第95回 モーガン・フィッシャー 氏 サウンドペインター/ライトペインター
サウンドペインター/ライトペインター
今回の「Musicman’s RELAY」は山田勝也さんからのご紹介で、モーガン・フィッシャーさんのご登場です。16歳で始めたアマチュアバンド「ラブ・アフェアー」でデビュー。リリースしたシングルが全英No.1を獲得し、18歳の若さでトップアーティストに。その後はデビット・ボウイがプロデュースしたモット・ザ・フープルの全米ツアーに参加し、前座として同行していたのがなんとクイーン!クイーンのデビュー以前より親交のあったモーガンさんはクイーンの欧州ツアーにも参加しています。’85年からは日本に移り住み、THE BOOM、喜納昌吉、細野晴臣など多くの日本人アーティストと共演。さらに環境音楽のアルバムからCM音楽、アート系ビデオ、映画音楽と幅広く国内外で活躍されています。今回のインタビューでは、ビートルズなど伝説のアーティストが生まれた60年代ロンドンでの青春時代や、トップアーティストとして世界を回った日々、日本に移り住むまでの紆余曲折など40年以上に及ぶ音楽人生について語っていただきました。
https://www.youtube.com/watch?v=TORRgV0Izak
プロフィール
モーガン・フィッシャー(もーがん・ふぃっしゃー)
サウンドペインター/ライトペインター
1950年1月1日、イギリス、ロンドン生れ
1968−72年 ラブ・アフェアーと活動し、ハモンドオルガンを弾く。クラシカル・ロック・バンド、「モーガン&ティム・スタッフェル」を結成。
1973−77年 デビット・ボウイがプロデュース担当の、モット・ザ・フープルに参加。全米ツアーを行い、ブロードウェイで1週間公演をした初のロックバンドとなる。
1978−80年 ロンドンで、インディペンデント・スタジオ&レコード・レーベル、パイプ・ミュージックを立ち上げる。「スロー・ミュージック (Slow Music)」(環境音楽)、「ハイブリッド・キッズ(Hybrid Kids)」(アート・パンク)、「ミニチュアーズ」をリリース。
1981−84年 クイーンの欧州ツアー(1982年)でキーボードを担当。その後、インド、ヨーロッパ、アメリカを旅する。
1985−88年 日本に移り住み、ハンドメイド・スタジオを設立。環境音楽のアルバムを手がける。また、アート系ビデオ、映画、テレビなどの音楽制作。
1989年 京都市1200周年記念に、平安神宮で演奏。
1990年 ヨーコ・オノをゲストに迎え、アルバム「エコーズ・オブ・レノン」をレコーディング。
1991年 ホンダのテレビ・コマーシャルや、コム・デ・ギャルソンの東京ファッションショーに出演。
1992年 細野晴臣、ジュリー・クルーズ、ヤスアキ・シミズとともに、「ツイン・ピークス」の曲を共演。
1993年 日本のメジャー・バンド、ブームと共演
1994年 日立インターナショナル・シンポジウムで演奏。ロンドンでの、故ミック・ロンソンに捧げられたチャリティー・コンサートで、イアン・ハンター(モット・ザ・フープル)、ロジャー・テイラー(クイーン)、ロジャー・ダルトレー(ザ・フー)、ビル・ワイマン(ローリング・ストーンズ)らと共演。
2000年 「ミニチュアーズ2 (Miniatures 2)」をリリース。
2004年 スーパーデラックス(東京・西麻布)にて毎月「モーガンのオルガン」と題したソロ・インプロビゼーション・ライブを開催。
1987年〜
アメリカン・エクスプレス、コカコーラ(アクエリアス)、コンパック・コンピューター、日本航空、JR、カネボウ化粧品、京成スカイライナー、(JAMの銀 1998年)、パナソニック松下電器、マクセル、メナード化粧品、マイクロソフト、三菱、NHK、NTT、オリンパスカメラ、オンワード(服飾)、カンタス航空、リコー、ローバー(自動車)、セイコー(時計)、資生堂化粧品、ソニー、ユニシス、フォルクスワーゲン・ゴルフ… などのテレビコマーシャル音楽を担当。
1. ロックのゴールデンエイジ、ビートルズやクイーン、ザ・フーが生まれた60年代ロンドン
−−前回ご登場いただきました山田さんとの出会いはいつ頃だったんですか?
