第92回 タイクーングラフィックス 宮師 雄一 氏、鈴木 直之 氏
タイクーングラフィックス アートディレクター/グラフィックデザイナー
今回の「Musicman’s RELAY」はトイズファクトリー稲葉貢一さんからのご紹介で、有限会社タイクーングラフィックス アートディレクター/グラフィックデザイナーの宮師雄一さん、鈴木直之さんのご登場です。デザイナーとしてそれぞれ別々の事務所で活動されていたお二人は、同時期に事務所を辞めニューヨークへ。帰国後にタイクーングラフィックスを設立し、アートディレクションを務めた雑誌『i-D JAPAN』における独創的なデザインが音楽業界から注目を集め、これまでにSPEED、矢沢永吉、globe、安室奈美恵、JUDY AND MARY、TOWA TEI、布袋寅泰、今井美樹、PUFFY、BUMP OF CHICKEN、嵐、中島美嘉など、多くのアーティストの作品を手がけられてきました。音楽以外にも、表参道ヒルズのロゴデザインを手がけるなど、ファッション、建築、映像と様々な分野で活躍されており、「ニューヨークADC」金賞、グッドデザイン賞、毎日デザイン賞なども数多くの賞を受賞されています。今回のインタビューでは、デザインのお話はもちろんのこと、お二人の幼少時代から現在に至るまでお話を伺いました。
プロフィール
タイクーングラフィックス
宮師 雄一(みやし・ゆういち) 鈴木 直之(すずき・なおゆき)
アートディレクター/グラフィックデザイナー
1991年 宮師雄一、鈴木直之によりタイクーングラフィックスを設立。
企業CIやブランディングにおけるクリエイティブディレクションをはじめ、音楽、ファッション、建築、映像、広告など様々な分野でのアートディレクション及びグラフィックデザインを有機的かつ立体的に行っている。
主な仕事には、表参道ヒルズや堂島ホテルのロゴデザイン、サイン計画。ユナイテッド・シネマ豊洲及び浦和のサイン計画。国土交通省新宿駅南口地区の壁面グラフィック 新宿サザンビートプロジェクト。TOWA TEI、中島美嘉、BUMP OF CHICKEN等のCDジャケットデザイン。
著書に「G-MEN」(リトルモア)、A&D SCAN「タイクーングラフィックスの仕事と周辺」(六耀社)がある。
受賞歴は、ニューヨークADC金賞「BIG MAGAZINE」、ニューヨークADC銀賞「BOYCOTT MOVIE」、グッドデザイン賞 コミュニケーション部門賞「表参道ヒルズ ロゴデザイン」。毎日デザイン賞部門賞 他。
1. デザイナーを志した瞬間
−−前回ご登場いただきました稲葉さんと出会われたきっかけは何だったんでしょうか?
宮師:僕たちはタイクーングラフィックスを’91年に始めまして、’92年に『i-D JAPAN』という雑誌のアートディレクターになったんですが、稲葉さんがその『i-D JAPAN』を見ていてくださって、直接ご連絡をいただいたのが最初ですね。当時、僕らはまだ駆け出しの頃でストリートデザイナーみたいなものでしたから、僕らのほうが「ゆず」より先に声をかけられたんですよ(笑)。稲葉さんから最初にいただいた仕事はMr.Childrenの雑誌広告だったと思います。
−−さすが稲葉さんは目利きですね。
宮師:稲葉さんに拾われたというところはありますよ。
−−これまで稲葉さんと一緒にお仕事をされてきて、どのような印象を持たれていますか?
宮師:稲葉さんは独特の視点や嗅覚をお持ちで、アーティストを見極める感性がすごいですね。誰よりも”才能”が好きな方だと思うんです。「これだ!」と思う人がいたら全愛情をかけて「なんとかしよう」とされる。そのパワーは本当にすごいと思いますね。
−−ここからはお二人について伺いたいのですが、ご出身はどちらでしょうか?
宮師:世田谷の下北沢出身で今も母は代田に住んでいます。
鈴木:僕は新潟出身ですが、今は代田に住んでいます。実は宮師の実家のすぐ近所なんですよ。
−−新潟のどちらですか?
