第91回 稲葉 貢一 氏 株式会社トイズファクトリー 代表取締役社長 兼 A&Rチーフクリエイティブディレクター
株式会社トイズファクトリー 代表取締役社長 兼 A&Rチーフクリエイティブディレクター
今回の「Musician’s RELAY」は新田和長さんからのご紹介で、株式会社トイズファクトリー 代表取締役社長 兼 A&R チーフクリエイティブディレクターの稲葉貢一さんのご登場です。バップ入社後、LAUGHIN’ NOSEを皮切りにJUN SKY WALKER(S)、筋肉少女帯などを発掘しバンドブームを牽引。バップの社内レーベルであった「トイズファクトリー」を独立させた後は Mr.ChildrenやSPEED、ゆずなど数多くのアーティストを発掘、スターダムに押し上げ、インディーズのスピリットを持つレコードメーカーとしてトイズファクトリーを築き上げられました。アーティストの発掘からマネージメント、制作や宣伝、コンセプト作りに至るまで、一貫してアーティストと共に走り続けてきた稲葉さんにお話を伺いました。
プロフィール
稲葉 貢一(いなば・こういち)
株式会社トイズファクトリー 代表取締役社長 兼 A&Rチーフクリエイティブディレクター
1959年3月25日 神奈川県生まれ
1981年設立メンバーとして株式会社バップに入社
1988年自らトイズファクトリーレーベルを設立
1990年には会社として独立した。
Mr.Children,ゆずなどを発掘した。
1. ジャズが流れる家庭で育った少年時代
−−前回ご登場いただきました新田和長さんのお話をお伺いしたいのですが。
稲葉:たぶん25年ぐらい前になると思うんですが、当時僕はファンハウスに憧れていたんです。当時のファンハウスは音楽とスタイルを併せ持ち、かつメジャーのシーンでトップの方々をたくさん輩出しているということで非常に興味を持っていました。
−−その頃はまだ新田さんにお会いしたことはなかったんですか?
稲葉:ええ。レコーディングでファンハウスのスタジオに何度か行ったことはあったんですが、当時はバップで制作アシスタントでしたので。ファンハウスは僕の憧れのレーベルであり、その代表だった新田さんはまさに憧れの方でしたね。新田さんは加山雄三さんや石原裕次郎さんのように、年をとっていっても輝きがあり、遊び心がある。そんなカッコいいイメージですね。
−−一種のファンですか?(笑)。
稲葉:ファンですね(笑)。だいぶ経ってからお会いすることができました。
−−実際にお会いしたときはどうでしたか?
稲葉:自分が手がけられているアーティストのことや、今、自分がどんな夢を持っているかということを語られたときのエネルギーと輝きは素晴らしいなと思いました。エンターテイメントの世界にいる自分としても、そういう姿でいたいと思わせられる方じゃないかと思います。
−−ここからは稲葉さんご自身のことをお伺いしたいのですが、少年時代はどのような家庭環境で過ごされたんですか?
稲葉:出身は神奈川県横浜市で、最寄り駅は桜木町です。僕はジャズ・ベーシストを目指す父親と母親の元に生まれまして、幼稚園まで横浜に住んでいました。当時、家族4人で横浜の細い路地のアパートに住んでいて、父親は米軍の将校クラブでバンドマンとしてベースを弾いていました。でもアパートは四畳半一間で全く練習する場所もないので、始発で大きなウッドベースを持って目黒の知り合いの家へ練習に行って、帰ってきてから夜の仕事に出かけるという日々を送っていたようです。僕は小さすぎてわからなかったんですが、母親がよく話してくれました。その頃は収入も僅かで、トイレと台所は共用で、風呂はお風呂屋さんというところに住んでいましたね。
−−お父様はミュージシャンだったんですね。
稲葉:ええ。稲葉国光というジャズ・ベーシストです。
−−やはりお父様の影響で現在の音楽の仕事を目指されたんですか?
