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第77回 渡辺 貞夫 氏 ミュージシャン

インタビュー リレーインタビュー

渡辺 貞夫 氏
渡辺 貞夫 氏

ミュージシャン (Alto Saxophone,Sopranino Saxophone, Flute)

今回の「Musicman’s RELAY」は岡本哲さんからのご紹介で、「世界のナベサダ」こと、ミュージシャンの渡辺貞夫さんです。18歳で上京後、数々のバンドへ参加。秋吉敏子さんの紹介でバークリー音楽大学へ留学し、在学中にチコ・ハミルトン、ゲイリー・マクファーランド等と共演・全米ツアーにも参加。帰国後は、バークリーで学んだジャズ理論を広め、日本を代表するサキソフォンプレーヤーとしてジャズのみならず、ボサノヴァやアフリカ音楽などを取り入れた多彩なスタイルで世界を舞台に活躍されています。近年では子供達とのリズム教育にも力を入れ、2005年の『愛・地球博』では世界5カ国の子供達と共演し大盛況となりました。今回のインタビューでは、すでにミュージシャンとして活躍されていた高校時代から、大きな影響を受けたブラジル、アフリカ、チベットでの体験など、これまでの音楽生活58年間をふり返っていただきました。

[2009年1月14日 / 渋谷区 ビクタースタジオ 青山ビルにて]

プロフィール
渡辺 貞夫(わたなべ・さだお)
ミュージシャン (Alto Saxophone,Sopranino Saxophone, Flute)


’33年生 栃木県出身。
高校卒業後、上京。アルトサックス・プレイヤーとして秋吉敏子「コージーカルテット」、ジョージ川口「ビッグ・フォー」等のバンドに参加。1962年米国ボストンのバークリー音楽院に留学し、チコ・ハミルトン、ゲイリー・マクファーランドを始めとする数多くのバンドに参加した。帰国後は日本のミュージシャンにジャズ理論を伝授し、自らもジャズ・フェスティバル等海外でも活躍。L.A.で録音されたアルバム『カリフォルニア・シャワー』の大ヒットにより”ナベサダ”ブームが起こり、武道館コンサートでは3万人余りを動員した。そしてレコード会社WEAとの契約を期に、本格的に世界へ進出する。この間、何度もアルバムが米国音楽誌のチャート上位にランキングされ、世界中に渡辺貞夫の名が認識されることとなる。95年には故郷の中学生達にブラジルの打楽器を使用して、リズム教育を始める。これがきっかけとなり、2005年の愛知万博では政府出展事業の総合監督を務め「リズム、歌、踊りの祭典」が繰り広げられた。現在は日本を代表するトップミュージシャンとしてジャズの枠に留まらない独自の音楽性で世界を舞台に活躍。写真家としての才能も認められ6冊の写真集を出版。音楽を通して世界平和のメッセージを提唱している。

 

    1. 3,000円のクラリネットから始まった音楽生活
    2. 平日は高校生、週末はミュージシャン
    3. バークリー在学中に全米ツアーへ参加
    4. 帰国後は自宅の寺子屋で音楽指南
    5. とにかく圧倒されたアフリカとチベット
    6. 情熱が形になった日本の子どもたちとのリズム教育
    7. これからも世界中をツアーしたい

 

1. 3,000円のクラリネットから始まった音楽生活

--岡本さんが「ナベサダさんを紹介できるなら最高だ!」と仰ってましたが、前回ご登場いただいた岡本さんとのご関係を伺いたいのですが。

渡辺:それは恐縮です(笑)。岡本さんには70年代後半から神奈川県民ホールが多かったですが、コンサートで随分お世話になっていて、プライベートでも時々一緒に食事をしたり、ゴルフをしたりというお付き合いです。

--それでは30年近いお付き合いということですね。ゴルフ仲間とも伺いましたが、どちらがお上手なんですか?

渡辺:もうどれくらいの付き合いかは記憶にないけど。ゴルフは似たようなものなんじゃないかと思います(笑)。

--ご出身は栃木県宇都宮と伺っておりますが、どのようなご家庭の環境でお育ちになられたのでしょう?

渡辺:親父が「渡辺電気店」という電気の修理業で、モーターとかトランスとか大きいものの修理をやっていました。どういう経緯で親父が宇都宮に行ったのか明確には聞いていないんですが、もともと親父は琵琶をやっていまして、無声映画の時代に幕間で琵琶を弾いたりしていたのだと思います。たまたま農家の壊れたモーターを直してあげたら、非常に喜ばれてあとからあとから修理を頼まれるようになって、とうとう修理屋に落ち着いてしまったらしいんですね。

--では、代々宇都宮にいらしたわけではないんですね。

渡辺:ええ。僕の昔の本籍は青山ですし、親父は東京生まれなんです。

--ご兄弟は?

