第69回 屋敷 豪太 氏 プロデューサー/アレンジャー/ドラマー
プロデューサー/アレンジャー/ドラマー
今回の「Musicman’s RELAY」は吉田 建さんからのご紹介で、プロデューサー/アレンジャー/ドラマー 屋敷豪太さんのご登場です。上京直後に「Player」誌のメンバー募集からミュート・ビートに参加。伝説のクラブ「ピテカントロプス」のOpenをきっかけにメロンのメンバーへ。その後、言葉もわからぬまま単身渡英しソウル トゥー ソウルとの出会いで“グランドビート”が誕生。アルバムのヒットからシンプリー・レッドのプロデューサーに見初められアドバイザーとしてレコーディングに参加後、正式メンバーとなりビッグヒットとなったアルバム『STARS』をリリースとまさにワールドワイドに活躍されている屋敷さん。現在は日本を中心に活動中の屋敷さんに、実家のお好み焼き屋さんで過ごした少年時代や東京でのアーティスト活動、イギリスでの貴重な体験など、事件の連続だった屋敷さんの半生を時間いっぱい語っていただきました。
プロフィール
屋敷 豪太(やしき・ごうた)
プロデューサー/アレンジャー/ドラマー
’62年生 京都府出身。
高校卒業後、’82年に上京しこだま和文らとMUTE BEATを結成。’86年にMELONに加入、ヨーロッパ公演を行う。’88年に渡英し’89年Soul ll Soulの1st.アルバムに参加することからグランド・ビートを生み出し、世界的な注目を集める。その後、’91年にはSimply Redの正式メンバーとしてアルバム「Stars」のレコーディングと2年間にわたるワールドツアーに参加。近年はジャンルを越え、多くのアーティストをプロデュース、また楽曲をリミックスする一方、ソロアーティストとして、またB.E.D.(Jimmy Gomezとのユニット)としてアルバムを発表。現在、活動拠点を日本に移し、新人アーティストのプロデュースや、アルバムプロデュース、リミックス、またドラマーとしての活動など精力的に行っている。
1. お好み焼き屋のお客さんと8トラに囲まれた少年時代
−−前回ご登場いただいたプロデューサーの吉田建さんとはいつ頃出会われたんですか?
屋敷:きくち伸プロデューサーとは『僕らの音楽』でご一緒したことがあったんですが、その後『新堂本兄弟』のレギュラーをきくちさんが建さんに相談したときに「豪太がいいんじゃないか?」みたいな話になったんだと思うんですよ。それで、三宿のカフェで紹介していただいたのが建さんとの初めての出会いだと思います。
−−世界の屋敷豪太というイメージでしたから、テレビに出ていること自体に驚きました。毎回すごい人をゲストにキャスティングするので、きくちさんもすごいなと思いますが。
屋敷:そうなんですよね。きくちさんの頭の中に入っている日本の音楽シーンとかミュージシャンの幅ってものすごく広いんですよね。
−−きくちさんはそれを自然にミックスさせちゃいますよね。
屋敷:その自然な感じに僕も飲み込まれたと思うんですけどね(笑)。20年間ロンドンにいましたから、日本のテレビや音楽シーンをほとんど知らなかったので、『新堂本兄弟』に出させてもらえるのは、勉強っていう言い方は変かもしれないけど、色んな人に会えて楽しいですね。
−−番組を通じて交友関係も広がったんじゃないですか?
屋敷:そうですね。今、番組に20歳の子たちとかが出ていますけど、僕がロンドンにいたときにまだ生まれたばかりだとか、1歳、2歳の子たちが前線で頑張ってやってるわけだから、ある意味、浦島太郎ですよね、僕(笑)。でも、多くのミュージシャンの方たちから、日本に帰ってきたことによって「君が豪太君なんだー」とか「話がしたい」って言ってもらえるのですごく楽しいですね。日本語で色々喋れますし(笑)。
−−(笑)。建さんとのお仕事はいかがですか?
屋敷:例えば、リハーサルしてるときでもここはダメだ、ここはこうしろ、ああしろってはっきりおっしゃる方なので凄くやりやすいですね。いいお兄さんと言えばいいですかね。
−−では、ここからは屋敷さんご自身についてお伺いしたいんですが、どのような家庭環境で少年時代を過ごされたんですか?
屋敷:生まれは京都府綾部市というところで、京都の北部、福知山のそばなんです。祖父が綾部でクリーニング屋をやっていたんですが、あの頃のクリーニング屋としてはすごく大きかったらしくて、丸正クリーニングっていうお店だったんですけど、東京から手紙を出すときも「綾部の丸正さん」とか「丸正の屋敷さん」って出せば、住所書かなくても届いたらしいんですよ。それぐらい大きかったので、京都府内の北桑田群美山町っていうド田舎でも受取所をやっていたんです。それで僕が生まれてすぐに、そこに親父が行くことになって、北桑田群美山町に引っ越しました。その頃は美山村って言ったかな。小学一年生までそこで過ごすんですが、その経験は僕にとってすごく良かったと思いますね。何もないところだったんですが、美山町というぐらいで、字のとおり山に囲まれて本当に綺麗な所でした。
−−そういうことを覚えてらっしゃるんですね。
屋敷:すごく覚えてますね。でも小学生のときにまた綾部に戻るんです。そこからは、もう綾部小学校、綾部中学校、綾部高校という公立をトントントンと。
−−なるほど。その頃の印象的な経験などはありますか?
屋敷:綾部に戻ってすぐだと思うんですが、うちの父はもともと飲食店をやりたかったらしく、お好み焼き屋さんを始めるんです。線路際の漫画に出てくるようなトタン屋根で、お風呂もないような建物で、そこで中学生ぐらいまで七、八年過ごしました。面白いのがお好み焼き屋さんなんだけどお酒を置かなかったんですよ。入り口の玄関みたいなところにまだクリーニング屋の受付所もやっていたので、親父が配達で外に出ちゃうと母が一人で店番をやることが多くなるからお酒売るのが嫌だったみたいで。
お店には大工さんや肉体労働系の人や会社員の人、ヒッピー風の髪の毛の長いお兄さんたちも母を慕って来てくれていました。「おかあちゃん、今日50円しかないけど、腹へってるねん」とか言うので、「しょうがない、ほらご飯と卵」とか言って母が出してあげてたんです。色んな人が出入りしてるところにいつもいたので、音楽的な事もその人たちから教わっていました。
−−お客さんから音楽を?
