第99回 斉藤 正明 氏 ビクターエンタテインメント株式会社 代表取締役社長
ビクターエンタテインメント株式会社 代表取締役社長
今回の「Musicman’s RELAY」は案納俊昭さんからのご紹介で、ビクターエンタテインメント 代表取締役社長 斉藤正明さんのご登場です。大学卒業後、東芝音楽工業(現EMIミュージック・ジャパン)に入社された斉藤さんは、管理部門、社長秘書、経営企画、そして関連会社出向とレコード会社としては異色のキャリアを積み、その後、洋楽部門での数々の実績を評価され、弱冠49才で社長に就任。宇多田ヒカルのビッグセールスと続く椎名林檎、矢井田瞳などのヒットにより、見事に邦楽も立て直されます。現在は、これまでの豊富なご経験を総動員し、ビクターエンタテインメントの改革に邁進されている斉藤さんに、ご自身のキャリアやビクターの改革、そして音楽業界の今後についてお話を伺いました。
プロフィール
斉藤 正明(さいとう・まさあき)
ビクターエンタテインメント株式会社 代表取締役社長
昭和22年(1947年)5月22日生まれ
昭和45年4月 東芝EMI株式会社 入社
平成 7年6月 同社 取締役 洋楽制作本部長
平成 9年6月 同社 代表取締役社長
平成12年2月 イーエムアイ音楽出版株式会社 代表取締役社長
平成13年4月 株式会社ジャパン・ディストリビューションシステム 代表取締役会長
平成15年3月 社団法人日本レコード協会 副会長
平成15年6月 株式会社スペースシャワーネットワーク 取締役
平成17年1月 東芝EMI株式会社 代表取締役会長 兼 CEO
平成18年7月 株式会社M-site 代表取締役社長
平成20年10月 株式会社Contents League 取締役
平成21年1月 株式会社CUBE JAPAN 代表取締役
平成21年5月 株式会社Contents League 代表取締役社長
平成21年12月 ビクターエンタテインメント株式会社 代表取締役社長
平成21年12月 社団法人日本レコード協会 理事
平成22年1月 株式会社レコチョク 取締役
平成22年5月 一般社団法人日本レコード協会 副会長
平成23年6月 JVC・ケンウッド・ホールディングス株式会社(現㈱JVCケンウッド)
業務執行役員 ソフトエンタテインメント事業グループCOO
ビクタークリエイティブメディア株式会社 取締役
株式会社テイチクエンタテインメント 取締役
1. 東京の田舎?=葛飾柴又で育った少年時代
−−前回ご登場頂いた案納俊昭さんとはどのように出会われたんですか?
斉藤:私はEMI時代からずっとスペースシャワーネットワークの非常勤取締役をやっておりまして、ビクターに来てからもそれを継続しているんですが、その過程で中井さんに案納さんを紹介して頂きました。案納さんがブルースインターアクションズを担当される前は実際にお会いする機会もなかったんですが、案納さんが私と同業のレコード会社を担当されるようになったことで紹介して頂いたんですね。直近の話題で言えば、「アルカラ」といううちのアーティストのマネージメントを案納さんがやってくれています。
−−案納さんにはどのような印象をお持ちですか?
斉藤:非常に真面目な方ですよね。「私のようにもう少しいい加減にやってもいいんじゃない?」と思うときもあるくらいです(笑)。中井さんの信頼も厚いですし、スペースシャワーがこれから「コンテンツ」に対して手を広げなくてはならない中で、案納さんは非常に重要な役割を担われているなという印象ですね。
−−ここからは斉藤さんご自身のお話をお伺いしたいのですが、ご出身はどちらでしょうか?
斉藤:生まれは葛飾区柴又です。それこそ山田洋次監督か描くような世界で生まれ育ちまして、日が暮れるまで外で遊び回る典型的な下町っ子でした。
−−ご実家は帝釈天のそばだったんですか?
斉藤:ええ。昔、帝釈天に「子供の会」というのがありまして、それに属していたくらいで、帝釈天は家から歩いて10分かからない距離でした。帝釈天って神社とお寺が混合しているんですが、結構自由な場所で、境内や廊下、建物の中は鬼ごっこ、かくれんぼの格好の場所でしたね。その当時はまだ『男はつらいよ』は公開されていませんでしたから、柴又は無名の土地でした。
−−柴又は江戸川の土手もありますよね。
斉藤:そうですね。「矢切の渡し」なんて子供心に「なんでこんなことをやっているんだろう?」と思っていたところが、歌のテーマになったり寅さんで有名になったりしました(笑)。私が育った頃の柴又というのは本当に「東京の田舎」って感じだったんですよ。
−−それが急に寅さんで有名になってしまったと。
斉藤:そうですね。最初寅さんを観たときは妙な気持ちでしたね。私の友だちがやっていたスナックが舞台になった回があって、映画では池内淳子さんがママ役だったんですが、「お前じゃなくて池内さんがママだったら毎日でも行くのに」なんてみんなでからかったくらいで(笑)。まあ、そんな土地だったんですよ。音楽の”お”の字もないような…ガサツなね(笑)。
−−(笑)。柴又にはおいくつまでいらっしゃったんですか?
