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第67回 きくち伸 氏 フジテレビ プロデューサー

インタビュー リレーインタビュー

きくち伸 氏
きくち伸 氏

フジテレビ プロデューサー

今回の「Musicman’s RELAY」は音楽プロデューサー 武部聡志さんからのご紹介で、フジテレビ プロデューサー きくち伸さんのご登場です。’85年フジテレビに入社され、『夜のヒットスタジオ』のADからキャリアをスタートさせたきくちさんは、音楽番組冬の時代を乗り越え、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』や『LOVE LOVE あいしてる』、『僕らの音楽』といった革新的な音楽番組を次々に生みだし、現在では「音組」を率いてフジテレビの音楽番組を数多く手掛けられています。そんなきくちさんにこれまでに作られた番組の数々を振り返っていただきつつ、きくちさんの番組の特徴である生演奏や新人/ベテランアーティストの意外な共演に込める思いなどをたっぷり語っていただきました。

プロフィール
きくち伸(きくち・しん)
フジテレビ プロデューサー


’62年5月28日生。岩手県出身。
筑波大学卒業後、’85年フジテレビジョン入社。当時の看板番組『夜のヒットスタジオ』のADからスタートし、『オールナイトフジ』でディレクターに。’92年『MJ』でAP、’93年からはプロデューサー。’94年『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』、’95年には『TK MUSIC CLAMP』を立ち上げ、以後、『LOVE LOVEあいしてる』『FACTORY』『堂本兄弟』『僕らの音楽』『MUSIC FAIR』など、「音組」のプロデューサーとして、フジテレビの音楽番組を数多くプロデュース。また様々な媒体に連載、寄稿し、『音楽番組の楽屋でインタビュー! KIKCHY FACTORY』などの著作もある。

 

  1. 活字とラジオが好きだった少年時代
  2. 第一志望は小学館?〜想定外のフジテレビ入社
  3. 全ての基礎は『夜のヒットスタジオ』にある
  4. 音楽番組の新時代〜『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』の誕生
  5. 生演奏に対する執拗なこだわり〜『LOVE LOVE あいしてる』と『僕らの音楽』
  6. 音楽は血統のスポーツである
  7. 色々な音楽との出会いをいっぱい作りたい

 

1. 活字とラジオが好きだった少年時代

--前回ご登場いただいた武部聡志さんと最初に出会われたのはいつ頃だったんですか?

きくち:武部さんとは『夜のヒットスタジオ』のADの時に知り合っているんですが、深いお付き合いが始まったのは、武部さんが山口由子ちゃんというシンガーソングライターをプロモーションしにきた’90年ぐらいからですね。それで’96年にスタートした『LOVE LOVE あいしてる』以降はずっとお世話になっています。

--となるともう15年以上のお付き合いになるんですね。では、ここからきくちさんご自身のお話をお伺いしたいのですが、ご出身はどちらですか?

きくち:岩手です。大瀧詠一さんと同郷ですね。

--小さい頃はどういうお子さんだったんですか?

きくち:内弁慶で本が好きでしたね。とにかく活字が好きで小生意気な子供だったと思います。うちはテストで満点をとったら本を一冊買っていいというルールだったんですよ。まぁ、田舎ですから、そこまで頑張らなくてもテストではそこそこ良い点数がとれるんですが、満点をとるたびに本屋さんへ行ってツケで本を買ってました。最初はポプラ社のシャーロック・ホームズを全巻読んで、怪盗アルセーヌ・ルパンも江戸川乱歩も全巻読みました。小学校3年生の頭ぐらいからは大人の文庫本を読むようになりましたね。

--小学校3年生で文庫本ってかなり早熟ですよね。

きくち:おそらく一番最初に買った文庫本が北杜夫さんの『船乗りクプクプの冒険』で、遠藤周作さんの『狐狸庵』シリーズとか北杜夫さんの『どくとるマンボウ』シリーズとかを読みました。今から考えると遠藤周作、北杜夫、あと井上ひさしといった日本の純文学と言われる人たちの柔らか目の文章を、小学校低学年の頃から知らず知らずのうちに読んでいたことになりますね。あと星新一さんにハマりまして、小学校4年生の終わりまでに、その当時に発売されていた星新一さんの作品は全部読み終わりました。

--その作家にハマると全部読破していったんですね。

きくち:基本的に雑食なんですが、一人の作家を読み始めると徹底して読むようなタイプでした。それは音楽にも共通してますけどね。

--音楽との最初の出会いは?

きくち:母親の妹、つまりおばさんがうちで花嫁修業的に住み込んで家事を手伝ってくれていたんですが、そのおばさんが好きだったグループサウンズやビートルズが一番最初に耳に入ってきた音楽だと思います。あと、地元出身のフォーク・グループ、NSPが地元ではビートルズみたいな存在で夢中になって聴いてました。そのNSPのライブ盤の中に『ぼくの夏休み』という歌がありまして、その曲の歌詞に「ギターを弾いて マークツーを 二人で歌うはずだったのに」とあったんです。それで「『マークツー』ってどういう曲なんだろう?」と思って、本屋でコードがついている歌本を立ち読して見つけたのがよしだたくろうさんの「マークⅡ」でした。その「マークⅡ」の頭の二行、「さよならが言えないで どこまでも歩いたね」という歌詞に心うたれました。「すごいな・・・よしだたくろうってなんなのだろう?」と思って、それで拓郎さんを聴くためにラジオを聴き始めました。

--その当時は地方局を聴いていたんですか?

きくち:そうですね。最初は岩手放送のような地元のラジオを聴いていました。そうすると新沼謙治さんや千昌夫さん、NSPが流れるのと同じように、大瀧詠一さんが岩手出身ですから、はっぴいえんどが流れていたんです。小学生がリアルタイムではっぴいえんどや吉田拓郎に出会えたのは幸せだったと思いますね。

--中学、高校時代はどんな学生生活でしたか?

きくち:田舎の学校の中では勉強は圧倒的にできたんですよ。田舎でしたし、時代が時代ですからね。井の中の蛙もいいとこですけど勉強はしなくてもできたんです。でも体力的には劣っていたので、逆にスポーツがやりたくて、中学3年間と高校1年までバドミントンをやり、高校1年の途中から弓道を始めました。

--高校で弓道をやる人って結構めずらしいですよね。やはり弓道って精神的なものが大きいんですか?

きくち:圧倒的に精神的なものですね。的の大きさも的までの距離も変わらないのに、当たらない時は六十何射連続で当たらなくなりますし、逆に当たるときは四十射ぐらい続けて当たったりしますから。私は的に当たらなくなるとよく走りに行ってました。ルートは関係なしに20キロぐらいバーっと走るとあたまの中が空っぽになって、また普通に当たりだしたりとか・・・そういう感じなんです。弓道の経験はたぶん今に生きてると思いますね。

--大学時代も弓道をされていたんですか?