屋敷:うちはお好み焼き屋さん以外にも、8トラのレンタル屋もやってたんです。だから壁中に8トラのカセットがわーっと並べてあって、そこには映画音楽や演歌だとか、ヒット特集、あと小林亜星さんのCM特集とかいっぱいありました。切れたりしても親父はうまくテープ編集をして直しちゃうんですよ。トラックの運転手さんとかがよく借りに来てましたね。そこでも色んな音楽を聞いてました。
2. 綾部太鼓で養われたドラムのグルーヴ
−−では、音楽的なルーツは8トラなんですね?(笑)
屋敷:そうですね。もう少し掘り下げると、小学校一年生の夏に美山町から綾部に引っ越してきて、夏の終りあたりだと思うんですけど、夏祭りをやっていたんです。そこで太鼓の音が聞こえてきて、父親に「あれ何の音?」って聞いたんですよ。「あれは祭り太鼓や。見に行きたいか?」と言われ、神社まで行ったんです。近づいていくと、どんどん音が大きくなるからワクワクするし、見たことないので想像もつかないわけですよ。そこに着いたらすごい大きな音でドンドコやっていて、「うわーこれ何!?」って、それでぶっ飛んだっていうのがまず一つです。で、親父も叩けたので「叩くでー!」ってガンって叩くから、「えー、こんなこと親父が出来るんや、すげー!」って。
−−それは盆踊りの曲ですか?
屋敷:盆踊りとはまた違って、綾部太鼓っていうのがあるんですね。綾部太鼓には大太鼓、小太鼓があって、小太鼓っていうのが譜面で書くと「トントコトントコ」っていうリズムをひたすら叩き、大太鼓はフリースタイルで気持ちをぶつける感じで叩くんです。太鼓の演奏が始まるとみんな太鼓の後ろに並ぶんですね。「僕は小太鼓しかできません」「俺は大太鼓しかできん」みたいな人たちが集まって、どっちも出来る人は行ったり来たりするんですけど、みんなが交代で叩き続けるので終わることがないんですよ。しかもお酒飲んで酔っぱらいながらやってるんです。
−−バンドや楽器を始めたきっかけは何だったんですか?
屋敷:お好み焼き屋さんに来ていたヒッピーの人たちがバンドをやっていたり、車の整備工場の人もドラムやギターをやっていたので、そういった人たちの影響ですね。両親は仕事で相手をしてくれないので、僕はその人たちに面倒見てもらっていたんです。デニムの上下でみんな格好良いんですよ。それまで髪の長い男の人なんて見たことなかったから「変な人たちだな」とか思いましたけど、すごく格好良いし興味がありました。その人たちと付き合ってる女性たちがまた綺麗な人たちで…(笑)。
−−(笑)。そういったヒップな人たちが集まるところだったんですね。
屋敷:親父も8トラを貸したりしてたぐらいだから音楽が好きだったみたいで、グレン・ミラーやベニー・グッドマンとか色んなもの聴きながら「ドラムっていったらこれやで」と教えてくれたんです。僕の勉強机の横にはアート・ブレイキーのポスターが貼ってありました。
−−それは中学生ぐらいですか?
屋敷:そうですね。色々な音楽を聞きながら、そういう若い人たちともワイワイやっていました。それで、ある日親父が若い人たちに「お前らバンドやってるんやったら、市民センターでコンサートでもやったらええやん。ワシがなんかやったるわ」とか言ってコンサートをやったことがあるんですよ。僕はそのとき色々手伝ったりして、初めてヘッドフォンやPAを見たり、バンドの演奏している姿やお客さんが盛り上がっているのを見て感動したのを覚えてますね。で、その当時だと思うんですけど、初めて観たプロのロックバンドはキャロルなんですよ。
−−初めてがキャロルですか。それは強烈ですね。
屋敷:クールスのボーカルだった村山一海さんが綾部出身なんですね。たぶんその縁でキャロルが呼べたんだと思うんですけど、そのときの謳い文句が「キャロルツアー パリー東京ー綾部」(笑)。
−−その謳い文句は面白いですね(笑)。
屋敷:うちのお好み焼き屋でもチケット販売してたんですよ(笑)。市民センターの一階がコンサート会場で、僕はそのとき二階で少林寺拳法を習っていたんです。それで少林寺拳法の稽古をやりながら、一級上の先輩が「今日、キャロルやってるよな」「やってますね」「ちょっとこのまま抜けだそう」って言うので稽古をしているふりをしながらこっそり抜け出して(笑)。下に降りたら、警備の人もチケット売ってる人もキャロルを見たいもんだからみんな中に入っちゃって誰もいなかったんですよ。だからそのまま会場に入れちゃったんです。会場の扉をバンって開けた瞬間、爆音でワーッて飛ばされちゃうんじゃないかと思いましたね。髪の毛が逆立っちゃうみたいな。あれも衝撃でしたね。
−−楽器は最初からドラムをやってらしたんですか?
