第71回 加藤 和彦 氏 プロデューサー/ミュージシャン
プロデューサー/ミュージシャン
今回の「Musicman’s RELAY」は上原徹さんからのご紹介で、プロデューサー/アーティスト 加藤和彦さんのご登場です。大学時代にザ・フォーク・クルセダーズを結成し自主制作アルバム『ハレンチ』を制作し、収録曲「帰って来たヨッパライ」の斬新さにリクエストが殺到。全レコード会社からプロデビューのオファーを受け、1年間限定でデビュー。フォークル解散後にロンドンポップに影響を受けサディスティック・ミカ・バンドを結成。名盤『黒船』をリリース後にロキシー・ミュージックと共にイギリス・ツアーを行いロンドンで話題に。その後もプロデューサーとして竹内まりやなど多くのアーティストへ楽曲を提供しながらヨーロッパ三部作と呼ばれる自らのアルバムも制作。2006年には木村カエラを迎えミカバンドを再結成し、今秋には小原礼、屋敷豪太、土屋昌巳、ANZAとのバンドを結成するなど現在もシーンの第一線で活躍される加藤さんにお話をうかがいました。
プロフィール
加藤 和彦(かとう・かずひこ)
プロデューサー/アーティスト
’47年生 京都府出身。
大学時代に『メンズ・クラブ』でメンバーを募集し、ザ・フォーク・クルセダーズを結成する。自主制作アルバムに収録されていた「帰って来たヨッパライ」のリクエストがラジオ局に殺到し、’67年に1年間限定でプロデビューをはたす。同楽曲が史上初のミリオンヒットとなるが’68年に解散しソロ活動を開始。解散後に訪れたイギリスで、ロンドンポップに影響を受け’72年にサディスティック・ミカ・バンドを結成。’88年に制作されたセカンドアルバム「黒船」は超名盤となった。’75年にミカバンドを解散後は、ソロアーティスト/プロデューサーとして多くのアーティストに楽曲を提供。この時期に「ヨーロッパ三部作」を制作。2006年には木村カエラを迎えサディスティック・ミカ・バンドを再結成する。現在もユニットやバンドを結成し第一線で活躍している。
1.中学時代は銀座が遊び場〜プラモデル好きだった少年時代
--前回ご登場いただいたフジパシフィック音楽出版の上原さんとのご関係は?
加藤:フジパシフィックは「帰って来たヨッパライ」と設立が一緒ぐらいで、一番縁のある出版社なんですよ。上原さんとはサディスティック・ミカ・バンドの再結成のときに出版がフジパシフィックだったこともあって知り合いました。
フジパシフィックとは「アーティストと出版社」という関係ではあるけども、個人的な繋がりの方が強いです。最近はそういうのが消えてきてるから寂しいんだけどね。アーティストは売れるときもあれば売れないときもあるし、賭っていうのもおかしいけどそういうものに近いから、アーティストをいい意味で遊ばせておくというか、そういう自由度が昔の出版社には比較的あったんですよ。僕とフジパシフィックの関係がまさにそれでね。フォークルの成り立ちがアマチュアからの横滑りみたいなものなので、ずっと自由さは大切にしていたしね。そういった観点からいうとフジパシっていうのは一番自由さをもった出版社ですよね。でも今はCD自体の数が動かなくなってるから、全体的な風潮としてはあまり遊ばせてはくれない(笑)。
--(笑)。確かに昔はもう少し自由な雰囲気がありましたよね。
加藤:でも、音楽ってそういう部分がないと、みんな同じようなものになっちゃうか、商品みたいな感じなっちゃって、面白い人は出てこないんじゃないかな? どこまでが商売でどこまでが商売じゃないかって考えちゃうと難しいですけどね。
--ここからは加藤さんご自身のことについていろいろお伺いしたいんですけども、ご出身は京都でらっしゃいますよね。
加藤:生まれたのは京都なんですけど、家の関係で鎌倉へ行ったり、東京へ行ったりとローテーションが激しくて小学校の3年ぐらいまでしか京都にいなかったんじゃないかな。あとは東京なんですよ。
--ずっと京都の方ってイメージがあったんですけど。
加藤:京都から出てきたからね。一般的に外に出してるプロフィールには京都出身って書いてあるから。それで大学の時にまた京都に引っ越して、引っ越しが多くて友達もいなかったから雑誌に広告を出してフォークルのメンバーを募集したという例の話になるわけです。
--音楽誌じゃなくて「メンズクラブ」に募集を出されたんですね。
加藤:その頃の音楽誌ってろくなのないじゃない(笑)。まだ「メンズクラブ」の方が信用性あったから。
--ご家庭の環境はどのような感じだったんですか?