稲葉:そうですね。その後、家族で東京に引っ越して、僕が小学・中学・高校の頃には父親がジャズシーンの中心で活躍するようになったんですよ。最初、白木秀雄さんというドラマーのバンドにいまして、それから日野皓正クインテットのベーシストとして活躍していました。日野皓正クインテットは当時チャートのトップ10に入るような、ジャズのバンドとしてはかなりブレイクしていたバンドでした。あと、スタジオミュージシャンもやっていましたが、本当にジャズ一筋の父親でしたね。
−−では、生まれたときから音楽がずっと身近にあったんですね
稲葉:でも限定されていましたね。家ではジャズだけが鳴っていましたから。自分からは聴いてはなかったんですが、常にジャズがかかっていた、みたいな感じですね(笑)。家にはアナログレコードが結構あったので、僕も一通り聴いたりはしましたけどね。僕を一言で言うと普通の人です。だから話して面白いことはないですね(笑)。
−−(笑)。稲葉さんご自身は楽器をなさらなかったんですか?
稲葉:楽器はちょっとしかやってないですね。アマチュア・バンドとかそういうことはやりましたけど。
−−では、稲葉さんご自身は「演奏家としてやっていきたい」というようなことは考えていなかったんですか?
稲葉:全く考えてなかったですね。「ルールを守る真面目な普通の学生」みたいな感じです(笑)。「学生時代は暴走族やっていましてね」とか、そういった面白いエピソードは何一つないですね。ただ意外とつっぱっていた子たちとは仲良しで、一緒に遊んだりはしていましたけどね。
2. 創設メンバーとしてバップ入社
−−東京に引っ越されてからはどちらに住んでいらしたんですか?
稲葉:杉並区です。中学から私立で、高校は日大二高に通っていました。
−−では、そのまま大学も日大に進まれたんですか?
稲葉:はい。全く音楽と関係のない日大の経済学部に進みました。
−−少なくとも高校・大学に入るまで「音楽を仕事にする」といったイメージはなかったんですね。
稲葉:なかったです。たぶん、どういう仕事をしたいかも明確ではなかったと思います。ただ父親のことはずっと見ていましたので「レコード会社に入りたいな」と大学のときに思いました。
−−それで、すんなりと音楽業界に入られたわけですか?
稲葉:いや・・・落ちました。
−−(笑)。
稲葉:僕はCBSソニーと東芝EMIの新卒試験を受けたんですが、CBSソニーは大きい会社なので最初に適性検査というのがあるんですね。まずそこで落ちて・・・。
−−試験自体を受ける前に落ちてしまったと…(笑)。
稲葉:その後、大学に色々と募集が来ていて、その中に東芝EMIがあって「東芝EMIってカッコイイな」と思ったんですよ。ビートルズとかいましたしね。僕は飛び抜けてではないですが成績は意外とよかったので、東芝EMIの学校推薦に入れたんです。それで東芝EMIの試験は最初、集団ディスカッションだったんですが、その一発目で落ちまして・・・(笑)。
当時、他にどんなレコード会社があるかもよくわかっていなかったものですから「これは本当に困ったなぁ」と思ったんですが、ちょうどバップという会社ができるということを聞いて受けに行ったら、バップの入社試験は面接しかなかったんですよ。要するに、それまであった面接の前段階の適性検査や集団ディスカッションがなくて、ある程度の役職の方との面接だったんです。そうしたら、受かりました(笑)。
−−では、稲葉さんはバップの創立メンバーなんですか?
稲葉:はい。設立時のメンバーです。ちょうど29年前ですね。
−−その時のバップには新卒で何人入られたんですか?
稲葉:バップは営業の部署もあるので定かではないですが、たぶん5人くらいだったと思います。
−−入社されて最初はどの部署に配属されたんですか?
稲葉:面接で「どういう仕事をやりたいですか?」と聞かれたときに、僕は「宣伝をやって、その後、制作をやりたい」と言ったんですね。本来ならば、営業を経験して、それから宣伝か制作をやるというのが流れのお手本だと思うんですが、僕は正直に思っていることをしゃべってしまったんですよ。でも運良く最初から宣伝に配属されました。
−−ご希望通りになったわけですね。バップという新しい会社に入ってみてどのように感じられましたか?
稲葉:飛ぶ鳥を落とす勢いというか、日本テレビが資本金5億円でレコード会社を作ったということで、ものすごく華やかな感じでしたね。ただ、カタログが全くなかったんですね。大々的に博報堂さんと共同で記者発表をやったりしたんですが、最初のカタログがニコ・ラムスデンという洋楽とナイトジャックスという演歌、それと3分クッキングという料理の商品だったと思います。
−−それだけですか…?