屋敷:中学生になって、キャロルに影響されてかドラムが欲しいだの、ギターを弾いてみたいだの言い始めたんですけど、ギターの方が先で小学校後期ぐらいからお兄さんのような人に教えてもらってました。当時、僕にはお兄さんみたいな人が10人ぐらいいたんですよ。コード三つしか知らなかったけど、自分で歌詞やメロディーを書いたのを覚えてますね。それをやりながら中学生になって、中学の一学期の中間テストの英語が確か0点だったんです(笑)。で、お母さんが焦っちゃって、「ちょっとこの子英語全然あかんから何とかしてや」って、お兄さんたちにお願いしてくれたんです。その中の一人が洋楽をよく聴いていて、その人からビートルズとかストーンズとか、色んなバンドを教えてもらったんです。その人が英語の家庭教師をやってくれることになるんです。音楽をうまく絡めて英語を教えてくれて、そしたら、期末試験は見事に100点をとったんですよ。
−−音楽も教えてもらいながら英語も教えてもらえるっていい感じですね。
屋敷:そうですよね。その人もたぶん教えながら「この子はただ単に英語をやるぞって言ったら嫌がるんだろうな」と思ったんでしょうね。それで初めてクイーンのファーストのテープをもらって盛り上がったのを覚えてますね。
ちょっと戻って太鼓の話になりますけど、小学校一年生の秋ぐらいのときに、綾部太鼓っていう文化がなくなっちゃいけないということで、保存会をやることになったんです。僕は一期生か二期生ぐらいで、ずっと毎週一回は太鼓の練習をしてました。あの皮を叩いたワクワク感っていうか、なんとも言えない抑揚感が太鼓にはあったんですよ。
−−豪太さんのドラミングには、他の人にないグルーヴがあると思うのですが、そのルーツの一つは太鼓だったんですね。
屋敷:そうですね。絶対あると思いますよ。淡々としたリズムの中に大太鼓のアクセントが「ドン」と入ってくるあの感じは太鼓で養われたんだと思いますね。
3. ミュージシャンになりたい!100万円のドラムセットを携え京都市内へ
−−高校まではバンド活動をやりながら綾部で過ごされたんですね。
屋敷:はい。で、高校のときにブラスバンドを始めたんです。実は中学校の二、三年のときにボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのライブをテレビで観て、「あんなドラムは叩けない・・・」と思ってドラムはやめてたんですけど、「夏にブラスバンドの大会があるから夏の間だけでいいから出てくれないか?」って頼まれて、また始めることになったんです。それでスティックの持ち方とかをちゃんと教わって、みんなに追いつくためにメトロノームを見ながら、そのひと夏、朝の9時から夜の10〜11時ぐらいまで猛特訓ですよ。で、その大会に出て銀賞を取ったんです。それからブラスバンドはずっとやることになるんですけど、ブラスバンドを通じてドラムの基礎を学んだ事は確かですね。
−−ブラスバンドが屋敷さんのドラミングのルーツだったんですね。ドラムセットはいつ頃買われたんですか?
屋敷:確か小学校6年の修学旅行の費用を家のお好み焼き屋でバイトをして自分で出したんですよ。その積み立て金がオーバーして、戻ってきたお金でパールの一番安いドラムセットを買ったんです。そのうちバイトを始めて新しいドラムセットを買ったんですが、KISSが好きだったのでKISSのピーター・クリスと同じモデルのドラムを買ったんですよ。100万ぐらいしたんですけど。
−−えっ!100万?
屋敷:はい。高校の手前ぐらいに実家が田舎でもアップタウンに引っ越して、今度はコーヒーショップをやるんです。そこで二年ぐらい頑張って働いたら買えたんですよ。他にも色んなバイトをやったと思います。結局そのドラムセットを東京にも持っていって、ミュート・ビートとかメロンとか東京で活動するバンドのときのドラムセットは全部それですよ。
−−ちなみにドラムを思いきり叩けるような環境だったんですか?
屋敷:うちの母方の祖母の家が農家なんですよ。それで祖母の家に離れがあって、そこにセットさせてもらって、毛布とかを壁中に張ったりして防音してました。でも一回だけ苦情が来たことがあって、警察の人が来てしまったときに、うちのおばあちゃんが僕と警察の間に立ちはだかって「夜中にやってるわけじゃないんだから、好きにやらせてあげなさいよ!」って僕を守ってくれました。すごいおばあちゃんなんです。ドラムって今もそうだと思うんですけど、練習する場所の確保が大変なんですよね。だからおばあちゃんには本当に大感謝ですよ。それで高校二年生になったときにミュージシャンとしてやりたいからもう高校には行きたくないって言ったんですよ。
−−もうそこで気持ちは決まってたんですね。
屋敷:高校に行くときまではまだ分かんなかったのかな。親にとっても僕にとっても世間的にも高校行くっていうのが普通の流れですから。それが実際に高校に通ってみたら「別に高校来てても・・・」って思っちゃって。ブラスバンドに入ったことによって「二年生もやってみようかな」とも思ったんですけど、このままじゃ嫌だからもう辞めたいって言ったんです。そしたら親父に「高校ぐらいは出てくれ」って言われてとりあえず高校は出たんです。
−−それは自分の未来に対する絶大な自信があったという事なんですか?それとも、あまり深く考えてなかったんですか?(笑)
屋敷:若いときは何も考えてないと思いますよ(笑)。ただ単にミュージシャン=カッコイイ!みたいな。あとは中学生の頃に色んなアーティストのライブを見たからかもしれないですね。京都会館とか大阪のサンケイホールとかで。
−−淡々と話されてますけど、結構熱中してたんじゃないですか?
屋敷:そうですね。熱中してました。
−−その頃はドラムでやっていくっていうことしか見えてなかったんですか?
屋敷:とにかくミュージシャンになりたいとそのときはずっと言っていましたね。そして一年間社会勉強で京都市内に出させてくれということで、京都市内に出るんです。お好み焼き屋さんの頃から一緒だった人が京都市内出身だったので、紹介してもらってダンプの運転手になるんですね。だから初めて乗った車がダンプカーでした(笑)。車は運転しながら音楽が聴けるじゃないですか。それに、僕の中ではドラム=体力も必要だと思っていて、トレーニングも兼ねて肉体労働をやっていたので、全然苦にはならなかったです。
−−その生活は何年間続いたんですか?
屋敷:まず一年間って言ってたんですけど、そんなのあっという間じゃないですか。で、とにかく二年って言って。そこで色んなライブを観たり、バンドになりきれないバンドをやってたわけですよ。でも、やっぱり煮詰まりますよね。僕は黒人音楽やレゲエが好きだったので、グルーヴ的なものと言いますか、もっとノリのいいものをやりたかったんですが、周りでやってる人たちはフュージョンとかプログレとか小難しい感じだったんですよ。そのときに6歳年上の女性と知りあって同棲していたんですが、ある日「あなた、ホントにそういうことをやりたいんだったら絶対数の多い所に行くべきよ。東京に行くしかないんじゃない?」って言われたんです。そんな事考えてもいなかったし、僕にとっては東京に行くなんて、宇宙に行くようなもんですから(笑)。それで肉体労働をしてお金貯めて、東京に二人で行くんですよ。
−−二人で上京されたんですか?