モーガン:山田さんとは12〜13年前にCMの仕事を一緒にしたことがきっかけで知り合いました。彼は色んなジャンルのCMを作っているので、一緒に仕事をするのはとても楽しいです。
−−本当に幅広いジャンルの音楽を作られていますよね。
モーガン:そうですね。まだやったことのないジャンルでも、とりあえず「できます」と返事をしてからアレンジを勉強して曲を作ったりしていました。譜面を出したらOKだったので(笑)。そこがCMのいいところで、仕事から学んでいくことも多いです。あっ…これは秘密でした。でも山田さんは笑ってくれるでしょう(笑)。
−−(笑)。
モーガン:”初めて”ということはチャンスなんですね。例えば、THE BOOMとはアルバムを2枚作って、ツアーも一緒にまわったんですが、彼らは色んなジャンルの音楽をやっていて、僕と一緒に仕事をしたときはラテンミュージックをやろうとしていたんですね。僕はラテンミュージックをやったことがなかったので、「どうして僕を呼んだの?」と訊いたんです。そうしたら「僕たちもやったことがないので一緒にやってみましょう」と言ったんですよ。それがフレッシュな感じがして良かったので、すぐにタワーレコードへ行ってラテンのCDをたくさん買って、「だいたいわかったのでやりましょう!」ということでTHE BOOMに参加しました。僕は子供の頃から勉強は嫌いでしたが、これは楽しい勉強だし、ロックミュージシャンのアプローチの1つだと思います。
−−モーガンさんご自身のスタンスが自由だから柔軟に受け入れられるんでしょうね。
モーガン:僕が音楽を始めた60年代はゴールデンエイジで、ロックが始まった頃ですから、アプローチの方法が新しく生き生きしていました。僕らはその時代、イギリスやアメリカの音楽をたくさん聴いていましたからね。
−−ビートルズをはじめ伝説のアーティストが数多く生まれた60年代のロンドンで青春時代を過ごされているんですよね。
モーガン:一番素晴らしい時代をロンドンで過ごしましたね。本当にすごかったですよ(笑)。その当時はラジオが大事な情報源でした。BBCやインディーズラジオ、中でも映画の『パイレーツ・ロック』みたいな海賊放送が一番いいレコードを24時間流していましたね。BBCも最初は少なかったけど、だんだん流すようになっていきました。
当時、ラジオから「新しいバンドです。ビートルズというバンドで、スペルは” B、E、A、T、L、E、S”…」と流れてきて、普通”ビートル”というと、カブトムシのことで、スペルは” B、E、E、T、L、E”なんですよ。実際は” BEAT MUSIC”の”BEAT”なんですが、最初にバンド名を聞いたときに「ちょっとダサイ名前だな」と思ったんです(笑)。でも、音楽を聴いたらすごくかっこよくて、本当に驚いたのを憶えています。感動しました。
−−それはいくつの頃ですか?
モーガン:13歳です。ビートルズと同じときに、ザ・フーも紹介されていたんですが、このときも「どうしてこんな名前に?」と思いました(笑)。人に名前を聞くときに、”The Who?”と言うんですよ。でもやっぱり音楽を聴いたらすごくてバンド名なんか関係なくなってしまいましたね。
−−名前からもインパクトを受けていたんですね。ビートルズやザ・フーは当時のイギリスでも新しいムーブメントですよね。
モーガン:そうですね。全てが新しかったです。
2. 前座はクイーン! モット・ザ・フープル全米ツアーへ参加
−−その頃からすでにご自身で音楽をやり始めていたんですか?