斉藤:結婚をするまでいましたから24、5年いました。実はソニーの前社長の榎本和友さんが柴又にお住まいで、私の幼なじみのやっている床屋の常連客だったらしいんですよ。それで幼なじみが「EMIの斉藤ってご存じですか?」と訊いたら飛び上がるほど驚かれたという、そんなエピソードもありますね(笑)。
−−それは凄い偶然ですね(笑)。
斉藤:そうですね。その床屋の主人とは幼少の頃からの友だちです。下町ですから、大工さんや床屋さん、植木屋さんとか、職人で家業がある友だちが本当に多いです。
−−そういった地元のご友人と今もお会いになることはあるんですか?
斉藤:まだ、実家がありますので、たまに帰りますけど、さすがに60才を過ぎますとなかなか会いませんね。ただ友だちはまだ地元にたくさんいます。
−−すると斉藤さんは地元の出世頭でしょうか。
斉藤:いえいえ。我々の時代の下町は、あまり上級の学校まで行かなかったんですよね。みんな中学を卒業して家業を継いだり、行っても工業高校、商業高校です。だから、私のように大学へ行く人はそんなに多くいなかったはずですし、しかも、我々はベビーブーマー真っ直中ですから、学校も人数がやたら多くて、その当時一学年550人、全校生徒で1,700人くらいいました(笑)。
−−今じゃ考えられないですね。10クラスくらいあったんでしょうか?
斉藤:1クラス50数名で、一学年11クラスありました。3回クラス換えしましたけど、知らない人がたくさんいましたからね。
2. レコード会社の管理部門→関連会社と異例のキャリア
−−音楽とあまり縁がない環境でお育ちになりながら、なぜ今のお仕事に就かれたのでしょうか?
斉藤:高校、大学と進学しまして、大学ではESSをやっていたんですが、その仲間に音楽が好きな人間が結構いまして、影響された部分があったのかもしれませんね。実は「法律の方へ行きたいな」と思って法学部に入ったんですが、2ヶ月くらいで挫折しまして、それでESSで活動していたんですね。
−−就職活動はかなりされたんですか?
斉藤:私の就職の頃はちょうど学園闘争の時期で、大学もレポート卒業の時代でしたから、就職活動はろくにしなかったんですが、ESSの仲間たちはみんな「海外熱」におかされていまして(笑)、商社とかに行きたがるわけです。ところが私はちょっとへそ曲がりなのか「できればメーカー系がいいな」と思っていたんですね。何かものを作る会社がよかったんですよ。
だからといって音楽ということもないんですが、たまたま東芝EMI、当時は「東芝音楽工業」と言っていましたが、その求人が出ていて試験を受けたら受かってしまって、他には就職試験受けていないんですよ。つまり最初に受けたのが東芝でそのまま内定までいってしまったので、私は就活らしい就活をしていないんです。
−−音楽にものすごく思い入れがあって、レコード会社に入られたというわけでもなかったんですか?
斉藤:そうですね。’70年に入社して最初に配属されたのは人事課でしたからね(笑)。「音楽やれなかったら死んじゃいます」というタイプではなかったですし、大学が大学でしたから、「これは間違いなく管理部門だな」と自分でも思っていまして、5年間人事課にいました。
−−ちなみに同期は何人ぐらいいらっしゃったんですか?
斉藤:’70年は東芝音楽工業史上、最高の人数が入社した年で、30名以上入社したと思います。その中で管理部門にいったのは2、3人でした。時代的にはレコード会社が「音楽産業」と言われるような、右肩上がりに規模が大きくなっていく入り口に立った時期と言えるでしょうか。その頃はまだ「音楽産業」なんて言われてなくて、単に「レコード会社」と呼ばれていましたからね。そんな時代でしたから、大学の友人たちはみんな「なんでレコード会社なの?」ってビックリしていましたね。
−−その頃(昭和45年)の東芝はどんな作品をリリースしていたんですか?
