第98回 案納 俊昭 氏 株式会社スペースシャワーネットワーク 常務執行役員 ミュージック&パブリッシング事業部門長
株式会社スペースシャワーネットワーク 常務執行役員 ミュージック&パブリッシング事業部門長
今回の「Musicman’s RELAY」は高橋健太郎さんからのご紹介で、案納俊昭さんのご登場です。案納さんは、1983年に同志社大学を卒業し、1989年に同大学の軽音楽部OBだった中井猛さん(スペースシャワーネットワーク相談役)、同じく大学の先輩にあたる近藤正司さん(スペースシャワーネットワーク取締役)らと共に現スペースシャワーネットワーク設立に参加しました。その後、セップが設立され常務、社長を歴任。その間にハイラインレコード社長に就任し、日本のインディーズシーンを牽引しました。そして、スペースシャワーネットワーク取締役やブルース・インターアクションズ社長など、重役に次々と抜擢され、2011年10月には、スペースシャワーネットワーク常務執行役員に就任されました。今回のインタビューでは、スペースシャワーの設立秘話からグループ再編の裏事情、今後の展望などを伺いました。
プロフィール
案納 俊昭(あんのう・としあき)
株式会社スペースシャワーネットワーク 常務執行役員 ミュージック&パブリッシング事業部門長
1983.3 同志社大学卒業
1989.9 (株)スペースシャワー 入社
1993.12 (株)セップ設立 常務取締役 就任
1997.4 (株)ハイラインレコード設立 代表取締役社長 就任
2000.6 (株)セップ 代表取締役社長 就任
〃 (株)スペースシャワーネットワーク 取締役(事業開発担当)就任
2006.12 (株)ブルース・インターアクションズ 専務取締役 就任
2007.12 (株)ブルース・インターアクションズ 代表取締役社長 就任
2011.10 (株)スペースシャワーネットワーク 常務執行役員 就任(予定)
1. 洋楽を聴く少年時代〜福岡・久留米での日々
−−前回ご出演いただきました高橋健太郎さんと出会われたきっかけは何だったんですか?
案納:健太郎さんは、僕が社会人になった頃には既にライターとしてミュージックマガジンなどの音楽誌で活躍してらっしゃいましたが、そもそもはスペースシャワー(現:スペースシャワーネットワーク)を作った20年ほど前、初期の頃だと思うんですが、健太郎さんが企画構成、出演がJAGATARAのOTOで、ワールドミュージックの専門番組を作ったんですよ。それが最初の仕事ですね。
−−ずいぶん古くからのお付き合いなんですね。
案納:そうですね。その後、日本のインディーズが盛り上がり始めた頃にグループの事業の一環で、邦楽のインディーズ専門のレコードショップとしては初の店舗となるハイラインレコードを下北沢に作ったんですね。その流れでレーベル事業も行っていた時期があったんですが、その頃に健太郎さんの企画で岡村靖幸さんのトリビュートアルバムを作ったりしました。また、Pヴァイン作品のライナーを書いていただいたり、あるいは間接的に雑誌のCDレビューなどで作品を褒めていただいたり(笑)、色々お世話になっています。
−−案納さんから見て高橋さんはどのような人物なんでしょうか?
案納:音楽評論家でありながら、スタジオやレーベルを運営されたり、さらにエンジニア、プレーヤーでもありますし、最近は「OTOTOY」という音楽配信のウェブサイトもやられていますよね。音楽というカテゴリーの中で多面的に色々とやられているので、較べたらおこがましいですが僕も色んなことやりたい性格なので、似ているし面白いなと思っています。健太郎さんのツイッターをご覧になったことありますか?
−−もちろん拝見しています。
案納:すごく頻繁にツイートされていますし、ディベート上手ですよね。でも人柄はご存じの通りにこやかな人で、そういうギャップも面白いです。
−−高橋さんはネタがあると燃えるんでしょうね。
案納:燃えるんでしょうね(笑)。輸入盤規制のときもそうでしたし、原発のときもそうですけど、とにかく行動力があってすごいですよね。20年前はワールドミュージックブームだったということもあって、そのあたりの見識とか知識もすごかったですね。
−−ここからは案納さんご自身のお話を伺いたいのですが、お生まれはどちらでしょうか?
