第81回 日野 皓正 氏 ジャズトランペッター
ジャズトランペッター
今回の「Musicman’s RELAY」は岡部比呂男さんからのご紹介で、ジャズトランペッターの日野皓正さんのご登場です。中学を卒業後、本格的にプロ活動を開始し、白木秀雄クインテット参加後のベルリン・ジャズ・フェスティバル出演で世界の注目を浴びた日野さんは、その後アメリカへ活動の拠点を移し、日本を代表するジャズトランペッターとして世界のジャズ・シーンでご活躍中です。また、近年はチャリティー活動や後進の指導にも積極的に関わられ、音楽だけでなく個展や画集の出版など絵画の分野でも活躍するなど、年々活動の幅を広げていらっしゃいます。そんな日野さんに今までのキャリアを振り返っていただきつつ、そのエネルギッシュな活動の源について伺いました。
プロフィール
日野 皓正(ひの・てるまさ)
ジャズトランペッター
1942年10月25日東京生まれ。
トランペットをはじめ、13歳の頃には米軍キャンプのダンスバンドで活動を始める。1967年の初リーダーアルバムをリリース以降、マスコミに” ヒノテル・ブーム”と騒がれるほどの注目を集め、国内外のツアーやフェスティバルへの出演をはじめ、雑誌の表紙を飾るなどファッショナブルなミュージシャンとして多方面で活躍。1975年、NYへ渡り居をかまえ、数多くのミュージシャンと活動を共にする。その後もヒットアルバムを連発、CM出演など多数。1989年にはジャズの名門レーベル“blue note”と日本人初の契約アーティストとなる。近年は「アジアを一つに」という自身の夢のもと、日本をはじめとするアジア各国での公演の他、チャリティー活動や後進の指導にも情熱を注いでいる。また個展や画集の出版など絵画の分野でも活躍が著しい。
01年芸術選奨 「文部科学大臣賞」受賞
04年紫綬褒章、文化庁芸術祭「レコード部門 優秀賞」、毎日映画コンクール「音楽賞」受賞
大阪音楽大学短期大学客員教授
- 父から手渡されたトランペット
- 白木秀雄クインテット参加を契機に世界へ飛躍
- 家族全員でニューヨークへ移住〜活動の拠点をアメリカへ
- 日本とアメリカを股にかけての演奏活動〜数多くのジャズ・ジャイアンツとの出会い
- 若手育成を通じてジャズ・シーンを活性化したい
- 一番大事なことは勇気!〜自分の限界を超えることの大切さ
1.父から手渡されたトランペット
--前回ご登場いただいたヤマハの岡部さんとはいつ頃出会われたのでしょうか?
日野:僕の先生がスターダスターズのリーダーをやっていた佐藤勉さんという方だったんですが、その先生が浜松のヤマハで楽器を選んでたか作ったかしていたので、僕もヤマハに行き出したんです。そのときはただ見ていただけなんですが、後にヤマハのトランペットを使い始めたんですね。それから日野皓正モデルのトランペット作りましょうというお話をいただいて、作るときに一生懸命手伝ってくれた担当エンジニアが岡部さんだったんです。それがきっかけで知り合ったんだと思います。
--日野さんは東京のご出身と伺っておりますが、東京のどちらで過ごされたのですか?
日野:高円寺で生まれて戦時中だったので盛岡県に疎開したんです。そして終戦と同時に千駄ヶ谷へ移ってそこで育ちました。その頃の千駄ヶ谷は爆撃で真っ黒に焼けただれて、誰も住んでいなくて富士山なんか毎日見える土地だったんですが、少しずつ周りに家が建ち始めました。
--トランペットとの出会いはおいくつのときだったんですか?
日野:9歳ぐらいのときですね。親父の古いトランペットを渡されて「これを練習しろ」って言われて、学校に行く前に30分、帰ってきてから2時間ぐらい練習していました。「野球とかして遊びたいな・・・」と後ろ髪ひかれる思いで毎日練習していましたね。 中学校のときに江利チエミさんが千駄ヶ谷にコンサートで来ることになったんですが、そこで原信夫とシャープス&フラッツが演奏していたんですね。うちにお金がないのは知ってたんですけど、それが見たくて「コンサートに行きたい」と親父にせがんだら、チケットを買ってくれたんです。それで、そのとき観た白いタキシードを着たトランペットの人の真似を一生懸命やったりしていました。
--小さいときは、お父様に言われて嫌々トランペットを吹いていたのですか?