きくち:大学に入ってからもやろうと思ってたんですが、弓道には大きく分けて二つの流派がありまして、入学した筑波大学は高校とちがう日置流だったんですよ。それでちょっと入りにくかったので(笑)、大学では最初バドミントン同好会や音楽系のサークルとかたくさん入っていたんですが、結局は、自分で『優虎団』という阪神タイガースの応援サークルを作って、それが中心になりました。

--岩手ご出身なのに阪神ファンだったんですか。

きくち:阪神は小さい頃からずっと好きだったんです。基本的に反体制なんで(笑)。そのサークルを作ることによって何でもできるようになったので、他のサークルはやめました。『優虎団』では大学のジャイアンツファンクラブとかと草ソフトボールのリーグ戦を作って、大学4年間で250試合ぐらいやりました。

--250試合ってすごいですね! なんだか体育会系のノリですよね。

きくち:当時は「強くなきゃいけない」とか、本来の自分に対して虚勢を張っている感じでした。あとストイックなのが好きなので頑張ってただけかなって思いますね。250試合ってすごいでしょう? 毎土日トリプルヘッダーとかだったんですよ。野球はグランドがないとできませんけど、筑波には空き地がいっぱいあったので、ボールがあまり飛ばないソフトボールだったらできたんです。結構真剣に記録をつけたりとか、体を使ったプロ野球ごっこをやっていたんですね。

 

2. 第一志望は小学館?〜想定外のフジテレビ入社

きくち伸72

--その後、就職ということになるわけですね。

きくち:はい。マスコミ志望ではあったんですが、本当は活字のメディアに行きたかったんです。当時、一番行きたかったのは小学館でした。小学館のマンガ雑誌の芸風が好きで、当時は『ビックコミックスピリッツ』が大好きでした。あと反体制のくせに(笑)、子供に夢を与えるようなものが大好きだったので、学年別学習雑誌もやりたかったんです。ですから小学館が第一志望で、小学館じゃなければ、自分の好きなスポーツを伝えるメディアに入りたいと思っていました。例えば、日刊スポーツ新聞社や、ちょうど『Sports Graphic Number』が創刊された頃だったので文藝春秋とかですね。

 当時の就職活動はスタートが遅くて、マスコミは基本的に大学4年の10月に一発勝負みたいな時代でした。それで大学4年になったときに仲の良かった友達が、産経新聞出身の青木彰先生(故人)が主催していた『青木塾』というマスコミ志望者向けの私塾に参加すると言うので、一緒について行ったんです。

--その『青木塾』ではどのようなことをされていたんですか?

きくち:週に一度、青木先生の自宅に集まって、前の週に出された課題の小論文を提出して、それを先生が批評したり議論しながらお酒を飲むというだけの場でした。ですから中身的にはこれといって役にたってはいないんですが、そこにいたおかげで、フジサンケイグループのマスコミセミナーを受けることになったんです。私はテレビ志望ではなかったですが、マスコミ志望者のためのセミナーだから受けてみようと。まぁ、そのセミナーは青田買いの場になっていたんですが、私は全然知らなかったんです。結局セミナーで模擬面接と模擬試験を受けて、2日後にはフジテレビから電話がありました。

--それでフジテレビの本試験を受けられたんですね。

きくち:テレビのことは考えたこともなかったんですが、「せっかく呼んでくれたんだから二次面接行ってみようかな?」と思って。ただ、フジテレビの面接でも小学館志望は変えませんでした。面接のときに「きくちさんは第一志望を小学館としているけど、小学館とウチと両方決まったらどうする?」と訊かれても小学館って答えてました。それでも二次、三次面接とトントン進んで、’84年8月24日に内定をもらいました。

--ちなみに小学館の方はどうなったんですか?

きくち:当時、大学4年の10月を前にマスコミが決まるのは、すごく珍しかったんです。そうなるとあと一ヶ月ちょっと気力が持たなくて、結局小学館も他のマスコミも受けずに、「まぁ、フジテレビでいいかな」って感じで入りました(笑)。確かにフジテレビは好きでよく観ていて、特に三宅恵介ディレクターがやっていた『オレたちひょうきん族』が大好きだったんですね。当時の大学生はやっぱり圧倒的にひょうきん族世代ですから、一緒に『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』を立ち上げた水口昌彦さんや『めちゃ×2イケてるッ!』の片岡飛鳥、『ワンナイR&R』の渡辺琢とか、みんなが三宅さんに憧れてたように私も三宅さんに憧れていましたし、三宅さんが作る作品が好きでした。

--やはり入社当初から音楽番組をやりたいと思っていたんですか?

きくち:そうですね。音楽サークルに入ったり、バンドをやって自分でも曲を作ったりしていたので音楽番組をやりたいと思ったんですが、今『MUSIC FAIR』を一緒にやってる同期が非常に音楽に特化していたんですよ。要するに高校生ぐらいからプロとしてバックバンドでギターを弾いてるような子たちって今もいると思うんですが、彼も学生時代に世良正則さんのバックバンドで『夜ヒット』に出ていたとか。それで「音楽番組はこいつだろうな」と思いましたし、たまたま笑わせて面接を通ってきた経緯があったので「じゃあ、私は音楽番組じゃなくてお笑いで」と思ってたんですよ。だから普通に『ひょうきん族』に行くんじゃないかと思ってました。

--人を笑わせるのが得意だったんですか?

きくち:いや、得意というか、たぶん純朴だったからじゃないですかね。自分で純朴って言うのも変ですけど・・・(笑)。それで研修の時に日枝久編成局長(現会長)に、研修生三人で「『夜ヒット』を見学したい」とお願いしたら許可してくださって、亀山千広さん(現映画制作局長)に連れてってもらったんですよ。でも、当時の『夜ヒット』はとても厳しい番組で、警備のお兄さんが入れてくれなかったんです。亀山さんは「こっちは編成局長の許可もらって連れてきてんだよ!」と怒ってくれたんですけど、「総務部長の判子がなければ入れません!」と断られました。

 私はそれが悔しくて、制作に配属になったときに「きくちはどの番組をやりたい?」と訊かれたので、「『ひょうきん族』か『夜ヒット』」と言ったんです。『ひょうきん族』は人気番組ですから毎年志望者がたくさんいたわけですよ。逆に『夜ヒット』は厳しい番組だったので誰も行きたがらない。それで週明けに会社へ行ったら、当時の部長に「きくちは希望通り『夜ヒット』だ」と言われて、そのときは『夜ヒット』が厳しい番組だなんて知りませんから、「やったー!」なんて喜んでいたら、編成部の人たちに「疋田組かぁ・・・お前大丈夫か?」とか言われて(笑)。それで挨拶に行ったその日から10日間家に帰れませんでした。

--いきなり10日間も家に帰れなかったんですか・・・具体的にどんなことをやらされたんですか?

