広告・取材掲載

第97回 高橋 健太郎 氏 音楽評論家/音楽制作者

インタビュー リレーインタビュー

高橋 健太郎 氏
高橋 健太郎 氏

音楽評論家/音楽制作者

今回の「Musicman’s RELAY」はピーター・バラカンさんからのご紹介で、高橋健太郎さんのご登場です。高橋さんは、「YOUNG GUITAR」「Player」などの音楽誌で大学在学中にライターデビュー。30代にさしかかる頃には「朝日新聞」やマガジンハウス関連の一般紙にもレギュラーを持つほどの人気ライターになりました。その後もライター業を続けつつ、音楽プロデューサー、レコーディングエンジニアとしても活動するようになり、インディーズレーベル「MEMORY LAB」を設立。さらに、音楽配信サイト「ototoy」(旧レコミュニ)の創設にも加わりました。現在も各方面でご活躍されている高橋さん。原子力オタク?だったという少年時代から現在に至るまでお話を伺いました。

[2011年6月30日 /目黒区 高橋氏事務所にて]

プロフィール
高橋 健太郎(たかはし・けんたろう)
音楽評論家/音楽制作者


一橋大学の在学中より「YOUNG GUITAR」「Player」などの音楽誌でライターデビュー。その後「朝日新聞」やマガジンハウス関連の一般紙にもレギュラーを持つ。
ライターの他、音楽プロデューサー、レコーディングエンジニアとしても活動するようになり、2000年にインディーズレーベル「MEMORY LAB」を設立。さらに、音楽配信サイト「ototoy」(旧レコミュニ)の創設にも加わった。


 

    1. 今語る「輸入CD規制反対運動」とは
    2. バンド活動から音楽ライターへ
    3. ジャマイカ、ヒップホップの洗礼
    4. 多忙を極めた音楽ライター活動
    5. たくさんの出会いから再び音楽制作へ
    6. プライベートスタジオは好奇心の産物
    7. レコード会社の制作システムの限界〜自主レーベル『MEMORY LAB』始動
    8. iTunesでできないことをやる〜「ototoy」の躍進
    9. 実は音楽歴より長い原発への関心
    10. 小説の執筆を契機に詞が書けるようになった
    11. 「録音の歴史」について掘り下げていきたい

 

1. 今語る「輸入CD規制反対運動」とは

−−前回ご出演いただきましたピーター・バラカンさんとはどのように出会われたんでしょうか?

高橋:僕が朝日新聞の音楽レビューをレギュラーでやるようになったときに、一緒に始めた執筆者が4人いまして、その中の一人がピーターだったんです。それを3年前までやっていたのでピーターとは18年間くらい毎月会議していました。でも、それ以前からピーターとは仲が良くて、20代半ばから通訳してもらったりと、色々なことを紹介してもらったりしていた。ピーターがシンコーミュージックにいたときからの知り合いです。

−−ピーターさんとは2004年に輸入盤CDの規制についてのシンポジウムも一緒にやっていましたよね。

高橋:そのときは「僕たちに何かできることはないか?」ということを話し合ってシンポジウムを開くことにしたんです。実際開催したらすごく人が集まって、そこから反対運動が大きくなっていったんですね。最終的には6万人の署名が集まって。当時、民主党の川内博史さんが一番力になってくれたんですが、川内さんの事務所に通い詰めて、色々と方策を練りました。

−−あのとき反対運動が起こらなかったら、今どうなっていたと思いますか?

高橋:わからないですね。あのとき、著作権法改正案はすでに参議院では可決されて通っていましたから、実はもう廃案は無理だと思っていたんですよ。ただ、通るにしても、ここで適当にしちゃうと悪い運用をされるだろうと思ったんですね。本当に輸入盤が入ってこなくなって聴きたいものも聴けない状況になったらたまらないから、そうならない抑止策どこまで立てられるか?が重要だと思っていました。

 あともうひとつ、あの法案は運用において、いわゆる還流盤のみを規制して、輸入盤全般を規制することにならなければ、大きな問題は起こらないんですね。だから、法案が通った後に、「みんな反対してたけど、別に何も起こらないじゃない。何騒いでたの?」と、反対した人間が逆にバッシングを受ける可能性があって、それはまずいことだと思っていた。だから、僕らが闘うからには、規制を最小限にとどめる付帯事項がついて法案は実質、骨抜き、というところまで持っていかなきゃ駄目だろうと思っていたんですよ。それで国会の参考人質疑に出て、依田さんと対決することになってしまって(笑)。

−−(笑)。

高橋:僕は依田さんにニューヨークに連れて行ってもらったこともあるんですよ(笑)。エイベックスにはどれだけお世話になっていたか。グリーディー・グリーンってバンドをやっていた時に、エイベックスからデビューまでしてますから。それで、最終的に法案は通ったんですけど、採決の前日に川内さんが「付帯事項は付けられるだけ付けられるようにする」と言うので、その晩に付帯事項を箇条書きにしたんです。法律の素人が、夜中に一人で書いて、川内事務所にファクスで送って。そうしたら、翌日、衆議院で採決される時に、その9割方が付帯事項として付きましたね。

−−すごくいい仕事をされたんですね。

高橋:たぶん、議員さんたちにとってはどうでもいい法案だったんですよ。だから、付帯事項など気にかけてなかった。ただ、僕らが反対して、付帯事項が付いたことによって、運用には一定の歯止めがついて、今でもレコードショップで輸入盤が売られているという形にはできたわけですね。

 

2. バンド活動から音楽ライターへ

高橋健太郎 02

−−ここからは高橋さんご自身のことをお伺いしたいのですが、どのような学生時代を過ごしていらっしゃいましたか?

高橋:僕は一橋大学に通っていたんですが、勉強しないでバンドばかりやっていました(笑)。おかげで留年して大学生を6年もやっていたんですけど、大学4年のときに、渋谷ヤマハの池村さんという方のご好意でデモテープを作らせてもらっていたんですね。そのとき池村さんが、もうひとつ他のバンドのデモテープを作っていたんですが、それがサザンオールスターズだったんです。まだサザンのことなんか誰も知らないときだったんですけど、聴かせてもらったら「これはすごいな」と思って、渋谷ヤマハの1階にヤングステージというところがあったんですが、そこへ毎回ライブを観に行ったりしていましたね。

−−音楽ライターとして活動されるきっかけは何だったんですか?