案納:生まれは福岡の久留米です。
−−実は私も久留米出身なんですが、この業界は九州出身の方が意外と多いですよね(笑)。
案納:僕もたまにお会いします。ミュージシャンにも多いですよね。チェッカーズとか松田聖子を筆頭に(笑)。シーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠さんは私より一回りくらい上なんですが、高校の軽音楽部の先輩なんですよ。そういうご縁もあって、当時はサンハウスのライブのお手伝いにも行ったことがあります。
−−もともとご家庭に音楽との接点がおありだったんですか?
案納:実家は普通の家ですけど、音楽の接点で言えば同居していた叔母が音楽好きで、洋楽のシングルをたくさん持っていたのと、福岡郊外に米軍基地がありまして、そこに叔母のボーイフレンドがいたのか、よく連れて行ってもらいました。当時日本ではグループサウンズが流行っていたと思うんですが、叔母の影響でサム&デイヴとかジミ・ヘンドリックスとか家にあった洋楽レコードをよく聴いていましたね。
−−それは案納さんが小学生くらいのときですか?
案納:そのくらいだったと思います。
−−そうすると同級生に音楽の趣味が合う子はあまりいませんよね。
案納:いなかったですね。小学校の頃はそんな感じでしたけど、中学くらいになるとみんなバンドを始めて、楽器屋というかスタジオのようなところに色んな人が集まっていましたね。
−−ご自身もバンドをやられていたんですか?
案納:そうですね。当時はみんな中学になったらフォークギターからエレキギターに持ち替えてバンドを始めるという感じでしたね。
−−当時、そういう連中は不良扱いされませんでしたか?
案納:そこまでではないですけど(笑)、エレキギターを始めると必ずキャロルの「ファンキー・モンキー・ベイビー」のイントロ弾き出すという時代で、グループサウンズからロックンロールに流行が移っていった頃ですから、多少そういう目で見られることもあったかもしれないですね。まぁ、それなりに悪い奴もいましたしね(笑)。
2. スペースシャワーの立ち上げに参加
−−大学はどちらへ進まれたんですか?
案納:京都の同志社大学です。
−−大学時代はどのように過ごされたんですか?
案納:大学でも軽音楽部に入っていて、あまり学校へ行かずに音楽をやって、映画を観て、本屋を回って…(笑)。しょうもない学生の典型ですけど、体育会系ではなかったですね。
−−京都は大学生にとって街のサイズがちょうどいいというか、楽しそうなイメージがあります。
案納:今思い返すとそうですよね。時間を潰すところもたくさんありますし、当時はまだ名画座みたいなところもいっぱいありましたしね。軟派な学生にはいい街です(笑)。
−−京都の大学を選ばれたのもそういったイメージを持っていたからですか?
案納:他の大学に合格しなかったというのもあるんですけど(笑)、九州は心理的に割と関西に近いんですよね。昔から吉本のお笑い番組が放送されていましたし、京都に行きたかったんですよね。もちろん東京は田舎者にとっては別格の憧れがありましたが、大学時代は京都に行って良かったと思います。古い街だけど新しいものがよく生まれるじゃないですか。時代的には関西ブルースムーブメントみたいなものもありつつ、一方ではニューウェイヴが京都や関西あたりで盛り上がっていましたしね。
−−就職活動はいかがでしたか?
案納:のんびりしていましたね(笑)。学部が新聞学科というマスコミやジャーナリストを目指している人が多い学部だったので、そういう企業は一通りチャレンジしましたが、たいして特技もない学生が大企業に入れるわけもなく…(笑)。そんなこんなで、今スペースシャワーの編成取締役をやっている近藤正司さんに紹介してもらってエキスプレスという大阪にあるテレビ・CMの制作会社に入りました。
−−では、人脈は関西の方が多いんでしょうか?
案納:多いですね。同志社の軽音楽部の一回り上にスペースシャワーの創立者で、現 相談役の中井猛さんもいらっしゃいました。そういうご縁もあって、4年くらいエキスプレスで働いて、その後、26〜27歳のときに東京に出てきて、一旦違う会社で映像の仕事をしていたんですが、スペースシャワーを立ち上げるときに中井さんに声をかけていただいてお手伝いすることになったんです。
−−中井さんとはどのように知り合われたんですか?
