第87回 松任谷 正隆 氏 音楽プロデューサー/モータージャーナリスト
音楽プロデューサー/モータージャーナリスト
今回の「Musicman’s RELAY」は秋元 康さんからのご紹介で、音楽プロデューサー/モータージャーナリストの松任谷正隆さんのご登場です。14歳のころからバンド活動を始め、早くも20歳からプロのスタジオプレイヤーとして活動を開始し、バンド“キャラメル・ママ”“ティン・パン・アレイ”に参加。その後アレンジャー、プロデューサーとして松任谷由実をはじめ、吉田拓郎、松田聖子、ゆず、いきものがかりなど多くのアーティストの作品に携わられました。また、音楽学校「マイカミュージックラボラトリー」を1986年に開校し、現在は東京工科大学客員教授として、後進の育成にも力を入れている松任谷さん。今回のインタビューでは、意外な少年時代から松任谷由実さんとの出会い、さらに現在の音楽業界に至るまでお話を伺いました。
プロフィール
松任谷 正隆(まつとうや・まさたか)
音楽プロデューサー/モータージャーナリスト
1951年(昭和26年)11月19日、蠍座、A型、東京生まれ。
慶應大学(文学部)卒業。
4歳からクラシックピアノを習い始め、14歳の頃にバンド活動を始める。20歳頃からプロのスタジオプレイヤー活動を開始し、バンド“キャラメル・ママ”“ティン・パン・アレイ”に参加。その後アレンジャー、プロデューサーとして松任谷由実をはじめ、吉田拓郎、松田聖子、ゆず、いきものがかり、など多くのアーティストの作品に携わる。
また、音楽学校「MICA MUSIC LABORATORY」を1986年に開校、2001年4月からはジュニアクラスもあらたに開校し子供の育成にも力を入れている。
1985年から20年以上にわたり「CAR GRAPHIC TV」のキャスターを務めるなど、自他共に認める車好き。今ではモータージャーナリストとしての顔も持ち、「AJAJ」の会員、及び「日本カー・オブ・ザ・イヤー」の選考委員でもある。
「CAR GRAPHIC」誌の『CG・TV』、「MEN’S CLUB」誌の『2010年の自動車購入計画書』、「EDGE」誌での「我が人生にクルマあり」等々、エッセイ連載中。著書に『マンタの天ぷら』(二玄社)、男性誌「Men’sEX」での連載をまとめた『僕の散財日記』(世界文化社)がある。2008年8月には「サルにもわかるインプレッション」を目指して書き下ろした初めてのカーエッセイ「職権乱用」(二玄社)を出版。
FMラジオのレギュラー番組として、TFM「三菱UFJニコス presents松任谷正隆 DEAR PARTNER」(毎週日曜日21:00〜21:55)がある。(TOKYO FM、FM OSAKAで放送中)
2009年10月1日、東京工科大学客員教授を就任。
2010年10月、新型アートカレッジとして開校する「東京芸術学舎」のライフスタイル学科の学科長に就任する。
1. パニック症に悩まされた少年時代
−−秋元康さんからのご紹介ですが、秋元さんとはいつ頃お知り合いになられたんですか?
松任谷:知り合った時期ははっきり言って覚えていません。確か、BS開局番組のときに手伝ってもらったんですね。でもその頃は彼のことをよく知らなかったです。ちゃんと話をしたのは雑誌『BRUTUS』のお取り寄せ企画で、食べ物を食べながらだったと思いますよ。
−−そういうお仕事ですか(笑)。
松任谷:音楽的な繋がりよりも、実はそういう食べ物的なつながりという感じの関係だと思います。
−−(笑)。
松任谷:合コンに誘ってくれるって言って電話がかかってこないような、そんな関係ですね(笑)。秋元さんはどんな存在かというと、僕から見ると陰で糸を引く親父(笑)。決して表には出てこず、いろんなことは分かっていて、全てを分かっていてあえて出てこない(笑)。僕より歳下なのにね。
−−ここからは松任谷さんご自身の話をお伺いしたいんですが、ご出身は杉並と伺っております。どのような家庭環境だったのですか?
松任谷:普通ですよ。うちの親父は銀行のサラリーマンで、母方の祖父はゴルフ場の建設経営を母方一同でやっていたんですね。僕が物心ついたときには母方の祖父が進駐軍で仕事をしていた関係上、レコードやピアノとかは家に結構あったので、音楽を聴く環境にもあったし、ピアノをやる環境にもありました。
ピアノを習い始めたのは4歳くらいですが、クラシックをやるのはあまり好きではなかったので、一生懸命練習もしないから上手くなるわけもなく・・・。でも、テレビでやっているCMとか音楽をその場でコピーしてピアノで弾くことが得意技でした。当時は弾いても誰にも誉められず、でも友達は喜んでくれてみたいな感じだったんですね。実はそこの部分が後になって一番重要になっていったんですけどね。
−−当時のCMといいますと?