加藤:父は普通の会社員だから普通の家ですよ。特殊な家というわけでもないし、特別な音楽環境で育ったわけでもないんですけどね。
--では小中高校時代は音楽と全く関係なく過ごされていたんですか。
加藤:全然音楽と関係ないですね。高校の2〜3年ぐらいになると、アメリカの本当のフォークソングが入ってきたんですよ。それでアマチュアのマイク真木とか森山良子ちゃんがやってたライブを高校生のときに見に行って自分もやってみたいなと心から思ったんだけど、まだやってるわけじゃないし。ギターはなぜか家にあったのでちょこちょこと弾いてはいたんですけどね。それで京都に戻ったときにやりたくなってメンバーを集めたんですよ。
--中学、高校時代はどのように過ごされていたんですか?
加藤:友達がいないから一人でできるようなプラモデルとかそういう遊びをよくしてました。中学が銀座の方だったから帰りに天賞堂で模型の機関車とかをぶらぶら見たりして。だからちゃんと音楽をやったのはフォークルを作ってからですよね。京都は東京のフォークのアーティストとは違って、同じアメリカのコピーをするにしてもちょっと違った人たちが多かったんですよ。やっぱり京都人っていい意味で屈折してるんで(笑)。
2.あの名曲はこうして出来上がった
--いよいよザ・フォーク・クルセダーズのデビューに至るわけですが、きっかけとなった「帰って来たヨッパライ」はどのようにして出来上がったんですか?
加藤:あれは結果なんですよ。大学のときにアマチュアでやってたんだけど、北山(修)は医大だし、他のメンバーも家を継ぐとかで解散することになるんですが、このまま辞めちゃうのもつまらないので記念に自費出版のレコードを作ることになったんですよ。その頃に僕と松山猛が京都で知り合って一緒に曲を作ってたんですね。その中に「帰って来たヨッパライ」のベーシックなものがあって、アルバムに入れる曲も足りないし、それを入れようということになったんだけど、普通に歌ってもつまらないから声を変えることを思いついたんですね。それで北山の妹さんが英語練習用に使ってたアナログテープレコーダーでテープを倍速にしたり色々やってたんですけど、なかなか可愛い声にならなくてね。そうやって録音したテープをスタジオに持って行ってダビングしたりしてるんですよ。だから宅録の元祖みたいな感じですよね。
--確かに元祖ですよね。初めて聞いたときはビックリしました。
加藤:それで「帰って来たヨッパライ」と「イムジン河」を入れた『ハレンチ』ってアルバムを250枚作って、それを友達に売ったり、アマチュアでも放送局なんかと繋がりがあったので渡してきたら面白がってラジオでかけてくれて。そうしたらリクエストがいっぱいきて、それを嗅ぎ付けた全レコード会社が窓口だった北山のところに来たわけですよ。その頃のレコード会社って5社ぐらいしかないから(笑)。
丁度その時って学園紛争まっさかりだから、学校に行っても閉まってるんですよ。北山の大学も閉まってて、1年行かなくても単位をもらえることになったんですね。それで北山に「1年空いちゃったからやろうよ」と誘われたんです。
--1年限定というのはそこからきてたんですね。
加藤:僕もそれほど先が決まってたわけじゃないし、面白いからやろうかということになったんだけど、僕と北山以外のメンバーは家のことやらなくちゃいけなくて、それではしだのりひこ君に急遽入ってもらって始めたんですよ。だから全部偶然が重なってるというかね。
--なぜ東芝EMI(現 EMIミュージック・ジャパン)に所属されたんですか?
加藤:東芝はフジパシフィック経由なんですけども、当時フジパシフィックの社長だった高崎一郎さんと、東芝でビートルズのディレクターとして有名だった高島弘之さんから「ウチにはビートルズがいる」とか、究極は「ウチは赤い絨毯がひいてある」とか色んなことで誘われてね(笑)。ただ東芝EMIって名前が好きじゃなくて、あそこはキャピトルを持ってたので「キャピトルが使えるならいい」って言ったら「いいよ」って話になって。
--「イムジン川」は発売中止だったんですよね。
加藤:中止というか自主規制ですよね。
--そのときは辛い気分にならなかったんですか?