稲葉:それだけです(笑)。でも、自分が仕事をするときはベストを尽くして、担当するものを本当に一所懸命やりました。「これちょっとイマイチなんじゃないか?」とか、僕は微塵も思わなかったですね。
−−素晴らしいです。真面目なんですね。
稲葉:無知だったということなんですけどね(笑)。その後もバップという会社にヒットがなく、急速に衰退していって「潰れるんじゃないか?」みたいなことを当時よく言われていましたね(笑)。そんな中でも常に色々教えていただいた先輩、宣伝チーフの方と話しながら日夜動いて、どれだけ自分ができるか挑戦していました。
−−非常に真面目な宣伝マンですね。
稲葉:そうですね、学生時代と同じで。
−−何年くらいバップで宣伝を担当されたんですか?
稲葉:宣伝は1年間やりました。「宣伝は面白いな」と思っていて、BOWWOWっていうハードロックのバンドの宣伝担当になる話もあったんですが、「制作に行ってくれ」ということで制作になりました。1年で制作って早いなって思ったんですけどね。
−−逆に1年で希望が叶っちゃったという感じですか?
稲葉:そのときはそこまで早く制作へ行くことを希望してなかったと思うんですけどね(笑)。まだ宣伝を学びきってないなと思っていましたしね。
3. 人生で最初に出会ったバンド LAUGHIN’ NOSE
−−入社2年目で制作ディレクターになられて、それからどのような作品を手掛けられたんですか?
稲葉:僕が最初に担当したのはプロレスのテーマ曲集です。当時、全日本プロレスが日本テレビで放送されていて、先輩がジャイアント馬場のアナログレコードを作っていたんですよ。それで「稲葉くん、プロレスやってよ」という話になって、ジャイアント馬場やスタン・ハンセン、テリー・ファンクとか色々なレスラーのテーマ曲を集めた『全日本プロレスのテーマ曲集』というアルバムが、僕が最初に作ったものですね。でも、これが当時一番売れたんですよ(笑)。3万枚とか。
−−そんなに売れたんですか?! すごいですね。
稲葉:すごいでしょう?(笑) その後、菊池桃子と、やはり自分でアーティストの発掘からやりたかったので、パンクロックのLAUGHIN’ NOSEというバンドを担当していました。LAUGHIN’ NOSEは池袋のイベントで観て、すごくいいなと思って声をかけたんです。ですから、発掘からやったのはLAUGHIN’ NOSEが最初ですね。ただこのとき、僕の人生の中ですごく大きな出来事がありまして、LAUGHIN’ NOSEが10万枚ほど売れて、これからというときに日比谷野外音楽堂でやったコンサートで、不幸にもお客さんが将棋倒しになって亡くなってしまったんです。さらにショックだったのは、会社の緊急ミーティングで、コンサートの事件に関しては「コンサートイベンターが悪いんだ」と。要は「自分たちは関係ない」というようなことや「こんなバンド辞めさせろ」ということが話されたんですね。
−−アーティストに責任はないじゃないですか。
稲葉:そうなんですよ。僕は心からLAUGHIN’ NOSEを応援していたので非常にショックでした。その一方で、僕は彼らがスポーツ新聞の記者に追っかけられるんじゃないかと思って、新宿のビジネスホテルにメンバーを集めて「今は誤解されてしまうこともあるから、ここにいた方が良い」と言って匿いました。でも、亡くなった方の葬儀もあるじゃないですか。それで「お葬式は絶対に行った方がいい。もちろん親御さんとかいらっしゃったりして、石投げられるかもしれないけれど行こう」とメンバーを連れて行ったんです。
僕はLAUGHIN’ NOSEをすごく愛していたというか、自分の人生で最初に出会ったバンドでしたし、すごく思い入れもありました。それでその直後に、高円寺の居酒屋でメンバーと話したら「俺たちはずっと稲葉さんとやりたいんです」と言ってくれたんですよ。「僕もやりたいな」と思ってジーンときちゃったんですが、「実際にどうやったらできるかな…」と考えたんですね。当時、僕はGO-BANG’Sというバンドも担当していたんですが、そのGO-BANG’Sが所属しているインディーズのレーベルから「うちに来ないか?」と誘われたんです。
−−つまり、そのインディーズレーベルでLAUGHIN’ NOSEもやろうとしたんですか?