屋敷:はい。駆け落ちみたいなもんですから、当然親は大反対ですよね。今でもよく覚えているんですけど、上京するためにトラックを借りて荷物積み始めたら、親父が連絡もなしに三時間かけて来てくれて、荷物積むのを手伝ってくれたんです。最後は見送ってくれて・・・あれは今でも話すと涙が出そうになりますね。
−−すごくいいお父さんですね。ちなみにその彼女は今は?
屋敷:東京に来て一年ぐらいかな?「頑張ってね」ってひと言言ってすっと去っていきましたね。すごく出来た女性で。
−−じゃあその女性と出会ってなかったら、今日の屋敷豪太はなかった?
屋敷:ないですね。彼女がいたからこそ今の僕があるので本当に感謝してます。
4.藤井フミヤ曰く僕は「音楽の藁しべ長者」
−−東京ライフはどうでしたか?
屋敷:東京ライフはですね、まず知ってる人が誰もいないわけですよ(笑)。でもバイトしないと生きていけないからまた肉体労働とか色んなバイトをしつつ、「Player」のドラムメンバー募集を見ていくつか電話しました。僕はアート・ブレイキーが凄く好きだったので、ああいう土着したリズムを使ってなんかできないかとなんとなく思っていて、「黒人音楽」や「レゲエ」といったものを基準に選んで電話していました。それでオーディションを受けて「じゃあ一緒にやろう」って言ってもらえたんですが、最初に「はい、これ買ってきたから」って普通の銀縁の丸い眼鏡をもらって、次に「髪の毛を切ってくれない?」って言われて五分刈りになって・・・(笑)。そのバンドがルード・フラワーというミュート・ビートの前身のバンドでした。
−−その当時メンバーには誰がいらっしゃったんですか?
屋敷:そのときはこだま和文さんと僕と、そのときのリーダーの松本隆乃っていうメンバーでした。その三人でミュート・ビートを始めようとするんですね。
−−特別な人たちですよね。当時ミュート・ビートみたいな音楽性のバンドを作ろうって集まる仲間っていうのは。
屋敷:そうですよね。しかも、綾部から出てきていきなり、その人たちに巡り会ったっていうのは奇跡ですよね。その頃にピテカントロプスっていうクラブができるんですが、その1〜2 年は僕の中では怒濤の東京ライフでした。とにかく食べていくためにバイトもしないといけないし、ミュート・ビートは週に一回ピテカントロプスでやるみたいな感じでしたね。ピテカントロプスは僕にとって、綾部のお好み焼き屋さん的な場所なんですよ。そこで色んなミュージシャンや、色んな人に会って。
−−「ピテカントロプス」は今や伝説のお店ですよね。京都から出てきて、いきなりそのシーンに飛び込まれたわけですね。
屋敷:いきなりなんですよ。それでミュート・ビートがクロコダイルでライブをやってるときに、メロンのチカちゃんとトシちゃんが見に来るんです。僕が眼鏡で白いシャツかなんかで田舎モン丸出しの純真無垢、いい意味で言うとすごくイノセントなドラマーに見えたみたいで。
−−逆に、すごくファッショナブルに見えたんじゃないですか。
屋敷:その姿をチカちゃんは衝撃的に思ってくれたらしく、それがきっかけでメロンのメンバーとしてもピテカントロプスでやることになるんですよ。
−−なんかトントンいくもんですね(笑)。
屋敷:そうですよね。不思議なもんですよね。藤井フミヤ曰く、僕は藁しべ長者らしいですよ。音楽の藁しべ長者って言われてます(笑)。
−−(笑)。お話を伺っていると、いつも迷いがないように思うのですが。
屋敷:迷いがないとは言えないですけど、行動に移すまでに自分の中で色んな情報とかを構築しているんでしょうね。で、「いこ!」みたいな感じになるんだと思います。
−−その勘が常に今まで冴えてたってことなんですね。
屋敷:勘なのかな? でも、本当に運命なんでしょうね。東京に来て知り合いが一人もいない人がなんでそこにきちゃったのか。そういうのって運命ですよね。
−−東京に出てきたばかりにしては、レゲエとか音楽の話ではメンバーと合うわけですよね。
屋敷:そうですね。洋楽的な知識は割とあったんですよ。ここがまたすごいんですけど、その年、メロンと一緒にいる頃にヒップホップが登場するんですよ。そのときには、藤原ヒロシだとか工藤君とかメロンだとか、ヤン富田さんとかいるわけですよ。
−−ミュート・ビートはどのくらいの期間やっていたんですか?
屋敷:ピテカンでのライブが凄く忙しかったですね。毎週、火曜日や木曜日はミュート・ビート、毎週土曜日はメロンで演奏していたんですが、水曜日は何にもやってないから、水曜日もバンド作っちゃおうってことになって。そのときにヤンさんが入って、ウォーターメロンっていうグループを作るんですよ。
−−もはや箱バンのドラマー状態ですね。その頃にはもうバイトとかしなくても良い感じだったんですか?
屋敷:いやいや、全然そんなことなかったです。ギャラは決してよくなかったと思います。なので、初めて東京に出てきたときの話に戻るんですけど、新宿の不動産屋で部屋探しを担当してくれた子と話してみたら驚いたことに同級生だったんです。綾部の隣町の出身だったんだけど共通の友達もいて、そこからもう二人は親友みたいな感じになって(笑)、それで僕もそこの不動産屋でバイトさせてもらうことになるんです。
−−不動産屋でですか?(笑)
屋敷:なんでかというと肉体労働の仕事は夜遅くなったりとかバンドの練習とかしてるともう肉体的にクタクタになるんですよ。だから、朝とか不動産屋でぼーっとしながらやってる方が楽だったんです。時間も融通ききますしね。でも、たまに「傷だらけの天使」みたいなときもありましたけどね。ストリップ小屋とかポーカー賭博の箱を探したり。アニキとアキラみたいな(笑)。
5. グランドビートは通過地点
−−イギリスへ行かれるきっかけは何だったんですか?