日野:嫌々でもなかったですよ。トランペットが好きで教わっていましたし、未だにやめたいって思ったことはないです。でも一昨年ぐらい前にプーさん(菊地雅章)とレコーディングしたときに、本番中にプーさんから「違うよ!」とか「バカヤロー!」とか散々言われて(笑)、「俺ヘタだからやめようかな・・・」みたいなことはありましたね。その程度です(笑)。
--(笑)。トランペットは直接お父様に教えてもらっていたのですか?
日野:かまやつひろしさんのお父さんのティーブ釜萢さんが日本ジャズ学校というのを設立して、そこと千駄ヶ谷の帝国秘密探偵社の前にあったジャズ学校の両方に通っていたんですが、日本ジャズ学校には昔シャープス&フラッツのリードを吹いていた増田義一さんに弟さんがいらっしゃって、その方に教わってました。
--ちなみにお父様のステージもご覧になったりしたんですか?
日野:父のはないですね。3歳頃にお袋に連れられて公民館みたいなところで、余興でラッパを吹いている姿を1回見たことがあるぐらいです。父は銀座を歩いているとほとんどの女が振り返ったというくらいの二枚目で、日劇にも出演していたんですよ。戦時中は徴兵検査に落ちて軍隊に入れなくて、中島飛行機(現 富士重工株式会社)でプロペラを毎日作っていたそうです。するとどんどんオーダーが減ってきて、「日本はもう負けると分かった」と言っていましたね。疎開してからは警察官になって、そのときに戦争が終わったんだと思います。
--お父様は戦後、警察官になられたんですね。
日野:はい。それから彫金をやりだしてね。うちはみんな手先が器用なんですが、自分で色なことをやるのは父親の血筋ですね(笑)。
2.白木秀雄クインテット参加を契機に世界へ飛躍
--日野さんがミュージシャンとして活動し始めたのは中学を出てすぐだったんですか?
日野:そうですね。僕は花村菊江、野村雪子、曽根史朗、そういう人たちの歌謡曲の伴奏を町内会のコンサートで吹いていましたから、中学のときには新宿の「リド」っていうキャバレーに毎日行っていたんです。上手くは吹けないけど一応お金はもらっていました。そして卒業と同時に厚木の米軍キャンプで水原弘の伴奏をやっていたバンドに入りました。
--日野さんと同じぐらい若いプロのミュージシャンはいたんですか?
日野:いないですよ。みんなおじさんばっかりでバクチと女の話しかしなくてね(笑)。
--その頃のおじさんたちは古いバンドマン体質だったんですね。
日野:僕も受け継いでいますけどね(笑)。だって、みんな言うんですよ、「ジャズミュージシャンは“飲む打つ買う”をしなかったら一人前じゃないんだぞ」って(笑)。
--(笑)。中学生にして、半分学生で半分プロのミュージシャンという生活だったわけですね。
日野:そうですね。だから学校で昼飯を食べると眠くなってしまって、勉強はほとんどしていませんでした。英語は小学校のときから習っていたので中学校1年生のときはクラスで1番で、2年生になったら真ん中、3年生になったらビリになりました(笑)。
--米軍のキャンプで演奏されるきっかけは何だったんですか?
日野:家の隣に住んでいたお医者さんがトランペッターだったんです。その人が父親と付き合いがあって、サードトランペッターを探しているというので米軍キャンプに引っ張られていったんです。昔は上手く吹けないミュージシャンは給料が安かったので、向こうにとってはバランスがとれて都合がよかったんです。上手な人ばかり集めると給料が払えなくなるから、僕とか、ベースなんか持ってるだけとか、そういう人がよくいました。その後、色々なバンドに入ったので成増、立川、朝霞とあらゆるキャンプに行きましたし、色々なダンスホールでも演奏していました。
--だんだんお金回りもよくなっていったのですか?