加藤:いや、曲が曲なんで「ああそうですか」って。歌っちゃいけないわけじゃないし、レコードが出せないだけなんでね。レコードが出せなかった本当の理由というのは、その当時は北朝鮮が正式国名として認められてなかったんですが、朝鮮総連が国名も明記しろと言ってきたんですよ。それはまずいというので東芝が自主規制をしたんです。
--あれだけの名曲が出せないのは悔しいですよね。
加藤:だけどそのおかげで「悲しくてやりきれない」ができたからね。よく言われてる「イムジン河」のメロデューを逆からたどったっていうのは嘘で、「イムジン河」が発売中止になったときにフジパシフィックの会長室に呼ばれて、「じゃあ加藤君、3時間あげるから次の曲を今作りなさい。」って言われたんですよ(笑)。
--(笑)。
加藤:そのときのフジパシには会長の石田達郎さんっていう名物お父さんがいてですね、「ギター持ってこさせてやるよ」って僕のギターをホテルから持ってきて、「鍵かけとくから」って3時間缶詰(笑)。しょうがないから適当に遊んで最後の2〜30分ぐらいで曲を作ってカセットに吹き込んだんですよ。そしたら本当に3時間して「できたか?」って戻ってきたから「できました」ってカセットを渡したら、曲も聴かずにサトウハチロー先生の四谷のお宅に連れて行かれてね(笑)。でも、そこでも曲を聴かないんだよね。それから一週間ぐらいして「詞がきたよ」って見たら「悲しくてやりきれない」っていうタイトルだったから「えー!」って思いましたよ。でも歌ってみるとすごいピタっとはまってて、さすがに巨匠は違うなという感じでした。
--みなさんが加藤さんの才能を高く評価してたから曲も聴かずに行こうということだったんですかね。
加藤:(笑)。そうなのかな?そこらへんはどうなのかわからないけど。
--フォークルの活動中はどんな生活でしたか?
加藤:実質 8ヶ月間ぐらいしかやってないんだけど、その間は地方でコンサートをいっぱいやって、帰ってきてからもテレビに出て、ラジオをやって、レコーディングをして、また地方に行ったりしてたのでほとんど家にいないというか、ホテル暮らしみたいなもんですね。その中で一枚だけ『紀元貮阡年』というプロとしての最初のアルバムを作るんです。その頃は4チャンから8チャンになったぐらいだから色んな技を駆使しないとアルバムができなかったんだけど、もともと録音とか実験的なことが好きだったからそのアルバムでだいぶ色んなことをやってますね。
--それは東芝のスタジオで録ったんですか?
加藤:その頃はニッポン放送のスタジオを使ってましたね。東芝のスタジオだと今みたいにスタジオをずっと押さえておくことができないんですよ。でも、ニッポン放送のスタジオだといっぱい使えたんでね。
3.ロンドンポップに影響を受けサディスティック・ミカ・バンドを結成
--実質8ヶ月間でフォークルを解散した後はすぐにソロ活動に移られたんですか?
加藤:いや、その頃は音楽をずっとやっていこうとは思ってないんですよ。そもそも正規な音楽教育受けてるわけじゃないし、そのときはウケてるけど「そんなのは偶然だろう」ぐらいにしか思ってないから(笑)。で、やめた後はブラブラして、20歳ちょっとの若者にしては分不相応な印税が入ってきたから、それで初めてアメリカに行ったんですよね。その頃は情報がほとんどないから、僕なんかが想像してるアメリカとは違ってて、’68年ぐらいですからヒッピーが一大ムーブメントで、一ヶ月ぐらいして帰ってきたらそれに染まってたんですよ。
それで、今度はパリとかローマとかヨーロッパの方に行ったんですけど、イギリスに行ったときに、前からなんとなくイギリス的なものは好きだったんですけど、空港に降りた途端「ここが僕の街だ!」みたいな感覚があってね。アメリカのヒッピーとは違ったロンドンポップっていうね。グラムロックのちょっと手前ぐらいのときで音楽シーンの黄金時代ですよ。それでロンドンが好きになって足繁く行くようになったんです。
--他の街に行ったときとロンドンに行ったときとは全然インパクトが違ったんですか?
加藤:うん。なぜかと言われても困るんだけど、なんかこう、全てが肌に合うというかね。その間にソロのアルバムは2枚作ってるんですけど、ロンドンでグラムとか色んなグループを観てたらロックバンドを作りたくなってミカバンドを始めた、と。
--ミカバンドのメンバーはどのようにして集まったんですか?