高橋:そうこうしているうちに『YOUNG GUITAR』という雑誌に譜面とタブ譜を書くようになっていたんです。最初に音楽業界で仕事をさせてもらったのは、スティーリー・ダン『幻想の摩天楼』の「滅びゆく英雄(キッド・シャールメイン)」のラリー・カールトンのギターソロを譜面にするという仕事ですね。それがたぶん大学5年生くらいで、そのうち当時のギター雑誌の中でも日の出の勢いだった『Player』という雑誌でもアルバイトで譜面を書くようになったんです。当時、河島彰さんが編集長を務めていたんですが、ある日、河島さんに「インタビューに行ってみない?」と言われて、何の経験もなかったんですが、いきなり外タレのインタビューの仕事をすることになったんです。元々ずっとギターをやっていて、大学時代はレコードを出しているアーティストのバックとかで地方に行ったりもしていましたが、一方でレコードマニアみたいでもあったので、「音楽詳しいね。もうちょっとちゃんとやってみたら?」と河島さんに言われて、いつの間にか『Player』のレギュラーになっちゃったんですよ(笑)。それが22〜23歳くらいのときです。

 あとはソニー出版(現 ソニー・マガジンズ)に拾われて、ジェフ・ベックのギターコピー本を土屋昌巳さんと一緒に作らせてもらったり、そんなことをやっているうちに、就職もせずそのまま大学を卒業しちゃったんですね。当時は『Player』をベースに、譜面やインタビューの他にも楽器関係の解説とか音楽評論もやらせてもらっていました。正社員じゃなかったんですが、月に数万円と原稿料がもらえるので、自分でどんどん企画を立てて、記事を作って、ふと気がつくと結構なお金を稼いでいました(笑)。ただ、それも2年間くらいで辞めて、26歳のときにジャマイカに行ったんです。

−−元々レゲエがお好きだったんですか?

高橋:ええ。当時渋谷に「ブラック・ホーク」というお店があって、そこで「レゲエシンジケート」というレコードコンサートを山名昇さんと藤川Qさんが月1回やっていて、そこにランキン・タクシーとか、その後の日本のレゲエシーンを形作る人達が集まっていたんですね。僕もそこに通ってた。でも、当時の日本には、ジャマイカまで行った人はあまりいなくて、来日コンサートもボブ・マーリーとジミー・クリフくらいで、あまりライブも観られなかったんですよ。

 そんな折、1981年にジャマイカで開催された「レゲエ・サンスプラッシュ」というイベントがあることを知って、「観に行ったら面白そうだな」と思っていたところに、1982年の夏にある日本人アーティストの取材でニューヨークまで行けることになったんですね。「ならそのままジャマイカ行っちゃおう」と思って。でも、行くまでがすごく大変だったんですよ。当時はジャマイカの大使館も領事館も日本にはなくて、イギリス大使館が代行していたんですね。僕は肩書きもないですし、ビザもなかなか取れないわけですよ。最後は5,000ドルくらいのトラベラーズチェックを作って、イギリス大使館に見せに行って、ようやくビザがもらえました。当時は日本でジャマイカ行きの航空券も買えなかったので、とにかくニューヨークまで行って、ハーレムのはずれでジャマイカ人用の里帰りのツアーを買って、どうにかジャマイカに行ったんです。

 

3. ジャマイカ、ヒップホップの洗礼

−−ジャマイカに行ったことはその後、高橋さんに大きな影響を与えましたか?

高橋:すごくありましたね。「レゲエ・サンスプラッシュ」で50アーティストくらい観たんですが、当時はそんなにレゲエのアーティストを観ている人って他にいなかったので、帰ってきて1〜2年はレゲエの原稿が急に増えましたね。『ポパイ』とかの一般紙にもレゲエのおかげで文章を書けるようになりましたし。あと、ジャマイカの前にニューヨークへ行ったときに、アフリカ・バンバータの「プラネット・ロック」という曲が大流行していて、道を歩いていると、あっちからもこっちからも「プラネット・ロック」が流れてくるんですよ(笑)。「これはなんだろう?」と思っていたら、ニューヨークを立つ数日前にレゲエのコンサートがあって、そのオープニングがアフリカ・バンバータだったんですね。その頃ヒップホップってよくわかってなかったんですが、実際にライブを観てびっくりしました。「この人たち、レコードをステージで回して踊ってるよね?」みたいな(笑)。

−−(笑)。知識が入る前にライブを観てしまったらそう思いますよね。

高橋:アフリカ・バンバータを観られたこともすごく大きかったですね。というのは’84年頃になると、今度は日本でヒップホップが流行し始めたんですね。最初の海外旅行でそれを経験できたのはすごく大きくて、本場のレゲエやヒップホップを体験している人がいなかったからすごくラッキーで。おかげで27〜28歳くらいに音楽ライターとしては急に売れたんですね。特に収入的な面で言うと、やっぱり音楽雑誌の原稿料ってすごく安いじゃないですか。だから、収入的に数百万とか目指そうとすると、一般誌でどれだけ書けるかにかかってくるんですけど、ヒップホップとかにわりと早くアクセスできたので、そういうカルチャー的な部分で最新情報を持っていると、当時は一般誌に書きやすかったんですよ。

 ただ、それまではギターを演奏したり、楽器やレコーディングに関することも好きだったんですけど、ライター業務が忙しくなってしまったので、色々持っていた楽器も機材も全部押し入れにしまって全然触らない状態になりました。20代後半以後はひたすらレコードを買って、文章を書いているような日々でしたね。やっぱり上の世代の人の知識に勝つには、レコードをたくさん聴くしかないと思って、ジャンルにこだわらず、とにかく人よりレコードをたくさん買って聞こうと。

−−ちなみにレコードは何枚くらいお持ちなんですか?

高橋:わかりません(笑)。物置二棟くらいです(笑)。

−−このクラウド時代にすごいですね(笑)。当時、ロックの音楽評論家では小倉エージさんとか、渋谷陽一さん、大貫憲章さんなどが有名で、そこにしばらくしたら「高橋健太郎」という名前が出てきたんですよね。若い世代で新しいタイプの音楽ライターが出てきたと感じたんですが、その理由の1つはミュージシャンとしての視点も持っていたことだと思うんですよ。

高橋:うーん、でも、20代前半くらいのフラフラしているときはよかったんですが、仕事になりだした頃に「君はミュージシャン的視点がありすぎるから、そういうのは捨てたほうがいい」というようなことを同業者何人かに取り囲まれて言われたりしましたね…。

−−(笑)。

高橋:本当に(笑)。それは自分でもプレッシャーとしてあって、批評は対象と距離を置くべき、というのもあるとは思うんです。そこにミュージシャン的な視点が混在すると、親しいミュージシャンに甘くなるとか、そういうこともあるかもしれないし。

−−一般紙でも高橋さんの名前はよく見かけました。音楽評論家でも朝日新聞とかマガジンハウスで書くのは敷居が高くて、若い人が入っていくのは特に難しかったと思うんですが。

高橋:僕はすごくラッキーだったと思うんですよ。パンク、ニューウェーブ、フュージョン、レゲエ、ヒップホップなど色んな音楽が入ってきて、今までのロックの評論家ではなかなか語りきれないような状況になったときに、早い段階で外国に行って本場のライブを観ることができたので。

 例えばロックでも、84年にロサンゼルスにU2を観に行ったんですけど、ロサンゼルスにアメリカ人の友人がいて、彼はジャマイカに行くときに世話になったLAタイムスの音楽ライターなんですが、LAに着いた晩に彼のところに電話をしたらライブに誘われて、マジックマウンテンという遊園地に行ったんですよ。「何を観に行くの?」と訊いたら「”ラピッド・アイ・ムーブメント”っていう新しいバンドだよ」と言って、遊園地の中の野外音楽堂みたいなところに行ったら夜中にライブをやっているんですね。客は15人くらいだったけれど。それが後のR.E.M.なんですよ。だから初めてLAに行った当日にR.E.M.を観て、翌日にU2を観たんですね。あとはまだ無名のロス・ロボスとか。とにかく友人たちがすごく鼻が利く人たちだったので、海外に行くとそういう情報が入ってきたんですよ。それがすごくラッキーだったのと、上の世代の人たち、例えば、小倉エージさんに可愛がっていただいたり、今野雄二さんにも認めていただいたりとか、そういうこともあって30代になる頃には朝日新聞にもレギュラーをもらえたんでしょうね。