日野:スタートがすごく安かったのでお金回りは全然良くなかったですね。最初が月に数千円で、次のバンド行くと2千円づつぐらい上がっていくという感じでした。弟はプロになって最初から6万円か7万円もらっていたのに、僕なんか白木さんのバンドに入って2万円でしたから。
--白木秀雄さんとの出会いというのは?
日野:色々なバンドを経て稲垣次郎さんのバンドに引っ張られて入ったんですが、その頃に新人のグループを作ってビデオホールに出演したんです。そのときの僕の演奏を白木さんやジョージ川口さんが見て、評論家の イソノテルオも「バタくさいトランペット現る」みたいな記事をスイングジャーナルに書いて、「日野皓正という新人がいる」とみんなが知ってくれたんです。 それで、大阪の朝日放送が東京で録音してジャズのラジオ番組を作っていたんですが、番組に呼ばれて「日野くん、演奏をやってもらいたんだけど」と言われたので、「他に誰がいるんですか?」って聞いたら、宮沢昭さんとかスイングジャーナルで見る名前の人たちばかりだったので、「僕にはできませんよ」と言ったんですが、結局「マイルストーン」や「バット・ノット・フォー・ミー」を録音しました。そして、稲垣次郎さんのバンドにいた仲野彰さんが白木秀雄クインテットをやめるので「誰かいないか?」となったとき、テナーの村岡健が「もう日野君しかいないんじゃないか」と僕に白羽の矢がたって白木秀雄クインテットに入りました。その翌年の1965年にベルリンジャズフェスティバルに行ったんです。当時僕は21歳か22歳ぐらいだったと思います。
--当然バンドでは最年少ですよね。
日野:ええ。それからジャズ喫茶に出演するのに弟(日野元彦)と大野雄二、稲葉(国光)さんと自分のカルテットを作ったんです。そのときタクトレコードから声をかけられて、アルバム『アローン・アローン・アンド・アローン』を作りました。それが最初のレコーディングでしたね。
--その辺から「ヒノテル・ブーム」が起こってきたわけですか。
日野:そのちょっと後ですね。スイングジャーナルなんかでも書かれたりするようになってからですね。
--やはりベルリンジャズフェスティバルに出演するということはもの凄く名誉なことですよね。
日野:そうですね。そこでMPSというドイツのジャズレーベルのレコーディングがあって、「日野君の『アローン・アローン・アンド・アローン』をやろう」と僕のオリジナルを入れてくれたり、そのときにスリー琴ガールズっていう琴を連れて行ったので、日本民謡と八城一夫さんが書いた「祭りの幻想」や「さくら、さくら」を演奏して、MPSプロデュースでアルバムを作ったんですが、やっぱり凄いなと思ったのは、プロデューサーやエンジニアが絶対音感を持っていて、別の部屋で演奏している世良譲さんが僕の曲をちょっと違うコードで弾くと「そこのピアノ間違えてる!」って鋭く指摘して、こっちはギクッとしちゃってね(笑)。僕と村岡なんかはまだ若かったから「やっぱりいい耳してるな!」なんて喜んじゃいましたけどね。
3.家族全員でニューヨークへ移住〜活動の拠点をアメリカへ
--その後、ニューヨークへも行かれましたよね。
日野:ええ。それくらいの腕になってくると「アメリカの人はどんなことやっているんだろう?」と気になってしょうがなくなってくるんですよね。俺たちは遅れてるのか、これでいいのか、本場のミュージシャンはどうしているのか知りたいと思いました。
--ニューヨークに行かれたのは何年ですか?
