第76回 岡本 哲 氏 (株)キョードー横浜 代表取締役社長
(株)キョードー横浜 代表取締役社長
今回の「Musicman’s RELAY」は(株)フジテレビジョン エグゼクティブ・プロデューサー 石田 弘さんからのご紹介で、(株)キョードー横浜代表取締役社長 岡本 哲さんのご登場です。キョードー東京 内野二朗さんとの出会いをきっかけに、全く知識がないまま興行の世界に入られた岡本さん。地元松山、そして設立直後のキョードー横浜で数々のコンサートを手掛けられ、’70年代後半からは山下達郎、佐野元春、松任谷由実、THE ALFEE、B’z、そしてサザンオールスターズと、多くの邦楽アーティストの興行を成功に導かれました。そんな岡本さんに松山での少年時代からキョードー東京創設者 永島達司さんや内野二朗さんとの思い出、そしてキョードー横浜でのお仕事を振り返っていただきつつ、コンサートビジネスについてじっくり語っていただきました。
[2008年11月12日 / 横浜市中区 (株)キョードー横浜にて]
プロフィール
岡本 哲(おかもと・さとし)
(株)キョードー横浜 代表取締役社長
1946年6月14日生 愛媛県松山市出身
1965年3月 愛媛県立松山東高等学校卒業
1965年4月 東京経済大学入学
1970年 同大学中途退学
1971年 ホワイトレーンメンテナンス設立 同年結婚
1972年 キョードー東京社長 内野次朗氏より松山での興行依頼をされる。名称『キョードー東京 松山
1973年 有限会社キョードー横浜 設立後入社
1978年 株式会社キョードー東北設立 代表者になる。キョードー横浜取締役を兼務。
1984年 有限会社キョードー横浜 組織変更 株式会社キョードー横浜。専務取締役に就任
1991年 株式会社キョードー横浜 代表取締役社長に就任 現在に至る
1.松山での自由奔放な少年時代
--前回ご登場いただいた石田 弘さんとはどのようなご関係なのでしょうか?
岡本:’78年に葉山マリーナでやった『ミュージックフェア・スペシャル』というコンサートが石田弘さんとの一番最初の出会いです。その当時の葉山マリーナは石原慎太郎さんの『太陽の季節』くらいしか連想できないような場所だったんですが、たまたま味の素と京浜急行から「葉山マリーナで何かイベントができないか?」と話があったんですね。その当時、僕自身もキョードー横浜も外タレしかやってなかったんですが、昔、松任谷由実さんが所属していたミュージックアンリミテッドという会社の新田社長を通じてフジテレビ側に話をしたら、当時『ミュージックフェア』のディレクターだった石田さんも「ユーミンはテレビには出ないけどこれならやれる」とおっしゃって『ミュージックフェア・スペシャル』が実現したんです。
--ちょうど30年前のお話ですね。
岡本:そうですね。それから由実さんとは現在もお付き合いしていて、『ミュージックフェア・スペシャル』以降も由実さんは葉山マリーナで2回コンサートをやって、その後、逗子マリーナへ移るときも石田さんには色々ご相談しました。また、石田さんから「こんなものがあるぞ」と情報をもらうと、安い飛行機を見つけてはニューヨークやロンドン、あるいはラスベガスに行ったりと、極力外に目を向けるようになりました。そういった意味で石田弘さんはプロデュースする部分において色々なノウハウを与えて下さった先生だと思ってます。
--現在も石田さんとは頻繁に連絡を取り合っていらっしゃるんですか?
岡本:ええ。今でも何かあると石田さんから連絡下さいますし、僕のほうからも連絡するという関係ですね。今年4月に招聘したアンドレア・ボチェッリに関しても本当は『ミュージックフェア』に出したかったんですが、日程の関係で『とくダネ!』に出演することになり、その際も石田さんに色々とお願いをしたり、ポール・ポッツという携帯電話のセールスマンからオーディションを通じてオペラ歌手になった新人も石田さんにご相談しながらやりました。テレビ局には日本テレビやTBSにも有名なプロデューサーの方はいらっしゃいましたが、未だ現役なのは石田さんだけですからね。本当にすごい方だと思います。
--未だに現役バリバリでいらっしゃいますものね(笑)。
岡本:そうですね。ずっと現場でお仕事されていますものね。音楽業界の方々にとっても、現在フジテレビで音楽関係の仕事をされている方々にとっても、石田弘さんという存在は絶大なものがあると思いますね。
--ここからは岡本さんご自身についてお伺いしたいのですが、ご出身は愛媛県松山市だそうですね。いつまで松山にいらっしゃったんですか?
岡本:高校までは松山で過ごしました。
--どなたかまだ松山にいらっしゃるんですか?
岡本:5人兄弟のうち3人はまだ松山におります。両親が亡くなる前は年に一度くらいの割合で故郷に帰っていましたね。
--岡本さんは5人兄弟の何番目ですか?
岡本:僕は末っ子なんです。すぐ上の兄とも9つ離れてましたから、もうわがままし放題でしたね(笑)。
--ご家庭は現在のお仕事に繋がるような環境だったんでしょうか?
岡本:長男が広島テレビでアナウンサーをしていて、次男が松山東高校時代(大江健三郎さんと伊丹十三さんが同級生)同級生であった大江健三郎さんや伊丹十三さんの影響で一緒に市民劇団芝居をやっていたようで、音楽業界とは全く関係なかったですね。ただ、長男が広島テレビの事業部長だった関係で、武道館でレッド・ツェッペリンのコンサートを観たりしましたね。
--大学入学で上京されていますが、これは最初から東京の大学へ行くとお決めになられていたんですか?