松任谷:いろいろありましたが、今よりもずっとシンプルなCMが多かったですね。たとえばドラマのオープニングの曲とか聴いたらすぐに弾けましたから。
−−松任谷さんは絶対音感をお持ちなんですか?
松任谷:絶対音感はあります。でも最近なくなってきました。半音くらいずれているんですよね。平行感覚が狂ったんですかね。原因はよくわからないんですけどなんか狂うんですよ。
−−少年時代は外で遊ぶようなことはあまりしなかったんですか?
松任谷:そうですね。当時はこの言葉はなかったんですが、パニック症だったので、満員電車に乗れなかったんです。僕は高井戸に住んでいて、学校が渋谷の先にあったので井の頭線に乗るんですけど、渋谷駅で学校に行きたくなくなっちゃって、よく駅長室で寝てました(笑)。あとはみんなで給食を食べることができなかったりとか、できなかったことが結構いっぱいありましたね。でも当時は精神的な病気に社会認知がないので怒られて(笑)。
−−いつから治っていったんですか?
松任谷:正確に言えば今も治っていないですよ(笑)。
−−テレビの司会までやってらっしゃるのに?
松任谷:あれはパニック症でもできますよ。やっぱり満員電車に乗るのが一番辛いことなんじゃないのかな。
−−だから車にのめり込まれたんでしょうか?
松任谷:それもありますね。ホントに。
−−おじいさんがハイカラなことをやっていたことも、後々の車の趣味に影響がありましたか?
松任谷:むしろ逆で家に車がなかったんですよね。うちの祖父が会社の車を持っていたんですが、家に車がなかったこともあって、僕はその車が欲しかったですね。当時は車なんてどこの家にもあるものじゃないですから。
2. 並外れたIQを駆使した嘘と妄想
−−松任谷さんは名門の慶応幼稚舎を受験されて突破されているわけですけれども、当時も幼稚園児時代にお受験教室に行くみたいなことはあったんですか?
松任谷:僕は覚えていないのでこれは親の話ですが、どこかの塾に入れようとしたら時期が遅かったので入れず、IQテストだけは受けたそうなんです。そしたらIQが異常にいいんですよ(笑)。
−−(笑)。
松任谷:だから、塾に入らなくても行けるんじゃないのかと言われて、実際そのまま行けちゃったという。でも学校は好きじゃなかったですよ。いまだにクラス会とか行かないですから。
−−慶応幼稚舎ってクラスも先生も6年間変わらないですよね? だから普通の学校よりは結束があるというか。
松任谷:ありますね。慶応は卒業しても徒党を組む学校じゃないですか。僕はそういうのが大嫌いで、むしろ慶応を隠したい方ですよね。
−−小学校の頃はどのような少年でしたか?
松任谷:音楽的なことで言うと、とにかく指揮者になりたかったんです。それと、練習もしないのにピアニストにもなりたかったですね。指揮しながらピアノコンチェルトをやりたかったので(笑)、「どっちがいいかな?」って思ってたのは覚えてます。それとパニック症だから妄想癖があって、妄想の世界にのめり込むような結構怖い性格だったんですよ。
−−どんな妄想をしていたんですか?(笑)
松任谷:指揮したり、ピアノを弾いたり、そういう妄想なんですけど、それを例えば朝のラッシュアワーの電車の中でしているんですよね。その妄想の中に逃げ込みさえすれば、学校までもったんです。
−−かなり重症ですね。
松任谷:重症でしょ。今考えればヒドイですよ。あと大嘘つきでしたね。
−−それは、妄想からですか?
松任谷:嘘が先だったんだと思います。嘘から妄想の扉が開いた。一番最初についた嘘は、僕のおじいちゃんはロシア人だっていう嘘です。
−−(笑)。その嘘はどのぐらいまで引っ張ったんですか?
松任谷:一度嘘をつくとその嘘を正当化するためにまた嘘つくわけですよ。すると、自分の中でストーリーが完結しない限り嘘はつき通せないじゃないですか。だからそこで妄想の扉が開くんですよ。嘘を正当化するために妄想の中の世界が現実の世界になっていないと駄目じゃないですか。
−−いまも続いてらっしゃるんですか?
松任谷:残ってないはずはないと思います。
−−親から見てみると当時は相当扱いにくい子だったんじゃないですか?
松任谷:そうだと思います。お袋は僕を怖がってましたからね。家庭内暴力はないですけれど。
−−ちなみに嘘も真顔で言うんですか?
