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第73回 服部 隆之 氏 作曲家 / 編曲家

インタビュー リレーインタビュー

服部 隆之 氏
服部 隆之 氏

作曲家 / 編曲家

今回の「Musicman’s RELAY」は佐野光徳さんからのご紹介で、作曲家/編曲家 服部隆之さんのご登場です。祖父に服部良一さん、父に服部克久さんを持つ服部隆之さんはまさに音楽界のサラブレッドとしてお生まれになり、パリ国立高等音楽院を経て、帰国後はさだまさしさんとのお仕事を皮切りにポップスからクラシックのアーティストのアルバム、コンサートの編曲を数多く手掛けらています。また同時に作曲家としてテレビドラマや映画、舞台、コマーシャルにゲームと多岐にわたるジャンルにおいて「誰もが服部さんの生み出す音楽を一度は耳にしたことがあるのでは?」と思うほどのご活躍です。そんな大忙しの服部さんに今までのキャリアを振り返っていただきつつ、パリ留学時代の思い出や音楽の制作現場に対して感じられていること、そして今後の夢までたっぷり語っていただきました。

[2008年8月11日 / 港区麻布台 Sound Cityにて]

プロフィール
服部隆之(はっとり・たかゆき)
作曲家 / 編曲家


’65年11月21日生。
パリ国立高等音楽院を修了し、’88年に帰国後、 ポップス〈福山雅治・椎名林檎・山崎まさよし 等〉からクラシック〈鮫島有美子・武満徹 等〉まで幅広いアーティストのアルバム、コンサート等の編曲を手がける。作曲家として映画に於いては’96年『蔵』、’98年『誘拐』・『ラヂオの時間』の3作品が日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞。テレビドラマでは『NHK連続テレビ小説・すずらん』『HERO』『王様のレストラン』等。 ミュージカルの『オケピ!』等の作品があり、この他にも「コマーシャル」「ゲーム音楽」等と多岐にわたる音楽ジャンルで作曲家として活躍中である。’04年NHK大河ドラマ『新選組!』、’06年フジテレビ『のだめカンタービレ』、’07年TBS『華麗なる一族』、bunkamura委嘱作品で上海シティダンスカンパニーとの日中共同制作『舞劇 楊貴妃』、映画『HERO』、’08年4月TBS『THE世界遺産』のメインテーマ曲、7月『太陽と海の教室』の音楽を担当する。

 

    1. 家の中で音楽が流れなかった服部家
    2. 音楽は嫌いにならなかった〜音楽家を目指すまで
    3. フランス行きは父・克久氏の刷り込みだった?
    4. 様々な音楽や文化と触れたパリ留学時代
    5. さだまさしさんと男の約束
    6. たくさんの人に歌われる歌を書きたい〜オリジナル・オペラへの思い

 

1. 家の中で音楽が流れなかった服部家

--前回ご登場いただきました佐野光徳さんとはどのようなご関係なんですか?

服部:佐野さんはフィールドが違うところにいらっしゃる方ですから、ご紹介いただくのはむしろ意外な感じがしました。僕もクラシックのフィールドの方と仕事はよくしますけど、服部家というのは基本的にはポップスという立ち位置にいると思っていますしね。ただ父も僕も二人ともフランスにいて音楽を勉強してきたというところもあって、クラシックの方とお付き合いさせていただくことが多いのですが、佐野さんもその中のお一人なんです。

--佐野さんと出会ったきっかけは何なのですか?

服部:佐野さんは10年以上前からナサ・アーティスツ・ビューローという大きなクラシックの会社を持っていらして、そこに所属しているアーティストのレコーディングをお手伝いしたりしていたのですが、佐野さんにお目にかかって一緒に何かをやるというのは一昨年が初めだと思います。

--それはどのようなお仕事だったんですか?

服部:もう亡くなってしまった金子みすゞさんという有名な詩人の詩に浜圭介先生が曲をつけて、歌として蘇らせるという企画で、演奏は新日本フィルハーモニー、歌はずっと佐野さんとお仕事をなさっている佐藤しのぶさんが歌われたんですが、そのアレンジを僕が担当しました。また、去年服部良一トリビュートをやった時も佐藤しのぶさんに1曲歌っていただいたんですが、その時も佐野さんに交渉していただきました。

--これから何か一緒にお仕事なさる予定はあるんですか?

