第79回 中村 紘子 氏 ピアニスト
ピアニスト
今回の「Musicman’s RELAY」は大賀典雄さんからのご紹介で、ピアニストの中村紘子さんです。中村さんは早くから天才少女として名高く、全日本学生音楽コンクールの小学生部門、中学生部門と優勝を重ねたのち、慶応義塾中等部3年在学中に、第28回音楽コンクールにおいて史上最年少で第1位特賞を受賞。ただちに翌年、NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜擢され華やかにデビューを飾り、’65年のショパンコンクールでは、日本人として初めて入賞、以後今日に至るまで、3500回を越える演奏を国内外で行っています。’08年には紫綬褒章、’09年には日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。日本のピアニストの代名詞として聴衆を魅了し続けている中村さんに今日に至るまでの様々なお話をお伺いしました。
プロフィール
中村 紘子(なかむら・ひろこ)
ピアニスト
1944年7月25日生まれ
3歳で、『子供の為の音楽教室』第一回生として井口愛子氏に師事。10歳から、レオニード・コハンスキー氏に学ぶ。その後、ジュリアード音楽院で日本人初の全額奨学金を獲得、ロジーナ・レヴィン女史に師事。第7回ショパン・コンクールで日本人初の入賞と併せて最年少者賞を受賞。
1968年ソニー・レコードの専属第1号アーティストになって以来出版した40点以上の録音は、クラシックとしてはすべて桁外れの売れ行きを示し、また2003年エイベックス(avex-CLASSICS)と新たな専属契約を結んで制作したCDは、中村紘子の成熟を如実に示して驚きを呼んだ。
また1982年以来、多くの国際コンクールの審査員を歴任し、その体験に基づく最初の著書『チャイコフスキー・コンクール〜ピアニストが聴く現代〜』は、第20回大宅壮一ノンフィクション賞を受けるなど、「文武両道」のスーパーレデイぶりは名高い。
その長年の演奏活動に対しては、紫綬褒章を初めとした国内の賞に加えて、国際的受賞も多く、大宅賞などの文学賞やダイヤモンド・パーソナリティ賞といった音楽賞以外の受賞も多い。2009年春には日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。
そしていよいよ「デビュー50周年」を迎える秋九月からのシーズンには、全国47都道府県の「首都」での50回を超えるリサイタル、N響を初めとする各オーケストラとの記念公演に加えて、『中村紘子デビュー50周年記念アルバム(10枚組)』の出版など、さまざまな形での画期的な活動が予定されている。
1.ソニー・大賀氏との公私に渡る深い繋がり
−−まず最初に前回ご登場いただいたソニー(株) 相談役 大賀典雄さんとのご関係についてお伺いしたいのですが。
中村:大賀さんは私が中学生の時から存じ上げているんです。はじめは奥様の緑さんがピアニストでいらしたので、あくまでもそのご主人、という感じだったのです。だって、その頃ソニーなんて誰も知らなかったんですものね(笑)。
緑夫人の恩師であるワルシャワのジェヴィエツキ教授のもとに私もうかがってレッスンを受けたりして、そんなことからも時折お会いするようになって。すると、声のよく響く大きなご主人がいらっしゃるわけ。それが大賀さんだったのですね。
−−大賀さんは「中村さんがCBSソニーの第一号アーティストで、全ては中村さんから始まったんだ」とおっしゃっていましたが…。
中村:偶然にも大賀さんは、私が中学3年のときに日本音楽コンクールで1位を獲ったときの演奏を、たまたまカーラジオでお聴きになっていらしたのだそうです。当時、日本の演奏家のレベルはまだまだ低かったんですが、流れてきた演奏が大変よかったので「これは日本人じゃない」と思われたんですって。それで演奏が終わって「今年1位を獲った中村紘子15歳の演奏」とアナウンスが入って、すごく驚かれたそうで強く印象に残っていらしたそうです。ですから、だいぶ後々まで大賀さんは「あなたの演奏は15歳のあのときが一番よかったよ」とおっしゃるのね(笑)。それ以来のお付き合いなんです。
−−最近も軽井沢の大賀ホールなどでよくお会いになっていらっしゃるとか?