モーガン:クラシックピアノは10歳から習ってしていましたが、ビートルズを聴いてからすぐに辞めました(笑)。でも、ベーシックトレーニングもやっていたので、それは曲を作るときに今でも役立っています。それからはピアノの上にレコードプレーヤーを乗せて1日4〜5時間くらい好きなレコードを聴いていました。16歳からはアマチュアバンドを始めて自分で演奏するようになりました。
−−ビートルズを聴く前は何を聴いていたんですか?
モーガン:シャンソンですね。
−−BBCでも流れていたんですか?
モーガン:ラジオでも流れていました。ペリー・コモやアンディ・ウィリアムス、フランク・シナトラも好きでしたね。『ウェスト・サイド・ストーリー』なんかも聴いていました。あと、ブルースやジャズも好きでしたよ。レイ・チャールズとかジョン・リー・フッカーとか。
−−実際にライブを観に行ったりもしていたんですか?
モーガン:ソウルミュージックも大好きだったのでソウルミュージックのクラブに行っていました。オーティス・レディング、ジェームズ・ブラウンとかすごくかっこいいですよね。当時、僕はモッズ派で、細身のスーツを着て毎週モッズクラブに行ってました。お金がなかったのでスクーターには乗っていなかったですけどね(笑)。
−−(笑)。当時のロンドンの若者の多くがそういう感じだったんですか?
モーガン:そうですね。本当はナンパしたいんだけど、ナンパはすごく下手なので音楽を聴きに行っていました。気になる曲があるとDJに「これ誰の曲?」と訊いて、スーパーマーケットでアルバイトして、ちょっとお金ができるとすぐレコード屋に行ってそのレコードを買っていました。
ジミ・ヘンドリックスもレコードデビューする前にパブでよくライブをしていました。僕も5回くらい観に行きましたよ。彼はロンドンから有名になりましたね。
−−ジミ・ヘンドリックスのライブも観ていらしたんですね。凄いですね。それはおいくつのときですか?
モーガン:16歳くらいですね。50人〜100人くらいのキャパシティのパブで見たんですが、本当に感動しました。
僕は’66年にアマチュアバンドを始めて’68年にプロになって、全英No.1ヒット曲も出したので、メンバーズバー(楽屋)で有名な人にたくさん会いました。ローリング・ストーンズ、ビートルズ、ジミ・ヘンドリックス、ジョージ・ハリソン…60年代は目まぐるしく変化していましたね。時代の流れが早かったです。毎年流行る音楽が変わるし、ビートルズのアルバムも毎回違う。
−−そんな時代にモーガンさんは18歳でいきなりトップアーティストの仲間入りをしてしまったんですね。
モーガン:そうですね。当時はラブ・アフェアーというソウルポップバンドのメンバーとして活動していて、「エバーラスティング・ラブ(Everlasting Love)」という曲が全英1位になったんですけど、その後はどんどんチャートの順位が下がっていっちゃったので、もう辞めようと思ったんです。それでラブ・アフェアーのドラマー、ティム・スタッフェルと一緒に、モーガン&ティム・スタッフェルを作りました。ティム・スタッフェルは、クイーンの前身になったスマイルというバンドのボーカルだったんですが、その後、フレディ・マーキュリーが入ってクイーンになったんですね。
−−モーガン&ティム・スタッフェルとして作品をリリースしたんですか?
モーガン:ええ。モーガン&ティム・スタッフェルのアルバムはイタリアでレコーディングしました。RCAのすごく良いスタジオで、その時代ではめずらしく16トラックでした。すごくラッキーでしたね。アルバムはあまり売れなかったけど良い作品ができましたよ。いいスタジオでしたし(笑)。それは満足ですね。
−−その後、モット・ザ・フープルのメンバーになったんですか?