案納:中井さんは僕が学生の頃にはもう渡辺プロダクションの大阪支社で「ノンストップ」という部門をやられていて、すでに業界で大活躍されていました。当時、忌野清志郎さんや山下達郎さんが出ていたイベントをやったりと、大阪の音楽業界では有名な名物プロデューサーだったんですね。それで、中井さんがスペースシャワーを作るというときに、近藤さんも同志社の先輩だったので近藤さんを介して中井さんと知り合いました。それで「俺の後輩じゃないか」ということで、有無を言わさず中井さんに軟禁されちゃったんですよ(笑)。
−−軟禁ですか(笑)。
案納:当時アメリカにはMTVもありましたから、「これからは地上波でやってても仕方ないぞ」とか、「日本でもこれからは音楽チャンネルなんだ」「衛星を使って24時間音楽流せるチャンネル作れるんだから」とか言われて、最後には「とりあえず騙されたと思ってやってみろ」みたいな口説き文句に乗っちゃったんですよね。騙されちゃいました(笑)。
−−(笑)。音楽好きにとってはすごい局ができるというイメージがありましたよね。
案納:なぜか説得力あったんですよね。
−−実際、当時の地上波の音楽番組はつまらなかったです。
案納:音楽番組自体あまりなかった時代でしたよね。
−−プロモーションビデオを作っても流す番組がない時代だったんですよね。
案納:確かにそうですね。
−−立ち上げは思惑通りにいったんでしょうか?
案納:全然うまくいきませんでしたね。業界的に注目はされたと思うんですが、当時の日本はケーブルテレビも衛星放送も始まったばかりでしたから。半分笑い話になっちゃっていますけど、毎年20数億くらい赤字が貯まっていって100億近くになってしまったんですよ。それでも今まで地上波でやれなかったこととか、僕らがやりたかったことをやっていたので現場は楽しかったんですけどね。そういう所を意気に感じてレコード会社の方とかアーティストの方も協力してくださいましたし、そこにはグルーヴ感があって楽しかったんですけど、経営的には厳しかったですね。
それで、赤字を一掃するようなリストラが行われて資本が変わったんです。良くなってきたのはそれからですね。ちょうどその頃にスカパーができて、多チャンネルビジネスがようやく軌道に乗ってきたんですよ。ケーブルのインフラも全国に広がってきてホームパス(加入世帯)比率も上がっていきました。
3. 音楽を中心に事業を拡大〜セップ、ハイラインレコーズの設立
−−その後、セップを設立されたんですよね。
案納:そうですね。大赤字が出てしまったので一度リストラして減資して、さらに増資して再スタート、というときに社内も整理することになりました。40人くらいいた制作部門を切り離して、30人くらいにしてからセップを作ったんです。ただ、分社化とか制作子会社と対外的には言っていますけど、内部的には明らかなリストラで、僕はリストラされちゃったんです(笑)。
−−(笑)。仕事の内容はあまり変わらなかったんですか?