渡辺:一回り上に兄がいまして、あと妹と弟がいます。

--先ほどお父様が琵琶を弾かれていたと仰っていましたが、音楽的な環境でお育ちになられたんですか?

渡辺:家庭内に親父の琵琶の音やお袋の三味線の音が流れていましたから、なんとなく音楽的な環境ではあったかもしれないですね。月に一度くらいは正座をして琵琶を聴かされていましたし、「お前もやれ」と言われていたんですが僕は琵琶には興味がなかったものですから(笑)。

--渡辺さんご自身の音楽的な「目覚め」というのは何だったんでしょうか?

渡辺:戦中は母親の兄弟がやっていたクラブというか飲み屋さんの蓄音機で、淡谷のり子や高峰三枝子、灰田勝彦とかそういう日本の流行歌を聴いていました。それで戦後になってFEN(極東放送)を聴いていました。

--宇都宮でもFENは入ったんですか?

渡辺:ええ、入りました。キャンプもありましたしね。今まで聴いたこともない音楽がワッと聴こえてきたので圧倒されまして、毎日家に飛んで帰ってラジオを聴いていましたね。西欧音楽というかアメリカのポピュラーミュージックなどですよね。ジャズも含めて色々な音楽がありました。それから戦後のアメリカ映画の影響ですよね。音楽映画も結構入って来ましたから。

--ご自身で演奏されるようになったきっかけは何だったのですか?

渡辺:ビング・クロスビーの主演で『ブルースの誕生』(※1948年公開)という映画がありまして、ニューオリンズあたりの川縁で黒人達がディキシーランドを演奏しているところに、陰から10歳くらいの白人の少年が出てきて、かっこいいソロをするんですよ。それでその少年がバンドリーダーになっていく話なんですが、その少年に憧れましてね。「いいなぁ」と思っていたら、たまたま宇都宮の小さな楽器店にクラリネットがポンっと1本だけあったんですよ。

--それは絶妙のタイミングですね。

渡辺:値段も3,000円ぐらいだったんですよ。ボディがドイツ製でベックがアメリカ製で樽が日本製みたいな繋ぎ合わせの酷い楽器だったから3,000円だったんでしょうけど、それが欲しくて随分親に粘りましたよ。しつこく迫って(笑)。

--(笑)。

渡辺:それで買ってもらったはいいけど、あの当時の宇都宮には先生もいませんし、どうやって吹くのか吹き方もわからないので困っていたら、僕の通っていた小学校の入り口にある駄菓子屋のオヤジさんが昔クラリネット吹いていて、親が「そのおじさんのところに行ってごらん」と教えてくれたので楽器を持って行ってみたんです。それでリードの付け方、指使い2オクターブくらいを3日間教わりましたね、1回10円で。その後、教則本を手に入れたんだと思うんですけど、そこから始まったんですね。

--それはお幾つの時のお話なんですか?

渡辺:15、6歳の時ですね。高校1年のときだと思います。もう嬉しくてね。楽器を学校に持っていくと僕の同級生がトランペットを持っていて、さらに一級上にヴァイオリンをやっている人がいて、彼らと放課後の学校の講堂で「センチメンタル・ジャーニー」とか「峠の我が家」なんかを一緒にやっていましたね。それで1年もしないうちに『銀盤の女王』というスケートの映画があったんですが、その映画の中でビッグバンドを聴いたわけですよ。そうするとサキソフォンがかっこよく見えちゃってね。

--すぐに影響されるんですね(笑)。

渡辺:それも欲しいなぁって(笑)。でも当時の宇都宮にサキソフォンなんて持っている人は1人もいなかったんですよ。だから親父の金をくすねたり、頼み込んだりして1年後にはTANABEのサキソフォンを神田まで行って買ってもらいました。でも当時は、ベニー・グッドマンが非常に人気でクラリネットがスター楽器だったものですから。上京するまではクラリネットを続けていましたね。

 

2. 平日は高校生、週末はミュージシャン

--では、高校時代はもう音楽中心の生活になっていたわけですね。

渡辺:ええ。あの頃はなんでも楽器を持っていれば仕事になったと言いますか、一年先輩のお父さんが宇都宮の電気館という映画館の支配人だったんですよ。ですから音楽映画を上映していたら放課後に行って映画をタダで観せてもらっていたんですが、その親父さんがタンゴバンドをやっていたんです。それでそのバンドにすぐ入れてもらって、町のダンスホールで一晩100円もらって吹き始めたんです。「あの坊やが吹くと踊れなくなっちゃうから止めさせろ」って言われるような状況だったんですけど使ってもらって(笑)。そのうちにどうしてもベニー・グッドマン・スタイルのバンドをやりたくて、仲間を集めて「ジャズワールド」という雑誌を出している内田晃一さんにヴィブラフォンを買ってもらって、宇都宮のダンスホールで演奏したりしました。それからそのタンゴバンドでウィークエンドに鬼怒川温泉ホテルや日光金谷ホテルの進駐軍の将校クラブで演奏していましたね。