中村:ええ。日本にはクラシックに適した、特にピアノの音を録るのに適したスタジオがなかなかないんです。ソニーの専属時代も東京近辺のホールを押さえて録音していたんですが、ステージの上のいい音のポイントを探すのに、うっかりすると2〜3日かかってしまうんです。また、日頃あまり使用されていないピアノの場合、録音中にどんどん音が変わってしまう。ひどい場合には最終日にようやく全てが決まって、あわただしく録ったりとか、そういう状況がよくあったのです。
−−ピアニストとしては大変ですよね・・・。
中村:そこで、エイベックスに移った折、ベルリンのテルデックス・スタジオに行って録ることになったのです。ところがいつも私は前の晩までどこかで演奏会をやっていて、休む間もなく飛行機に乗って、着いたときは風邪をひいたり、あとは時差もあって体力の消耗が激しく、なかなかベストコンディションで臨めない。
テルデックスで2回録音した後、軽井沢にできた大賀ホールのこけらおとしで演奏し、すっかり気に入ってしまいました。そこでホールをチェックしたら、テルデックスとほぼ同じ音響条件だったんです。軽井沢のホールはシーズンオフは使いませんので、大賀さんから「いくらでも使って」と言っていただきました。それに大賀ホールを任されている大西泰輔さんは私のCBSソニー時代の初期の頃のレコードを担当された方でずっと一緒に仕事をしていた方だったんですね。
−−中村さんも納得できるホールが大賀ホールだったんですね。
中村:そうなんです。そこで今度は逆にテルデックスのスタッフたちに「日本に来ない?」って言ったら、みんな「行きます!」ってすごく喜んで来てくれました。大賀ホールでの録音はヤマハピアノを使っているのですが、テルデックスのスタッフは私がヤマハを使うのは、私が日本人であるからと思っていたけれど、これは本当にすごい楽器だ。ベルリンでも使いたい、と感嘆していましたね。残響や効果がテルデックスよりも良いほど。以来6枚のCDはすべてここで録っています。
−−ところで中村さんは数年前エイベックスに移籍されましたよね?
中村:はじめ当時の依田会長(現:(株)ティー ワイ エンタテインメント 会長)が誘ってくださってエイベックスに移籍したのですが、その直後に依田会長がお辞めになってしまいました。ですからこの9月に発売される予定の私の「デビュウ50周年記念特別CD+DVD10枚セット」は、依田さんのドリーミュージックから発売の予定です。
テルデックスでのレコーディングを勧めてくださったのは、私と同じように依田会長に引っ張られてワーナーから移ってこられた峰尾昌男さんで、以来ずっと私を担当して下さっています。
−−レーベルを移られた今も、大賀さんとはお付き合いが続いてらっしゃるのですね。
中村:大賀さんとはCBSソニー専属アーティスト第一号となった頃はしょっちゅうお会いしていました。大賀さんの耳は当然ながら素晴らしく鋭いので、音楽上のご意見を伺ったりもしました。ですから通常のピアニストとレコード会社の社長という関係以上の付き合いだったと思います。
昔、大賀さんが「僕たち来年銀婚式なんだけど子どもいないしなぁ」なんて言っていらしたのがちょっと寂しそうだったので「じゃあ私たちが銀婚式やってあげますね」と、私の自宅で手料理でご夫妻のお友達20〜30人を招いてパーティーをしました。そうしたら大賀さんが「僕たち生きてるかどうかわからないけど生きていたら君たちの銀婚式をやってあげる」って言ってくださって、本当に銀婚式をやってくださったんですよ。それも緑夫人の手料理で、沢山の友人を招いて下さって。そして一昨年はまたここで大賀さんのこんどは金婚式をやったのです。ホームコンサートにして。
−−本当に深いお付き合いでらっしゃるのですね。
中村:そうですね。ソニー・レコードの専属第一号になった折に当時のソニー社長の盛田昭夫さんにお会いして、すっかり盛田さんとも仲良しになって、一時は本当に毎晩のようにお夕飯を盛田さん夫妻とご一緒させていただいていました。あと、これは盛田さんのご本にも書いてあるんですが、ウォークマンを発売するのを後押ししたのはうちの主人(小説家・庄司薫氏)だったんです。盛田さんとうちの主人は当時しょっちゅう一緒にゴルフに行っていたんですが、家が近いものですから朝同じ車で行くんですね。そしたら盛田さんが主人にウォークマンの試作品を見せて「こういうのを発案したんだけど、会社の全員がこんなの売れませんって言って反対してる。だけど僕はこれいいと思うんだけどな」っておっしゃったんですよ。それでうちの主人に感想を求めてきたので「これいいじゃないですか。僕はこれすごくいいと思います」ってうちの主人が申し上げたのに勇気づけられて、みんなの反対を押し切って発売したら大ヒットになったんですよ。
2.著名な音楽家を輩出した「子供のための音楽教室」
−−ここからは幼少時代のことをお伺いしたいのですが、まずどのようなきっかけで音楽と出会われたのですか?