斉藤:実はつい先日も偶然お会いしたんですが、由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」、渚ゆう子さんやベンチャーズの一連の作品、欧陽菲菲さんの「雨の御堂筋」…そんな頃ですね。私はビートルズが好きで入社しましたが、入社した’70年ビートルズは解散状態でした。
同期の人間たちと較べてみても私は音楽へののめり込み方は異常に軽くて、「こんな人間が入っていいんだろうか…?」と思った覚えがあります。もちろん音楽が好きでしたし、ものを作っていると言っても、当時の東芝音楽工業は大きな規模の会社ではなかったですから、「全体が見える規模だから自分には合っているかな?」とも思っていました。
−−人事課の次はどこへ行かれたんですか?
斉藤:その次はどういうわけか社長秘書を2年間やったんですよ。人事は割と社長の近くにいるので、目につきやすかったんでしょうし、若手からできるだけ男性の秘書を作りたいというので秘書になりました。その後、イギリスへ派遣されて、EMIの研修に1年間行かせてもらいました。もともとESSだったということもあり英語に興味がありましたし、大学時代の英語なんてろくなもんじゃないので「いい勉強になるかな?」と思って行かせてもらい、帰国したらもう29歳になっていました。
帰国後、一番やりたかった洋楽へ行きまして「よし!」と思っていたら、たった3ヶ月で経営企画へ異動になりました。当時、ジョイント・ベンチャーとか海外とのやり取りが爆発的に増えた時期で、中・長期計画なんかを作成していたんですが、そこから人生がとんでもなく変わります。
−−何があったんですか?
斉藤:当時、東芝音楽工業が「ハイ・ミュージック」という関連会社を持っていたんですね。そこは所ジョージさんが所属していたプロダクションだったんですが、所さんが辞めた後くらいにそこへ出向させられたんです。行ったときには「2、3年かな?」と思っていたんですが、結局7年くらい演歌歌手やロックバンドのマネージメント業務をやりました。本社に戻ってきたのは39才くらいで、自分の心境としては「40前にしてようやく洋楽に戻れた」という感じでした。
−−では会社に入られてから17年間、いわゆるレコード会社らしい業務はあまりされてなかったんですか?
斉藤:プロダクション業務はやっていましたので、そこは音楽業界と言えば音楽業界でしたが、レコード会社としてのエッセンス、コアなところは40歳になるまでやっていないですね。それから、割と若いうちに関連会社へ行って、戻ってきたときには課長の年齢を越えていたので、本社の課長職ってやったことがないんですよ。一度現場のヘッドみたいなことをしたかったんですが、それはやったことがないんです。
3. 待望の洋楽配属は課長を飛び越え部長職で
−−本社に戻られたときの役職は何だったんですか?
斉藤:洋楽宣伝部長ですね。それで宣伝を2年くらいやり、次は洋楽全体を見るようになって、42〜49才くらいまでずっと洋楽をやっていました。ですから洋楽が私のレコード会社における原点だと思うんですが、本社に戻ったときは前からいる人たちの反感を買いました。私の同期の人間も洋楽にたくさんいましたが、彼らの上司になっちゃったわけですからね。現場も知らずにね。
−−それは斉藤さんも大変だったんじゃないですか?
斉藤:それはもう…すでに東芝EMIになっていましたが、洋楽は会社のメインでしたし、プライドも高かったですからね。「どこのオッサンか分からないのが来たな」という雰囲気がありましたよ。イジメとまではいきませんでしたが、最初はなんとなくブロックされていたような気がしますね。
−−斉藤さんに対して警戒心が働いたのでしょうか?
斉藤:今、ビクターでは一切そういったことを止めさせていますが、あの当時、関係会社は一段低く見られたんですよ。グループとかなんとか言いながら、関係会社に一度行きますと、こちらの心の持ちようもあるのかもしれませんが、どこかで垣根ができるんですね。その垣根を越えていきなり自分たちの上司に来たんですから、これは面白くないですよね。
−−でも、それは斉藤さんが大出世されたということでもあるわけですよね?
斉藤:どうなんでしょうね。47才くらいで取締役になりましたから、抜てきしていただいたということにはなるんでしょうね。で、49才で社長になってしまいましたから、それには昔の仲間たちは泡食ったと思いますね…本当に。
−−ご本人からはおっしゃりづらいことかもしれませんが、その抜てきの要因は何だったとお考えですか?