きくち:その頃の疋田班は「全部の仕事を全員で」ていう班で、『夜ヒット』や『FNS歌謡祭』をはじめ、どっきりや水泳大会、色々な単発モノも含めて、全部をみんなでやる。どっちに弾むかわからないボールを全員で追いかけている下手くそなラグビーみたいな感じだったんです。

 具体的にお話しますと初日の月曜日は『どっきり』のロケハン。火曜日が『どっきり』のロケで、朝早いのでそのまま泊まり込み。水曜日は『夜ヒット』の本番でこれも朝早いんです。だからそのまま泊まりで、『夜ヒット』が終わったあとに技術さんの反省会のケアをして、そのまま大磯ロングビーチに連れて行かれまして、『水泳大会』のスタンバイ。私は一番ペーペーですからそこで一通りのことをやらされるわけです。泳ぎは全然得意じゃないので、ライフジャケットは着けさせてもらいましたが、10m上から飛び込みとかさせられました。「これは大丈夫だな」とか「これは危ないんじゃないか?」とか、そういうことをやるのはADですから(笑)。

--うわぁ・・・ADってイメージ通り過酷なんですね・・・。

きくち:日曜日の『水泳大会』本番まで寝れない日が続いて、本番が終わって、『夜ヒット』の台本出しのために会社へ帰り、台本出しが終わるのは朝4時半〜5時ぐらいですから当然そのまま泊まり、水曜日の本番に向けて仕事が続いていくって感じですかね。2度目の『夜ヒット』本番が終わって初めてお家に帰りました。

--お話を聞くだけでめまいがしそうです・・・。

きくち:まぁ、このときが特別だったわけではなく、年がら年中こうなんですけど、最初は「すごいところに入っちゃったな・・・」と思いましたね。寝ないのが当たり前、食べないのが当たり前という感じで、当時はビックリするくらい辛かったですけど、その時代があったから今があると本当に思います。

--まさに体力勝負ですね。

きくち:そうなんです。私は東北人なので早口に関しては昔からなんですが、性格的にはどちらかというとゆっくりなんですよ。それが、もし、せっかちな部分が身についてしまったとすれば、それはAD時代に鍛えられたからだと思います。

 

3. 全ての基礎は『夜のヒットスタジオ』にある

--『夜ヒット』ではどのようなお仕事をされていたんですか?

きくち:もちろんペーペーのADなんですけど、私は一年目からAPみたいな仕事もやらせていただけたのですごくラッキーでした。『夜ヒット』は番組に出演するアーティスト11組のブッキングをプロデューサーの疋田拓さんが全部お一人でやっていたんです。そのブッキング・ノートは本来は誰も触ることができないんですが、例えば、美術さんのセットイメージの打ち合わせのために音資料を揃えたり、楽曲やアーティストのことを調べたりするのは、下っ端の社員ADである私の仕事でしたから、そのノートを自由に見ることができました。

 これは疋田さんのすごいところなんですが、11組の中に遊びの枠と言いますか、「自分にはよくわからないが、若いやつがいいというなら入れてみよう」ということをたまにしてくれるんです。当時ビートバンドとしてブレイクする前のBOφWYが出した「わがままジュリエット」という曲が私は大好きで、「ちょっと聴いてみてくれませんか」と疋田さんにカセットテープを渡すと、デスクの上でずーっと聴いてくれるんですね。おそらく疋田さんはBOφWYのどこがいいかわからない。でも、この若いやつがこんなにいいって言うのだから、これはいいのかもしれないぞと11組の中に入れてくれるわけです。それでBOφWYが「わがままジュリエット」で『夜ヒット』に出演して、ビートバンドとして大ブレイクした後も「B・Blue」と「Only you」で出演している。それはブレイクする前に「わがままジュリエット」で出演していたから、そのあともBOφWYは『夜ヒット』に出演してくれたんです。

 この「自分が分からなくても若い人たちの意見を取り入れる」というやり方を教えてくれたのが疋田さんであり、それは今の自分に生かしています。

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--結局『夜ヒット』には何年間携わったんですか?

きくち:疋田拓さんと渡邊光男さんのもとで4年半ですね。入社5年目に制作部内で一回だけ社員のシャッフルがあったんですが、その時に私は『夜ヒット』から離れて、石田弘さんの班へ異動になったんです。それで石田さんに最初に挨拶をしたときに「『MUSIC FAIR』のADやってくれ」と言われたんですが断りました。すでに同期にはディレクターになり始めているやつもいましたから、私もディレクターをやりたかったんですね。結果『オールナイトフジ』のディレクターになったんですが、その途端にレコードメーカーの方々やプロダクションの方々から新譜のサンプル盤や資料がぱたりと来なくなりました。私はそのことが悔しくて悔しくて仕方なかったんですよ。

--なんだか手のひらをかえしたような態度ですね。

きくち:はい。それで当時のソニーのプロモーターさんには「『夜ヒット』のチーフADとしてのきくちじゃなくて、フジテレビのテレビマンとしての私を買ってくれるんでしたら、これからも音資料を下さい」とお願いしました。「『オールナイトフジ』だって音楽番組でしょう? それなのに音資料をくれないんだったら悲しくてしょうがないです」と。そうしたら「きくちちゃん、そんなつもりなかったんだよ」とその人は態度を改めてくれました。

 班を移ってから一年経ち『夜ヒット』が終了して、次の音楽番組の話が私のいた石田・笠井班に舞い込んだんです。そのときは「自分のところに音楽番組が帰ってきた!」と運命を感じましたし、それまで音資料をくれなかったレコードメーカーやプロダクションの人たちに対して、正直「ざまーみろ」と思いましたね(笑)。また手のひらをかえすように音資料が来るようになりましたけど、一度態度を豹変させた人たちは全然相手にしなかったですし、信じませんでした。

--再び音楽番組を手掛けることができるようになったわけですから、結果的には異動してよかったですよね。

きくち:そうですね。疋田拓さん、渡邊光男さんのようなプロデューサーディレクターのもとにいたら、いつまでたってもディレクターにはなれなかったと思うんですよ。石田・笠井班はゴールデンをやっていないかわりに深夜番組をいっぱいやっていたので、それで『オールナイトフジ』のディレクターになることができた。やっているうちに『夜ヒット』が終わって、ウチの班で始めた『ヒットパレード90’S』で音楽番組のディレクターになれたんですから、本当に異動してよかったなと思いましたね。

--ただ『夜ヒット』が終わって、『HEY!HEY!HEY!』が始まるまでのフジテレビの音楽番組ってあまり記憶に残っていないんですよね・・・。

きくち:そうかもしれませんね。’90年10月から始まった『ヒットパレード90’S』はみのもんたさん、高嶋政宏さん、高木希世子さん司会で録画で放送していた番組で、『MUSIC FAIR』みたいな番組でした。この番組の途中でチーフADからディレクターになり、’91年4月から生放送になって、司会はみのさんと蓮舫さん。これが終わって以降、細かい時代が続いてるんですよ。今度は『G-STAGE』という徳光和夫さん、堺正章さん、田代まさしさんが司会の番組で、生放送で半年間。それが夜9時に昇格して『SOUND ARENA』という名前になり、これも半年間で終わり、次にやっと『MJ』という『HEY!HEY!HEY!』に繋がる番組が始まるんです。

--なんだか目まぐるしいくらい番組が変わっていますよね。

きくち:『ヒットパレード90’S』から『G-STAGE』までの1年半は、ローテーションディレクターと言いますか、チーフディレクターは先輩でしたけど、私や同期も含めて何人かで番組を回してたんですが、ゴールデンタイムの『SOUND ARENA』になった時に「ゴールデンだからお前らはディレクターをやらなくていい」と先輩のチーフディレクターだけが番組を担当することになって、私たちはやることがなくなったんです。

 ただ、入社から連綿とAPさん的な業務が続いていたので、レコード会社さんや事務所の方々、アーティストとはどんどん密接になっていきました。つまりディレクターという名前のもとに完全なAPだったんです。それで『MJ』の始まる’92年10月のちょっと前に当時のボスだった笠井一二さんに呼ばれて、「お前はディレクターに向いてないから、今日から俺のAPだ」と正式に言われました。自分に対して「ディレクターには向いていない」と言い切ってくれた笠井さんにはすごく感謝しています。自分をプロデューサーの道へ導いてくれたのは笠井さんですね。ただ、その『MJ』も’94年3月で終わってしまい、そこから半年間フジテレビのネットタイムのタイムテーブルから音楽番組が消えるんです。

--確かにフジテレビの音楽番組が消えた時期がありましたね。きくちさんはその間、何をされていたんですか?