日野:’69年の新宿ジャズ大賞で優勝して往復の切符をもらったんです。それで行ったのが最初で、ハワイに寄って後藤芳子さんが偶然出演していたカハラ・ヒルトン(現 ザ・カハラ・ホテル&リゾート)に行ったり、サンフランシスコに寄ったりしました。
--フラワームーヴメント真っ盛りのサンフランシスコですね。
日野:そうです。同行していた弟と内藤(忠行)さんというカメラマンと小林克也さんのグループでジャズクラブに行ったんです。それで「飛び入りしたいんだけど」と交渉しても駄目で「朝の6時半にジャムセッションやるからそれに来い」と言うんですよ。「俺たち馬鹿にされてるのかな?」と思ったんですけど、何十年も後で聞いたら本当にその時間にやっているみたいでしたね。
それでニューヨークに着いたらさすがに活気がすごくて、ヴィレッジ・ゲートのあるブリーカー・ストリートなんかはヒッピーみたいな人も歩いているし、ハービー・ハンコックもジョー・ヘンダーソンも普通のジャズクラブに出ていたり、イーストヴィレッジという危険な地区にあるスラッグスというクラブにはエルビン・ジョーンズなんかも出ていて、かなり興奮しましたね。そこでは飛び入りしていたんですが、ニューヨークに着いたときに持っていたヤマハのトランペットで、ヒッピー風に「LOVE」って描いてもらったものだったんですが、空港で何秒か目を離した隙に盗られちゃったんです。空港中を探し回ったんですが、結局見つからなくて…。それですぐにセルマーの200ドル位のトランペットを買って、それで飛び入りの演奏をしていたんですよ。
--そのときは結構長い期間ニューヨークに滞在してらしたんですか?
日野:いえ。最初はチケットも貰ったことだし様子を見に行こう、という感じでしたからね。それからは毎年アルバムを作りに行っていました。中村照夫やスティーブ・グロスマンとか、マイルスのバンドのやつとかみんな外国人を雇ってね。それでずっと滞在している間に「これはもうニューヨークに住むしかない!」と思って、プーさんも「来いよ」と言ってくれたし、増尾(好秋)ちゃんや大野俊三もニューヨークに行ってたから「じゃあ俺も行こう!」と決めました。英語も全然出来ないのに子供4人を集めて「”ありがとう”は英語で”サンキュー”って言うんだぞ!」って教えたりしてね(笑)。
--(笑)。では家族全員で行かれたんですか?
日野:家族6人でいきなりですね。それでマンハッタンのホテルに滞在している間にプーさんに手伝って貰って住まい探しをしました。マンハッタンは危ないですし、子供たちの教育にも悪いだろうと思って、クイーンズに住みたいと考えていたんです。それでホテルに滞在中にギル・エバンスから「ジャッキー・マクリーンのバンドに入ってくれ」と電話がきたんです。ちょうどウディ・ショウがジャッキーのバンドを辞めたときで、ニューヨーク中のトランペッターが「ジャッキーは次に誰を使うんだろう?」という噂でもちきりのときに急に僕になったんです。
--ニューヨークに行って即バンド入りですか。それは凄いですね。
日野:もう黒人からは「ブラザー、なんであんなイエロー使いやがって!」と言われたり、ファイブ・スポットで吹いていたら、休憩時間に白人が急にトランペットのデモンストレーションを始めたりするんです。「こんなところで何やってるのかな」と思っていたらバンマスに「俺を使え」って言いに行ったりしていて「この世界って凄いな! 人のポジションを横取りするんだ」と思いましたね。
--ハングリーさが凄いんですね。
日野:さすがに「日野がいるからいいよ」と取り合わないですけどね。他にもボブ・バーグが「ホレス・シルヴァーのバンドの”リハーサル”があるから来いよ」と言うから行ってみたら、他のトランペッターが二人が来ていて、それでオーディションだと気付いて「ふざけんな!来るんじゃなかった」と思っていたんですが、結局僕に決まってシアトルとサンフランシスコに行ったりもしましたね。
--もちろん実力があって各バンドに採用されたわけですけど、妬まれて危ない目に遭われたことはありましたか?