案納:いえ。今まではスペースシャワーで放送するための番組だけ作っていたんですが、基本的にはそれをやりながら、セップ独自の収益構造を作らないといけなかったんですよ。そこで、当時ビデオクリップを各アーティストが積極的に作り始めた時期だったので、ミュージックビデオやライブビデオを専門に作ろうということになったんですね。
−−セップはいい時期に滑り出したという感じでしょうか? 当時はセップにプロモーションビデオの制作を依頼することが主流になっていましたから。
案納:他にもプロモーションビデオを作っている会社はありましたが、ある程度まとまった形でそれなりの質と量でやっていましたから、会社を作って2〜3年くらいは成長しましたし、調子よかったですね。自分で言うのもなんですけど業績もよかったです(笑)。
−−当時は制作予算もたっぷりありましたね。
案納:そうなんですよね。メーカーの宣伝予算もまだありましたし、ビデオを作らないとスペースシャワーにも地上波のチャート番組にも流れないということで、ちょうどメディアとプロダクションの業務のサイクルが上手く合ったんでしょうね。
−−当時は傍から見ていて「上手いこと考えるな」と思っていました。ビデオを作るときはセップにお願いして、出来上がったビデオはスペースシャワーで流して(笑)。
案納:(笑)。実際「えげつない」とか言われたりしましたけど、本当にそんなことなかったんですよ。背水の陣で始めて、ただ自分たちにできることを探して、何年間か音楽だけの番組を作ってきたノウハウを自分たちの飯の食いぶちにしようと思っただけなんですね。そうしたら上手く回り始めたんです。
−−そのいい流れに乗って、今度はハイラインレコードを作られたわけですね。
案納:セップを作った当初から分かっていたことなんですが、クリエイティブを活かしてビジネスにすると言っても、結局は受託ビジネスなんですね。メーカーの宣伝費にもメディアにも左右されますし。いつまでもこのビジネスが成長するとは思えないという危惧もあって、当初はセップの新規ビジネスの一つとしてスタートしました。日本でインディーズが流行り出して、下北沢を中心にギターロックのバンドがたくさん出てきた時期なので、UKプロジェクトさんと共同で、インディーに特化したレコードショップとしてハイラインレコードを作ったんです。その流れでレーベルも始めました。
−−ハイラインレコードはレーベルが先じゃなくてショップが先だったんですね。
案納:そうですね。当時のインディーズのレコード屋というと西新宿にあるようなパンク専門店とかヘヴィメタ専門店とか、そういうのが多くていわゆるJ-POPのインディーズを扱う専門店は無かったんですね。それで、ハイラインを始めてさらにインディーズが盛り上がってきて、タワーレコードやHMVにもJインディーズとかインディーズコーナーが売り場としてできたんです。
−−下北沢にお店ができたのは何年ですか?
案納:97年です。
−−そして日本のインディーズブームの中心的な場所になっていたんですね。
案納:下北沢自体がそういう場所でしたし、UKプロジェクトさんがインディーシーンを引っ張ったところはありますよね。
−−しかし、ハイラインレコードは2008年に閉店してしまいますよね。
案納:そうですね。2001年にスペースシャワーが株式を公開するんですが、そのときに改めて事業を整理する必要があって、ハイラインレコードの事業をUKプロジェクトさんに譲渡したんです。事業というか具体的にはお店ですね。なので、スペースシャワーでは2001年まで運営していて、その時点で一度引かざるを得なかった社内事情もありました。
−−ビジネスとしては成り立っていたんですか?
案納:最初の1〜2年は良かったですね。当時は下北沢に来ないと買えない商品もありましたし、下北沢だからこそという雰囲気もあったんですが、渋谷のタワーレコードでもどこでも買えるようになって競争力は落ちました。そういう理由もあって、なかなか小さい坪数のお店だけでは採算が取れないですし、レーベル事業だけでそれを埋めることも難しいです。全てのリリース作品が売れるわけじゃないですからね。ただ、BUMP OF CHICKENを出したときはすごかったですね。
−−どういったいきさつでBUMP OF CHICKENのリリースに至ったんですか?
案納:当時お店に色んなバンドのCDやカセットを委託で置いていたんですが、その中にバンプのものがあったんですよ。お店の若い子がすごく気に入って何度かライブを観に行くうちに、色んなところで話題になってきたので、レーベルとしてリリースすることにしました。
−−そのBUMP OF CHICKENのメンバーがスペースシャワーカフェで働いていたという話を聞いたことがあるのですが、本当なんですか?
案納:本当です。ベースのチャマがキッチンに入ってボーカルのフジ君がフロアで働いていました。彼らがちょうど千葉から出てきて、いよいよ本格的に始めるぞというときに、お小遣い稼ぎというかそんな感じでやっていましたね。あの数年間は本当に面白かったです。インディーショップがあって、カフェというか人が集まる場所があって。
4. 人がやってないことをやりたい
−−案納さんはグループで新しい事業を始めるときに必ず責任ある立場になっていますよね?