加藤:最初のメンバーは僕の2枚のソロを手伝ってくれたつのだ☆ひろと、なぜか成毛滋と仲良くて、勝ち抜きなんとが合戦みたいのを一緒に観に行ったら、それに高中(正義)が出てたんですよ。あいつ学生服を着てアルヴィン・リーとか弾いててね(笑)。
--(笑)。
加藤:それで「あいつすごいな」って話になって、成毛が自分のバンドに入れたんですけど、成毛はギターだから高中にはベースを弾かせてたんですよ。だけど高中はベースを弾くことにフラストレーションを感じたみたいで結局僕のところにきて、それで適当に作ったのが「サイクリング・ブギ」。それを東芝に持って行ったら「リリースはちょっと無理」とか言われて、ブツブツ文句を言ってたら「レーベル作ったほうがいい」って言われて、僕専用の「ドーナツ・レコーズ」っていうレーベルを作ったんです。東芝が他から何か言われても「あれは加藤さんのレーベルだから」って言えるようにね(笑)。そのときに今で言うプロデューサー業もやってたんでセッションのときに小原(礼)と知り合って、小原が幸宏(高橋幸宏)を連れてきて、すごくいいリズムセクションだったからそのメンツになったんですよ。
--ミカバンドには素晴らしいプレイヤーが勢揃いしてますよね。
加藤:その頃はみんな若者ですよ。ただ、すごく光る物はあったけどね。単に上手いっていうだけじゃなくてね。それで、そのメンバーでミカバンドのLPを作るんですけど、本場の雰囲気を知ってもらうためにみんなをイギリスに連れて行ってロンドンで一月ぐらい遊んでた(笑)。でも、その頃日本には機材とか今でいうローディーとかPAがなかったんですよ。だから印税をほとんど使って機材を買ったんですよ。
--ご自分で買われたんですか?
加藤:うん、自分で。そういったちゃんとしたPA機材を死ぬほど買って、僕の友達にそういうのが好きなのがいたのでPA会社を作ったんですよ。ローディーとか楽器ごと全部移動できるようなシステムがないとライブができなかったからね。
--じゃあ、今のPAシステムを作ったのは加藤さんってことですか?
加藤:まあ最初にやったのはね(笑)。イギリスに行ってそういうの見てるから。
--ギンガムですよね?ギンガムって加藤さんが作られたんですか?
加藤:僕が機材買っちゃったから(笑)。たぶんモニター系統を別にしたのは僕らが最初ですよ。
--でもその頃加藤さんは20代半ばぐらいですよね?
加藤:22か3ですね。
--え!そんなに若かったんですか。
加藤:でも、それがないことにはどうにもできなかったんで、作らざるをえなかっただけなんだよね。
4.音楽=闘争の歴史
--ミカバンドはファーストアルバムがイギリスで売れましたね。
加藤:その頃ロンドンで知り合った友達がいっぱいいて、ヴィヴィアン・ウエストウッドと洋服屋をやってたマルコム・マクラーレンにレコードあげたら気に入ってくれて、色んな所に撒いたりしてたんですよ。そういう縁でクリス・トーマスとかブライアン・フェリーと知り合うんです。それでクリス・トーマスが「次のミカバンドのアルバムをプロデュースしたい」と言ってきて、それは面白いって話になって東芝に言ったんだけど、プロデューサーっていう職を説明するのがまず大変でね。しかも外国人を呼んできてアルバム作るなんてその当時にはないことだから。だからね、音楽=闘争の歴史なの (笑)。最初のほうで言った「遊ばせてくれる」っていうのはこういうことですよ。
--なるほど(笑)。
加藤:それでなんとか東芝を説得してお金も一応出してくれるということで、クリスが日本に来るんですけど、クリスは「まずスタジオをブロックしろ」って言うんだよね。で、それは東芝のスタジオなんですけど、ブロックっていう概念がないのと、ちょこちょこスケジュールが入ってるからどけるわけにいかない。それでスケジュールを見てたらベタっと空いてる所があるんですよ。実は正月休みで空いてたんだけど、「ここでいいですよ」って言ったら、「スタジオに誰もいなくなっちゃいますよ!」って言うから「電気さえ入れてくれればいいよ」って全部ブロックして、とりあえずそこでレコーディングしたんです。そのときのエンジニアが蜂屋さんで、いきなりいろいろ録って24のマルチを切って編集しろって言われてびっくりしてましたけど。
--マルチを切ってたんですか!?