日野:そういうことはありませんでしたけど、日本より海外のミュージシャンって仕事を確保するのにみみっちいですね。
--(笑)。
日野:だからマイケル・カービンというドラムを僕のバンドで使いだしてからアル・フォスターなんかは僕と会っても顔を背けますからね。「なんで俺を使わないんだ」って。
--みんな感情剥き出しですね。
日野:日本のツアーなんかに連れて行ったりしたことのあるドラマーのジェイ・ティー・ルイスなんか、僕のバンドがスイート・ベイジルへ出演する日、必ずサウンドチェックしようとするとシンバルとスネアを持って現れますからね。ドラムが来てないときにそいつのポジションを獲っちゃおうとして、「覚えてるだろ? 俺はここにいるから!」という感じでアピールしてくるんですよ(笑)。だから日本とは全然違いますよ。海外のミュージシャンってもっと心が大きいのかと思っていたけど狭い(笑)。
4.日本とアメリカを股にかけての演奏活動〜数多くのジャズ・ジャイアンツとの出会い
--アメリカに本格的に移住されたときは、お子さんはまだ小さかったんですか?
日野:そうですね、長男が小学校4年生だったかな?
--ご家族の皆さんはアメリカにはすぐ馴染めたんでしょうか?
日野:何もわからないのに、いきなりパブリックスクールに入れちゃったんです。そしたら一週間もするともう友達を家に連れてきて庭で遊んでましたね。わからないなりにも遊んでいたから、やっぱり子供は順応が早いですよね。僕は日本語を頭の中で英語に置き換えるんですが、ベースをやっている次男の賢二なんかは英語で日本語を理解しているようですね。
--アメリカにはそれからずっと住まわれていますね。
日野:そうですね。マンハッタンの家はもう売っちゃってないんですが、今はニュージャージーとフロリダに家があって、東京と行ったり来たりしています。
--住民票もアメリカにあるんですか?
日野:そうです。グリーンカードでね。だからどっちにも選挙権がないんですよ。アメリカは国民にならないと選挙権がもらえませんし、日本は住民票がないから選挙権もないんですが、僕はまだアメリカ人にはなりたくないですし(笑)、うちの女房も日本人にはなりたくないって言ってます(笑)。
--(笑)。現在の比重としてはどちらが多いでしょう?
日野:毎年特別なビザを申請していて日本にはいつまで居ても大丈夫ですから、やはり日本のほうが多いのかな。
--アメリカと日本と生活面では何が一番変わりますか?
日野:大きな違いはないですが、日本の方が便利ですね。どこに行っても食べ物が美味しい。アメリカは美味しいところもあるけど、ニュージャージーなんかは森の中という感じだから遠かったりね。でもそこにいればそれが当たり前になりますし、世界中どこへ行ったって同じで、良い人がいるか悪い人がいるか、それだけです。
--今まで数々の方と競演されてきたと思うのですが、なにか特別な思い出はありますか?
日野:思い出は物覚えが悪くて忘れちゃうんです (笑)。でも一緒にやったミュージシャンで言うと、やっぱり数々のジャズ・ジャイアンツと競演できたことですね。ソニー・ロリンズ、渡辺貞夫さん、富樫雅彦、僕、プーさん、峰 厚介と大阪御堂筋の御堂会館で一緒に演奏できたりね。もちろんアメリカでの想い出もたくさんあります。マイルス・デイヴィスにも可愛がられて、マイルスの家に行ったりしましたしね。
--マイルス・デイヴィスはどのような印象をお持ちですか?
日野:本当にインテリジェンスな人ですね。あの人は絵も描きますしね。
--日野さんもマイルス同様、絵を描かれますよね。加山雄三さんとご一緒に個展をされたり。
日野:そうですね。自分でやったり二人展をやったりしていますね。今度は妻とも二人展を渋谷でやりますし、以前、出版した『ニューヨーク・エキスプレス』の続編『逆光』という自伝を出したりと色々やってます。本当は「逆行」と名付けたかったんですが、インパクトが強すぎるから光の「逆光」にしました。テレビを見ていても、世の中「冗談じゃねぇ」って思うことばっかりなので、そういった時代に切り込もうと、このタイトルにしました。
--’89年に日本人ミュージシャンとしては初めてブルーノート・レコードと専属契約されましたが、その後は?