稲葉:はい。僕がそこに行ってLAUGHIN’ NOSEをやれば一緒にできるんだと思って、バップを辞める決意をし、辞表を出しました。そしてLAUGHIN’ NOSEの事務所の社長に「バップを辞めたのでLAUGHIN’ NOSEできます!」と言いに行ったら、「いや、ちょっとそれは無理だな」と言われて…。それで「あれ?」と思ったら、当時バップにいたある方と事務所の社長が僕が全く知らない間に他社への移籍を決めていたんですよ。これにはもう本当にびっくりしました。でも、移籍は止められないし「どうしよう…」と思いましたね。
−−すでに辞表も出してしまったし…。
稲葉:そうです(笑)。結局、バップの社長とも話をして、バップに残るというか残してもらいましたが、その件をきっかけに「自分が責任を持てること」「自分の美意識でできること」をやりたいなと思って、いくつかのアーティストを見つけ、それを束ねてレーベルをやろうと思ったんです。そのとき発掘したのがJUN SKY WALKER(S)、筋肉少女帯、THE RYDERSですね。そして、当時のバップの社長に「この3つのバンドでレーベルを作りたいんです」と言ったら、「いいよ、やってみなさい」と言ってくださって、トイズファクトリーという新しいレーベルを立ち上げました。それから日比谷野外音楽堂で「ロックンロールトイズボックス」というレーベル旗揚げコンサートをチケット代100円でやりました。
−−100円ですか?
稲葉:100円です。JUN SKY WALKER(S)、筋肉少女帯、THE RYDERSと3バンドとも出て、チケットはSOLD OUTしました。その後、彼らは瞬く間に売れていってファッションも含めて若者の文化になったんですね。イカ天でもJUN SKY WALKER(S)が1位、筋肉少女帯が2位になるような人気で、アルバムも50万枚以上売れましたし、西武球場でコンサートもやりました。レーベルはその2バンドが柱でしたね。
−−それがトイズファクトリーの礎なんですね。
稲葉:僕はアーティストを自ら発掘して、マネジメント的な要素もそうですし、制作的なこと、宣伝、ライブ、あらゆることを頑張りたいと思いましたし、それを会社からオフィシャルに認めてもらいという思いがずっとあったので、上司に「もし、レーベルをやって成功したらA&R印税を出してくれませんか?」と言ったんです。それで上司が「いいんじゃない?」と言ってくれたので、JUN SKY WALKER(S)や筋肉少女帯がすごく売れたときに「以前お願いしたA&R印税の話どうですか?」と聞いたら「いや…ちょっと難しいな」と言われてしまって…(笑)。
−−(笑)。
稲葉:僕は「大丈夫だ」と言われたことは大丈夫であって欲しい人なんですよ(笑)。
−−それはそうですよね(笑)。約束だったわけですからね。
稲葉:僕はお金とかではなくて、その約束自体を大切に思っていましたし、果たされると思いながらバンドと共にいましたから。そういったこともありつつJUN SKY WALKER(S)や筋少が売れて「いい感じだな」と思っていたときに、その上司にもう一度「次のアーティストが成功したらA&R印税をくれますか?」と言ったら「そうだよな」と。そのときはバンドブームが飽和状態となり一段落していたんですが、「次もやっぱりバンドをやろう」と思って発掘したのがMr.Childrenなんです。
4. トイズファクトリー独立〜Mr.Childrenとの二人三脚
−−Mr.Childrenの第一印象はどうだったんですか?
稲葉:渋谷のライブハウスで初めてMr.Childrenを観たときは「すごくいいな。可能性がある」と思いつつも「もうしばらく観てみよう」と思ったんですね。で、半年くらい経って「Mr.Childrenはもっと良くなっているんじゃないか?」と思って、桜井君の家に電話して「次はいつライブをするの?」と聞いたら「実は休んでいたんですよ」と言うんですね。つまり「自分たちでもう一回アレンジとか色々な面を考え直していて、もうまもなくライブやるんです」と。それでライブを観に行ったら、とても素晴らしいライブを繰り広げていて「いいバンドだ!」とそこで再確認しました。その後、新宿DUGで桜井君たちと会って「一緒にやろう」とMr.Childrenとの関係が始まっていくんです。
当時、彼らには事務所もなかったんですが、マネージメントもまず僕らでやろうとライブハウスのブッキングをやり、地方のツアーは当時トイズレーベルが持っていたワンボックスをスタッフが運転して関西へ行ったり、そういうことから始めました。でも当時は「プロダクションは外」という認識だったので、JUN SKY WALKER(S)でお世話になっていたバッドミュージックの門池さんに「Mr.Childrenというバンドを始めたんですがどうですか?」と相談したら「ええな」の一声でバッドミュージックさんに事務所が決まり、作品のリリースに向けて動き出したんですが、そのときに上司から「だったら独立しないか?」という話をいただきました。
−−今度は上司の方から話が来たんですね。
稲葉:ええ。僕はずっとA&Rに思い入れがあり、それと独立がどう繋がるのか分からなかったんですが、バップや僕らが関わっているアーティストと事務所がOKであれば独立していいということでしたので、トイズファクトリーとして独立したんですね。
−−それはおいくつの時ですか?
