第96回 ピーター・バラカン 氏 ブロードキャスター
ブロードキャスター
今回の「Musicman’s RELAY」はモーガン・フィッシャーさんからのご紹介で、ピーター・バラカンさんのご登場です。モーガンさんと同じく、60年代ロンドンで刺激的な青春時代を過ごしたピーターさん。大学では日本語を学び、音楽関係の仕事を求め、偶然目にしたシンコーミュージックの求人で’74年に来日しました。同社を退社後は、執筆活動、ラジオ番組への出演などを開始。また、YMOの海外コ−ディネ−ションも担当されました。そして、84年には「ザ・ポッパ−ズMTV」の司会でテレビへ活動の幅を広げ、88年には「CBSドキュメント」の司会に大抜擢。現在も「ブロ−ドキャスタ−」として多岐にわたり活躍されているピーターさんの、幼少時代から現在に至るまでお話を伺いました。
また、インタビューアーの一人である山浦正彦が、ピーターさんがシンコーミュージックの新人だった頃からの知り合いということもあり、今回は普段のリレーインタビューの枠を越えて、様々な話題で盛り上がりました。
プロフィール
ピーター・バラカン(ぴーたー・ばらかん)
ブロードキャスター
1951年8月20日ロンドン生まれ
1973年、ロンドン大学日本語学科卒業
1974年、来日、シンコ−・ミュ−ジック国際部入社、著作権関係の仕事に従事。
1980年、同退社
● このころから執筆活動、ラジオ番組への出演などを開始、また1980年から1986年までイエロ−・マジック・オ−ケストラ、後に個々のメンバ−の海外コ−ディネ−ションを担当。
1984年、TBS-TV「ザ・ポッパ−ズMTV」という音楽ヴィデオ・クリップ番組の司会を担当、以降3年半続く。
1988年、10月からTBS-TV で「CBSドキュメント」(アメリカCBS局制作番組60 Minutesを主な素材とする、社会問題を扱ったドキュメンタリ−番組)の司会を担当。20104月からTBS系列のニュース専門チャンネル「ニュースバード」に移籍、番組名も「CBS 60ミニッツ」に変更。現在放送は毎週水曜日夜11:00から、隔週再放送。
現在「CBSドキュメント」以外の担当番組は
● NHK-FMでは、土曜日朝7時20分〜9時の「ウィ−クェンド・サンシャイン」の選曲とおしゃべり
● NHKの国際放送で制作されているBegin Japanologyの司会。海外に向けて日本の色々な側面を紹介する30分のトーク番組です。国内でもNHK BS-1で金曜日の午後2時から放送。
● スカイパーフェクTVの音声チャンネルに当たるスター・ディジオで毎月第一火曜日の夜10時~11時「PB’s Blues」というジャズ番組の選曲とおしゃべり。
● USENのCS版Sound Planetで自分のチャンネルを担当し、その選曲を行っています。http://www.usen-cs.com/ch/BF/BF55/index.html
● www.otonamazu.comで「バラカン・ビート」という自由形のインターネット・ラジオ番組の選曲とおしゃべり(英語)。番組は終了しましたが、過去のアーカイヴはまだ聴けます。
● WOWOWで月に一回放送される「Jazz File」の解説役を務めています。
● 2008年4月から東京FMで毎週金曜日、午後6時半から7時までの生放送のインタヴュー番組「ライフスタイル・ミュージアム」。
● 2009年10月からインターFMで平日の朝7時〜10時の「バラカン・モーニング」のDJとして出演し、選曲も担当。
● これまでに著書を9冊出版している:
● 他には、コンピレ−ションCDの企画と監修も行なっている。
1. RCサクセション「ラブ・ミー・テンダー」が放送禁止に
−−今回のインタビューは、ピーターさんも気にかけている原発関連から聞いていきたいのですが、InterFMで放送されているピーターさんの番組『BARAKAN MORNING』で、RCサクセションの「ラブ・ミー・テンダー」を流そうとしたときに放送禁止になったことがネット上でも話題になっていましたよね? これはどういった経緯があったのですか?
ピーター:まず、「ラブ・ミー・テンダー」のリクエストが突然多くなったんです。原発のこともあったので、RCのファンからの”聴きたい”という純粋なリクエストだったと思うんですけど、僕の番組では1つの曲にリクエストが集中するということはほとんどないんです。
−−『BARAKAN MORNING』は洋楽の番組ですよね?
ピーター:ほとんど洋楽ですね。僕は「ラブ・ミー・テンダー」イコール反原発ソングだと思ってなかったんです。そういう曲を彼が作っていて、当時の東芝EMI(現 EMIミュージック・ジャパン)がレコードを出さないからキティレコードに行ったという話は知っていました。「偉いな」と思ったんですけど、聴いたことがなくてわからなかったので、リスナーからYouTubeで聴けると教えてもらって「なるほど、こういうことか」と思いました。RCが特別好きというわけでもないし、むしろ清志郎の声はちょっと苦手なんですけど、これだけ多くの人が聴きたいと言っているんだったらかけてやろうじゃないかと。ただ、InterFMは、いつもは選曲について何も言わないんですけど、もしかしたら後で何か言われるかも知れないと思って、事前に話をしたら渋い顔をされてしまって。結局、「風評被害を広げかねない」と言われて止められてしまったんです。 僕はまず、風評被害自体、非常に怪しいものだと思っています。ああいう言い方が一度メディアに出てくると、日本のメディアは一枚岩だったりするので、みんなそれをマントラのように繰り返すんですけど、僕は、「風評被害ってなんなの?」と思ってしまう。要するにうわさ話なわけで、なぜうわさ話が広がるかといったら、ちょうどエイズが蔓延し始めたときと一緒で、みんな事実を知らないから広がるんですよ。でも、しっかりした情報を与えられていれば、その情報に基づいて客観的に色んな判断ができる。ちゃんとした情報がないからこそ、うわさ話も広がるし、風評被害という堅い言葉で言うと、あたかも噂を広げている人たちに悪意があるかのように受け取られる。むしろ、情報を与えていない方が悪い。
−−メディアが流しているのは風評被害ではなく”安全デマ”ですよね。「大丈夫。直ちに影響はありません」と。実害があるにもかかわらず。
ピーター:正にその通り(笑)。そう考える人もいるんだなと。とにかく放送は受け手のためにあるものだと思っているので、局側もそうですが、最終的には試聴者やリスナーとの信頼関係が一番大事。だから、「ラブ・ミー・テンダー」をなぜかけないか、その理由を言ってあげないといけないと思って「風評被害を広げかねない」と言われたことを伝えました。別に局に対して反感があるわけじゃない。もし、自分のものすごく思い入れのある曲をかけるなと言われたら怒ったかもしれないですけど(笑)。
−−(笑)。でも「サマータイム・ブルース」は流したんですよね?
ピーター:流しました。一人のリスナーが、「ラブ・ミー・テンダー」と「サマータイム・ブルース」をCD-Rに焼いたものを送ってきてくれたんですよ(笑)。
−−リスナーが送ってくれたんですね(笑)。
ピーター:「サマータイム・ブルース」のリクエストが何通かあったので、じゃあこのCD-Rを聴いてみようと。「サマータイム・ブルース」の方は、ひっかかる言葉がとりあえずないので、改めて局側に「サマータイム・ブルース」を聴かせたら、渋い顔だけど”ノー”とは言わない。リスナーに対して責任を取るという形で、これはかけようと決めました。本当はランキン・タクシーの「誰にも見えない、匂いもない」という、ずばり原発について歌っている曲をかけたかったんですけど、”どざえもん”っていう言葉が出てくるから、さすがにこれは今はまずいだろうなと思ってやめました。
−−ピーターさんはブロードキャスターとして幅広く世界に対しての見識をお持ちだと思うんですが、他の国で福島原発のようなことが起きたらどういうことになると思いますか? 例えばイギリスだったら?
ピーター:政府と電力会社の癒着とかですか?