きくち:『なるほど!ザ・ワールド』のプロデューサー王東順さんに拾われまして、『新春かくし芸大会』での仕事が認められてクイズ番組のディレクターをやってました。音楽番組のAPからクイズ番組のディレクターです(笑)。そのクイズ番組は土曜夜8時で、今は『めちゃイケ』をやっている時間帯ですから条件としては良かったんですが、数字が悪くて割と早めに打ち切りが決まったんです。

 その年の夏に神宮球場へ阪神戦を観に行ったときに、同じ阪神ファンの水口さんが私を見つけて、「10月から一緒に音楽番組やるの聞いてる?」と声をかけてきたんです。これは『オールナイトフジ』への移籍のときと同様に運命を感じた瞬間で、「音楽の神様は私を見捨てなかった」と思いました。もし、クイズ番組が打ち切りにならなかったら、たぶんそこに参加できなかったでしょうしね。それで水口さんと会議を重ねて、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』が’94年10月から始まりました。

 

4. 音楽番組の新時代〜『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』の誕生

--『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』はダウンタウンが司会だったり、今までの音楽番組とは全然違うのでとても新鮮でした。

きくち:当時はまだお笑いの人との音楽番組ってなかったんですよ。だからみなさん「1回目を見てから」って感じで、アーティストの方々もなかなか番組に出てくれませんでした。1回目のチャンプは私の中では松田聖子さんの予定だったんですが(笑)、どうしてもつかまらなくて、結局仲の良かったHOUND DOGさんにお願いしました。そのときに水口さんと選曲していたら楽しくなっちゃって、バラードばかり6曲ですよ。今の『HEY!HEY!HEY!』は60分の中で2曲やって、どっちも2分半ですから合わせて5分ですが、バラードだけで24分収録しました(笑)。その他に中森明菜さんとゲイシャガールズの曲があったんですから、今の『HEY!HEY!HEY!』じゃ考えられないです(笑)。

--当初はトークよりも演奏の比重が大きかったんですね。

きくち:それで撮ってみたらダウンタウンとアーティストのトークが予想以上に面白かったんです。そうなると放送上、使いたいじゃないですか。それで大友康平さんに、撮った中で一番長かった「ラストシーン」というバラードを「必ずどこかで放送しますから今回の放送からはずさせて下さい」とお願いして始まったのが『HEY!HEY!HEY!』なんです。撮ったものを放送しないというのは、今ではやりますけど、当時は考えられないことでした。

--でも、あのトークはアーティストの素の部分が見えたりして、すごく面白いですよね。

きくち:『HEY!HEY!HEY!』も最初は音楽の話をしようとトライしたんですが、これが上手くいかないんですよ。まだブレイクする前のJUDY AND MARYがゲストに来たときに、話を回す役目の浜田さんに「JUDY AND MARYはロリータパンクとか言われていて・・・」と色々な情報を入れたんです。で、トークの時に浜田さんがYUKIちゃんに「なんやお前ロリータパンク言われてるそうやな!」とか言うと、「いや、ロリータパンクとはそういうことじゃなくて・・・」と真面目な話になる。するとダウンタウンやお客さんのテンションが一気に下がっちゃうんです。そのときに「この番組では音楽の話をしてはいけないんだ」と学習しました。そこからはもう割り切って音楽の話をするのをやめたんですよ。

--そういった試行錯誤があったんですか・・・どのあたりから『HEY!HEY!HEY!』は軌道に乗ってきたんですか?

きくち:6回目の放送でミスチルが初出演した回のチャンプが玉置浩二さんだったんですが、放送の順番を変えて、あえて頭にミスチルを出して、おそらく番組を途中から見た人がミスチルが出るのを待って、ずーっと最後まで見ちゃったという効果もあり(笑)、視聴率が20%を超えたんですよ。音楽のレギュラー番組の通常回で20%を超えるのはおそらく15年ぶりぐらいだったと思うんですが、そこでみなさんが『HEY!HEY!HEY!』という番組を認めてくださって、そのご褒美にやらせてもらったのが『TK MUSIC CLAMP』なんです。

--『TK MUSIC CLAMP』はご褒美だったんですね(笑)。

きくち:そうです。『TK MUSIC CLAMP』の条件は「タワーレコード一社提携の音楽番組」というだけでした。初の単独プロデュースのレギュラー番組ですから、すごくワクワクしながら色々考えたんですが、『HEY!HEY!HEY!』は音楽の話をしない音楽番組に仕上がっちゃったので、「音楽の話しかしない音楽番組を作ろう」と思いました。

 実は最初企画が三つありまして、一番やりたかったのは「元春レディオショー」でした。つまり『佐野元春のサウンドストリート』をテレビでやりたかったんです。でも、佐野さんと1時間くらいお話して、ちょうどハートランドを解散した後で、今はちょっと考えられないと言われまして、二番目の候補は大瀧詠一さん。もし大瀧さんと仕事ができたとしたら、『Go! Go! ナイアガラ』のように選曲から全部を大滝さんに委ねてやりたいと。そして三番目の企画が『吉田拓郎のオールナイトニッポン』で、拓郎さんとは『夜ヒット』のADのときに一度だけご一緒しているんですが、その時点ではまだ拓郎さんと知り合いじゃなかったのでこの企画も駄目で、それでずっと付き合いがあった小室哲哉さんでいいかって(笑)。小室さんだったら頼みを断らないだろうと。

--どの企画も発想はラジオだったんですね。

きくち:そうなんですよね。それで’95年4月から『TK MUSIC CLAMP』が始まりました。小室さんは当時ピークの頃で、小室さんと対決しに色々な人がやってくるわけです。例えば、B’zの稲葉さんが一人でやってきたり、桑田佳祐さんがきたり、あの時の面子はやはりすごかったです。自分の中で一番面白かったのが2回目に放送した小林武史さんとの直接対決で、当時はミスチル、TRF頂上決戦みたいな感じだったんですよね。

