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第101回 北川 直樹 氏 株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント 代表取締役 コーポレイト・エグゼクティブCEO

インタビュー リレーインタビュー

北川 直樹 氏
北川 直樹 氏

株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント 代表取締役 コーポレイト・エグゼクティブCEO/一般社団法人 日本レコード協会 会長 

今回の「Musicman’s RELAY」は高久光雄さんからのご紹介で、ソニー・ミュージックエンタテインメント 代表取締役 コーポレイト・エグゼクティブCEO 北川直樹さんのご登場です。大学在学中から当時のCBS・ソニーでアルバイトをされ、そこでの働きが認められ同社に入社されてからは、制作を中心に洋楽・邦楽でご活躍。途中、関連会社で映画の宣伝に携われるなど、幅広い経験を積まれました。その後、ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ、そしてソニー・ミュージックグループのリーダーとして、有能なスタッフを統率し、多くのヒット曲を送り出し続けていらっしゃいます。また現在は日本レコード協会 会長としても尽力されている北川さんに、ご自身のキャリア、そして想像を絶するほどの北川さんの「音楽愛」「レコード愛」についてたっぷり伺いました。

[2011年11月14日 / 千代田区六番町 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメントにて]

プロフィール
北川 直樹(きたがわ・なおき)
(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 代表取締役 コーポレイト・エグゼクティブCEO/一般社団法人 日本レコード協会 会長


昭和28年(1953年)9月11日生
昭和52年(1977年)3月 中央大学卒業
昭和52年(1977年)4月 (株)シービーエス・ソニー 入社(企画制作1部)
             以後、名古屋営業所販売促進課、第1AV制作1部、(株)シービーエス・ソニーグループ ESA&R1部課長、
             洋楽EPICレーベル次長等を歴任
平成10年(1998年)2月 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント ASR第1 チーフプロデューサー
平成10年(1998年)4月 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント ASR第3グループ 代表
平成12年(2000年)7月 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント Associated Records プレジデント
平成13年(2001年)10月 (株)ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ 代表取締役執行役員社長 就任
平成16年(2004年)6月 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント コーポレイト・エグゼクティブ
平成19年(2007年)4月 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 代表取締役 コーポレイト・エグゼクティブ CEO
平成19年(2007年)6月 ソニー(株) グループ・エグゼクティブ 就任 現在に至る
平成23年(2011年)5月 一般社団法人日本レコード協会 会長 就任 現在に至る


 

    1. 音楽に目覚めた小学校時代〜アニソン、GS、そして洋楽へ
    2. ロック喫茶通いの少年、日々音楽にのめり込む
    3. レコード代欲しさのバイトからCBSソニー入社へ
    4. 映画宣伝の仕事が今の自分を作った
    5. レコードオタクが社長になった!?〜北川氏を襲ったショックな出来事とは
    6. 幅広い音楽を送り出す音楽業界でありたい

 

1. 音楽に目覚めた小学校時代〜アニソン、GS、そして洋楽へ

−−前回ご出演いただきました高久光雄さんとの最初の出会いはいつだったんでしょうか?

北川:高久さんはCBSソニー時代の先輩なんです。私は入社して10ヶ月後に名古屋営業所に配属になりまして、そのときに高久さんが出張で来られて、南佳孝さんの『SOUTH OF THE BORDER』が出来上がったということで、マスターテープを持って一緒にFM局を回りました。それが高久さんとの最初の出会いですね。それ以来、色々とお付き合いさせていただいているんですが、高久さんと共通の趣味がオーディオで、1年に2回、業界関係者でオーディオの会をやっているんですよ。「はちみつ会」というんですが、主催者の和田博巳さん(オーディオ評論家)が、はちみつぱいのベーシストだったので、その名前になったんです。

−−「はちみつ会」のメンバーは何名ほどいらっしゃるんですか?

北川:先日は10人集まりました。みなさん相当マニアックな方ばかりです。趣味って仲間がいると燃えるじゃないですか。誰かが何かを買って「いいよ」なんて言われると火が付くんですよね(笑)。

−−(笑)。素晴らしい趣味だと思います。ここからは北川さんご自身について伺いたいのですが、ご出身はどちらですか?

北川:兵庫県の宝塚です。

−−宝塚には何歳頃までいらっしゃったんですか?

北川:小学校1年くらいまでだったと思います。それから東京へ引っ越して、小学校6年の頃に今度は名古屋、そして中学校3年の3学期にまた東京へ戻りました。父はNHKに勤務していたので転勤が多かったんですよ。

−−ご実家は音楽に繋がるような家庭環境でいらしたんですか?