 

4. 多忙を極めた音楽ライター活動

高橋健太郎 04

−−音楽評論活動の他にDJもなさっていましたよね。

高橋:DJは’84年頃から始めて、西麻布近辺の「トゥールスバー」とか「P.PICASSO」とかでレコードを回していました。「ツールスバー」はマガジンハウスの人たちが、自分たちの遊び場的に作ったバーで、そこでランキン・タクシーが火曜日、僕と長田という友人が水曜日にやらせてもらっていたのかな。それまで全然DJの経験はなかったんですけど、レコードだけはたくさん持っていたので「君、レコードいっぱい持ってるんでしょ? かけていいから」って言われて(笑)。だから、機材の使い方もわからないまま始めたんです。’87年くらいに桑原茂一さんがディスコじゃなくてクラブDJを数十人集めて芝浦のインクスティックで「革命舞踏会」というイベントをやって、ものすごく人が来たんですが、そこにも加わっていましたね。

−−桑原茂一さんは日本音楽選曲家協会を立ち上げて、DJの認知度を高めてくださいましたよね。

高橋:そうですね。日本音楽選曲家協会に入れるということは、当時すごく大きなことでしたから。

−−そうなんですか?

高橋:僕は会員番号28番くらいなんですけど、その番号がいかに若いかが話題になるくらいで(笑)。沖野修也さんは京都でDJをやっていて、ミックスしたカセットを桑原茂一さんに送ったらすごく評価されて、「あの日本音楽選曲家協会に認められた沖野修也」ということで、京都では大変なことになったと言っていた。

−−そういうステイタスがあったんですね。

高橋:地方では凄かったみたいですよ。

−−ライター業にDJにと本当に大忙しだったんですね。

高橋:音楽ライターとして一番働いていたのは多分’85年から’90年くらいまでで、その頃は本当に忙しくて、連載をいくつ持っていたのかわかりませんでしたね。『平凡パンチ』『ポパイ』、『エルジャポン』、『ガリバー』、『DIME』、『写楽』、『宝島』とか…。あとはレコード会社のライナーノーツも毎月数本ありましたね。ライナーノーツはすごいバブルの時代があって、1つのライナーノーツがLP、CD、カセットと3つに使われたときがあったんですよ。3つとも違う商品なので、1次使用料のほかに2つ分の2次使用料が出て金額が倍になるんですよ。ちゃんとくれないところもあるんですが、ポリドールなんかはちゃんとくれて、ライナー1本で普通だったら4万円のところが、カセットとCDもあって8万円になるんですよね。今考えるとなんておいしい時代だったんだろうと思いますね(笑)。

−−売れているライターに仕事は集中しますしね。当時は結構妬まれたんじゃないですか?

高橋:それはあったかな。音楽ライターはたくさんいるんだけど、一般紙でたくさん仕事ができるのは数人だったりするので。あとはレコード会社にお金出してもらって、外国にどれだけ行けるかとか。それも何人かに集中する。で、僕は例えば、興味あるアーティストがツアーしていて、ニューヨークでコンサートがある。「観たいな」と思うとレコード会社に電話しちゃうんですよ。で、「行って取材できたら、露出はできるんですけど」と話して。それで航空券もらって観に行くみたいな(笑)。

−−(笑)。それは新しい情報を仕入れるためにですか?

高橋:仕入れるためというよりも好奇心ですね。今みたいに外国の情報がインターネットで手に入るわけじゃないので、行かないとどうしようもないし、行くことによって、業界人を含めた日本の人たちが持ってない情報が入ってくる。そうするとうまく仕事が回るみたいなことがあったんですよね、当時は。

 

5. たくさんの出会いから再び音楽制作へ

−−高橋さんはエンジニアやプロデューサーとしてもご活躍されていますね。

高橋:DJをやっていると色んな人と出会えるんですけど、その中の一人がJAGATARAのOTO君で、彼はレゲエとかアフリカ音楽とかすごく好きで、だんだん仲良くなっていったんですね。で、ある日、JAGATARAがアルバムを作ってる時に、ミックスのエンジニアは誰がいい? みたいな相談を受けて、それで制作に関わることになった。でも、十数年楽器を触ってもいなかったからスタジオに行っても最初は見ているだけで。それでも、ニューヨークの友達経由でエンジニアをブッキングして、一緒にミックスに行くみたいなことをやらせてもらって、次の時はパリでレコーディングをしたんですけど、OTO君がホテルの部屋でシーケンサーでアレンジしているのを見て、「あ、これは僕でもできるんじゃないかな」と思ったんですよ。その頃には、だんだんアレンジのアイデアを言うようになっていましたから。で、帰国後にOTO君と15年ぶりくらいに楽器屋に行って、ローランドW30というサンプラー/シーケンサーを買ったんですよ。それで1から始めたら、すぐに曲が出来て、それを小西康陽くんに聞かせたら、ラジオ番組のためにレコーディングしようってことになって、レコーディングさせてもらって。それがチエコ・ビューティーの「オレンジ色の恋」って曲で、インディーでリリースしたら意外なほどのヒットになった。そのへんからまた、音楽をいじる方に戻っていったんですね。

−−打ち込みから入っていって、最終的にエンジニアとしてミックスまでやることになるわけですね。

高橋:そうですね。その頃ニューヨークによく行っていたんですけど、ニューヨークで外国のミュージシャンをインタビューしたときに通訳に来てくれたのが本田ゆかという人で、彼女はラウンジ・リザーズのドラマーのダギー・バウンと結婚して、ニューヨークに住んでいたので二人の家によく泊めてもらったりしてたんですよ。彼女はその何年か後にチボ・マットを結成するんですね。

−−チボ・マットの本田ゆかさんだったんですか!

高橋:そうなんです(笑)。それで彼女の家に行くとサンプラー、さっきのローランドW30があったんですよ。それを触らせてもらっていたこともあって、W30を買ったんです。そのへんと前後して、アルファレコードから話があって。それは僕がクラブシーンによく出入りしてるからで、「東京のクラブシーンも面白いんでしょ? 何かコンピ作ってよ」っていう話が来たんです。当時は日本のヒップホップってCDを出すところがあまりなかったですから。

 それでアルファレコードで『TOKYOディスクジョッキーズ・オンリー』というコンピレーションを作ったんですよ。それを作るときに、周囲にDJはたくさんいるんですけど、みんなまだ音が作れないからマニュピレーターを探して、見つけたのが福富幸宏君で、それより少し前に知り合っていたECDに色んな人を紹介してもらったりしました。それが僕の1番最初のプロデュース作品ですね。

−−ECDとはどのタイミングで出会ったんですか?