服部:佐野さんとは「オペラをやりたいね」とずっと話しています。オペラはとても体力のいる仕事なので、60代過ぎてとか50代後半とかではやりたくないんですよ。出来が良いかどうかは別にして40代の体力のある時に一つ目のオペラを書いてみたいんです。

--佐野さんはインタビューで「竹取物語をオペラにしたい」と仰っていました。

服部:そうですね。佐野さんはその辺の経験がおありですから、色々とお話を伺っています。少し話は前後しますが、金子みすゞさんの仕事のときから浜さんともすごく仲良くなったりして、今年も松平健さんのシングルをアレンジさせていただいたりと、佐野さんとのお仕事も含めて今に繋がっています。

--ここからは服部さんご自身のことをお伺いしたいのですが、服部さんは服部家の三代目として皆さんご存じだと思うんですが、実際にはどのような家庭環境でお育ちになられたのでしょうか?

服部:皆さんが想像しているような家庭に音楽が満ち溢れているというようなことは一切ないんですよ。

--勝手な想像では家の中では絶えず音楽が流れて・・・という感じなのですが。

服部:本当にないんです。作曲をするときってピアノを案外使わないんですね。当然親父もピアノは使わないで譜面を書いていますから、仕事をしている時にピアノの音はしませんし、音楽を生業にしちゃっているものですから家に帰ってきてまで音を聴きたくないというところがあるんですね。ですから、家で朝食をとりながらモーツァルトを聴くというような話もなければ、酒を飲みながらジャズを聴くということもないんですよ(笑)。

--そうなんですか。ちなみにお祖父様である服部良一さんとは一緒に暮らされていたんですか?

服部:実は祖父とは一回も一緒に住んでないんですよ。ですから祖父の誕生日やクリスマス、お正月の時に会いに行くくらいでした。そこには人に言うといかにも「服部家」らしいというようなエピソードがあって、父が五人兄弟だったので当然従兄弟が多くて10人位いるんですけど、お正月とかに集まると祖父の前でみんなで歌を歌ったりピアノを弾いたりしたんですよ。それを祖父が点をつけてくれて、優勝者がいたり準優勝がいたりと。審査委員長が服部良一で、副審査委員長が服部克久ですからね(笑)。

--それは豪華な審査員ですね(笑)。ちなみに従兄弟の中での成績はいかがでした?

服部:そりゃあ僕はいつも一番でしたよ(笑)。ぶっちぎりで(笑)。グレープが好きなやつがいたらギターで『精霊流し』を歌ったり、『遠くへ行きたい』という歌を歌ったり、その時の流行歌を歌ったり、ピアノを弾いたり…と何でそういうことが始まったのかよくわからないですけど、小さい頃はずっとやってましたね。

 

2. 音楽は嫌いにならなかった〜音楽家を目指すまで

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--その後、音楽とはどういう形で接していったんですか?

服部:僕が生まれた昭和40年代は男の子でも情操教育の一環としてピアノをやらされたりするのが一般的で、周りの友達もみんなピアノをやっていましたし、僕も4歳頃からピアノやリトミックという音楽遊びみたいなことをやっていた、というよりもやらされてましたね。好きでやっていたわけじゃなく、最初はやっぱりやらされていました。普通に夏はカブトムシを捕まえたいし、泳ぎたいし、メンコでも遊びたいですから、決して好きでやっていたわけではないけれども、それを大嫌いとも言わずに親が言うままやっていました。

 それで小学校の三年ぐらいになると先生について和声の勉強をし始めました。それは人よりもちょっと早かったかもしれないです。その先生は「自分で好きに曲を作ってごらん」というような先生で、曲を作って持っていくと「これは荒井由美の曲に似てるね」とか言われて(笑)。

--(笑)。ピアノは熱心にレッスンを受けられたんですか?