−−日本人は大人しいじゃないですか? 新聞にも「原発をまだ7割は容認」「大人の判断」みたいなことが出てますし。
ピーター:結局、記者クラブの仕組みとか、色んなことで日本のマスメディアは原発について否定的なことを滅多に言わないですよね。ついこの前知ったんですけど、’88年に田原総一朗さんの「朝まで生テレビ!」で原発について大討論していたんですね。それがYouTubeにアップされていて。なにせ5時間もあるから見るのは大変だけど、ああいう番組以外ではまずやってないでしょうね。 原発のある町の子どもたちは、小学生のうちに社会科見学で原発に行って、お土産なんかもらって、いかに安全かということがすり込まれてるから、まさかこんなことが起きるとは思っていない。悪く言えば洗脳だと思う。どこの国でもプロパガンダというのはしょうがないですよね。小さいうちにすり込まれていると、なかなかそれを乗り越えるのは難しいことだと思う。今になって初めて、かなり多くの人がそういうことに気がついているんじゃないかなと思います。 これもつい先日知ったんですけど『東京原発』という役所広司さんが都知事役で、原発を東京に誘致するというブラックコメディ映画が2004年に公開されていて、これは面白いですよ。この映画を観れば、政府と電力会社の関係とか、そういうことがすごくよくわかります。一応、民主主義を謳っている先進国の中でここまで情報を事実上規制している国はあまりないんじゃないかな。
−−原発反対デモとかも色んなところで起きてますけど、テレビとかでなかなか報道されないですよね。
ピーター:出てこないですよね。出てもほんの少ししか報道されない。
−−天安門広場でのデモがメディアに出てこない中国や北朝鮮とかなり似てますよね。
ピーター:本当に似ていると思う。イギリスでこういうことが起きたら暴動が起きてますね。フランスならばもっと大きな暴動というか革命が起こるかもしれない(笑)。
−−ドイツやフランスでもすぐに20万人規模のデモがありましたしね。YouTubeだとすぐ出てくる。これだけのことが起こっても何も起こらない日本は悲しいですよね。
ピーター:でも、今回のことで変わりますね。菅首相も批判されて当然のことを色々やったと思いますけど、ここ2〜3日決断力を初めて見せてるんじゃないかな。浜岡原発を停止させると発表したし。よくやったと思いますよ。
−−ただ、その菅首相の判断に対して、未だにビジネス界は反発しているわけですよね? 彼らは、「なぜもっと事前に協議がない」とか、「止められるわけがないだろう」と。例え、菅首相の人気取りだろうが、理由はどうあれ結果オーライだと思います。
ピーター:まさしくそう思いますね。日本は東電幹部の給料の方が大きく取り上げられているけど、海外の英語メディアでは、日本のリハビリ政策を根本から考え直すという方がメインになってる。この違いもまた面白いですね。
−−経済界は、つまらない目先のことばかり言ってますけど、国土がなくなって空気が吸えなくなって、水が飲めなくなって、それで何のための経済かと。
ピーター:本当に当たり前の話ですよね。
−−これだけの悲劇が起こったわけですから、普通だったら日本中の原発を直ちに止めて、原発のない生活をしようという話になると思うんですけど、ならないんですよね。
ピーター:そもそもこれだけ地震の多い国に、50基以上もの原発を作ったということに驚きますね。イギリス人はケチだから使ってない電気は消せと口うるさく言うんですけど、それくらいなもので、いつも使ってる電気機器の待機電力がもったいないからといってコンセントを抜くこともしてないから、あまり人のことは言えないんですけどね。でも個人の節電には限界があるから、圧倒的に企業の節電が必要ですね。
−−会社も電車も冷房が効き過ぎてて、外との温度差が大きすぎますよね。なぜあそこまでなぜ冷やすのかと。
ピーター:結局ビジネスマンがみんなスーツを着ているから、という話になるんですけど、ビジネスマンがなぜスーツを着ているかというと、アメリカやヨーロッパの人と同じ格好じゃなきゃ恥ずかしいと思ってるからですよね。
−−おかしいですよね。ここは東南アジアなんですから。西日本の夏なんか、タイとかマレーシア、ベトナムくらいの気温と湿度になるし、そっちにファッションを合わせるべきですよね。
ピーター:そうなんですよね。だからクールビズはまだ中途半端。この国はアジアなんだと理解してもらわないと。
−−それを無理矢理冷やして電力不足だ電力不足だと言うし、中部電力が原発を止めたら2,500億かかると言ったら、誰もなにもその金額については検証もせずに、誰が負担するんだみたいな話になるわけじゃないですか?
ピーター:その金額をどうやって算出したのかということは、誰も何も言ってないですしね。
−−おまけに電力会社の非常な高給とか、企業年金とか、豪華な保養施設とか、そういう部分についての深い議論も経ず、電力不足なんだから電気料金値上げもやむなしというような。日本のマスメディアってなんなんだと思いますね。原発に対してそこまでの意識を持っていたわけではないですけど、今回ほど政府やメディアがいかにインチキなのかということが身にしみてわかった例はないですね。
ピーター:政府も東電も最初はアメリカの専門家チームを受け入れようとしなかった。 結局来たけれども、福島に行ったら東電から提供された情報があまりにも穴だらけだからアメリカ側はかんかんに怒ってしまったんですよ。結局彼らに対して正しい情報を出さざるをえなくて、出したら今度は国内にも出さないと都合の悪いことになってしまった。それで、海の汚染で韓国と中国が怒り出したし、輸入規制も始めましたよね。
−−アメリカは空母まで出して独自に調査してるのに、空母が帰ったとか、手伝わなかったとか日本のメディアは言う。YouTubeとかで海外の原子力委員会とかそういう人のインタビューを見ると、3号機の爆発は、日本では水素爆発とか言われているものも、あれは核爆発だとはっきりと言っている。だから、1号機が爆発したときの、単なる水蒸気の爆発とは全く違うでしょと。そのときに放射能物質が飛んで、アラスカやハワイや世界中で検出されているのにも関わらずです。
ピーター:しかも、土壌にプルトニウムも検出されましたよね。日本の国民の大部分はそれをわかってないと思う。
−−現実にセシウムとかに関しては東京にも、ものすごい高い濃度で飛んでるらしいんですよ。4月の頭から半月くらい、東京都内の小学校で季節外れのインフルエンザが大流行して多くの学校で学級閉鎖になった。それはなぜかと言うと、放射性物質を吸うと子供は免疫が下がっちゃうからだと。放射能の初期症状で、チェルノブイリでも同じことが起こったんだそうです。
ピーター:福島原発の20キロ圏内が立ち入り禁止区域になっているじゃないですか? そこに住んでいた人が一時帰宅したら、その大部分は頭痛になったという話ですよね。2時間くらいしかいなかったんですよね?
−−あれだって、”あなたの意志で勝手に帰るんだからね”という念書を書かせて行かせてるわけで。
ピーター:責任逃れですよね。本当に酷いですよね。
−−イギリスからピーターさんの安否を心配するメールや電話はきましたか?
ピーター:いっぱいきましたよ。
−−ご両親やご兄弟から帰ってこいと言われなかったんですか?
ピーター:両親は帰ってこいとは言わないですけど、家に泊まれと言ってくれる友達が何人もいました。でも、僕は37年ずっと東京で仕事してるから、東京を離れたら仕事はない。だからよっぽどのことがなければ、東京を離れませんよ。でも、最悪の場合はね。生きるか死ぬかという問題になったら仕事がなくても生きる方を選びますね(笑)。
−−お子さんは海外にいるんですよね?
ピーター:息子はアメリカにいて、娘もイギリスの大学にいるから不幸中の幸いというか、さすがによかったと思いました。
−−海外の知り合いが多い人にはそういう連絡が沢山きていて、日本とは全く危機感が違うんですよね。飯舘村とかの20ミリシーベルトというのは、この間まで原発従事者が1年間に浴びていい放射線量だったのに、小さな子供にもみんなに当てはめようとしている。これは、値から言うと、間違いなく10人に1人はガンになる確率の放射能の量なんですよ。そのくらい強力なんですよね。それをまず、原子力事業の従事者は20ミリシーベルトをいきなり100ミリシーベルトに上げて、それじゃ足りないから250に上げて、今検討されているのは、250でも足りないから500にしようと。政治家たちが福島に行くときは、防護服に防護マスクをしていくわけですよね? 政治家も東電もメディアの人たちも、自分の子供を本当に福島に住まわせることが出来るのか。でも飯舘村とかの子どもたちはマスクも付けずに出歩いているわけですよ。これはあまりにもひどいですよ。とにかく、一刻も早くこの国の全ての原子炉を止めてほしいですね。
ピーター:それと、マスメディアの人たちにも、頼むから本当のことを伝えなさいと言いたいですね。
−−今回は日本の悪いところがたくさん出てしまいましたね。
ピーター:そうですね。昔から日本に対していつも心配に思ってたのは、お上を仰ぎすぎること。要するに自分で物事を考えない人が多いと思う。日本の教育を見ていると驚きますね。小学校に入って真っ先にやらされることが”前へならえ”。あれはなんの意味もないですよね。海外から来た人は「何でこんなことするの?」と思う。日本人は、小学校に入るとそれをやることが当たり前になってるから、あえて考えない、ということだと思う。そういうことで、小さい頃から管理しやすくなるように仕込まれている部分があって、授業でも先生の言うことをただ聞いて、ノートを取っていれば試験にちゃんと合格できる詰め込み教育。こうなったのは、70年代くらいからだと思いますけど。僕の学生時代のイギリスもそれに近い教育だったかもしれない。でも西洋もだいぶ変わりましたね。今は小さいときから子どもたちに考えさせて、「どう思う?」と聞くと全員手が上がりますね。
−−アメリカもそういう国ですよね。
ピーター:アメリカは特にそうですね。日本の子どもたちは自分の意見を言う練習を学校に通ってる間に全然させてもらってない。最近は、企業でイニシアチブを発揮できる人が特に求められているんですけど、いきなり社会人になって、それができるかと言ったらすごく無理がある。だから、もっと前から能力を育んであげないと。