岡本:いや、全然。単純に行く大学がなかったので(笑)。
--行く大学がなかった・・・ですか?(笑)
岡本:ええ。中学までは頭が良かったんですが、高校に入ってダメになっちゃったんです(笑)。僕は高校時の成績が400人中399番目でしたからね。僕より成績の悪かった女の子が一人いたので、その子だけには負けたくないと思っていたくらいで(笑)、勉強は全然しませんでした。やっぱり高校一年生って女性の匂いが気になる年頃じゃないですか?(笑) 特に家の目の前がミッションスクールだったものですから。
--なるほど(笑)。
岡本:警察のやっかいになるような悪いことはしなかったですが、繁華街に行っては遊び回ってましたね(笑)。来島ドック社長の坪内寿夫さんという方の家が実家のすぐ近くにあったものですから、小さいときから坪内さんの経営している映画館は全部タダで入れたので、映画だけはいっぱい観ましたね、“18歳以下お断り” なんていう映画にも小学性の頃から行ってましたしね(笑)。
--ずいぶんませてらしたんですね(笑)。
岡本:ませてましたねぇ。何せスカートの中に入るのが一番好きな子どもでしたからね!
-- (爆笑)。
岡本:あと高校のときにジャズバンドを組んでいまして、その当時のナイトクラブだったりヘルスセンターみたいなところで結構アルバイトしていたんです。
--楽器は何をやられていたんですか?
岡本:サックスです。当時は渡辺貞夫さんに憧れていて、米国のスーパーサックスというグループがあったんですが、そこを目指してやっていましたね。
2.大学2年でボーリング場に就職?〜キョードー東京 内野二朗さんとの出会い
--上京されてどのような大学生活を送られていたんですか?
岡本:大学にはほとんど行かなかったですね。実は大学に入ってからボーリングのレーンメンテナンスの仕事を1年間くらいやって、大学3年のときに武蔵境にあるボーリング場に就職と言いますか、ボーリング場に勤めつつ営業の仕事もしていたんですね。
--大学3年生でボーリング場に就職ですか(笑)。どういうきっかけでそのお仕事を始められたんですか?
岡本:伊藤忠のボーリング部門のAMFというメーカーに先輩がいまして、「暇だったらアルバイトに来い」と言われて、最初はボーリング場営業後のレーン清掃だけをやっていたんですが、そこで手伝っているうちに「営業もやってみろよ」と言われて、青森の近くまで行って、ボーリング場の建設についてお百姓さんたちと話をしたんですよ(笑)。それから3ヶ月くらい経ってボーリング場建設の申請がおりて、僕は何もしていなかったんですが、もらった手数料というのが多額のお金だったので「これは商売になるな」と思いました。
--そういった営業の仕事もしつつ、ボーリング場にも勤務されていたわけですよね。すごく忙しそうですね。
岡本:そうですね。二日に一度はオールナイトで仕事をするんですが、ボーリング場の営業が終わってからメンテナンスの会社でレーンを清掃するんです。ですから睡眠時間が2〜3時間しかないんですが、その分お金も入ってきました。結局自分にとってはお金よりもボーリング場の仕事がなぜか楽しかったんですよ。その影響もあってか兄もボーリングを始めたし、母は亡くなる3ヶ月前までボーリングを続けて、大会に出場しては毎回最年長者として表彰されたり、松山の実家もボーリング一家みたいになっちゃいましたね。
--岡本さんもボーリングはお上手なんですか?
岡本:レッスンプロみたいな感じで一時期は上手かったですね。その当時ボーリングが上手いと結構モテたんですよ(笑)。それで営業、メンテナンスが終わってから寝る間を惜しんでボーリングの練習をしていましたね。
--そんなに忙しかったら大学に通う時間もありませんよね。
岡本:それでも6年くらい行ってたんですけどね(笑)。実はカミさんと結婚したということもあったんですが、何よりもボーリングの仕事のほうが面白くなっちゃったんですね。それでボーリング場を1つとレーンメンテナンスを3つこなせば十分食えるくらいにはなるので、四国、中国でボーリングの事業を始めたんですよ。夜中の仕事ですから大学生のアルバイトを40人くらい雇って、当時で月100万円は貰っていましたね。
--その当時の平均月給は3〜4万くらいですよね?
岡本:僕の同級生でJALに入社したやつがいるんですが、その初任給が3万ちょっとでしたね。
--そんな時代に月給100万ですか?!