服部:僕はピアノの練習が大嫌いで、だから今でもピアノが上手くないんですけど、留学するまでに先生が12〜3回替わっているんですよ(笑)。普通ピアノのレッスンって自分が練習した成果を先生にお見せするんですが、練習してないから先生が見るものがない。だから「1時間そこで弾いていけ」って言われて、それで弾いて帰るというだけでしたね。こういうことを言うと大変失礼なんですが、親が服部克久だってなってくると先生がすごく力むんですよね(笑)。今から考えると必要以上に力が入っていて、先生方みなさん「なんとかしなきゃいけない」ってお思いになるので、それが子供の僕にはとても重荷でした。

--子供にとってはすごいプレッシャーだったでしょうね。

服部:僕はそれに全く応えられなかったですね。

--小学校は公立に通われていたんですか?

服部:そうですね。最初区立の小学校に通っていて、服部家の男子はみんな吉祥寺の成蹊に通っていたので、小学校三年くらいで成蹊に編入して、あとは辞めるまではずっと成蹊でした。

--なぜ高校を2年でお辞めになったんですか?

服部:それはフランスに留学する為ですね。

--それはご自身の意志で留学することになったんですか?

服部:難しいところですね。最終的には留学しましたから、自分の意志といえば自分の意志なんですが、実はあんまり深く考えてなかったんですよ(笑)。例えば、男の子が職業として作曲家を目指すと言っても、「そんなのやってもしょうがない」という親御さんが普通だと思います。でも、うちは親が作曲家をやってますから、それをダメだとは絶対言わないですよね。別に普通にサラリーマンをやるという選択肢もありましたけど、その選択肢の中に作曲家が入っていても、父も母もそれは不思議じゃないと思うような環境ですからね。

--やはり自然とご自身の中で「作曲家になる」という気持ちが固まっていったと。

服部:そう言うとちょっとかっこよすぎるかもしれないんですが、要するに音楽を嫌いにならないで済んだんです。多分父のやらせ方が上手かったんだと思います。クラシックの勉強とかは大嫌いでしたけど、音楽は嫌いにならなかった。例えば、中高生の頃はブラスバンドに入っていてブラスバンドのためにアレンジしたり、中学3年くらいからは友達とバンドを組んで演奏を楽しんでいましたしね。

--バンドもやられてたんですか?

服部:スタッフをずっとコピーしてました。あとギターの奴がパット・メセニーとか好きだったものですから、パット・メセニーをコピーしたりしてましたね。

--そのバンドにはキーボードで参加されていたんですか?

服部:そうです。ちょうどスタッフと同じフォーリズムだけのバンドで、そこにゲストで女の子のヴォーカルを迎えてやったりしてました。

--中学生でスタッフとは早熟ですよね(笑)。

服部:ちょうどそういう音楽が好きな奴ばかりが集まってましたね。あとTOTOが好きだったので、TOTOがバックをやっていたボズ・スキャッグスを好きになったりとか。僕らのバンドのテーマ曲が『黒いオルフェ』で、『黒いオルフェ』を自分達なりにアレンジして、それでヤマハのコンクールなんかに出たこともありますよ。

--音楽以外で何か熱中していたことはありますか?

服部:水泳は小学校まで習っていたし、好きでよくやっていましたね。あと小学校の頃はサッカー部に入っていましたが、中学に入ってブラスバンドを始めてからはもう音楽漬けでした。でも、クラシックの勉強は全然つまらなかったですよ。

--今もクラシックは・・・?(笑)

服部:今はもう大好きですよ(笑)。すごい奥が深いと思いますし、もっとピアノをしっかりやっておけば良かったなって思いますね。小さい頃、先生に言われていたことが今ならどういう意味で言っていたのか全部理解できますね。

 

3. フランス行きは父・克久氏の刷り込みだった?

--服部さんの留学されたパリ国立高等音楽院って入るのがすごく難しそうですよね…。

服部:(笑)。レベルは決して低くはないです。ラベルとかドビュッシー、ミッシェル・ルグランとかフランスの有名な作曲家は全部出てる学校ですしね。

--なぜフランスの学校を選ばれたんですか?