−−これは日本人だけではないのかもしれないですが、日本人は、個人の意見と集団の建前がまるっきり別で、個人的にはいい人だったり、思慮深い人でも、組織の一員となった瞬間に、組織の建前でしか物事を言えなくなる。本当のことを言うと、いわゆる村八分というか組織から出て行かざるをえない。政府もそうだと思う。メディアもそう。一人で違う意見を言い出すことがなかなかできないんですよね。
ピーター:ラジオネームという習慣があるんですけど、僕の番組では匿名希望は尊重しますが、一切ラジオネームは使わない。みんなラジオネームを当たり前に使ってますけど、自分の名前を使わないと何でも言えちゃう。mixiもそうだし2chもそうだし、Twitterもある程度そういうことだと思うんですね。最近僕はFacebookを好んで使ってるけど、Facebookは逆ですよね。少しずつ日本人でもFacebookを使う人が増えてきているけど、まだまだTwitterに比べたら1/10くらいだと思う。
−−実名を出すことの抵抗感でFacebookの浸透が日本では遅れてはいますが、だんだん日本人も実名を出すのに抵抗感がなくなりつつあると思うんですけどね。
ピーター:みんなそれぞれ意見を言い合う環境に慣れてくれば、少しは変わってくるかもしれないですね。
−−Facebookが欧米で爆発的に浸透したのは、実名を出して発言することに慣れている背景があったからだったんですね。
ピーター:そこが違うところですね。かといって、Twitterもすごく人気があるから、どっちもどっちなのかもしれないですが、先ほど言っていた通り、日本は企業に入ったら企業の名前をしょって行動するし発言するというふうになってしまう。少なくとも英語圏の人たちは、企業に入っても、あくまでも一個人だから意識の持ち方は違いますね。そういう意味では日本は一番暮らしにくいのかもしれません。
−−日本では、終身雇用とか、年功序列とか、そういうしがらみもあって、本当のことを言うと損するというのが、国民全体の暗黙の合意ですよね。人から雇われてないとか、誰の世話にもなっていなければ言いたいことも言えますけど、会社から給料をもらってる立場だったら言えないと思う。東京電力にも、中部電力にも絶対やばい、と思ってる人はいるはずですけど、内部からは絶対出てこないですよね。
ピーター:だってモンゴルに最終処理場を作るなんて酷い話ですよね。原発作ってやるけどその代わりに…という考えがあり得ない。
−−外交政策を含めて日本という国への信頼がなくなってますね。よく考えたら、尖閣諸島の問題だって個人が告発しただけで、政府はうやむやにしようとしてましたし、今までも無数に繰り返されてきたことが、今はネットの時代になって、初めて日本人も自分たちの愚かさに気づき始めたんだと思います。でも残念なことに、農業を営んでる中高年の方はネットでYouTubeの情報とかTwitterの情報が全く得られてない。お上から発表されるインチキとまでは言わないが、操作された情報だけを当てにしているわけですよね。
ピーター:ただ、小さいお子さんのいる福島県民のほとんどは騙されてることに気づいていると思う。かなり多くの人たちが、政府は信頼できないと思ったんじゃないかな。菅首相が浜岡原発を停止するという行動に出たのは、そういう不信感が高まった影響もあると思いますよ。次の選挙で完全に信頼を失わないためにも、今度こそ誠意を見せないとだめですよね。
−−他の原発は止めないというのは納得いかないですけどね。
ピーター:すぐに全部止めたら、あまりにも反発が大き過ぎてできないのかもしれないけど、恐らく止まることになるんじゃないでしょうか。希望的観測ですが。
−−今思えば計画停電なんてデモンストレーションですよね。原発が止まったらどういうことになるのかを思い知らせるための。明日から停電と言っていたのに、「大丈夫になりました。今年の夏場もなんとか乗り切れそうです」と。隠してた電力はどこからきたんですかということですよね。本当にインチキな国だなと。日本人に生まれたことがこれほど情けないと思ったことはないですね。
ピーター:8月の中頃の午後2時から3時が電力使用のピークらしいですね。そのときだけあまり電気を使わなければ、後はかろうじて原発なしで電力がまかなえるらしいですから。あとはある程度みんなが節電すれば。
−−こんなにたくさん家があるんだし、ビルやマンションの屋上も広いんだし、一軒一軒太陽光パネルつければいいんですよね。もちろんコストの問題はありますが。送電から発電から全ての権利を電力会社が地域独占しているという根本的な問題から手をつけていかないと、簡単には自然エネルギーが普及していかないと思います。
2. ポップミュージックが花開いた60年代
−−ここからは通常のリレーインタビューに戻ります。まず前回ご出演していただいたモーガン・フィッシャーさんとのご関係は?
ピーター:日本に住むイギリス人で、お互い音楽に関係しているというのが一番大きな繋がりですね。モット・ザ・フープルというバンドは、もちろん知ってたんですけど、彼がキーボードプレーヤーだったということは、当時は知らなかったかもしれません。モーガンが月に1回スーパー・デラックスでやっている「Morgan’s Organ」の知らせをEメールで受けていて、それをたまに番組で紹介したり、彼が作っていた「ミニチュアーズ」も昔番組で紹介したことがありました。
−−ピーターさんは、1951年にロンドンでお生まれになったんですよね。当時はどんな家庭環境だったんですか?
ピーター:僕が覚えているのは小学校の半ばくらいからです。生まれた頃は、家族3人で一部屋のスラムに近いようなところに住んでいたらしいですね。親父はユダヤ系のポーランド人で、戦争が終わってしばらくイタリアの大学に通って、’47年にイギリスに来たので、まだかなり貧しかったと思います。でも一所懸命働く人だから、そのうち郊外に小さな家を買うことができたんですね。
−−お父さんは何の仕事をしてたんですか?
ピーター:最初はペンキを作ってる会社にいて、その会社がディスティラーズという大きな企業に買収されました。そこは蒸留酒もいっぱい造っていたし、科学物質や薬も作ってましたね。父はプラスチックなどの輸出関係の仕事をしていました。担当はイタリアとか中央ヨーロッパだったと思います。チェコとかオーストリアとか、ポーランドなどにしょっちゅう出張に行っていました。その会社がBPに買収されて、最終的にはBPの社員になったんです。 母はイギリス生まれのイギリス人とビルマ(現:ミャンマー)人のハーフ。両親がイギリス人ではないから、どこかちょっと普通の家庭とは違ってたんでしょうけど、僕はロンドンで生まれてロンドンで育ったし、周りの子どもたちもだいたいイギリス人なので、感覚的には完璧なロンドン人ですね。ただ、やっぱり若干違いはありましたね。例えば、うちの母は、子供の頃11年間ビルマで過ごしたので、日本と同じように土足のまま家にあがらないでスリッパに履き替えていました。ビルマもそういう国だったので。だから子供のときから家でスリッパを履くのは当たり前でした。
−−ご兄弟はいらっしゃいますか?
ピーター:3歳下の弟がいて、彼はギタリストです。僕が日本に来たのとほぼ同じ時期にアメリカに移住して、それからずっと向こうです。このところずっとL.A.にいますね。ギタリストといっても有名なわけじゃなくて、ほとんど人のバックでライブ活動をしてることが多いですが。
−−家庭の中には、今の仕事に繋がるようなことはありましたか?
ピーター:まず、ビートルズですね。両親はもともと音楽が好きだったんですけど、親父はクラシック一辺倒。子供の頃はクラシックが全然面白いと思ってなくて、時々ストラヴィンスキーとか聴くから子供には理解しにくいこともありましたね。
−−お母様がビートルズ好きだったんですか?
ピーター:母はビートルズが好きになったんですけど、ビートルズが出てくるもうちょっと前に、家に初めてレコードプレーヤーがきたんです。確か僕が9歳のときですね。その頃はレコードの数なんて微々たるもので、エルヴィス・プレスリーやバディ・ホリーのベスト盤がありました。あと、レイ・チャールズとベティ・カーターのデュエットのアルバムがあったり、ルイ・アームストロングとエラ・フィッツジェラルドのデュエットのアルバムがあったり、ビリー・ホリデイのアルバムも何枚かありました。なぜかかなり渋い黒人のヴォーカルが好きだったんですね。それが僕の音楽の好みに、無意識のうちにかなり影響を与えてると思います。とくにビリー・ホリデイがめちゃめちゃ好きですから。これも一種の刷り込みですよね。いい刷り込みですけど(笑)。
−−(笑)。でも、ポップミュージックが花開いたのは60年代ですよね。
ピーター:僕が11歳のときにビートルズがデビューしましたからね。地元だし、いきなりテレビ、ラジオ、雑誌に毎週のように出るものだから、僕らの世代で嫌いな人はまずほとんどいないですし、ビートルズどころか、とにかくポピュラー音楽が我々の世代にとって一番の娯楽だったので、もうはまりまくりましたね(笑)。
−−ロンドンではストーンズ派とか、ビートルズ派とかはありましたか?
ピーター:多少はありましたね。でも日本ほどではなくて、だいたい両方好きだった人が多かったと思います。我が家ではとにかく弟がビートルズ崇拝型だったので、ビートルズのレコードが出ると、彼はまず買ってくる。それで、ストーンズは僕の担当になっていました(笑)。
−−担当が決まっていたんですね(笑)。
ピーター:それ以外のものはまちまちでした。
−−二人分のお小遣いが全部レコードに化けたんですね(笑)。
ピーター:それでも全然足りないから、15歳くらいから新聞配達のバイトして、それを全部レコード代に充てていました。
3. ユニオンの規制から海賊放送が誕生
−−イギリスではBBCや海賊放送など、ラジオはかなり聴いていたんですか?
ピーター:聴いてました。最初はBBCしかありませんでしたからね。「パイレーツ・ロック」っていう映画は見ましたか? 正にあれで、映画はマンガっぽい作りなんですけど、事情は全くあの通りです。海賊放送が放送される前には、ラジオ・ルクセンブルグという放送局があって、日中はフランス語放送してるんですけど、イギリス人の若者たちが、電波ではロックを聴けなくて飢えてるということを知っているから、夜になるとフランス語から英語に切り換えて、スポンサーをいっぱい取って英語放送してレコードをたくさん流していました。BBCは一日に2時間か3時間くらいしかレコードが流せなかったので。
−−どうして規制されていたんですか?