屋敷:イタリアでジャパンフェスティバルみたいなイベントがあって、メロンに声がかかってローマに行くことになるんですよ。そうしているうちにメロンっていう面白いバンドがいるとヨーロッパで評判になって、イギリスでクイーンとかを育てて、当時ヴァージンを担当されていた宇都宮カズさんが「メロンは面白いんじゃないか?」ということで、たぶん日本のバンドで初めて海外レーベルと契約するんです。それでその後ソニージャパンとアルバムを作ることになったので、レコーディングで半年ぐらいロンドンに行くんです。
−−半年って結構長い期間ですよね。
屋敷:レコーディングのプリプロダクションとかやってるうちに半年ぐらい経っちゃうんですよね。あの頃はトレヴァー・ホーンとか、彼が立ち上げたZTTレーベルが全盛期の頃で、僕らはZTTのスタジオに入ってその人たちとレコーディングしてたんです。レコーディングも無事終わり、戻るときに一週間ぐらい休みがあって、僕はニューフォレストっていうところに行ったんです。「不思議の国のアリス」じゃないけど、ニューフォレストは本当に昔のイングランドなんですよね。そこを見た瞬間に、北桑田群の綾部の僕のルーツとガチッと合ったんです。その後、日本に戻ってきてプロモーションとかをやったりしたんですけど、イギリスって頭の中で固まっちゃって、僕の心は日本にあらずなんですよね。半年ぐらいは日本にいたんですけど、なんだかぼーっとしちゃって、「ダメだこりゃ」と思って。
−−イギリスに行きたくなっちゃったんですね。
屋敷:東京に出てきたときの6歳上の彼女が言っていた絶対数っていう意味では、やっぱりイギリスだろって思いましたね。ロンドンだろって。アメリカはでかいしニューヨークはちょっと怖い。ピストル持ってみんなバンバン撃つから身の危険を感じるんですよ。でも、イギリスってお巡りさんが拳銃持ってなかったりとか、あと、自分の音楽ルーツを色々たどっていくと、ビートルズやピンク・フロイド、ディープパープル、ストーンズとか、アメリカのアーティストだと思ってた人たちが全部イギリス人だったので(笑)。田舎にいるとその辺が分かんないわけですよね。外人さん=アメリカ人、黒人さん=アフリカ人みたいなね(笑)。
−−(笑)。イギリスには知り合いがいらっしゃったんですか?
屋敷:来日したことがあるDJがいて、そういった人たちを何人か知っていました。一番よく知っていたのがネリー・フーパーなんですよ。それでメロンとミュート・ビートのみんなに「一年だけ勉強に行きたいから辞めさせてくれ。ごめん」って言って、ロンドンに行っちゃうんです。
−−簡単にバンドを辞めさせてもらえましたか?
屋敷:それがですね・・・(苦笑)、ミュート・ビートは僕がメロンをやってる間に盛り上がってきてたわけです。ちょうどコンビニのコマーシャルのスポットも決まって。たぶんミュート・ビートが日本で初めて本格的にレゲエやダブをやっていたバンドということもあって、最初は誰も知らなかったんですけど、それがだんだん認知されてきて、ついにオーバーヒートというレコードレーベルからリリースっていうときだったんです。
−−まさにこれからっていうときですよね。
屋敷:タイミング的に最悪ですよね(笑)。でも、こだまさんにもいつも言うんですけど、ミュート・ビートって一回のライブで燃え尽きるというか、音楽の楽しみ方の深さがちょっとジャズに似ているところがあって、決まり事がないわけですよ。期間を限定してやることはできたんですけど、メジャーデビューになっちゃうと僕としては違ったんですね。そのときすでに僕の頭はイギリスになっちゃってるし、ピテカントロプスが始まった時点でメロンとミュート・ビートを掛け持ちしてるわけですよね。で、僕はロンドンにレコーディングで半年も行ってしまってるとか、ミュート・ビートの連中からしてみれば「あいつなんだよ」ってことになってるわけですよ。そのへんはずっと昔からしがらみみたいになってたから、ここではっきりしたほうがいいんじゃないかっていうのもありました。ミュート・ビートはその後メジャーになってガッといっちゃうわけですが、そうやって顰蹙(ひんしゅく)を買って、後ろから刺されても不思議じゃないくらいな感じでロンドン行ったんですよ。
−−イギリスへは言葉のこととか全く気にせず行っちゃったんですか?
屋敷:このままじゃどうしようもないと思ったんでしょうね。自分でこのまま悶々として一生過ごすか、ロンドンに行って当たって砕けるか。駄目だったら駄目で納得できると思って。
−−先ほどネリー・フーパーの名前が出てきましたが、どうやって知り合ったんですか?
屋敷:ネリーとは東京で何回かDJしてるところを見に行って知り合いました。当時ヒップホップはアメリカでは流行ってたんですけど、イギリスではあまり知られてなかったんですよ。メロンで85年ぐらいにイギリスへ行ったときも向こうで知ってる人が少なかったから、僕が全身アディダスの黒に赤の3本線が入ったジャージにスーパースターの靴を履いて、髪はドレッドでKANGOLの帽子かぶって歩いてたら、まわりから「どこで買ったの?」ってよく聞かれました(笑)。そういう格好でいたから、ワイルドバンチというネリーたちのヒップホップグループとも友達になれたんですよね。
−−その繋がりでソウル トゥー ソウルのセッションに呼ばれたわけですか。
屋敷:そうですね。とにかくネリーに電話して、「ネリーさ、俺ロンドン来ちゃって、なんかできることあったら…」みたいな。電話だけでは僕の意志が伝わらないからカフェで待ち合わせしたんです。そこに行くのも大変だったんですけど、ネリーはよくメロンのレコーディングしてるときも来てたんで、僕が何をやる人かってよく知ってたんですよ。なので「じゃあGOTA さ、今ソウル トゥー ソウルのレコーディングやってるんだけど、ちょっと手伝ってくれる?」って言われて。
−−僕が豪太さんを知るようになるのはソウル トゥー ソウルのビートでした。特別なビートだったじゃないですか、グランドビート。
屋敷:でも、それはこれまでの通過地点じゃないですかね。グランドビートの元はミュート・ビートから始まってるかもしれないし、メロンで打ち込みに出会って、ヒップホップに出会って、アート・ブレーキーとかレゲエとかブラジルのものもあったりして、その通過地点の中の一つにグランドビートがあったと思うんですよ。
−−日本人っていうのはリズム感が悪いとか、グルーヴがないと言われてた人種なので、このグルーヴを日本人が作ったのかという驚きがあったんですよ。
屋敷:でも、僕だけが作ったわけじゃなくて、ネリーとかみんなで作ったものだと思っています。
−−実際にはあれは人力と機械の融合ですか?