鈴木:新発田市(しばたし)というところです。
−−やはり幼少時代から絵がお好きだったんですか?
宮師:絵は小さいときから好きでずっと描いていましたし、とにかく絵で何かを表現していたと思います。
−−工作なんかもお好きだったんですか?
宮師:大好きでしたね。でも、少年時代はみんな工作とか好きでやっていましたよね。
−−絵や工作以外にはどのようなことをして過ごされていたんですか?
宮師:小学生の頃は野原で遊んでいましたね。それで中学生になったらFEN(極東放送)を聴き始めたんですよ。そこで聴いたディスコミュージックやブラック・コンテンポラリー、P-Funkが音楽の入り口で、高校になったらディスコばっかり行っていました(笑)。
−−鈴木さんはどのような幼少時代を過ごされたんですか?
鈴木:僕はかなり田舎で育ったので、カブトムシを取ったり自然に触れていました(笑)。僕も音楽は中学生の頃から聴き始めました。
−−でも新潟ではFEN聴けないですよね。
鈴木:聴けないです(笑)。その当時、短波ラジオが流行っていてエアチェックとかしていました(笑)。
−−デザイナーを志したのはいつ頃なんですか?
宮師:僕はずっとパイロットになろうと思っていたんですが、オートバイに乗るようになったらバイクのレーサーになりたくなって、高校2年くらいから草モトクロスみたいなものに出るようになりました。それなりに成績がよかったので次にロードレースを始めて、3年生くらいから「KENZ SPORTS」というオートバイチームに入って、全日本選手権にも出場してプロを目指していたんですが、「これでご飯食べていくのは絶対無理だな」と思ったんです。それが20歳の頃で、そのときに「これから何やろうかな」と考えて、小さい頃から絵を描くのも好きでしたし、絵を仕事にできる職業は何なんだろうと考えて、デザイナーという仕事があることを知ったんです。ですからデザイナーを目指したのは割と遅いですね。
−−美大や芸大には通われたんですか?
宮師:デザインの専門学校は行きましたけど、すでに20歳になっていたので慌てて入学しました。僕の場合、1回レーサーとして挫折して今があるみたいな感じですね(笑)。
−−今はバイクに乗られないんですか?
宮師:乗らないですね。危ないんで…(笑)。
−−(笑)。鈴木さんはいつ頃デザイナーになろうと思ったんですか?
鈴木:僕は高校時代に従兄弟が美術系の専門学校に通っていて、僕も東京に出たかったので、その学校を見学に行って、グラフィックデザインという科目があったので迷わずそこに決めました。その頃はグラフィックデザイナーがどういう仕事をするのか具体的にはわかっていなかったんですが、高校生の頃からそういう仕事がしたいなと漠然と思っていましたから。
2. とにかく「何でもアリ」だったニューヨーク
−−お二人はいつ頃出会われたんですか?
鈴木:僕は信藤三雄さんのコンテンポラリー・プロダクションという事務所にいたんですが、僕たち双方の事務所がカメラマンの三浦憲治さんと仕事をしていたんですよ。その三浦さんのアシスタントが僕たちと同い年だったので、みんなでご飯でも食べようかということになって、3人で会ったときに宮師に会いました。そのときに「事務所を辞めてニューヨークに行こうと思っているんだよね」と話をしたら、宮師もそう思っていたみたいで、後にニューヨークで会ったときには「こんなデザインあったらいいよね」というようなことを熱く語ってたわけです(笑)。そのうち日本に帰ってきて一緒に仕事をやることになったと。
−−いいエピソードですね。ニューヨークでは何をして過ごされていたんですか?
宮師:僕はそれまで4年くらいみっちり働いていたので「一年間休みを取ろうかな」と思って、ニューヨークに行ったんですね。それでニューヨークでは毎日クラブに行って、どっぷりダンス・ミュージックにはまりました。当時ディー・ライト(Deee-Lite)のメンバーだったテイ・トウワともニューヨークで友達になったんですよ。
−−ニューヨークで過ごした1年でデザイナーとしてインスパイアされるものはありましたか?