モーガン:そうですね。’73年に入りました。アルバムが売れないのでだんだん貧乏になってきてどうしようかと思っていたときに、メロディーメーカーという雑誌のメンバー募集でイギリスの有名なバンドがもうすぐアメリカツアーをするということで、そのメンバーを探していて、僕はアメリカに行ってみたかったので、そのオーディションを受けたんです。それがモット・ザ・フープルでした。このアメリカツアーの前座にはクイーンが同行していたんですよ。
アメリカに行く前は、アメリカのロックはパロディのようで本物じゃないと思っていたんです。イギリスのロック、ビートルズやローリング・ストーンズが本物だと思っていたんですが、アメリカに行って、アメリカのロックはアメリカの文化に根付いたロックだったということがわかったんです。それからはアメリカのロックが好きになりました。
−−イギリスの文化とアメリカの文化はどんな違いがあると思いますか?
モーガン:アメリカは”新しい”という感じがします。それに遊びがある感じですね。イギリスは”古い”、”深い”という感じです。
−−それは日本人である僕たちが持っているイメージと同じですね。ロックやソウル、R&Bのルーツはアメリカの方が古い点もありますが、それがアメリカとイギリスを行ったり来たりして新しいジャンルが生まれたりしていますよね。
モーガン:面白いですよね。ツアーではたくさんのいいバンドに会いました。例えば、ニューヨーク・ドールズ。後のパンク・ロックに大きな影響を与えたバンドですよね。素晴らしいバンドでした。そして、ジョー・ウォルシュ。彼はイーグルスのメンバーになってから少しソフトになりましたよね。あと、シャ・ナ・ナにも会いました。彼らのライブはショーのようで素晴らしいですよね。
3. 長い休みのつもりが日本へ移住
−−アメリカにはどれくらいいらっしゃったんですか?
モーガン:3ヶ月くらいです。全米ツアーはけっこうハードなスケジュールでしたね。大体1週間に5回くらいライブをやって、毎朝飛行機で移動して。
−−バスとかトラックでの移動じゃなくてよかったですね(笑)。
モーガン:そうですね(笑)。でもバスでのツアーもやりましたよ。
−−日本に移り住んだきっかけは何だったんですか?
モーガン:ずっと前から日本の文化や音楽が好きだったんですよ。
−−でも、当時のアメリカには日本の情報はあまりなかったですよね?
モーガン:なかったですが、僕らはライブのリハーサルやサウンドチェックまでに時間が空くとリサイクルショップに行っていたんですね。そこでみんな楽器を探していましたが、キーボードは大きくて買えないのでレコードをたくさん買いました。レアなレコードが安く買えたんですよ。バッハを“琴”で演奏したレコードもあって、面白いなと思って聴きました。そこから日本の音楽に興味が湧いて、尺八、三味線も聴いて「いい音だな」「面白い文化だな」と思ったんです。でも、行きたいと思ったのはもっと後ですね。
−−モット・ザ・フープルの全米ツアーが終わってからは何をされていたんですか?
モーガン:インディーズミュージシャンになって、ロンドンにレコーディングスタジオやレーベルを作りました。
−−その頃、チェリーレッド・レコードから『ミニチュアーズ』をリリースしていましたよね。
モーガン:そうですね。『ミニチュアーズ』はチェリーレッド・レコードで作ったアルバムで、沢山のアーティストが作った1分間の曲を51曲集めました。’80年に1枚目、2000年に2枚目を作ったんですが、全部で106人のアーティストの113曲が収録されています。『ミニチュアーズ』では色んなジャンルの色んなアーティストに会いました。これを作ったからもう疲れちゃって…(笑)。大変でしたよ。
−−それぞれのアーティストにはご自身でオファーしたんですか?
モーガン:そうです。マネージャーとのやり取りも録音も一人で全部やりました。
−−エージェントに頼んでということは考えていなかったんですか?