--番組で対決さしちゃったんですね(笑)。

きくち:面白かったですよー。小室さんの方が1歳上なので、小室さんはずっと「小林くん」って言うんですよ。その度に走る「ピキーン!」という空気が・・・(笑)。小室さんって天然で何の策略もない人ですから、全然悪気なく「小林くん」って呼ぶんですよね。あれは面白かったですね。それで小室さんと私の共通の趣味がB級アイドル歌手で、エンディングでまだ歌手デビューしてない女の子に小室さんの曲をカバーさせる企画をやったんですが、そこにはお宝がいっぱいいたわけですよ。avexからデビューする3年前の浜崎あゆみさんや、高知の中学生時代の広末涼子さんが私服で歌ってますからね。他にも矢田亜希子さん、田中麗奈さん。あと仲間由紀恵さんのCDデビューもここですからね。

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--本当にお宝がいっぱいですね。

きくち:よくこんな面子が揃ったなぁって思いますけどね。あと中盤に小室さんが若手アーティストと喋るコーナーがあって、そのコーナーを「TK FACTORY」という名前にしました。最初の半年間は小室さんがメインのトークと「TK FACTORY」とエンディングの演奏を全てやっていたんですが、さすがに忙しくて辛くなってきたので、メインのトークだけ小室さんがやって、演奏は久保こーじバンド、「TK FACTORY」はglobeのKEIKOと久保こーじが交代で司会することになったんですね。

 私にとって大きかったのは「TK FACTORY」でギターウルフやミッシェル・ガン・エレファントと知り合ったことです。その頃からギターウルフはいかしたことを言うんですよ。おそらく「TK FACTORY」が彼らのテレビ初仕事だったと思うんですが、演奏後のトークで久保こーじがセイジに「ギターウルフにとってロックって何ですか?」と訊いたんです。そしたらセイジがちょっとうつむいて考えた後に「ジャンプかなぁ」って。なんか矢沢永吉さんに通じるものがあるというか、「ロックンロールだなぁ」って思いました(笑)。

 2年目は中居君が司会で『MUSIC CLAMP』という番組になります。そのときに真ん中のコーナーを「FACTORY」として、かまやつひろしさんと近田春夫さんに交代で司会をやってもらうことになりました。私はそこで「メジャーデビューしてることがテレビに出演する条件じゃない」と思うようになって、「FACTORY」に関しては、今CSをやっている平野雄大に「何でもいいから私が面白いと思うアーティストを連れてきて」と任したわけです。

--そのコーナーが『FACTORY』という番組となるわけですね。

きくち:そうですね。要するにフジテレビが一番作らせてくれないライブ番組を勝手に作っちゃおうと独立させたんです。『FACTORY』の一番の自慢はテレビのスタジオでやってるのにキュー出しがないことです。ステージに出た後はギターの弦が切れようがなんだろうが自分たちで勝手にやってくれ、と。間違ったらもう一度やり直しても構わないし、曲順を変えても増やしてもかまわないよっていう感じでやってるのが『FACTORY』なんです。そのときにアーティストが一番出やすい環境作ろうと、スタッフみんなで一生懸命ザ・バンドの『ラスト・ワルツ』を観ました。なんか、こういう伝わり方がいいなって思ったんですよね。

 

5. 生演奏に対する執拗なこだわり〜『LOVE LOVE あいしてる』と『僕らの音楽』

--『LOVE LOVE あいしてる』はどういった経緯で始まったんですか?

きくち:『MUSIC CLAMP』をやってる最中に『めちゃ×2モテたいっ!』が夜8時に移るから、その空いた23時の枠で、KinKi Kidsで愛をテーマにした音楽番組をやらないかと編成から言われたのがきっかけですね。

--『LOVE LOVE あいしてる』は本当に好きな番組でした。テレビでバンドの魅力を伝える番組を初めて見た気がします。

きくち:ありがとうございます。私もすごく楽しかったですね。

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--『LOVE LOVE あいしてる』では本番前からバンドで演奏されていたそうですね。

きくち:今の『堂本兄弟』でもそうですよ。基本的に一番楽しんで欲しいのはスタジオに来たお客さん。二番目は来てくださったゲスト。三番目はレギュラーメンバーたちで、四番目のスタッフが楽しければ、五番目の視聴者にもその楽しさが届くだろうという考え方でやっています。だから今も放送しないことをいっぱいやってます。

--何より驚いたのが、吉田拓郎さんとKinKi Kidsという組み合わせだったんですよ。

きくち:実は編成からは最初「玉置浩二さんで」と言われていたんです。KinKi Kidsとも番組が始まる年の夏の横浜アリーナが初対面ですから、まさかこんな運命共同体になるとは思わなかったです(笑)。

--それがなぜ吉田拓郎さんになったんですか?

きくち:番組が始まる前にスポンサーの松下電器さんにプレゼンをしに大阪まで行ったんですね。それでうちの偉い人たちや電通の人たちがいっぱいいる会議室の真ん中にポツンと座らされて、厳しい質問を色々されるわけです(笑)。その中で「この玉置浩二さんってソニーのアーティストですよね」って、松下電器の方たちが敏感に反応したんですよ。そして、ざわめくうちのチームみたいな(笑)。そこで私は「吉田拓郎さんなんてどうでしょうか?」ってとっさに言ったんです。実は拓郎さんには『HEY!HEY!HEY!』に出てもらいたくて色々と話し合っている最中だったので、「たぶん私が頼めば出てくれると思うんですけど」て言ったら、「拓郎さんがやってくれるんだったらいいよねぇ」みたいな雰囲気になっちゃったんです(笑)。それで東京に帰ってから拓郎さんに電話して、「拓郎さんあのちょっとお話があるんですが・・・」て(笑)。

--そんないきさつだったんですか(笑)。『LOVE LOVE あいしてる』は絶対に吉田拓郎さんを入れようという思いが強かったのかなと勝手に想像してたんですけど。

きくち:『LOVE LOVE あいしてる』は初めてのネットタイムのプロデュース番組でしたから、そんなことは考えてなかったです。緊張してる中で玉置浩二さんがソニーだから嫌だと言われたので、苦し紛れというか、何か言わないといけないと思って出たのが拓郎さんだったというだけで・・・まぁ、いつもこんな感じなんですけどね。

--拓郎さんはめったにテレビには出ない方だったじゃないですか? よく出てくださいましたよね。

きくち:そうですよね。出るところまではよかったんですけど、そこからが簡単じゃなかったです。番組開始から半年後のハワイロケで初めて拓郎さんがKinKi Kidsと馴染んだ感じでした。ハワイロケは合宿みたいでしたから、そこでやっとみんなが一つになったと思います。最初の空回り感は本当にすごくて(笑)、その半年間は「篠原ともえのプリプリプリティー」が番組をひっぱった感じでした。

--あのコーナーの篠原ともえさんはインパクトがありました(笑)。

きくち:篠原ともえちゃんは絶対に入れようと思ってました。ともえちゃんもキューンソニーだったので微妙な反対要素があったんですが、「メインじゃないですから」て嘘をついて(笑)。とにかく、ともえちゃんは使いたかったんです。結局ともえちゃんのブレイクポイントと『LOVE LOVE あいしてる』のスタートが完全に重なったので、「ツイてるな」って思いましたね。これはGacktも同じで、Gacktのブレイクポイントと『堂本兄弟』の始まりが完全に一致してるんですよ。『堂本兄弟』でGacktはテレビ的に売れて、Gacktに『堂本兄弟』も助けられたという。