宮師:とにかく「何でもアリなんだな」と感じましたね。それはクラブで様々な人種、ジャンルの人たちが音楽を通して、1つの空間で自分の好きなように振る舞っているのを見たときに強く感じました。その体験は今でもデザインの考え方のベースになっています。
鈴木:僕は、ニューヨークのデザイン事務所で働きたいという甘い考えでポートフォリオみたいなものを作って、スーツを着て色々な事務所を周ったんですが、英語もきちんと話せなかったので、当然使ってくれないわけですよ。それでデザイン事務所をしている日本人の方のところで手伝わせていただいて、そのデザイン事務所には色々な人種の人がいたんですね。それである課題を出されたとき、みんな発想が全く違うのを目の当たりにするわけですよ。
−−日本だとそういった体験ってなかなかできませんよね。
鈴木:日本にいると日本人の枠みたいなものがあったりするじゃないですか? でもニューヨークではそういうものが全くない自由な雰囲気で、自分のキャパの小ささをすごく実感しました。宮師も先ほど言っていましたが本当にたくさんの人種がいるので、それをダイレクトに感じられたというのがニューヨークに行って一番良かったことだと思います。あと、僕らがいた頃のニューヨークはまだ危ない地域とかたくさんあって、そういうところから出てくるエネルギーのすごさを実感しました。行ったら危ないけど、それが逆に刺激になってクリエイティブに活かされると言いますか、とにかく刺激を受けましたね。
−−ニューヨークに行かれたのはタイクーングラフィックスを立ち上げる前ですから25〜26歳くらいですよね。
宮師:そうですね。もうイケイケでしたね(笑)。寝なくても全然平気で、ずっとクラブに入り浸りで遊んでいるんです。全身で音楽を浴びてずっと踊っていましたね (笑)。
−−例えば、タイクーングラフィックスのように個人ではなくチームでデザインすることは珍しいことなんでしょうか?
宮師:僕らがいた頃のニューヨークではアンダーグラウンドシーンでハウスミュージックが台頭してきていて、例えばベースメント・ボーイズやマスターズ・アット・ワークとか、チームで音楽を作るスタイルがすごく流行っていたんですね。そういう感覚でデザインとかもできないのかなと思って、二人で始めたというところもあるんです。
−−同じ時期にニューヨークを共有したということもありますよね。
宮師:それは本当に大きいですね。
鈴木:音楽に関してもデザインに関しても、同じようなところからインパクトを受けるわけじゃないですか。だから自然と一緒に仕事をするようになった感じはありますよね。
−−ちなみに「タイクーン」というネーミングはどこから付けたんですか?
宮師:「将軍」とか位ってありますよね? その中に「大君」っていう位があるんですけど、それはビジネスとかで成功した人をそう呼ぶらしく、そこから付けました。
−−デザインの世界で成功して「大君」になろうという意味を込めているわけですね。
宮師:そうですね。
−−そして、今ではお二人は若いデザイナーたちから目標とされる存在になられたと。
宮師:「うっとうしいオッサンたちだ」と思われているのかもしれないですけどね(笑)。
3. ターニングポイントとなった『i-D JAPAN』での挑戦
−−‘91年にタイクーングラフィックスを設立されて、すんなり仕事は始まったんですか?
宮師:海のものとも山のものともつかない二人が始めたわけですから、最初はすんなりとは始まらないですね。それにお互いが所属していた事務所のデザインをそれぞれが引きずっていたというか、師匠の色が付いていて、そこから抜け出すのに1年から1年半くらいかかりました。その間は何をやっても悶々としているというか、くすぶり続けていました。
−−その悶々とした状態をどうやって抜け出したんですか?
鈴木:先ほどもお話した『i-D JAPAN』という雑誌のディレクションを任せてもらえることになり、そのときに「見たことない雑誌を作りたいよね」と二人で話し合って、当時の編集長の方に全ページのラフを作って色々プレゼンしたんですよ。
−−『i-D JAPAN』へはご自分で売り込んだんですか?