稲葉:僕が30才のときですね。最初はバップにお世話になりながら、トイズファクトリーという囲いを作って頂いて、数人のスタッフで始めました。ですから僕からデスク、アルバイトに至るまで完全に情報が共有できていましたし、何を想い、何を創り、どうやってライブをして、どこを目指しているのか、日常の中で全て分かっていました。大きなレコード会社ですと「このチラシなぜ作ったんだ?」とか、そういったことがよくあるじゃないですか? 最初制作したものが販促や営業、宣伝といった組織をまわるうちに薄まって、全くブランド感がなくなり、残念な結果になる。そういったことを僕は避けたかったんです。
ですから、チラシ一枚に至るまで自分たちで全て把握して、微塵もブレのないものを作る。あとはスピリットなんですが、本当にいいと思ったアーティストに声をかけて、その人と生涯といったらオーバーですが、結果が良くても悪くても見捨てずにやりきることが大切だと今でも思っています。ですから、その当時のスタッフは全て同じ想いでいましたし、自分たちで残業して「かわら版」みたいなものを作ったり、みんなものすごく熱い想いで働いていましたね。
−−小さな所帯だからこそ皆同じ想いを共有できたんでしょうね。
稲葉:僕はメジャーという言葉が格好いいとは今も昔も思っていなくて、インディペンデントとかインディーズという言葉に惹かれるんですよ。ですから「メジャーデビュー」という言葉が格好いいなんて認識は全くなく、どちらかというと格好悪いなと…これはあくまでも僕個人の感覚ですよ(笑)。つまり「その境目って何?」ということなんですよね。それは単に流通の違いですか? とかね。僕はそこに違いってないと思うんですよね。当然やるからにはたくさんの人に聴いてもらいたいという思いもありますが、インディーズって志といいますか、そういうものをとても大切にしているから惹かれるんですね。
−−ちなみにMr.Childrenって最初から完成度が高いバンドだったんですか?
稲葉:いや、発展途上でしたね。未完の大器と言いますか、高校野球の魅力的なチームって感じでした。でも、彼らをそこから進化させるには何かが必要だったんですね。例えば、JUN SKY WALKER(S)は僕と共同プロデュースでいいと思ったんですが、Mr.Childrenを進化させるには当時の言い方ですけどサウンド・プロデューサーと一緒に作った方が良いんじゃないか? と思ったんです。で「どの人がいいかな?」と考える中で、サザンオールスターズや桑田佳祐さんのソロとか小泉今日子さんの曲を作られていたり、マニアックな部分と最高にキャッチーな要素を併せ持った小林武史さんがいいんじゃないかな?と思ったんです。
当時僕がよくスタジオで一緒だった今井邦彦君というエンジニアがいて、今はMr.Childrenのエンジニアをやっていますが、彼はサザンオールスターズをやっていたんですよ。それで今井君に「小林さんが良いと思うんだけど、どうかな?」と訊いたら「いいよ〜」って即答でしたね(笑)。小林さんは当時ヴァーゴミュージックの所属でマネージャーの安川さんに「こういう新人がいるんですが、小林さんにサウンドプロデュースをお願いしたい」と連絡したんですよ。最初は「今、他の新人の仕事もあるのでなかなか…」みたいな感じだったんですが、結局そちらの新人さんの仕事がなくなったのか、ずれたのか分かりませんが「やれます」と連絡いただいて、それから小林さんとメンバーと共に打ち合わせをしたり、小林さんのご自宅兼スタジオでデビュー盤の構想を練ったりしたのが始まりですね。
−−では、小林さんという人選は稲葉さんのご判断だったんですね。
稲葉:はい。
−−小林さんが加わることによって、バンドは変わりましたか?