中村:私は1944年生まれですから、戦争が終わる一年前に生まれたんですね。1歳になったときには焼け野原で、日本がそれまで掲げてきた価値観が崩壊し、全てゼロからスタートするような状況でした。そういう何もかもなくなったところで私が3歳になったときに、子どもを集めて音楽を教える小さな寺子屋みたいなものができたんですね。当時は幼稚園に行く人も行かない人もいた時代だったので、私は幼稚園代わりに、一週間に一回土曜日にその「子供のための音楽教室」に行くことになったのです。それで第1回の生徒募集に応募して、そこでピアノと音楽全般の訓練を受け始めました。
−−「子供のための音楽教室」とはどのような教室だったのですか?
中村:明治の文明開化と共に、現在の東京芸大の前身である「東京音楽取調所」という日本で唯一の国立の音楽学校が創立されたわけですが、明治・大正・昭和と時を経ていくうちにアカデミズムに固まってしまった。それに反発する若い世代の音楽家たちが「これでは日本の音楽教育は駄目になる」と、子どもたちに未来を託そうということで昭和23年頃に「子供のための音楽教室」を作ったんです。そのときの先生方は吉田秀和先生、それからその頃はまだ東大の美学の学生だった遠山一行先生、弦楽は齋藤秀雄先生、ソルフェージュとか楽典は畑中良輔先生と、とにかく今の日本の重鎮というか大御所の方々がまだ20代、30代の頃でした。それで最初の5年は敗戦のショックもあってみなさん無私無欲といいますか、本当に理想に燃えて我々を育ててくださったんです。
−−理想に向かって全てを投げ出して教育に邁進されていたわけですね。
中村:のちにNHKの番組で吉田秀和先生と対談をしたときに「あのときは本当にみんな理想に燃えていた。だけども理想に燃えてできたのは5年ぐらいで、その後はみんな家族を養ったりっていう現実の問題があって続かなかったんだ」と先生ご自身がおっしゃっていました。しかし、その最初の5年間で教育を受けたのは私を始めとして小澤征爾さんから今度サントリーホールの館長になられた堤剛さんとか、現在の日本の楽壇を担って立つ方々ばかりです。
−−その5年間は恵まれた時期だったんですね。
中村:そうですね。畑中良輔先生が後でおっしゃったんですが、当時先生は芸大の大学院も教えてらしたんですね。でも「君たち子供のほうがどんどん進んじゃうので、こちらのほうが教えるのが大変だった」って。子供ってそういうとこがあるんですね。私も今、子供をみたりする立場になって畑中先生のおっしゃったことが初めてわかったんですが、脳生理学の観点からも研究結果が出ていて、音楽という分野は一番早熟らしいんですね。つまり才能に恵まれていて、それを初期にすごくいい先生が伸ばして育む環境があれば3〜4年で垂直に伸びるんですね。ですから天才少年モーツアルトとかそういうのが出るのが当たり前の分野なんだそうです。
−−中村さんも若くしてコンクールで優勝されていますよね。
中村:ええ。15歳のときに日本音楽コンクールで1位になりました。そのときに1位になった人はショパンコンクールに日本代表で出場するという賞だったんですが、私は若すぎて向こうの年齢制限に達しなかったのです。
−−その頃はピアノを弾くのが楽しくてしょうがなかったんですか?