宮師:昔『COMPOSITE』という雑誌があったんですが、その編集者だった人が僕らと同い年で『i-D JAPAN』の編集長と繋がっていて紹介してもらったんです。
鈴木:何の実績もなかったので、頼んでもらうためにはそれなりのものを見せないといけないじゃないですか。だから僕らなりに考えて、デザインだけでなく編集まで考えたわけですよ。もらう素材、図版だけでやるんじゃなくて「こういう雑誌にしましょうよ」という根本的なところからプレゼンしました。
−−その仕事はどれくらい続いたんですか?
宮師:3冊分の3ヶ月です。
−−えっ? たった3ヶ月ですか…!?
宮師:そうなんです。『i-D JAPAN』はあまりうまくいってなかったらしいんですよ。その最後のアートディレクターとして僕らが雇われたことを後から知ったんですね。頑張ってそれなりにインパクトのある形を作り上げたんですけど休刊になっちゃったんですよ。
−−でも、後から考えるとその3ヶ月はすごく重要だったわけですよね。
宮師:そうですね。『i-D JAPAN』がなかったら、こうなってなかったと思いますよ。
鈴木:やっているときは「いいのかな、これで…」という感じはありましたけどね(笑)。安全牌は全部捨てて「良いか悪いかわからないけど出してみよう」みたいな感じだったので。一番わかりやすい例で言うと、表紙のロゴデザインを1回ずつ変えたんですよ。当時そんなことすると取次から文句言われたんですけど、それをゴリ押しして(笑)。テーマに合わせてフォントまで毎回作っていましたからね(笑)。
−−(笑)。でもそういうのってパワーが必要ですよね。
鈴木:本当にそうなんですよ。でも、そういうエネルギーが伝わったんでしょうね。
−−読者の反応も結構あったんですか?
宮師:読者からの反応もありましたし、僕たちにとって一番嬉しかったのは、オリジナルの『i-d』の編集長でテリー・ジョーンズという方がいらっしゃるんですが、彼からいただいた手紙に「ようやく日本オリジナルの『i-d』になったね。おめでとう」と書いてあったんですよ。それは勲章というか、すごく嬉しかったですね。僕たちは『i-d』という雑誌が好きでしたし、単に『i-d』風じゃなくて、自分たちの思うようにやれば見てくれる人もいるんだなということを実感できました。
鈴木:あと同業者の方から「面白い」って言ってもらえたのも嬉しかったですね。
−−でも、3ヶ月で打ち切りと言われたときはどんなお気持ちだったんですか?
鈴木:それはショックでしたよ(笑)。
宮師:相当ガックリきました。「これからってときに! どうなってるんだよ!」って(笑)。でも、『i-D JAPAN』を出した頃から少しずつ仕事をいただけるようになったのはよかったですね。
−−『i-D JAPAN』が二人のプロモーションをやってくれたようなものですね。
宮師:ええ。そこかしこに事務所のクレジットを入れていましたからね(笑)。
4. 音楽に関する仕事は音楽への恩返し
−−稲葉さんから声がかかり、まずはMr.Childrenの雑誌広告の仕事をされたと先ほど仰ってましたが、CDジャケットの一番最初のお仕事は何だったんですか?
宮師:今はプロデューサーもしている酒井ミキオ君というアーティストの作品で、彼もトイズファクトリーからリリースしていたんですが、それが最初だと思います。
−−そこから音楽の仕事が増えていったわけですか?
宮師:増えましたね。ひとつやるとそれが次への名刺代わりになるというか、その繋がりで。
−−アートディレクションというのは、例えばカメラマンやメイクまで全てディレクションなさるんですか?
宮師:ええ、全部ですね。アートディレクションは基本的にアーティストなり、バンドの方の見た目の責任を全て負う仕事だと思うんですよ。ジャケットに始まり、どういった写真の撮られ方をしているのかということも含めて、イメージを形作るお手伝いをさせていただく。それがアートディレクターの仕事だと思います。
−−そういうヴィジュアルイメージはアーティストやアーティストサイドのスタッフとディスカッションを重ねた上で出てくるんですか?