服部:これは親父の性格なんですけど、なんでも自分がやってきたことがベストというところがあるんです。音楽大学なんてアメリカに行けばジュリアードという有名な大学もありますし、ドイツにも有名な大学がありますし、日本の芸大だっていい大学ですから、真剣に音楽という目標をもって大学に行くならどこだっていいはずなんですが、親父は自分がフランスに行ってきたから、頭にはフランスしかないんですね。極端な話、フランスに行って音楽の勉強をしないと作曲家になれないくらいに思っているんですよ(笑)。だから音楽をやるということは、フランスに行くということと同義になっちゃうんです。

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--やはり克久さんご自身が経験されていることは大きいんじゃないでしょうかね。

服部:そうですね。もし親父がアメリカへ行っていたらアメリカだったんですよ、きっと。僕にはどこに行きたいとかは全然ありませんでしたから。でもフランスの話っていうのは昔からよく聞いているんですよ。

 例えば子供の頃から朝食にはフランスのカマンベールチーズが必ず出てたんですよ。子供にしたらカマンベールチーズは臭いし、食べてもおいしくないですから大嫌いですよね。それで「何このゴミみたいなのは?」という話になると、「フランスの食卓には必ずチーズがあって・・・」と自分がフランスにいた頃の話とかよくしてましたね。僕も物心ついてミッシェル・ルグランの存在を知って、親父に訊くと「彼とは友達でフランスにいた頃の先生が一緒だった」なんて刷り込みがあると、自分でフランスに行くとか行かないとか思う前に、フランスに行くことが普通の感覚になっていったのかもしれませんね。

--フランスでは言葉のほうはどうされたんですか?

服部:高校を中退してから一年間の準備期間があって、その間は音楽の基礎やフランス語の勉強を毎日していましたけど、行ってみて言葉は何も通じなかったです。「ありがとう」すら通じなかったです(笑)。それで言葉ができないから友達もすぐにはできず、他にやることもないから音楽の勉強をよくしました。ちょうど留学して何ヶ月後かにすぐ試験だったので、試験のための勉強をやたらしていましたね。

--学校には日本人の方は他にいらっしゃったんですか?

服部:いましたよ。父の頃よりは多かったと思います。ヴァイオリンやフルートのクラスにも何人かいました。

--やはり世界中から生徒が集まるような学校だったんですか?

服部:来てましたね。僕は学校で和声と対位法の二つを専攻していまして、そのクラスにはヨーロッパ圏内の人が多かったですが、他のクラスにはアメリカから来てる人も多分いたと思います。

 

4. 様々な音楽や文化と触れたパリ留学時代

--合計すると5年間ほどパリに滞在されたわけですが、学校以外ではどのように過ごされていたんですか?

服部:なにしろパリは楽しい街ですからね。人生の中でも一番コンサートに行った時期ですし、一番映画も観ましたし、旅行もたくさんしました。パリからだとアフリカにしてもアメリカにしても大西洋を渡って7時間ですから近くて便利なんです。また、地の利が良かったお陰で色々な国の音楽をしょっちゅう聴きに行けました。当たり前の話ですが、フランスではフランスの音楽をたくさんやっているんですよ。日本だとドイツの音楽の方が多くて、フランスの音楽を聴くとなると特集でも組まれない限りそうしょっちゅうは聴けないんですね。

--パリというと多国籍な印象がありますよね。

服部:そうですね。僕がフランスにいたのは’83〜’88年なんですが、例えば、ユッスー・ンドゥールとかカリブ海周辺あるいはアフリカ系のミュージシャンたちがたくさんパリに来て演奏してましたし、ドイツもまだベルリンの壁が崩壊する前だったので、共産圏の時代だった頃の東ドイツのゲヴァントハウスというオーケストラやソ連のレニングラードフィルハーモニーとかが聴けたんですよ。両方とも自由の国になった今でもありますけど、あの頃の演奏とは絶対に違います。統制感だったり厳しさだったり、バシッとした緊張感というのはその頃の方が絶対あったと思います。共産主義でコンサーブされている状態じゃなかったら出ない異常なまでの重厚さがありました。

--良い時代に良い場所で色んな音楽を聴けたんですね。

服部:マイルス・デイビスやギル・エヴァンス、亡くなる前のサラ・ヴォーンも聴きましたし、ギターのジョー・パスとピアノのオスカー・ピーターソンがトリオを組んでいたときもすぐに聴きに行きましたし、とにかく色んな音楽を聴きましたね。

