広告・取材掲載

第75回 石田 弘 氏 (株)フジテレビジョン エグゼクティブ・プロデューサー

インタビュー リレーインタビュー

石田 弘 氏
石田 弘 氏

(株)フジテレビジョン エグゼクティブ・プロデューサー / (株)フジパシフィック音楽出版 取締役 

今回の「Musicman’s RELAY」は寺林 晁さんからのご紹介で、(株)フジテレビジョン エグゼクティブ・プロデューサー 石田 弘さんです。幼い頃から映画・音楽に夢中になり、特にエルヴィス・プレスリーとの衝撃の出会いを体験されて以降はプレスリー道まっしぐら! の石田さん。そこで培われた幅広い音楽知識をバックボーンに、フジテレビ入社後は『リブ・ヤング!』や『ミュージックフェア』、『オールナイトフジ』、『夕やけニャンニャン』、『とんねるずのみなさんのおかげです』など数々の音楽番組やバラエティー番組を手掛けられ、どの番組もテレビの枠を越えて一大センセーションを巻き起こしました。現在もエグゼクティブ・プロデューサーとして現場の第一線でご活躍中の石田さんにキャリアを振り返っていただきつつ、たっぷり語っていただきました。

[2008年10月15日 / 港区台場 (株)フジテレビジョンにて]

プロフィール
石田 弘(いしだ・ひろし) 
(株)フジテレビジョン エグゼクティブ・プロデューサー / (株)フジパシフィック音楽出版 取締役


’43年生。東京都出身。日本大学芸術学部卒業。学生時代よりフジテレビでアルバイトを始め、’67年フジテレビ入社。以降40数年、音楽・バラエティー番組を中心に、現在も制作畑一筋で活躍中。『MUSIC FAIR』は’73年よりディレクターとして参加し、’80年プロデューサーとなり番組制作年数は現在35年目。『とんねるずのみなさんのおかげでした』はスタート以来、21年目に入る。

<手掛けた主なレギュラー・イベント番組>
『リブ・ヤング!』、『ニューミュージック・スペシャル』、『THE POP』、『3分勝負15ラウンド』、『エメロンナイト・レディーファースト』、『わが旅わが心』、『アップルハウス』、『ヤマハ世界歌謡祭(’74〜’89)』、『ヤマハポピュラーソングコンテスト(’74〜’86)』、『オールナイトフジ』、『夕やけニャンニャン』、『とんねるずのみなさんのおかげです』、『50周年アカデミー賞授賞式』、『ハロー80’s グッドバイ70’s スーパージャム』、『アリス・イン・北京』、『LIVE AID』、『ミック・ジャガー in 東京ドーム』、『生誕50周年企画・LOVE 永遠のジョン・レノン』、『三大テノール・コンサート』 等多数

<コンサートフィルム制作>
『吉田拓郎 かぐや姫 コンサート in つま恋』、『吉田拓郎アイランドコンサート in 篠島』、『かぐや姫フォーエバーコンサート』他

<コンサート制作・演出>
『おニャン子クラブコンサートツアー』、『とんねるずコンサートツアー』、『加山雄三コンサートツアー』、『谷村新司 日生劇場コンサート、青山劇場コンサート、及びコンサートツアー』、『ウェルカムレーガン日米フレンドシップコンサート』、『FNSチャリティーコンサート』、『服部良一生誕100年コンサート』他

 

    1. 映画と音楽が大好きだった少年時代
    2. エルヴィス・プレスリーにノックアウト!
    3. 伝説の『リブ・ヤング!』
    4. これからはダサい感じでやろう!〜『オールナイトフジ』での発想転換
    5. 「おニャン子クラブ」はテレビ屋としてのビジネス
    6. バラエティーは走り出したら止まれない!
    7. 『LIVE AID』で得た達成感〜音楽で一番強いのは生演奏!

 

1. 映画と音楽が大好きだった少年時代

まず、前回ご登場いただいたユニバーサルミュージックの寺林 晁さんとのご関係を教えていただきたいのですが。

石田:僕は亡くなられたシンコー・ミュージックの草野昌一さんと仲が良くて、『ミュージック・ライフ』と連動してアメリカの音楽シーンを取材してテレビで紹介したんですね。そのときはL.A.、サンフランシスコ、ナッシュビル、メンフィス、ニューオリンズ、ニューヨークとフィルムを撮って回ったんですが、L.A.でニッティ・グリッティ・ダート・バンドが取材を受けてくれることになって、僕らがハリウッドのハイランドにあるホリデイ・インにいると言ったら、夜中でしたが「行ってもいい」ということで、ホリデイ・インのラウンジの椅子を全部どかして、そこで生演奏してもらってフィルムで撮ったんです。

 その一年後くらいかな? 日曜の夕方にやっていた『リブ・ヤング!』がオイルショックとかいろいろな理由で夜11時になったんですよ。そのときにウドー音楽事務所がニッティ・グリッティ・ダート・バンドを呼んだんですね。実はアメリカで取材したときに「日本に来たら番組に出てくれ」と言っておいたので、僕らもニッティ側も『リブ・ヤング!』に出るつもりでしたし、最初スケジュールはOKだったんですが、直前になって寺ちゃんが「ごめん! その日は静岡で公演が入ってる・・・」と言い出して、大騒ぎになったんですよ(笑)。

−−番組としては大ピンチですよね。

石田:ここからが寺林 晁の素晴らしいところなんですが、彼もバンドと一緒に静岡へ行って、開演6時半のところを6時15分くらいから音を出し始めて、あの頃のコンサートって間に15分のインターバルがあったんですが、それも飛ばして8時過ぎにコンサートを終わらせて、その日のうちに新幹線で東京に戻ってきてくれたんですよ。それで11時からの生放送に10時50分位にスタジオに入ってきて、あれがエレキものだったらできなかったんでしょうが、アコースティックですからセッティングも簡単で、そのまま生放送で演奏しちゃったんです。その件で寺ちゃんにはすごく感謝しましたし、僕にとって寺林 晁という男の存在がすごく大きくなって、それから今までずっと付き合ってきています。

−−それは寺林さんらしいエピソードですね。

石田:ドゥービー・ブラザーズの武道館公演のときも「テレビで撮らせてほしい」と頼んだら、寺ちゃんが「うちは有働さんに言うと高いよ」って言うもんだから、色々と相談して、撮ったビデオをアメリカで使ってもいいということをバーターに交渉してみたらドゥービーがOKしてくれたんですよ。あと、ちゃんとミックスダウンするためにサンフランシスコからレコーディング・ミキサーを呼ぶための渡航費用を出すという条件でね。結局、撮ったものを夜中に4回に分けて放送しました。寺林 晁という男はそういうことを色々とやってくれたんですよ。

−−『リブ・ヤング!』は洋楽を扱ってくれる貴重な番組でしたよね。

石田:あの頃、洋楽を扱って色々なことができたのは、まだビデオクリップがなくてフィルムもなかなか手に入らない時代だったからなんですよ。つまり、素材がないからこっちから撮りに行かざるを得なくて、そうなったときに草野さんがタイアップしてくれて海外へよく行かせてくれたんです。その代わりに僕たちは『ミュージック・ライフ』を番組で色々な形で紹介すると。やっぱりシンコーの草野さんのお陰というところがすごくあると思いますね。