加藤:うん。日本のエンジニアはやったことがないから時間かかっちゃって。埒があかないからクリスと食事に行ったんだけど、帰ってきてもまだやってるんだよね(笑)。
--クリスはそういうことをイギリスでは普通にやってたんですよね。
加藤:彼らはそんなもの簡単にやっちゃうからね。あと、ゲートをいっぱい使うんですけど、その当時ゲートなんてものはないから「キーペックスが倉庫にあったはずだ!」って、そういうことばかりだったんですよ。だからそこで教わったことは多いですよね。
--そのへんのテクニックがミカバンドの『黒船』に詰まってるわけなんですね。
加藤:少ない機材でよくやったと思いますけどね。それで『黒船』を出してそうこうしてるうちにロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーが「今度ツアーやるからサポートをやらないか?」って言ってきて。
--それはイギリス国内のツアーですか?
加藤:そう。2〜3ヶ月で4〜50本やってんじゃないかな。そのときのロキシーの宣伝をやったパブリシストが僕らの宣伝をやってくれたんで相当な露出はありましたよね。だからいまだにミカバンドの名前を知ってるイギリス人は多いよ。この間一緒にミカバンドをやったカエラはお父さんとおじいちゃんがイギリス人なんだけど、ミカバンドをやることになったって言ったらおじいちゃんのほうから「ミカバンドをやるなんて光栄なことだと思え」ってメールがきたとカエラが言ってた(笑)。その頃は本当に日本よりイギリスの方が有名だったからね。
--「MELODY MARKER」や「NME」で表紙になってましたよね。
加藤:うん。ロンドンっていい意味で小さいからね。音楽業界だけじゃなくて、ちょっと何か起これば全員知ってるんですよ。
--ミカバンドの活動自体はそんなに長かったわけではないんですよね?
加藤:3年弱じゃないですか? そのあたりから世の中の音楽がフュージョン系になってきたんですよ。小原はサンタナと仲良かったんで、「ミカバンドよりプレイヤー寄りのことがしたい」ってやめてアメリカ行っちゃって、その代わりに後藤次利が入って『HOT! MENU』というイギリスツアー用の3枚目のアルバムを作ったんだけど、その頃から幸宏もフュージョンってわけじゃないけどそんな感じが好きだったから、当初のロック寄りとは音楽性が違う方向になったんで中身的にはしっくりいってなかった。解散とは言ってなかったんだけど長続きはしないだろうなというのと、僕とミカが別れたから。それが全ての原因じゃないんですけどね。そういうのが全部重なってね。
--加藤さんご自身はそこからソロ活動を?
加藤:アーティストとしてはソロをやったり、プロデューサー色が強くなって作曲家としていろんな人に曲書いてレコーディングするようなこともしてました。でもその頃はプロデュースという言葉がなかったので、「プロデュースするから印税くれ」って言っても「なんだそれ?」って言われるんですよ。
--まだその概念が出来上がる以前だったんですね。
加藤:うん。しかもプロデューサー印税を何パーセントかもらっても、全然割が合わない。例えば、アルバム制作のバジェットが1000万だとすると、たぶん6〜 700万ぐらいスタジオ代なんですよね。それで、これも僕が最初だと思うんですけど個人スタジオっていうのを自分の家の下に作ったんですよ。個人でSSL 買ったのもたぶん僕が一番最初。そうするとそのスタジオ代が全部こちらに入ってくるじゃないですか。
--やはり色んな意味で加藤さんはパイオニアですね。
加藤:でも、それは全部必然からきてるわけですよ。プロデューサーっていう名前だけあったって趣味でやってるわけじゃないから。
--’75年以降はプロデュースがメインの仕事だったんですか?
加藤:世間的にヨーロッパ三部作と呼ばれてる『パパ・ヘミングウェイ』『うたかたのオペラ』『ベル・エキセントリック』という自分のレコードを作って、それと平行して初期の竹内まりやとか、色んな人に曲を書いてプロデュースしてましたね。
--それはあくまでもビジネス?
加藤:まあ半分ビジネス。まりやなんかは楽しみながらできるけど、あとは純粋に仕事として歌謡曲を死ぬほど書いてましたね。
5.まずい食材をおいしくはできない〜料理も音楽も同じ科学!