斉藤:私が社長になったときには100%EMIの会社でしたから、英語にある程度強かったことと、洋楽をやっていますと海外に人脈ができますから、任命権のあったEMIが知っている顔の中に私がいたということなんでしょうね。ただ、自慢話になってしまうかもしれませんが、私が部長をやっていた頃の東芝EMIの洋楽は、売上だけで240億くらいありましたからね。利益で言えば全社の6〜7割洋楽が稼いでいたと思います。
−−その頃の東芝EMIの洋楽にはどんなアーティストがいたんですか?
斉藤:EMIはイギリスの会社ですから、ペットショップボーイズやレディオヘッド、ブラーといったUK系が多かったですね。あと私がやった中ではMCハマーとか、そのうちにワーナーからクイーンが移籍してきたりしました。
−−MCハマーをやられていたんですか。
斉藤:ええ。MCハマーには笑い話がありまして、アメリカのキャピトルから電話がかかってきて「MCハマーはこれから重要なアーティストになるから、ライブを観に行ってくれ」と言われまして、社内の担当者に「MCハマーってグループなの? 個人なの?」と訊いたら、「僕もよく分からないんですよ」って言うんですよ(笑)。まだ「MC」なんて言葉自体もよく分からない時代でしたからね。それで一緒にMZA有明へ行って、バックステージに入ったら30人くらい黒人がズラっといるわけですよ(笑)。で、どれがMCハマーなのかも分からない。「どれだ?」「いやこのグループ全体のことなんじゃないですかね…」なんて言い合いながら、結局最後までよく分からないまま帰ってきたんですよ。その後、『U Can’t Touch This』のミュージックビデオを観て、「このオッサンがMCハマーなのか…あのとき失礼がなくてよかったな」なんて言ったくらいです(笑)。
また、「NOW」や「ダンスマニア」のような洋楽コンピレーションを出したり、ビジネスをモザイクのように一つ一つ積み上げていって最終的に240億にした、その積み重ねが洋楽時代に一番評価されたことですし、7、80人のチームが一体となってその額を稼ぎ出したわけです。しかも、そういった状況が何年か続きましたから、そこが評価されたのでしょうね。また、同時にマネージメントもきっちりやりましたから、大変な利益率でしたし、当時は各社の洋楽の中でもトップクラスだったと思います。
4. モンスター=宇多田ヒカルの凄まじいセールス舞台裏
−−そして弱冠49才にして東芝EMIの社長になられたわけですね。
斉藤:ええ。そこで初めて邦楽にタッチするわけです。
−−それもまた遅いデビューですよね。
斉藤:そうですよね。本当に遅いデビューだと思いますし、それが社長になって一番大変なことでもありました。洋楽はある意味合理的なビジネスを展開できますが、邦楽はそれとはまた違った難しさがあります。その邦楽に49才にして初めて接したわけですし、しかも私が社長になったときの東芝EMIの邦楽は苦しい時期でしたから、「再建は大変だぞ…」と思っていました。そんなときに松任谷由実さんのベストが出せて、一息ついた後に宇多田ヒカルというモンスターに出会うわけです。続いて、椎名林檎、矢井田瞳、鬼束ちひろと女性アーティストが連続して当たります。
中でもヒカルちゃんのモンスターぶりは凄くて、「こんなことってあるんだな…」と思うくらいでした。なにしろ何十万枚がデイリーセールスですからね(笑)。単一商品で900万枚以上ってありえないですよね。しかも今時のタイプA、タイプBと、色々混ぜたような作品じゃなくて、たった1種類しかないアルバムですからね。
−−結局、宇多田ヒカルさんの『First Love』って900万枚売れたんですか?
斉藤:アジアなど海外を入れて990万枚位いっていると聞いています。とにかく奇跡的な数字だと思いますし、今後も絶対に破られることのない記録だと思います。当時、EMIの国際会議に行きましても900万枚なんて商品、アメリカ以外ないわけですし、しかも島国の日本でですから、私がプレゼンしますとみなさんスタンディングオベーションでした。それはそうで、当時、世界のEMIのトータル利益の6、7割が日本から行ったんですよ。
−−もの凄いヒキですよね。強運といいますか。
斉藤:なんでしょうね。もちろん担当の三宅くん(三宅彰氏)も立派ですけど、あの才能に出会った幸運はあったでしょうね。『Automatic』を最初に聴いたとき「これまでの音楽の比じゃないな」と思いましたものね。しかも『First Love』というアルバムは今聴いても素晴らしいアルバムですし、1枚目からベスト盤みたいな高い完成度の作品ですからね。
当時、御殿場に工場があったんですが、品切れ、品切れでとにかく他のラインを止めても間に合わないんですよ。最初は「200万枚いったぞ!」という感じだったんですが、人間というのはだんだん麻痺するもので(笑)、500万枚から上はもう完全に麻痺していました。傲慢な人間になっちゃったのかな? と思うくらいに(笑)。
その後、林檎ちゃんが100万越えるセールスを出して続いてくれました。もしヒカルちゃんだけだったらラックで片付けられてしまったかもしれませんが、そこから連続してヒットを出せたので、社長として邦楽への入り込みはスムーズにいったかなと思いますね。
−−宇多田さんがバンバン当たっているときというのは、社長としてどういう感覚だったんですか?