岡本:ええ。6ヶ月間その状態が続いたので「これはいいぞ!」と思いますよね(笑)。36レーンある大きなボーリング場が3つあったんですが、夜中の仕事ですからアルバイトの大学生の確保も大変だったので、人間を使わないでレーンを綺麗にする1台あたり1000万円くらいする機械を2台購入したんですよ。そうしたら購入して1ヶ月後にボーリングブームが去ってしまって、急にボーリング場にお客さんが入らなくなったんです。それまで1時間300円まで料金をつけていたのが150円でもお客さんが来なくなってしまって、本当に閑古鳥が鳴くとはあのことですよ。
--それでは機械の費用が・・・。
岡本:リースという考えが頭になかったので、現金で買っていたんです。それで生活費にも困っていたところ、広島テレビの事業部長だった兄がキョードー東京の内野二朗さんと付き合いがあったものですから、「高校のときに音楽をやってたんだから、音楽関係の仕事やってみろよ」と言われて、内野さんに会いにニニ・ロッソの広島公演へ行ったんです。でも、「ニニ・ロッソなんてマカロニウェスタンじゃないか」と思っていましたから、コンサートに行くのは乗り気ではなかったですし、そのときは音楽の仕事よりも何か他のことをやりたかったんですよね。
--お兄さんの口利きにも乗り気ではなかったと。
岡本:そうですね。でも、コンサートが終わって内野さんから「興行の仕事をやってみないか? 特に松山って音楽的にいいと思うぞ」と言われて、その時点で「はい、やります」とお返事して(笑)、次の年にセルジオ・メンデス&ブラジル66’の興行をやったのが最初の仕事です。ですから、それまでは興行の知識って全くなかったんですよ(笑)。
--いきなり外タレの興行をされたんですか! すごいですね。
岡本:最初はレコード会社の仕事と聞かされて広島に行ったんですが、そうしたら興行の仕事だったんですよ(笑)。それで約2年間で5アーティストくらいやりました。
--具体的にはお一人で興行にまつわる全ての仕事をなさっていたんですか?
岡本:そうですね。高松でベンチャーズをやったんですが人が入らなかったので、音楽評論家の福田一郎先生や亀渕さんを呼んで、プロモーションしたりもしましたね。
--ニッポン放送の亀渕さんですか?
岡本:そうです。『オールナイトニッポン』をやっていたときですから、亀渕さんはとても人気があったんですよ。それでも香川県民会館か高松市民会館のどちらかだと思うんですが、1,400人入るところに700人しか入らなかったですね。ただ新居浜、松山とか他のところでやった公演のチケットは全部売り切れました。それから岡山でポール・モーリアの興行をやりましたね。でも、この興行は、今もキョードー大阪にいらっしゃる橋本福治さんのお手伝い程度でした。ですから本格的にやったというのは松山での5本くらいです。
--ちなみにボーリング場のお仕事はどうされたんですか?
岡本:ボーリング場3センターのうち1センターだけはまだ持っていました。ここだけは人を使わないで自分でメンテナンスをしていたので、夜はメンテナンスの仕事、昼は興行の勉強のために大阪へ行く生活を足かけ2年していたのですが、娘と一緒にいる時間もなかったですし、東京生まれ東京育ちのカミさんは松山での生活に飽き飽きしていましたから、東京に戻ることにしました。
3.設立直後のキョードー横浜入社
--東京に戻られて、すぐキョードー横浜に入社されたんですか?
岡本:実は東京に戻るときには違う仕事をしようと思っていたんです。まだ松山にいるときに、内野さんが松山に来られて「松山での興行の仕事を辞めて東京で別の仕事をしようと思っている」とお話したんですね。そうしたら「今度キョードー横浜という会社ができるんだけど行ってみるか? お前の性格からしてキョードー東京に行ったって合わない連中が多いだろう?」と言われたんですが、「でも友達にお願いしてある仕事をしようかと思っている」と一度はお断りしたんです。それでも内野さんは何度も誘って下さるので2ヶ月くらい悩んだんですね。
--ちなみにもう一つやろうと思っていたお仕事は何だったんですか?
岡本:クラリオンで8トラックを売る仕事です。松山のクラリオンに先輩がいて、東京のクラリオンを紹介してくれることになっていたんです。その当時のトヨタとか日産のカーラジオはパナソニックやクラリオンのものが多かったですから、クラリオンという名前をよく耳にしていましたし、車が大好きでしたから「車関係の商売ができるならいいな」と思っていたんです。実は内野さんにもそこまで相談していたんですが「お前はこっちのほうが向いていると思うよ」と言われて、「こいつは頼りない奴なんだけど」と紹介されたのが藤村良典さん(現キョードー横浜 代表取締役会長)でした(笑)。
それで「どんなことをやっているのか一度横浜へ見に行こう」と思って、設立されて3ヶ月くらいのキョードー横浜を訪れたら、伊勢佐木町の元麻雀屋がオフィスで、「なんかドヤ街みたいなところだな・・・」と思ったんですが(笑)、そこで藤村さんから会社の説明をしていただいて「こういう所で会社を一から作っていくのも面白いかもしれない」と思いまして、「やります」と返事をしてすぐキョードー横浜で働き始めました。
--設立当初のキョードー横浜はどのようなお仕事が中心だったんですか?
岡本:やはり興行がほとんどですね。あと藤村も僕もスポンサーを獲るのが意外と上手かったので、キョードー東京の興行のスポンサー獲りとかですね。’78年くらいまでは日本のアーティストの興行はほとんどやっていなかったんですが、国内アーティストの興行をやるきっかけとなったのが、内野さんがアリスをみるようになってからです。キョードー東京とヤングジャパンの細川健さんがハンズというとコンサートの制作会社を作りまして、そのトップが内野さん、責任者が藤村でしたので、ハンズがブッキングしたものをキョードー横浜がやりだしたんですね。
--キョードー横浜を作ったのは国内アーティストをやるためだと思っていたんですが違うんですか?