松任谷:もちろん。さもなければ嘘にならない。冗談になっちゃう。
−−元々IQ高いですしね(笑)。
松任谷:(笑)。IQだけで言ったら神童のはずですもん。
−−その後、中学校に進まれた頃にはミュージシャンになることは考え始めていたんですか?
松任谷:その考えは全然なくて、バンドを初めて見たのも僕がたった数回しか行かなかった小学校の同窓会のときです。中学になると男女別々のクラスになるんですが、それまで女の子を意識していたようには見えなかったラグビー部の連中が、中学になったら当時流行っていたカレッジフォークのバンドを組んで女子に向かって演奏したんですね。それを見たときの僕のカルチャーショックっていうのがけっこう大きかったと思います。「なんで女の子たちに向かって歌を歌うの?」っていう。見ちゃいけないものを見ちゃったみたいな。
−−人はそれを“思春期”と呼ぶんでしょうね。
松任谷:そうそう。でもそこから自分もそっちの方向に興味を持っちゃうのが、自分でも説明ができない。たぶん女子と関係があるんだと思う。それまで自分の妄想の中での音楽はモテるとか関係なく、格好いいっていう世界だったけど、そっから邪念の世界に入っていくんですよね。それでモテるためにギターを持ったり、バンジョーを持ったりしたんですよ。
−−実際にバンドを組んじゃったんですか?
松任谷:そうですね。それが中2とか中3とかです。ただ、僕の妄想の中でそれまでやってきた音楽と、ギター弾いて歌っている音楽はまったく別もので、それが一緒になるのは大学の2年ぐらいからなんですけどね。
−−ちなみに当時の流行の曲なんかは聴いていたんですか?
松任谷:最初フォークから入って僕はビートルズに行かずに、カントリーに行っちゃったんですよ。僕はへそ曲がりですから、いつも流行っているのとはちょっと違った方向に行きたかったんです。
3. 故・加藤和彦氏に見いだされた才能
−−中学、高校、大学とバンド活動は続けていたんですか?
松任谷:はい。それが楽しかったし、音を聴くとコードとか全部わかるからすぐにその場でコードとか書けちゃうじゃないですか。
−−メンバーから重宝がられますよね。
松任谷:そうでしょう。だからそんな理由で高校時代は男からモテモテで(笑)。そうやっていろんな音楽をコピーして欲しいヤツがいると、みんなレコードとか持ってくるから新しい音楽を聴くチャンスじゃないですか。譜面を書く代わりにいろんな音楽を聴いてました。
−−すでに二十歳でプロのスタジオで仕事をされていたそうですが、二十歳前後でプロになる人って結構早いですよね?
松任谷:どうでしょうね。でも、キーボードプレイヤーって当時いなかったんですよ。ギター弾くヤツは多くてもね。
−−プロとしての一番最初の仕事はなんだったんでしょうか?
松任谷:加藤和彦さんが関っていらしたステレオのCMです。だから僕を見いだしてくれたのは、加藤さんなんです。アマチュアバンドのとき、一緒にやってたやつがシンガーソングライターで、そいつの曲を直してやったりしていたんですね。それで東横百貨店でアマチュアバンドのコンテストがあって、そいつと一緒に出たら優勝したんですけど、そのときの審査員が加藤さんで。そいつには仕事は来ずに僕だけが加藤さんに呼ばれたんです。その一週間ぐらいあとにまた呼ばれて、テイチクのスタジオで吉田拓郎さんの「結婚しようよ」を録音したのが僕の初めてのレコーディング仕事です。
−−加藤さんは松任谷さんのどこに可能性を見い出してくださったと思いますか?
松任谷:もう亡くなられてしまったのでわからないですよね。亡くなる前に訊きたかったなあ。加藤さんはあまり覚えてないかもしれないけれど、加藤さんが僕を見つけてくれたと思ってます。
−−コンテストに出たときは、そのシンガーソングライターの友達がメインだったんですよね?
松任谷:そりゃそうです。だって僕はバックのピアノだけですから。
−−そこで松任谷さんの才能を見抜いてしまう加藤さんもすごいですよね。ちなみにそのとき一緒にやられていた方は今でも音楽と関わってらっしゃいますか?
松任谷:そのときにドラムをやっていたのが林(林立夫氏)で、そのうち小坂忠さんに出会って、フォージョーハーフをやり始めたんです。
−−そのときにはミュージシャンで食べていこうと目標を定めてらしたんですか?