宮師:もちろんそうです。基本的にはアーティストありきで、僕らはお手伝いさせてもらう立場です。いいアーティスト、いい音楽があって、それを一人でも多くの人に「このアーティストいいね」と思ってもらうために色々と提案して、現場だったら現場監督になり、上がってきた写真を今度はグラフィックデザイナーという立場で、デザインに落とし込んでいくという一連の作業ですね。
−−でも、お二人もアーティストですよね。
鈴木:うーん、基本的に僕らは人から仕事を依頼されるというスタンスで、アーティストのように何もないところから発信していくわけではないので。
宮師:そこがアーティストとの大きな違いじゃないですかね。僕らは基本裏方だと思っています。
−−「アーティストとは対等の立場である」とはあまり思わない?
鈴木:そんなこと思ったことないですね。
宮師:音楽がなかったら僕らの出る幕ないじゃないですか? 僕たちは音楽でご飯を食べる人たちを全員尊敬しているんですよ。どんなカルチャーでも音楽が引っ張っていってくれるじゃないですか? 音が先行して、そのあとをグラフィックとかファッションとかみんなついて行くと言いますかね。ですから、音楽の手伝いをさせてもらう仕事ってすごく恵まれてるなと思いますし、音楽に関する仕事はどんな仕事でも、音楽への恩返しという気持ちがありますね。
−−まだお仕事を一緒にされていないけれど「この人と仕事してみたい」というアーティストはいますか?
宮師:もちろんいますが、僕たちとしてはまだ全然出会っていない新しい才能の人とどんどん出会いたいですね。色々と固まってくる部分があると、それはやはりつまらないですから、どんどん新しい人と繋がりたいという想いのほうが強いですね。
鈴木:CDジャケットを仕事として頼まれることによって、僕らも色々な意味で刺激を受けているんですよね。そこがこの仕事の面白さだと思います。
−−これまで手がけた作品で強く印象に残っているジャケットは何ですか?
宮師:結構昔の作品なんですが、安室奈美恵ちゃんの『SWEET 19 BLUES』ですね。このアルバムのデザインは今でも好きです。奈美恵ちゃんはこの少し前までいわゆるアイドル的な見せ方だったんですが、『SWEET 19 BLUES』というアルバムのコンセプトが「19才の女の子のすごくリアルな姿を描き出すこと」だと僕は思ったので、リアルな「安室奈美恵」像というのを世の中にプレゼンテーションしたら、パッケージとして有効なんじゃないかな? と思ったんですね。それで「生っぽさ」を形にしたら、このデザインになったんです。
普通アルバムのデザインって何パターンも作って、クライアントなりアーティストに見せに行くんですが、このときは4パターンのジャケットデザインを作ってプロデューサーの小室哲哉さんに見せに行ったんですね。そうしたら小室さんがパッと見て「全部いい」とおっしゃってくださって、「これ全部をジャケットにしよう」とその場で即決されたんですよ。それで「どういうことですか?」と訊いたら、「このアルバムは400万枚売れるから、100万枚ごとにジャケットを変えよう」と。
−−スケールが大きいですね。でも実際にその予測通りにセールスしたわけですからね。
宮師:ええ。そのくらい売れたと思いますよ。
−−ちなみにグラフィックデザインに関しては印税ってないんですか?
鈴木:基本的にないですね。
−−では、何枚売れても関係ないんですか?
宮師:関係ないですね。そこに関しても稲葉さんが「それはおかしいんじゃないか?」と仰ってくださって、仕事によって契約を変えたものもありました。
−−鈴木さんの印象に残っている作品は何ですか?
鈴木:やはりテイ・トウワ君とやっている作品はどれも面白いですね。彼の場合、音を作った時点で絵が見えているわけですよ。元々美大を出ているので、ヴィジュアルイメージがしっかりとあって、大体「今回はこんな感じ」という話があるんです(笑)。それを僕と宮師がデザイナーとして形にしていくと言いますか、役割として彼がアートディレクターの位置にいて、僕らが彼のイメージを定着させていくという作業をずっとやっています。
5. 音楽の世界観を発展させるデザイン
−−アーティストグッズのデザインなんかもなさるんですか?