--そういった色々な音楽と気軽に触れられるのは幸せですよね。

服部:本当にそうですね。ベルリンフィルハーモニーを観るにしても、東京だったら何ヶ月も先の公演を待つことになりますが、パリだとその日に切符を買って、その日に聴きに行けちゃうわけですからね。しかも安い学生券で、天井桟敷の良い席ではなかったですけど、下はスーツを着てても、僕らはジーパンで聴きに行けましたからラフで気楽で魅力的でしたね。そういった経験は僕のためにもなったと思います。

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--やはりその環境を与えてもらったというのは大きいですよね。

服部:大きいですね。実は留学するときにパリでアパートがなかなか見つからなかったので、パリから「ベルサイユのばら」で有名なベルサイユまで電車で30分くらいで着いてしまう距離だったので、「ベルサイユの方にアパートを借りようか?」という話が一回出たんですが、親父は頑として「住むところはパリじゃないと駄目」と言ったんです。さっき仰ったように「パリに住む」ということに対して親父は環境面とか、多人種な雰囲気や文化とか、そういうものが大切だと考えていたんでしょうね。

--呼吸しながら何かを学ぶという感じでしょうか。

服部:そういうことなんでしょうね。あと食事ですね。今でこそ東京でも当たり前になっていますが、その当時からフランスではスペイン料理はスペイン人のシェフ、イタリア料理だったらイタリア人のシェフと、その国のシェフがお店にいて本場の味を味わえたので、すごく恵まれていたと思います。

--服部さんはパリのどのあたりに住んでらしたんですか?

服部:学校まで歩いて30秒くらいのところですね。マニアックな話になってしまうのですが、オペラ座の裏にある「サン・ラザール」という駅からメトロ三番線に乗ると「ヨーロッパ」という駅にありまして、そこに学校があったんですね。このヨーロッパ駅周辺の道路には「ローマ通り」や「マドリッド通り」と、ヨーロッパの都市の名前が付けられているんですよ。ちなみに学校はマドリッド通りの14番地にありまして、僕はコンスタンチノーブル通りというところに住んでいました。

--今でもパリには時々行かれるんですか?

服部:いや、フランスの事情もあるんですが、海外に録音しに行くとなるとロンドンとかアメリカが多いんですよ。こと弦なんかはロンドンに録りに行くことが多くてよく行くんですが、わざわざパリに弦を録りに行くということは何か企画意図がない限りはないですよね。ですから足が遠のいていたんですが、今年1月に久々に仕事で行ってきました。

--久々のパリはいかがでしたか?

服部:ユーロが高かったですね(笑)。実は通貨がユーロになってから初めてパリに行ったんですが、高いと思いました。でも昔と違ってサービス・インクルージングになっている店が多くなっちゃって、あまりチップとか置かなかったですね。チップってあとあと計算すると「何でこんなに出さなきゃいけないんだ?」と思ったりするじゃないですか(笑)。

--チップの文化に慣れていないから、あとで計算しちゃったりするんですよね(笑)。

服部:今1ユーロ 160円くらいしますでしょう? 僕がパリにいたときは最初1フラン 70円だったんですが、留学終わるときには1フラン20円でしたからね。同じ額仕送りしてもらってもウハウハでしたから(笑)。ですから、その頃に比べたら今留学している人たちは大変だと思いますね。

 

5. さだまさしさんと男の約束

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--日本に帰国されて最初のお仕事は何だったのですか?

服部:それはさだまさしさんの『夢の吹く頃』というシングルと同名のアルバムです。僕の仕事の最初は七光りですよ(笑)。20年以上前のさださんは曲を出せば確実にオリコンに入っていましたし、そんな素晴らしいアーティストのアルバムをいきなりやらせていただくなんて普通ないと思います。これもすごい話で、親父がさだまさしさんとよく仕事していましましたから、親父とさださんの仕事を見によくスタジオに遊びに行ってたんですが、留学する頃に「日本に帰ってきたら最初の仕事は俺だからな」とさださんが仰ってくれて、さださんはすごく男気のある方なので、その約束を守って下さったんですよ。まだ僕がどんなものを書くかも全く知らないときに頼まれたんです。

