武部:そのやりすぎた反動で僕はアレンジとして頼まれる仕事から一旦距離を置いて、自分がサウンド・プロデューサー、プロデューサーという形で、例えば、1年間でアルバム何枚かをチームを組んでクリエイトしたいと思いました。
−−それはどのアーティストからですか?
武部:一番最初にそういうスタンスで仕事をしたのが本田恭章君の仕事で、アルバム何枚かをチームで作りました。またアイドルの中では斉藤由貴さんですね。当時のアイドル・ポップスは1作ごとに作家もアレンジャーも代えて、その時に一番よい人をチョイスするのが常識でしたが、当時ポニーキャニオンの長岡さんというディレクターの方と上手くコミュニケーションがとれて、作家はその都度変わっても、サウンドを作っていくのは全部僕がやるということで、非常にいいチームが作れました。結果、彼女の作品の8割は僕がアレンジして、アルバムで5、6枚、シングルは10枚以上やったと思います。
その頃からだんだんスタイルを変化させていき、本格的にプロデューサーというクレジットで色々なことを自分で決めていったのがKATSUMIです。それまでアレンジャーとして久保田利伸君や徳永英明君といった男性ヴォーカリストのデビューのタイミングに付き合うことが多かったんですね。久保田君はデビュー前からのお付き合いですし、徳永君もデビュー曲である『Rainy Blue』からのお付き合いですから(笑)。そういった中で自分で男性ヴォーカリストをデビューさせたかったんです。KATSUMIはパイオニアLDCというメーカー立ち上げのアーティストで、メーカーも力を入れてくれましたし、そこで結果を出したことがプロデューサーとしての第一歩ですね。それまではアレンジャーの延長としてのサウンド・プロデューサーでしかなかったですから。
−−同時に’83年からは松任谷由実さんのライブにおける音楽監督も務められていらっしゃいますね。
武部:バックバンドのミュージシャンとしては、’81年の『時のないホテル』というアルバムのツアーから参加しているんですね。そして、’83年の『REINCARNATION』というアルバムのツアーからコンサートの音楽監督を任されています。
−−ちなみに松任谷正隆さんとの仕事の分担はどのようになっているんですか?
武部:ユーミンの場合、トータルのプロデュースは松任谷さんで、全てにおいて彼が決定権を持っています。ただ、松任谷さんはライティングから演出まで全ての部分を見なくてはならないので、音楽の部分は僕が任されています。僕が音楽監督という形で松任谷さんと二人で曲構成などを決めて、僕がアレンジをし、リハスタである程度音をまとめた段階で松任谷さんが入ってくる形ですね。
−−実は先日『シャングリラIII』を拝見させていただいたんですが素晴らしいライブでした。
武部:ありがとうございます。あれはお金があればできるという問題ではなくて、それだけ長い間チームとしてやってきたからこそできることだと思うんです。その時集めたスタッフではあのステージはできないですね。
5. 自分のオリジナリティーを見つけよう!
−−武部さんはレコーディング・スタジオの進化をまさに現場で見てこられたと思うんですが、音楽制作の現状についてどのようにお感じですか?