稲葉:桜井君とかは吸収力がものすごくあるので、小林さんとやり始めたことで音楽的な成長が著しかったですね。
−−そのチームが20年間共に進化しているわけですから凄いですよね。
稲葉:そうですね。ビックリしますよね。
5. アーティストと誠実に向き合うことの大切さ
−−その後、稲葉さんが手掛けられるアーティストがことごとく売れていきましたよね。これはやはり稲葉さんの観る目が確かだからでしょうか?
稲葉:どうなんでしょうね…そればかりは何とも言えないですよね。でも、さっきも申し上げたように人生観そのものが仕事だったと言いますか、人生における感覚の中でいいと思ったものに声をかけただけなんです。バップのときも自分がリーダーシップをとって常にスタッフ全員でライブハウスに行きました。「とにかくみんなで行こう!」と言ってね。そういった中でアーティストを見つけていったんです。
−−でも、Mr.Childrenの成功の後、トイズファクトリーはSPEED、ゆず、ケツメイシとことごとく手掛けるアーティストが売れていきますよね。
稲葉:Mr.Childrenではとにかくタイアップを獲らないでやっていこうと最初は思っていたんですね。それで1年くらいやったんですが「次のステップとしてタイアップとった方がいいな…」と思うに至って(笑)、アクエリアスのCMと、僕が日本テレビのドラマの主題歌をやりたいなと思って、当時日本テレビ制作の井上健さんという方に「Mr.Childrenというバンドはすごく可能性があるから主題歌をやりたい」と言ったんですよ。それは今だったら考えられない話なんですが、昔は枠としてそれほどかっちり決まっていなかったところもあったんですね。それで僕がプレゼンして、有力対抗馬もあったんですが「面白そうだからとりあえず曲を作ってよ」と仰ってくれたんです。そのときMr.Childrenはツアー中だったんですが、過密スケジュールの中で1曲作ったのが後の『CROSS ROAD』なんですね。斉藤由貴さん主演の『同窓会』というドラマの主題歌になり、結果100万枚いきました。そこからはもう桜井君が素晴らしい楽曲を連続して作っていったんです。
ライジングの平さんから「一緒にご飯でも食べましょう」とお誘い頂いて、「トイズとなにかやりたい」という話があったんですよ。そこで3人組の女の子グループの話をされて「今、六本木で撮影しているから見に来ないか?」と。それで観に行ったはいいんですが正直「どうしたらいいかわからないな…」と思ったんですね。先ほどからも言っているように、僕はアーティストと誠実に向き合いたいと思っていますから、このままの状態で平さんと仕事をして失敗したら迷惑もかけますし、アーティストも嬉しくないじゃないですか? それで正直に「どうもイメージが沸かないんです」と話したんです。
そのときにふと日本テレビ系列で放送されていた『THE夜もヒッパレ』に出ている女の子たちが頭に浮かんで、以前から気になっていたので「彼女たちもちょっと見に行きたい」とお願いしたんです。それで収録を見に行って、4人が僕の前で歌ってくれたときにすごくいいなと思って「この4人でやるならやります」と言ったら「いいよ」と(笑)。
−−その4人がのちのSPEEDですか?
稲葉:そうです。公募で「SPEED」というアーティスト名に決まって、平さんと青山の事務所で楽曲の方向性を話し合いました。当時、安室奈美恵さんが売れていたんですが、同じ沖縄出身でも沖縄の大地や太陽のイメージ、またスポーツファッションが流行りだした頃だったので健康的なものであったり、若くてもちょっと大人っぽい要素をふんだんに混ぜたコンセプトでSPEEDをアイドルではなくアーティストとして売り出そうということになりました。ビジュアルもタイクーングラフィックスという新進気鋭のデザイナーチームに作ってもらって、デビュー曲の『Body & Soul』のデモもそのコンセプトを表現するために何度も手直ししました。そして曲が完成して、テレビに出していったらすごい勢いで売れていきましたね。
−−稲葉さんはアーティストのコンセプト全体を作ってしまうわけですね。
稲葉:全てというとオーバーですが、制作、宣伝、ライブ、ビジュアルをどうするかという大きな枠組みを作りますね。ですから、大きな政治力とか資金力とかそういうことでうまくいったわけではないんです。
−−そこがすごく格好いいと思うんですよ。裏で大物と繋がっていたとかそういう話では全くないわけじゃないですか。
稲葉:そういうことは全くないですね。僕は「門を叩く」ということを基本にしているので。
−−つまりトイズファクトリーの20年間は全て正攻法でぶつかっていって、突破してきたという歴史ですよね。
稲葉:そうですね。誠実な想いでやってきました。
−−SPPED以降もHi-STANDARDやBRAHMANがデビューしていますよね。
稲葉:はい。Hi-STANDARDは『AIR JAM』という大きなフェスも主催していました。トイズファクトリーがそれまでに培ってきたスピリットにアーティストたちが共感してくれたんですね。やっぱり一歩一歩進んできたことでバンドマンの間でも「トイズっていいよ」というような話が伝わっていったんです。だから、トイズファクトリーでやることを考えてくれる人がこの時期は増えていたとは思います。
6. 原点回帰となった「ゆず」との邂逅
−−ゆずはどのように発掘されたんですか?