--あとLOVE LOVEオールスターズもすごく豪華なメンバーでしたよね。

きくち:別に最初からLOVE LOVEオールスターズを組もうとは思っていなくて、当初は吉田拓郎とKinKi Kidsという50才と17才の間を埋める人を置こうと思ったんです。最初は女子を入れようと思い、候補にあがったのが安室奈美恵さんと森高千里さんと永井美奈子アナウンサーでした。永井美奈子さんは日テレを辞めたばかりだったので今はやめた方がいいと言われて、安室ちゃんは裏で『夜もヒッパレ』をやっていたので100%NG。その代わり一回目のゲストに来てくれました。森高さんは・・・いずれにせよ駄目でした。

 それで女子をあきらめて、次に男子を置こうと考えたのがウルフルズだったんです。なかよかったですし、大阪まで行ってトータス松本と真剣に話したんですが完全に断られ、そこで間に誰かを置くという考え方をやめて、「ハウスバンドを作ろう」と思ったんです。だから、バンドはウルフルズだったかもしれなかったの。で、拓郎さんに相談をしたら、あんな豪華な面子になってしまって・・・(笑)。記者発表の時に拓郎さんが勝手に「坂崎幸之助」とか言っちゃって、記者会見場から坂崎さんのマネージャーに「すいません。拓郎さんが今、LOVE LOVEオールスターズに坂崎さんって言っちゃったので明日新聞に出ます」と電話したり、完全に事後承諾ですよ(笑)

--(笑)。「ハウスバンド」という発想はとても新鮮でした。一流プレーヤーたちがあんなに楽しそうにライブで演奏してるの見るのはすごい楽しかったです。

きくち:やはり『夜ヒット』をやっていたからですね。『夜ヒット』の時代は『ベストテン』も『トップテン』もハウスバンドがいて、小泉今日子さんだろうが、五木ひろしさんだろうが、みんな同じバンドで演奏していたところがよかったと思うんですね。ちょうど私が現場に入ったぐらいから、だんだんとアーティストが自分のバンドを持ち込んだり、あるいはロックバンドがテレビに出始めたり変化してきたんですが、それでも生演奏だったんです。つまり、生演奏が当たり前の現場に入ったので、生演奏に対する執拗なこだわりがあるのかもしれません。『夜ヒット』、『ベストテン』、『トップテン』が終わっていく中で始まった『ミュージックステーション』が近代音楽番組ということになるのでしょうけど、私のやる番組は生演奏を主体とした前近代的な音楽番組でもいいのかなと思っています。

--『僕らの音楽』も生演奏を中心とした丁寧な作りの番組ですよね。

きくち:『僕らの音楽』が標榜したのは『TK MUSIC CLAMP』じゃないですけど、「笑わない音楽番組」なんです。『HEY!HEY!HEY!』は大発明だったんですが、それが成功しちゃったので、どの局を回してもお笑いの人が司会の音楽番組になってしまった。そこで「お笑いじゃない音楽番組を作ろう」て思って作ったのが『僕らの音楽』です。

 『僕らの音楽』がはじまる前は『ポップジャム』が裏だったんですが、『ポップジャム』が終了してBSでずっと放送していた韓国ドラマの再放送が始まると聞いて「ラッキー」と思っていたら、それが『冬のソナタ』で『僕らの音楽』の最初の一年間は完全にやられちゃいました(笑)。

--あの「冬ソナ」ブームにはどんな番組も太刀打ちできなかったんじゃないでしょうかね(笑)。

きくち:でも、スポンサーのソニーさんや電通さんやフジテレビでも役職の位が上がれば上がるほど『僕らの音楽』を最初から評価してくれたんです。ですから数字が悪くても、終わることも、どうこう言われることもなくやり続けてこれたのでありがたかったですね。『僕らの音楽』一回目のゲストは平原綾香さんで、二回目の放送の前日に、当時フジテレビ常務取締役の山田良明さんと森山直太朗くんのコンサートのバックステージでお会いして、ほとんど面識がないのに「先週の『僕らの音楽』を倉本聰さんも観ていたそうだよ」と声をかけていただいたんです。倉本さんはあまりテレビをご覧にならないらしいんですが、たまたま旅先で『僕らの音楽』を観てて、平原綾香さんを「いいな」って言ってたという話を聞いてすごく嬉しかったんです。そうしたら、その9ヶ月後に倉本さんのドラマ『優しい時間』のテーマ曲が『僕らの音楽』で平原綾香さんが歌っていた「明日」という曲になるわけですよ。9ヶ月前のシングルが倉本ドラマの主題歌になるってすごい幸せなことだなって思いましたね。

--『僕らの音楽』は大人が落ち着いて観られる音楽番組ですよね。他局もそういった番組を作り出したり、流れが変わった感じがするのですが。

きくち:確かに『僕らの音楽』を始めてから「大人の音楽番組ブーム」とか言われ始めたりして、他局でも同じような番組がどんどんできてくるんですが、どんどん終わっていくんですよ。あるいは『僕らの音楽』風に始まっても、いつの間にか『HEY!HEY!HEY!』風になっているという(笑)。

--確かにいつの間には番組の方針が変わっていたりしますよね(笑)。

きくち:きっと『HEY!HEY!HEY!』や『うたばん』みたいな形の方がテレビとしては間違ってないんです。生演奏はお金がかかりますしリスクが大きいですから。その中で私は『僕らの音楽』でも『堂本兄弟』でも、あえて間違ったことをいっぱいやってるのかなと思いますね。実は今の『FNS歌謡祭』の母体は完全に『僕らの音楽』で、去年、一昨年の『FNS歌謡祭』では総演奏楽曲数中、6割5分で生演奏をしています。今、紅白歌合戦がカラオケ中心でやっていることを考えると、6割5分が生演奏している『FNS歌謡祭』はすごいことなんですよ。ただ、『FNS歌謡祭』はここ4年続けて民放でただ一本、視聴率が20%を超えた音楽番組なんです。

(※『2007 FNS歌謡祭』が20.7%で5年連続。今年の生演奏率は約7割。)

--つまりテレビ的には間違っているのかもしれないけれど数字は一番とっていると・・・。それは視聴者にも生演奏の力が伝わっているからこそだと思いますよ。

きくち:『FNS歌謡祭』のように生演奏を中心とした番組で高視聴率をとれるのはすごく嬉しいですね。

 

6. 音楽は血統のスポーツである

--『LOVE LOVE あいしてる』から『堂本兄弟』まで見続けていると、KinKi Kidsのギターはすごい上達ぶりですよね。

きくち:そうですね。収録は2週間や3週間に一度だったりしますけど、放送でいうと11年間毎週生演奏してるわけですからね。彼らは譜面で会話できますし、その場でキーが変わっても普通に対応します。でも、その中で深田恭子ちゃんがピアノを弾いているとか、そういう感じがとても大事だと思うんですよ。深田恭子と屋敷豪太が並んでる感じが。

--ストリート・スライダーズの土屋公平さんが『堂本兄弟』に参加されていて驚いたんですが、どういった経緯だったんですか?