屋敷:融合ですね。メロンのときからそうだったんですけど、ミュート・ビートって言ってみればアナログな感じじゃないですか。で、メロンはわりと打ち込み系でデジタルな感じで、それぞれをやっていたからこそ一緒になったら可能性は無限大だと思ったんですね。
−−ロンドンにもそういうデジタルもアナログも両方やっているミュージシャンがいたと思うんですけども。
屋敷:そうですね。トレヴァー・ホーンとか、ZTTレーベルの人たちはやってたと思うんですけど、タイプの違いがあったと思うんですよ。わりと僕はオーガニックというか。空気の揺れっていうのが本当のグルーヴ感だと思うので、音を録るときにその音自体に空気感が伝わったのが良かったんだと思います。
−−世界的にヒットしたアルバムができたときには、メンバー自身もすごくいい気分だったんじゃないですか?
屋敷:そうですね。なぜか売れたものって作るときにはほとんど苦労しないんですね。楽しいんですよ。いいねいいねーって(笑)。ファースト・アルバムの『Keep on Movin’』に入ってる『Back To Life』という曲のグランドビートがそのときの頂点だったと思うんですけど、その頃はあまりお金がないから、日曜日のダウンタイム、誰もスタジオ使わないような時間あるじゃないですか? そこを狙ってネリーがスタジオに電話して、まず「明日誰かブッキングしてるの?」って聞くんですよ。それで誰も入ってないときは、本当だったら20万ぐらいするところを「じゃあさ、3〜4万で貸してくれない?」って言って朝までやっちゃうみたいな(笑)。もう最悪な客ですよね。
6. この人こそ本物のプロデューサーだ〜スチュワート・レヴィンとの出会い
−−『Keep on Movin’』のヒットからシンプリー・レッドに繋がっていくんですかね?
屋敷:そうですね。ネリーがやってるものは全てナンバーワンになってた頃なんです。そうしてるうちにシニード・オコナーにプロデュースを頼まれて、『Nothing Compares 2 U』の演奏を僕が担当するんですよ。それがまたヒットしちゃって。
−−演奏っていうのはドラムだけじゃなくて?
屋敷:他も全部。ストリングスもピアノも全部打ち込みなんですよ。
−−打ち込みはいつ頃からできるようになったんですか?
屋敷:打ち込みはメロンのときに鍛えられて。あのころはMIDIもなかったので。それこそ佐久間正英さんとかとも話が盛り上がりますけどね。CVゲートがあの頃のタイミングは揺れてねぇ・・・みたいな(笑)。佐久間さんのインタビュー(Musicman’s RELAY 第6回)を読んでいて、「1000分の1のタイミングがわかる」というところがありましたけど、やっぱわかるんですよね。ソウル トゥー ソウルのグランドビートとか、そのずらし方でけっこう楽しめた。それがわからないと楽しめないと思うんですよね。
−−1000分の1がわかる男たちの作業だったんですね(笑)。
屋敷:シニード・オコナーも売れちゃって、そのときにほとんど平行してティム・シメノンのボムザベースもやりました。そのリミックスを頼まれたのが本チャンになって、馬鹿受けしたのが『クレイジー』ってシール曲です。
−−ロンドンに行ったら急にバイトから解放されましたね。
屋敷:そうでもないんですよ。ソウル トゥー ソウルをやってる頃なんか、そんなに楽ではなかったです。僕はプロデューサーとしての名前をもらってないのと、演奏とか全部してたにも関わらず、今で言う演奏者印税しかもらえないので。シニード・オコナーのギャラとかは確か5〜6万だったと思います。あの頃を乗り切れたのはメロンをやってたときの事務所の人たちのおかげですね。あとはEPICの丸山茂雄さん(現 に・よん・なな・みゅーじっく代表取締役)のおかげです。「勉強したいのがいるんだったら応援してやれ」って。
−−名前が出るまではそういうもんですよね(笑)。
屋敷:そうですね(笑)。売れてくると有名なプロデューサーの人たちは誰がそれをやってるかっていうのがやっぱり気になりますよね。で、ラジオ局の人たちパブリッシャーの人たち、評論家の人たちが僕の名前を知り始めるわけです。その頃プロデューサーのスチュワート・レヴィンがロンドンでいろんな仕事をしていて、「最近おもしろいことやってるやつって誰?」ってラジオDJやレコード会社のA&Rとかに聞いたりして、3人ずつぐらい名前をあげてもらったら全員から僕の名前が出たそうなんですよ。それで「君の名前が全員から出たから一緒に仕事がしたい」と。
−−その彼がシンプリー・レッドのプロデューサーだったんですか?
屋敷:そうです。シンプリー・レッドのプロデューサーで、他にはスライ&ザ・ファミリーストーンやクルセーダーズ、ランディー・クロフォード、B.B.キングもやってるし、『WHEN WE WERE KINGS』っていうモハメド・アリがアフリカにいく映画がありますよね。あの総括プロデュースもやってたんですよ。
−−スチュワート・レヴィンの第一印象はどんな感じでしたか?
屋敷:スチュワートに初めて会ったときに、この人は本当にすごい人だな、この人こそ本物のプロデューサーだなって思ったんですね。ちょうどその頃、僕の親父がガンで余命何ヶ月っていうときだったんですよ。で、そういう話を彼にしたりすると、人生についてもいろいろ話をしてくれたりしました。演奏するときにあたっての心遣いや心構え、あと雰囲気作り。やっぱりミュージシャンってそういうのに左右されちゃうじゃないですか。そういう大切なことをたくさん学びましたね。僕のやってることもすごく気に入ってくれて、「今度シンプリー・レッドの4枚目のアルバムをやるんだけど、手伝ってくれないか?」と頼まれました。でもバンドだしドラマーもいるわけだから、何をしていいのかわかんないですよね。そうしたら「グルーヴのアドバイザーとしてきてくれ」と言われたことからシンプリー・レッドに参加することになりました。
−−すごいですね。世界的な有名バンドにアドバイザーとしていくわけですから。
屋敷:そうですね。しかもグルーヴがどうのこうの言われてる人種がアドバイザーとして行くっていう(笑)。
−−快挙ですよね。元のドラマーはどうなったんですか?