--アーティストのプロデュース以外にも歌舞伎音楽をプロデュースされてましたよね。
加藤:歌舞伎は20年ぐらい前に横浜アリーナでやった『YOKOHAMAスーパーオペラ海光』の音楽を担当したんだけど、そこで演出をしていた市川猿之助さんとひじょうに親しくなって、スーパー歌舞伎の音楽をやるようになったんですよ。猿之助さんとは異ジャンルですけど共通項が多いんですよね。あの人も歌舞伎界の中では反逆児というかそういう部分があるので。自分のオリジナリティーとか芸術性とかやりたいことを通そうと思うと何か壁があるってことですよね。それに関しての考え方で共感することがあるのでとても仲がいいです。
--それにしても加藤さんのお仕事の幅広さには驚かされます。
加藤:でも、音楽から逸れたことは一回もないんだけどね。ジャンルとしてはフォーク、ロック、歌舞伎から映像音楽とか全部入れちゃうとすごいジャンルになるけど、みんな音楽だからね。
--大学の時に音楽で食べていこうとは思わなかったとおっしゃった割には長きにわたり第一線でご活躍ですよね。本当にすごいと思います。
加藤:やるとなったらちゃんと真面目にやる性格なんでね。それから研究とか練習とかそれはきちんとやってますから。
--目に見えないところでの努力の積み重ねがあったんですね。いつも颯爽としてらして、苦労が表に出ないというか楽しみながらここまでこられたのかなと勝手にイメージしていました。
加藤:それは根っからの凝り性というか研究癖があるから。エンジニアの仕事は全部できるし、最初SSL買ったときも一ヶ月ぐらいそれで遊んでましたね。マイキングとかもすごい詳しいですよ。僕の持ってたSSLは40フェーダーしかない大きさだけど、EQなんか全部変えてあるからね。
--よく考えればフォークルの時からテープをいじられていたわけですし、もっと遡るとプラモデルがあったりと加藤さんのそういったところは一貫していますよね。
加藤:そういう意味では同じですよね。「帰って来たヨッパライ」を作ったっていうのもある種必然と言うかね。
--エンジニア的なことに関しても自覚的というか。
加藤:単純に海外のレコードってなんで音がいいんだろう?みたいな話じゃないですか。CDですら聴感上のレベルが違うし、どうやって録ってるんだろうって思いますよね。昔は日本でアナログのカッティングをすると単にリミッターを入れて振れないようにしちゃうから、「もっと音が入るはずだ」と思って、東芝のエンジニアでそういうのが好きな人をみつけてきて、ギリギリ横の溝に触れないようにするわけなんですよね。それで一回適当に焼いてから顕微鏡で見るんですよ。そうするとどこの部分が足りないかわかるから、そこだけリミッターとか入れないで調整して、すごいレベルを突っ込んだりね。そういうようなことの連続だったから。
--そこまでやるアーティストはなかなかいませんよね。映画『サディスティック・ミカ・バンド』の中でも凝り性とおっしゃってましたよね。レコーディング中の料理を全部作ったり。
加藤:あの時は主に軽井沢と河口湖でレコーディングしてたんですけど、河口湖の方は歌入れとかダビングなんで自分のレコーディング以外は暇なんですよね。それにあんまり食事情がよくないので、それは嫌だなと思ってね。あんまり機材はいらないから代わりに鍋から食材から全部持って行って作ったの(笑)。
--では、料理もおおいに楽しみながらアルバムを作られたわけですね。
加藤:いや、僕の場合はシリアスになっちゃうから料理を作るとかえってくだびれる。食いに行ったほうが安い(笑)。
--食材からなにからとことん追求しちゃうんですか?
加藤:追求しちゃうというか、例えば本当のフランス料理の調理法にはこれって決まったものがあるわけなんですよ。そこを適当な創作料理にしちゃうのが嫌なんですよ。レコーディングも一緒で外しちゃいけないとこがあるから。
--小原さんが映画の中で、「とにかくあの人は最高級品が好きだ」と。
加藤:(笑)。最高級が好きってわけでもないけど、フランス料理のシェフのジョエル・ロブションがすごくいいことを言ってて、「いい食材をまずくはできるけど、まずい食材をおいしくはできない」って。これはすごく当たってますよ。だって悪い出音を良くは録れない。いい出音を悪く録ることはできるけどね(笑)。それと同じですよね。
--ちなみに料理はいつ頃から始めたんですか?