中村:いえいえ。当時日本の音楽界の中心は明治・大正の方だったんですよね。その時代の日本は今の私たちが忘れてしまっているような儒教的精神に溢れていて、西洋クラシック音楽の歴史が浅いので明治・大正の人たちは何を手本にしたかというと、邦楽を手本にしたわけです。邦楽の家元制度を。先生がドミソのことをファラドとおっしゃっても、先生のおっしゃったことが正しくて、それに対して「先生それはドミソじゃありませんか?」なんて言ったらお仕置きされるんですよ。
昔は今ほどマスコミなんかの目がなかった時代ですし、子どもの人権なんて大してなかった時代ですから、ピアノの先生はとにかく怖くて威張っていて、レッスンのときにピシャっと叩かれて顔が腫れ上がったとか、先生がヒステリー起こして「こんなに言ってるのにわからないの?!」と言ってピアノを弾いてるときにフタをバン!と閉じて指が腫れ上がったとか、そんなことがしょっちゅうあったんです。今だったらもう訴訟問題ですね。そういう中でクラシック音楽とか西洋から渡来したものというのはすごくうやうやしく押し頂いていたわけですね。「それを楽しむなんていうのはもってのほかで不謹慎である」と・・・。ですから全然楽しくないわけですよ。
−−どうして日本ってそうなってしまうんですかね・・・。
中村:それが象徴的だったのは1964年の東京オリンピックですよね。東京オリンピックのとき東洋の魔女を大松監督が鍛えに鍛えたわけですが、その鍛え方というのが精神論といいますか「精神がなってない」と言っては竹刀で叩くとかそういう特訓だったわけですよ。でも1970年頃を境にものすごく日本に情報が入ってきたわけです。これは70年の大阪万博で日本の経済力が一流の大国になりつつあるのと、そのために外貨が自由化されたんですね。外貨が自由化されたことが結果としてあらゆる種類の、ピアノに関して言えば、色んなピアノの演奏家が日本に来ることになったんです。そのことによってドミソをファラドと言っていた先生たちはそれが通用しなくなっていってしまったんですね。
3. ロシア音楽に影響を受け留学へ
−−中村さんは物心つかれる前からピアノと出会って、あまり自分の意志とは関係のないところで才能が伸びてしまったということでしょうか?
中村:そうですね。とにかくピアノに明け暮れていました。あらゆることがピアノ優先で、勉強から何から全部後回しでした。でも、私自身は本を読んだり、絵を描くのが好きだったので、大人になったら小説家か絵描きになろうと思っていたんです。
−−ピアニスト以外にも興味のある職業がおありだったんですね。
中村:ピアノはレッスンや試験といったことと関係なく弾いているときは本当に楽しいんです。でも、こんなに楽しいものが当時子供だった私にとっての社会と結びつくとどうしてこんなにつまらない、辛いものになるんだろうと。それが不思議でした。
特にあの時代は共産主義礼賛の絶頂期だったんですよね。日本はアメリカ軍に占領されていたんですね。それでアメリカに並ぶ大国だったソ連は占領下である日本、すなわちアメリカに対してのアピールとして、意図的にソ連の音楽家や芸術家たちをどんどん安い値段で日本に送り込んできたんですよ。これは一種の政治的配慮ですね。それを受け入れていたのが労音(勤労者音楽協議会)という組織です。その労音がボリショイ・バレエ団や若い音楽家など素晴らしい人たちをいっぱい呼んだのです。ソ連政府のバックアップのもとに。ですから超一流の芸術家を比較的安く聴けたのですが、それにしても限られていましたから。そして1970年の大阪万博で、そういう壁が全部取っ払われてあらゆる価値観をもつものがいっぱい流れ込んできたんですね。これはピアノに限らず社会の全ての面で大きな影響を与えました。
−−大阪万博というのはそれぐらい大きな影響があったイベントだったんですね。
中村:大阪万博は私から見れば第2の黒船です。そのくらい大変な出来事でした。
−−その頃はもう海外でご活躍されていたんですよね。
中村:そうですね。日本の先生たちの古い考えに反発して日本にいられなくなってしまったんです。本当はソ連に留学したかったんですね。というのはその頃にソ連から来日した演奏家のひとりにエミール・ギレリスというピアニストがいまして、その人の演奏を聴いて「ピアノの演奏とはこういうものか」と目から鱗が落ちたようになった。それでモスクワに留学して彼に習いたいというのが夢になったのです。でもその頃はソ連に留学するのは非常に難しかったので諦めまして、その後、あるきっかけでニューヨークのジュリアード音楽院のロジーナ・レヴィーンという当時84歳の大先生にお会いして「ジュリアードに勉強にいらっしゃい」って言われて、ジュリアード音楽院へ留学したんです。レヴィーン先生はロシア生まれで、モスクワ音楽院を金メダルを獲って卒業された方でした。だから私は幸運にも、ソ連と同じメソッドを学ぶことができたのです。
−−ジュリアード音楽院ではどのようなことを学ばれたのですか?
中村:レヴィーン先生は人間的にも素晴らしい魅力のある老婦人だったんですが、そこで音楽というのは楽しまなきゃいけないっていうことを教えていただきました。「自分が演奏しているものが楽しくなくて、なんで聴き手が楽しいと思うか」と言われて、それは当時の私の発想にないことだったので衝撃を受けました。
−−では、63年、ジュリアード音楽院に行くまではあんまり楽しくなかったのですか?