−−『リブ・ヤング!』には面白いエピソードがたくさんありそうですね。

石田:そうですね。キョードー東京がジェームス・テイラーを呼んだときに「テレビに出させてくれ」とお願いしたんですが、今でこそ『めざましテレビ』とかにも来日した外タレが出演したりしますが、当時のプロモーターは簡単にはアーティストをテレビに出してくれなかったので(寺ちゃんは例外ですが)、どうしてもダメだと言われたんですね。そのときに奥さんのカーリー・サイモンが一緒に来日していて、しかも「うつろな愛」が全米でNo.1だったので、「奥さんのカーリー・サイモンでもタイムリーでいい」と思って、今度はプロモーターではなくレコード会社の人に「本国に連絡してカーリー・サイモンをプロモーションで出演させて欲しい」とお願いしてもらったんですよ。それでスタジオにピアノを置いて生放送で「うつろな愛」を歌ってもらったんですが、その時ジェームス・テイラーもついてきて、スタジオの隅で座ってたので「インタビューだけでも出ないか?」と言うと、「僕は契約があるからダメ」って(笑)。あの頃の『リブ・ヤング!』は本当に面白かったですね。

−−ここからは石田さんご自身のことをお伺いしたいのですが、ご出身はどちらですか?

石田:杉並区の高円寺北で昔の馬橋です。映画『三丁目の夕日』で青梅街道を都電に乗って母親に会いに行くシーンがあるじゃないですか? 馬の橋と書いて「まばし」と読むんですが、そこが出生地です。

−−どのようなご家庭だったんですか?

石田:僕は阿佐ヶ谷の割烹料亭の息子だったんですよ。住み家は中野の鷺宮にあったので、いつも家に帰るとずっと鍵っ子でした。だから小学校の頃から小銭だけはもっていて、当時の阿佐ヶ谷オデオン座とかそういうところで映画を観まくっていましたね。

−−すべて封切りと同時に体験されていたんですか?

石田:いや、あの頃、阿佐ヶ谷オデオン座は三番館で、ロードショーは日比谷や築地でしかなかったんです。新宿もみんな二番館で、さらに阿佐ヶ谷に来る頃には三番手になってたんですね。それでグレン・フォードとシドニー・ポワチエの『暴力教室』、ジェームス・ディーン作品、西部劇だとジョン・スタージェス監督の『OK牧場の決斗』、『ガンヒルの決斗』、『ゴーストタウンの決斗』とか2本立てを観まくってましたね。あと、当時はSP盤からドーナツ盤に変わる時代で、高円寺とか阿佐ヶ谷の新星堂で映画音楽、特に西部劇の主題歌をドーナツ盤で買い出しました。また、兄貴の影響でビング・クロスビーやペリー・コモ、ドリス・デイ、アンドリュー・シスターズ、マクガイア・シスターズとかスタンダードなものも集めてましたね。

−−音楽や映画を通じてアメリカ文化にどっぷりだったんですね。ちなみに邦画もご覧になっていたんですか?

石田:もちろん観てましたよ。東千代之介や中村錦之助が大好きで、『笛吹童子』や『紅孔雀』、そのあと日本最初のシネスコ・カラー映画『鳳城の花嫁』の大友柳太朗とかあの辺はだいたい観てます。邦画全般を観ていましたが、僕は東映マニアで高円寺の東映専門エトワール劇場で東映映画をたくさん観ました。その中でも松田定次監督の映画が大好きでした。今から考えるとチープな映画なんですけどね(笑)。

−−それはおいくつ位の頃のお話ですか?

石田:小学校3〜5年位だったかな。

−−ずいぶんませてらしたんですね。

石田:本当、ませガキですよ。

 

2. エルヴィス・プレスリーにノックアウト!

−−そんなに早熟ですと、周りの友達とは話が合わなかったんじゃないですか?

石田:僕は「いかれポンチ」とか「ハイカラ」なんてあだ名がついていたくらいで、周りとは違って変な奴でしたね(笑)。あと、僕はエルヴィス・プレスリーが大好きなんです。ウェスタンにかぶれていた頃に『ウェスタン・キャラバンVol.4』という4曲入りのEP盤が出るんですよ。ジャケットはテンガロンを被った変な挿絵で、A面に「忘れじの人」「ミステリー・トレイン」というサン・レコード時代のエルヴィスの曲が入っていて、B面にはハンク・スノー「イエロー・ローゼズ」他が入っていました。ジャケットにはエルヴィス・”プリースリー”とスコッティとビルと書いてあって、「なんだこれ?」と思ったら、エルヴィス・プレスリーとギターのスコッティ・ムーアとベースのビル・ブラックのことだったんですよね。そこにはエルヴィスのことを「フランキー・レインと“泣き節”ジョニー・レイを合わせたような男が彗星の如く現れた」って紹介されてましたね(笑)。

−−つまりエルヴィスをデビュー当初からご存じなんですね。

石田:偶然知っちゃったんですよね。それが1956年だったんですが、しばらくしてから「ハートブレイク・ホテル」というRCAでの大ヒットがあって、それも日本には遅れて入ってくるんですが、エルヴィス・プレスリーという存在に一気にかぶれていきました。その後、エルヴィスの映画が入ってきました。まず『やさしく愛して(Love Me Tender)』、それから『さまよう青春(Loving You)』と『監獄ロック(Jailhouse Rock)』がちょっと遅れて入ってきて、米軍キャンプに知り合いがいたので英語もわからないのに座間まで観に行ったりしました。あとはエルヴィスが兵隊に入る前の『闇に響く声(King Creole)』とかね。レコードも国内盤だと何ヶ月も遅れるから、神保町の輸入盤専門店ミューズ社へ行って、『Schwann』というアメリカで毎月出ていたレコード・カタログのポップスの新譜欄を見ては、エルヴィスのレコードを注文してました。

石田 弘2

−−その頃にはプレスリーのファンクラブってあったんですか?

石田:ええ。エルヴィス・プレスリーファンクラブは前田キサさんという女性がやっていました。僕は初めからのメンバーでしたね。ちなみに『楢山節考』で著名な深沢七郎さんもエルヴィスが大好きで、深沢七郎さんの『東京のプリンスたち』という短編では、日本のロカビリーには目もくれずエルヴィスに熱狂するエルヴィス・プレスリーファンクラブの若者たちの行動・生態が描かれています。

−−石田さんがエルヴィスに惹かれたのはやはり彼の音楽だったんですか? それともキャラクターというか存在が好きだったんでしょうか?

石田:やっぱり音楽がかっこよかったですよね。

−−プレスリーを聴いていると当時の世間からは不良と思われたりしたんですか?