モーガン:エージェントとは話したくなかったんです。色々とうるさいので、アーティストと直接話したほうがよかったんですよ。
−−セールス的にはうまくいったんですか?
モーガン:まあまあですね。インディーズレーベルですから。でも満足はしています。コストもあまりかかってないですし。
−−インターネットのない時代ですから大変ですよね。連絡は電話で?
モーガン:電話と手紙とFAXですね。それで18歳から30歳までずっとプロとして休まず働いてきたので、長い休みを取ることにしました。まず、音楽の仕事を辞めたんですが、そうしたら体調を崩してしまったんですよ。病院に行っても原因がわからなくて、チェリーレッドの社長が針灸の針の先生を紹介してくれたんです。針を受けて、食べ物も自然食にして、ダイエットもしたらすごく元気になったんです。
−−ロンドンにも針の先生がいるんですね。
モーガン:あの時代では珍しいですね。今はいっぱいいます。そのときから体調だけじゃなく音楽の好みも変わったので、ロックはもうやめてインドに行ってみようかなと思ったんです。イギリスの音楽が古くさく感じるようになってたし、ビートルズもピート・タウンゼントもサンタナもインドに行きましたしね。休むために楽器もレコードコレクションも全部売って、身も心も軽くなってインドで何ヶ月か過ごしましたが、すごく楽しかったですね。
インドに行ったあとは、ヨーロッパに行って1年間ベルギーで何もせずに過ごしました。それからアメリカに行ってハリウッドに住んでいて楽しかったんですが、僕には合わないなとだんだん思ってきて。ハリウッドは仕事の街ですしね。仕事がいっぱいあれば楽しいと思うんですが、仕事は休んでいたので。だから違う国に行こうと思ったんです。ほとんどの国に行ったことがあったんですが、日本は行ったことがなかったので、そのときの彼女に「日本はどう?」と訊いたら「いいよ」と言ってくれたので1週間後には日本に行きました。日本に来た頃は貧乏で、スーツケース1つでポケットには5万円くらい。日本語も全くわからないし友達もいない。でも日本に行きたいと思ったんです。それが’84年ですね。
−−日本に来てまずどこに住んでいたんですか?
モーガン:ゲストハウスが安かったのでそこに1ヶ月住んでいました。日本にきたばかりで音楽の仕事をするのは難しいから英語の先生になりました。あの時代は欧米人だったら英語の先生に簡単になれたんです(笑)。1年間くらい働いていたんですけど、あんまり合わなかったですね(笑)。
−−そうやって過ごしているうちに「住んでもいい国だな」と思われたんですか?
モーガン:そうですね。人も優しいし、料理も美味しい。料理は大事ですね。納豆が好きで毎日食べています。でも一緒に来た彼女は半年で帰ってしまいました(笑)。彼女には合わなかったみたいですね。
4. THE BOOM、細野晴臣ら日本人アーティストとの共演
−−日本で音楽の仕事をスタートしたきっかけは何だったんですか?
モーガン:ある日本人のアーティストが『ミニチュアーズ』を知っていて、La.mamaという渋谷のライブハウスで環境音楽、アンビエントミュージックを演奏することになったんです。それから面白い仕事がくるようになって色んなプロジェクトに参加しました。例えば、ビルのロビーで流すためのBGMを作ったり、映画のサウンドトラックを作ったり。それは『ゴキブリたちの黄昏』という映画で、実写とアニメがミックスした面白い作品です。その映画をプロデュースした会社がキティレコードで、その後キティレコードと契約しました。そうしてだんだん音楽に戻っていきました。
−−アートミュージックというとモーガンさんが最初に出てくるくらい日本の音楽業界に浸透しましたよね。
モーガン:色んなところで仕事しましたからね(笑)。ファッションショーのための曲も作りましたし、ファッションのイベントで演奏したりもしました。一度パリで演奏したんですが、とても面白かったですね。
−−ずっと日本で仕事をしていらっしゃいますが、ビザはどうなっているんでしょうか?