武部:僕のキャリアは16chから始まりましたし、それこそMIDIのない時代からやっています。その当時は機材がないからこそレコーディング・スタジオで色々考えたわけですが、最近はProToolsで何でもできてしまいますよね。例えば、歌なんかにしてみても今はいくらでも直すことができますが、僕は歌を直すのが好きではありません。ボーカリストが何テイクか歌って「あとはなんとかしておくから」というやり方ではなく、僕はいい歌を録る方に重点を置いています。自分が本当に納得できる歌をまず録って、ちゃんとセレクトする。それがしっかりできていれば直す必要なんてないです。
−−例えば、エンジニアが丸々2日かけてピッチを直すなんて、やはりおかしいですよね・・・。
武部:いや、それはそういうエフェクターを使っていると思えばいいんだと思いますが(笑)、ただ完璧なものを作って人の心に伝わるかどうかですよね。僕は「ちゃんとしていること」がいいことだとは思わないんですね。合っていればいいかと言えば、合っていないことによって逆に魅力的になることも多いですしね。
そういったことはすごく若い人たちに教わることが多いんです。『LOVE LOVE あいしてる』をやっているときに、KinKi Kidsの二人は当時17歳くらいだったと思うんですが、例えば僕らが「それは音がぶつかっているから駄目だよ」と言っても、「音がぶつかっているから格好いいんじゃないですか」と彼らは言うんですね(笑)。そこで僕らは音楽の格好良さとか人の心に引っかかるものというのは決して整っているからではないと気付かされるんですね。
歌でもピッチ上はシャープしているけど、その方が伝わる歌だってあります。僕は一青の歌はほとんど直しませんし、今聴いてみても『もらい泣き』にしろ『ハナミズキ』にしろピッチ悪いですよ。でも、それ以上に人に届く歌であればそっちの方が優先されるべきだと思います。ですから、「どこにアイデンティティを持つか」という部分に関して、どこかズレてきていることは確かですね。
−−何でもできてしまうからこそ、余計なことをしてしまう可能性も出てくる・・・。昔から「デモテープの方がよかった」なんてことはよくありましたものね。
武部:そうですね。余計なことをしてしまうかもしれないし、もしかしたらそのことによって魅力を減らしてしまっているかもしれないですよね。
−−音楽が売れない、CDが売れないと言われはじめてすでに10年以上経つと思うんですが、そういった現状をどのように見ていますか?
武部:当然メディアが変わっていきますから、CDを買って聴くという行為が音楽配信に変わるのはしょうがないですよね。でも、圧倒的に魅力あるソフトが少なくなってきていると思うんです。それは作る側に問題があって、僕らは売れなくなったことをメディアのせいにするのではなくて、クリエイターとして常に人の心を動かす音楽作りを追い求めないと駄目だと思いますね。
−−音楽業界が盛り上がっていくには、新しい才能の出現も不可欠ですよね。最近のアーティストを目指す若い人たちに対して感じておられることは何ですか?
武部:今の若い人たちはJ-POPを聴いて育っているじゃないですか? それで日本のアーティストの誰々みたいになりたいと言ったら、その人を超えることは絶対にないですからね(笑)。例えば、R&B好きな女の子がいたとして、「MISIAみたいになりたい」と言った時点で、絶対にMISIAを超えられないです。
実はデビュー前の一青はR&Bみたいなことをやりたい子で、彼女が持ってきたデモテープに入っていたのがドリカムやMISIAの曲だったんです。それを聴いてみたんですが、彼女がフェイクをすると・・・中国フェイクなんですよね(笑)。だから、このままR&Bみたいなことをやり続けても駄目だと否定し、彼女の持っている特徴を生かすために僕が曲を作り、彼女が詞を書くところから始めました。彼女がそのままR&Bに憧れていたら、またはそういうプロデューサーと出会っていたら成功していないと思います。僕はそこを否定するところから始めて、彼女には台湾の血が半分入っていることも含めて、彼女の特徴が最大限に生かせる音を作ろうと思いました。
最初に作った『月天心』『翡翠』、それに台湾の民謡のカバーを入れたデモテープを持って、色々なメーカーを回りプレゼンテーションしたんですが軒並み断られたんです。つまり、その時に市場でメジャーではないものに関しては、みんな一歩引くところがあるんですよね。でも、僕らは「今売れているものではないもの」と言ったら変ですが(笑)、やはりその人にしかできないことをやるべきだと常に思っていて、それを提案し形にするのが仕事なんですね。
−−確かに最初、一青窈さんが出てきたときは、新鮮だけど何か違和感があるような気分にもなりました。
武部:そうですね。今アーティストを目指している子たちが邦楽の影響を受けて「宇多田ヒカルになりたいです」でもいいですが(笑)、そういう状況に一番危機感を覚えます。それよりも「自分にしかできないものは何なのだろう?」と本人が考えるようになって欲しいです。あと、邦楽だけでなく洋楽を始め色々な音楽をたくさん聴いて、その中で自分のオリジナリティーを見つけて欲しいと思いますね。
−−J-POPだけでなく、もっと幅広く音楽を聴きなさいと。
武部:J-POPが悪いとは言いませんが、ただAメロがあって、Bメロがあって、サビがあって、2コーラス目があって、間奏、サビの繰り返し・・・みたいなフォーマットに則って、10代のアマチュアの頃から曲を作るなんて本当にナンセンスだと思うんです(笑)。だって、Aメロが10回の曲だっていいじゃないですか? 例えば、吉田拓郎さんの『イメージの唄』は言いたいことが沢山あって、8番だか10番まであったわけじゃないですか? 僕はそれでいいと思うし、それがあったからこそ吉田拓郎というアーティストは評価され、強烈なインパクトを与えることができたんだと思います。
−−日本人はどうしてもフォーマットに縛られがちになってしまいますものね。
武部:もちろんこれはアマチュアの人たちだけでなく、我々プロも気をつけなくてはいけないことだと思います。
6. 打席が用意されている者の使命
−−約30年間第一線でご活躍されていますが、その秘訣は何だとご自身ではお考えですか?