石田:やっぱり不良だったんでしょうね…。有楽町にバンド用のウェスタンの服を扱っている店があって、そこでシャツに「ELVIS」って刺繍を入れてもらってました(笑)。

−−凝ってましたね(笑)。

石田:滅茶苦茶凝ってましたね。2番目のアルバムの紫と白のストライプを混ぜたようなシャツもそっくりなのを買ってきたりとか。もうエルヴィスに狂ってましたよ。

−−もう一人の朝妻一郎さんみたいですね(笑)。朝妻さんはポール・アンカでしたけど。

石田:彼はファンクラブの会長ですけど、僕はヒラのメンバーだったから(笑)。それが今の差かな?(笑)

−−(笑)。いや、洋楽狂いという意味では共通してますよ。

石田:僕はエルヴィス・プレスリーという存在によって、色々なレコードを聴くようになりましたし、他の音楽にも広がっていきやすかったですね。例えば、ブルーグラスも大好きなんですが、そのきっかけはエルヴィスの「ザッツ・オール・ライト」の裏面の「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」なんです。そこに”作者ビル・モンロー”と書いてあって、「ビル・モンローってなんだ?」となるんだけど、後にそれは「ビル・モンローとブルーグラス・ボーイズだ!」とわかったんですよね。あの曲はもともとスローのワルツなんですが、エルヴィスはすごくアップテンポに歌っててね。それからフラット・アンド・スクラッグス、スタンレー・ブラザーズ、ダン・レノとレッド・スマイリーだとか覚えていって、そこでまたブルーグラス・マニアになっちゃうんですよ。

 それで今度は「キング・クレオール」をきっかけにニューオリンズ・ジャズに興味を持つようになって、消防5人組とかニューオリンズもののレコードを買うようになるんです。もうみんなエルヴィス絡みですよ(笑)。それでエルヴィスが兵隊から帰ってきて、しばらくしてから「ボサノヴァ・ベイビー」という曲が出したときはちょうどボサノヴァが流行ってて、「ボサノヴァ・ベイビー」はボサノヴァになんか全く関係ないんだけど(笑)、ヴァーブのボサノヴァ・シリーズ、後にクリード・テイラーのCTIレコーズ、「ゲッツ/ジルベルト」のスタン・ゲッツとか、ボサノヴァ、サンバの何から何まで! という感じで聴いていましたね。最後は「おニャン子」を連れてブラジルまで行っちゃいましたからね(笑)。リオのカーニバルに踊りに行っちゃうんだから!(笑)

−−(笑)。

石田:昔、木崎義二さんが「石田ちゃん、メンフィス行って来た! メンフィスには“エルヴィス・プレスリー・ブールバード”っていうのがあるんだからね」って言ってきて、僕は悔しくて「なんだそんなの! 家の近所の江古田にも“三波春夫通り”っていうのがあるよ!」って言い返してやったんですよ(笑)。

−−大人げないですね(笑)。

石田:それが悔しくて悔しくて、ニューオリンズからニューヨークに戻るときに、メンフィスに立ち寄ってレンタカーを借りて、「エルヴィス・プレスリー通りはどこにあるんだ?」とエルヴィスの家があるグレイスランドまで行きましたよ(笑)。ちょうどエルヴィスが入院してた頃でした。もうそれから何回グレイスランドに行ったことか…。

−−結局、エルヴィスとは対面できたんですか?

石田:ラスベガスにステージを観に行ったのと、『リブ・ヤング!』で“ハワイのエルヴィスを観に行こう”って募集して集まった270人を連れてHICホノルルインターナショナルセンターで3回公演を全部観ただけですね。それは1月のサテライトでやったときじゃなくて、その前の11月にやったときです。そのときにエルヴィスがヒルトンのレインボータワーの一番てっぺんでマスコミ相手にインタビューをしたんですよ。でも、僕はそんなことも知らずに朝早くにフィッシャーマンズワーフから「マグロを釣るんだ」って船に乗って行っちゃったんですよ(笑)。結局何も釣れないし(笑)、船酔いでヘロヘロになって午後帰ってきたら「石田さんなにやってんの! エルヴィスがインタビューをやってるから探したのに! ホテルのどこにもいないんだから!」って言われて…その当時は携帯なんてなかったですからね。

−−それはもったいなさ過ぎですね…。

石田:それで近くで会えなかったんですよ…。結局ステージを観ただけで終わっちゃいましたね。

 

3. 伝説の『リブ・ヤング!』

−−お話を伺ってると小学生の頃からのご趣味がそのままお仕事になっていますね。

石田:もともと映画が好きでしたから、中学のときは映画監督に一時憧れたこともあったんですが、やがてエルヴィスの映画ばかり観て、『さまよう青春』なんか20回以上も観てますから、「ミーン・ウーマン・ブルース」や「ゴット・ア・ロット・オブ・リヴィング・トゥ・ドゥ」の歌やアクションを全部覚えちゃって、よくまねしていました(笑)。

−−(笑)。

石田:でも歌が唄えるわけでもないし、初期のエルヴィスの真似してマーティンを買ってきたって手が小さいから上手く弾けなくてね。それでテレビのディレクターになろうと思ったんですよ。

−−高校のときにはもうテレビのディレクターになろうと考えてらっしゃったんですね。

石田:それで日大の芸術学部にでも入ればいいかなと思ってね。でも入ったからって簡単にディレクターになれるわけじゃないですから、大学4年の途中からバイトをして、それで中途採用試験を受けてフジの社員になったんですよ。

−−ちゃんと計算してらしたんですね(笑)。

石田:適当にですけどね(笑)。タイミングが良かっただけですよ。

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−−でもそう考えていても、テレビ局にはなかなか入れないじゃないですか。

石田:そうですね。ほとんどは制作会社とかに行って終わっちゃいますからね。よく会社が拾ってくれたと思いますよ。

−−バイト時代はいわゆるADをやられていたんですか?

石田:古い人なら知っていると思うんですが、『三匹の侍』という時代劇のADをやっていました。

−−長門勇さんとかが出ていたドラマですよね。

石田:そうです。丹波哲郎はもう辞めてたけどね。加藤剛、それから平幹二朗。あれはスタジオドラマだったです。最初の頃は下っ端だからダメだったんですが、何年か経ったときにADが予告編を作るんですよ。それで僕が予告編を作ったときに、次週のサブタイトルが「地獄を見た」でチャンバラのシーンと目のアップ写真を持ってきて、音楽にチャーリー・ミンガスを使ったら「なんでモダンジャズなんかかけてんだ! これはフランス映画じゃなくて時代劇なんだ!」ってディレクターにめちゃくちゃ怒られちゃったんですよね(笑)。

−−すごく格好いい予告編だと思いますけどね(笑)。正式にフジテレビに入社されたときは何をされていたんですか?

石田:まだドラマのADをやってました。僕がディレクターデビューするのは26歳のときで、NHKの『ふるさとの歌まつり』みたいなものをフジも生放送でやろうってことで、日曜日の12時に『こんにちは、ふるさとさん』っていうダサいタイトルの番組でデビューしました(笑)。八郎潟の開拓村に坂本九ちゃんとデキシー・キングスを連れていって、開拓村のバンドと坂本九ちゃんが共演するみたいな変な番組でした。

−−フジテレビって昔プロダクション時代とかありましたよね。

石田:そうですね。フジテレビが社内プロダクション化して、フジプロダクションとか色々できたんですが、「これからはビデオの時代だ」と石田達郎さんが言うもんだから、僕はプロダクションには行かないで、番組制作を離れてビデオ製作部という新しくできた部署に行くんです。そこで「ビデオは何が売れるか」というと”How toもの”と”アダルト”しかないんですよ(笑)。だから『裾も乱れて』とか『ヌードポップス』といったタイトルのヌードビデオなんて作っていた時代もありました(笑)。そうこうしているうちに「こんなことをやっていてもしょうがない」と思って、逃げ出したくてフジプロへ出向するんです。

−−なぜフジプロダクションだったんですか?