日野:Somethin’else(ブルーノートの姉妹レーベルとして日本で発足した東芝(現EMIミュージック・ジャパン)のレーベル)をやめたあと、スイートベイジル・レーベルに移ったんですけど、今はブルーノートと契約する前に所属していたソニーに14年ぶりに戻ったんです。
--レコード会社によって違いはありますか?
日野:いえ、同じですね。これから死ぬまでに残していくアルバムは大事じゃないですか。だから所属がどこであろうと自分のやりたいことをやろうと思っています。
--近々またアルバムを出されるご予定はあるんですか?
日野:今度はアメリカのちょっと面白そうな人とやりたいなと考えているんですが、今は自伝のプロモーションをもうちょっとしていこうかなと思ってます。
--最近はまたプーさんとも一緒にやられていますが、やはり長いお付き合いでしょうし、特別な関係なんでしょうね。
日野:そうですね。もう10代の頃から新世紀音楽研究所で一緒ですからね。銀巴里セッションとかあの頃から僕が慕っていたピアニストであり、日野=菊地クインテットでもう何回もアルバム制作をしていますし、彼との関係は非常に大きいですね。
5.若手育成を通じてジャズ・シーンを活性化したい
--最近は音楽大学の客員教授をなさっていると伺いました。
日野:そうですね。あと「ドリームジャズバンド」というのをやっています。
--若い才能の育成にも力を入れていらっしゃるそうですが。
日野:それが良いんだか悪いだかわからないですけどね。プーさんに言わせれば「馬鹿野郎!もっと自分のことをやれ!」ということになるんでしょうけどね(笑)。でもジャズがこれだけ低迷して、誰もジャズを聴かなくなって、日本では喫茶店やレストランのBGMみたいな扱いになってしまっていますよね。
小学校でブラスバンドに入って楽器に触れ、中学校になってちょっと音が出てくるようになると、ジャズは複雑で面白いからジャズに憧れる何パーセントかがいるわけなんですね。映画『スウィングガールズ』を観て影響される人もいるでしょうし、そういった子どもたちが成長してどんどんスターが生まれて、シーン全体が盛り上がり、みんながジャズを再認識してくれるとジャズ界にとっては嬉しいわけです。だから少しでも手引きをしていかないともったいないと思います。
--日野さんのような経験豊富で、第一線で活躍されているアーティストのアドバイスは若いミュージシャンにとって貴重な経験になりますよね。
日野:日本にいるとやかましく言ってくれる先輩がいないんです。みんな和気藹々となっちゃって、「楽しかったよー。じゃあまたねー」って帰っていく生徒ばかりなんです。僕たちの時代は毎日ケンカしてみんな上手くなっていったんですが、そういう緊張感がないんですね。言ってあげる人があまりにもいない。
--日野さんご自身も積極的に若手をバンドで起用なさっていますが、ドラマーの和丸さんは凄いですね。
日野:彼はやっぱり凄いですね。普通じゃないです。那覇で和丸の父親から「和丸は今中学生なんですけどドラムばかりやっていて・・・今後どうやって教育したらいいですか?」と聞かれたので、「中学出たら高校なんて絶対行くなよ」って言ったんです。
--(笑)。
日野:「ドラムが人生とか勉強を教えてくれるから」と言って、その日のコンサートに呼んでドラムをやらせたんですが、そのときに才能を感じたんです。彼は凄く力強い目をしていて、「こいつはただ者じゃないな」と思って叩かせてみたら「日本にもこんなテクニシャンがいるのか!」と。
--先ほど次男でベーシストの日野賢二さんのお話が少し出ましたが、他のお子さんたちにはあまり音楽をやらせなかったんですか?