ピーター:ミュージシャンの組合ですね。放送でレコードばかりかけるとミュージシャンの仕事がなくなるということで、組合がBBCに規制を強いていたわけです。アメリカのユニオンも強いですよね。戦時中に何度もストをやってましたし。確か、レコード放送に反対して、2年くらいレコーディングも禁止しましたよね。
−−今でもユニオンが強かったらインターネット配信なんてすぐ止められちゃいますね(笑)。
ピーター:(笑)。今はもう無理ですね。でも結局、ビートルズのBBCセッションズのCDがありますよね? 2枚組の。ああいうものがなぜ存在するかと言ったら、ビートルズが出てくるあたりまでレコードをかけられないときは、BBCの抱えているオーケストラ、軽音楽楽団みたいなのが、そのとき流行っている曲を彼らの編曲で、生で聴かせるんです。でも、ビートルズのような自作自演グループが出てくると、本人たちがスタジオに来て自分たちの曲を自分で演奏するようになったんですね。後にああいうCDや、ジョン・ピールの「ジョン・ピール・セッション」が無数にあったのも全部そのせいです。
−−音源ができるからいいカタログになったんですね。
ピーター:なので、ラジオ・ルクセンブルグのおかげでいい思いをして、海賊放送のおかげでもっといい思いをしていました(笑)。
−−音楽以外に打ち込んだものはあったんですか? スポーツとか女の子とか(笑)。
ピーター:僕はわりと奥手だったので女の子に力を注ぐようになったのはもうちょっと後ですね(笑)。
−−クラブとかライブハウスには行ってましたか?
ピーター:基本的にクラブはお酒を出してるから、イギリスだと18歳以上じゃないと入れないんです。それでも「マーキークラブ」っていうライブハウスは入れてくれましたね。マーキーによく行くようになったのは15歳くらいからかな。ただ、学校があるときは、翌日早いからあんまり夜遅くまではいませんよ。親がよく行かせてくれてたと思うくらいちょこちょこ行ってましたね。うちの親は放任主義っていうほどでもないし、うるさいときはうるさいですが、割とやりたいことやらせてくれましたね。
−−ロンドンはライブハウスが多かったんですか?
ピーター:今ほど多くはないんですけど、「ハンドレッドクラブ」とか、ジャズクラブだと、「ロニー・スコッツ」が有名で、あとは、フォーククラブで「レズ・カズンズ」、「バンジーズ」だとか、ジャンルに分かれていくつかありましたね。あとロンドンの郊外にもいくつかライブハウスがあって、60年代後半くらいになると、パッケージショウと言って、2千人から3千人くらいのキャパの映画館や大きな会場で、5〜6バンドが次々に20分ずつ演奏していくショウがありました。「ハマースミス・オデオン」とかもコンサート会場になっちゃったんですけど、本当は映画館だったし、「レインボー・シアター」も3千人以上入るばかでかい映画館だったんですよ。
−−映画が一大娯楽だったところにポップミュージックが入っていったわけですね。
ピーター:大きなショウがあると、1時間半くらいの間に5〜6バンドくらい出演するから、最初のバンドは15分くらいしか演奏時間がなくて、最後にビートルズが出てきても30分やったかな? というくらいだったと思います。
−−ビートルズのライブは生で観たんですか?
ピーター:僕が12歳の時に、今言ったレインボー・シアターがフィンズバリ・パーク・アストーリアという名前の映画館だった頃に観に行きましたよ。家からバス一本で行けたので。「ビートルズ クリスマスショウ」といって、2週間くらい毎日コンサートをやっていました。ブライアン・エプスタインの事務所に所属している他のタレントもいくつか出演してましたね。あの会場ではビートルズの他にストーンズもそうだし、キンクスも観ました。チャック・ベリーも観ましたね。あの会場はロンドンの一番大きな会場の1つだったから色々やってたんですよね。ちょうど僕らが中学生くらいの頃の話だからチケットも安かったんですよ。
−−当時の日本ではロックミュージックは不良というイメージで世間から見られていましたが、ロンドンではそうでもなかったんですか?
ピーター:そうでもないですね。ビートルズが出てきたときは、「髪が長い」ということで大人たちが眉間にしわを寄せることもあったけど、そんなのすぐになくなって、特にビートルズの場合は、みんな憎めない性格してますからね。本当はストーンズよりよっぽどパンクな性格なんですけど、ストーンズはアンドルー・オールダムとかマネジャーのイメージ作りが上手でしたね。
4. 当時は超マイナーだった日本語を学ぶためにロンドン大学へ
−−ピーターさんは大学で日本語を専攻したんですよね。当時は相当珍しかったんじゃないですか?
ピーター:そうですね。僕は’69年に大学に入ったんですけど、あの頃イギリスでは日本という国を今ほど認識していなかった時代なので、日本語を選んだときは、うちの父の親戚連中が「あいつちょっと頭おかしいんじゃないの?」って思ってたくらいです。
−−日本語のクラスは当時何人くらい在籍していたんですか?
ピーター:15人です。当時のイギリスの大学で、日本語が学べるのは4ヶ所しかありませんでした。僕はロンドン大学に行ったんですけど、あとはオクスフッドとケインブリッジとシェフィールド、この4ヶ所だけだったんですね。当時のロンドン大学では定員が15名。それで、僕が入った年に初めて定員が埋まったんです。それまでは7人だったり8人だったり、少ない年だったら3人くらいというときもあったらしいですね。
−−すごくマイナーな言語だったんですね。
ピーター:それでも一応大学の中で独立した学科だったんですよ。オクスフッドでもケインブリッジでも、当時は中国語学部の中の日本語学科でしかなかったらしいので。要するに東アジアは中国がメインで日本語はその中の1部という認識だったようです。ただ、4年後に僕が卒業すると「頭おかしいんじゃないか」って言っていた親戚連中は「先見の目があったね」と言うようになったくらい、4年間の間に日本の見方が急に変わりました。
−−日本が経済成長したということですか?
ピーター:そうですね。でも僕には全然そういった意識はなくて、音楽ばかりで経済のことなんか意識してない若者だったから、自分でもびっくりしたくらいです。
−−ちなみに年に何回くらいイギリスに帰っているんですか?
ピーター:母が87歳なので必ず年に1回は顔を見に帰っていますが、特に今はInterFMでレギュラー番組をやってるので休みは一度に1週間しか取れないし、年間通して2週間しか休めないので。放送は一番好きな仕事だけど、休めないのが一番のマイナス点ですね。
−−イギリスの若者は卒業が近づくと日本と同じように就職を意識したりするんですか?
ピーター:今は多少そうなってきましたね。うちの娘は今2年生なんですけど、周りの友達が今年の夏休みにインターンをする人が多いんだそうです。それが南米とか、アジアとか、アフリカとか、けっこう冒険的な子がいるなと思って。うちの娘は僕に似たのか就職的な意識がなくて、フジロックで通訳するとかその程度のものなんですけど。
−−もちろんバイリンガルなんですよね?
ピーター:一応ですよ。完全なバイリンガルは、僕が思ってた以上に難しくて、インターナショナルスクールに行くと、授業の9割が英語だから読む本も英語なんですよね。家で日本語で話したり、テレビを見たりする環境にいれば、もちろん日本語の日常会話は何も問題ないんですけど、読んでませんからね。漢字もちゃんと学校で習ってるんですけど、難しい言葉の理解度はやっぱり落ちるし、読解力も落ちる。英語の方が強いですね。
−−家ではどちらで話していたんですか?
ピーター:夫婦は日本語、母と子供は日本語、父と子供は英語、子供同士は英語メインで日本語とちゃんぽんですね。
−−複雑ですね(笑)。
ピーター:家ではそれで慣れるからなんとも思わないんですけど、知らない人が家に来たら「いったいどうなってるんだ?」と思うでしょうね(笑)。
−−ピーターさんは相当勉強されたということですよね。生まれながらのバイリンガルのご家庭に生まれた子より上手なんじゃないですか?
ピーター:微妙なところですね。難しい言葉は彼らより知ってるかもしれないですけど、例えばFacebookをやっていて、英語の書き込みと日本語の書き込みがあった場合、やっぱり英語のほうが先に目がいきますね。日本語の長い書き込みは面倒くさい。読むのに時間がかかるし、集中しないといけないので。英語だと斜め読みできるから、未だにそういう違いはあります。日本語の本は読むんですけど、やっぱり時間がかかりますね。
−−でも、同じように日本で生活していてもそれほど上手にはならない人も多いですよ。
ピーター:僕は大学で勉強していましたから。それは大きいです。日本に来たその日から漢字の看板も読めましたからね。ほっとしたんですよね、そのときの安心感たるやなかったです。
−−日本語学科に入るのは難しいことだったんですか?
ピーター:僕が入ったときは難しくなかったです。イギリスの入試のシステムは、オクスフッドとケインブリッジだけは別になってるんですけど、他の大学は全部公立になっていて、願書が全部共通なんですね。一枚の願書に第6希望まで行きたい大学と学部を書いて、それぞれの大学から面接の日程の手紙がくる。日本のセンター試験と同じようなものかな? 高校卒業試験のようなものがあって、「Aレベル」というんですけど、「○科目でこれだけの成績を取ってくれれば大丈夫ですよ」という通知がくるんですよ。僕の場合は、2科目で”B”1つと”C”1つでOKというのがきたんですね。それでびっくりしたんです。「Aレベル」はかなり難しい試験だから3科目は取るんだけど、競争率の高い大学、例えばオクスフッドで英語を学ぼうと思ったら3科目で全部”A”、下手をすれば+αを要求されるかもしれない。”B”1つと”C”1つだったので、日本語って楽なんだと思ったくらいです(笑)。今はもうちょっと難しいかもしれないですけどね。
−−そこからラッキーな人生は始まっているんですね(笑)。
ピーター:そうかもしれないですね(笑)。僕は勉強ができなかったわけではないんですけど、好きではなかったので。
−−日本語で仕事ができるなんてものすごい勉強されたんだと思いますよ。大学では4年間日本語だけを勉強するんですよね?