石田:フジプロには岡田太郎さんがいたんですが、『三匹の侍』の最後のときに太郎さんがディレクターで僕がADだった関係もあったので、「太郎さんがいるところに出向させてくれ」と願い出たんです。それで入るときに「僕はもうドラマはやらない。もともと音楽志望でこの世界に入ったんだから、そういう番組をやらせてくれ」と言って適当にフラフラしてたんですよ。そうしたら太郎さんから「日曜の夕方に競馬の後を繋ぐ若いサラリーマン向けの番組を考えろ」って言われて、『リブ・ヤング!』の企画を考えたんです。

−−『リブ・ヤング!』は競馬の後を繋ぐ番組だったんですか(笑)。

石田:その当時『平凡パンチ』や『週刊プレイボーイ』といった雑誌が出てきて、カジュアル志向の人が増えてきてたので、『平凡パンチ』に載っているような情報を全部画にしちゃえと。メインは『パックインミュージック』で非常にウケてた愛川欽也。あと、『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』からビーバーと、バーターでボンド企画の高杉社長が獨協を出て間もないモデルがいるって、それが柴俊夫。そこに『平凡パンチ』を辞めたばかりの今野雄二を加えて番組を始めました。

 『リブ・ヤング!』を始めたときはグループ・サウンズが終焉して歌謡曲の時代に戻っていたんですが、歌謡曲をやっている番組はいっぱいあったので「違う路線でいかないと自分のポジションが作れない」と思って、情報番組だけど洋楽と日本のフォークやロックを専門でやることにして、後は遊びです。例えば、六大学の女の子とかデパガとかを毎週5人位並べて視聴者に電話で投票させて、一番投票の多かった子に投票から一枚選んで逆電話させたりね。あと、「地中海クラブ」とタイアップしてたので、その二人で海外のクラブ巡りをして”そこに恋は生まれるか?”という企画「デート・アラウンド・ザ・ワールド」とか、今で言う『あいのり』ですよ(笑)。それで番組では洋楽あるいは邦楽はフォーク・ロックしか扱わなかったので矢沢永吉がキャロルのテープ送ってきたりしましたね。

−−え? 矢沢永吉さんが『リブ・ヤング!』にテープを送ったんですか?

石田:そうですよ。『リブ・ヤング!』に出たキャロルをミッキー・カーチスが観て、「プロデュースさせてくれ」って言うから、紹介してフォノグラムからキャロルがデビューするんですよ。最初の頃のアルバムの中に「ライブ・イン “リブ・ヤング”」なんていうのもありますよ。拓郎やユーミンもみんなテレビ初出演は『リブ・ヤング!』ですしね。アリスとかチューリップとかもだいたいそうですね。

−−みんな『リブ・ヤング!』を足がかりにしていったんですね。

石田:あとテレビ神奈川の『ヤング・インパルス』ですね。洋楽面で言うと、番組開始当初は「洋楽情報」というコーナーをやっていたんですが、自分達で取材しない限り、なかなか映像が入ってこない時代だったので「洋楽のプロモーションはプロモーター自身で喋ってくれ」とそのコーナーを開放したんです。そうしたら洋楽プロモーターが自分たちの出方を工夫して、番組内でプロモーションし出したんですが、その最たる例が石坂敬一さん(現ユニバーサルミュージック(株) 代表取締役会長兼CEO)ですね。彼はグラムロックのアーティストになりきって、メイクをして生放送の番組でプロモーションしていました。彼がすごいのはTレックスのマーク・ボランを連れてきて、番組に出してくれましたからね。その後もスリー・ドッグ・ナイトやアリス・クーパーとか、色々な人が続きました。

−−要するに来日すると全部呼んでいたということですか?

石田:そうですね。演奏できるアーティストは特にですね。

 

4. これからはダサい感じでやろう!〜『オールナイトフジ』での発想転換

−−その後『ミュージックフェア』を手掛けられますよね。

石田:フォーク・ロックがだんだんメジャーになってきて、「林春生」のペンネームで「雨の御堂筋」や「京都の恋」、「サザエさん」のテーマソングなどを作詞した林良三さんという当時の『ミュージックフェア』のプロデューサーから「『ミュージックフェア』でもこれからはフォークやロックが必要だから入ってくれ」と言われて、僕が入ったら『ミュージックフェア』がだんだん『“ニュー”ミュージックフェア』になっていっちゃったんですよ(笑)。

−−『ミュージックフェア』にも面白いエピソードがいっぱいありそうですね。

石田:いくらでもありますよ。エルヴィスによって知ったビル・モンローとブルーグラス・ボーイズが最後に来日したときも『ミュージックフェア』に出しちゃったんですからね。マニアック過ぎますよね(笑)。彼らを森山良子と共演させて「アイ・ソー・ザ・ライト」とか歌わせて、途中で石川鷹彦を入れてソロ回しをしたら、石川君のほうが向こうのギタリストよりも上手いもんだから「うちのギターじゃなくておまえがソロをやれ」って(笑)。彼もいい思い出なんじゃないかな?

−−確かにある時期から『ミュージックフェア』にも外タレやフォーク・ロック系のミュージシャンがたくさん出るようになりましたよね。

石田:なぜフォークやロックの歌手が出演してくれるようになったかというと、テレビがステレオ化するにあたって、会社にミックスダウンスタジオを作ってもらったからなんです。そこにSTUDERを置いてマルチスタジオにして、トラックダウンをできるようにしたので、先ほどお話したドゥービーのライブもミックスできたんです。だから「テレビは音が悪い」と言っていたニューミュージック系の歌手も出るようになったんですね。

−−石田さんはコンサートフィルムも作られていますよね。きっかけは何だったのですか?

石田:テレビのステレオ化時代が来る数年前だと思いますが、後藤由多加さん(現 (株)フォーライフ ミュージックエンタテインメント 代表取締役)が電話をかけてきて、「拓郎とかぐや姫がつま恋で5万人コンサートをやるからフィルムで撮ってくれないか?」と頼まれたんです。この前も久しぶりに「つま恋コンサート」を彼らはやってましたが、そのときも拓郎から「NHK BSでやってくれ」と電話がかかってきて、「フジの社員の俺がそんなことできるわけないだろう」と言ったら、「フジ辞めたんじゃないの?」だって(笑)。結局、『ミュージックフェア』でADをやっていた奴が今外部にいてNHK BSのディレクションをやっているから、彼がやったんだけど、話を戻すと、つま恋や拓郎の篠島コンサートを撮ったり、かぐや姫の映画を作ったりと、コンサートの音楽ドキュメンタリーをある時期から作るようになったんです。最初は『ウッドストック』を観て色々と研究したんですが、資金もないしカメラの台数も少ないですから、かなうわけないんですよね(笑)。

−−(笑)。それはパッケージとして発売するためのものだったんですか?