中村:ひたすら苦行僧と言うか修道院に入っているようなものです(笑)。「子供のための音楽教室」はしょっちゅうグレード分けの試験をするんです。試験の順位もすぐにわかるような仕組みになっていたものですから、どうもみんなからライバル視されたりして、私もおちおちしていられない感じになりますし、そういったことがひたすら私をピアノに向かわせたモチベーションでもありました。
−−今の進学塾みたいな感じですね。
中村:本当にそうですね。しかも日本では普通音楽コンクールというのは高校生とか大学生とかそれぐらいの年齢の人が受けるのに、私は高校に入ったときにはもう1位を獲っていて、周りはあんまり上手い人がいなかったものだからすごい威張ってたんです(笑)。肩で風きって周りなんて目にも入れないみたいに(笑)。ナマイキだったのね。
−−(笑)。
中村:桐朋ではピアノを弾いてるのは女の子ばかりで、男の子なんて100人の中に2人ぐらいしかいなかったんですね。ですが、ジュリアード行ったら上手いのはみんな男の子で、しかも私なんか逆立ちしてもかなわないぐらい上手くて・・・あの頃のジュリアード音楽院のピアノ科は黄金期の最後だったんですよ。今は駄目ですけれど。
4. 全てがゼロに戻った苦難の時期
−−ジュリアード音楽院はどのような学校だったのですか?
中村:私はそのロジーナ・レヴィーン先生にお習いしたのですが、先生は毎年入試のトップから2人か3人しか弟子をとらないので、先生の弟子になること自体がものすごいステイタスだったんですね。そのように先生のグレードが我々生徒たちにはわかっていて、例えば学校の廊下で誰かと鉢合わせして「今の人は誰の弟子?」と先生の名前を聞くだけでどのくらいのランクかわかったほどです。
レヴィーン先生は毎年コロラド州のアスペンというとこで開催されるアスペン・ミュージック・フェスティバルで一夏過ごして教えたり楽しんだりなさるんですが、私がジュリアードに入る前に先生が「学校に慣れるために一夏一緒にいなさい」とおっしゃってアスペンに一緒に行きました。そのとき音楽祭オーケストラとショパンのピアノ協奏曲第二番を演奏したのですが、指揮をしたのがレヴィーン先生の生徒で、後にメトロポリタン歌劇場管弦楽団総監督に就任したジェームス・レヴァインでした。そのジェームス・レヴァインを始め錚々たる顔ぶれがいて、「本当にえらいとこに来ちゃった」と思いました。そこでそれまで竹刀でおしりを叩かれながら勉強したような基本というのが全く駄目だということがわかったのです。
−−今まで習ってきたことが通用しなかったんですか?
中村:18歳で「あなたは才能があるけど、1からやり直しなさい」と言われて、それがショックで一時は放心状態になってしまいました。「自分が今まで悲しいことも悔しいことも全て我慢してやってきたことは一体何だったんだろう」と。でも、私と同時期にピアノやっていた子たちは多かれ少なかれ同じ目に遭っています。それには理由があるんですね。私たちがお習いした先生たちは皆さん第二次世界大戦でいい音楽を聴くこともできず、いい勉強もできなかった気の毒な時代の人たちなんです。そこへいくとジュリアード音楽院はアメリカで今も最高の学校でそこのトップの先生は演奏家としての、それから芸術家としてのあらゆる体験を過去に持ってらした。でも、日本の先生たちは演奏するチャンスもなかったし、オーケストラの演奏会でさえもろくにないようなそういう時代でしたからね。響きのよいホールさえ東京にはなかったのですから。
−−1からやり直しというのは期間で言うと何年ぐらいかかったのですか?