ピーター:その代わり他の勉強はしませんから。日本語だけです。
−−日本だと大学入ってからも「教養」とかやらされますからね。
ピーター:でもどちらがいいのかはわからないですね。
−−では、日本語を勉強している以外はずっと音楽漬けだったんですか?
ピーター:そうですね。ずっと音楽聴いたり、映画見に行ったりとかですね。すごく楽しかった。ただ授業は楽なわけじゃじゃないので、漢字の勉強は一気に時間かけてやって、週の3日くらい遊んでいられるようにしていました。漢字のテストは毎週あったので、気を緩めるわけにはいかなかったですね。だから、卒業する頃にはもう一生漢字を見なくてもいいってくらいの拒絶反応が一度起きて、日本に行くなんてとんでもないと思ってました(笑)。
5. シンコーミュージックへ入社
−−大学を卒業後、なぜレコードショップで働くことにしたんですか?
ピーター:特に率先してレコードショップで働きたいと思ったわけではなくて、音楽関係の仕事だったら何でもいいと思っていたんです。でも、コネもないし、レコード会社に入れるわけでもないし。2〜3社レコード会社に手紙を出したんですけど、印刷されたお断りの手紙が返ってきただけでしたから、「これは難しいな」と思って。
−−イギリスでもレコード会社に入るのは難しいんですね。
ピーター:今はそこまででもないかも知れないけど、当時は花形商売でしたからね。音楽関係だったらなんでもいいと思って。当時夕刊新聞の後ろ半分が全部求人広告で、何か音楽関係の仕事はないかなと思って見ていて。そしたらレコード店の求人があったので電話して面接行ったら「来週からきて」と言われたんです。
−−家から近いレコードショップだったんですか?
ピーター:そうでもないです。家が北ロンドンで、レコード店は西ロンドンのあたりでしたから、結局部屋を借りることにして。イギリスは交通費が出ませんからね。
−−大きなレコードショップでしたか?
ピーター:いえ、小さな店で、規模で言うとインディーズ系のレコード店くらいですね。ただ一応チェーン店で7店舗ありました。それぞれの店長の好みで仕入れをしていて。僕が入ったときは、店長ともう一人いて、僕が一番下っ端だったんですけど、スタッフの交代が早かったから、4ヶ月くらいで店長になってしまいました。そしたらつまらないレコードがいっぱいあったので棚卸しのときに全部返品して、自分の好きなレコードを入れたら、これで多少失敗しました(笑)。毎週セイルズマンが来て、新しいアルバムとかシングルとか持ってくるから、聴いてから何枚取るかを決めるんですけど、一番よく覚えているのは、スパークスがアイランド・レコードから出したレコードがあって、その中のシングルカットをアイランドの人が持ってきたんですけど、聴いて「これは2枚くらいでいいや」って言ったら、「後悔しますよ、これは必ずヒットするから」って言うんですよね。「じゃあ5枚」って5枚取ったんですけど、発売日になったらそれ以上のお客さんが来たからびっくりして、「失敗した!自分の好みでやっちゃ駄目だな」と思ったんですね(笑)。
−−(笑)。
ピーター:でも、それでけっこうわかったんですね。例えばロキシー・ミュージックの新作が出ると、うちの店だけでまず50枚取って、それが必ず1週間で売れるから、その次にまた50枚取って。
−−レコード会社とショップの関係は日本と同じですか? いわゆる委託で取引するんでしょうか?
ピーター:日本のように基本的に返品できるわけではないですね。「now」シリーズみたいな最近のヒット曲ばっかり20曲くらい入っていて安いアルバムが、イギリスにも70年代の始めくらいからけっこうあって、それは例外でした。ああいうのは一箱単位でしか売ってないから最低25枚。ただ売れない分は全部返品できるんですけど、テレビで宣伝するもんだからすごく売れる。ああいうのは必ず置いていましたね。うちの店はアールズコートという場所にあって、空港からのターミナル行きのバスが来るところだから旅行者とか学生が多かったんですね。新しいもの好きが多い町だったから輸入盤とか、ちょっと面白いレコードを置くと、それがバンバン売れました。特に店内で流すと売れましたね。
−−その当時は日本のレコードは当然なかったんですよね?
ピーター:サディスティック・ミカ・バンドが一枚あったかな…。
−−そのレコードショップでどれくらい働いていたんですか?
ピーター:一年足らずです。
−−それからシンコーミュージックに行ったわけですね。
ピーター:「Music Week」という業界紙の後ろに求人欄が必ずあって、ちょうど仕事に飽きたときに、一緒に働いてるやつがその広告を見て「おい、君を呼んでるぞ」って言ったんです(笑)。
−−(笑)。日本の出版社とか音楽関係の企業が「Music Week」に求人広告を出すのはめずらしいことですよね。
ピーター:その当時は珍しかったですね。イギリスとかアメリカの音楽出版社との手紙のやり取りが沢山あるから、英語のビジネスレターが満足に書けるスタッフが絶対に欠かせない、ということで求人が出てたんですけど、それに気づいた草野昌一さん(元シンコーミュージック・エンタテイメント会長)が偉かったと思います。あの仕事を始めてからわかったんですけど、イギリスの出版社連中から、手紙の返事をもらうことが、いかにありがたいことだったかを聞いてびっくりしました。他の日本の出版社に手紙を出しても、だいたい返事はこない。英語力に自信のない人は後回しにして結局出さない。悪気はないんですけどね。それが今ひとつ信用できないという印象を与えてしまうことに気づいてなかったと思う。シンコーミュージックは、そういうことでずいぶん信頼を稼ぐごとができたと思います。
−−そういうポジションで入ったのはピーターさんが最初だったんですか?
ピーター:いえ、ぼくの前に若いアメリカ人が一人いたらしいんですけど、その人は日本語が全くできない人で、半年くらい経って、周りの人とのコミュニケーションが取れないから、半分ノイローゼになってアメリカに帰ってしまったんだそうです。その人の後釜みたいな感じで、今度はアメリカじゃなくてイギリスに求人を出したわけですね。僕は日本語を勉強してたから、それが少しメリットになるかと思ったんですけど、面接の後に、「まだ採用するかわからないけど、採用するとしたら、あなたが日本語ができるということは全く関係ないということは言っておくね」と言われたんです。要するに、こちらが求めているのは英語のできる人間だと。そう言われたときに「だったら僕より音楽業界の経験がありそうな人がいるから難しいかな」と思ったんですね。
−−その求人には希望者が殺到していたんですか?
ピーター:最初の面接に行ったときは10〜12人くらいだったと思います。日本語の知識を前提にしていない求人でしたから。ただ、それに関してはシンコーミュージックの認識はすごく甘かったと思う。前任の人がノイローゼで帰ったというのもそうだし、日本語を日本に来てから覚えるというのは、普通の日常会話レベルだったら1〜2年あればできると思うけど、読み書きができなければ仕事になりませんからね。
−−でも、最終的にピーターさんを採用しましたからね。シンコーもそのあたりのことは考えたんじゃないでしょうか。当時シンコーに行ったらピーターさんが座っていて、なんで日本に来て間もないのにこんなに日本語が上手いんだ? と思ってびっくりしましたよ。
ピーター:そうかぁ(笑)。
6. 奥さんと運命の出会い!
−−日本に来てから何かカルチャーショックはありましたか?
ピーター:カルチャーショックというか、何もかも違いますからね。日本語学科を出ていたとしても、日本のことは詳しく知りませんし。
−−そのとき初めて日本に来られたんですよね?
ピーター:そうですね。初めてでしたし、情報もそんなにないから新鮮でした。何もかも全部ポジティブというわけじゃないけど、一人旅が好きで、学生時代にヨーロッパ内はあちこち行ってたし、意外に新しい環境に順応しやすいタイプだと思う。そういう意味ではやりやすい面も多かったと思いますね。
−−でも、イギリスからヨーロッパに行くのと日本まで来るのはだいぶ違いますよね(笑)。
ピーター:でも、言葉が全くわからないわけじゃなかったので。東京の人は機関銃のように早口だから、ちゃんと理解するにはしばらく時間がかかりましたけど、そのことに悩みはしなかったかな。
−−僕が見る限り楽しそうでしたよ(笑)。
ピーター:(笑)。シンコーの中にも英語ができる人が何人かいたから、彼らは一所懸命英語で話しかけてくれたんですけど、こっちはとにかく努力して、できるだけ日本語でコミュニケーションを取れるようにして。それで夜家に帰ると、集中力がすごく要求されるもんだからぐったり疲れるんですよね。当時FENで平日の夜8時から9時の枠で、昔の海外ラジオドラマの再放送をやってたんですね。それを聞いてほっとしてました(笑)。英語環境に浸れる1時間。
−−(笑)。でもやっぱり面白かったんじゃないでしょうか?
ピーター:面白かったですね。冒険的な部分もあったし、新鮮でした。最初の1年は、とにかく新しいことずくめでしたから。
−−東京の街の印象はいかがでしたか?
ピーター:人が多いことにびっくりしましたね。日曜日に新宿の歩行者天国に行ったんですけど、もうパニックになっちゃって。一ヶ所にあれだけの人がいたので逃げ腰になりました(笑)。しばらく新宿駅でも迷子になってましたし(笑)。
−−食べ物はすぐに慣れましたか?