石田:もともとはユイ音楽工房が夢番地やサンデーフォークといったコンサート業者相手にフィルムコンサートでビジネスしたんですよ。あと、音楽CMも作りましたね。一番最初の音楽CMはシンコーの草野さんの発案でした。チューリップが「心の旅」を出すときにシンコーの草野さんが「TVでスポットをやりたい」と言って、それで作ったんですよ。だから最初にそういうフィルムを作ったのがチューリップなんです。

−−今で言うビデオクリップですよね。

石田:そうですね。最初はビートルズの『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』からヒントを得て、チューリップがレコーディングしてリハをして、コンサート会場に入って、さあ行くぞっていう25分くらいのコミカルな映像をコンサートの緞帳にかけて、緞帳が上がると演奏が始まるという演出を考えたんですよ。そうしたら当時、東芝の社長さんが「こんなことができるのか!」と喜んでくれましてね。そういったフィルムから生に繋げる演出は今、色々なアーティストがやっているでしょう? それを観ていた後藤さんたちから「つま恋や篠島の映像を作ってくれ」と頼んできたんですよ。

−−石田さんは常に新しいことをしてきたんですね。

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石田:だから売れないんですよ。30代は全くアウトローです。メジャーな番組をやってもすぐ終わらせちゃうから、だんだんやれなくなってしまいました(笑)。

−−それがだんだんとバラエティー番組の方も手掛けるようになるんですか?

石田:もともとバラエティーもやっていたんですが、これもかっ飛びすぎて当たらないんですよ(笑)。めちゃくちゃお金かけたのが土曜7時半のゴールデンタイムにやったハウス食品の『アップルハウス』という番組で、加藤和彦と竹内まりやが司会でした。それで『スネークマン・ショー』が面白かったから桑原茂一さんを呼んできて、色々なアイディアを出してもらったんですが、全然当たらなくて、色々と反省するわけですよ(笑)。なにしろオープニングテーマなんかレッド・ツェッペリンのアルバム『フィジカル・グラフィティ』のジャケットそっくりのアニメを作って、出演するゲストたちが窓から顔を出すようにしたものに、バグルスの『ラジオ・スターの悲劇』を真似して作った曲を流したんです。それじゃ当たらないですよね(笑)。

 それでこれまでは半歩リードしたようなことばっかりやってきたけど、番組を当てるために「これからはダサい感じでやろう」と思ったんですよね。だんだん情報過多の時代になってきてテレビがそんなかっこつけて先走ったことやるよりも、後にのっかるほうか当たるんじゃないかと思うようになってきたんですよ。その頃『素敵なあなた』という日テレの『今夜は最高』みたいな一時間番組を土曜の夜中にやっていたんですが、あるとき上司に呼ばれて「『素敵なあなた』の枠で生番組をやれ」と言われたんです。

−−それが『オールナイトフジ』になるわけですね。

石田:そうです。それで予算がないから、とりあえず女子アナでも並べるかと思ったんですが、当時の編成局長、今の会長ですが(笑)、日枝さんから「もっとアパッチなことを考えろ!」と言われたんですよ。

−−そこで女子大生に目を付けたと。

石田:その当時「女子大生亡国論」ということが言われていたんです。つまり、時代が一億総中流意識になってきて、みんな娘を女子大に入れるものだから、私立の女子高がやたらと女子大を増やしていった時期なんですね。あげく「うちの娘はアメリカの大学へ留学させたい」なんて言う家庭が増えていったから、「テンプル大学日本分校」ができて、「アメリカ行かなくてもアメリカの大学入れちゃう!」という現象が起きてしまったんですよ(笑)。そんな時代になっていったんですね。これは面白いなと思って、「よし! 有名校から無名校、ピンからキリまで含めて女子大生を並べて学園祭ノリのバカ番組を作っちゃおう!」と。「私たちはバカじゃない!」「いや、バカだ!」みたいな番組をね(笑)。ちなみに出演した女子大生が「私たちはバカじゃない!」っていう本も出したんですよ。

−−(笑)。

石田:それで司会を秋本奈緒美にしたんです。彼女はビーイングからデビューしたんですが、日本語でジャズをやるとかいって話題になっていたんですね。それで彼女を司会にして、女子大生を並べて、でも話が進まなかったらつまらないから片岡鶴太郎を助け船で呼んできて始めたんです。どうせ夜中の番組だから指定時間なんてどうでもいいじゃないか、朝6時までは何でもできると「終了時間未定」として、スタジオの機能を全てフロアーに降ろし、どうやって番組を作っているか全部分かるように見せたんです。ゲストもスタジオ内のバーで待機させてね。それで「何時に何をやるか分からない」と言われたので雑誌みたいに目次を作ったり、サーフィンが流行っていたので全国の波情報を流したりしながら、女子大生のバカ番組を始めました。番組を始めたときに「3ヶ月で文春とか新潮とか堅めの週刊誌に叩かれでもしない限り、深夜の番組が話題になるわけない」と僕は思ってたんです。だから叩かれたら勝つと。逆に叩かれなかったら続かないとね。

−−それで見事に叩かれたと(笑)。

石田:そうです。「フジテレビの軽薄番組」とか言われて、「よし!」と思いましたね。それで叩かれた3週間後に『リブ・ヤング!』の頃から繋がりのあった『週刊プレイボーイ』に頼んで、女子大生たちに「オールナイターズ」という名前をつけて、「○○で叩かれたお馴染みの女子大生、グラビアに初登場!」ってバーンと出したんですよ。番組を当てるために、そういうサイド攻撃を常にやらせてましたね。あと、当時はパッケージビデオが少しずつ売れるようになってきたからフジテレビも映画を作ったり、ビデオを出すようになっていったんですね。そのときアダルトビデオのディレクターをやっていた頃の記憶が蘇り「一番売れるのは今の時代だってアダルトビデオだ」と番組の中で映画のビデオやスポーツ関係のビデオと一緒にアダルトビデオの紹介もやったんですよ。でもただ単に紹介するだけだとウケないから、山崎美貴とか3人の女子大生に紹介させてね(笑)。

−−すごく恥ずかしそうにアダルトビデオを紹介してましたよね(笑)。

石田:台本にはコメントを書かないで、アダルトビデオを紹介する直前にコメントの紙を渡すんです。そこにはフリガナ抜きで「陵辱」とか「悶絶」とか書かれていて(笑)、「わかんない!」「読めない!」とか言っている横で、バーで待機しているゲストがモニターに流れるアダルトビデオを観ているときに、そのゲストの顔をアップで映すんですよ(笑)。そうするとビックリしちゃったりね(笑)。

 それで番組をやっているうちにその3人組の人気が出ちゃったので、「こいつらでレコードを出そう」と「おかわりシスターズ」という名前でデビューさせたんですが、どこのレコード会社も相手にしてくれなくて、最終的に後藤さんのフォーライフが「自分のところでやってもいい」と言ってくれて「恋をアンコール」という曲を出したんです。そうしたら東京単の番組にもかかわらず、オリコン14位とかになっちゃったんですよ。そのときにビデオクリップを作ろうと思って、ただ作ったんでは面白くないから、ボストンに行くことにしたんですよ。ボストンはアメリカでもハーバードとか、有数の名門大学がある教養のある街だから、頭の良さそうな街でバカな女子大生の恋心を映像に撮ってこいってね(笑)。そのアンバランスさがウケたのかもしれないですね。

 

5. 「おニャン子クラブ」はテレビ屋としてのビジネス

石田 弘5

−−確か『オールナイト・フジ』の女子高生スペシャルか何かが、『夕やけニャンニャン』に繋がるんですよね?