岡本:ええ。なぜキョードー横浜ができたかと言えば、キョードー東京内の政治的な問題で藤村さんをキョードー東京から追い出したかったんですよ(笑)。これは怨みつらみの部分だと思いますよ(笑)。その前にキョードー大阪の橋本さんがアンディ・ウィリアムスの興行を横浜でやったんですが、キョードー東京の中でやったんですね。ところが、その当時のキョードー東京の興行部門のトップの方が橋本さんとぶつかって、それで大阪に追い出しちゃったんですね。そういうことが色々とあったので「お前が東京に行っても合わないだろう」と言われたんです。でも、藤村さんだったらおとなしいから大丈夫だろうと(笑)。
--そういうことだったんですか(笑)。
岡本:ですから、その当時内野さんは、今のようなキョードー横浜をイメージして会社を作らせたと思います。でも、内野さんもキョードー横浜はすぐになくなるだろうと・・・(笑)。
--(笑)。内野さんはそんな会社に岡本さんを誘ったんですか・・・(笑)。
岡本:そうです(笑)。設立当初のキョードー横浜は有限会社で資本金が200万円でした。松山にいた頃は月給を100万円単位でとっていたのに、急に10万円と言われて「おいおい!」という感じでしたね(笑)。
--ちなみにキョードー東京に対する対抗心みたいな気持ちはあったんですか?
岡本:いや、キョードー東京に対しては何の対抗心もなかったですね。特に’70年代の中盤から後半にかけてはキョードー・グループはみんな固まってましたからね。内野さんという総理がいて、その上に永島さんという天皇がいて、その人たちの一言でみんな一斉に動いてました。何か大きなイベントがあると全国の現場の人間や代表者がみんな集まって、一緒に仕事をしてましたから、結束はものすごく固かったですね。
4.キョードー東京創設者 永島達司さんとの思い出
--そもそもキョードー東京はどのような経緯でできた会社なんですか?
岡本:興行だけをやっている会社と協同企画エージェンシーという会社とが合併してできたのがキョードー東京なんです。内野さんは昔ニュージャパンというホテルの中のラテンクォーターというナイトクラブの経理をやっていて、永島さんから「うちの会社もみてほしい」と言われて協同企画エージェンシーをやりだしたんです。ちなみにそのときにラテンクォーターにいつも遊びに来ていた慶大生がキョードー東京の社長の嵐田三郎さんで、その三人で会社を始めて、内野さんは興行の責任者、招聘は永島さんがやられていたという構図ですね。
--永島さんとも直接お仕事はされていたんですか?
岡本:ええ。僕は永島さんから「今まで殴ったのはお前だけだ」と言われましたからね。
--(笑)。永島さんは近寄りがたい方という印象があったのですが。
岡本:いやいや、ものすごく優しい方です。永島さんはどんなに下の人にも挨拶をきちっと返してくれる優しい方でした。
--その優しい方になぜ殴られてしまったんですか?(笑)
岡本:カーペンターズの仙台公演のときに、アーティスト側が追加公演で昼もやりたいと言ってきたんですね。その当時からなんですが、ギャラで買う場合と相手と一緒にリスクを背負いながらやる場合とがあるんです。後者においては80%までは我々が外タレに対してギャラを払い、残りの20%はチケットの売り上げからアーティスト側が8割、我々が2割取るという決めごとでやっていくわけなんですが、そうすると席数というのが重要になるわけです。それで仙台の会場は宮城スポーツセンターというところだったんですが、夜の公演もありますから昼の公演はチケットが1,000枚くらい売れ残ったんですよ。そこで1,000席をカットしようかなと考えたんですが、昼と夜の公演の間が2時間くらいしかなかったので、入退場の時間も考えると席は昼の間にセッティングしておいて黒幕をかけておけばいいかなと思っていたんです。
--2時間ですと1,000席のセッティングも大変ですものね。
岡本:そうしたらアーティスト側のアカウンター(会計士)が来て、「昼の公演の席数が申告している数と違う」という話になったんです。そこで永島さんが「変に疑われるのはよくないから、カバーをかけるのではなくて席をカットしろ」と指示したらしいんですが、現場の僕にまで指示がおりてこなかったので特に何もせずにいたんです。そうしたら永島さんから「何やってるんだお前は!!」っていきなり怒鳴られまして、僕もカーッとなって「何がですか?」と何度も聞き返したら、その態度が気に入らなかったようでその場で殴られました。それで「言った通りにやれ!」と怒鳴って行ってしまいました。その直後に椅子をカットしなきゃいけないことを藤村さんから聞いたんですよ(笑)。
--「先に言ってくれよ!」という感じですね(笑)。
岡本:「俺が何をしたんだ!」という気持ちですよね(笑)。
--それは納得いかないですよね。
岡本:そのとき僕は30歳前くらいだったんですが、放送局の社長クラスとも対等に話をしていましたし、ちょっといきがっていたんですね。そこでこんな仕打ちにあって「もう辞めてやろうか」とも思ったんですが、要因がわかって「そういうことならしょうがない」と態度を改めて、開場15分前だったんですが、とりあえず椅子を脇にどかしてなんとかなりました。でも、永島会長とは一切目も合わせずに夜の公演が終って、会長たちはカーペンターズと先にホテルへ帰りました。僕も3時間遅れで12時くらいにホテルへ帰ったら永島さんがフロントで待ってたんですよ。それで「疲れたろ。飯を食おう」と12時までしか営業していないはずのホテルのレストランに、僕のためだけにテーブルを用意してくれていて、「何でも好きなもの食べろ」とおっしゃってくれたんですよ。
--おぉ、かっこいいですね!