案納:基本的には新しいもの好きというか、人がやってないことをやりたいというのはありますけど、ボスが中井さんなので有無を言わさずやることになってしまうという感じですね(笑)。
−−今もそうなんですか?(笑)。
案納:今、中井さんは相談役なんですけど、そういうオーラはありますね。もちろんよくしていただきましたし、中井さんがボスだったから色んなことをやらせてもらえたという恩義を感じています。
−−2000年にはセップの代表の他に、スペースシャワーの取締役にも就任されていますね。
案納:この頃、会社上場にむけてグループ全体の組織が変わって、中井さんがスペースシャワーの副社長から社長に就任されたんです。セップは中井さんが社長で僕が常務だったんですけど、中井さんがスペースシャワーに専任されたことで僕がセップの社長に就任して、また時期を同じくして後発のViewsic(現M-ON!)さんが出てきたので、対策を講じるべくセップの代表を務めながらスペースシャワーのマーケティングを兼任したりしていました。あと、チャンネルをもう1つ作ることになって、今は「スペースシャワーTV プラス」というチャンネル名になっていますけど、ニューズ・コーポレーション・ジャパンがやっていた「チャンネルV」の事業を譲渡していただいて「VMC」というチャンネル名でスタートさせました。
−−相当忙しかったんじゃないですか?
案納:忙しかったですが、何か新しいことがあると夢中になるので、あまり忙しいとは感じなかったですね。やっぱり貧乏性ですよね、やることがないと不安になりますよ(笑)。
−−(笑)。2006年にはブルース・インターアクションズにも関わられるようになりましたが、これはスペースシャワーがブルース・インターアクションズを買い取った形になるんでしょうか?
案納:そうですね。スペースシャワーグループとしては、多チャンネル事業がこのまま成長曲線を描くことはないと予想していたことと、もともと音楽好きが集まってできた会社でしたので、放送から音楽へと事業領域を規定し直した時期なんですね。その頃にバウンディというインディーズのディストリビューション会社を買い取る形でグループ会社化して、その翌年にブルース・インターアクションズのオーナーが引退されるということで、事業を引き継ぐ形で資本参画したんです。僕もPヴァインは単純にユーザーとして好きなレーベルでしたし、人ごとだと思って話していたんですけど、中井さんの一声でブルース・インターアクションズに行くことになりまして(笑)。
−−(笑)。
案納:もしグループ化されたら手伝わせてもらおうという気はもちろんありましたが、「行ってこい」ということで、2006年の12月に専務取締役に就任しました。経営参画当時のスペースシャワーグループの資本は49%だったんですが、1年後に100%の子会社になって社長に就任した形ですね。
−−ブルース・インターアクションズは洋楽タイトルを多く扱っていますよね。
案納:今は邦楽比率がどんどん上がっていますが、アイテム数としては圧倒的に洋楽のライセンスCDが多いですね。創業以来、基本的に洋楽でやってきたレーベルです。僕自身はブラックミュージックが大好きなので、これまで通り洋楽を中心にやっていきたかったんですが、洋楽マーケットがさらにシュリンクしていることと、グループとしてはチャンネル運営とのシナジー効果を高めなければならないので、邦楽の制作、レーベルも強化してきました。配信の時代になるとパッケージだけではどうしようもないですし、邦楽のライツビジネスも強化していかないと苦しいです。
−−湾岸音響もブルース・インターアクションズの関連会社だったんですか?
案納:湾岸音響は、もともとブルース・インターアクションズが別会社で保有していたスタジオなんですよ。買収したときは、スタジオと音楽出版社と邦楽レーベルと洋楽レーベルの4つの会社に分かれていて、それを全部一緒にしたんです。
そして、今年の春にまた会社をPヴァインとブルース・インターアクションズの2つに分けました。それはグループの再編の中で色々な意味があるんですが、Pヴァインは主に従来からやってきた洋楽を中心とするレーベル会社に、ブルース・インターアクションズは邦楽制作と出版業務を請け負うことになりました。さらに、今年10月にスペースシャワーとブルース・インターアクションズを経営統合させ、グループ全体を音楽エンターテインメント会社という位置付けにして、ブルース・インターアクションズは株式会社スペースシャワーネットワークの音楽事業部門という扱いになります。
5. ブルース・インターアクションズ、バウンディとの事業統合
−−「ブルース・インターアクションズ」という名前は残らないんですか?