--まだ高校生ですよね? すでに現役のミュージシャンでいらしたんですね。

渡辺:一応現役というかウィークエンドだけですね。それで高校を卒業して2週間ぐらいで上京したんですよね。

渡辺 貞夫2

--それは何かあてがあって上京されたんですか?

渡辺:内田さんの友人で北村さんという方がベースを弾いていたらしくて、僕が上京したときはすでにベースをやめて歯医者さんになっていましたけど、その北村さんから譜面などを送ってもらって音楽を教わったりしていたわけです。その北村さんに上京したいと言ったら七尾さんという方のグループを紹介してくれて、使ってもらえるからということで上京したんです。

--では東京に出てきた後、いきなりミュージシャンとしての生活が始まったわけなんですね。

渡辺:ええ、始まりました。最初、昼間は銀座松坂屋の地下にオアシスというダンスホールがあって、そこで徳山陽さんという方のグループでやって、夜は並木通り角のファンタジアというクラブで演奏していました。

--そこはジャズクラブではなくダンスホールだったんですか?

渡辺:昼間はダンスホールですよね、ダンス用のジャズをやっていたんですけど、夜はキャバレーですからやはり踊らせる音楽ですよね。それから六本木に米軍のキャンプがあって、そこで仕事して帰りはタクシー代がもったいないですから下宿していた三宿まで歩いて帰るわけですよ。

--六本木から三宿まで!?

渡辺:ええ。途中に渋谷の道玄坂の上にフォーリナースというクラブがあって、そこで松本英彦さんとかトップの方々がジャムセッションを毎晩やっていたんですよ。それを外で聴いて刺激を受けて歌を歌いながら三宿の下宿まで帰っていたんですが、ある日我慢できなくなって飛び込んで吹かせてもらったんですよ。僕の知っている曲をやっていたんでね。そうしたらセッションが終わった後に道玄坂の中華料理屋に連れて行かれて、そこで「これから作るバンドに入らないか?」と声をかけていただいて榎本さんという方の、イチバン・オクテットというビ・バップのグループがあったんですが、そのオクテットの譜面を使ったバンドに入ったんですね。

 それでしばらくキャンプで演奏をしてから箱根の富士屋ホテルに約1年近く出演したんですが、今度はそこのメンバーだったギターやドラムと新しいバンドを作って、横浜のハーレムという黒人のGIばかり集まるクラブで仕事をしていたんです。ハーレムでは毎週日曜日の昼間にジャムセッションがあったんですよ。それでアメリカのハンプトン・ホースやハル・スタインといった軍楽隊にいた素晴らしいアーティストがジャムセッションをやっていて、それを僕らは聴いていたわけです。それで夜は僕たちが黒人を踊らせるリズムアンドブルースやっていたんです。そのときに秋吉敏子さんに自分のグループを作るからっていうことで声をかけていただきました。

--やはり秋吉さんの存在は大きかったですか?

渡辺:そうですね。秋吉さんと守安祥太郎さんは当時日本のトップでモダンジャズをやっていた憧れのピアニストですからね。それで秋吉さんのところに参加して「これなら飯を食っていけるかな」みたいなとこがあったわけですけどね(笑)。

--(笑)。では、これまでの人生でミュージシャン以外の仕事はされたことがないんですか?

渡辺:ないですね。バークリー・スクールに留学したときに、仕事がないときはペンキ塗りなんかはやりましたけどね(笑)。

 

3. バークリー在学中に全米ツアーへ参加

--バークリーに行かれるきっかけは?

渡辺:秋吉さんが奨学金をもらってバークリー・スクールに行ったわけですよね。そしてそのあと僕が引き継いでバンドリーダーになって八木正生さんや原田政長さん、富樫雅彦さんたちとしばらく仕事したんですが、もう進駐軍がみんないなくなってしまって、結構厳しい時代に入っていきました。そんなとき、ジョージ川口さんから声をかけていただいたんですね。

渡辺 貞夫3

--進駐軍は何年間ぐらい日本にいたんですか?