石田:そうですね。調子に乗って「おかわりシスターズ」の次に「おあずけシスターズ」とか、「今度は人妻を並べちゃおう!」と思ったら3人しか集まらなくて(笑)、「ME-MISⅢ(ミミズ三匹)」ってグループ名にしたんだけど全然売れなくてね…(笑)。それで『オールナイトフジ』を観ているのは誰か? と考えたときに、土曜日の夜だから予備校生や大学生、あとブルーカラーやウォーター・ビジネスを僕たちは想定していたんですが、実は中・高校生が一番観ていると分かって「だったら中・高校生のための番組を作ろう」と思ったんです。

 それで昔『ビート・ポップス』をやっていた土曜の3時とかそのあたりで1時間か1時間半くらいで作らせてくれと編成局長に頼みに行きました。「おかわりシスターズ」が当たったことが頭にあったので、高校生のクラスの隣の席の女の子がアイドルになっちゃう「女子高生芸能クラブ」みたいな発想で番組を作ろうと思いました。この番組を作れば、色々なビジネス・チャンスが生まれるだろうと。レコード・ビジネスになるかもしれないですしね。

 そうしたら「そんなの視聴率を取らなきゃ駄目なんだよ!」と言われちゃったので(笑)、番組を始める前に『オールナイトフジ 女子高生スペシャル』として土曜日に2回テストをしたんです。そこで集めたメンバーにソニーのSDから借りてきた河合その子などを加えたりしたから、正確に言うと全部が女子高生じゃないんですが、テスト後に編成局長から「やるんだったら月〜金まで毎日やったほうがいいんじゃないか?」と言われて、毎日やることになったんです。

−−『夕やけニャンニャン』というタイトルどのようにして決まったんですか?

石田:当時「ニャンニャン事件」とかあったじゃないですか。あの頃、「夕暮れ族」とか「たそがれ族」とかそういう言葉が流行っていたから、本当は「たそがれニャンニャン」とつけようと思ったんですが、「”たそがれ”で”ニャンニャン”じゃ酷すぎる」と言われて、「もっとダサいタイトルはないかな?」と思っていたときに、三橋美智也の『夕やけとんび』の歌詞が頭に浮かんできたんですよ(笑)。「夕やけ」というダサい感じと「ニャンニャン」という危険な響きを合わせるとちょうどいいなと思ったんです(笑)。

−−最初『夕やけニャンニャン』というタイトルを聞いたときはひっくり返りましたよ(笑)。

石田:「夕やけ」をつけると「ニャンニャン」のいやらしさが消えるじゃないですか?(笑) 本当にくだらないよね。とにかくくだらないタイトルをみんな考えろと言ったんですよ。そしたら出てくるのが「娘の秘宝館」とか「ニャンニャン秘宝館」とか、酷いのばっかりでね(笑)。そういったくだらないことをみんな真剣になって考えていましたね。

−−でも、「おニャン子」関係でレコードも相当売れましたよね。

石田:そうですね。『オールナイトフジ』のときに色々協力してくれたレコード会社と仲間たち、ポニーキャニオンは身内だけど、ソニーは丸さん(丸山茂雄氏)と稲さん(稲垣博司氏)、ワーナーは寺ちゃん、フォーライフ後藤さんたちと「おニャン子」もやったんですよ。

−−とにかく一大センセーショナルな番組でした。

石田:そして「セーラー服を脱がさないで」が大ヒットしたので「ファンクラブを作ろう」と思ったんです。なぜかと言うと、ファンクラブを作ればこれから出すレコードのイニシャルも読めるし、その方がレコード戦略が上手くいくとみんなで考えたんですね。でも、当時の制作部長が「ファンクラブまで動かしたら大変だから頼むから止めてくれ」と言うから、「当たれば朝妻さんのところが一番儲かるんだから」と言ってファンクラブは朝妻一郎さんのところで管理してもらいました(笑)。それで会員をテレビで募集してもつまらないから、河合その子のソロデビューシングル「涙の茉莉花LOVE(なみだのジャスミン・ラヴ)」の中に申込用紙を入れて「現金書留で1500円送って下さい」と募集したんですよ。「涙の茉莉花LOVE」は金曜日発売で土日は休みだから、現金書留を送っても地方からだと月曜日には間に合わないだろうし、来るとしても関東からしか来ないと思っていたんですが、初日に19,000通とか申込が来ちゃったんですよ。

−−19,000通ですか! すごいですね…。

石田:その一週間のうちに50,000通の申し込みがありました。1,500円×50,000通分の現金が来たので、フジパ(フジパシフィック音楽出版)は大騒ぎですよ。ファンクラブは「こニャン子クラブ」というネーミングで、最高時は18万人もいたんです。まあ、そういうことがあってブームになっていくんですが、「おニャン子」が始まってしばらくして「おニャン子」関連のシングルが36週オリコン一位なったんですよ。一年間52週のうち36週ですからね。未だに破られていないんですよね。だって毎週何かしら作品を出しているんですからね。

−−36週一位って今じゃ考えられませんね・・・。『LIVE AID』もその頃に担当されてましたよね?

石田:それをやりながら『LIVE AID』をやっていたんですよ。日本の担当プロデューサーだったんです。契約も全部やりましたね。

−−「おニャン子クラブ」と『LIVE AID』って両極端ですよね。

石田:音楽は自分のマインド。「おニャン子クラブ」はテレビ屋としてのビジネスですね。テレビは当たんなきゃしょうがないですしね。

−−まさに「おニャン子クラブ」の展開は360°ビジネスですよね。

石田:「おニャン子」は最初セーラーズの服を着ていたんですが、グッズも自分たちで作るようになりました。その当時、僕らがよく行っていた六本木の『Hip』 という店があって、音楽系の人間が集まっていた店なんですが、そこから名前を拝借してブランド名を『Hip’s road』にしたんです。そのために「ON AIR」という会社も作って、フジの社内からデザインの上手い奴を集めて、そこにプロのデザイナーを入れて、『Hip’s road』のグッズ戦略が始まるわけです(笑)。ただのTシャツとかそんなレベルではなくて、ブルゾンやジージャン、靴下や靴、とにかくなんでもアリでね。それで原宿に店を出そうとしたら竹下通り沿いには空きがなくて、一本道を入ったところが空いてたのですぐ押さえて、そこに1年半くらい店を出したんですが、あの頃、周囲の店の売り上げが平日が80万、休日が150万だったところ、うちは平日150万、土日500万売り上げたんですよ(笑)。

−−周りの店の倍以上ですね! それはフジテレビの仕事になるんですか?

石田:フジテレビとさっき話した「ON AIR」という会社の仕事ですね。今も社内や外に「エフアイランド」というグッズ屋がありますが、あれももともとは「おニャン子」のときに作った会社です。あとは音楽出版とか、写真集、ビデオの権利分配システムも完備していて、それが今のライツ開発のベースになっています。「おニャン子」でそういうノウハウを全部覚えちゃったんですよ。

−−どれも今のフジテレビのベースになっているんですね。これだけ貢献度が高いとたくさん表彰されたりしたんじゃないですか?