高橋:僕の大学の先輩がベスタクス(Vestax)にいたんですね。ある日、彼から電話がかかってきて、「最近ディスコミキサーがよく売れるんだけど、どういうことだかわかる?」と訊かれたんです。「それヒップホップですよ」と答えたら「ヒップホップってなに? 一回うちの会社きてくれない?」と言われて、ベスタクスでヒップホップDJの機材の使い方とかを一通り説明したんですね。それで「日本でもDJカルチャーを盛り上げたら多分大変なことになりますよ」と言ったら「じゃあ何やったらいい?」と言うから「DJコンテストじゃないですか?」って、ベスタクスのDJコンテストを僕が企画したんです。そこで優勝したのがECDなんですよね。

−−そういった繋がりがあったんですね。

高橋:コンピレーションが終わった後も福富君とは仲良くしていて、福富君がSE/30というマッキントッシュを買って「Performer」というMIDIシーケンサーソフトをやっているのを見ながら自分でも使い始めたり。あと、MIDIのシンセサイザーとかサンプラーの音源は、数を買わなきゃいけないんだということも福富君を見て思ったんですね。持ってなきゃ話にならないというか。それでMIDI楽器をどんどん買いだしたんです。でも基本的には遊びで、それでお金を稼げるわけじゃないし、当時はライターとしてバリバリ売れていたので、音楽制作を仕事にするつもりはなかったんです。でも、制作って、仕事になれば入ってくる金額が大きいじゃないですか。FMの天気予報の音楽作ると30万円もらえるとか。そういうのがたまにバイトとしてあれば充分で、もらったお金でまた機材を買っちゃうわけですよ。

 

6. プライベートスタジオは好奇心の産物

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高橋:そうこうしているうちに、たまたま知り合ったギターバンドのデモテープを作ろうってことになって、面白そうだからやってみようと。それが今はソロでやっている福岡史朗君のバンドで、一緒にデモテープを作ることにしました。でも僕はその時点ではバンドのレコーディングの経験はまったくなかったんで、『TOKYOディスクジョッキーズ・オンリー』のレコーディングをしてくれたエンジニアの上原キコウ君に電話して(笑)。

−−(笑)。

高橋:そしたら上原君がFOSTEX R8の8トラを貸してくれて、マイクの立て方やレコーディングの技を伝授してくれたんですよ。それで練習スタジオで、8トラで録ってみたらけっこういい感じで録れたんですよ。そうやってデモテープを作っていたら、途中でギタリストがバンドを辞めてしまったので、次のライヴで代わりにギターを弾いてほしいと頼まれてしまって(笑)。ギターも15年くらいほとんど触ってなかったんですけど、これまた「やってみようかな」と思って、昔買ったストラトを出してきて、結局やることになってしまって…(笑)。それから2年間くらい彼らとバンドをやっていました。

−−それはおいくつのときですか?

高橋:そのバンドを始めたのは38歳のときですね。そのバンドはちょっと土臭いというか土着っぽい感じのロックバンドだったんですけど、そのうち世の中もそっちに流れてきたんですよ。プライマル・スクリームとかGラブとか、ファンキーなんだけど土臭いロックがDJの間でも人気になって、それで結局、エイベックスと契約になっちゃったんですよ。ただ、そのとき僕はもう40歳ですから、このまま一緒にやって、給料15万で拘束される生活も無理だった。別のところで何倍も収入があるっていうのは、他のメンバーとのバランスが悪いし、その辺でちょっとぎくしゃくしたこともあったので、エイベックスからの2枚目のアルバムは別のギタリストを加入させて、僕はバンドを抜けてプロデューサーとして一緒にやる形にしたんです。

 その時、エイベックスから、当時のロックバンドの制作費としては安いけども、今だったら楽にアルバム3枚くらい作れる原盤制作費をもらった。それまでに、福富君とか、上原君とかと付き合っていて、ある程度、録音ノウハウも学んで、このあたりは自宅でできるということがわかっていましたから、’95年くらいに祐天寺にマンションを借りてスタジオを作ったんですよ。スタジオと言っても、最初はA-DATが1台と、アートという会社の24トラックのミキサーが1台、ロードの真空管マイクを買って、ドローマーの1960というマイクプリコンプも買って、これだけあればとりあえず歌は録れるだろうというくらいものでしたが。

−−スタジオの価格破壊の張本人ですね(笑)。

高橋:(笑)。でも、そのときはそれほどの考えはなかったかもしれないですね。あくまでも好奇心で動いていたので、その好奇心が外国に行くよりも、機材を買う方に向いたというか。もともとレコードマニアで、昔のレコードを買うのもすごく好きで、「この音はどうすれば出るんだろう」とよく考えていたんですよ。ただそれは自分で機材を買って使い倒さないとわからないので。

−−音楽マニアで、趣味でバンドやったり機材買ったりする人は多いけれど、レベル的にそれがなかなか仕事にはならないわけですよ。

高橋:僕の場合も、仕事になっているのか、ただ散財しているのか、わからないくらいのところですよ(笑)。

−−でも好きなことをやっているだけですよね? それが仕事になっているところがさすがと言うか。

高橋:さすがに、このご時世では厳しいです(笑)。比べると、90年代後半はすごくいい時代で、レコード会社の状況がよかったので、予算的にも余裕があった。と同時に、僕はプライベートスタジオで受けられる仕事の範囲が、国内外の友人を見ていて、割と早い段階でわかっていた。コンピューターがレコーティングの世界に入ってきて、これからどうなっていくかも。

 それで、エイベックスで最初のアルバムを作った後くらいかな? リットーミュージックでコンテストがあって、そこに送られてきたデモテープを聴かせてもらったんです。その中にいいアーティストがいるなと思って、それが朝日美穂だったんですけど、リットーの中では全然評判が良くなかったんですよ。なので「僕にCDを作らせてもらえないですか?」と言って、5曲入りくらいのミニアルバムを作りました。

 ミュージシャンはビブラストーンのメンバーと仲が良かったので、沖山優司君とか、渡辺貴浩君とか、そういう人たちを呼んで。それはリットーのインディーズレーベルで作ったのでお金にはならなかったんですけど、いきなり1万枚売れたんですよ。そうしたらレコード会社が数社来て、結局ソニーと契約したんですが、そこでアルバムを2枚作りました。そのときは全部予算をもらってやっていましたから、ニューヨークで録ったり好きに作らせてもらいましたけど、その裏でも同じようなことを何本かやるようになっていたので、結構なお金になりだしたんですね。ただ、そうするとライター業は同じ量はできないですから、朝日新聞や「このレギュラーだけは死守しよう」というものだけを残して、ライナーノーツなどはやらないことにしました。DJはまだ続けていたので、レコードは同じように買って聴いていましたけど、音楽評論家って、それとは別に毎月送られてくるサンプルを聴かないといけないじゃないですか。これが90年代後半にはものすごく辛くなってしまった。当時は発売点数もものすごく増えて、情報処理的にもほとほと疲れたなと。

 

7. レコード会社の制作システムの限界〜自主レーベル『MEMORY LAB』始動

−−2000年代に入ってからはいかがでしたか?