稲葉:当時、トイズファクトリーが巨大化と言いますか、アルバムの年間売上が1千万枚を超えるようになって、僕は「ちょっと危険だな」と思ったんです。トイズファクトリーを立ち上げた頃の気持ち、お金とかブランドじゃなくて、足を使ってライブを観て感動し、アーティストと向き合っていたことの大切さをすごく感じ始めていましたし、トイズファクトリーの稲葉ではなくて、一個人としてゼロの状態でやれるものをやったほうがいいと思っていたんです。
そんなときに仕事で横浜の伊勢佐木町を歩いていたら、弾き語りしている彼らがいて「彼らの歌は心に響くな」と思ったんです。心が洗われるようなと言いますか、想いを素直に歌にしていて「すごくいいな」と思ったんですね。
−−本当に偶然出会ったんですね。
稲葉:そうなんです。僕はずっと遠巻きで観ていて「いいな」と思ったんですが、声をかけるのがちょっと恥ずかしくて(笑)。でも「今、声をかけないともう二度と会えないんじゃないか?」と思って「すごくよかったよ。テープとか音はないの?」って声をかけたんです。そうしたら「ちょうど今日カセットを作ってきたんです」と言うんですね。でも、そこには連絡先が書いてなかったので、名刺を渡して連絡先を聞きました。
−−でも、そのとき稲葉さんは売れに売れているプロデューサーですよね。声をかけるのが恥ずかしいというのは意外でした(笑)。
稲葉:二人とも僕のことは知らなかったと思いますし、僕はそういうキャラクターなんですよ(笑)。それで連絡をとって彼らを会社に呼んだんです。
−−ゆずのマネージメントをしているセーニャ&カンパニーはこのときに設立されたんですか?
稲葉:そうですね。井出孝光さん(現:トイズファクトリー名誉会長)と共にトイズファクトリーをずっとやってきたんですが、原点回帰と言いますかゼロの状態で何かをやってみたかったので、自分をリーダーに最小の単位でマネージメント兼レーベルという形でスタートしました。それで事務所の場所をどこにするかというときに、バイトの子が住んでいた池の上の栄和荘というアパートを借りたんですよ。なので、セーニャ&カンパニーは、池の上のアパートから始まりました。
−−小さなアパートの一室から始まったんですか…。
稲葉:そうです。ゆずは伊勢佐木町で日曜夜10時に歌っている姿が格好いいし、すごく輝いていたんですね。この場所で歌っているのが本当に感動的だから、ここに媒体の方を連れてきたほうがいいと思って、FM802や雑誌の『B=PASS』、スペースシャワーTVなど数人にだけ「すごくいいアーティストがいて、伊勢佐木町でやってるんですが、観に来てもらえませんか?」と話したんです。でも、広告を出して記事にするということはやりたくなかったので「いいと思ったら記事として取り上げてほしい」とお願いしました。そのときに来ていただいた媒体の方々からも「いいね」と言っていただけて、色々と取り上げて頂けました。
そして、最初にインディーズ盤を出そうということになり、プロデューサーとして寺岡呼人君を呼んできて、路上でライブの音源を収録することになりました。それで伊勢佐木町にエンジニアを連れて行ってライブテイクを録って『ゆずの素』というタイトルでリリースして、イベントとかに出ているうちに、ものすごい勢いで広がったんですよ。
−−広告費を使わずに広がったのは、メディアが取り上げてくれたからですか?