 今、たまたまさださんと仕事をご一緒しているんですけど、この間「なんで何も分からないのに僕に頼んだんですか?」と訊いたら、「やっぱり血だ」って仰っていました。あとさださんはヴァイオリンをやっていて正規の音楽教育をわかっていますから、それを勉強してきて、そこに「血」があったらそこそこのものは書くだろうというところに賭けたと仰っていましたね。

--例えは悪いかもしれませんが、競走馬みたいな感じですね。

服部:まさに同じことを仰ってましたよ(笑)。「サラブレッドとはそういうものだよ!」とか訳の分かんないことを言って・・・(笑)。それで僕がやった曲はオリコン7位に入ったんですよ。それはすごく思い出に残っていますし、名刺代わりになりました。それから谷村新司さんのお仕事をやらせてもらったり、「夜のヒットスタジオ」の音楽監督をやらせていただきました。

--個人的に印象に残っているのが、森高千里さんのお仕事なんです。格好いい曲だなと思って、クレジットを見たら服部さんのお名前があって、まだ存じ上げていなかったので「服部隆之・・・克久じゃないのかな?」と思った覚えがあります(笑)。

服部:(笑)。アレンジもやりましたし、僕が書いた『BOSSA MARINA』というボサノヴァを歌ってくれましたね。あれも現アップフロント・エージェンシー代表の瀬戸さんが親父がやっていた音楽畑のディレクターだったので、その繋がりです。さださんのアルバムを作った年には「思い出のメロディ」に出演させていただいて、淡谷のり子さんと共演させていただいたり、七光り尽くしですよ(笑)。

--キャリアのどのあたりから「もう七光りはいらないな」と思われたんですか?

服部:いやいや! そんなおこがましいことは思いませんよ!(笑) 今も全然七光りだと思います。余裕で(笑)。それはどうにもならないことですしね。当たり前の話ですが、出来れば「さすが服部家」と言われ、出来がよくないと「克久先生の息子なのに・・・」と言われることはありますけど、それで損したことって僕は一回もないですし、嫌だと思ったこともないです。

--それはお父さんの隆之さんとの距離の取り方がお上手だったんじゃないかと思うんですが。

服部:僕もそう思いますね。僕は直接親父から音楽を習ったことはありませんが、音楽に対して僕がどういう距離をとっているかを必ず俯瞰で見ていましたからね。

--服部さんのキャリアを拝見すると、お父様に反抗したり屈折したりといったところがあまりないですよね。

服部:(笑)。「おじいちゃんや親父ってすごい」とこの10年くらいが一番思いますね。ある程度お仕事を頂くようになってくると忙しい状況を経験するじゃないですか? そういった中でクオリティを下げないで仕事をするのは大変なことなんですが、親父もおじいちゃんも40年も50年もやってきたんだなと思うと「参りました!」と心底思いますね。僕も20年やってきましたが「まだまだ頑張らなくちゃいけないな」と思います。そういった思いはデビューしてすぐにはなかった感情です。

--やはりそう思うには、自分も同じ状況に身を置いてみないとわからないですよね。

服部:わからないです。スケジュールといい、仕事のこなし方といい、クオリティといい、どれだけ大変なことをしてきたのかということはね。

--服部良一さんも克久さんも膨大な量の楽曲を手掛けられていますものね。以前、克久さんにお話を伺ったときも「年間3,000曲以上書いた」と仰っていました。

服部:有名な歌手の曲、ステージ、テレビの音楽番組全部という感じですからね。それに加えて新人もやりますから、膨大な仕事量ですよね。

--お仕事を始められて、お父様とお話される機会は結構あるんですか?