斉藤:それが…あんまり覚えてないんですよ。有頂天になった気持ちもないですし、酔いしれた覚えがないんですよ。前代未聞の大成功じゃないですか。もったいないですよね(笑)。
−−毎晩豪遊しまくったとかないんですか?(笑)
斉藤:あの当時EMIはワールドワイドですごく成績が悪かったんですよ。だから「日本からの利益を出して欲しい」と。東芝もあまり業績が良くなかったですから、両株主から配当を目一杯求められましたし、成金主義の豪遊ぶりというのは1つもなかったですよ。ああいう風に上がると後で反動が出ますから、「どう反動を押さえるか?」ということを随分考えていましたね。苦労性っていうか(笑)。
−−よく言えば冷静沈着、ですよね(笑)。
斉藤:その当時、みんなで有頂天になってバカ騒ぎするとか、社員にもさせなかったですし、私もそのつもりは全くなかったです。人生の中で唯一の機会だったのにね。あのときに遊びまくっていれば良かったなあって今は思いますけど、当時は真面目にやりました(笑)。
−−豪勢な社員旅行とかなかったんですか?
斉藤:みんなでハワイ行くとかやっておけば良かったんですけどね(笑)。もちろん特別賞与とかは出しましたが、少々のボーナスを出してみたところで遙かに手残りの方が多いです。左から右に商品が流れる御殿場工場なんて、ある面でお金を刷っているようなもんですから。
−−凄いですよね。もう1回味わいたいと思いますか?
斉藤:いやー、あの時はマーケットが凄かったですからね。この業界自体’98年がピークでそこから右肩下がりですから、丁度そのピークの頂点に宇多田さんがいたんだと思います。
5. ビクターエンターテイメントの立て直し〜コンサルタントとしての助言から社長に?
−−その後、’06年まで社長を務められていますね。
斉藤:そうですね。’97年に社長になり、宇多田さんがデビューして’98年のピークを経験して、一転そこから右肩下がり、そして’06年までEMIにお世話になりました。会社をマーケットに合わせてダウンサイジングするときにBMGにいた堂山昌司君が後をやるということで、8年も社長をやりましたし、丁度良い機会だと思いましてバトンタッチしました。ただ私が言いたいのは、決して赤字になったわけじゃないんです。私が社長の間で1回も赤字にしませんでしたから、赤字で社長が代わったということではなくて、これからダウンサイジングするのに適材が堂山君だったんですね。ただ、それ以来、私は外ではEMIの人と会いますが、EMIという会社を訪ねたことがなくて、なんとなく別の会社になったなという感じが今はしています。一緒に宇多田をやっていた三宅くんも独立しましたし、知っている人間が本当に少なくなってしまったなと思いますが、私が社長時代に採用した人たちがまだ残っていて、彼らが同期会をやるときに時々呼ばれたりしますね。
−−ちなみに石坂さんは先に出られたんですか?
斉藤:石坂さんはずっと前です。私の前に社長をしていた乙骨さんという方の時代に辞められました。乙骨さんとミーティングをして、私の方に来た石坂さんが「斉藤、辞めるから」と言ったのをいまだに覚えています。それで「石坂さんどうするんですか?」って訊いたら、「しばらくブラブラする」と言っていたんですが、翌日にはユニバーサルで働いておられました(笑)。
−−(笑)。
斉藤:これにはびっくりしました(笑)。徹底的に秘密を守られたんですね。
−−東芝EMIを辞められた後はどうされたんですか?
斉藤:個人の連絡事務所みたいなつもりでM-siteという会社を設立しました。そのとき、EMIはリストラの真っ直中でしたから、EMIを辞めた人たちの再就職の相談とかを色々と受けていました。実は私はEMIとの契約が残っていまして、辞めてから2年間同業他社に行ってはいけないという縛りがあったんですが、そもそも同業他社に行く気もなかったので、みんなの相談にのったり、頼まれたアーティストのエージェントみたいなことを、ビジネスとは全く離れてやっていました。
−−そこからどういった流れでビクターエンタテインメントとの関わりが出てきたのですか?