稲葉:そうですが、口コミの方も大きかったと思います。
−−でも、まだインターネットもそこまで普及していない時代でしたよね。
稲葉:そうですね。あと、彼らは横浜での活動がメインでしたが、下北やインディーズシーンにゆずを触れさせたんですね。そしたらものすごい反響があったんですよ。ゆずほど反応があったアーティストはいないというくらいのすごいレスポンスでした。また、日比谷野音で開催されたスペシャのイベントでバンドの転換のときに3曲やらせてもらったんですが、「今日の10時から伊勢佐木町で路上ライブします!」とライブの告知をしたら、2,000人いたお客さんのうち100人くらいが伊勢佐木町まで来てくれて。
−−日比谷から伊勢佐木町までお客さんが大移動したんですね。
稲葉:みるみるうちに人が増えてきて、もうできないという状況になってしまって…。
−−本当にお金をかけなかったんですね。
稲葉:お金って嘘だと思ったんですよ。広告は本当ではないと思っていましたし、生の声とか熱さを直接伝えることをある時期まで通し続けました。
−−本当に王道中の王道ですよね。よっぽど自信がないとできないことですよね。
稲葉:いや、自信なんて全然ないです。でも、僕にとってゆずはものすごく感動できるアーティストだったというだけです。
7. 今後の可能性
−−トイズファクトリー設立からこの20年の間に音楽業界も大きく様変わりしているわけですが、稲葉さんご自身は今後どうしていこうと考えていらっしゃるのでしょうか。
稲葉:もともとトイズファクトリーは360°ビジネスなんですよ。ですから今後も360°ビジネスをそのままやるというのが1つあると思います。でも、今所属しているアーティストには、それぞれの形がありますから、それぞれの形の中でパートナーとして僕らはベストを尽くします。
また「どうしたら売れるか?」ということを考えたときに、普通はドラマ主題歌を獲ったり音楽番組に出すといったことを考えると思うんですが、そうすると会社の宣伝力やドラマの主題歌に抜擢される力がすごく必要になってきますし、そういうことで1つのメディアが形成されているような気がするんです。だとしたら、そういうものを通さない、全く使わないようなものをやってみたいなと思っています。
−−ゆずはその最良の例ですよね。
稲葉:そうですね。今、タイアップを獲るためにみんな必死じゃないですか。「ドラマの主題歌を獲るためには金銭的にどれだけ投下してもいいんだ」みたいな。それを獲ってこそ始まるみたいな発想がいっぱいありますよね。でも、そういう方法論じゃなくて、ネットがこれだけ発達しているんですから、アーティストの魅力を作り上げていけば自然と人は観に来てくれるんじゃないのか? アーティストそのものとそこに広がる景色が素晴らしく魅力的なものだったら、タイアップなどを使わずに伝わる可能性が十分にあるんじゃないのか? と思っています。
ただ、どうしても会社が大きくなるとアーティストとの距離が遠くなってしまいますから、「いいと思った人に直接連絡して、その人と一緒にチームを組む」という原点回帰じゃないですが、そういう取り組み方をしたいですね。あと、借金を背負わないでやるということがいいんじゃないかと思っているんですよ。どういうことかと言いますと、契約金、宣伝費、販促費、制作費をかけること、イコール、アーティストに多額の借金を背負わせることだと僕は思っているんですね。素晴らしい作品を作るのに、お金ではないところもたくさんありますよね。荒削りでも魅力的だったら伝わりますから。
−−そうなりますとアーティストとの出会いはますます重要ですし、これからも出会わないといけないということですよね。そして、稲葉さんは今後も才能溢れるアーティストと出会えるような気がするということなんでしょうね。
稲葉:そうなんです。僕らはこれからも出会えるような気がしているんですよ。
−−その候補の方はすでにいらっしゃるんでしょうか?
稲葉:候補はいますよ。乞うご期待です!
−−本日はお忙しい中ありがとうございました。稲葉さんの益々のご活躍と、トイズファクトリーの更なるご発展をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
今回、稲葉さんにインタビューをさせていただいて、Mr.Childrenや、ゆず等もさることながら、Laughin’ Noseのお話をされているときに当時を振り返り、バンドに対する想いが込み上げる情熱的な様子がとても印象的でした。アーティストの魅力を信じてひたむきに音楽と向き合ってこられた稲葉さん。その誠実な信念があったからこそ、トイズファクトリーは、業界の常識にとらわれない、オンリーワンのレーベルとして20年にわたり音楽性の高いアーティストを輩出できたのではないでしょうか。まさに稲葉さんの信念を体現したレーベル、それがトイズファクトリーだと思いました。今後も唯一無二の素晴らしいアーティストを生み出してくださることを期待しています。