服部:親父とは去年『服部良一〜生誕100周年記念トリビュートアルバム〜』を一緒に作ったんですが、久々に一緒に仕事をしたので、色々と話せて楽しかったですね。

--事実上、留学なさるまでがお父様と一緒に過ごされた時間ですよね。

服部:そうですね。でも、僕が忙しいというよりも親父が忙しい人ですから、会おうといったってスケジュールが合わないんですよね。でも、会うとよくミュージシャンの話とかしますよ。「最近使った誰々は若いけどすごく良いぞ」とか、「アイツは名前だけで使えないから止めた方がいい」とか(笑)。

--仕事仲間の情報交換ですね(笑)。

服部:情報交換はしますね、やっぱり。

 

6. たくさんの人に歌われる歌を書きたい〜オリジナル・オペラへの思い

--ポップスやクラシックのアレンジや映画音楽、ゲーム音楽と大変幅広くご活躍されていますが、よくこれだけ曲なりアレンジが生み出せるものだなと思います。

服部:産みの苦しみみたいなものはやはりありますよね。出てこないときに強引にひねり出したら、それがあまりよくなかったとかよくあります。作曲家の方はみなさんそうかもしれませんが、スッと出てきたものの方がすごく切れがよくて、上手い具合にバランスがとれていたりするんですよね。

--力が抜けているときの方がいいと。

服部:もちろんそれでも駄目なときはあるんですけどね(笑)。あと、これも作家の方は皆さん仰っているかもしれないですが、自分がいいと思ったものがみなさんには評価されないで、「これでよかったのかな・・・」と思っていたものがすごく皆さんの評価がよかったりとか、そういうことはしょっちゅうですね。自分で作っていいなと思ったものが、そのままリスナーに評価されるのはすごく少ないと思います。

 例えば、プロデューサーからの発注が、どうしても自分のスタイルではなくて「書きたくないな」と思って書いたら評判がよかったりね。『HERO』 というドラマのときも、僕は発注がなければ普段ああいった曲は書かないんですが、僕の曲の中でも好きだと仰ってくれる人が多いんですよね。もちろんドラマの影響も大きいですけどね。

--長年音楽の制作現場にいらっしゃって、最近どのようなことを感じていらっしゃいますか?

服部:音楽の制作現場はどうしてもテクノロジーによって全てが変わっていってしまうじゃないですか。一つのテクノロジーが進んでしまうと、好き嫌いに関係なくそこに行かざるを得ないでしょう? 僕は弦を録ることが多いですが、弦は音が圧縮されてしまうプロトゥールスでは駄目なんです。これは思い入れでも何でもなく、絶対にアナログでやっていたときの方が弦の音っていいんですよね。でも現場がプロトゥールスに決まってしまうとそこでやらざるを得ない。つまりハードの選択肢がないんですね。僕はそういった状況は問題があるんじゃないかと思います。

--確かにある流れが出来てしまうと後戻りできない感じはありますよね。

服部:若い人たちもプロトゥールスと例えば3348を両方使えるような環境があったらいいんですが、機材が淘汰されてどんどんなくなってしまうので、古い機材は扱えない状況になっている。音楽のジャンル、つまりソフトは好きに選べるんだから、ハードの選択肢があってもいいはずですし、ハードを新しい/古いで分けない方が僕はいいと思います。音楽だって新しい/古いで分けるのではなく、良い音楽かそうでないかだと思うんですよ。流行は置いておいて、いい曲に新しい/古いはないですからね。

 逆にお伺いしたいんですが、レコーディングスタジオにおいてテクノロジーの進化はいい方向に向かっているんですかね?

--いや、そう言わない人が多いですよね。やはり一番いいのはアナログだと思っているんじゃないでしょうか。だからデジタルをどこまでアナログに近づけるか…みたいなことをするわけですよね。

服部:それは本当に不毛ですよね(笑)。しかも絶対にデジタルはアナログに辿り着かないわけですから。

--作る側もそうですが、聴く側も今は圧縮された音源を携帯で聴く若い人が増えていますものね。しかもスピーカーではなくヘッドフォンで。そういった聴き方が主流となると、この先どうなっていくのかな? と思いますね。

服部:世界の流れとはいえ、僕は本当にアナログな人間なので、持ち運びだけのために、コンビニエントのために音質を落とすのには抵抗があります。音楽を気軽に享受できることはいいことなんですが、例えば、パリにいたときのように手軽にコンサートが聴きに行けるというようなコンビニエントとは違う方向ですよね。