斉藤:ビクターエンタテインメント(以下 ビクター)の親会社であるJVCケンウッドのトップの河原さんという方は昔、東芝にいたんです。私が東芝EMIの社長をしているときに、河原さんは東芝EMIの非常勤役員をやって頂いていました。つまり、私が株主宛レポートする先の役員だったんです。
その河原さんからある日「斉藤さんを探していました」と電話がかかってきました。それで、お会いしたときに「実はビクターも赤字続きで苦労しているので、コンサルタントをやってもらえないか?」と依頼されたんですね。
−−最初はコンサルで、という話だったんですね。
斉藤:ええ。私も2年間のEMIの縛りが解けたところでしたので、前社長の加藤さんにもお会いして、コンサルをやることにしました。それで始めて半年ほど経った頃に、私は「ビクターは80年の歴史がある会社だが、今は自信を失って赤字も続いている。ここで思い切った手を打たないと駄目だ」と話しました。
そしてビクターにはあまり時間的猶予がないので「即戦力の人」、「業界で知られている人」、「アドミニストレーションもできる人」、そして今、各社の社長を見渡してもほとんどがそうであるように「A&R・宣伝の経験者である人」がトップ陣には必要ではないかと伝えました。
−−それはコンサルとしてご自身がおっしゃったことなんですか?
斉藤:そうです(笑)。そんなことを言っていたら、ある日、河原さんから電話がかかってきて「斉藤さんやってくれませんか?」と。
−−言ったことには責任持ってください、と(笑)。
斉藤:最初は「何を言っているのかな?」と思うくらいでして、「発表は12月1日にしたいので、12月1日に就任してください」とおっしゃるので「ちょっと考えさせてください」と返答したんですが、発表の10日前に「時間切れです。もう腹を決めてください」と言われまして、思わず「年齢も年齢ですから…」と自分の年齢を言ったら、72才の河原さんから「あなたはまだ若い」と言われてしまって(笑)。
6. 情報開示の徹底とオフィス移転でオープンな会社に
−−アドバイスをなさったときに、誰か具体的な方をイメージされていたんですか?
斉藤:社内でも抜擢できる人物がいれば、というような思いもありましたし、具体的な人を想像して言っていたわけではないですね。とにかく私もびっくりしましたけど、ビクターの社員もびっくりしたでしょうね。ビクターは本当にドメスティックな日本でも2番目に古いレコード会社ですから、外様には敷居の高い会社だと思っていましたしね。
−−ビクターの歴史の中で社外から社長を招いたことはなかったんですか?
斉藤:私が初めてだと思います。それから制作・宣伝経験者の社長も私が初めてじゃないでしょうか。とにかく社外から社長を迎えるなんていうことはこの会社の文化にはなかったですね。それぞれが一国一城の主みたいな人たちの集団ですから。
−−(笑)。
斉藤:それで受けざるを得なくなって受けたのが一昨年の12月1日で、もう1年10ヶ月経ったんですが、本当にあっという間でしたね。
−−実際、代表に就任されてみていかがですか?
斉藤:東芝と呼ばれていた時代のEMIとビクターは共通項がたくさんあるような気がしますね。まず音楽的にはポップスの王道というよりは、ロック志向、シンガーソングライター志向が強い会社で、あまり違和感はなかったですね。みなさんが暖かく迎えてくださったこともあって馴染むのは早かった気がします。
−−斉藤さんが社長に就任されるまで色々と売却の話が出ていましたよね。これは具体的に進んでいた話なんですか?
斉藤:進んでいましたが、土俵際で頑張ったということですかね。
−−斉藤さんが来られてビクターが最も変わった点は何だとお考えですか?
斉藤:それは本松(ビクターエンタテインメント経営企画部 本松直樹氏)からのほうがわかりやすいんじゃないかと思うんですが、どうですかね?
本松:私の目から見て、今までの経営と現場には微妙な距離があったと思います。でも、斉藤が就任してすぐに「まずオープンにしよう」という方針で、スタッフとのコミュニケーションが活発になりましたし、すごく距離が縮まったことが大きな変化だと思います。
斉藤:この辺で生い立ちが出てくるんですよね。私は下町っ子ですから相当あけすけで、人懐っこいんですよ(笑)。家に帰ろうにも、いっぱい友達が話しかけてきて、駅から真っ直ぐ帰れないようなところで育ったものですから (笑)。今のオフィスに引っ越してきたのも、構造改革の一環としてやったわけですが、グループが分散して物理的に離れていることで心理的にも離れていくんですね。移転を機にスタジオを除いてグループ全てを結集したので、これからさらにグループシナジーが出てくるんじゃないかと期待しています。
それから情報開示を徹底しました。徹底的に情報をオープンにすると政治が動かなくなるんですね。派閥ができたりグループができたりするのは、自分たちだけで情報を囲い込むからで、囲い込む情報が全くなくなったときにはそういうのができにくいんですね。そしてもう一つは人事異動ですね。徹底的に人員をシャッフルしました。人事異動は代表に就任して最初にやったことなんですが、私が12月1日に来て、翌年の4月に社員の1/3以上を動かしたんですが、事前の内示なしで、発表と同時に内示を出したら案外すんなりいきましたね。
−−様々な構造改革に着手されたとか?