武部:’90年代に入り、小室哲哉さんやエイベックスの作品に代表されるダンス・ミュージックを主体とした音楽が主流になりましたが、僕は松本隆さんや筒美京平さんたちと文学的な作品を作りたいとか(笑)、ずっとリリカルなものを追い求めていました。自分の持ち味は歌詞の世界やそれに呼応したサウンドを絵を描くように音作りすることだと思っているので、打ち込み主体のリズミックなものは非常に苦手で、そういった音が主流の時に「自分の音楽は通用しないんじゃないか?」とすごく悩み、行き詰まった時期がありました。「プロのアレンジャー、プロデューサーとして看板をあげている以上、そういったものにも対応しなくてはいけないのかな?」という思いと、「そういうものは得意な人に任せておけばいいのかな?」という思いの狭間で悩み、自分でも打ち込み主体のものにチャレンジしたこともありましたが、そういうのが得意な人にはやはりかなわないわけです(笑)。
そこで考えたのは、いつの時代にも波があって、いつか自分が得意とする音楽が求められる時期が来るだろうと。そのためには自分の音楽の世界が一番発揮できるアーティストといい作品を作り続けるしかないと思いました。結果的に一青窈と知り合い、『もらい泣き』といった作品に結びつくんですが、そこで小室さんの真似をしていたら失敗していたと思います。そこで自分が一番得意なことで勝負したいと思ったことが乗り越えられたポイントだと思いますね。
−−自分のスタイルをきちんと守り通したということですよね。
武部:それを教わったのがユーミンなんです。日頃からユーミンは「『今、これが流行っているから取り入れよう』と取り入れれば取り入れるほど自分の色が薄まる」とよく言っていたんですね。ポップスをやっていくとその時代その時代の流行の音も追いかけなくてはいけないですが、そうではない作り手の普遍性みたいなものと上手くバランスをとらなくてはいけないんだと。
ユーミンはその時代その時代で包装紙は変えていると思うんです。でも、その中に入っているものは荒井由美の頃から何も変わっていなくて、だからこそ彼女は40年近く第一線で活躍できているんだと思うんです。山下達郎さんにしても、小田和正さんにしても、井上陽水さんにしても、たぶん今50歳を過ぎて音楽を続けられているアーティストの方々は、みんな自分の色を頑固に守ってきた人、かつその時代その時代でのパッケージをちゃんと考えていた人なんだと思います。ただ、中身だけにこだわって、打ち出し方と言いますか、包装紙を考えなかったら終わってしまうと思いますし、そのバランスが重要だと思いますね。
−−確かに皆さん芯の部分では全く変わっていないですよね。
武部:そういう意味で、僕が持っているクラシックピアノをやり、ロックやプログレ、スティーヴィー・ワンダーを聴くなかで培ってきた音楽性はきっと変わらないんですよね。でも、その時代その時代で求められるもの=包装紙は変えた形で出すようには心掛けています。
−−どんな世界でもそうですが、何十年も第一線で活躍するというのは本当にすごいことだと思います。
武部:そこまでいくともう運だけではないはずです。運だけでも駄目ですし、努力だけでも駄目かもしれません。全ては音楽に向かう姿勢だと思います。みんなに共通するのは自分の色を守るということと、音楽に対する真摯な姿勢ですね。
−−先ほど「まだやり足りないことがたくさんある」と仰っていましたが、今後挑戦していきたいことは何ですか?