高橋:90年代はレコード会社とのコネクションもありましたし、レコード会社自体の予算もふんだんにありましたけど、’99年くらいから一気に崩れますよね。それからアーティストが次々と契約を切られていくようになって、プロデューサーとして仕事をしている中でも「このシステムはもう長くは続かないだろうな」とは思っていたんですね。毎月百万円を越える援助金をレコード会社が事務所に出して、アルバム一枚、1,500万円のバジェットでレコーディングなんて、あれだけの数のメジャー・アーティストがいたら、ほとんどリクープラインに届くわけない。どこかでメガヒットが出てくれれば、何とか他を支えられるという形。「Musicman」を見ても、3年前に「New Powers」に載っていたアーティストが今はもうほとんどいないみたいなことになるわけじゃないですか。

 けれど、プロデューサーとしてレコード会社から予算を預かって制作するからには、「絶対5万枚はいくものを作る」という考えでやらないといけないし、半年とか一年は完全拘束されて頑張るということをやっていた訳だけれど、一方で「このシステムが崩れたときも、音楽を作り続けられるようにはしよう」とはずっと思っていた。それで当時200万くらいしたPro Toolsを買ったりしました。実際、’99年あたりにアーティストが突然契約を切られることが相次いだので、「これだったらインディーズでやろう」と思って2000年に自分のレーベル『MEMORY LAB』を立ち上げたんですね。

−−先見の明があるというか、素晴らしい決断ですね。

高橋:いや、たまたまというか、流れでそうなった。ならざるを得なかっただけです。ただ、ラッキーだったなと思うのが、最初に”さかな”というアーティストの『ブラインド・ムーン』というアルバムを作ったんですけど、5,000枚くらい売れたんですね。それは完全にアコースティックだったので僕のスタジオだけで作って、メンバーの西脇一弘君は絵描きでもあるのでジャケットは彼が描く、となると、外に出ていったお金がほとんどなかったんです。マスタリングとデザイナーの費用くらい。そうすると3,000円×5,000枚で1,500万円の売上だから、インディーとしては十分、ビジネスになった。で、このプロジェクトでお金ができたので、当時自分の周りにいた面白いミュージシャンたちの作品も作っていった。当時はレコード店、音楽雑誌へのコネクションがある程度機能していたので、頑張れば誰も知らないアーティストを出しても1,000枚くらい売れたんです。

−−知名度がなくても十分リクープできたと。

高橋:そうやって2005年くらいまでインディーを一生懸命やったんですけど、2000年の状況と2005年の状況というのはすでに相当違ってきていて、例えば、前のアルバムもなかなか評判良かったから、今回は録音もプロモも予算かけたし、営業も全国をちゃんと回ったんだけど、出てきた数字は半分。これは参ったな? という結果になって、そうなると遊びで作れなくなっちゃうんですよね。「あ、面白い、CD作ろう」で、できるのがインディーのはずだったんですけど、同じエネルギーと予算を投下しても、半分の結果しか出ないとなると、やっぱりアーティストにも失望感が出ます。「それでも次も『MEMORY LAB』でやりたいです!」って曲を作って持ってきてくれたりするんですけど、2000年代後半になると「いや、うちでやっても…」ということになってきたちゃったんですよね。引き受けるからには僕も前と同じだけ頑張らなきゃいけない。でも、付いてくる結果は前回よりさらに悪いだろうなというのが見えている。それで、「今はこういう時代だから、自分でレーベルやるなりして自分で出した方がいい」というような話になることが多くなっちゃいましたね。そういう状況だったので、ここ2〜3年はほぼリリースをしていないです。

 その一方で、今のバウンディの社長の福岡さんが、2004年くらいに「『レコミュニ』というのを作りたい」と企画書を持ってきたんですね。僕もCD文化はそんなに長くは続かないだろうとなんとなく思っていたので、「これは面白い」と思ったんですね。それで何回かブレストをして、自分も出資して立ち上げのときには取締役の一人として一緒に始めたんですね。

 

8. iTunesでできないことをやる〜「ototoy」の躍進

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−−「レコミュニ」はSNSの機能があるような配信サイトでしたよね。

高橋:そうですね。それで「レコミュニ」を3年くらいやったんですが、ビジネスモデルとしては機能しなかった。とにかく日本のレコード会社から許諾が取れない。今は「ototoy」というサイトで引き続きやっていますけど、未だにレコ協加盟社からは許諾が取れないですからね。それで、今から4年くらい前にもう「レコミュニ」は潰そうという話になったんですね。

−−イーライセンスの三野明洋さんもいらっしゃいましたよね?

高橋:三野さんも取締役の一人ですね。それで「レコミュニ」を潰そうという話になって、三野さんがみんなの所有していた株を引き受け、株を全部持つ形になって、その代わりサーバー管理代とかは三野さんが負担して続けるという状況に一度したんですね。

 それと前後して、僕のレーベルでやっていたLimited Express (has gone ?)という京都出身のバンドがいて、海外でも評価されているバンドだったんですけど、彼らが解散しちゃって、そのリーダーでギタリストの飯田仁一郎君が、行き先に困っていたので「東京に来たら?」と言ったら、ある日バンに乗って本当に来ちゃったんですね(笑)。僕はそのとき父が死にまして、実家に母が一人になっちゃったので、相続問題とか色々処理しに帰っていたんですよ。それで、飯田君を実家の6畳に住まわせることにして、飯田君は最初ライブハウスでアルバイトとかしていたんですけど、「レコミュニ」にバイトがどうしても必要だということで彼を入れたんです。そうしたら、飯田君は元々京都のTSUTAYAでバイヤーをやっていて、レコ屋魂みたいなものがすごくあって、しかも、京都で「ボロフェスタ」という自主フェスティバルをやっていたのでインディー関係のアーティストとのコネクションをすごく持っていた。恐ろしくバイタリティもある男なので、バリバリやり始めたんですね。それから三野さんが「やっぱり始めた会社は何があっても潰したくない」と言うので、僕も「レコミュニ」に戻ることにしたんです。勿論無給で。

−−「ototoy」になるまでにそんな経緯があったんですか…。

高橋:そうですね。僕が戻ってから、今までのモデルはダメだから基本的にはインディーズを扱うセレクトショップとして、iTunesでできないことをやるというコンセプトに変えて、インディーズのレーベルとかアーティストと密接に関わってゆく、お互い顔の見える配信ショップにしよう、ということになったんです。僕には音楽雑誌での経験もあるから、話題のアーティストはどんどんインタビューをしたり、そこで他の配信サイトとは差別化したものをやろうと。そういったコンセプトの元、飯田君がまわしていくみたいな形で4年ぐらい前に再出発したんですね。その後に、レコミュニの創設メンバーで、サイトの設計をしたディジティミニミの竹中直純さんが戻ってきて、ディジティミニミ傘下で続けていくことになり、今に至るという流れです。

−−そのときにサイト名を「ototoy」にしたんですか?

高橋:そのときはまだ「レコミュニ」で、「ototoy」になったのは、一昨年の暮れですね。再出発後も収益的にはきつい状態が続きましたが、次第にミュージシャンとレーベルから信頼されるようになりました。「iTunesよりもototoyさんで何か一緒にやりたい」というようなことを言ってもらえるようになって、サイト自体もすごく活気が出てきました。会員も増えて、今、6万人ぐらい会員いるんじゃないかな? だからここ1〜2年は、会員数、売り上げともに倍々では来ていますね。また音楽配信だけじゃなく、コネクションを活かしたビジネスをやろうということで、「オトトイの学校」というスクール事業も始めました。例えばPCオーディオ講座とか、音楽評論家の岡村詩野さんによる音楽ライター講座、あとアイドル講座とか色々ですね。

−−それは配信形式の講座ですか?