中村:先ほど申し上げた通り、音楽というのは早期が一番重要で18歳までそのやり方でやっていたものはもう身についている。直せと言われても直せない。そこからある程度自由になって自分の演奏というものができるようになったなと思うのは30歳を過ぎてからですね。自分ではもう必死になって今まで習ったことを全部忘れて、レヴィーン先生のやり方、すなわちモスクワの奏法でやってるつもりでも、例えば自分が出ているテレビなんかを見ると「あら嫌だ! 昔の悪い癖がまだ全部残ってる!」っていうね。それは本当に恐怖でした。
−−順風満帆でなんの苦もなくというわけではなかったのですね。
中村:とんでもない。だってゼロからスタートしなさいと言われたわけですから。
−−言葉で簡単にゼロに戻せと言われてもあり得ないほど困難だったということですね。
中村:演奏というのはスポーツと似ていて肉体を駆使する。子どもの時から体にたたき込まれた癖というのは取るのが大変です。もう一つ言えることは当然ですけどヨーロッパやアメリカの先生たちは日本人ほど親切じゃないんですね。自分で切り開いて見つけていって、先生に「どうですか?」と聞いて、そこで初めて先生は「それはこうがいいね」ということはおっしゃるけど、「こうやったらどう?」「ああやったらどう?」っていうことを手にとっていちいち教えてくれることはないわけですね。ですから結局自分で手探りでやっていたんですが、ショパンコンクールに出たあとに体調を崩して日本に帰ってきたりして…。そういうことが落ち着いたのは30歳を過ぎて結婚してからですね。
5.ピアニストには内臓の強さも必要!
−−別のインタビューで「どんな社会でも人との繋がりが大事でピアニストもピアノだけ弾いていればいいというものではない」とおっしゃっていましたね。
中村:とにかく自分がやればやるほど、自分一人ではやっていけないことがよくわかるんですね。例えば、大賀さんがこうやってご紹介くださるように、人間社会というのは色んな人との繋がりで成立しているものなんですよね。私は日本の若いピアニストに対して「いくらあなたがいい演奏をできるとしても、いきなりヨーロッパへ行って大成功するかといったら、まずしない。結局、コミュニケーションもろくに取れないような全く違う人種がやってきて、多少演奏が上手くてもそこで突然道が開けるようなことはなくて、やはり人と人との繋がりで色んなチャンスというのは増えていくのだから、そこを勘違いしたら駄目ですよ」というようなことをよく言うんです。
−−それは世界をいろいろお歩きになって誰よりも身に染みてらっしゃると。
中村:ええ。みんな若いと自分の能力を過信したり、若さ故の傲慢さとかもありますが、とんでもないことです。だから今ヨーロッパで活躍している人は何人もいますけれど、そういう人たちをよく見ると、やはり12〜3歳ぐらいでヨーロッパに行っているので母国語同様に言葉がしゃべれて、色んな人との繋がりに助けられながらやってる面が大きいですよね。
−−これから世界的な活躍を目指す若い人たちは、上手いというだけでは成功できないのですね。
中村:ピアノが上手い、ヴァイオリンが上手いという人は山ほどいます。問題は聴き手になにをわかってほしいか、何を伝えたいかなんです。上手い下手じゃなくて、それを演奏を通してはっきり言えるようになる。それが非常に難しい。
−−それができる人というのは限られてきますよね。
中村:本当にね。1980年代以降は若い人の技術が上がったんです。それこそ今10代から20代にかけての若いピアニストの平均的な技量ときたら世界のトップクラスですしね。でも演奏会で人を感動させるかというとまた別の話なんです。またその一方で聴き手もまたものすごい情報量に慣れているわけですから。
−−聴き手も耳が肥えてきていると。
中村:人間って年を取れば年をとるほど、そう単純に感動なんかしてくれないんですよね。聴き手だってかなりしたたかになっていますから。そういう人たちを感動させ、かつ、何千円かのお金をいただいて、ぜひ次の演奏会にも聴きに行きたいと思わせるというのは大変なことです。それをするためにはやはりまず人並み外れた献身というか、そこに注ぎ込むエネルギーが尋常ならざるほどの量でなければ、そう簡単には人を感動させられないと思います。
−−そのモチベーションを50年間にわたり維持し続け、さらにご自分を磨き続けるという底知れぬパワーというか、それはどこから生まれてくるんでしょうか?
中村:それはね、まず第一に内臓が基本的に丈夫じゃないと(笑)。
−−内臓ですか?(笑)。
中村:基本的に体力を維持できるだけの健康に恵まれてないと駄目ですね。一発勝負でいちかばちかでやるっていうのは、色んな人ができると思うんです。よく才能はあるけど体力はないっていう人はいますから。だけどこれをキープしていくっていうのはやっぱり大変です。だから運がよくて更に体力が必要なんだと思うほかないんですよね。
−−失礼ですがご病気とかそういうことは?