きくち:「堂本兄弟のテーマ」という曲がありまして、もともと『堂本兄弟』というのは『LOVE LOVE あいしてる』最後の特番の番宣企画だったんですが、テーマ曲を作ろうという話になって、私は最初、吉田建さんに「『真心ブラザーズのテーマ』みたいなのがいい」とお願いしたんですけど(笑)、最終的にはRCサクセションの「よォーこそ」みたいな曲ができあがっちゃって(笑)。4月、レギュラー番組になるときに、番組のタイトルCGを作るために、こっそり一回だけレコーディングしているんです。そのとき、麗蘭をレコーディングメンバーにお願いしたんです。だから、公平さんもさることながら、あの「よォーこそ」と「雨上がりの夜空に」を足したような「堂本兄弟のテーマ」をチャボさんが弾いてるという(笑)。

--それはすごいですね! 仮想RC(笑)。

きくち:レコーディングはすごく楽しかったですよー。公平さんは最後の半年くらいLOVE LOVEオールスターズ入りしてたんですけど、『LOVE LOVE』がおわって『堂本兄弟』がはじまって、最初はギターは元Mr.BIGのポール・ギルバートに弾いてもらっていたんですが、ポールが帰国することになってしまって、誰かかわりのギターを探さなきゃって、いつものよぅに思いつきで(笑)、公平さんに直接電話したんです(笑)。「公平さん一回やってもらえませんか?」とお願いしたら、「レギュラーだったらやる」とおっしゃってくれたので、公平さんが入ったんです。

--ストリート・スライダーズのファンからしたら、「テレビに公平さん?」みたいな感じだと思うんですよ。

きくち:ビックリですよね。ファンには嫌な思いさせているのかな?と思うときもあります。もし、『LOVE LOVE あいしてる』が始まったときに、吉田拓郎ファンの私がお家でテレビを観ていたら、すごく嫌だと思うんですよ。「なんでジャニーズのアイドルなんかとテレビに出てるの!」って。でも『LOVE LOVE あいしてる』で4年半やった後、私は一人の吉田拓郎ファンとして最高の仕事を吉田拓郎にできたな、て思ってるんです。だから、いずれ公平さんのファンもわかってくれてるかなって思ってます。

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--吉田拓郎さんも『LOVE LOVE あいしてる』で新たなファン層を獲得されましたし、番組内でもすごく楽しそうで、個人的にはすごくいいなと思ってましたけどね。

きくち:去年、『僕らの音楽』でYUIちゃんとのコラボレーションで、YUIちゃんと同郷の花田裕之さんに来ていただいたことがあって、花田さんのエレキギターとYUIちゃんのアコギで「東京」という曲をやったんです。私は昔『オールナイトフジ』のディレクター時代に花田さんとお仕事したことがあったので、「憶えてらっしゃるかな・・・」と思いつつ昔のことも含めてご挨拶したんですね。そうしたら「久しぶり! 『オールナイトフジ』以来かな?」とおっしゃってくれて、その後に「蘭丸元気?」って訊かれたんです。

 花田さんは私のことを憶えていて、しかも私が『堂本兄弟』をやってることと、そこに公平さんが出てることをご存じだったんですね。そこですごくジーンとなってしまって、「今まで一生懸命やってきてよかったな」って思いました。そのことを公平さんに言ったら、「鮎川(誠)さんも『堂本兄弟』を観てるんだよ」って言われて・・・。「鮎川さんも観てるんだ・・・すごいことになってるなぁ」って。「こんな番組ですいません・・・」みたいな気分になりました(笑)。

--『堂本兄弟』はミュージシャン心をくすぐるんじゃないですかね。ある意味すごく型破りで。

きくち:そうありたいと思ったんですけどね。歌ってるのは、お笑いさんや女優さんだったりもしますけど、基本にはミュージシャン、プレーヤーに対する無条件のリスペクトがあるんです。やっぱり鮎川誠さんや花田裕之さん、土屋公平さんみたいなギタリストは大好物ですし、公平さんをKinKi Kidsと共演させることによって、より多くの人たちに公平さんの素晴らしいギタープレイを観てもらえるんだったら、私はどんどんやっていきたいんですよ。YUIちゃんのファンに花田さんのギターを聴かせたりとかね。ベテランのミュージシャンの方たちって周りが気を遣いすぎて、殻に引きこもらせがちと言いますか、良い意味で恥をかく場がないと思うんですよ。だから、そういった場をどんどん作っていけたらと思いますね。

--ちょっと話が飛んでしまうんですが、別の取材で「音楽は血統のスポーツである」とおっしゃっていますよね。とても面白い言葉だなと思ったんですが、これはどういった意味なのですか?

きくち:要するに佐野元春さんの曲を聴いて、マーヴィン・ゲイという単語を知り、マーヴィン・ゲイの音楽を聴く。また、ミスチルのことが大好きな女の子たちが、「桜井さんが好きなエルビス・コステロってどんな音楽なのだろう?」とコステロを聴く。そういったことが音楽では起こりうるんですよね。

--なるほど。「血統」を「ルーツ」と言いかえてもいいのかもしれませんが、ルーツを探すのはすごく楽しいですし、世界がどんどん広がっていきますよね。

きくち:そうですね。パーっと広がっていくんですよね。『LOVE LOVE あいしてる』を娘とお父さんが一緒に観ていて、娘がお父さんにKinKi Kidsやゲストの話をし、お父さんが娘に吉田拓郎や高中正義の話をする。で、お父さんが娘にKinKi Kidsが使ってるのと同じ高いギターを買ってあげて、お父さんは昔使っていたモーリスの安いギターひっぱりだしてきて(笑)、娘にギターを教えている・・・そういった内容のメールやお手紙を結構もらったんですよ。今でも「深田恭子ちゃんが弾けるんだから私にも弾けるかもしれない」と思って、バンドを始める子たちがいてもおかしくないですよね。私たちの作る音楽番組をきっかけに、音楽の世界が広がっていってくれたらすごくいいなって思うんですよね。

--素晴らしいですね。きくちさんは音楽のためにテレビというメディアを120%生かしていますよね。

きくち:こんなことを言ったら大失格ですが、私は社員プロデューサーですから、ぶっちゃけ儲けは関係ないじゃないですか(笑)。いくら仕事をやっても別にお給料が変わるわけでもないですし、逆に赤字を出しても別に自分たちのお給料が減るわけでもない。そこが強みだと思うんですよね。これは腕一本でやってる方たちと違うところで、私のような番組作りはフジテレビの社員だからできることで、やり続けさせてくれるフジテレビに感謝しています。

 

7. 色々な音楽との出会いをいっぱい作りたい

--音楽業界全体を見てみますと、CDが売れなくなったりとか厳しい状況が続いているんですが、そういった現状に対してどう思われていますか?