加藤:料理はフォークルをやめてプラプラしてる頃ですよね。本気でフランス料理を3年ぐらい習ってたから。考え方は音楽と同じですよ。料理も科学ですからね。レコーディングだって科学でしょ?物理学というか、出てる音を見さえすればいいからね。
--「音を見る」ですか?
加藤:僕はアル・シュミットと一枚だけ一緒にやってるんですけど、彼が「音は聴くな。音を見ろ」って言うんです。あの人は徹底していて、最初から楽器の定位が全部決まってるんですよ。あの人はEQしないしね。削るのはするけど絶対増やすことはしないし、その分マイクの微妙な差で補っている。
--頭の中に音が見えてるんですね。
加藤:そのときもキャピトルのでかいスタジオでやったんですけど、全部フェーダーオフってたんですよ。で、マイクを全部セッティングしておいて、ミュージシャンが来て、音出してもまだ全部オフってるの。ヘッドアンプでレベル合わせてるだけでEQなんかしてなくてね。で、ぱっと上げたら完璧にバランスとれてる。「なんで?」って聞いたら「音は聴くと間違うから見た方がいい」ってわけのわかんないこと言うから、「音をどうやって見るんだよ」って言ったら「見える!」って(笑)。それはもう自分の経験で知ってるというのと、マイクもビル・シュニーの金庫から持ってきた、いじってあるマイクばっかりだから、どうやってもいい音がするわけです。
6.木村カエラを迎え、ミカバンド再結成
--2006年のミカバンド再々結成のきっかけはなんだったのですか?
加藤:桐島かれんとやったときもなんだけど、よく僕らはそういうのを外圧と言っていて、今回はキリンビールのCMのプロデューサーから「ぜひミカバンドでやりたい」って話がきたんですよ。それも面白いかなって思って他のメンバーにふってみたら「やってもいいけど歌どうするの?」って話になって。で、なんとなくカエラを思いついて本人にふったら「やります!」って言ったから。それもある種偶然なんですよね。偶然と必然がうまいこと結びつくっていうかね。
--でも、木村カエラさんという選択は素晴らしいですよね。
加藤:カエラはほんとによくいてくれたって感じだよね。よく知ってたわけじゃないけど一回会ってみたらピッタリだった。
--復活してみて何か以前のミカバンドと変化はありましたか?
加藤:一番不安がってたのは幸宏だったんだよね。生ドラムをライブで延々叩くことをずっとやってなかったから。それで「レコーディングはできるかな」と言ってたんだけど、軽井沢に行ってやったら全員がいい感じだったんだよ。それで安心してやってましたけどね。高中はずっと同じだから、いい意味でも悪い意味でも(笑)。だけど、昔は僕がほとんどプロデューサーみたいなもんだから全部やらなきゃならなかったけど、今は全員ができるから楽ですよね。
--楽しかったですか?
加藤:うん、面白かったし、すごく楽しかった。
--軽井沢のスタジオは元のウッドストックスタジオですか?
加藤:そう。そこも古いスタジオなんで、たぶんニューヨークのパワーステーションをコピーして作ってるんじゃないかな。ライブでドラムに関しては非常にいいんですよ。ただ卓とか古いから全部使わずに直入れですよね。ニーヴを40 台ぐらい集めてニーヴから直にプロツールスとコンプだけ。最近はそれが多いですね。
--また最近では和幸というユニットを作られてますよね。
加藤:和幸は坂崎君とやっててまた来年やるかもしれないけど、秋ぐらいに小原と屋敷豪太と土屋昌巳と僕とあとANZAっていうハーフの女の子なんだけど、それでひとつバンドをやるんですよ。6月にレコーディングするんですけどね。
--まだバンドの名前は決まってないんですか?
加藤:まだ正式には決まってない。まあイギリスっぽいのが3人もいるんで。またミカバンドとは違った感じだとは思いますけど。
--ではバンドとしての活動も?
加藤:そのときにライブをやるかもしれないけど、具体的にはっきり決まってるわけではないですね。
--レコーディングはまた合宿ですか?
加藤:合宿ですね(笑)、バンド物は。
--話は変わるんですが、ミュージシャンの皆さんからはトノバンって呼ばれてますよね?