渡辺:何年ぐらいでしょうね? 詳しくはよくわからないですが、僕が結婚したときには全部撤収して、ミュージシャンの仕事場がどんどんなくなっちゃったわけですよね。ですから仲間がどんどんミュージシャンを辞めていったわけですよ。日本のジャズクラブはそれほど数があるわけでもなかったですし、かといってそういうところは歩合でやりますからお客が5人とか10人となると一晩100円から300円ぐらいにしかなりませんしね。

--それまではけっこう稼がれていたんですか?

渡辺:稼いでいたというほどでもないですけども、進駐軍がいたときは潤っていましたよね。

--そんな状況の中でご結婚もされて小さなお子さんもいらっしゃるというときにバークリーに行くことになったんですか。

渡辺:秋吉さんがバークリーに行ってから4年経って日本に演奏で帰ってきたんですよね。チャーリー・マリアーノと結婚されて。そのときに学校から一人秋吉さんの推薦で奨学金をくれるということで、僕に行かないかと声をかけてくださったんです。実は当時生活に少し余裕ができてきた頃だったんですよ。というのもテレビ局ができて、ドラマの音楽や映画の音楽だとかスタジオの仕事も結構入ってくるようになったので、「家でも買って落ち着こうかな」なんて考えていたときに秋吉さんから声がかかったので一瞬の逡巡はありましたけどね。

--そのとき奥様は?

渡辺:「行きなさいよ」と背中を押してくれたんです。それで’62年、29歳のときアメリカへ行きました。ニューヨークに着いたときに秋吉さんはチャールズ・ミンガスのグループでピアノを弾いていたので、着いた日の晩に彼女にファイブ・スポットへ連れていかれて、ミンガスのグループで2晩ぐらい続けてステージに上げてもらったんですよ。

--アメリカに着いた早々にステージに上げられたんですか?

渡辺:ええ。それから日本にしばらくいた女性の新聞記者がいたんですが、彼女はジャズが好きな人で僕をバードランドとか連れて行ってくれて、それでディジー・ガレスピーとかミュージシャン達に僕を紹介してくれたんですよ。それからフィラデルフィアのアート・ブレーキーのところにも連れて行ってもらいました。あとは毎晩1人で楽器持ってクラブへ行ったり、町の中でジャムセッションをやっている話を聞くとそこに入ったりしてけっこう充実した2週間があったわけですよ。

 ミンガスのところでも「お前これからどうするんだ?」って聞かれて、「これからバークリー・スクール行きます」と言ったら、「それより俺のバンドに入れ」なんて言われたり、そういう嬉しいエピソードもあって、なんとなくやっていけるかなという感触はあったんですよね。ですからバークリー・スクールへ行っても、そんなにあたふたしなくて済んだというか、僕は日本で結構仕事をしていましたしね。やはり学校にはこれからジャズをやろうという生徒が多いじゃないですか。もちろんヨーロッパあたりから来たもう出来上がったいいミュージシャンもいましたけどね。

--バークリーで教わることはやはりたくさんあったんですか?

渡辺:それはもういっぱいありました。僕が渡米するまではジャズの理論を教わる人もいませんでしたしね。

--学校などでは言葉の問題はなかったんですか?

渡辺:高校のときに3ヶ月ぐらいアメリカ2世の将校の英語塾に通ったんですよね。たった3ヶ月ですが結構厳しい塾で、それがあったから一般的な会話は全然問題なかったですね。

--結局、何年ほどバークリーで過ごされたんですか?

渡辺:学校に通ったのは3年ぐらいなんですよね。’65年の春にゲイリー・マクファーランドというミュージシャンから「テナーサックスとフルートを吹けるミュージシャンはいないか?」と僕の先生だったハーブ・ポメロイに打診があって、それでハーブから「貞夫、行ってみないか?」と声をかけていただいて、ニューヨークにオーディションを受けに行ったんですよ。それですぐ使ってもらえるようになって、ウィークエンドにはニューヨーク近辺で仕事をしていました。

 それから、5月か6月頃だったと思うんですが、ゲイリーの『ソフト・サンバ』というアルバムがヒットしまして、その全米ツアーに参加しました。そのときのギタリストがガボール・サボというミュージシャンで彼はチコ・ハミルトンのグループでも仕事していたんですね。だからチコの方からも声をかけてもらって、うまいぐあいに仕事が繋がっていきました。ですから’65年の夏場から暮れまで、最終的にはアメリカを2回ぐらいステーションワゴンで東から西と行ったり来たりしながらツアーしましたけど、’65年の9月ぐらいからはニューヨークに落ち着いて、スタジオミュージシャンとして仕事を始めたんです。

--ボサノヴァとかブラジル音楽に出会ったのはその頃ですか?