--利便性のために音質を落としているわけですからね。

服部:音楽を気軽に吸収できる環境は欲しいけれど、音楽を作ることに関しては手間とお金がかかるんだということをもう少しわかって欲しいです。今は手間がかかること、お金がかかることは駄目という感じになっていますから。もちろん商業音楽にはバジェットが決まっていますから、その中で仕上げなくてはいけません。でも、今は手間やお金をかけなさすぎだと思います。はっきり言って「これでリクープできるでしょう?」「これで充分でしょう?」みたいな考え方は音楽に馴染まないですよね。僕は商業音楽の真ん中にいますから、そんなことを言って仕事をしていられませんが、本当にそう思います。

--音楽って料理に近いですよね。手間暇、素材にとことんこだわることもできますし、「お腹いっぱいになればいい」というような料理も作ることができると。

服部:そうですよね。生麺タイプのインスタントを食べるんだったら、最初から美味しいラーメン屋さんに行った方がいいと思うんですけど、今は生麺タイプのインスタントを食えみたいな感じになってますからね。

--さっきのアナログとデジタルの話じゃないですが、カップ麺をいかにお店の味に近づけるかみたいな感じになってますものね(笑)。

服部:だったら店に行くよ! と僕なんかは思っちゃうんですけどね(笑)。そう思っている人は結構多いと思います。

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--最後になりますが、今後、一緒に仕事をしてみたい方やチャレンジしてみたいことは何ですか?

服部:別の取材で話したんですが、くるりと仕事をしてみたいですね。去年くるりがウィーンに行ってウィーンのストリングスと一緒にやった作品があるんですが、そのアレンジがすごく格好良くて、僕の好きなハーモニーの雰囲気、コード感を持った曲だったんですよ。それで「一緒に仕事がしたい」と春から言ってるんですが、まだお声が掛からないからもう一回言っておきます(笑)。

 あと、先ほども少しお話しましたが、なるべく早い時期にオペラをやりたいですね。実は佐渡裕さんにも話しているんですが、オペラの一幕もの、1時間50分から2時間くらいで「ブッファ」という形式のコミック・オペラをやりたいんです。日本のオペラは今までも先輩たちが書いているんですが、皆さん比較的テーマが重くて、シリアスな作品が多いんです。そうではなくてもう少しカラッとして、でも、ただ可笑しいだけではなく皆さんに満足していただけるクオリティーの作品を作りたいです。

--確かに明るい感じのオペラってあまりないですよね。

服部:そういった作品はなかなかないんですよね。テーマは何でもいいんですが、是非やりたいと思っています。あと、僕の仕事はインストが多いですから、逆に人間が歌詞を歌って人々に訴えかける歌の世界というのはすごいなと思うので、そのうち歌を書きたいんですよね。1曲でもいいからたくさんの人に歌ってもらえる曲が書けたらいいなと思いますね。

--まさに服部良一さんがそういう存在ですよね。

服部:これはベタすぎて言いたくないんですが、服部良一はすごいと思います。あと宮川泰先生も素晴らしい歌を残されて、しかも僕の大好きだった「宇宙戦艦ヤマト」のようなクオリティーの高い劇伴も書かれているというのはすごいと思いますし目標ですね。ミシェル・ルグランもそうですが、そういった人たちは僕の理想です。オペラを書きたいという思いも、この「歌を書きたい」というところからきているのかもしれませんね。

--近い将来、服部さんが生み出すオペラや歌を楽しみにしています。本日はお忙しい中ありがとうございました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也 山浦正彦)

 お忙しい中、インタビューに答えて下さった服部さんはとても気さくで周りをパッと明るくしてくれるような方でした。服部さんの奏でる音楽はとても奥深いのに親しみやすく、そして品がありますが、まさにその雰囲気そのままの印象を受けました。また、幅広いお仕事の根底には、あらゆる文化に触れたパリ留学時代に培われた柔軟さや好奇心旺盛な感性があるように感じました。そんな服部さんが構想するオペラが実現されれば、クラシックやオペラにあまり縁のない人々も取り込む上質なエンターテイメントになるのでは、と色々想像も膨らみます。服部さんの今後の活動に期待大です!

 さて次回はユニバーサルミュージック(株) 執行役員 マーケティング・エグゼクティヴ 寺林 晁さんです。お楽しみに!

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