武部:これは夢と言いますか無謀なことなんですが、日本語の歌でグラミー賞を獲りたいです。『上を向いて歩こう』以降、日本の歌はビルボード1位を獲っていないわけですし、向こうで評価された曲はないですよね。もちろんドリカムや宇多田ヒカルさんが海外でやっているということは分かりますが、洋楽の真似ではなくて、日本語で、我々が作った音楽で世界的に評価されるものを作りたいという思いがあります。もしかしたら、僕が活動しているうちは達成できないかもしれませんが、その思いを持ち続けていることが次の世代にも繋がっていくと信じています。
−−先ほどお話に出たドリカムも宇多田ヒカルさんも、海外進出の際は作品を英語で作られていますよね。
武部:僕は日本人であることを強く訴えたものでなかったら世界的に評価されないと信じています。それはデザインの世界でも、例えば、森英恵さんにしても山本耀司さんにしても、世界的に評価された日本人は何人かいらっしゃいますが、そういう方々は日本人であることをちゃんと強く出していると思うんです。だからといって、お琴や三味線で音楽をやるわけではないんですよね(笑)。洋楽を自然に聴いて、でも日本人の血が流れているようなオリジナルな音楽が作れて、それを発信できれば僕は伝わると信じているんです。
−−武部さんならできそうな気がしますね。
武部:いやいや、それはわからないです。今までのキャリアややってきた仕事をフルに活用して、50代のあと十年間でどれだけ後世に残る曲や、いままで日本人がなしえなかった海外で評価される作品を作ることができるかだと考えています。
−−最後の質問になるんですが、武部さんはもう一度生まれ変わっても同じ仕事をしたいとお思いですか?
武部:そうですね。自分が一番得意で一番好きなことをできたという充実感と、その反面辛さもあります。「今日はもうピアノを弾きたくない」と思っても、弾かないといけないですしね。これもユーミンに言われたことなんですが、我々のように恵まれた環境下で打席が用意されているというのはすごく幸せなことなんだと。音楽がやりたくてもできない人、プロになりたかったけどなれなかった人、プロになっても挫折した人がたくさんいて、その人たちの分まで我々はやらなくてはいけないんだという話をされたんですね。どんな人にもそれぞれミッションがあると思うんです。ユーミンは表に出てパフォーマンスをするのが役割で、僕は表に出るアーティストをいかに輝かせるか、いかにいい環境で歌わせることができるかというのが仕事ですから、その役割を全うしていかなくてはいけないと常に思っています。
−−今後も武部さんプロデュースで新たなアーティストが羽ばたいていきそうな予感がします。
武部:僕は今売れているアーティストをプロデュースしてくださいと頼まれるのはあまり本意ではなくて、今誰も知らない新人を世の中に送り出して、世の中の人がついてきてくれるのに一番快感を覚えるんです(笑)。だから今後も一青窈を送り出したように、どんどん新しいアーティストを出していきたいですね。
−−本日はお忙しい中ありがとうございました。益々のご活躍をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
お忙しい中、スタジオにお邪魔してのインタビューは武部さんの気さくな人柄が伝わるものとなりました。一番印象的だったのが「時代性と普遍性のバランス」というお話です。絶えず時代の波にさらされるポップスの世界で、長年に渡りご活躍されてきた武部さんならではのお話だったと思います。アーティストと二人三脚でじっくり作り上げられた武部さんのプロデュース作からは音楽に対する想いが伝わってきます。それはまさに「音楽に向かう真摯な姿勢」の現れなのではないでしょうか。今後、武部さんプロデュースでどのような音楽が生み出されていくのか、本当に楽しみです。
さて次回は、フジテレビ プロデューサー きくち伸さんのご登場です。お楽しみに!