松任谷:いや、なにもないですよ。こんなものが成立するとも思ってなかったし、このバンドが続くとも思っていなかったです。さらに言えば、パニック症なので飛行機に乗れなかったんですよ。ツアーっていうと僕は「おばあちゃんが死にました」「おじいちゃんが死にました」とか、さすがにおばあちゃん3人ぐらい殺したところでメンバーに気づかれて「あれ?」っていう(笑)。そのバンドは僕が欠席するとスティールギターとドラムと忠さんっていう編成になっちゃって(笑)、芯がない音楽になってしまうのでみんなは相当辛かったと思うんですけど、たぶんそれが原因で解散(笑)。
−−(笑)。飛行機は今も苦手ですか?
松任谷:だいぶ克服しましたけど当時は全く駄目でした。
−−学生時代はフォージョーハーフと並行して、どんどんスタジオの仕事も増えていったわけですか?
松任谷:そうですね。一方でフォージョーハーフには大風呂敷を広げるマネジャーがいて、はっぴいえんど、はちみつぱいが所属してた「風都市」っていう事務所なんですけど、いくらやっても月給三万円。搾取されまくり(笑)。当時そんな高いギャラであるわけもないから、そんなものだろうと思ってましたけど。もう一方では、最初にやったレコーディングが吉田拓郎ってこともあって、拓郎の方からもレコーディングにしょっちゅう呼ばれ、さらにコンサートツアーもあったり学校なんか行ってる暇がないぐらい忙しかったですね。なにかやってると、友達から電話かかってきて、翌日試験だからって、隣に座れっていうんで写して、カンニングでようやく卒業しました(笑)。
−−その横に座っていた方が、前アリコジャパン社長の宮本富生さんということですね。
松任谷:そうそう。彼は3年のときに休学するんですが、そのときは彼の彼女の隣に座りました。
−−(笑)。いつ音楽で食べていくか、という気持ちになったんですか?
松任谷:それはやっぱり由実さんに出会った頃からですね。就職活動してる時間もなかったから、もしなにもやることなくなったらピアノの先生とか、でもクラシックはきっと教えられないから・・・なに教えていたでしょうかね。
−−遠い先のことは、あまり深刻に考えてなかった?
松任谷:そりゃ、深刻だったけどやれてないし、やれないものはしょうがないだろうって感じだったんですね(笑)。
4. キャラメル・ママを結成し、荒井由実の「ひこうき雲」を制作
−−フォージョーハーフののちに細野晴臣さん、鈴木茂さん、林さんとキャラメル・ママを結成されますね。
松任谷:ちょっとそのあたりのことは覚えてないんですが、僕が原因でフォージョーハーフが解散になり、一応林のところに謝りに行ったんですよね。そしたら「アイディアがあるからもう一回やろう」って話になって、それがキャラメル・ママになったんですね。
−−そのとき初めて細野さんと一緒になったんですか?
松任谷:フォージョーハーフをやってるときに小坂忠さんは狭山に家を借りていて、そのときバンドも狭山に家を借りていたんです。僕は共同生活とかイヤだったからほとんどいなかったですけど、狭山の忠さんの隣に細野さんも住んでいたんですよ。あと「風都市」で一緒だからフォージョーハーフとはっぴいえんどがだいたいセット売りみたいな感じになっていて、しょっちゅう一緒でしたし。
−−キャラメル・ママで由実さんとの接点ができるんですよね? ファーストアルバム『ひこうき雲』のときに「これはすごい才能だ」とビビビっときたんですか?
松任谷:そういうんじゃないんですよね。音楽的には僕の趣味ではあったけど、そのときまだ僕はこの世界で食っていけるとは思っていなかったですから。『ひこうき雲』が終わって、当時のプロデューサーだった村井邦彦さんに「ハイ・ファイ・セットをプロデュースしてみないか?」って言われたあたりか、あるいは二枚目の『ミスリム』ぐらいから由実さんのアルバムを僕がやるようになり、任される仕事が多くなってきてただのピアノ弾きじゃなくなってきたあたりからじゃないですかね。ちゃんとお金も入るようになり、月三万円じゃなくなりましたしね。
−−以前、NHK BSでやっていた『マスターテープ』という番組を拝見したんですよ。『ひこうき雲』のマスターを聴きながら、レコーディング・メンバーの皆さんが当時を色々と回想されていてすごく面白かったんですが、そこで由実さんがキーボードで弾きながら歌うから、「僕のキーボードはいらないじゃないか」って思ったとおっしゃっていましたよね。
松任谷:そうそう。当時、吉田美奈子の『扉の冬』というアルバムと由実さんの『ひこうき雲』が全く同時進行だったんですよ。それで美奈子は美奈子自身でピアノを弾くっていう話になり、由実さんも自分で弾くんだろうなと思って、「とりあえずやることがなくなったら帰ろう」と思ったんです。
−−でも、実際はかなり弾かれたんですよね?
松任谷:そうですね(笑)。でも、『ひこうき雲』は由実さんもかなり弾いてると思います。
−−そのときの由実さんの印象は?