岡本:かっこよかったですね。本当に「すごい人だな」と思いました。それで「これ、お小遣いな」って小遣いまでくれましてね(笑)。
--ますますかっこいい(笑)。
岡本:その次の年にオリヴィア・ニュートン=ジョンを呼んだんですが、僕は彼女の大ファンだったんですよ。それで成田空港まで迎えに永島さんと一緒に行ったときにハンカチとサインペンを持って「車に乗ったらサインして貰おうかな・・・」とモジモジしていたら、永島さんが「お前、何やってるんだ?」と訊かれたので、「いや、サインしてもらおうと思って・・・」と答えたら、「バカか、お前は! 何を考えてるんだ!」と一喝されました(笑)。そのときの永島さんはカーペンターズのときと同じ顔をしていましたよ(笑)。
--(笑)。’78年にはキョードー東北も作られますね。
岡本:そうですね。東北には会社がなくてキョードー横浜がずっと面倒を見てたんですが、「東北も一つのエリアとしてやろう」ということで、キョードー横浜を見ながら、東北は代表者としてやろうと。
--実際に東北には行かれたんですか?
岡本:ええ。と言いますか、興行をやる人間が僕しかいなかったので(笑)。で、三年間は僕がやりまして、その後、キョードー東京にいた岩手出身の人間がやったんですが、一年間で7,000万円くらいの赤字を出してしまって、「キョードー東北を潰そう」という話にまでなったんですが、内野さんから「もう一度面倒を見てくれ」と言われまして、ABBAのコンサートを郡山でやって2000万円くらい返しました。
--前任者が空けた穴を埋めていったんですね。
岡本:前任者というか後任者ですが(笑)。僕はその後任者を当初から気に入らなかったものですから、「だからあいつは駄目だって言ったじゃないか」みたいに大見得を切っちゃったら「そういう言い方をするからお前は駄目なんだ」と内野さんに言われてしまって、「じゃあ、辞めます」と2ヶ月間会社に行かなかったんですよ(笑)。
--出社拒否ですか(笑)。
岡本:ええ(笑)。自分でも日本のアーティストで面白いことをやりたいと思っていた頃だったので「ちょうどいいかな?」と思いましてね。それで「辞める」と言って 2ヶ月ほど経ったある朝に内野さんが「おい、会社へ行くぞ」と車で迎えに来られて(笑)、「えっ? 行くんですか?」と答えたら「いつまでもグチャグチャ言ってるんじゃないよ、このバカ!」と言われて、結局その車に乗って会社に行きました(笑)。
--内野さん直々にお迎えに来られたんですね(笑)。
岡本:自宅に電話が掛かってきても出なかったですからね。それが’79年くらいだと思います。
--その頃は岡本さんも立派な大人ですよね(笑)。
岡本:そうですね・・・(笑)。他の人は内野さんや永島さんたちに対して、「ハイ!」って感じなんですけど、僕はちょっと違ったんですよね。憧れている人に対してはあえて虚勢を張ってみたいと言いますか、そういうところがあったと思います。
--ちなみにその空白の2ヶ月は給料なしですか?
岡本:いや、給料はちゃんとキョードー横浜から入っていたんですよね(笑)。
5.横浜独自のアーティストをやりたい!〜サザンオールスターズの衝撃
--先ほど「日本のアーティストで面白いことをやりたいと思っていた」とおっしゃっていましたが、キョードー横浜に復帰されて、本格的に日本のアーティストも手掛けていかれたんですか?
岡本:そうですね。僕は横浜独自のアーティストをやりたいと思っていまして、一番最初にやったのが『RIDE ON TIME』が出る前の山下達郎さんです。それまで山下さんをやっていたソーゴー企画の大和さんに会いに何度も行き、キョードー横浜でやらせてもらえるようお願いしました。山下さんの音楽は聴いていると楽しくて、是非やりたいとずっと思ってたんです。
--それまではソーゴー企画がやっていたんですね。
岡本:そうです。と言いますか、横浜の興行をやっているところへ卸していたりしたんです。あと、その当時で一からやったのはおそらく佐野元春だと思います。TVKの『ファイティング80’s』という番組で新人を育てていこうということで、アーティストの選定の段階で手を挙げたのがEPIC設立直後の丸山さんで、実はEPICに所属した他のアーティストも候補だったんですが、以前から仲の良かったヤングジャパンの春名源基さん(現(株)メガフォースコーポレーション代表取締役)が「これやろうよ」と押したのが佐野元春だったんです。
--そういういきさつがあったんですか。
岡本:佐野君がFM TOKYOのアシスタントか何かをやっていた頃に源基ちゃんからデモテープを聴かせてもらって「こいつは面白いな」と僕も思っていたんですよ。佐野元春のライブを一番最初にやったのが『ファイティング80’s』における電子工学院ライブで、一般のライブハウスでは元町の舶来屋というサンドイッチ屋さんがあるんですが、そこで一週間に一度ずつライブをやってましたね。
--そこは何人くらいお客さんが入るところなんですか?
岡本:スタンディングで150人がせいぜいだと思います。舶来屋はフェリスの女子大生や双葉の学生たちがよく来ている店で、TVKの人たちも僕もよく知っていたので、そこを借りてライブをしていました。実はその会場の二階が産婦人科なんですよ(笑)。ですからコンサートをやっている最中に上から電話が掛かってきて、「分娩の間はもうちょっと静かにしてくれよ」と言われて、その間は20分とか 30分コンサートを中断するんですよ(笑)。
--すごい環境でライブをしていたんですね(笑)。
岡本:そうですね(笑)。今でも佐野君はライブのMCでその頃の話をしますね。それで佐野君をやっている前後に『モンロー・ウォーク』が出た頃の南佳孝さんもやったりしていたんですが、やはり一番衝撃的だったのはサザンオールスターズとの出会いですね。
--サザンとの出会いはどのような感じだったんですか?