中村:ありません。ここ一年ぐらい黄砂のアレルギーになってしまったぐらいで、あとはもっぱら筋肉的な疲労です。ピアニストの肉体的な故障というのは野球のピッチャーと同じところを痛めるんです。腕のつなぎ目ですね。そういうのをしょっちゅう手入れをして、手入れするだけでは物足りなくなって、筋力トレーニングを始めてもう5年ぐらいになります。
−−筋力トレーニングをされているんですか。
中村:本来ピアノという楽器とその演奏は男性のヒロイックな面を強調するために書かれている面があるわけです。女性はあくまでも良家の子女のたしなみとしてピアノを弾く。それ以上出てはいけないという時代がつい最近までヨーロッパではあったんです。でも現代ではロシアの熊みたいなピアニストと同じレパートリーを弾き、かつ彼らよりも聴き手に興味を持たせるような演奏をしなきゃいけないわけでしょう? 私は手も小さいですし、身体も小さいですから、どうしても色んなところに負担がかかってきますし、腱鞘炎になったり身体をあちこち痛めてしまうんですね。
それで、ある時スポーツマッサージの先生が「紘子さん、このマッサージをやれば治りますけど治った後また8時間練習したらまた同じでしょう? 少し鍛える方をやったらどうですか?」とおっしゃったのね。それもそうだなと思ってトレーナーについてトレーニングを始めたんです。面白くてノっちゃった時は1週間に2度ぐらい行って1回1時間ずつやったりしました。今は加圧トレーニングをやっています。
−−それもやっぱり1週間に1度ぐらいのペースで通われているんですか?
中村:1度だとちょっと足りないんです。週に2度ぐらい行けたらいいなと思っているのですが。というのは加圧でかなりきついトレーニングやると2〜3日はしばらく体も締まって効果が出るんです。でも1週間だとそれがまたたるむわけ(笑)。だから、キープするために週に2度ぐらいは行かないとと思っているんですけれど。
−−食事にも気をつけていらっしゃるのですか?
中村:そっちはだめなんです。食いしん坊だから(笑)。
−−そうですよね「食事ぐらい好きなものを」と思いますよね。お酒はたしなまれるんですか?
中村:お酒は昔免許証を取ったときに、「お酒を取るか免許証を取るかどっちかに決めろ」って主人に言われて(笑)。その時に運転があんまり楽しかったものだから「じゃ運転にするわ」って言ってお酒やめちゃったんです(笑)。
6. クラシック音楽の経済効果
−−現在の日本のクラシックの音楽界に何かお思いになることはありますか?
中村:今はもう、日本の音楽界もヨーロッパも情報化の中で揉まれてしまってますからほとんど変わらないですね。レベルの点からいっても私の子供の頃とは全く違う世界になってしまっています。問題はクラシック音楽というのは基本的には大衆化しえない部分があるんですね。より楽しむためには聴き手側も訓練しなければならない面があるので、一気に「なんでも面白い」というものではないんですね。
一方で、例えばピアニストを目指す人たちも生活が豊かになってくると、みんな苦労しなくなるわけです。これを私は「先進国症候群」と名付けているんですが、要するに2〜3歳の子供の頃から個室に閉じこもって毎日お稽古したものの、演奏家として成功するかなんて神様だって分からないような不確かな将来の生活設計をみんなやるわけないんですよ。才能がある、特に男性ほど、何か他のことで確実な未来設計をしてしまう。例えば一流の大学に通って一流の会社に入ってしまって、ピアノは趣味ととらえてしまう。戦後最初にそういう傾向になったのはアメリカです。ですからアメリカでは1980年代の後半ぐらいから白人で中流以上の人たちで本気でコンサート・ピアニストになろうという人はいなくなってしまいました。
−−日本もそうなってしまいますか?
中村:今の日本は既にそういう傾向にあって、みんな達者に弾くのだけど極限まで突き詰めるみたいなことはアホくさくてしないですし、そういう精神の極致のような昴まりを生活の中で必要としない。だから、お父さんお母さんにかわいがられて美味しいものを食べてガールフレンドがいて・・・みたいなことで満足してしまう。ピアノはハングリーじゃないとダメなんです。ボクシングと同じです。言い換えると人間はこの現実社会で満たされない夢を何かに託すことがエネルギーになるんですよね。ところが夢というのは現実に美味しいものを食べちゃうと、案外たやすく満足してしまうものなんです。だから大昔、学生運動が盛んだったころに面白いことを言う人がいて、「あの連中に3日間美味しいモノを食わせて、いい洋服着せたらもうすぐに転向するよ」。経験からその人は言っていたんですけど、それは事実かもしれません。
−−現在ハングリーなピアニストが多い国はどこなんでしょうか?