松任谷:あくまでも美奈子との比較でしかないんですよね。誤解されちゃうといけないんだけど美奈子の音楽が早稲田とすると、由実さんは慶応みたいな感じなんですよ。軽さ具合というか。美奈子は頑固で人のアイディアを聞く耳を持たない感じでした。一方、由実さんはその逆でなんでも言うことを聞いちゃうタイプだったんですよね。
−−由実さんはいろんなものを取り入れる感じだったんですか?
松任谷:そうですね。やってみようとか、それにしますとか。すごい軽い感じだったんですよ。
−−では、松任谷さんもいろいろアイディアを出されて?
松任谷:ただ、最初はどう考えても彼女の方がいろんなことを知っていました。僕がスコアの書き方を習ったのも彼女からです。僕は中音部記号を知らなかったんですよ。音符はいくらでも書けるけど、スコアってこうやって書くんだよとか、弦の編成って6、4、2、2とか、8、6、4、4、2とか。そういったことですね。
−−由実さんは若いのにそういったことを知っていたんですか?
松任谷:彼女は知ってました。だから最初に編曲を教わったのは彼女からですよ。
−−おそらく世の中のほとんどの人は逆だと思ってますよ。
松任谷:それで面白くなっちゃって、そこからは面白いことはなんでもやりましたよ。ホルンの音域はここからここまでだとか。そういうところは彼女の方がレコーディングの経験も僕よりあって、僕のレコーディングの経験は吉田拓郎のレコーディングの現場くらいだから、そんなに弦とか管とかあまりなくてね。
−−ちなみに由実さんは出会った頃から今まであまり印象が変わりませんか?
松任谷:相変わらずミステリアスな部分を持ってると思いますね。その部分はきっと死ぬまで見ることがないだろうし、それがパートナーとしてとっても大事なところだと思いますけどね。彼女はそういうところがあるから逆に普通であろうとするところもあって、一生懸命家事とかやろうとしましたよ。その反動とか埋め合わせかどうかはわからないですけどね。だから、その二つのバランスでパートナーシップは保ってるんじゃないんですかね。あとは、僕が成長したということもあると思います。あの頃の関係で言うと、最初に出会った頃が、彼女が大学生で、僕が小学生ぐらいの感じだったと思いますね。
−−今は対等になった感じでしょうか?
松任谷:今は僕の方がちょっと上ですね(笑)。
5. 「国道246号が王道だとすると僕らは駒沢通り」
−−当時『ひこうき雲』は僕らにとっても衝撃的なほど新しく感じました。それまでの全てものが田舎くさい歌謡曲に聞こえちゃうぐらいのインパクトがあったと思います。
松任谷:そうですね。インパクトありましたよね。ただ、売れるかどうかなんて絶対わからなかったですね。売れるものだなんて思ってなかった。
−−村井さんはそこに関してはなにも言わなかったんですか?
松任谷:ほとんど言わなかったと思いますね。あと担当ディレクターも歌のことだけ一生懸命言ってたけれども、そのほかのことは自由にやらせてくれるような感じでした。
−−その後、松任谷さんが由実さんの作品に関わるようになってセールスも順調に伸ばしていったわけですよね。
松任谷:いや、実は結婚してすぐにバンと落ちたんですよ。『紅雀』っていうアルバムが結婚後、最初の作品だったんですがもう惨憺たるセールス。
−−それは、何枚目ですか?
松任谷:『ひこうき雲』、『ミスリム』、『コバルト・アワー』、『14番目の月』、その後に『ユーミンブランド』というベストを出して結婚して、5枚目で落ちました。
−−セールスが落ちた理由はなんだったんですか?
松任谷:大人の女っていうのをやろうという企画が間違いだったですね(笑)。
−−(笑)。
松任谷:『紅雀』は今、本人も相当気に入ってるみたいですけどね。
−−ちょっと冒険した作品でしたよね。
松任谷:僕は冒険だとは思ってなかったけど、背伸びをしたい年頃だったんだと思います。
−−そこからどのようにセールスを戻していったんですか?