岡本:実は桑田さんのお姉さんのバンドを最初薦められたんです。それを薦めたのがうちでアルバイトをしていたブレッド&バターたちと仲の良かったサーファーの内海の兄さんで、僕はそのバンドをサザンだと勘違いしていたんですよ。それでサザンはデビューした翌々年くらいに江ノ島でビーチ・ボーイズと一緒にコンサートをやったんですが、僕はそのとき葉山マリーナで松任谷由実さんのコンサートをやっていたので観に行けなくて、その翌年に横浜スタジアムでチープ・トリックとやったときに初めて観たんですよ。その出会いは本当に衝撃的で、「こんなバンドが日本にもいるんだ!」と思いました。
--サザンのどんなところに圧倒されたんですか?
岡本:パフォーマンスですね。それまでいたアーティストたちと全く違って、音楽を楽しませてくれる感じなんですよね。
--まさにエンターテイメントであると。
岡本: もちろん音楽も重要ですが、目で楽しませてくれるバンドというのは素晴らしいじゃないですか。僕はレッド・ツェッペリンを武道館で観たときと同じくらいの衝撃を受けましたね。土砂降りの中でのライブだったんですが、とにかくビックリしました。それでサザンをどうしてもやりたいと思って、その当時サザンの興行を関東でやっていたのがメロディハウスだったんですが、メロディハウスがちょうどおかしくなっていたときで「横浜だけはやらせてくれ」と頼みました。その当時、神奈川県民ホールはクラシック系やポップス系しか貸さなくて、サザンもそこではライブができなかったんですが、「絶対に借りてみせる」と公言して、その年は横浜文化体育館でやって、その次の年のツアーのスタートで神奈川県民ホールを4日間やったんです。
--なぜ神奈川県民ホールを借りることができたんですか?
岡本:神奈川県民ホールのオープニング・イベントを全部キョードー横浜でやっているんですよ。3ヶ月間の間にロバータ・フラックやホセ・フェルシアーノ、スリー・ディグリーズといった外タレを入れてやっていたものですから、神奈川県民ホールに対して我々は強い力を持っていたんです(笑)。
--なるほど(笑)。他に深く関わられているアーティストの方々はいらっしゃるんですか?
岡本:変な話ですが、外タレに関しては、この春にやったアンドレア・ボチェッリのように赤字になってもやりたいアーティストとかありますが、原則的にはビジネスだというのを内野さんからは叩き込まれていますから、儲けなきゃいかんと思っています。内野さんからは「お前の趣味でやるのは1年に1本にしろ」と言われいて、僕はその一本をずっとやれなかったんですが(笑)、招聘ってそういうものだと思うんです。その中で興行をやるイベンターではなくて、イベントをやるイベンターとしての気持ちを教えてくれたのはTHE ALFEEですね。
--THE ALFEEは何を教えてくれたんですか?
岡本:イベントをやる意欲やアーティストは将来的にどうしなきゃいけないんだという長期的な計画とか全ての面においてですね。例えば、佐野君のライブや山下さんの葉山でのライブとかはあくまでもワンショットなんです。ところが一年中企画に携わるようになったのがTHE ALFEEなんですね。’82年から夏のイベントはずっとうちがやっているんですが、今のような大規模コンサートのハシリというのが実はTHE ALFEEなんです。
--THE ALFEEの夏のイベントは現在どこでやられているんですか?
岡本:お台場の船の科学館の前ですね。なぜあそこでやることになったかと言いますと、お台場で僕がお腹を壊してしまって(笑)、急にトイレへ行きたくなって船の科学館へ飛び込んだんですね。そのときにTHE ALFEEの関口社長が一緒です。館内からその前の土地を眺めて「ここはいいね」って話になったんですよ。それで「今のTHE ALFEEだったらどれくらいいけると思う?」と聞かれたので「8万はいけるんじゃない?」と答えたら、「じゃあ9万人を集めるイベントということでここでやってみようか」となったんです(笑)。
--1万人増えていますね(笑)。
岡本:(笑)。それから毎年THE ALFEE夏のイベントをやっていますが、イベントが終わると同時に「来年はどうする?」と関口社長がいう話になるわけですよ。そうすると夏のイベントを一つの盛り上がりにして色々な事が出てくるわけですね。
--夏のイベントがアーティストにも周りにも活動の要になっているんですね。
岡本:そうですね。でも、それは後で考えることであって、やっている最中は考えてませんよね(笑)。「これだけのお客さんが今回は集まったんだ。アーティストの力はすごいな」と思う反面、「ここで事故が起こったら、責任は全部自分のところに来るんだろうな・・・」と思ったり、それぐらいの考え方で(笑)。それから松任谷由実さんも同じように逗子マリーナでのコンサートと苗場でのコンサートを柱にして活動してましたよね。
--苗場でのライブもキョードー横浜さんでやられているんですか?
岡本:いや、苗場はキャピタルヴィレッジさんですね。僕は冬場は極力仕事をしたくないんですよ(笑)。これは昔からそうなんです。季節労働者なものですから(笑)。
6.いつもユーザーが教えてくれた
--CDが売れなくなっている中で、コンサートは盛り上がっているように感じるのですが、実際はどうなのでしょうか?