ピーター:僕は匂いに対してちょっと敏感かもしれないんですけど、大根の臭いが耐えられない。会社の人たちとお昼に行くと、焼き魚の横に大根おろしが付いていてあれは辛かったですね。あと、漬け物の臭いもだめで、デパートの食品売場は地下にあるじゃないですか? デパートの入り口に入ったとたんに地下に行く階段があったりするからきつくて呼吸しないようにしてます。だから、たくあんはダブルでお手上げ(笑)。他にも色々あるけどそのへんが特に苦手ですね。
−−(笑)。納豆はどうですか?
ピーター: あれは食べ物じゃないですから(笑)。
−−(笑)。シンコーで奥さんと出会ってるんですよね?
ピーター:そうですね。彼女は僕より2年くらい後に入ってきて、1年くらい経ったあたりでヤング・ギターの編集部に入ったんですけど。
−−会社の中でもアイドル的存在でしたよね。奥さんは日本にきて初めてのガールフレンドだったんですか?
ピーター:そういうわけではないんですけど、長く続いたのは彼女が初めてでしたね。なぜかイギリスでも日本でも長くて2ヶ月くらいしか続かなかったので。
−−早いですね(笑)。どこがうまくいった理由だと思いますか?
ピーター:なんでしょうね…。自然に長く続いたんですよね。ずいぶん後になって、四柱推命で二人の生まれた星を分析してもらったら”兄弟星”と言われて、ものすごく相性がいいらしいんですね。それが関係しているのかどうかはわからないんですけど、一緒にいて楽というのはとにかく昔からありますね。
−−イギリスから来たときには、日本人の奥さんをもらおうとか、そういうことは考えていたんですか?
ピーター:考えていませんでしたね。両親が離婚しているんですけど、子供の頃はケンカばっかりしていて、そのあとは家庭内別居をしている時期が長かったから、結婚そのものに対する不信感があった。彼女とは一緒に暮らしてたけど、駄目なときは簡単に別れられた方がいいかなとずっと思ってました。最終的には僕の責任逃れかなと思って結婚したんですけど。
−−それは日本に来てどれくらい経ってからですか?
ピーター:付き合いだしたのは日本に来て3年経ってからですね。ただ、彼女は僕と一緒になるもっと前から語学留学をするのが夢で、3年くらい付き合ったときに突然留学したいって言い出したんです。最初は猛反対したんですけど、どうしても留学したいと言うから、行かせるしかないだろうと思いました。最悪の場合、留学している間に彼女に別の男ができたり、あるいは、僕に他の相手ができたら別れるしかないだろう、という覚悟を決めて彼女は行ったんですけど、1年経って帰ってきたら、まだ二人ともそのままだったから結婚することにしました。
7. YMOの海外コ−ディネ−ションを担当
−−シンコーをお辞めになるきっかけはなんだったんですか?
ピーター:僕はイギリス人だし、個人が自分の意見を言うのが当たり前の世界でずっと育ってきてるので、仕事場でも思ったことをいつもぽんぽん言ってたんですけど、それじゃあ日本の企業ではうまくいかない。一部ではあまり評判が良くなかったらしいですね。でもこれはすぐに大きな問題になったわけではなく、シンコーが、新たらしくマーチャンダイジングの部所を作って、社長自ら僕にそのマーチャンダイジングを担当して欲しいと言ってきたんですね。僕はそれを断ったんです。音楽が好きで音楽の仕事をしたいから、ということで。でも、それはやっぱり言っちゃいけないことで、社長自らそう言われたならなおさらですね。そういうことがあったり、ほかにもいくつかありました。 僕が辞めたのは’80年の暮れですけど、’80年の春にFM東京のDJのオーディションに誘われて、番組に出ることになったんですね。アシスタントだけだったんですけど、シンコーにそのことを言ったら、「うちの会社は家族みたいなものだから、一人の社員がそういうふうに目立つのは良くない」と言われて。あと、これはバカなことやっちゃったんですけど、ニューミュージック・マガジンにレコード評を書いてくれないかと言われて、何も考えずに受けて、書いた後に、「もしかしてまずかったかな」と思って社長のところに行って事情を説明したら「ばかやろう!駄目に決まってるだろう!」って、すごい怒られました。それが堪忍袋の緒だったんじゃないかな。 当時、僕はビザを半年ごとに切り替えないといけなくて、切り替えの申請のときに会社からの手紙が必要だったんです。でも毎回半年ごとだと面倒くさいから、今度こそ1年のビザをもらおうと思って総務部長に言ったら渋い顔で断られたんですよ。それがショックでした。「それは1年後に僕がこの会社にいないかもしれない、ということですよね?」と聞いたらそう解釈されてもいいというような話しになってしまって、「これはもう辞めるしかないのか」と思って。でもビザも次の仕事が決まらないことには申請もできないからちょっと慌てていました。
−−その頃はまだ結婚してなかったんですか?
ピーター:彼女がイギリスに留学している最中で、まだ結婚していませんでした。それですごい慌ててたんですけど、タイミングの妙で、僕が一番最初に住んでたのが吉祥寺で、吉祥寺に芽瑠璃堂(めるりどう)というレコード店があったんですが、そこで働いていた後藤美孝君、後にパス・レコードを作った人ですけど、彼と仲がよかったんですね。あるとき彼から電話がかかってきて、「僕の友達がレコード作ることになってて、ロンドンでやるんだけど、一曲だけ英語の歌詞が必要だから、日本語を英語に訳してくれないか」と言われて引き受けたんですね。その友達というのが坂本龍一でした。その仕事を受けて、たまたま出張で彼らと同時期にロンドンに行って、帰ってきた後に坂本龍一のマネジャーから電話がかかってきて、会ったら「うちの事務所で働く気はないか」と言われて。ちょうどシンコーを辞めることが決まっていた時期でしたし、YMOの『増殖』というレコードが出て、ちょっと彼らに興味を持ち始めてた時期だったのと、同じ事務所に矢野顕子が所属してたり、わりと好きなミュージシャンが所属してたから、面白いかなと思ってその話を受けることにしました。 レコード店で働いていたときから、自分の趣味が商売に繋がらないという壁に何度もぶち当たってきたんです。本当にいいと思っている音楽を、レコード会社が必ずしも宣伝してくれるわけじゃないし、出版社の力じゃ何もできませんからね。こんなにいいレコードが誰にも気づかれずに終わってしまうということが本当に悲しいと思って、だんだん洋楽関係のこれまでやってきたような仕事に限界を感じていました。
−−坂本龍一さんの事務所というとヨロシタ・ミュージックですか?
ピーター:そうですね。僕が所属してたのは、ヨロシタ・ミュージックのマネジメントの方ですね。もう一つ、やのミュージックという出版会社があったんですけど、どちらかというと出版会社の仕事の方が多かったですね。
−−働いてみていかがでしたか?
ピーター:音楽的にも仕事の内容も面白かったです。実際にミュージシャンがレコードを作る現場に携わって、それがどういうものなのかを目の当たりにするのは初めてだったので、レコードを作ることが、いかに大変な作業かということがよくわかりました。だから、僕もレコード評とか書いていましたけど、たやすくそれを、特に批判することにすごく疑問が沸いてきたんです。だから僕は批評するのは向いてないと思って辞めました。それからは自分の本当にいいと思っているものだけを取り上げるようにしました。こんなことやってると、仕事がこなくなるのが普通だと思うんですけど、なぜかまだ仕事をさせてもらってる。だから時々不思議に思うくらいです。 最初にやっていたFM東京の番組が2年続いて、その後に矢野顕子がメインのDJで僕がアシスタントで「スタジオテクノポリス27」という夜中の3時からの番組があって、あまりにも深夜でほとんど聴いてる人がいないから、何でも好きなことを自由にやっていいっていう番組だったんです。いつもじゃないけどかなり型破りなことをしてましたから、それが深夜族に面白いと思われたらしくて。当時、TBSテレビの「ポッパーズMTV」っていうビデオ番組の企画を作っていた人も、この番組をよく聴いていてくれて、僕を司会にしたら面白いんじゃないかと思ってくれたようですが、番組の出演依頼がきました。その頃はテレビに出ようとは全く思ってなかったんですけど、番組の企画が面白そうだったから「駄目もとでやってみよう」と思ってその仕事を受けることにしました。結局あの番組に出たおかげで、放送の仕事だけで生計が立つようになって独り立ちできたんですね。
8. ターニングポイントになった「CBSドキュメント」
−−そこからCBSドキュメントに移行するわけですね。
ピーター:そうですね。あれも青天の霹靂でした。
−−ものすごい番組に出てきたと思いました(笑)。
ピーター:(笑)。あの番組で使うような語彙が当時のぼくにはなくて、最初はものすごく苦労しました。プロデューサーが言葉にうるさい人で、何度も何度もやり直しを命じられたし、最初の3〜4年はものすごく辛かったですね。
−−内容が音楽じゃなくて世界のことですからね。普通の人はCBSドキュメントでピーターさんを知った人が多いんじゃないでしょうか?