日野:長男と次男だけですね。最初は長男にドラムをやらせたんですが、あまりにも下手だったので「ドラムはやめて絵を描け」って言ったんです。それでマンハッタンのミュージック&アートという高校に入ったんですが、彼はそれもパッとやめて毎日学校が終わると47丁目のルディースというギターショップに行っていました。上にギターを作る職人がいて有名なロックミュージシャンが買いに来るショップなんですが、そこにジョンというチーフがいて、彼の作業をずっと見ていたら「うちでアシスタントやってみるか」って言われてやり出しちゃったんです。それでギターの作り方を習い初めて。
--楽器を作るほうに進まれたんですね。
日野:そうですね。それで、チーフのジョンがカリフォルニアに行ってしまうことになって、長男がチーフとしてジョン・スコフィールドやエリック・クラプトンなどのギターを作ったりしてるわけです。それでリペアの腕も凄くて、長男は「マサノブ」と言うんですが、ニューヨーク中のミュージシャンたちから「マス」と呼ばれていて、「マスの所で直せば何でも直るから」って言われているようですね。それで日本のメーカーと契約して自分のモデルを出していたんですが、「やっぱりアメリカのほうがいい」って言って、またハーレムに住んでギター作っています。
--ミュージシャンとしてではなく、ギター職人として音楽に関わってらっしゃんですね。
日野:弟の賢二が「兄貴のベース高いんだもん。買えないよ」なんて言ってね(笑)。
--(笑)。賢二さんにはトランペットをやらせなかったんですか?
日野:いや、やったんですけど、長男に買ってあげたフェンダーのベビーベースを賢二が取り上げて、そればかり弾いてるんですよ(笑)。
--やはり賢二さんはベースの方がしっくりきたんでしょうかね(笑)。自分の子供に教えるのってなかなか難しいと聞きますが。
日野:いや、なんだっていいんですよね。人間として自分が幸せに、もしくは人のためになるようなことができるんだったら何の仕事でもいいじゃないですか。ただ、僕の子供が勉強できるとは思えませんし(笑)、博士や医者には絶対になれないと思って、とりあえず手に職持っていたほうが強いだろうと色々やらせたんですよ。
6.一番大事なことは勇気!〜自分の限界を超えることの大切さ
--日野さんにお会いしてみてわかったのですが本当にお若いですよね。やはりトレーニングはされているんですか?
日野:トレーニングはそんなにしてないですが、スキーやゴルフをやりますし、お酒も21年前に止めました。タバコはもちろん吸いませんし、そのへんがやっぱり他の人とはちょっと違うかな。
--お酒はやはりよくないですか?
日野:いや、そんなことはないと思います。お酒も適量なら食は進みますし、血の巡りも良くなりますから、いいことだと思います。ただ次の日の演奏に影響が出るようだったらプロじゃないですよね。それに先輩たちの中には70いくつかになったときに音がひどくなったり、しょぼくなったりする人がいるわけじゃないですか。「俺は絶対ああいうふうにはならないぞ!」って言いたいですね。「75歳なのになんであんなに吹けてるの?」って言われたいですから(笑)。
--音楽もスキーもゴルフも、人と競争するということじゃなくて自分との戦いというか、そういうところは全部共通点がありますよね。
日野:そうですね。この前、クリスマスのディナーショーが終わってから、ニュージャージーに帰って、絵を描かなくてはいけなかったのでキャンパスを買うために画材屋さんへ行ったんです。そうしたら店員が「あなたは何をしているの?」と訊くので、「一応ジャズトランペッターなんだよ」って言ったら「そうなの。じゃあ名前書いておいて」って言うから書いたんです。そうしたらYou Tubeかなんかで僕の演奏を観たみたいで、次に画材屋へ行ったら「あなた有名なんだ!」と言われまして(笑)。
--(笑)。
日野:そうしたら中から女性のマネージャーが出てきて、「絵を教える教室をやっているんだけど、モデルになってくれませんか?」と言われて考えていたら「お金も払うわよ」と言われて(笑)、お金なんか問題じゃないんだけど、一日2時間で45 ドル、しかもこのお店の商品が全部20%オフになるっていうから「それはいい」と思って引き受けてしまったんですよ(笑)。
--商品全品20%オフに釣られてしまったと(笑)。