渡辺:ええ。’65年にゲイリーのグループに参加したときに初めてボサノヴァをやらされたんですね。10週間ぐらいのツアーでしたから毎晩演奏させられましたね。それでサンフランシスコに行ったときに、向いのエル・マタドールにセルジオ・メンデスが出ていて、僕たちはベイズン・ストリート・ウエストにゲイリーのグループで出演していて、休み時間にお互いのグループを行ったり来たりする中で初めてブラジルのミュージシャンたちの演奏を聴いたわけです。それでブラジルの音楽に興味が湧いて、アントニオ・カルロス・ジョビンのアルバムを買って聴いてみたら、ホテル生活が長いでしょう、癒されましてね。ジョビンの歌に惹かれたというかね。

--ゲイリー・マクファーランドとの出会いは渡辺さんにとって大きかったんですね。

渡辺:ええ。ゲイリー・マクファーランドはジャズだけじゃなくて、非常にコンテンポラリーな音楽を彼なりにアレンジしていました。彼と出会う前の僕はビ・バップ以外には目もくれないような男だったんですが、ゲイリーの影響でだんだん色々な音楽を聴くようになったわけですね。ゲイリーのミュージシャンシップと、一緒にやっていたガボール・サボというギタリストの影響は大きかったと思います。彼らの影響で歌を書くようにもなりましたしね。

 

4. 帰国後は自宅の寺子屋で音楽指南

--のちにバークリーで学んだ理論を日本のミュージシャンたちに教えられるわけですよね。

渡辺:ええ。僕も含めてみんな渡米するまでは試行錯誤だったわけですよね。「たぶんこうだろう」みたいな。僕が日本に帰ってきたときもそういう状況だったので一気にミュージシャンたちが僕のところに来て、あっという間に80人ぐらいのミュージシャンが入れ替わり立ち替わり来るようになって。

--やっぱりみんな必死だったんでしょうね。

渡辺:ええ、まず菊地雅章が「教えてくれ」って来て、「お前一人に教えても同じだから仲間も連れておいで」と、最初は週1回15人ぐらいでレッスンをやろうかと思っていたんですよ。そうしたらそれを聞いてあとからあとから来るものですから週に3日、1回に20人ぐらい教えていました。

--それは学校のようにして教えたんですか?

渡辺:ええ、僕の自宅で黒板買ってね(笑)。

--受講料みたいなものはあったんですか?

渡辺:受講料はみんなにもらいましたよ。ただ、いくらもらっていいかもわからないし、こっちは飯が食えればいいんでね。

--寺子屋みたいな感じですか?

渡辺:正に寺子屋ですよ。ところがうちの家内がみんなに飯を作ってごちそうしてあげるもんだからレッスンが楽しみなのか、食事が楽しみなのかわからないミュージシャンもいたりしてね(笑)。「今日のご飯はなんですか?」って(笑)。

--(笑)。

渡辺:だからあの当時の家はレストランみたいな大きなフライパンで、がんがんステーキ焼いて食べさせていたりなんかしましたから。

--帰ってこられたら、先生だけじゃなくご自身の音楽活動があるわけですよね。

渡辺:ええ、もう帰った次の日ぐらいからクラブのステージに立っていましたし、帰ってきた日の昼間に山本直純さんから「スタジオにいらっしゃい」と電話がかかってきました。渡米前はずいぶん彼の仕事をしていたので帰ったお祝いですね。それでスタジオ行ってちょっと吹いて、あの当時は一回スタジオはいると3,000円もらえたんですけど、それをいただいて、それから銀座の三原橋の地下にジャズクラブがあったんですが、そこでみんなが待ってるっていうので行って飛び入りで吹いて。

渡辺 貞夫4

--みんな帰国を待ちかねていたんですね。

渡辺:ええ。それですぐに新宿ピットインの佐藤良武が家にきて、「新しいお店を作ったので、是非やってください」と言うのでそれから新宿でもやるようになりました。

--また渡辺さんは日本でボサノヴァやサンバを広められましたよね。

渡辺:当時の日本のジャズクラブの聴衆は、アメリカの聴衆と違って非常に暗い印象だったんですよね。それで「明るい気分で帰ってほしいな」という思いがあったんですね。ゲイリーのツアーではそれこそビートルズの曲のようなポップな曲もやらされていたので、そういった曲もセットリストの中に入れて、最後はサンバのリズムをドコドコやっていました。あの当時のジャズファンは非常にマニアックな人が多かったので、「なんだこれは」みたいなところがあったんじゃないかと思いますよ(笑)。