石田:フジサンケイ・グループ議長賞とかフジテレビ社長賞など色々もらいましたが、たいした金額じゃなくて、みんなでパーッとやったら全部なくなっちゃいましたね(笑)。

 

6. バラエティーは走り出したら止まれない!

−−とんねるずとはどのように出会ったんですか?

石田:『オールナイトフジ』をやって1年目くらいのときに、横沢さん系の『THE MANZAI』や『笑ってる場合ですよ!』、『笑っていいとも!』、『おれたちひょうきん族』とかが当たっているんだったら、僕たちも若いお笑い芸人を探してきて『オールナイトフジ』の中にそういうコーナーを作ろうと思ったんですよ。鶴太郎は中に入れておいたけど、それはお笑いとしてよりも進行上役で入れたわけですからね。それで港浩一がとんねるずを連れてきたんです。でも、そのあととんねるずだけじゃなくて、パワーズやちびっこギャング、ウンナンとか結構たくさん入れてたんです。それで各のネタをやっていたんですが、そんなに一杯やっても番組が転がらないから、みんな切ってとんねるずだけ残したんですよ。そのあとウンナンなんかブレイクするんですけどね(笑)。失敗したなぁ(笑)。

−−その中からなぜ、とんねるずを残したんですか?

石田:彼らの「よくいる学校の先生の真似」とか、そういうネタをオールナイターズの女子大生が面白がるんですよ。僕は最初その面白さがよくわからなかったんですが、「これはユーミンの歌と同じだ」と思ったんです。つまり、特別歌が上手いわけではないけれど、その世代の心情を非常に上手く掴んだことをやっているからウケるんだろうなと。そうこうしているうちに彼らはどんどん人気が上がってきたんですが、お笑いだけじゃなく「一気!」だとか「青年の主張」といった歌を出していたこともよかったんじゃないかなと思います。その頃、お笑いで歌を歌ってるタレントは他にあんまりいなかったですからね。あと、彼らは最初からスタイリストを付けていたんですよ。だからお笑いなんて格好良くなかった時代に、彼らは最初から都会的で格好良かったんですよ。

 それでそのまま『夕やけニャンニャン』に起用して、彼らは一時期、月曜日から土曜日まで毎日フジテレビに来ていましたね(笑)。そうこうしているうちに『火曜ワイドスペシャル』をとんねるずでやらせてくれと石橋貴明本人が日枝局長に直談判して、とんねるずの番組をやったら数字が18%とか取るようになって、「これをレギュラーにしよう」と木曜9時の『とんねるずのみなさんのおかげです』になるわけです。

−−『とんねるずのみなさんのおかげです』も人気がありましたよね。

石田:これも『ザ・ベストテン』の裏だったから大変で、番組が始まる前にTBSに挨拶に行ったんですよ。実は『ザ・ベストテン』とは「おニャン子」で大げんかしていてね。「おニャン子」も『ザ・ベストテン』でチャートインしたから出演させたんですが、8位とか9位とか下の方ですぐに圏外に落ちてしまうから「一体どういう集計してるんだ?」と聞いたら、レコードの売り上げ1/3、TBSラジオのリクエスト1/3、ベストテンに直接来るはがき1/3だとか適当なこと言ってるんですよ。そもそも「おニャン子」のマネージメントは全てフジテレビのスタッフがやっていて、他局の番組に出るときも僕たちは付きっきりになるから大変なんですよ。だからそんな扱いで出すのも馬鹿馬鹿しいと思って、『ザ・ベストテン』に「おニャン子」を出すの止めたら、『ザ・ベストテン』では「今日も河田町の変なマークの陰謀で、おニャン子は出演できません」とかやってるわけですよ(笑)。とんねるずも『夕やけニャンニャン』の中で、TBSのプロデューサーは東大で僕と笠井は日大だから「東大・日大戦争勃発!」と笑いを取っていたんです。滅茶苦茶ですよね(笑)。

 そういう経緯があったので『みなさん』を木曜9時にやるときに、まだ『ザ・ベストテン』は続いていたし、同じプロデューサーだったからTBSへ行ったんです。なぜかというとゲストをお笑いじゃなくて、タレントや歌い手にしたかったからなんですよ。現に1発目のゲストは松田聖子で、彼女は『ザ・ベストテン』に出ないで、こっちに出たんです。そのために歌手をゲストに呼ぶときに『ザ・ベストテン』に邪魔されたくなかったから、『ザ・ベストテン』のチャートに入る前か、チャートから落ちたあとにしか僕たちは番組に出さないから、「おニャン子」では色々あったけど、ひとつヨロシクと挨拶しに行ったんですよ。

−−過去のことは水に流そうと。

石田 弘6

石田:それで「分かりました」とか言っていたくせに、あるアイドル系が木曜8時のドラマの主演だったから、そのまま『みなさん』に繋げて出そうとしたら、「そんなのに出たらベストテンに出さない」と言われちゃったらしくて、その話を聞いたときは「コノヤロウ!」と思いましたね(笑)。ただ、それも無理ないことで、かつては視聴率20%取っていたベストテンも、『みなさん』がスタートしたら、『みなさん』は14.7%とって、ベストテンは12.7%まで落っこっちゃったんですよ。もう、『みなさん』が始まる前からベストテンの視聴率は落ちだしていたんですが、翌週はうちが約17%、むこうは10%前後になってしまったんですね。3週目はうちがクロマティを呼んできて、チャンバラをやらせて「クロマティ侍」というのをやったんですよ(笑)。本当は巨人時代の乱闘シーンを使いたかったんですが駄目だと言われちゃってね(笑)。それでとうとう20%を越えちゃったんですよ。そのうちベストテンは視聴率が一桁になっていって。

−−『とんねるずのみなさんのおかげです』は『ザ・ベストテン』に引導を渡したんですね。

石田:『ザ・ベストテン』を潰した番組と言われていますね。その仇を『渡る世間は鬼ばかり』でやられたんですよ(笑)。悔しいことに『渡る世間〜』にずっと勝てませんでした(笑)。今はずっと勝ってて嬉しいですけど、最近は接近してきてるんだよね(笑)。

−−未だにTBSとの闘いは続いているんですね。

石田: でも、最近の若いTBSのスタッフとはすごく仲がいいですよ(笑)。

−−かつての「野猿」とか、今は「矢島美容室」とか色々仕掛けますよね。あのテネシーから来たという・・・。

石田:いや、ネバダです(笑)。今は着メロを出だしています。出してすぐは1位だったんですがEXILEが曲を出したら落っこっちゃいました(笑)。でも、10/29に発売したシングルはオリコンで3位ですよ。

−−そうなんですか? すごいですね。ここの部屋にもオリコン・チャートが貼ってあったり、なんだかレコード会社に来たような気分です。

石田:テレビ局はなんでもやるんですよ。テレビだけやってても何も話題にならないんです。ドラマはNHK大河ドラマや『渡る世間〜』みたいなものを除いて、今はみんな1クールで終わっていきますが、バラエティーは走り出したら、ずっと走るんです。ボコボコになるまで走らないといけない(笑)。そのためにバラエティーは絶えず話題を提供していかないとしょうがないんですよ。歌をどうするとか、何か言葉を流行らすとかね。今の「羞恥心」だってそうですよ。そういう風に視聴者を巻き込んで、渦を作っていかないと続かないです。視聴率が全てなんですからね。バラエティーは簡単なように見えて、そこが難しいところなんですよ。でも、おかげで21年もやれてるんですからね(笑)。

 

7.『LIVE AID』で得た達成感〜音楽で一番強いのは生演奏!