松任谷:僕が伊集院静さんをプロデューサーに迎えたんです。これはあまり今まで知られてないかもしれないんですけど、僕は基本的に人を見る目がないんです。でも、まれに人を見る目があるんですよ(笑)。
−−そのまれが伊集院静さんだったと(笑)。
松任谷:そうですね。伊集院さんは当時まだ物書き志望の僕より1歳年上の人。山本達彦とか、そういうアーティストに詞を書いていたのはちょっと知っていましたけどね。それで、僕の知り合いが葉山でやっていたコンサートに彼を連れてきて、そのときに息が合って朝まで家で話し込んで、「ちょっとコンサートの演出やりませんか」っていう話になったんですよ。
−−出会ったその日にですか? すごい話ですね。
松任谷:「この人ならできる」と思ったんですよね。だから「他のことは僕が全部後ろでやるから、とにかく船頭の席に座ってよ」って。彼はすごい統率力のある人で、コンサートのことをやりながら「これからはアルバムを年に2枚出していくべきだ」って言ったんですよ。そこから年2枚ずつアルバムを作り始めて、コンサートもやって、彼女は息を吹き返しました。
−−そうなると休みはないですよね。
松任谷:当然休みはないです。フル稼働ですね。でもそれなりに楽しかったですけどね。
−−我々も含めて、ある世代の人たちにとって松任谷由実さんの与えた影響力ってものすごく大きいと思うんですよね。
松任谷:でも、僕たちは王道を歩いてきたっていう意識がないんですよ。歌謡曲が最初は王道だったでしょう? シンガーソングライターなんて当時はアウトサイダーですもん。売れてきたときも井上陽水がいたでしょう? 井上陽水がメジャーだったから。由実さんは一番じゃない。王道は必ず誰かがずっといたんです。だから、僕たちはわりと我が道をいくっていう感じでしたね。
−−でも、女性のシンガーソングライターの中で現在まで第一線で活躍し、しかもライフスタイルにまで影響を与えたアーティストと考えると、やっぱり由実さん以外にはいないと思います。
松任谷:僕はやっぱりそうは思っていなくて、国道246号が王道だとすると246号を色んなメジャーな人が歩いていって、僕らは駒沢通りを歩いていった感じなんですよ。だから時々駒沢通りがオシャレな通りって言われたり、空いてるぞって言われたり、その周りに住むといいぞって言われたりみたいなそんなイメージですかね。もちろんある程度の影響力はあったと思いますが、僕から見ると小室哲哉くんがすごい影響力あったのと同じようにあったらいいなと思いますね。
−−いや、由実さんもすごい影響力があったと思います。あらゆるシーンで由実さんの音楽が頭の中に入っていると思うんですよ。スキー場に行って吹雪くとつい「BLIZZARD」が頭の中で流れるみたいな。
松任谷:それは彼女が夢見ていた世界だから。人の頭の中に残るものがちょっとでもできたらいいなっていうことだから、それはよかったですよね。エバーグリーンっていうのは僕らの世代の1つのキーワードだった気がするんですよね。特に僕らがプロになる頃は。はっぴいえんどが目指してたものがエバーグリーンだったし、由実さんが目指したのも、美奈子が目指したのも、山下達郎が目指したのもエバーグリーンだったけど、果たしてエバーグリーンってあるのかなって思ったときに、世代を越えてエバーグリーンなんていうものはなかなかないんじゃないかな? っていうのが今の僕の考えですね。それをエバーグリーンにしていくためには膨大な支える力が必要な気がしますね。
−−由実さんの曲にはすでにエバーグリーンになっている曲はたくさんあると思います。「春よ来い」のように教科書に載っている曲もありますし。
松任谷:少なくとも僕らの意識の中にはないですね。きっとそう思ったらそこで辞めちゃうからじゃないですかね(笑)。
6. 最も大事なライフワークの1つ〜MICA MUSIC LABORATORY設立
−−マイカミュージックラボラトリーを設立されてもうずいぶん経ちますよね。
松任谷:25年ですね。
−−マイカはどのような気持ちで設立されたのですか?
松任谷:先ほどお話した通り、僕は高校や大学に入った頃に「このまま就職しなかったら音楽の先生になろう」と思ってたんですよ。だから人に教えたり、巣立っていったり、プロデュースしたり・・・というイメージは昔からあったんです。
−−なにか教えてあげたいという気持ちはいつでもあったんですね。
松任谷:僕は最初から子供を作る気がなかったので、自分のDNAを音かなにかで残せたらいいなと思っていたのかもしれないですね。ちょっとおごった考えだけど、そう思って始めました。
−−マイカを25年続けられて、達成感や成果は感じていらっしゃいますか?
松任谷:色んなものは感じますよ。才能のある生徒も見てきたし、そうでない生徒も見てきたし、どこまでを伝えられたかなっていうのはいつも考えてますけどね。その人なりに伝えられなかったら意味ないですものね。
あと難しいのは、僕が全てのクラスの常任講師じゃないからそれぞれ先生の教え方と僕との温度差があって、そこの調整具合っていうか自分の中でどこで落とし込んでいくかとか、そういうのはありますね。
−−マイカに関して松任谷さんの中では相当時間を割いていらっしゃるんですか?
松任谷:実際の時間はそんなに割いていません。ただ、精神的にはすごく割いているかな。精神的には僕の最も大事なライフワークの1つなので。少なくとも僕が作品を見るような連中のことはいつも頭にありますね。それが子供であってもね。
−−マイカを25年やられてきて音楽を仕事にすることを目指している若者に変化は感じられますか?