屋敷:まずパリのスタジオに行くんですよ。ちょうど湾岸戦争が始まったときです。そこにはメンバーみんながいて、バンドリーダーのミックが「とにかくなんでもいいからアイディアとして何を持ってるか見せてくれよ」って言われました。でも、僕の横にはドラマーがいて、僕としてはすごく気を遣いますよね。だから「どう・・・?」みたいな。
−−かなり気後れしそうな場面ですよね。
屋敷:そうですよね。でも、そのとき僕は打ち込みをやる人だと思われていて、彼らは僕がドラムを叩けるって知らないんですよ。で、彼らから要望が出されるので、みんなが他のことやってる間にばーっと打ち込んでラフスケッチを作るんですね。「はい、この曲はだいたいできました」みたいな。今から考えたら打ち込むのが早かったんでしょうね。
−−日本人器用みたいな感じですね。
屋敷:メガネかけてるしね(笑)。なんかインテリな感じがしたんでしょうね。まさか高卒とは思ってない(笑)。ソウル トゥー ソウルはレコーディングだけだったから、いわゆるスーパースターたちの暮らしぶりっていうのは見たことなかったんですよ。で、初めてシンプリー・レッドでロックスターの生活を見て、赤いカーペットは敷いてないけど、敷いてあるように見えるし、花はいつもあるし、煌びやかに見えましたね。
7.シンプリー・レッドのドラマーとしてワールドツアーに参加
−−では、スタジオの環境もよかったんじゃないですか?
屋敷:新しいスタジオだったんですけど、打ち込みをやるにもあの頃はハードディスクじゃなくてフロッピーとかそんな感じなんですよね。だからセーブしないと電源消えたら終わりなわけじゃないですか? でも、作業をやっていると「バン!」と消えるわけですよ。いきなり真っ暗っていうか真っ白に。「しょうがない。またやり直しだ」って言って、できた頃にまた「バン」って消えて・・・。それで「これじゃあレコーディングが進まないよね」って話になりました。ミックたちはニュースで湾岸戦争の映像を観てて、「なんかここ(スタジオ)も戦争してるみたいな感じになってきたね」って言ってましたね。停電したりすると「空襲だー」みたいな感じでしたから。実はただスタジオが新しすぎてキッチンとスタジオの電源が一緒だっただけなんです(笑)。でも、僕らが泊まっていたホテルはすごく良いホテルだったんですが、その向いは「イラクエアライン」や「クウェートバンク」とかアラブ系の企業ばかりあるところだったんです。その後、近所にある新聞社が爆破されるんですよ。
−−近くで爆破騒ぎですか・・・すごい状況ですね。
屋敷:当時のパリは騒然としていました。僕らはそんなところでレコーディングしていたわけです。それで、せっかくみんなで楽しい音楽を作っているのに、こんな戦争のような状況だとレコーディングを進めるのは無理だろうという話になったんです。本当はずっとそこでレコーディングする予定だったんですが一回止めて、スチュワートとミックが違うスタジオを探しにイタリアへ飛んで、探してきたのが「コンドルマ」というヴェニスのそばにあるスタジオだったんですね。
−−ヴェニスにスタジオがあるんですか?
屋敷:ええ。ヴェニスの街の一画にあるんです。そのスタジオは、映画「ゴッドファーザー」に出てくるような由緒あるホテルのオーナーの息子が道楽でやってるスタジオなんです。それで二人はすごいいい顔をして帰ってきて「いいとこあったんだよ」って。
−−そのヴェニスのスタジオにメンバー全員で行かれたんですね。
屋敷:それがイタリアに着いたらドラマーがいないんですよ。で、「どうしたの?」って聞いたら「今はゴウタが打ち込みとかでやってくれてるからドラムは必要になったら呼ぶから」って言ってて。でもその前にロンドンにいたときに、スチュワートから電話で「GOTAのフェイバリットなハイハットあったら持ってきてくれる?」っていうメッセージがあったんですよ。
−−その頃は豪太さんがドラム叩けることをメンバーは知ってるんですか?
屋敷:知らないです。スチュワートだけが少し知ってました。でもその頃はドラムセットなんか持っていってないし、KISSのドラムセットはミュート・ビートの後釜が叩いてるし(笑)。しょうがないから楽器屋へ行って「ハイハットはこれが好きだったなー」とかスティック持って買いに行ったのを覚えてます。
−−レコーディングの中でドラムを叩くことになったのはいつ頃からなんですか?
屋敷:夕飯を食べたあとイタリアは酒を飲みますよね。どうしてもワインから始まりグラッパで終わっちゃうみたいな。ある日僕も結構うち解けたから酔っぱらっちゃったんですよ。そのままみんなスタジオに戻ってきて、普通だったらビリヤードとかやるんだけど、その日はドラムセットが置いてあって、 ピアノもギターもあって。みんな酔っぱらってたから、ドラムやギターを誰からともなくやり始めたんです。やってるうちに自然と順番が回ってきて僕がドラムを叩く番になるわけですよ。ミックや 事務所のマネージャーとかもいて酒飲んでて笑ってるんですけど、僕がドラムを演奏はじめた途端にみんなマジにやり始めちゃって(笑)。
−−(笑)。その日を境にメンバーになるんですね。
屋敷:それであくる日から方式がだんだん変わりまして、打ち込みでいける曲とこれはライブだろうという曲がありますよね。「今日この曲やるんだけど、これは打ち込みっていうより生っぽいんだよ。一回ちょっとドラムを生っぽく打ち込んでくれないか?」と言われたので「ハイ」と打ち込むと、ミックとスチュアートが「GOTA、悪いけどハイハットやってくれ」って言ったきりコントロールルームに行ってしまって、いいとか悪いとか言ってくれないので不安になっていると「いや、すごくよかったから今度はシンバルも叩いてくれ」って言われて。そしたらまた「シーン」としてるわけですよ。「それもすごくよかったから今度はあのスネアとタムも一緒にやってくれ。バスドラはいいから」って。気がついたらキット全部叩いてました(笑)。それが何曲か続いて、毎晩毎晩飲みも話も深くなって、バンドとしてすごく固まってきちゃうわけですよ。ドラマーは相変わらず呼ばれないし。
そこがまぁターニングポイントだったんですけど、結局は彼(前のドラム)は昔から友達だったんだけど、新しいこととか自分のアプローチとかをしていかないし、今の状況に甘んじて管理職みたいになっちゃったから友達としてもよくないと思うのでクビにしますっていうことになったんです。ミックは悪者と呼ばれようがなんと呼ばれようが、とにかく音楽に対してのことしか信じないというか、音楽が命だから「このアルバムで今こういうサウンドが出来てきているのにGOTAを手放すことはもう不可能だ。だからバンドに入ってくれないか? ツアーを一緒にまわってくれ。で、返事は?」ってすぐに答えを求められて(笑)。その場では「僕も自分で会社を作ったし、プロダクションも作って色々やってるし。1日くれないか。考えさせてくれ。」と答えましたが、1日そのときの会社のパートナーと話をして、僕はこのアルバムは直感で絶対売れると思ったし、メンバーと過ごしてすごい楽しかったからいいツアーになることはもう見えてたのでその話を受けたんですよ。
−−断る理由はないですね。
屋敷:ないですね。しかも僕なんか田舎モンの日本人で、ワールドツアーなんて夢のまた夢じゃないですか。これこそ日本代表としてやりたいと思いましたね。
−−すごい経験ですよね。世界中行きましたか?