−−今の音楽業界やテレビ業界に対してお感じになられていることは?

石田:テレビとかいう以前に、音楽のパッケージがここまで駄目になっていくとね・・・。もちろん着メロもいいし、iPodもいいけど、音楽がただの情報になっていくというのはつまらないし、悲しすぎますよね。今はあまりにも色々な娯楽が増え過ぎちゃって、これからの若者は小さいときからパソコンをいじったりしてたら、音楽なんかに興味を持たないだろうし、聴くとしても打ち込みのダンス音楽ばかりになってしまう。打ち込みを悪いとは言いませんが、やっぱり音楽で一番強いのは生演奏だと思うんですよ。

−−やはりそこに戻っていくと。

石田:これだけ打ち込み全盛になって、ミュージシャンだって食べていけない人が多いわけでしょう? 若い世代と言ったって人それぞれだから一概には言えないけれど、音楽でグッと涙したりとかないんですかね?(笑)

−−あると信じたいですけどね。

石田:逆に精神的に支えられたりね。泣くにしても喜ぶにしても、音楽で癒されたり、その音楽が自分の中にずっと残るとか、そういうことはないのかな? と思いますね。それが一番「つまんない時代になったな」と思うことですよ。

−−どうしたらいいんでしょうか・・・?

石田:わからない(笑)。でも、会場の大小に関係なく、コンサートとかを通じて客に音楽の良さをちゃんと伝えていくことが、これからはもっと大事になってくるんじゃないかなと思いますね。だって、このままでいったら音楽はただの情報になっちゃいますからね。洪水のごとく音楽が生まれては消えていく。まさにバブル、泡ですよね(笑)。それではあまりにも悲しいですよ。

−−そう考えると石田さんは音楽のいい時代を過ごされたのかもしれませんね。

石田:50年代半ばからアメリカのポップスが黒人音楽の影響を発端として大きく変わってきて、ロックンロールが出現したりと、いい時代のアメリカ、あとイギリスとか音楽の黄金時代に仕事をしてきましたからね。ペリー・コモやビング・クロスビー、フランク・シナトラといった、スタンダードの時代はみんなビッグ・バンドの歌い手からスタートしているわけです。そのあとにロックンロールが出現して、そこから色々な動きが出てくる一番いい時代を僕は体感できました。50年代、60年代ときて69年のウッドストック以降、また音楽の流れが大きく変わったりね。

−−まさに音楽が文化をリードし、社会を変革した時代ですね。

石田:そうですね。そういったいい時代を見たり、色々な仕事をできてきましたからね。だから41歳のときに『LIVE AID』の放送に携われたときは、テレビ屋になって本当によかったなと思いましたね。

−−音楽を通じて世界と繋がった瞬間ですものね。

石田:日本からも矢沢永吉とオフコース、それとあの頃アメリカでウケていたラウドネス、それと佐野元春の映像を流して、あとは向こうから衛星中継したんですが、音楽が大好きで、特にロックをベースに色々な音楽を聴いてきた自分がそういうところに携われて、「これで終わってもいいや!」と本気で思いましたよ。もちろんそれと同時に「おニャン子」も始まっていましたけどね。

−−石田さんのお仕事の中でも『LIVE AID』はひとつの頂点なんですね。

石田:僕にとってはそうですね。

−−石田さんは未だに現場に立たれているわけで、すごいパワーだなと感じます。現役バリバリというか。

石田:65歳なのにまだ会社にいますしね(笑)。

−−一度定年されているのに、やっていることはずっと変わりませんよね(笑)。

石田:定年は60歳ですが役員待遇だったので62歳まで伸びて、今は会社が嘱託で僕を置いているんですよ。変わったことといえば、会社の会議とかあまり出なくてよくなったことくらいですね。

−−逆に集中できていいんじゃないですか?

石田:外の仕事もよくやっていますしね。今、加山雄三とワイルドワンズのツアーの演出をしているんですが、全部で40本くらいやるんです。その前は谷村新司の全国ツアーとかやっていたときもありますし、外の仕事も平気でやっていますね。前は事業イベントの演出をしていたときもあるんですよ。

−−では、ずっとこのままの感じでお仕事されるんですか?

石田:もう終わりじゃないですか?(笑) 65歳になっちゃっいましたしね。こんなに長くやるとは思っていなかったですし。

−−テレビマンとしてやり残したなと思ったことはありますか?

石田:ある時期ミュージカルが大好きで、ブロードウェイやウエストエンドでもたくさん作品を観ていたんですよ。最近は好きな作品がなくてつまらなくなっちゃいましたが、ダンサブルなミュージカルだとかロック・ミュージカルを作りたいと一時期思っていましたね。あと中学のときに映画監督に憧れてましたから、コンサート・フィルムとかじゃなくて映画を一本撮りたかったなというのはありますが、もうやる元気がないですよ(笑)。

石田 弘7

−−いや、石田さんだったらまだまだやれるんじゃないですか?

石田:最近は映画を観てもすぐに寝ちゃうんですよ(笑)。僕はフジテレビが大好きですし、フジテレビもここまで色々とチャンスをくれたことには感謝しているんです。自分がテレビマンになりたい、特に音楽系のショーバラエティーをやりたいと思っていたのが現実になって、まさかこの年までやるとは思わなかったですし、その間にコンサートはやるわ、何でもやるわで、仕掛けも当たりましたし、もう思い残すことはないんですが、最後にやりたいのは・・・アダルトビデオかな(笑)。しかも、芸術性の低いやつをね(笑)。

−−(爆笑)。

石田:「老ディレクターは死なず、ただ消え去るのみ」ですよ。

−−それマッカーサーじゃないですか(笑)。

石田:いいじゃないですか(笑)。マッカーサーも大統領になれず消えていったんですから(笑)。

−−(笑)。これからも石田さんの手掛ける番組を楽しみにしております。本日はお忙しい中ありがとうございました。
 

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 音楽のことを話し出したら正にマシンガントークの石田さん! その膨大な知識量には我々も圧倒されました。特にエルヴィス・プレスリーの話のときに垣間見せた少年のような嬉々とした表情はとても印象的でした。また、「音楽がただの情報になってしまったら悲しすぎる」という発言には、あらゆるポピュラー・ミュージックを体験されてきた石田さんならではの説得力を感じると同時に、音楽に対する深い愛情を感じ、色々考えさせられてしまいました。とにかく元気いっぱいな石田さんがこれからも良質なエンターテイメントを送り出してくれるのではないでしょうか?

 さて次回は、(株)キョードー横浜 代表取締役社長 岡本 哲さんです。お楽しみに!