モーガン:今はパーマネントビザです。最初はツーリストビザ、その後は結婚ビザ、離婚ビザ(笑)。
−−(笑)。共演された日本のアーティストで印象に残っている方は?
モーガン:まずTHE BOOMは面白かったですね。ラテンをやったとき、実際のメンバーは5人なんだけど、サポートメンバーを入れて15人で色んなところでライブをしました。ブラジルにも行きましたね。飛行機を2回乗り換えて30時間もかかったんですが、飛行機が着いて1時間後には演奏してました。すごい時差ぼけで大変だったんですけど、頭が真っ白になってむしろいい演奏ができました(笑)。最初は「日本人だ」ということであまり期待されていないようでしたが、演奏するうちにお客さんものってきて、最後はみんな盛り上がっていました。
−−細野晴臣さんともご一緒されてますね。
モーガン:そうですね。アメリカのテレビドラマ『ツイン・ピークス』のサウンドトラックの曲をコンサートでやりましょうと細野さんに話をして、ジュリー・クルーズという『ツイン・ピークス』のサウンドトラックのボーカリストと、サックスの清水靖晃さんとコンサートをしました。
−−色んな日本人アーティストと共演されていますが、日本のアーティストがもっと世界と交流していくためにはどうしたらいいんでしょうか? もっと世界に認められてもいいアーティストはたくさんいると思うのですが。
モーガン:まず言葉の問題ですね。それは大きな問題です。例えば、少年ナイフは人気がありましたね。あとは坂本龍一さんも人気がありますね。ただ、僕もはっきりと理由はわからないです。イギリスとアメリカのロックが世界中にインパクトを与えられた理由もわからないですし。ヨーロッパの他の国、例えばイタリア、スペイン、フランス、ドイツなどの音楽も世界的にはあまり流行ってないですよね。
−−ヨーロッパに行くと自国の音楽はあまり流れてないですよね。英語がインターナショナルに伝わる言葉ですし、音楽もインターナショナルにならないと受け入れられないんでしょうか。
モーガン:オルケスタ・デ・ラ・ルスは世界中で人気がありますよね。ラテンミュージックという狭いジャンルだからパーフェクトにできる。それは素晴らしいですね。
−−やはりインストゥルメンタルだからということが大きいですかね。今年のグラミー賞もインストゥルメンタル系は日本人もたくさん受賞していますから。
モーガン:そうですね。例えばジャズプレーヤーにはたくさんいいミュージシャンがいますからね。
5. CDの時代は終わった?
−−日本に移り住んでから2枚目の『ミニチュアーズ』を作られたんですよね? この時はもうインターネットがありましたよね。
モーガン:そのときはインターネットも使えるしやりやすいと思ったんですが、1枚目は1年、2枚目は5年かかりました(笑)。2枚目は1枚目よりもたくさんの国のアーティストに連絡して参加してもらったので。3枚目はやりたくないですね(笑)。でも楽しかったですよ。2枚目は日本人も5〜6人参加してくれています。最初にリリースしたレーベルはCONSIPIO RECORDS。高橋幸宏さんと山本耀司さんなどが作ったレーベルですね。
−−『ミニチュアーズ』は相当面倒なプロジェクトですよね。
モーガン:ワーカホリックになっちゃって、どうしてこんなに面倒くさいアルバムを作ってしまったのかと思いました(笑)。
−−ミュージシャン対ミュージシャンだとスムーズに話が進むんですけど、マネージメントを通すととたんに面倒になるんですよね。
モーガン:あるマネージャーは、アーティストが曲を提供することにはすぐに了承したくれたんですけど、条件として必ず1曲目にしてくれと言ってきたんです。でも、それはアーティストが言っているんじゃなくて、マネージャーが言っていることなんですよね。
−−そういったしがらみと戦いながらここまでまとめるのは相当大変だったと思います。1枚目が80年で2枚目が2000年ということで、丁度20年後に2枚目がリリースされていますね。
モーガン:じゃあ、2020年に3枚目を出そうかな(笑)。でもCDの時代も終わりに近づいているから…。
−−やはり、CDの時代は終わったと感じますか?