岡本:盛り上がっているのは一過性ですよ。その一過性を一過性にしないために外国のプロモーターは色々やっていますよね。やはり長期的な見方をすればCDそのものが売れなくなってくれば、コンサートも苦しくなってきます。
--やっぱりCDの売り上げと連動していますか。
岡本:ええ。EXILEとかを見ているとよく分かります。彼らはチケッティング的に今一番獲りづらいアーティストですよね。ミスチルもそうだと思います。逆にアルバムTOP10に入ったアーティストでも2年後に同じ規模でライブができるかと言ったら、ほとんどのアーティストができませんよね。うちでも3年前にピークだったバンドのチケットが今厳しいですから。これはやはりヒット曲の有無ですよね。先ほどの話じゃないですが、若いリスナーの目線位置は単曲なんじゃないでしょうかね。今の中学生は「シングル」という言葉すら分からない人が多いですよ。みんなネットで曲単位でダウンロードしているでしょう?
--そうですね。ましてアルバムを通して聴くなんてしないでしょうしね。
岡本:スマイルカンパニーの小杉さんとビクターエンタテインメントの牧元さんがおっしゃってましたけど、マンハッタンにタワーレコードとかHMVといった大型レコードショップが全くないらしいですからね。で、スーパーマーケットのコーナーで売っているとか、そういう時代に入ってきていると。そうなってくると単曲で売るしかないですし、レコード会社は色々対策を考えていますけど、正直言ってアルカイダとアメリカの闘いみたいなものじゃないですかね(笑)。
--ユーザーとレコード会社の知恵比べみたいなイメージですね。
岡本:我々以上にユーザーの方がよく考えていますよ。だから僕は一貫してユーザーから教えられることが多いですね。もちろんディスクガレージの中西さんからは国内アーティストのやり方を教えていただきましたし、クリエイティブマンの清水さんにも教えてもらっていますし、色々な方からご指導いただきましたが、やはり一番はユーザーです。レコード会社やアーティストにはレコードショップがありますが、我々にはユーザーしかいないんです。我々は直接ユーザーにチケットを売っているわけですし、我々を評価するのもユーザーですしね。
--中間がないですものね。
岡本:その通りです。もっと現実的に考えているのかな? と思いますね。
--それはレコードメーカーに対してですか?
岡本:レコードメーカーと言いますか、個々のアーティストがですよね。興行って我々の力でチケットが売れるのはせいぜい10%なんですね。50%くらいしか売れてないチケットを我々の力で55%にすることはできます。でも、それを90%にするとかペイラインの70〜60%に持っていくような力は僕らにはないです。そこはあくまでもCDを売っているアーティスト・パワーに依存するしかないんですね。ただ、会場の選定や運営に関しては我々のノウハウが生きてきますけどね。
--アーティストにパワーがないとどうしようもないと。
岡本:そうです。それはレコードと同じです。小田和正さんを見ていて思うんですが、東京ドーム2日間が平日一杯になるというのは、小田和正さんが持っている層というのがコンサートに行ける層であると言うことですよね。底辺も広いだろうし、コンサートに行けるユーザーでもあると。この層を押さえているアーティストはこの先も行けるだろうと思いますね。
--やはり年齢層が高い方が安定感はありますよね。
岡本:それとコンサート的に一番期待していて、この先色々と変えてくれるんじゃないかなと思えるのはジャニーズエンターテイメントですね。この間Hey!say!JUMPの公演じゃないですが、一日2回公演で、毎日5,000人から6,000人の観客を集めて、その状態で1ヶ月間ずっと公演ができるわけですから、すごいパワーだと思いますね。
--宝塚の何倍ものスケールですよね。
岡本:その通りです。そういう風にこの15年間ずっとやってきているのがジャニーズエンターテイメントですよね。ジャニーズのコンサートに行っている若い人たちが恋をしたら恋の曲を聴き、他のアーティストのコンサートに行き、失恋したら失恋の曲を聴きたくなるアーティストのコンサートに行きたくなる・・・というところで今のジャニーズのアーティストはコンサートに行く楽しさを教えてくれます。
--若い人たちがジャニーズからエンターテイメントに入門して大人になっていくと。
岡本:そう思います。あとは松田聖子さんのようなアイドルとかですね。大昔だったらキャンディーズかもしれませんしね。男の子でも今ジャニーズに入りたい人ってたくさんいるわけじゃないですか? あるいはジャニーズに影響された格好をしている高校生も多いですよね。もちろんSMAPの力も大きいのかもしれませんが、ジャニーズは魅力のある KinKi KidsやV6やTOKIOや嵐、他、アーティストを次々と送り出して、お客さんにライブの楽しさを観せていると思いますね。
--確かにジャニーズは一つの文化みたいなものですものね。
岡本:そうですね。ジャニーズは一つの文化を持っていると思います。ジャニーズ文化というものは日本の音楽界の中ではニューミュージック以上だと個人的には思いますね。
--ジャニーズの二世がジャニーズ入りしたりと、歌舞伎のような伝統芸能化していますしね。
岡本:そうですね。本当に素晴らしいです。ショーを観ていても飽きないですものね。ですから各放送局も色々部分でジャニーズだけは別件にしているわけですが、ジャニーズもきちっとそれに応えていますからね。CDに関してもジャニーズは売り方をしっかり考えていますし、本当に上手いですよ。
7.一緒に歩んできたアーティストをこれからも見続けたい
--岡本さんが興行という仕事に醍醐味を感じるようになったのはいつ頃からですか?
岡本:ニッティ・グリッティ・ダート・バンドの公演を松山でやったときに、チケットが半分くらいしか売れなかったんですが、えらい盛り上がって、お客さんが楽しんでいるんですよ。それまでビリー・ヴォーンをやっても、お客さんはジーッと座って聴いているだけで、そういったことは感じなかったんですね。そこからでしょうね。お客さんの顔がすごく楽しそうだなって感じたのは。
--自分のやっている仕事の面白さや醍醐味をお客さんから教えてもらったということですか?