案納:社名は残らないですね。ブランド名として何かしらの形で残すかもしれないですけど、会社としては一旦閉じます。
−−同時にバウンディも統合されるんですか?
案納:そうですね。バウンディもバウンディという会社ではなくてスペースシャワーネットワークの中の、パッケージディストリビューションやデジタルディストリビューションなどを担当することになります。
−−同じくバウンディも会社名がなくなるんでしょうか?
案納:はい。サービス名として残るかもしれないですけど、法人としてはなくなります。
−−シンプルな形になりますね。
案納:「メディアがレーベルビジネスやるのか」とか「権利ビジネスやるのか」みたいなこと言われたりするんですが、360度ビジネスというか、みんな形を変え同じような方向を目指しているわけですよね。ただ我々の場合は権利ビジネスとメディアビジネスを作為的に一緒にしているわけではなくて、まずは組織論として一度統合して再編しようという感じですね。
レーベル事業は良いときと悪いときがあるじゃないですか。分社化したPヴァインは、規模感は大きくありませんが安定していて、毎月大体決められた数のリリースがあるんですよ。ただ、邦楽制作は毎月何タイトルも出せないので、本もそうですけど、経営的にはブレが激しいですよね。割と投資的な部分もありますし、今回の再編は次のステージに向けての前向きな再編であって、中長期的なスパンで本格的にやるために基盤を整えるという意味合いもあります。
−−では、アーティスト数や制作数がどんどん増えていく可能性も大きいと?
案納:数を増やすというより質を上げたいですね。でも我々をビジネスパートナーとして選んでくれるアーティストやレーベルがいらっしゃれば、がっちりやっていきたいと思います。メインプレーヤーはメジャーレーベル中心ですけど、新しいアーティストやクリエイターがステップアップしていくプロセスをサポートしたり、そういう役目をグループとしてやっていければと思います。
−−案納さんから見て、これからの音楽業界はどうなると思われますか?
案納:それは僕の口からは語れません(笑)。答えがあったらやっています(笑)。今は良くも悪くも色んな業種が入ってきて形がどんどん変わってきていますし、昔と違って作る人と聴く人との境目がなくなってきているじゃないですか。みんなが作り手であり送り手であり消費者でもある。なので、コミュニケーションとかネットワークの真ん中に音楽があって、それが何らかのビジネスになるんじゃないか? というイメージなんですね。
−−Facebookで「Pandora」について書かれていましたが、興味をお持ちなんですか?
案納:そうですね。みんな言っていますが、一曲単位で音源を売るよりは、サービスに対してお金を払ってもらう。利便性が高いとか、得だと思えるサービスにはみんなお金を払ってくれますし、音楽全般がダメになったわけでもないと思うので。今までは全部同じパターンで、同じ物流、同じ製造、同じ仕組みで同じ商流でしたが、目的に応じて音楽を提供するスタイルに変わるんだろうなとは思います。そういう中で「Pandora」とか「Spotify」などの定額制ストリーミングサービスなどは個人的に興味があります。
−−定額制ストリーミングサービスは、日本だけ遅れている印象がありますよね。
案納:単純に風土の違いもありますけど、著作権の仕組みとか隣接権の許諾の仕組みとか、日本は一括してやるところがないとか色々理由はありますよね。レーベルをやっている立場上は、新しいサービスで採算がとれればいいんですが、既存の収益はやはり確保しておきたいというのが本音です。
ただ、ユーザーはいつまでも1枚3000円近いものを買わないでしょうね。好きなものにはお金を出してくれるので、それに合わせたサービス考えるべきだと思います。
−−スペースシャワーグループではストリーミングでの配信事業も視野入っているんでしょうか?