高橋:いえ、リアルの方です。それをUSTREAMなどで配信することも考えてはいます。ただそれはプロモーションとしてですね。もちろん、音楽配信事業は「ototoy」の真ん中にあるんですけども、ただ、どんなにカタログを並べてもiTunesには勝てるわけがないんですね。配信楽曲数では。そこではiTunesの優位性は圧倒的で、少なくとも日本では、iTunes以外にも音楽配信サイトはあっても、ここで買いたいと思わせるような良さがサイトに備わっていない。だったらiTunesで買ってしまうというような状況だと思うんですよ。でも、OTOTOYは違うオプションがある、OTOTOYに来て、読んで、聞いて、買う方が面白いよという、そういうショップを作りたい。そのためにはiTunesで売っていないオリジナルの商品も必要だということで、高音質の音源や、ライブレコーディングの音源を積極的に扱っています。OTOTOY自身が制作して、ライヴ会場で録って、ミックスして配信することもしています。

−−それはご自身で録りに行くんですか?

高橋:他のエンジニアに依頼するものもありますが、僕が自社エンジニアとして録りに行くものが一番多いです。海外のアーティストの中には、ライブツアーを録って、翌々日くらいにはサイトに上げるということをやっています。iTunesに対抗して、iTunesにないアイテムを自分たちで作るしかない。その方法のひとつとして日本でもこういうことやったら面白いんじゃないかと思って、やっているんですよね。

−−もう高橋さんは「何でも屋」ですね(笑)。

高橋:(笑)。あと、「ototoy」が今元気になっているのは、2年ほど前、まだ「レコミュニ」だった頃に始めた高音質配信も大きいです。それはiTunesには絶対ないものですからね。あと、高音質配信のサイトはあっても、ほとんどクラシック・ジャズの音源ばかりで、ロック、ポップスの高音質配信は世界を見回しても少ない。

−−高音質配信のきっかけは何だったんですか?

高橋:あるときクラムボンのミト君と飲み屋で話していたら、ミト君がMacBookに、今日上がったばかりのマスター音源があるという。24bit/48kのWAVのマスターですね。ちょうど、その日、僕はOTOTOYの会議で、高音質のWAV配信の話をしていて、その企画書を持っていた。それで、そのマスター音源、この企画に乗せて、そのまま売っちゃいませんか? と持ちかけたという。

−−飲み屋で決めちゃったんですか(笑)。

高橋:そうです(笑)。彼らはコロムビアの所属アーティストだから、それまで「レコミュニ」で売ることはできなかったんですが、「今度のアルバムからバンド原盤になる」ということだった。なので、アーティスト自身がOKすれば、配信することができたんですね。WAVのマスターが、CDの発売より先に出てしまうわけですから、コロムビア側の抵抗は若干ありましたけど、ミュージシャン側はもう配信する方向で進めていたので、最終的にはプロモーションにも協力してもらえました。それで、一昨年の8月に『NOW!!!』という曲を出したらこれが大反響だったんですね。クラムボンという名のあるアーティストで第一弾を始められたこともあって、他のミュージシャンが「実は僕らもやりたかった」と言ってくれて、すぐにムーンライダーズ、ゴンチチ、カーネーションも配信できた。その後、今度は『サウンド&レコーディング・マガジン』からDSDのレコーディング音源を売らないかという話がきて、去年の夏からDSDを始めたら、これがまたよく売れるんですね。DSDは再生するにはコルグ製品を買う以外、あまり選択肢がないんですけど、みんな聴けなくてもDSDを買っていく。

−−どうして聴けないのに買うんですか?

高橋:MP3をセットにして売っているんですよ。つまり、いつかコルグのMR2とかを買ってDSD音源を聴こうということなんです。でも、DSD録音の音源はMP3でも、かなり良い音なんですよ。音楽配信にまつわる問題は、低ビットレートのmp3やAACでは、今まである程度音楽を聴いてきた人たちも、ちゃんとしたスピーカーで聴かなくなってしまうんですよね。結構な音楽マニアで、今までCDとかレコードをたくさん買ってきた人もそうなってきているし、ちゃんとしたステレオがあるんだけど、もう白黒テレビのように無駄に空間を占めているだけ、みたいな状況になっていたのが、高音質配信を始めることによって、そうじゃないものを求めている人もちゃんといることはわかりました。「オトトイの学校」のPCオーディオ講座にもたくさん人がくるんですよ。

 

9. 実は音楽歴より長い原発への関心

−−話は変わりますが、高橋さんのTwitterには最近、原発の話題もよく出てきますよね。

高橋:僕は子供の頃から原子力オタクみたいなところがあって、実は音楽より全然長いんですよ。世代的にアトム世代じゃないですか。小学校2年生くらいのときにアトムが大好きで、父が昔、通商産業省(現 経済産業省)にいたことがあったんですね。僕が子供の頃には銀行員になっていたんですけど、通産省のときの同期の人が、最初の原子力政策に関わっていた人で、僕が7歳くらいのときにその人に呼ばれて東海村に家族で旅行しているんですよ。

 当時、日本に原発はなかったですけど、少年少女が読む百科事典には原子力についてちゃんと書いてあって、その頃からウラン235は核分裂するけど238はしないとか、アメリカは原爆を作るのにウランをどのように生成したのか、そんなことを覚えている子供だったんですね。その頃からそういう知識はあって、子供の頃はお茶の水博士みたいな物理学者になりたいと思っていたくらいです(笑)。そういうバックグラウンドがあったので、’79年にスリーマイルの事故が起きたとき、「原子力発電は危ないから反対する」という流れになったことは全然驚かなかったです。

−−ずいぶん珍しい子供だったんですね(笑)。

高橋:そうですね(笑)。あと、子供のときに東海村へ行ったときに、最初はすごくわくわくして行ったんですけど、行ったら怖くて早く帰りたいと思った経験があった。何が起こっても、目に見えない、そういう脅威があるんだってことは知っていたので、それからチェルノブイリの事故が起きて、反原発の運動をしている人の講演に行ってみたりして、以後ずっと原発のことは気にして見ていましたし、地震や津波の危険性も知っていたので「日本の原発は危ないな」と思っていました。

 とはいえ、自分で表立って反原発運動するような人間じゃなかったんですけど、2007年に柏崎刈羽原発で地震による事故が起きたじゃないですか。そのときに「ついにきたな」と思って、アーティストパワーという、坂本龍一さんを筆頭にミュージシャンや著名人が有志で関わっている団体に、「柏崎刈羽原発を動かさないようにするべきだ」ということを言ったら、だったら「署名運動をやりましょう」ということになって「おやすみなさい、柏崎刈羽原発」というネット署名運動をやることになったんですね。それで僕が集まった署名を持って柏崎の副市長と刈羽村の村長のところに渡しに行って、原発構内も入ったし、現地の反対活動をしている人とも話をしました。それが2007年の暮れなので、4年くらい前からそういうことで表面に出ちゃったわけですね。

−−今、これだけの悲劇を目の当たりにしながら、それでも原発を続けようとしていることについてどう思われますか?