松任谷:学校をやってる限りはあまり変わっていないような気はします。でも、少なくとも僕が学校を始めて言い続けてきたのは、アマチュアの時代と職業作家の時代が必ず交互にやってくるよってことなんです。アマチュアの時代になって例えばインディーズみたいなものがばーっと出てきたかと思うと、次はみんなが安心して聴けるようなのを作る人が流行り、それに飽きてくるとまた違うものが聴きたくなり…その繰り返しなんです。
−−確かにそうですよね。そして、そのタイミングを掴むことが大事だということですよね。
松任谷:そうですね。あとは本当にラッキーかどうか。でもラッキーな環境っていうのは自分で作るものだからなかなか難しいですね。
−−全ての生徒さんがプロのミュージシャンとして生きていこうと思って学校に来ていらっしゃるというわけではないですよね。
松任谷:そういうことではないですね。一番最初に僕は「ここに来てもプロにはなれない」と言います。昔は「必ずプロになれる」みたいなことを言う学校が多くて、学校って言っていながらレコード会社の荷物運びとか、それでプロって言っちゃうとか。それはないだろうとずっと思っていましたから。
−−また現在は東京工科大学の客員教授もされていますよね。具体的にどのようなことを教えられているんですか?
松任谷:ここではなにをやっているかというと、インターネットライブをしているんですよね。鳥インフルエンザが流行るちょっと前から、インターネットの中でライブをやるっていうのがどのぐらいの可能性があるのかなっていうので始めたんです。7〜8年前かな?
−−そんなに前から学生たちとやっていたんですか?
松任谷:いえ、最初は学生とやっていなかったんですが、メディアとして面白いかなって思ったんですよ。リクエストをもらいながらチャットでね。
−−今で言うUSTREAMですね。
松任谷:そうですね。それをインターネットでやって、こっちは自宅から演奏して配信する。そのコンテンツの使い方でもっと面白いことができないかなっていうのを学生たちとやっている感じです。学生たちは素人だからすごく突飛な発想をするじゃないですか? それが面白いんですよ。
−−実際のコンサートを学生たちと一緒に作ったりはしないのですか?
松任谷:しますよ。苗場でいつも一緒にやってます。サテライトを作ったりね。でも今年はUSTREAMがすごいことになってるからこれを使わない手はないですよね。この間、映画について2時間ぐらいトークしたのをUSTREAMで生中継したんですけど、面白かったですよ。あのアングラ感がたまらないですよね。僕はなんでも最初のアングラ感って好きなんです。
7. 「趣味人」として自分の好きな音をまだまだ追求したい
−−今、音楽産業全体が売り上げ不振に陥っていますが、この現状についてなにか思っていらっしゃることはありますか?
松任谷:一番最初に加藤さんのステレオのコマーシャルの仕事で1万3千円もらったんですよ。そのときにピアノ弾くだけ、しかも1時間足らずの録音で1万3千円ももらうっていうのはおかしいって実は思ったんです。その感覚は未だにずっとあるので、むしろ80年代、90年代の方が異常だったと僕は思います。
−−音楽業界にとってのバブルだった頃ですね。
松任谷:こんなに音楽家は儲かってはいけない。そこまで大したことはやってないと。もちろん儲けたいとは思うけれど、精神的に「そんなものではないんじゃないの?」ってずっと思ってきました。もちろんさっき言った王道の世界では、パッと花が咲いたようなイベントが行われるべきだろうし、イベントのたびにそこには大きなお金が落ちていって当然だと思うけども、僕らには僕らの分相応っていうのかな、そういうレベルとはちょっと違う気がします。
さっきも言ったように僕らは246号を歩いているとは思っていませんし、ひょっとして246号だってたまには狭くしなければならないのかもしれない。それでも大きなプロジェクトには大きなものが落ちていってるとは思います。今だったら嵐とか、多くの子供が必要としているところにはブームがあり、ブームがあるところは昔とそんな変わっていないんじゃないかなと思いますけどね。
−−今回お話を伺って一番意外だったのは、「自分たちはメインストリームにはいない」とおっしゃったことです。我々はお二人こそメジャー中のメジャーだというイメージを持ってましたから。
松任谷:メジャーっていうのは、本当にその業界を牛耳れる人たち。その人たちの握ってる世界がメジャーでしょう。結局、業界って全部を巻き込んで、しがらみの中で動かして活性させて・・・という風に考えると、そこがやっぱりメジャーじゃないですか? 僕らはそれとは関係のない世界でやってきたので。
−−松任谷さんも政治力を得ようと思えば充分できる立場にいらっしゃると思うのですが・・・。
松任谷:僕は性格的に無理です(笑)。
−−ですよね。よくわかりました(笑)。今一緒に仕事をしてみたいなと思われるアーティストはいらっしゃいますか?