屋敷:はい。それでツアーを通じてミックやメンバーともより親密になれたんです。その後、シンプリー・レッドのアルバムを作るにあたって、ミュージシャンとしてではなくプロデューサーとして参加したり、ミックとプロダクションチームを作ったりしました。
8.海外での経験を日本で生かしていきたい
−−海外で素晴らしいキャリアを積まれていたのに、東京に戻ってらっしゃったのがまた意外でした。再び日本で活動を始められたのはなぜなんですか?
屋敷:日本人のミュージシャンで外国で演奏してバンドに入ってる人はいても、プロデューサーとして一緒にやったという人はいないと思うんですよ。イギリスでプロデューサーとして活動している中で、日本のアーティストに対してもっとこうすればいいのにと思うことが僕の中にいっぱいあったんですね。僕はプロデュースにおいても会社経営においても、向こうでやってたノウハウもありますし、日本で僕にもできることがもっとあるんじゃないかって思い始めたんです。ここ5〜6年ぐらい日本にちょこちょこ帰ってくるようになって、藤井フミヤの仕事とか他の仕事とかやるようになっていろんな日本を見ました。英語の歌詞も好きだけど、やっぱり日本の侘び寂の世界だったり、日本の情緒や詩的なこととか、映画とか向こうの英語の良いところも含めて日本でやりたいなと思ったんです。で、家族をロンドンに置いてきちゃったんです。
−−ご家族は向こうにいらっしゃるんですか?
屋敷:ええ。
−−向こうの方とご結婚なさった?
屋敷:いや、東京から一緒に行きました。ロンドンに住むんだったら籍入れた方がいいんじゃないってかみさんの両親に言われ、そうですねって。
−−家族ということはお子さんもいらっしゃる?
屋敷:はい。子供は二人いて、向こうで産まれて向こうで育ったという。
−−では現在、豪太さんは単身赴任中なんですね(笑)。
屋敷:逆単身赴任と言われてますけど(笑)。
−−ということは、いずれロンドンに戻ってまた何かするという可能性も・・・?
屋敷:あるかもしれないですよね。今のところ僕は何も見えてないですけど。でも今はきくちさんとか建さんとかあとフミヤとかいろんな人たちに助けてもらっています。フミヤとはもう20年以上の付き合いなんですが、彼から色々な人を紹介してもらって広がって行ったりとか、スガシカオくんと出会って、一緒にバンドをやったりとか。
−−NHKで一緒にやられたコクアですね。
屋敷:そうです。武部さんもこのリレーでインタビューされてましたけど、武部さんとバンド組んでるんです。まだ3曲しかレコーディングしてないバンドなんですけどね(笑)。まぁそういう風にもっといろんな面白いことができるんじゃないかと考えています。自分のソロアルバムも作りたいですしね。今は携帯もインターネットもあるし、世の中どこにいても同じっちゃ同じじゃないですか。だったらやっぱりおいしい日本食食べながらやりたいなと(笑)。
−−(笑)。では、我こそはっていう人は名乗りを上げて欲しいと。
屋敷:そうですね。
−−日本の音楽シーンもレベルがずいぶん上がってますよね。
屋敷:そこが面白いと思うんですよ。ひと昔前はどちらかっていうと僕みたいに洋楽かぶれな感じでしたけど(苦笑)、今はオリジナリティーがすごく出てきてると思うんです。日本語の歌詞の乗せ方とかやっぱりすごく面白くなってますしね。昔も例えば、はっぴぃえんどとかオリジナリティーのあるバンドが色々あったんですけど、そのオリジナリティーがまた出てきていると思うんです。そういう若い子たちと色々できると面白いなって思ってます。
−−僕としては豪太さんがまた日本に戻ってきたっていうのがすごく嬉しいですけどね。
屋敷:僕にとっては自然な流れで東京に戻ってきたというつもりなんですけどね。このインタビューもそうですけど、これからも色々な方たちとお話したいですし、何か一緒に出来ることがあればと思います。
−−これからも豪太さんのご活躍を楽しみにしています。本日はお忙しい中ありがとうございました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
屋敷豪太さんは、世界的なミュージシャンであるにもかかわらず、とても気さくでユニークな方でした。「実家が自営業だったからサービス精神がある」とおっしゃっていましたが、実はたくさんの苦労をしてこられたこともインタビューでお聞きすることができました。このさらっとした前向きな人柄だからこそ、これほどの成功を収めることができたのではないかと思います。現在はアーティストとして、また、プロデューサーとして新たな楽曲、そして、渡部篤郎氏初監督の音楽等を制作中!しかも、ミュート・ビートの一夜限りの再結成も決定し(4月2日恵比寿リキッドルーム)、更なるご活躍が期待される屋敷さんに今後も注目です!