高橋:未だに起こったことが信じられないくらいの感覚ではいます。実際、この影響がどこにどう出るのかは、10年20年経ってみないと誰にもわからないですよね。ただ、10年経って小児ガンが増えるなど、酷いことになったとしても、原発推進派の人たちは、当時の医学の水準では予見できなかったとか、直接の因果関係は認められないと言うに違いないと思うんですよね。

−−佐賀の玄海原発にしたって何かあったときに自分たちが一番最初の被害者になることがわかっていながら、推進したいという人たちはなんなんだろうと思いますね。そんなに補助金は魅力的なのかと。

高橋:そうだと思いますよ。柏崎刈羽に行った時も、地元においての問題の深さは感じました。現地の人は話もしたがらない人が多いですし、刈羽の村長さんとかは、僕らの顔を見るのも嫌だと思っている。柏崎市は原発以外の産業がまだあるけれど、刈羽村は原発を誘致しなければ他になにもないところだということはあるんですけどね。

−−音楽業界も原発問題に対しては大人しい印象があります。

高橋:海外ではスリーマイルとかに対して、ロックアーティストがコンサートをやったりしましたけどね。ミュージシャンに関しては、このあいだ『朝日ジャーナル』にも書いたんですけど、ショックが大き過ぎるのと、これに対して音楽でいったい何を投げかけたらいいのか、というのがわからないくらいの出来事だったので、なかなか誰も何も発信できずにいるという状況があると思いますね。実際僕もそのことについては色んな人と話すんですけど、生半可な反原発ソングを歌うのもリアリティがないんですよ。

 僕が関わった反原発運動というのは、柏崎刈羽原発だけなんですけど、なぜ柏崎刈羽原発のときにやらなきゃいけないと思ったかというと、具体的に反対する事柄があったからなんです。つまり、 反原発といった大きなことを掲げても、敵が大きすぎるし、そのために集めなきゃいけないエネルギーもあまりに大きすぎて大海に石を投げるくらいにしかならないと思うんですけど、柏崎刈羽原発に関しては耐震強度を何倍も超えた衝撃を受けたにも関わらず、もう一回稼働させるようとしている。それは反原発、脱原発の議論以前のところで、再稼働には安全性に疑問がある、という問題だったので、ある程度具体化した課題として、やる価値があると思ったんですね。今、浜岡原発は止まったけど、今度は佐賀の玄海原発ですよね。これに対して何ができるかと考えていて、来週佐賀に行ってこようかとも思っているんです。

−−今起きている事故の収束の目処も立たず放射能も垂れ流し。にも関わらず安全が確認できたから再稼働するというのはおかしいですよね。

高橋:安全は全く確認できてないし、原子力を今後も続けるという立場であったとしても、必要な安全指針はまだ国から出てないので、本来は次に進めないはずなんですね。でも、玄海原発の問題は、佐賀県だけでやっていたら再稼働すると思いますね。どれだけ全国的な問題として、多くの人が考えることにできるか。原発に関して、元東芝の原子炉の設計者の後藤政志さんという方とUSTREAMの放送をやったんですけど、後藤さんが言うには、みんなで行かなきゃ駄目だと。京大助教の小出裕章さんとか、地震学者の石橋克彦さんとか、メディアにある程度影響力がある人が佐賀に行かないと、と。後藤さんも「しかるべき説明会のときには俺が行く」と言ってくれたので、「じゃあ、みんなで佐賀に行こう」という話になりました。そういうところに持って行かないと、これまで反対し続けてきた佐賀の人たちだけでは、たぶん押し切られてしまうと思いますね。

 

10. 小説の執筆を契機に詞が書けるようになった

−−では、今後の最も大きなご予定は脱原発運動でしょうか?

高橋:そんなことはないですけど(笑)、こんな世の中になってしまったので、僕があと30年くらい生きるとして、原発の問題は30年間絶対ついて回りますよね。10年20年で終わるとは思えないので。それも合わせてこれから何をやるか考えないといけないんだろうなとは思いますね。

 音楽の仕事をなんだかんだ色々やってきて、多分今日お話していないこともあると思うんですね。今も評論家的なこともやり、音楽配信もやり、オーディオ界にも首をつっこみ、レコーディングエンジニアとして日雇い的に仕事をしているところもあるし、レーベル業はストップしてますけど、まあ、これから先何で食べていけるかは全然わからないですね。1つのことで食べていけるとは到底思えないです。九州でライブハウスをやっている友達がいるので、PAとして雇ってくれないかなとか、そういうことすら考えてしまいます(笑)。あと、小説を書いたのでどこかで出版したいですね。

−−小説まで書かれているんですか? そんなに色々やっていて睡眠時間はちゃんとありますか?

高橋:すごい寝てますよ(笑)。あと、50代になってから一人で歌い始めたりしていますね。

−−どんどん若返っていきますね(笑)。

高橋:結局、やってなかったことをやりたくなったんですよね。僕は今までも作曲はしていて、頼まれれば曲はいくらでも書けるんですけど、詞は全然書けなかったんです。でも、ある日、急に小説を思いついて書いたんですよ。そうしたら詞も書けるようになって、26曲くらい書いたんですよ。それはどうしたらいいかと。

−−ますます楽しい人生になっていますね(笑)。是非、高橋さんご自身のアルバムを出して下さいよ。

高橋:楽しいのかどうかはあまりよくわからない (笑)。他の人のことはものすごくアイデアが出るんですね。だから人のプロデュースとか、レコーディングはいくらでもやれるんですけど、自分のことは全然先に進まないですね。もともと、自分のことにはあまり興味が向かないというのもあるんです。若い頃、周りの人にたくさん凄い人がいて、大成功するのを見てきたせいもあるかもしれない。桑田佳祐さんも近くで見てたし、大学の頃に一緒にバンドをやっていたドラマーは、同時にRCサクセションをやってたんですよ。その頃はRCサクセションが一番不遇な時期で、3人でエレキ持って始めた時期でした。それで、理由は覚えてないんですけど、3人が練習しているスタジオに呼ばれて行って、清志郎さんにアンプの使い方を教えたりしてたんですが、2年後にはすごいことになって。あとは同じく大学のとき、ちょろっとリハしたバンドに女の子が二人いて、一人が国府弘子さん、もう一人が小林明子さんなんですよ。2回くらいしか練習しなかったんですけど、それも2年くらいしたら「あれ? この人…」みたいな(笑)。

−−小西康晴さんもお知り合いなんですよね?

高橋:はちみつぱいの和田博巳さんが札幌で和田珈琲店というお店をやっていた時代があるんですが、小西君はそこの常連で、その頃、僕が『Player』で書いてた記事を和田さんや小西君が札幌で読んでいたらしくて、面白いと思っていたのか「高橋健太郎という男に会ってみよう」と、和田さんが東京に帰ってきたときに人づてに呼び出されたんですね。それで会いに行ったら大学生だった小西君も連れてきていて。

−−高橋さんは和田さんのような上の世代と、小西さんのような下の世代の真ん中でいいポジションですよね。

高橋:そうですね。僕の世代ってすごく面白い世代で、3年上は山下達郎さんの世代になるんですね。僕はシュガー・ベイブはお客さんが5人くらいしかいない頃から観ているんです。それで、僕の世代が桑田佳祐さんで、3年下になると小西君なんですね。世の中的には70年代がシュガー・ベイブ、80年代がサザンオールスターズ、そして90年代はピチカート・ファイヴと3ディケイドなんですけど、僕から見ると3年先輩か3年後輩でしかないんですね。そんな間にいるんですよね。

−−ちなみに和田博巳さんは今なにをされているんですか?