松任谷:なにかがよかったから次もいいとは限らないじゃないでですか? 僕は偶然性がとっても好きだから誰とやりたいと言うよりも、一緒に組んだことのない人とやってみたいですよね。そこはいつも思ってますけどね。でも、この歳になって、ある程度知名度とか出てきちゃうと、軽く「一緒にあいつと組もうぜ」っていうことにはなかなかならないみたいで・・・(笑)。
−−(笑)。知らないうちに敷居が高くなってしまった?
松任谷:自分ではそんなつもりは全くなくて、この前、いきものがかりと一緒にやったときも同じようなことを言われ、「俺ってそんなに敷居高いのかな・・・」ってふと思ったりしましたね。
−−ではこの先、松任谷さんが目指しているものはなんでしょうか?
松任谷:やはり「趣味人」になることですね。昔はすごいプロデューサーとかすごいミュージシャンとか言われたいなと思ったこともあるけど、それより今は「趣味人」って言われた方がかっこいいかなって思ってますね。なんか「好きなことしかやってないんじゃない?」っていうのがいいんじゃないですかね。
−−松任谷さんはモータージャーナリストとしても有名ですが、この部分ではもはや趣味の領域を越えてらっしゃると思うんですが。
松任谷:趣味を越えるとも言えるし、音楽も趣味ですよ、とも言えるんです。音楽を趣味にしておくための手段でもある。
−−車関係の仕事を始められたのが85年ということは、マイカと同じく25年目ですよね。
松任谷:もうなんでもそのレベル。嫌になっちゃいますよね(笑)。
−−でも、松任谷さんにとっては車の仕事も楽しい仕事なんですよね。
松任谷:そうですね、子供の頃は家に車がなかったので車を運転したかったですからね。だから、由実さんの音楽もそうだけど「趣味人」でなければならない部分があると思うんです。ご飯のために作ってちゃいけない音楽を作っているので、全く使ってない部屋を作っておくことが僕らにとっては必要だと思ってるんですね。その部屋を開けておくために他の仕事もし、それはもちろん面白い仕事っていう意味ですけど、そうするとそのスペースは必ず空いている気がするんですよね。
−−今でも車を運転なさることに長い時間を費やしてらっしゃるんですか?
松任谷:いや、そうでもないです。自分では音楽家としても中途半端、ジャーナリストとしても中途半端だっていうことはよくわかってるんだけど、その中途半端さを利用してるとも思っています。どれも「趣味」って言いたいんですよ。音楽を作るときに、苦しんで苦しんで作るのは嫌なんです。もちろん苦しむところは苦しみますけど、基本的に音楽が生まれる瞬間は数秒だと思ってるんですね。自分の中ではいつもそうで、ほんの数秒で色んなものが浮かぶ。その数秒のための数時間であり、数日間であり、数年間であると思っているんです。
−−由実さんもそうですけど、いつもテレビなどで拝見すると「明日もスケジュール真っ黒」みたいな、せわしない感じが漂ってこなくて、「毎日優雅に車乗ってるのかな」とか、そう見えちゃうところが格好いいなと思っていました(笑)。
松任谷:実際問題、スケジュールはそんな真っ黒じゃないです(笑)。
−−いやいや、そんなことはないでしょう(笑)。
松任谷:でも家にスタジオがあるので、ある程度どんな風になっても発信だけはできるんですよ。少なくとも最低限バージョンを更新して最新型にするだけの財力はあると思っていますしね。
−−それは録音機材ですか?
松任谷:はい。録音機材からコンピューター周りです。コンソールも自分の好きなのがあるので。
−−ちなみにコンソールはなにをお使いなんですか?
松任谷:SSL9000です。
−−え!? SSL9000がご自宅にあるんですか?
松任谷:ええ。マイクも好きなマイクを集めて、C-12とか買いましたから。だから「趣味人」として自分の好きな音はまだまだ追求できる環境にはありますし、それが発信できなくなったら終わりなんじゃないかなと思っています。
−−本日はお忙しい中ありがとうございました。松任谷さんの益々のご活躍をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
音楽や車など、趣味への造詣が深く「趣味人」を地でいくような軽やかな松任谷さん。趣味?の音楽のため車のコレクション同様にコンソールからマイクまでご自宅に揃えてしまうという徹底ぶり。先日発売された松任谷由実さんのニュー・シングルでは、「CD・CM」という新しい取り組みも始められるなど、常に斬新さを忘れない松任谷さんの今後益々のご活躍を心よりお祈りしております。