日野:そこの先生は若いんですが素晴らしい絵を描く人で、うちの妻も生徒になって、全部で10人ぐらいの生徒に教えていました。僕は今までが自己流だったから絵の描き方がわからなかったんですが、モデルになればその授業を全部盗めますしね。
--モデルをしながら日野さんも生徒になっていたんですね(笑)。
日野:そう(笑)。イスに座ってライトに照らされて「トランペット持ってたほうがいいかな?」って言ったら「いいね!」って言うのでわざわざ持っていたんですが、誰もトランペットを描かないんですよ(笑)。形が複雑だから面倒臭いじゃないですか?(笑)。
--(爆笑)。
日野:あと、他のモデルに絶対負けないようにやろうと思ったんです。それでマスキングテープを全部イスに貼って、次の週のときにすぐ先週と同じように座れる努力をしました。授業では、先生が「影を描くのにブルーやグリーンを入れろ」とか今まで考えたこともなかったことを言っていたので、休憩時間に妻のところへ見に行って確認したり、「ブラシを洗うときはアメリカに昔からあるアイボリーという大きい石けんを使うと、根本までカチカチになったブラシもまた再生できる」と言われて、「そういえば固まったブラシがいっぱいあるな」と、家に帰ってから20分以上延々と洗ってたら全部フサフサになったり、そういうことをたくさん勉強できました。
モデルも終わりの頃に先生が「また帰ってきたらいつでも来い。お前のモデルはすごくよかった」って言ってくれてね。妻はその次の週も生徒として残っていたんですが、新しく女の人がモデルで来て、そのモデルが毎回ポーズが違ったらしくて、生徒さんたちが休憩時間に妻のところにきて「お宅のハズバンドはよかったわ」ってみんな言ったそうです(笑)。
--モデルとしての日野さんの努力が実りましたね(笑)。音楽だけでなく、何事に対してもひたむきに努力する姿勢が今日の日野さんを支えているんでしょうね。
日野:生徒たちにはいつも「社長になるのは簡単だけど、社長でいる努力を続けるのは大変だよ」って言うんです。あと「一番大事なことは勇気だ。昨日までの自分をいつ捨てられるかによって変わってくる。常に清水の舞台から身を投じられる勇気があれば凄い人になる。それを守ろうと思ったら駄目だ」とも言っています。 僕はヤマハで日野皓正モデルのマウスピースを作ってるんですが、僕はマウスピースでずっと悩んでいたんです。それでアメリカへ行ってからわかったんですが、みんな唇とマウスピースを当てるところが僕より上なんです。そのときに「自分のやり方って間違ってるな」って思いました。僕なんかそれまで間違ったところで吹いて、血を出して、肉まで出てくるようなことをずっと経験してましたから。
--その間違いはだいぶキャリアを積まれてから気付かれたということですよね。 そこからまた吹き方を変えたんですか?
日野:そうです。やっぱり理想の音にするには今の自分を捨てるしかないですし、限界まで追い込まないと駄目なんですね。バテちゃって明日から仕事にならないかもしれないと思うときもありますが、トロンボーンなんてあんな大きいのにハイトーンが出るんだから、人間の筋力なんていうのは慣れるはずなんです。「これ以上やったら死ぬよな」っていうような長い音を出しても意外と人間って死なないわけですよ(笑)。そうすると一線を超えた人はどんどん限界が上がります。だから自分の持ってるものを絶えず超えて、タイミングと音の深さと重さに磨きをかけなくてはいけないと思っています。また、人間の深さが音楽に表れるので、そういうことも踏まえて生きていかないといけないですし、生き方=精神がしっかりしていれば、これからも良い演奏ができるんじゃないかなと思っています。
--本日はお忙しい中ありがとうございました。日野さんの更なるご活躍をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也 山浦正彦)
今回のインタビューで日野さんにお会いしたとき、握手で迎えてくださったのですがその握力たるやものすごく、なぜこんなに力強いのだろう?と驚いてしまうほどでした。とにかくエネルギッシュで暖かく、気さくで少しも気取った所のない日野さん。音楽はもちろんのこと、趣味に対しても手を抜かず「常にプロフェッショナルでいたい」という気持ちが体現されており、筋の通った男気がインタビューや立ち振る舞いから伝わってくるようでした。まだ次回のアルバムリリース予定はないそうですが、一日も早く新作を届けてくださることを期待しています。