高橋:和田さんは今、オーディオ評論家としてすごく売れている。和田さんは元はちみつぱいで、細野晴臣さんとか松田幸一さんとか色んなミュージシャンのマネージャーを経由し、札幌に戻ってバーをやり、今は東京にいらっしゃるんですけど、それ以前からオーディオに対しての深い知識を持っていたんですね。それで、5年前に店を畳んだときに、「これからの人生はオーディオをやる」と言って東京に戻ってきて、5年後にはもうオーディオ評論界でダントツですね。というのは、和田さんみたいにミュージシャンの経験があって、なおかつ、音楽業界の裏の裏まで知っている人がオーディオ評論家をやっている例が他にないから、ある意味レベルが全然違うわけですよ。僕にとっても、オーディオの師匠ですし。

 あと、オーディオの本って、今は50代くらいの人たちが主な読者層なんですが、そうするとオーディオ=クラシックじゃない時代になってしまったので、昔からのオーディオ界の先生の言葉は全然説得力を持たないんですね。コンピューターも入ってきて、PCオーディオとか、新しい部分がものすごく出てきているからそういうところにも対応しないといけないですしね。和田さんはそのあたりも敏感に反応して、新しい提案をしている。オーディオ評論界の中では還暦の和田さんですら超若手になるみたいですよ(笑)。

 

11. 「録音の歴史」について掘り下げていきたい

高橋健太郎 11

−−高橋さんは常に時代の先を見越してタイミングよく方向を変えてきていらっしゃいますよね。

高橋:そんなことないですよ(笑)。肩書きの中では音楽評論家が多分一番有名だと思うんですけども、音楽評論家になりたくてなったわけじゃないんですね。ある日声をかけられて、お金がないからバイトでやってみたということでしか始めてないですし…。

−−言葉は悪いですが、行き当たりばったりですね(笑)。

高橋:その通りですね(笑)。でも若いうちって誰でもいきあたりばったりで、そのうち「これが俺の道だ」と思って続けるようになるわけじゃないですか。僕は何をやっても「これが天職?」とずっと疑問に思っていて、ある時期ライターとして売れはしたけれど、「天職とは違うんじゃないかな」という意識は常にありました。他のことにしても、いつも「こんなの続くわけないな」と思っていたんですよ。90年代になってレコーディングの仕事を始めて、それはそれでまたいい時代だったから、湯水のようなお金を使って、ニューヨークで録って、ということもたくさんやったわけじゃないですか。

−−今の若い人たちが聞いたら信じられないですよね。

高橋:首締められますよね(笑)。でも、「これが続くわけないな」といつも思っていて、インディーズをやって、すごくラッキーな経験もしたけど、やはり同じように思って、すると、みんな崩れていくんですね。それで、今はまあ、音楽業界はこの状態ですから、かなり行き場がない(笑)。

−−(笑)。

高橋:だから音楽の世界で、安定した職業があるという考え方自体が間違っているというか、そんなに甘いものじゃないと思うところはありますよね。10年20年単位では存在するかもしれないけど、50年単位では存在しないかもしれない。そういう職業ばかりだと思う。

−−おっしゃる通りだと思います。

高橋:数年前からテーマにしているのは、これはどちらかというとライターとしてなんですけど、僕は音楽マニアで、レコードマニアで、ある時期まではレコードが命だったんですね。でも、レコードをある程度買っちゃったなと思ったときに、レコードマニアの感覚でプロオーディオに入ったんですね。その感覚は古いジャズの名盤を買うとかいうのとあまり変わらないんですよ。そのレコードが作られた時代の録音機材を集めてみると、やっぱりレコードだけではわからないことがわかるんですね。音楽とオーディオと出てきた音の有機的な関係は、自分で触ることで初めてわかる。で、この20年間くらいで、ある程度色んな機材を触ってきたし、ラッキーなことに色んな海外のスタジオも見てこられたので、今までとは違う、音楽とオーディオと歴史の読み物みたいなものを作り出したいなとは思っているんですね。

 例えば、今『Stereo Sound』という雑誌で「スタジオの音が聞こえる」という連載記事を書いているんですが、そこでは、このアルバムの影にはどういう機材があってどういう発明があって、どういう時代背景があって、そのサウンドにたどり着いたのか、ということを掘り下げるものを書いています。もっと大きな話でいうと、この100年以上前からの録音音楽の歴史を3〜4年前から自分なりに研究しているんですよ。その1つのきっかけは、アメリカでは著作権の切れた音源が図書館なんかにアーカイブ化されている。それが5年くらい前からネット上でたくさん聞けるようになった。おかげで、1920年より前の音源が、突然、いくらでも聴けるようになったんですね。

 これまで、僕らみたいなポピュラー音楽の評論家は、みんな1920年で止まっていたところがあった。というのも、たいていジャズやブルースの評論家が歴史を掘り下げていた。でも、1920年以前になるとジャズがなくなっていくから、そこで止まっちゃうんです。それ以前は面白くないと。なおかつ昔の音源が劣化していてちゃんと聴けなかった。ところが、それがインターネットアーカイブのおかげで、ある日聴けるようになったんですね。それを片っ端から聴いていったら、全然違う世界があるんです。1890年代も1900年代も1910年代も違う世界があって、まあ1910年代になるとちょっとジャズとかブルースが出てきますけど、1920年にラジオが始まってまた急に変わるんですよ。1925年に電機録音になってまた変わるみたいな。

−−つまり「録音の歴史」みたいなものを調べているんですか?

高橋:そうです。今はそれが音源で聴けるし、YouTubeにもものすごい映像がころがっているので、「これ面白いな」と思って2回くらいシリーズの講座をやったんです。録音の歴史に関しては、研究されてないことがものすごくあるんですね。その辺をちゃんと掘り下げてみたいなと思っているんです。僕はレコードが大好きだった。でも、そのレコードを取り巻く状況が、今はすごく閉塞的になってしまった。じゃあ今後、録音文化はどうなるんだろうということを19世紀に遡って、もう一度、考えてみたいんですよね。

−−それは是非1冊の本にまとめて欲しいですね。本日はお忙しい中ありがとうございました。 

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

ライター、エンジニア、DJなど、本当に沢山の顔をお持ちの高橋さん。また、原発や音楽著作権、輸入CDの規制など、社会的な問題でも結果を残しており、その行動力には本当に驚きました。インタビュー中、「自分はラッキーだった」と何度かおっしゃっていましたが、常に時代の流れを見越して方向転回ができる柔軟性と好奇心がその運を引き寄せたのではないでしょうか。小説の執筆やレコーディングの歴史の研究など、未だに新しいことへの挑戦を続けていらっしゃる高橋さん。今後も高橋さんならではの独特な視点と行動力で音楽業界を盛り上げていっていただきたいと思います。

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