案納:今後は目指していかないと、と個人的には思いますね。スペースシャワーはある時期まで音楽を活性化するメディアだったりツールとして多少は音楽業界の役に立てたかもしれないですけど、ソーシャルネットワークの時代になったり、メディア環境も変わっているので、それに合わせたサービスをグループの立場で考えていく必要があると思います。旧来型の放送ビジネスにとらわれていると企業としての成長はないですよね。それがどういうものかはわからないですけど、多少のリスクを負ってでも新しい音楽サービスをやっていかなければならないという責務は感じています。
−−素早く舵を切れないということが理由で、今や日本が世界で1番CDが売れる国になったわけですよね。皮肉な結果ですよね。
案納:そうですね。ただ、実際そこの恩恵を預かっているというところもありますからね。
6. 人の往来が多い場所は必ず面白いものが生まれる
−−グループとしては、スペースシャワーTV ザ・ダイナーや渋谷WWWなどライブスペースの進出も積極的に行われていますよね。これらはスペースシャワーで放送できるような設備になっているんですか?
案納:よく中継やUstしたりしていますね。そこで番組を作ったりイベントを連動させたりもしています。今は放送だけじゃなく、ウェブやモバイルとリアルスペースを連動させないと厳しいですし、クライアントさんもそういうのを望んでいます。もちろん小屋は小屋のビジネスとして成立しないといけないですし、今は色々と模索中です。
−−ニコニコ動画などは、リアルとネットで収益を生む比較的新しい方法のサービスだと思うのですが、そのあたりの動きはやはり気にされていますか?
案納:無視はできないですよね。たくさんの集客能力がありますし、人の往来が多い場所は必ず面白いものが生まれますからね。初期のスペースシャワーもそうだったんですが、たくさんの人が出入りした後に面白い音楽が生まれたり、新しいスターが生まれたりしたんですね。今のニコニコ動画も我々とは多少文化圏は違いますが、単純にインフラの会社という枠を超えて「ニコファーレ」を作ったり、実際にヒットが生み出していますよね。
−−最後にプライベートなこともお伺いしたいのですが、今は鎌倉にお住まいだそうですね。
案納:そうなんです。
−−都心まで通うのは大変じゃないんですか?
案納:通勤は確かに遠いですね(笑)。もう慣れましたけど。
−−何年前からお住まいなんですか?
案納:5年くらい前ですね。その頃ずっとセップにいたのでちょっと環境を変えようと思っていて、若干リタイアモードだったんですけど(笑)。引っ越してからいきなりPヴァインに行くことになったので、最初の1年くらいは大変でしたね。
−−鎌倉は有名なミュージシャンも多く輩出していますよね。
案納:多いですよね。ミュージシャンも多いですし、音楽関係の方も多いですね。
−−いわゆる趣味はあまりお持ちでないんですか?
案納:趣味を仕事にしてしまったので(笑)。だから仕事しているという感じがあまりないんですよ。文化祭や部活の延長みたいな感覚ですね。
−−案納さんは表情がとても明るく感じます。好きなことを颯爽とやっていらっしゃるといいますか…
案納:そんなことないです(笑)。見栄を張っているだけで、今まさに会社でものすごいことになっています(笑)。ただ、起業しているオーナーではないので、どこかで腹をくくっているというか、サラリーマンですからなるようにしかならないですよね。いつクビになるかわからないし、特に子会社の社長なんてやっていると「業績ダメだったら…」みたいなこともありえますから。
−−鎌倉での生活はいかがですか?
案納:オン・オフができていいですね。特に夏は早めに帰宅して海の家に行ってそこでご飯を食べたりするんですけど。
−−案納さんはそのうち海の家を経営しているんじゃないでしょうかね?(笑)。
案納:やりたいですけどね(笑)。鎌倉にライブハウスを作って、年に2〜3回野外イベントをやるのが密かな夢なんですよ(笑)。ご飯が食べられてお酒も飲めて音楽が聴ける場所を作りたいですね。
−−それは最高ですね。案納さんの夢も含めて、今後の益々のご活躍をお祈りしております。本日はお忙しい中ありがとうございました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
とても朗らかな人柄で、ご自身のプライベートからスペースシャワー設立、グループの再編などの突っ込んだ質問にも終始笑顔で答えてくださった案納さん。どの質問に対しても的確なお答えをいただくことができ、重役を歴任しスペースシャワーを支え続けた実績にも納得させられました。今年に入り、大規模なグループ改編を重ね、総合エンターテイメント企業としての一歩を踏み出したスペースシャワーネットワークと案納さんの今後に注目です!