斉藤:関係会社の改革に手をつけたり、人的構造改革なども遂行して色んな形でクローズしたビジネスもずいぶんありますね。一方でエンタテインメント・ラボのようなB to Bビジネスの部門を立ち上げたり、新しいこともやっているんですが、赤字が続くと社員の気持ちも内向きにシュリンクするので、とにかく最初の年に黒字転換することが絶対命題でした。結果的に黒字転換だけでなく予算も達成できましたので、一年目にしてみんな大きな自信になったんじゃないかなと思います。
−−ビクターからはサカナクションなど勢いのある若いアーティストも出てきていますよね。
斉藤:そうなんですが、弊社にはアイドルも韓流もないですし、これからはソニーさんのような幅の広さがほしいですよね。ただ、うちの体質に合わないのかもしれないですね。合わなくてもやらなくてはいけないとは思うんですが、なかなかみんな向いてくれない。これだけ所帯が大きいので、間口を広げたいと思っているんですけどね。
−−では、それは今後の課題ですね。
斉藤:ええ。課題はそこですね。内部の再構築はこの1年半でほとんど終わったんじゃないですかね。いくつか残っていますけども、大きいところは全て終わりましたので、今後はアーティストレパートリーを増やしていきたいですね。その前に私がいつまで社長をやるのかという問題があるんですけどね(笑)。できるだけ早く次の世代にと思っているんですけど、やりかけていることはやっていきたいなと思っています。
−−これまで打ち出された施策について手応えは感じてらっしゃいますか?
斉藤:不安定なこともたくさんありますが、2年連続で予算をきっちり達成すれば、一度きりの偶然じゃないとみんなも思ってくれるでしょうし、ビクターの社員はビジネスの基本が本当にできているので、方向さえ示せば今後も予算を達成できると思います。今、部門経営をやっていまして、各部門が1つの会社だと思ってやってもらっているんですが、だいぶ定着してきたような気がしますね。
これまでは、会社がどういう状態に置かれているか、という情報公開が徹底されていなかったんでしょうね。なんとなく上の方の人たちがボックスの中で経営をやっていて、しかもそのボックスからあまり情報が漏れてこないということですよね。それだと疑心暗鬼にもなりますし、不安にもなるということで、やはり私が一番心がけたのは情報公開です。レコード会社の中に、そうそう隠しておくような秘密なんてないですからね。
−−この新社屋は一面窓ですし、明るい感じがしますよね。そういったところからもオープンな印象を受けます。
斉藤:確かに明るいですね。このビルは柱がないんです。ワンフロア550坪あるんですが、柱がないので遮断するものが何もない。ですから、全部の部署が一望できます。とにかくグループを全部結集したかったんですね。やはり、30代で関係会社にいたことが関係しているのかもしれませんが、関係会社はどこかで一段下に見られますし、子会社という発想になるんですね。うちでは子会社なんて言葉は一切使いませんし、これから新しい人事制度を導入します。
−−それはどのような人事制度なんですか?
斉藤:どこの会社も正社員を採用できないから契約社員とかさまざまな名称で雇って、そういった彼らが重要な現場を背負い、8年も9年もそのままの立場でやっている現状がありますが、これを全部取り払うつもりです。そしてグループ会社間の人事交流も活発化させます。
7. 違法配信の撲滅とスーパースターの出現が鍵になる
−−斉藤さんは総務人事からスタートして、素晴らしいキャリアを積まれていますよね。
斉藤:キャリアはEMIで終わっていてもよかったんですけどね(笑)。でも、1年10ヶ月経ってみて楽しくやっています。きついですけどね。今はJVCケンウッドのソフト事業も全て担っているので、親会社にしょっちゅう呼ばれますし、夜は夜でできるだけたくさんライブを観ようと思っていますから。ライブの本数も相当ありますし、業界のお付き合いもありますしね。老骨にむち打ってやっています。
−−個人的な趣味の時間はありますか?