--ただ、渡辺さんが帰国なさってから日本人のジャズリスナーも広がって、ジャズ全体が盛り上がりましたよね。

渡辺:いつもどこへ行っても満員の聴衆でしたが、その反面僕がジャズから離れたと言いますか、フュージョンやサンバだとかそういう言い方もされましたね。ただ、僕は’68年に初めてブラジルに行きましたし、’72年にアフリカにも行ったりして、もう4ビートというのが古くさく感じたんです。あの時代はロック時代でしたし、もっと直接的なリズムというか、そういうアプローチをしたいと思っていたんです。その方が新鮮でしたからね。

--世界的にそういう時代だったんですかね。そこから武道館3日間満員にするところまでいったんですよね。今のジャズミュージシャンでも無理なことですよね。

渡辺:よくやりましたよね(笑)。

 

5. とにかく圧倒されたアフリカとチベット

--’72年にアフリカに行ったと仰っていましたが、最初はどこに行かれたのですか?

渡辺:最初はテレビのレポーターでケニアに行ったんですが、2週間ぐらい滞在したらすっかりはまりましてね。それから谷口千吉さんが海外青年協力隊の映画を作るというので、僕が映画の音楽担当で、’74年に2回目のアフリカへ行かせてもらいました。その後は続けざまに行ってますね。アフリカの話になるとすぐ食らいついちゃいますね(笑)。

--(笑)。アフリカの大地に降り立って、風景と人に出会われて、どういったことをお感じになったんですか?

渡辺:ダイナミックな土地と言いますか、その広さも含めてとにかく圧倒されましたね。それからやはり自然が厳しくて曖昧な生き方ができないような場所ですから、そこで暮らしている人たちも非常にストレートに生きていて、その姿にものすごく感銘を受けましたね。ですから、アメリカの黒人とはずいぶん違う印象を受けました。

--滞在の間にアフリカの音楽を直に観たり、一緒に演奏されたりもしたわけですよね。

渡辺:そうですね。やはりナイロビに着いた晩には、スターライトというクラブに飛び入りで吹いていました。音楽というよりも、人々の生き様に圧倒されたと言ったらいいんでしょうね。

渡辺 貞夫5

--今もアフリカには行かれているんですか?

渡辺:最近では2、3年前に行きました。

--’96年にはチベットにも行かれたそうですね。

渡辺:たまたま『ネイチャリングスペシャル』というテレビ番組があって、それで「チベットに行きませんか」と誘われたんです。そのお話を聞いた途端に「行きたいな」と思って、何の躊躇もなく「是非お願いします」と。だから僕はチベットに呼ばれて行ったんじゃないかって思っているんです。標高の高いところですから風土が厳しいというか、高度平均4〜5,000メートルの所ですから、みんなに心配されたんですが「とにかく行きたいから」とね。ただ、その話があったときに3回か4回は行くという話だったんですよ。だから行って気に入らなかったら困っちゃうなと心配していましたが、行ってみたらまた自然に圧倒されましたね。

--ブラジルやアフリカは音楽的に行ってみたいとか、音楽的に衝撃を受けることはあるかもしれないですけど、チベットは音楽とはあまり縁がない国ですよね。

渡辺:そういうのは何も求めてなかったですね。ブラジルやアフリカに限らず外国へ行くたびにレコードを買ったりして、民族音楽をコレクションしたりしましたけど、チベットについてはお経ぐらいしかないですよね(笑)。だから音楽的な期待っていうのは何もなかったですね。

--もっとスピリチュアルな部分に惹かれたんですか?

渡辺:それまでチベットなんて正確な位置も知らないような状況だったのに、本当に誘われた途端に「行きたい」という気持ちになったんですよね。で、行ったらやはり圧倒されて惹かれたと。

--チベットと言いますとヒマラヤの景色が浮かびますが、そこに住む人々も魅力的でしたか?

渡辺:人々も素晴らしいですね。あんな厳しいところで生きているのにユーモアはあるし、みんな明るいですしね。それに中国にあれだけ迫害されているのに田舎の人なんか本当に純で素晴らしいですね。心が豊かって言ったらいいかな、本当にみんな嬉しい顔しているんです。自然はものすごく過酷なんですけど、逆に厳しいからこそ、そこで生かされているという喜びと言いますかね。その嬉しさっていうのをしみじみ感じますね。

--自分を見直さざるをえないような環境なんですね。

渡辺:そうですね(笑)。

--そういった国々を訪れることで渡辺さんは新しい力を得ているんですね。

渡辺:やはりブラジルとかアフリカ、もちろんチベットもそうですが、初めて訪れたときのインプレッションは大きかったですね。それに僕はとにかく楽器を出せば人々とコミュニケートできるので。