岡本:その通りです。今もそうですけど、お客さんが帰るときにどんな顔をして帰るのか、ものすごく気になります。一番最初にやった大きな仕事がミッシェル・ポルナレフだったと思うんですが、そのときもコンサートの楽しさをお客さんから教えられたんですよね。音楽を聴くというのは昔から好きなことではありましたけど、「コンサートってこんなに楽しくて、観た人たちの人生を変えられるんだ」と思いましたね。
--まさにエンターテイメントということですよね。お客さんの満足した顔を見て「もっといいコンサートを作ろう」と思うと言いますか。
岡本:そうですね。でも、お客さんとのトラブルで悩まされたりもしました。昔は今みたいにネットや電話でチケットを買うのではなく、朝並んだりして直接プレイガイドに買いに行ってましたから、そうすると必ずトラブルが起きるんですよ。誰が先かとか、いつから並んでいいのかとか、言った言わないの話ですよね。
--綺麗ごとばかりではなかったと。
岡本: ええ。2千人の中に一人、2万人の中の一人そういうお客さんがいらっしゃるかもしれませんが、残りのお客さんの喜んだ顔からイベントをやれるようになったんだと思いますね。
--ここまでお話を伺ってきますと、コンサート・ビジネスが確立される過程でお仕事をされてきた岡本さんはとてもいい時代を過ごされたんだなと感じます。
岡本:そうかもしれませんね。石田 弘さんと同じですね。これが西君(西 茂弘氏:(株)オン・ザ・ライン 代表取締役社長)の時代だったらしんどかったかもしれませんね(笑)。
--あらゆる世界が確立されたあとですものね。
岡本:でも、その中で西君は自分のものを確立してますね。今見ていて、制作できるプロモーターというのがいないんですよね。僕はTHE ALFEEというアーティストによって制作まで見させてもらうことができましたし、ユーミン、サザン、B’z、福山雅治によって制作以上の部分も見させてもらいました。そういう意味でプロモーターとしてやっているのは西君だけじゃないですかね。
--西さんの今後にも期待なさってますか。
岡本:注目してますね。あと、彼も少し欲がなくなればね・・・(笑)。
--(笑)。
岡本:僕も経験があるんですが、欲が出てきますとアーティストサイドから離れていきますからね。だから欲を出したときって必ず失敗するもんですよね。
--その欲というのは事業欲みたいなものですか?
岡本:そうです。3テナーの公演も2回目のときは7億円の赤字を出していますしね。欲を出すとやりたくなくてもやらなくてはいけないという状況に追い込まれるかもしれませんしね。
--難しいですね・・・儲けなくてはいけないし、欲を出しすぎてもいけない。
岡本:独り勝ちしようとするとろくなことがないですね(笑)。でも必ず欲って出てくるんですよね。THE ALFEEのイベントをやる場合もそうなんですが、うちだけでやるのではなく、他のイベンターさんに協力し合ってやらせて頂いています。でも、「ここは独り勝ちしたい!」と思うときもやっぱりありますよね(笑)。
--(笑)。ありとあらゆるアーティストのライブをご覧になっていらっしゃると思うんですが、今一番期待されている国内の若手アーティストはいらっしゃいますか?
岡本:こういうアーティストがライブで大成するだろうなみたいなのは、そのライブを観ている同世代とか30歳くらいの若い人たちが感じることじゃないですかね。そういう意味では弘さんとも「そろそろ目線が違ってきているよね」と時々話すんです。だから今でも僕は一緒に歩んできたアーティストをずっと観ていますね。例えば、サザンが60歳になったときにどんなライブを観せてくれるのかな? とかね。それ以外に中島みゆきさんも小田和正さんもそうですけど、自分がやりたくてもやれなかったアーティストをずっと見ていますね。
--インタビューである方がおっしゃってましたが、昔は若い人が60才を越えた人たちの歌を聴くことなんてありえなかったけれど、今は当たり前になってしまったと。
岡本:その通りですね。例えば、ニューミュージックを作り上げたミュージシャンたちが60歳を過ぎていくわけですよね。あるいは52歳の桑田さんや松任谷由実さんや54歳のTHE ALFEEやB’zがこれからどういう活動をしていくのか、僕は本当に楽しみですし、彼らがどんどん若いお客さんを魅了する姿を僕は見たいですし、我々も彼らに負けないように頑張らなくてはいけないなと思っています。
--本日はお忙しい中ありがとうございました。岡本さんのご活躍とキョードー横浜の益々のご発展をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也 山浦正彦)
岡本さんはその奔放な少年時代が想像できないほど物腰の柔らかい方でした。「あくまでもビジネス」とシビアな目で見つつも、「コンサートの楽しさをお客さんから教えてもらった」とコンサートの持つ力を語られる姿からは、岡本さんの人柄が滲み出ていたように感じます。また、CDの売り上げ不振が長らく叫ばれている中、外から見ると順調そうに見えるコンサート業界ですが、その状況をとても冷静に見つめられている岡本さんが印象的でした。アーティスト・パワーに依存する部分が大きいというコンサートの今後の課題は、音楽業界全体が抱えている課題と同じであることも再認識させられました。その厳しい状況の中、岡本さんがアーティストとともにどのようなコンサートを作り上げてくれるのか、とても楽しみです!