加藤:それはミカバンドを作る前だけど、みんなが殿様の殿をとってトノって呼んでたのと、僕ドノバンが好きだったんで、その濁点がとれてトノバンになったというか。その時代の人しか言わないけどね。だからブライアン・フェリーまで言いますよ(笑)。
7.人と違うことをするからこそ作品を生み出せる。
--アーティストとしての今後の目標をお聞かせ下さい。
加藤:いやあ、あんまりないから困ってるんだよ(笑)。何をしたいっていうのもないから。20年ぐらい前にヨーロッパ三部作を作ってるときに考えてたことが今と同じですよね。つまり『パパ・ヘミングウェイ』っていうのを作ったときに、ヘミングウェイは好きなんだけどもよく考えるとヘミングウェイの一生の方が作品より面白いじゃないですか。ピカソとかもね。そこからぽっと出てきたものだからすごいんじゃないかなと思うようになって。だからいい曲書きたいとか音楽的に追求するんじゃなくて、自分の生きてる人生みたいなものが彩り豊かで楽しく面白くなってくると、そこからポロっと出たものがいいんじゃないかなというふうに思ってるので。
--では、計画的にということではなく。
加藤:うん。みんなよく煮詰まるとか生みの苦しみとかあるんだろうけど、最近それを感じたことがない。僕の場合は悩まないっていうか。
--自分にプレッシャーをかけない?
加藤:プレッシャーはかかるんだけどね(笑)。この間のミカバンドの時も、それぞれ3〜4曲作ってこようねって話になって、レコーディングまで2〜3ヶ月あったからそれぐらいならすぐできるって思ってたんですよ。でも、やってみたら曲はできるんだけどなんかカラっとしてなくて気に入らない。95点な感じで。それで、困ったなーっと思ってレコーディングまであと2週間ぐらいしかなかったんだけど、そういうときにはロンドンへ行くにかぎると思って勝手にロンドンに10日ぐらい行って(笑)。帰ってきたら、レコーディングまであと3〜4日しかないんだけど、その次の日の朝に「Big-Bang,Bang!」って曲がすぐできた。そしたらあとはポロポロっとできちゃうから。だからそういう何かしらの解決策というか、一生懸命うーんって悩んでもしょうがない。
--では、最後になりますが、近年の音楽配信ビジネスに関してはどうお考えですか?
加藤:僕の好き嫌いにかかわらず、世の中そういうことになっちゃってるからね。ただ僕は好きなアーティストがいたらパッケージを買う派なんでね。配信の便利なところとパッケージを買うのとが両立してくれればいいと思うんだけど、特に若い人にとって音楽というものが配信で手軽に入ってくるようになっちゃったじゃない。それでだいぶ音楽の質が下がったというかね。ただ幸いなことに僕なんかがやってる音楽の支持層っていうのが40歳から上とかだから、その世代の人たちはパッケージを買いますよね。別に若い人を拒否してるわけじゃないけど、無理矢理若い子に買ってくれって言ってるわけじゃないんで(笑)。
--アーティストになって、加藤さんのように人生を送ってみたいと思ってる人は多いと思うんですよ。
加藤:そうかな? 僕もこうなりたくてやってるわけじゃなくて、ちびちびやってたらこうなっちゃったっていう。根本的に20歳ぐらいのときから変わってないからね(笑)。規模がちょっと拡大したぐらいなもんでね。
--若い人に言うことがあるとすれば「好きなことをすればいい」という感じですかね?
加藤:まあそうじゃないかな、やっぱり。若い時って、さっき話したみたいに印税全部使い果たして機材買うとかできるけど、今、印税使い果たして機材買おうとは思わないから(笑)。
--(笑)。
加藤:だからそういう途方もないことというか、そういうことは若いうちの方がいいんじゃないかな。それに、平々凡々としてたら作品って出てこない気がする。もちろんその中から生まれることもあると思いますけど、アーティストというのはそういう人と違ったことをしてるから、何かしら生み出せるんじゃないかなって思うけどね。
--今後のご活躍を楽しみにしています。本日はお忙しい中ありがとうございました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也 山浦正彦)
加藤さんと最初にお会いした瞬間、まずその雰囲気とセンスの良さに圧倒されてしまいました。「音楽とファッション」が見事に調和しており、目を惹かれます。あらゆることに深い探求心を持ち完璧を求める反面、がっついたところが全くなく、さっそうとした人柄が今回のインタビューに表れていたように思います。物事を柔軟に取り入れ、音楽として表現することができる加藤さんこそ本物のアーティストだと感じました。プロデューサー/アーティストとしてご活躍される加藤さんに今後も大注目です!
さて次回は、株式会社クリスタル・アーツ代表取締役社長の佐野 光徳さんのご登場です。お楽しみに!