中村:今やはりハングリーなのは韓国ですね。韓国は高度成長しましたけど、常に日本を追いかけているわけですよね。そういう意味で満たされないハングリーさを持っています。それから中国。また、今のヨーロッパはクラシック音楽のマーケットが大きくありませんから、その中で少ないパイを奪い合うわけで、結局才能があって努力してというだけでなくて幸運に恵まれた人だけがチャンスを得るような状況ですね。
−−以前、東京は今世界中で一番クラシックのコンサートを見ることができる街になっているという話を伺ったのですが、ヨーロッパのクラシック音楽のマーケットは小さくなってしまっているのですか?
中村:そうです。もうドイツなんかでもピアノをやっている人なんかいないですからね。ですからベルリン・フィルなんかも質が落ちてしまったし、今は大変みたいです。ウィーン・フィルが何故うまくいっているかというと、オーストリアはハプスブルグ家の遺産の観光資源で食べているわけですね。だから国家の財政の為に投資もしているんです。ザルツブルグはまさにその典型で。冬のザルツブルグは変な言い方ですけど、お化粧をおとしたおばあさんみたいに最悪。
−−(笑)。
中村:冬のザルツブルグはしみだらけ、しわだらけのおばあさんみたいなんですが、春が近づいて観光シーズンになるとお化粧して大騒ぎして、上はリムジンで来る王侯貴族から下はナップザックで野宿する若い人たちまで全ての人たちが楽しめるような受け入れを作る。ザルツブルグ音楽祭というのはそのひとつの頂点なわけですね。今年はわかりませんが、ある時の予算では音楽祭に8億円ぐらいかけていたのですが十分元は取れるわけです。それからモーツァルト・イヤーなんかですと経済効果が2兆円とかあるんです。彼らはもちろん音楽好きな人もいるでしょうけど、単純に芸術を愛し音楽を愛しているからやっているわけではなく、経済効果を生み、それが国の収入になるからやっている。日本もそういうところは見習った方がいいんですよね。東京にはこれだけいいコンサートホールが集まっているわけですから、音楽界もそういう考え方でやっていけないことはないんですよね。そこに目をつけて、ここ3年ぐらい「ラ・フォル・ジュルネ」という音楽祭が5月の連休に東京国際フォーラムで行われていて、延べ80万人程の人が来るそうです。クラシック音楽に対して日本が国をあげて音楽イベントやることが良いか悪いかは別にして、経済効果というものをもう少し考えるべきだと思いますね。
−−最近は余暇の時間もほとんどピアノをお弾きになって過ごしていらっしゃるというのをお聞きしたんですが。
中村:もう、強迫観念に追われているだけです(笑)。だから絶えず「あれをさらっとかなきゃ」と朝から寝るまで思っているわけです。ちょっとでも時間があればピアノを弾いています。でも本当に正直なもので30分でもやればやるだけのことは確実にあるんです。だから決してその練習というのは無意味じゃないんですね。
−−最後にお聞きしたいのですが、今までピアノをやめようと思われたことは?
中村:それはしょっちゅうありましたよ。先生に反抗していた頃とかね。それからアメリカに行って上手い子がたくさんいるのをみてショックを受けたときとか、自分はやっていけるのかしらと思った頃もありますしね。
−−今年50周年を迎えて、コンサート・ツアーで全国をくまなく回られるとお伺いしています。
中村:そうですね。私はもう50年もピアノを弾いているので格別な気持ちはないですが(笑)、記念アルバムの発売も予定しておりますので、是非多くの方々に聴いていただければと思っています。
−− 50周年の記念アルバムも楽しみにしております。本日はお忙しい中ありがとうございました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
中村さんは視野が広くとても聡明な方で、今回のインタビューではピアノという1つの視点を通して、戦後の日本の音楽史や世界情勢なども語ってくださいました。東京オリンピックや大阪万博が日本にとってどのような意味があったのか、それがクラシック音楽にどのような影響をおよぼしたのか、これまでは知ることがなかった事実を伺うことができました。今年9月にはデビュー50周年を迎えられ、全国47都道府県でのリサイタルや、N響を初めとする各オーケストラとの記念公演に加えて、50周年記念アルバムの発売も予定されているなど、これからも様々な形で益々のご活躍が期待されます。