モーガン:多分そうですね。ただ、アーティストはアルバムを作りたいですよね。物語を作るようなもので、1曲はショートストーリーで、アルバムは本なんですよ。ブックレットも付いていますし、CDを買うことの楽しさはまだあると思います。あとDJやオーディオマニアのためにまだアナログ盤も作っていますよね。それはいいことです。僕はイギリスの音楽雑誌を毎月読んでいるんですけど、レディオヘッドはCDとダウンロード、アナログと全部出しています。僕もiPodもCDもレコードも使っていますが、場所や時間など目的によって使い分けていますよね。電車や飛行機の中ではiPodが丁度いいですし、家ではCD、細かい音まで聴きたいときはアナログ盤を聴いています。
6. 被災者支援のため「Artists Support Japan」をスタート
−−モーガンさんの「ライトペインティング」というのはどのように作っているんですか?
モーガン:最初は手ぶれの写真だったんですよ。20年くらい前にハワイのクリスマスイルミネーションを撮って、次の日に現像したら手ぶれでちゃんと写ってなかったんです。でも、手ぶれの写真っていいなと思って。もっと手ぶれさせるためにカメラを動かしてだんだん綺麗なイメージを作っていきました。
−−ライトペインティングという言葉はモーガンさんが最初にお使いになったんですか?
モーガン:他の人も言っていますよ。でもフラッシュライトで絵を描くのではなくて、僕の場合はカメラを動かし、色んな電球を使ってますね。例えば、ろうそくみたいな電球を写したり、電球のフィラメントをアップで写したり。
−−フィラメントを写しているんですか?
モーガン:わからないですよね(笑)。どうやって作ったかわからないというところが好きなんです。ミステリアスで。
−−これはDVDで発売したりするんですか?
モーガン:そうですね。写真展もやっています。西麻布のスーパー・デラックスというライブハウスで7年前から毎月ライブをやっているんですけど、そこで演奏するときにこの写真を壁に投影しています。すごくぴったりですよ。ライトペインティングは目のための音楽みたいで、音楽は耳のための映画みたいな。
僕は日本人じゃないけど、日本のアートのやり方は好きです。昔の日本のアートは自然なフィーリングで描かれていますよね。筆のタッチで気持ちを表している。それが大好きなんです。私の音楽もだんだんそういうアプローチになっていきます。
−−京都やお寺などもお好きなんですか?
モーガン:好きですよ。平安神宮で演奏したこともあります。京都の遷都1200年の記念行事で演奏しました。
−−どんな街に住んでいるかによって、できてくる音楽もどんどん変わっていくものなんですか?
モーガン:そうですね。いろんな国に住んでいたことがありますが、日本が一番長いですね。もうすぐイギリスより長くなります(笑)。イギリスには30年、日本には27年住んでいます。
−−これからもずっと日本に住まわれる予定ですか?
モーガン:プランはありませんよ(笑)。地震もありましたしね。
−−「Artists Support Japan」について伺いたいのですが、これは震災後に急遽立ち上げられたんですよね?
モーガン:「Artists Support Japan」は、日本の被災者と日本人のために、地震の後すぐに作りました。
−−これはモーガンさんのアイディアなんでしょうか?