鈴木:やりますね。SPEEDのツアーグッズもデザインしていましたし、最近では嵐のツアーグッズも作りました。
−−今、マーチャンダイジングに力を入れる傾向にありますから、そういった仕事も今後どんどん増えてくるかもしれませんね。
宮師:そうですね。でも基本的にはアーティストの音源周りのデザインから派生していることなので、まずはそっちの出会いが大切になってくると思います。
−−今、音楽業界は苦しい状況ですが、それはデザイナー側も感じていらっしゃいますか?
宮師:制作のバジェットが年々少なくなっていますし、シングルの枚数が圧倒的に減っていっているんじゃないでしょうか。シングルをリリースしなくなっているというか、そういう流れですよね。
−−しかもパッケージ自体、今岐路に立たされています。
宮師:僕たちはBUMP OF CHICKENのアートワークもずっとやらせてもらっているんですが、’07年に彼らが出したアルバム『orbital period』のときに、藤原君が音源を作ったあとで「絵本を描く」と言い始めて、90ページくらいの絵本を描いたんですよ。その絵本というのが音を聴きながら見ると更に世界が広がるような作品になっていたんですね。彼がどういう意図で絵本を描いたかはわからないんですが、その絵本があることによって更に楽曲の世界が広がるということを証明したんです。これは「音とパッケージが一体となって一つの世界なのだ」とアーティスト自らが示したすごく大きな例で、これが今の「パッケージ不要論」とか「ダウンロード」について考える一つの良い例になるのでは? と思うんですけどね。
−−なるほど。今後、BUMP OF CHICKENの例のようにアートと音楽を組み合わせた作品を作ってみようと思われたりしますか?
宮師:音楽はそれだけで成立するじゃないですか? デザインってこう言ったら語弊があるかもしれませんが、音楽のイメージをさらに広げるための「おまけ」だと思っているんですよ。時代が変わっていったときに表現方法も変わり続けていくと思うんですが、音楽はどんなときでも絶対なくならないですし、人生になくちゃ困るじゃないですか。今は音楽業界の過渡期だと思うんですが、音楽がなくなることは絶対にないので「とにかくいい曲、いい作品を作り続けるぞ」と自信をもってお仕事していただきたいと思いますし、僕らの仕事はそれをお手伝いさせてもらうってことだと思うんですよ。
−−確かに今本当に音楽が売れないですから、音楽業界人はどんどん自信をなくしてしまっているんですよね…。
宮師:すぐに結果を出さないといけないとか色々な事情があると思うんですが、才能は花開くのには時間がかかるじゃないですか。本当はもっと大切に育てていくような流れや仕組みをみんなで考えないといけないんじゃないかなと勝手に思っちゃいますよね。
−−最後に今後の目標をお聞かせ下さい。
宮師:デザインというのは世の中の潤滑油だと思うんです。社会とかカルチャーとか。そういうときに少しでもデザインで楽しく感じられたり、物事がスムーズにいったりとか、それは必ずしも合理的な意味ではなくて、夢が広がったり、そういったことのお手伝いが少しでもできたらいいと思いますし、何度も言いますけど、やはり音楽の仕事は僕らにとって非常にコアなところにあるので、これからもいい音楽が生まれて、その世界を発展させるときにデザインでお手伝いできたらいいなと思っています。
−−本日はお忙しい中ありがとうございました。宮師さん、鈴木さんの益々のご活躍をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
今回のインタビューでは、デザインという目線から音楽について語っていただきました。音楽配信が当たり前となった現在の音楽業界ですが、改めてパッケージの良さや形として残すことの価値に気づくことができたインタビューだったと思います。特に印象的だったのが「お手伝い」という形で音楽に関わりたいというお二人の言葉でした。これまでも素晴らしい作品で音楽作品の価値を高めてくださった宮師さんと鈴木さん。今後も沢山の作品を手がけ、音楽業界の発展を支えてくださることを期待しています。