--それがすごいですよね。世界中どこへいっても楽器を出せば何かが始まるんですものね。

渡辺:そうですね、楽器さえあればなんとでもなりますよ(笑)。

 

6.情熱が形になった日本の子どもたちとのリズム教育

渡辺 貞夫6

--渡辺さんは長年日本の子どもたちへのリズム教室もやってらっしゃいますね。

渡辺:はい。古くは’74年にタンザニアに行ったときに広場にニエレレ大統領を迎えるのに部族がいっぱい集まって一斉に音を出したんですが、人々が歌ったり、太鼓を叩いたり混然とした素晴らしさがあって「ああ、いいな」と思ったんですよね。その後、’77年にテレビ番組の取材で初めてリオのカーニバルを観に行ったんですよ。それもまた素晴らしくてね。

--テレビで観るのと生で観るのは全然違うんでしょうね。

渡辺:ええ、全然違います。カーニバルではそれぞれのチームの歌を何万人の観衆が一緒に歌うんです。チームによっては1000人ぐらいのリズム隊がドコドコドコドコやって歌って踊るでしょう、もう本当に圧倒されるんです。今は朝には終わっちゃいますけども、僕が初めて行ったときには夕方の7時か8時ぐらいから始まって、次の日のお昼過ぎまでやっているんですよ。

--タフですね。

渡辺:チームが1つ終わると4〜50分おいてまた出てきてみたいなね。みんなで1つの歌を歌って一体感を感じるのはうらやましいと思って、「そういったことを日本でもできないかな」と考えたんですよ(笑)。当時の福田首相に進言したこともあるんですが、全然聞き入れてもらえなくて(笑)。

 それから’70年の後半だったと思うんですが、操上和美さんと石岡瑛子さんを連れてブラジルを1ヶ月旅したことがあるんですよ。それで操上さんにブラジルのいい写真を撮ってもらって、僕が興味ある音、例えばプール洗っているおじさんが口ずさんでいる歌とか、子守歌を歌っている人とか、1ヶ月歩き回って録った音をアルバムにしたんですが、その旅をしたときにサルヴァドールでオロドゥン(Olodum)という新しいサンバチームと出会ったんです。彼らは一般的なサンバと違って3つの打楽器だけでやるんですよね。それを初めて聴いたときに、非常にシンプルなんだけどダイナミックで、これだったら日本に持って帰ってもできるかなという思いがあったんですが、それからサルヴァドールを気に入っちゃって、ブラジルに行くたびにそのチームと一緒に吹かせてもらったり、連中のリハーサルに入ったりしていたんです。

 それで’95年頃に「あのブラジルのリズムを日本のどこか田舎の子どもたちでやったら楽しいんじゃないか」と思って、週刊新潮の掲示板に話を載せたんですよね。それをNHKのディレクターが見て、「来年栃木県が国民文化祭の主催県なんですが国民文化祭でやりませんか?」と声をかけてくれたんです。それで「やりましょう」ということで1年前から太鼓を60個買って送ってもらって、3つぐらいの中学校でやったんですが、それがすごくよかったんですよ。

--1年間かけて準備するのは大変な労力ですね・・・それは情熱がないとできないですよね。

渡辺:ええ。青山のサバスというブラジルレストランの方にお願いしてオロドゥンの若手をクラブで10人ぐらい雇って来てもらって、文化祭の3ヶ月前ぐらいから毎週ウィークエンドに彼らを連れて行って子どもたちと一緒に練習したり、そのほかにも毎週行って練習していたんですよね。僕も明確にはわからないですからブラジル人に叩き方を教わったりなんかしてね。

--そういう部分はもう仕事という感覚ではないですよね。

渡辺:結果非常によかったですし、それ一回で終わるのはもったいないということでそれが今も続いているんです。今はもうすごいですよ、みんな腕上げちゃって。ただどんどん卒業していってしまうから残念なんですけどね。去年は9回子どもたちとやりました。それこそスペインのサラゴサ万博にも連れて行きましたしね。

--子どもたちもインターナショナルな活動をしているんですね。それは宇都宮の子どもたちなんですか?

渡辺:そうです。今は3つの学校を僕が教えるのはしんどいので2年前から1つに絞っちゃったんですね。ですから泉ヶ丘中学校という学校をベースに、他の学校の子どもたちもそこに集まってやっています。愛知万博のときは400人の子どもたちと演奏しました。そのときは栃木だけじゃなくてブラジル、セネガル、ポルトガル、アメリカ、日本と5カ国の子どもですね。

--その活動を15年以上続けてらっしゃるんですから、本当に素晴らしいですね。

渡辺:今週末も宇都宮に行って練習があって、その翌日に子どもたちとちょっとしたイベントに参加する予定です。今は結構色々なところからも声がかかるようになっているんですよ。

 

7. これからも世界中をツアーしたい

--資料を拝見していたらミュージシャン生活50周年となっていたのが2001年ですから、今は音楽生活58年ということですよね。

渡辺:来週で76歳なんですよね。

--日本人のミュージシャンを連れて全米ツアーをされたのは去年のことですよね?