ピーター:そういう人は多いかもしれないですね。「あの人案外音楽のこともよく知ってるよね」なんて言われて(笑)。
−−(笑)。
ピーター:本当にテレビの力って大きいですね。最初CBSの話がきたときは、あまりにも自分がこれまでやってきた仕事と違うし、政治のことも経済のこともわからなかったから断ったんですよ。そしたらそのプロデューサーは、「とにかく素材を一度観てください。専門的な知識はいらない。あなたが音楽ビデオ番組でやってたような、映像を紹介しながら少し知性のある話をしてくれればいい」と。
−−その少し知性のある話が難しいんですよね(笑)。
ピーター:音楽についてだったら多少そういうことは言えるんですけどね。でも、あの番組のネタを観て、「これは面白い!」と思ったんです。仮に全然務まらなくてクビになったとしても、これを毎週観ることによってすごくためになると思って、やってみようと思ったんです。それからは試練の日々が始まったんですけどね(笑)。あの番組のおかげで今の自分がいる。自分が思っていることを、わかりやすく完結にちゃんと言えるようになったのはあの試練があったからこそですね。だからプロデューサーには頭が上がりません。恩人ですね。
−−CBSで世間に認知されたという感じがありましたからね。
ピーター:ただ、たまに「世界情勢についての講義をしてください」という依頼がくるんですけど、そこまではさすがに無理ですね(笑)。
−−放送により意識が向いたのはいつ頃からですか? 肩書きもブロードキャスターになっていますが。
ピーター:ブロードキャスターにしたのは仕方なくなんです。日本人にはわからないと言われ続けて20何年経ちますが、もともと肩書きは好きじゃないからDJと言ったり、音楽愛好家と言ったりしてたけど、ブロードキャスターとしか言いようがないから今でも使い続けてます。放送の仕事で生計を立てているという意味でしかないんですが。
−−そういう仕事にもともと憧れはあったんですか?
ピーター: 70年代にBBCのロンドンローカル局でやっていたチャーリー・ギレットという人がいて、今僕がやっているような感じの番組の型を作った人と言ってもいいかもしれない。音楽の好みがすごく似てるのと、普通のDJと違ってなんでも話すんじゃなくて、友達同士で語りかけるようなスタイルでものすごく大好きだったから、こんな形のDJが可能だったら僕もやりたいと思っていました。 それで自分のデモテープを作ったんですね。家でトーク部分をモノのテープレコーダーで録音したんですけど、レコードの部分はライン録音ができないから、友達のエンジニアがいるレコーディングスタジオにレコードを全部持って行って、トークの部分とつなぎ合わせてもらって一本化したんですね。それを10インチのリールに収めてもらって、BBCのRADIO LONDONの受付に持って行って預けたんです。それから日本に来る直前くらいだったと思うんですが、「10インチのリールでデモテープを持って行ったものですけど」って電話したら、「ごめんなさい。うちは聴く機械がないので、カセットテープで持ってきてもらえませんか?」って言われてしまって(笑)。
−−(笑)。でも、その漠然とした夢が日本で叶ったわけですよね。
ピーター:そうですね。そのときからやりたいという気持ちはあったんですけど、日本に来てラジオができるなんて全然考えていませんでしたから。
−−ピーターさんは内向的な印象でしたしね。
ピーター:そう、僕は自分を売り込むのが下手なんですよね。こういう仕事を長年しているから少しは良くなりましたけど、誰も知り合いのいないパーティーに行っても自分から「こんにちは」なんて声をかけられない。シャイというか、そういうところがありますね。
−−でも、いわゆるサラリーマンは務まらなかったわけですしね。
ピーター:あまり会社員向きじゃありませんでしたね(笑)。
−−今のポジションが天職といった感じですね。
ピーター:そうですね、そう言われたこともあります。
−−CMにも出演していますが、色々な仕事の依頼が来るんじゃないですか?
ピーター:それこそ大学の授業を持たないかと誘われたこともあるんですけど、正直かったるい。テスト問題も考えなきゃいけないし、それを採点しなきゃいけないし、そんなこと面倒臭くてやってられないですよ。ビデオかなにかを観せながら音楽の話をするならいいんですけど、そんなの年に何回かイベントでやればいいものですし。
−−自分の好きな音楽をかける番組をたくさんやっていますよね。
ピーター:バンバンやってます。NHKのFMで、80年代から番組の企画は何度も変わってますけど、NHKは一度信頼関係ができればとことん自由にやらせてくれるところですから。今やってる『Weekend Sunshine』という番組は、99年の春からスタートしたから今年で13年目に入りました。
−−おかげで旅行にはなかなか行けないんですよね(笑)。
ピーター:(笑)。それは週1回だからいいんですけど、InterFMの『BARAKAN MORNING』は決定的に束縛されますね。木曜日だけNHKでやってるテレビ番組の撮影が8年前からあるんですけど、それがあるからInterFMは月火水金の週4日。朝の7時から10時までだから、毎朝4時半に起きて5時に家を出てます。だからロックンロールなライフスタイルは全く無理で、次の日が生放送のときはどんなに遅くても10時半には寝てますね。でも、慣れるもんですよ。
−−では、悩みは長期休暇がなかなか取れないということだけですか?
ピーター:それだけですね。でも、はっきりいって、朝の番組で僕の選曲で数字が取れるわけがないから、そう何年も続くとは思えないんですけどね。続くだけやってやろうという感じです。
−−番組は日本語ですか?
ピーター:8割以上日本語かもしれないですね。InterFMができた頃は全部英語の放送局だったんですけど、僕も開局の頃から週に1回日曜日の番組を持っていて、それは100%英語でした。日本語にしてくれと言われても英語でやり続けたんですけど、『BARAKAN MORNING』は朝の番組だし、圧倒的に日本人のリスナーが多いからほとんど日本語です。
−−InterFMは英語のイメージがあったんですが。
ピーター:今はほとんど日本語ですね。局側も死活問題ですから。英語の民放局を支えられるだけの人口がないんですよ。だから広告も取れない。だって、全国でも外国人の人口って200万人もいないですよね? 東京だけだったらもっと少ないし、外国人といっても圧倒的に韓国人とか中国人が多くて、英語圏はアメリカ人はそこそこいるんだけど、イギリス人とかオーストラリア人はすごく少ない。だから、だんだん日本語の占めるウェイトが重くなってきたんです。
−−でも、今ピーターさんが出演しているInterFMのCMでだいぶ浸透してきたんじゃないですか?
ピーター:テレビ東京のですか? あれはCMというものの、僕は完全な番宣だと思って出演したんですよ。
9. 音楽業界は色んな意味で危機的状況
−−今、日本だけじゃなく世界中、音楽業界の調子がかなり悪いと思うんですが、今後はどうすればいいと思われますか?
ピーター:どうすればいいでしょうね。僕は洋楽畑でやってきた人間だから思うんですけど、J-POPが台頭してきてからFM放送がほとんどJ-POP一色になった。そうすると、何十年も昔に遡る音楽文化が、今の若い日本人にはほとんどわからないですよね?
−−そうなんです。最近の若い人は洋楽を聴かないんですよ。
ピーター:それは文化的な意味で危機的状況だと思っているんですけど、これをどうしたらいいのかは、本当にお手上げ。せいぜいNHKとInterFMがちょっと頑張って洋楽流して、あとはTOKYO FMとJ-WAVEが少し流すくらい。他は圧倒的にJ-POPですよね。でも、音楽業界の今の低迷も世界的なことだと思いますけど、デジタル技術を作ったときに、完璧なコピーが可能だという大きな問題が潜在的にずっと存在してたわけですよね? それと、日本だけではないですが、日本では特にCDの値段が高くなった。いつの時代でも、若者は僕らの10代の頃と同じようにお小遣いが少ないからシングル盤しか買えないけど、アルバムは1枚2500円から3000円する。曲はたくさん入ってるけど、本当に自分がいいと思う曲が少ない。「こんなもののためにこれだけのお金をかけるのか」と思ってるうちにナップスターみたいなものが出てくる。これを使わない手はない。すごく当たり前の話だと思いますね。
−−その前にレンタルCDもありますね。
ピーター:そのさらに前はFMラジオのエアチェックという習慣もあった。でも、エアチェックがあってもみんなレコード買ってましたよね。レンタルショップが出てきて多少の影響はあったと思うけど、CDはそれなりに売れてたと思う。だから音楽のクオリティが落ちたというか、80年代以降に出てきたアーティストで、今も大物で歴史に残るようなアーティストは相当少ないんじゃないかな。
−−それは世界中ででしょうか?
ピーター:世界中でですね。ものすごい売上を一枚のアルバムで記録したアーティストでも、次のアルバムは売れなくて、5年後には、忘れられちゃうようなことがものすごくいっぱいある。ある程度、歌唱力のあるアーティストだと思っても、印象に残る曲ってすごく少ない。これはHIP-HOPの時代になって、音楽がカット&ペースト的な編集作業に変わっていったということがかなり大きいと思いますね。やっぱり60年から70年代の半ばくらいまでは曲が良かった。今でも通じる曲がいっぱいあると思う。でも残念ながら今の若者たちはその時代の音楽を知らない。音楽業界の問題も全部そういうことに深く関連していると思いますよ。今はPro Toolsで何でも簡単に作れてしまう。それはとってもいい面でもありますが、やっぱり「せーの」で合わせて失敗したらもう一度最初からやり直す時代の方が演奏力はついてくるし、ガッツもできてくると思う。ライブで鍛えて、どんなことがあってもひるまないというミュージシャンが昔はいっぱいいましたよね。今でもインディーズにいるにはいますけど、そういう問題がもろもろあると思います。ただ、今はCDが売れてなくて日本ではダウンロードも今ひとつ伸びてない。でも、ライヴはまだまだ人が集まりますよね? ある程度でしょうけど。だからうまくいけば原点回帰が期待できるかなと。ちょっと甘いかもしれないですけど…。
−−そのライブすら今回の震災の影響が深刻です。命の危険があって、水が危ないと言ってるときに、人間はあまりいい曲は求めないものなんでしょうか。
ピーター:そういうことを言う人はけっこういますね。InterFMでもNHKでもそうですけど、できるだけ僕は選曲に関してはいつもの姿勢を変えずに淡々とやっていました。NHKの番組では、最初の1ヶ月くらいは被災地の人からのリクエストをできるだけ取り上げて、彼らが望む音楽に応えながら、自分のかけたいものをかけて。そうしたら、「こういうときは音楽を聴く気分にはなれないと思っていたけど、ラジオのスイッチを入れてみたらいつも通り放送していて妙にほっとした」と。やっぱり音楽に癒されたという人は意外にいる。自分の家が津波で流されてしまった人は音楽なんか聴いている場合じゃないかもしれないですけど、音楽って不思議なもので、聴くとほっとするというのは絶対あると思います。日本のラジオは終わってると、震災前はほとんどの人が思っていたと思うんですけど、今、電気屋さんに行くとラジオが売り切れてて生産が間に合わないくらいだそうです。ラジオを聴く人は緊急情報が主な理由だと思いますけど。あと、今auのスマートフォンで、LISMO WAVEというのがあって、全国でどのFM局でも聴けるようになっている。radikoでも聴けますし。だからラジオは少しぶり返している感じがしますね。
−−イギリスと日本を比べるとずいぶん違いますか?