きくち:そうですね・・・まず、CDが売れる売れないという話で言うと、オリコンさんには一刻も早くチャートを作り直して欲しいですね。去年シングルCDの売り上げをネットダウンロードの売り上げが上回ったという話を聞いてすごくビックリしました。当然ネットや携帯でダウンロードする方がCDよりも安いわけですから、ダウンロードの回数とシングルCDの売り上げ枚数を比べたら、もうビックリするくらい差が出ているわけでしょう? それなのに未だにシングルチャートなのはおかしいと思うんです。

 現状のオリコンチャートだとダウンロードをやってない人たち、あるいはダウンロードする技術や技量がない人たちを相手に商売をしている人たちが上にいくようになっていますからね。ダウンロードに対応していない楽曲は、当然シングルCDもちゃんと売れるわけで、オリコンチャート的には上位にきますよね。今のチャートがこうである以上、それは戦略として素晴らしいと思うんですが、もうちょっと正してもいいかなって思いますね。

--チャート自体が現状と合っていない。

きくち:そうですね。この間、『HEY!HEY!HEY!』の14年目突入スペシャルを幕張から生放送でやったときに、会場でお客さんが一番沸いたのが中島美嘉ちゃんの「LIFE」だったんです。「LIFE」が主題歌だったドラマ『ライフ』は、中学生から高校生、大学生ぐらいまでの若い女子を中心とした層が多く観たドラマですから、おそらく中島美嘉ちゃんの「LIFE」はダウンロードで相当売れているでしょうけど、現状のシングルチャートだけを見たら、それはわかりませんよね。ですから、今のチャートだと活況じゃないように見えるのかもしれませんが、意外とそうでもないんじゃないかと思ったりします。

 あと、昔とは比べものにならないぐらい街中にエンターテイメントが溢れかえっていますよね。携帯、インターネット、カラオケボックス、クラブ、何でもいいですが、みんな一日24時間しかありませんから、テレビにしろ音楽にしろすごく厳しいです。CDの場合はお金の問題で、お小遣いの額は基本的に決まっていますから、他のエンターテイメントが増えることによってCDに割く分はやはり減りますよね。いい歌が出れば売れるとも言えますが、例えば「千の風になって」や「世界にひとつだけの花」といったヒット曲は若者文化と関係ない人たちまで買うから売れてるんですよね。

--ミリオンとかダブルミリオンとか本当に少なくなりましたからね。

きくち:ただ、今のほうがずっと地に足がついた感じはあると思います。『HEY!HEY!HEY!』が始まる前の些末な音楽番組が続いてる時代は、サビまで来ないと私でもわからないダブルミリオンがたくさんあったわけですよ。音楽番組のプロデューサーやディレクターがサビが来るまでわからないダブルミリオンっていうのはおかしいですよね。そう考えると今の方こそ真っ当なのかもしれない(笑)。

--きくちさんは今後どのような音楽番組を考えられていますか?

きくち:さっきもお話しましたけど、私は計画的に考える方ではないので、その場その場にならないと思いつかないんです。今は『MUSIC FAIR』をなんとかするのに夢中です。『MUSIC FAIR』のチームは形が古いので近代化しようと思っています。

--例えば、音楽番組ではない番組も手掛ける可能性はありますか?

きくち:それこそ石田弘さんがいますからね。石田弘さんがいていいってことは、私はこのまま音楽番組を作り続けていいんだろうなって思っていますけどね。

--今までたくさんのアーティストとお仕事をされてきたと思うんですが、今後、仕事をしてみたいアーティストはいらっしゃいますか?

きくち:やっぱり中島みゆきさんですね。トークだけでもいいから仕事がしたいです。中島みゆきさんとは『HEY!HEY!HEY!』が始まった頃、呑み屋さんで一緒になったことがあって、『HEY!HEY!HEY!』のテレカを箱ごと渡したことがあるんです(笑)。あと、マネージャーさんもすごくよく知っているにも関わらず、まだお仕事をできないでいます。でも、これまでに佐野元春さんや甲斐よしひろさん、あとユーミンといった「いつか一緒に仕事をしたい」と思っていた方々とはご一緒できましたから、いつかどこかでお仕事できるんじゃないかなって思っています。

 あと、大瀧詠一さんをテレビの画面に映したいですね。実は大滝さんは音楽自体では出演されているんです。『LOVE LOVE あいしてる』で松たか子さんが大滝さんの「幸せな結末」をカバーしたときに、ウチがとったマルチテープを大瀧さんに渡して、そこに大瀧さんがストリングスやご自身のボーカルとコーラスを入れて、最後は松さんとのかけあいになるようにトラックを仕上げてくれたんです。ですからエンドロールには「スペシャルゲストバッキングボーカル 大滝詠一」と入っていたんですが、普通に流れてるから誰も気がつかなかったと思います(笑)。

--(笑)。きくちさんはとてもお忙しそうですが、新しいアーティストのチェックなんかはどのようにされてるんですか?

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きくち:「音組」には優秀で色んな感性をもった若いディレクターがいっぱいいますから、彼らからも情報を得ています。あと『FACTORY』という番組が大きいですね。『FACTORY』で初めて見る人たちは山のように沢山いますけど、昔は『FACTORY』で気に入ると『HEY!HEY!HEY!』に連れて行ってたんですよ。今は気に入ると『僕らの音楽』に強引に連れて行ってます。今年はやはり郷ひろみさんとザ50回転ズが共演した「GOLD FINGER ’99」がすごく面白かったですね(笑)。あれを受け入れる郷ひろみさんはやっぱりすごいと思います。これが、郷さんがいまだに音楽でも売れてる理由ですね。郷さんは決して守りに入らないですし、どんな提案も郷さんは「いいよ」って言ってくれます(笑)。

--あれはすごく面白かったです! 最高でした(笑)。

きくち:いやぁ、本当に面白かったですよ(笑)。昨年末の『松任谷由実のオールナイトニッポンTV』で、ザ50回転ズに「ルージュの伝言」をカバーさせたんですが、それをユーミンが観てて、手を叩きながら大笑いしたんですよね。さっきの公平さんや花田さんの話とは逆に、郷さんやユーミンみたいなベテランのアーティストをきっかけに、ザ50回転ズのような若いアーティストを観てもらうことも大事だなって思いますね。

--色々な音楽との出会いをいっぱい作るっていうことですね。

きくち:そうですね。視聴者に対していっぱい出会いを作る。全部を好きになってくれとは言いませんが、色々なものが観れるように、これからもどんどん番組を作っていきたいなって思いますね。

--これからもきくちさんの作る音楽番組を楽しみにしています。今日はお忙しい中ありがとうございました。

(インタビュアー:Musicman発行人 山浦正彦)

 今回は『FNS歌謡祭』を目前に控えたお忙しい中でのインタビューとなりました。なにより驚かされたのが、きくちさんのアーティストに対する膨大な知識量と記憶力です。その情報をもとにした「メジャー/インディーズ」、あるいは「新人/ベテラン」といった境目が全くないきくちさんのお話はとても刺激的で、郷ひろみとザ50回転ズの共演を嬉々として語るきくちさんの表情はいまだに脳裏に焼き付いています。きくちさんの作る音楽番組から伝わる楽しさ、ワクワク感は、きくちさんが音楽に向ける感情の表れそのものなのかもしれません。これからもきくちさん、そしてフジテレビ「音組」の仕事には一音楽ファンとして期待大です。

 さて次回は、プロデューサー/アレンジャー/ベーシストの吉田 建さんのご登場です。お楽しみに!