モーガン:僕の友達で、世界中で展開する広告会社・サーチアンドサーチの元日本支社代表だったグラハム・トーマスのプロジェクトに、僕と、日本人の音楽ジャーナリストの五十嵐正さんがジョイントしたんです。一番最初に参加してくれたのはポール・ロジャースで、彼は以前日本人の女性と結婚していたんです。だから日本のことはすごく気にしていたみたいで、話をした次の日には曲を作ってくれました。すごいレスポンスで、まだ世界中の人から連絡がきます。
−−そのネットワークのベースに『ミニチュアーズ』があったのかなと思うんですが。
モーガン:それは確かにありますね。『ミニチュアーズ』のアーティストにも「Artists Support Japan」に曲を作ってもらうために声をかけましたよ。あと、僕以外の二人もコネクションはたくさんあるので。
7. 音楽もライトペイントもフィーリングは一緒
−−今後はどのような活動をされる予定ですか?
モーガン:40年前から音楽をやってきて、アートは趣味だったけど、これからは音楽とアートを半分半分くらいにしたいですね。別々にするのもいいし、スーパー・デラックスのライブのように一緒にするのもいいし。それに、秋くらいにカリフォルニアのギャラリーや美術館でイベントをやったり、大学でトークショーもやります。僕の写真はカリフォルニアで人気があって、雑誌の表紙にもなりました。前は名刺に「コンポーザー、ミュージシャン、プロデューサー」とかたくさん書いていましたが、今はもっとシンプルで、ライトペインターとサウンドペインターだけです。
−−サウンドペインターですか?
モーガン:そう、ペインターになりました(笑)。
−−(笑)。では、今後はアートの比重を高めていくということですね。でも音楽の仕事から遠ざかるというわけではないですよね?
モーガン:もちろん両方やります。機材は違いますけど、フィーリングは一緒です。CMとかサウンドトラックを作るときもすごく楽しいことが色々ありますから。新しいことを勉強して、色んなジャンル、ミュージシャンと一緒にやりたいですね。
−−そのスタンスが自由でとてもいいですよね。最後になりますが、日本の若いアーティストにメッセージをお願いします。
モーガン:もうやっていると思いますが、色んなところからインスピレーションをもらってください。例えば、すごく好きなアーティストのCDがあったら、深く聴いて体全体でインスピレーションをもらってください。そして、インスピレーションをもらったら全部捨ててください。そのCDはモデルじゃなくて新しい筆のようなものなので、その筆で自分の絵を描いてください。
−−それはアーティストだけじゃなく全ての人に言えることですよね。
モーガン:そうですね。スーパー・デラックスでのライブはいつもノープランです。毎回違う楽器を選んでセッティングして、ステージに立って、鳴らした音からフィーリングを受けてライブをやるから毎回違う。「次はどうしよう?」と悩むこともあるけど、とてもエキサイティングです。新しいアイディアが出てくるので作曲みたいですね。ライブをやっていると本当に日本のお客さんは優しいと思いますね。イギリスだと酔っぱらったお客さんがヤジを飛ばしてくるので(笑)。だから、日本でこういった新しい試みを始められてとても嬉しいです。
−−本日はお忙しい中ありがとうございました。益々のご活躍をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
今回のインタビューはモーガンさんのご自宅で行われたのですが、貴重な機材が所狭しと並べられている仕事場は圧巻でした。日本に数台しかないビンテージオルガンや、パイプオルガンまで揃っています。
そして、食事にとても気を遣っているモーガンさん。基本的にはベジタリアンで、お魚やお肉はごくたまに食べるくらいなんだそう。「野菜は新しいエネルギー、お肉は中古ですね(笑)。」と仰っていました。
今回は、普段からご自身で作られているという健康的な食事から、プレミア物の機材の数々を写真でご紹介します。
▲ご自宅の仕事場
▲ご自宅の仕事場
▲HOHNER / MULTIMONICA(超貴重!)
▲ONDIOLINE(超貴重!)
▲YAMAHA YC-45D
▲パイプオルガン(特注!)
▲ライトペイント
▲モーガンさん手作りの食事
▲おまけ / ご自宅近くの桜スポットにて