ピーター:イギリスの方が局の数も多いし、聴いてる人も多いですね。
−−やっぱり日本が一番弱いという印象ですか?
ピーター:先進国の中では一番弱いんじゃないでしょうか。ヨーロッパは局の数も多いですし、それぞれ個性がある。日本は右へならえ的な感じでみんな同じようなことやるじゃないですか? 僕は車でラジオを入れてぽんぽんまわしていくんですけど、聴きたい音楽がまずない。音楽を流している番組がほとんどなくて、取るに足らないようなつまらない話ばかりですね。
−−音楽ではなくて、バラエティ番組ばかりですよね。
ピーター:ほとんどそうですね。情報番組が多い。アメリカは衛星ラジオをやってるんですが、アメリカに住んでる友人のところに行って、彼が新車をたまたま持っていたので乗ったら、GPSのナヴィの中に衛星ラジオを受信する機能も付いてたんです。アメリカは標準装備になりつつありますね。
−−それは課金されるわけですよね?
ピーター:もちろんです。ただ安い。有線なみのチャンネル数はあるんですけど、月々10〜15ドルくらい。それでも何百万人も契約者がいるから成り立つんですよね。ボブ・ディランがDJやったりトム・ペティがDJやったり。そういう面白いことがありますからね。ただ、アメリカも規制緩和をレーガン大統領のときにやったんですけど、あれからクリアチャンネルという会社ができて、今アメリカ全土で1,200局も持ってるんです。あれは昔なら絶対に独占禁止法に違反していたと思いますけどね。そういうふうになってしまった以上、ノースダコタとか過疎地のようなところは無人局、ただの中継点。例えば、真夜中に火事が起きた。普通だったらローカル局がその情報を緊急情報で出したりするんですけど、結局誰もいないからそういうことができなくなってしまったという問題もないわけじゃない。でも日本に比べたらまだましですね。
−−パンドラTVとかSpotifyについては?
ピーター:娘がかなり前からSpotifyを使っていて、当然ああいうサービスがあればラジオの代わりになりますよね。自分がこの曲と指定したら似たジャンルの曲を自動で流してくれるから、あれは素晴らしいサービスだと思いますよ。ラジオはそれだけを求める人には今ひとつ魅力がなくなってるかもしれないですが、音楽も聴きたいけど人の話も聞きたい、一対一のコミュニケーションを味わいたい人はラジオを聴く。そうじゃない人はラジオを聴かなくなると思います。というか、もう聴かなくなってますね。
10. 日本人の英語の発音をどうにかしたい!
−−とにかく音楽番組が視聴率を稼げる時代じゃないといけないですよね。
ピーター:そうなんですよね。いつの時代でもそうですからね。J-POPが中心になるのはわかるんですけど、文化も継続させなきゃいけない。
−−1つの局を一日聴いていると同じ曲が何回も流れてくるじゃないですか? 多様性がないですよね。
ピーター:民放のラジオはアメリカでもほとんどそうですけど、プレイリストは基本的に40曲くらいで、あとはDJの好みでほんの少しだけ入れさせて。イギリスもそうなってきていて、どこの国でも放送局のプレイリストをプログラム・ディレクターという人が一人で牛耳ってることが多い。僕が今仕事をさせてもらえている環境はものすごくラッキーで、残念なことだけど、世界中でもこんなに自由に選曲させてくれるところはそんなにないと思います。話し手が自分で選曲しないと話に説得力が生まれてこないし、今DJと言っても音楽の話はあんまりしないと思う。情報的な話題が多くなりますよね。それにいい情報がきて、取り上げようと思ってもタイアップが多いんですよね。局を通さないと営業がノーっていうかもしれないって。そういう時代になってきました。
−−NHKは何か規制はあるんですか?
ピーター:NHKは商業的な話題はだいたい駄目なんですよ。ただ、NHKがちょっと良くなったのは、一時期、コンサートの情報を伝えるときは会場を言ってはいけなかった(笑)。でも僕の番組で「それは、絶対にリスナーに対して不親切だから、トップにかけあってください」とプロデューサーにお願いしたらOKになった。「NHKのテレビでは会場まで言ってるのに、なんでラジオでは言っちゃいけないの?」って。言ってみるもんだと思いましたね(笑)。あと、商品名を言ってはいけないことに長年なってたんですけど、あるとき、僕の番組で車特集をやることにして、車特集は当然車の名前がバンバン出てくるから、「これは駄目なのかな?」とそのときの担当ディレクターに訊いたら、彼がNHKの放送規約を調べてくれたんですよ。そうしたら「営業広告に相当する行為はいけない」ということで、商品名を言っちゃいけないということではない。車特集で色んな車の名前が出てくるけど、別に広告じゃないんだからいい、という判断で、その特集は成立した。山口百恵の「プレイバック Part2」もかけましたよ。
−−最後になりますが、ピーターさんが今後取り組んでみたいことはありますか?
ピーター:一時期、教育関係の番組をやってみたいとか、海外のテレビ番組の買い付けをしたいと思っていたときもあったんですけど、かつてほどそういうことに一所懸命な気持ちはなくなりました。ただ、日本人の英語がなぜここまで海外で通じないのかと思っていて。 NHKの海外放送で8年くらい前からやってる「ビギン・ジャパノロジー」という番組があるんですが、今は一人でロケに行くような形になってるけど、最初はスタジオで司会者2人で、ゲストを呼んで会話をまわすような内容だったんです。ゲストはほとんど日本人だけど、海外放送だから番組の内容は英語だったんですね。ゲストには大学教授だったり、色んなことをやってる人たちが、面白い話をするんですけど、英語が堪能とは限らないものだから、そこそこ話せても発音がわかりにくい。僕は司会者だから、世界のどこかでこのテレビを見ている人が、今言った言葉を理解できるかどうかという意識をいつも持っていて、「これはちょっとまずいな」と思ったら、同じような言葉で言い換えたりすることが多かったんです。 これはゲストに対して失礼だし、時間の無駄だし、色んなことで悩んでいて。そうこうしているうちにちょっと待てよと、もちろん個人差があるにはあるけど、それだけじゃない。たまには例外もいますけど、ほとんどの人がカタカナ発音でわかりにくい、要するにこれは教育制度が悪いんだというとに気がついた。これはまずいなと思って本を書いたんですね。NHK出版から2年くらい前に出しました。
−−なんというタイトルですか?
ピーター:『猿はマンキお金はマニ 日本人のための英語発音ルール』。要するに日本では猿はモンキー、お金はマネー、どっちも全く通じない。中学校からそのくらいの発音をちゃんと教えないなんてありえないと思いましたよ。InterFMの番組の中で「英語教育革命」というコーナーを持っていて、発音のちょっとしたこととか、和製英語の本当の英語の表現とか、豆知識みたいなものなんですけど…。
−−それはネットではできないんですか?
ピーター:僕がちゃんと時間をかけてやればできます。だから本当はやらなきゃいけないんですよね。NHKで本を出したときも、そういうリソースがあればネットで平行して展開したかったんです。
−−でも、自分も含めて日本人の英語力はひどいですよね。
ピーター:どこの国でも語学力は、実際に使わないと力がついてこないのは当たり前だと思います。ただ、基礎を学校で習うときに、多少癖はあっても、まったくかけ離れた発音になるというのは酷すぎる。この立場だからできることといったら、そういうことだったりするから、これは僕の残りの人生をかけてやりたいなと思いますね(笑)。もちろん、音楽の紹介も同じようにやらせてもらえるんだったらいくらでもやりたいですね。
−−本日はお忙しい中ありがとうございました。益々のご活躍をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
今回のインタビューは、通常のリレーインタビューとは異なり、今の日本にとって最大の問題である原発のことから話しがスタート。ピーターさんは、ブロードキャスターとして見せる社会的見識の広さ、知性の深さに加え、自分の意見をはっきり持っている方で、お互いの立場を越えて本音で語り合い、深い共感を得ることが出来ました。インタビューが行われてから約1ヶ月を経た現在も、福島原発の状況は何も好転しておらず、それどころか、後出しジャンケンのように次々と出てくる情報は更に深刻さを増すばかりで、一日も早い事態の終息を心から願うばかりである。
それにつけてもピーターさんの日本語の見事さといったら…。どれほどの努力をすればここまで堪能になれるものなのか、改めて感心いたしました。今後も素晴らしい音楽の知識と、イギリス人ならではの感覚で日本人に刺激を与え続けて下さることを心から期待しています。