渡辺:ええ、去年の9月ですね。

--ということは75歳で全米ツアーですよね。あり得ない(笑)。単一公演だったらまだしも、全米ツアーなんてすごく大変そうですけどね。

渡辺:いやあ、僕はツアーが生き甲斐ですから。もう来週から国内ツアーが始まりますけど、だいたい春先、5月ぐらいまでは国内のキャパが100〜200ぐらいの小さいジャズクラブを回っているんです。

--ツアーはどのぐらいの期間されるんですか?

渡辺:1週間から2週間ぐらいのツアーを毎月ですね。演奏をやってないと手はいいとしても唇周辺の筋肉が衰えちゃうんですよ。そこが衰えるといい音がしませんからね。

--お話を伺ってきますとサキソフォンの演奏自体が健康に繋がっている感じはありますね。

渡辺:ああ、そうかもしれませんね。

--アーティストとしての長い人生の中で常に第一線にいらっしゃる秘訣はありますか?

渡辺:好きなことやっているってことですよね(笑)。それしかないですよね。嫌なことやってないですから(笑)。

--でも、世界のトップミュージシャンたちと渡り合うのはすごくエネルギーが必要ですよね?

渡辺:そうですね。自分のコンディションをいつも同じレベルに保ってないといけないですからね。やはりステージをやるということは否応なしに全てをさらけ出すわけですから、かっこよく演奏したいですし、いい音させたいっていうことですよね。ということはやっぱり先ほど言ったように唇の筋肉は衰えてはまずいですし、外国人とやってもパワーで彼らより劣るようではまずいんですよ。

--ステージに上がり続けることがトレーニングでもあり健康の秘訣でもあると。

渡辺:健康の秘訣でもあるでしょうし、やはり聴衆とのふれあいですね。これが嬉しいですよね。

--それを60年間続けていらっしゃるわけですからすごいですね。サキソフォンを吹かない日ってあるんですか?

渡辺:それはありますよ。ゴルフ行くときなんかは吹いてないですから(笑)。楽器のない旅もありますよね、でもやはり数日楽器持たないと「ちゃんと鳴ってくれるのかな」という不安感はありますよね。いつでもスタンバイできている状態だと気持ちは強いわけですよ。ぽっと楽器を出してもちゃんと自分の納得できる音が出せるというね。

渡辺 貞夫7

--今から一流になろうとしている若いミュージシャンたちにアドバイスをお願いしたいのですが。

渡辺:そうですね・・・音楽をやるということは好きなことをやろうとしているわけですから、練習しかないでしょうね。毎日楽器と付き合うということですよね。それは無駄なことはないですから。

--昔のように先生や教本も何もないところから始められた時代に比べて、今はすごく恵まれた環境ですよね。

渡辺:だからよくないんですよね。僕らは「ここからここへ行くにはどうしたらいいんだろう?」とわからないながらも何百回何千回と吹いて体で覚えましたよね。ところが今は「ここからここへ行くにはこうやって歩いて行けばいいんだよ」「ああそうですか」って先に頭で理解してしまってそれでお終いなんですよね。やはり普段から楽器に親しむことが大切なんじゃないでしょうかね。

--最後に今後の目標はなんでしょうか?

渡辺:まあ、このまま好きなことを続けていければいいなと思っていますが、やはり世界中をツアーしたいですよね。

--本日はお忙しい中ありがとうございました。渡辺さんの益々のご活躍をお祈りしております。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也 山浦正彦)

 渡辺さんはとても76歳には見えない、とにかく若々しくエネルギッシュでありながらも、おおらかで物腰の柔らかな方でした。しかし、その穏やかな人柄の中にサキソフォンや音楽に対する情熱が感じられ、正にプロフェッショナルといった印象を受けました。また、音楽の枠を超えた存在として世界でご活躍されるようになった今でも、お客さんに対する感謝の気持ちを忘れない誠実な一面が「聴衆とのふれあいが嬉しい」という言葉に表れていました。58年という長いキャリアの中で、今回のインタビューで語っていただいた内容はごく一部ではありましたが、渡辺さんを知らない若い世代のリスナーやミュージシャンにも得るものが多いのではと思います。

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