斉藤:EMIを辞めたときに、かみさんに「年に2回くらいは旅行しよう」と言っていたのが、ビクターに来てからはほとんどできなくなっちゃいましたね。週末に2日連続で休めることはめったにないですし、本当に自分の時間は皆無に近いです。会社の規模がそれなりに大きいので、アーティスト数も多いですし、観に行くライブの本数も多くなってしまいます。洋楽アーティストのライブにも行ったり、演歌のアーティストのファンの集いでご挨拶をした後にロックのライブに行ったり…ここまでカバーしている人はなかなかいないと思うんですけどね(笑)。
−−タフですね。
斉藤:体は丈夫ですね。私の一番の自慢は入院歴がないことなんですよ。たぶんボックリ逝くタイプですね(笑)。とにかく休まないんですよ。EMI時代から病気欠勤したのが1日しかないんです。若い頃にスキーに行って膝を痛めたときだけで。よくお相撲さんが「丈夫に産んでくれた両親に感謝したい」とか言っていますけど、私は感謝というか怨みたいくらいに丈夫ですね(笑)。
−−最後に音楽産業全体や今後のメーカーの行方についてご意見を伺いたいのですが。
斉藤:ここにきて音楽配信が前年割れをしてきて非常に心配しています。丁度、最高益だった98年の半分になったんですかね。シングルが持ち直したと言いながらも韓流やアイドル、ジャニーズさんあっての、という形になっているので、しばらくは低迷することを織り込んで経営をしなくてはいけないと思っています。
−−ここまで音楽産業が低迷した理由はなんだと思われますか?
斉藤:一番の問題は違法配信だと思います。ネット中を探せばなんらかの方法で音楽が無料で手に入りますし、それが若者を中心に蔓延していますよね。レコード業界をあげて罰則を設ける運動はしておりますので、状況も変わると思いますし、失ったものを少しでも取り返さないといけないんじゃないかと思いますね。
それとスーパースターが少し足りないかもしれないですね。スーパースターというのは時代をガラリと変えるくらいの存在だと思うんですが、そういったアーティストがあまりいないですよね。桑田佳祐さんはスーパースターを何十年もやっていて、彼のようなアーティストが出ればまた違うんですが、やはり、何十年に一度だからスーパースターなので。アメリカも全く同じで、レディー・ガガが出てきましたけど、あれもトレンドとして花開いたというよりは、レディー・ガガ固有の現象だろうと思うんですね。
−−そういった状況の中でレコード会社の役割は何だとお考えですか?
斉藤:レコード会社は配信についての手当をしながらその中で堅実にアーティストを作っていく作業を繰り返すこと以外できないですし、原点に帰るしかないと思っています。幸いうちの会社は原点の行動、つまりアーティストの発掘や育成が得意ですので、そこに大きな権限を与えて、後押しするしかないと思っています。
一方でアイドルやアニメはパッケージの中で主流を占めてきていますし、あれだけ間口が狭くて深く刺さる音楽ジャンルもないので、より力を入れていきたいとも思っていますが、弊社のグループの中には「FlyingDog」というアニメ音楽に非常に強い会社があります。ビクターに来たとき、グループ会社の中にこんなに活躍している会社があることには驚きました。
−−音楽業界が10年足らずでここまで変わってしまうなんて想像していませんでした。
斉藤:そんな世界に出戻るなんて異常ですよね(笑)。苦労するのがわかっているのに(笑)。今は低迷が続くことを織り込みながら違法ダウンロードをなくすためにレコード業界全体で議論していかないといけないですね。「プロモーションになれば」という考えのもと、YouTube含めて動画投稿サイトに積極的にビデオを公開していますが、これらは違法ダウンロードの温床という一面も持っているんですよ。私達は著作権の啓蒙活動や違法対策を講じながらも、違法行為に対しては、訴訟や損害賠償請求など断固とした強い姿勢を示さないと、今の流れは変えられないと思います。
−−是非、業界全体のためにも斉藤さんには頑張って頂きたいです。本日はお忙しい中ありがとうございました。ビクターエンタテインメントの益々のご発展と、斉藤さんのご活躍をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
明るく見晴らしのよいビクターエンタテインメント新社屋でお話をうかがった今回のリレーインタビュー。ビクターの改革真っ直中の斉藤さんは、常に明るく、社員の方々がどんどん相談に訪れるというお話も納得のオープンな人柄で、終始和やかな雰囲気で取材は進みました。斉藤さんの発言の端々からは厳しさとともに、社員に対する信頼と思いやり、そしてビクターをよりよい会社にしようという強い意志を感じました。社内改革も一段落された今、ビクターの今後の躍進に期待です。