北川:音楽に繋がるかどうかはわからないんですが、祖母が宝塚歌劇団の1期生なんです。それで私が物心ついたときには引退してピアノの先生をしていたので、夏休みに祖母の家に行くと生徒さんに教えている光景をよく見ました。

 夏休みは父が忙しかったので、母と私だけ兵庫に戻って、今はもうありませんが、宝塚ファミリーランドに行くのが楽しみでした。そこに祖母と行くとフリーパスなんですよ。だからファミリーランドの中は全て熟知しているくらい行きましたね。あと、宝塚歌劇もたくさん見ました。当時は女性が男役をやっていることが理解できなくて、祖母に説明されてもよくわかっていなかったですね(笑)。

−−北川さんご自身はピアノを習われなかったんですか?

北川:母がピアノを教えてくれたんですが、私にはすごく厳しかったんですね。今では母も反省しているようですが、ピアノは手の形が重要で、ちゃんとできていないと定規でパシッと叩かれたりするのですごく嫌で、バイエルが終わって、ツェルニーで止めてしまいました。中学校のときにピアノを習っている友達について行って見ていたんですが、教え方がとても丁寧で「母とは全然違うな」と思いましたね。

−−お母さんはスパルタだったんですね。音楽をよく聴くようになったのはいつ頃ですか?

北川:音楽は小学校から聴いていました。その頃から音楽にしか興味がなかったかもしれないですね。父が持っていたソニーのカセットデンスケをテレビの前に置いて、歌番組を録音したりしていました。ソノシートもよく聴いていました。そういったものは買ってもらえたので。

−−ソノシートでどのような音楽を聴いていたんですか?

北川:アニメの主題歌などを集めたりしていました。それで、小学校6年の頃からグループサウンズがすごく流行りだして、それもテレビの前にマイクを置いて録ってました。GSは洋楽をカバーしていることが多かったので、そこから洋楽を聴き始めました。一番好きだったのがザ・スパイダースで、彼らがカバーしている曲のセンスも好きでした。演奏力が凄いと思いました。

−−ザ・スパイダースはGSの中でも実力がありましたよね。

北川:ええ。全員がスターで、一番アーティスティックなグループだなと思っていました。不純な動機ですが、中学生のときに好きだった女の子が、モンキーズの大ファンだったんですね。そのときは名古屋に住んでいたんですが、ヤマハの名古屋店に行ったらモンキーズのコーナーに輸入盤があったんです。私は今までお小遣いを貯めて日本盤のLPを買っていたんですが、輸入盤はジャケットが違っていて高かったんですよ。あの当時で3,000円くらいしたんじゃないですかね。それで店員さんに「これは何ですか?」と訊いたら、「これがオリジナルなんですよ」と言われて滅茶苦茶欲しくなったんです。これを買ったら好きな子に見せようと思って(笑)。

−−あっ、そういう動機ですか(笑)。

北川:ええ(笑)。家に帰って「欲しい」と母に言ったら「お小遣いでなんとかしなさい」と言うので、ヤマハの店員さんに取り置きをお願いしたんですね。本当は取り置きできる期間は数週間なんですが、「1ヶ月待ってください」と熱心にお願いして、かわいそうだと思ったのか、取っておいてくれました。それが『ヘッドクォーターズ』だったんですよ。ファクトリーシールも初めてだったので「すごいな」と思いましたね。

 それでクレジットを見たら、なぜか色んなミュージシャンの名前が載っているんですよ。そのときも「あれ?」と思ったんですが、後になってモンキーズ自身が演奏していないことに気がついたんですね(笑)。多少は演奏していたんでしょうけど、ほとんどがエルヴィス・プレスリーのバンドメンバーでした。ギターをジェームズ・バートンが弾いていたり、そういったアーティストたちが演奏していたことに気づいてからは、「これはすごいアルバムかもしれない」と思うようになりました。

−−時代的には、ビートルズやベンチャーズの人気が高かったですよね。北川さんも聴いていらっしゃいましたか?

北川:もちろんビートルズもベンチャーズも聴いていました。モンキーズはむしろ好きな子が聴いていたというよこしまな気持ちだったんです(笑)。やはり、ビートルズやベンチャーズのほうが親しみやすかったですしね。

 

2. ロック喫茶通いの少年、日々音楽にのめり込む

ソニー・ミュージックエンタテインメント 代表取締役 コーポレイト・エグゼクティブCEO 北川直樹氏

−−ご自身でバンドを組んだりはされなかったんですか?

北川:やったんですけど、全然駄目でしたね(笑)。ギターが上手く弾けなくてサイドギター担当になり、もっと上手いヤツが入ってきてベースになり、最後はドラムをやろうと思ったら、うるさくて家では叩けないんですよね(笑)。結局、家にドラムを持っているお金持ちの子がドラムになって「あれっ?」みたいな(笑)。でも、楽器は買ったんですよ。あの頃は立派な楽器なんて買えませんでしたから、グヤトーンのギターとベースでした。グヤトーンはワンマイクだったので、ベースなんか思いっきり弾かないと音が出ないんですよね。あのときに「楽器を買える子と買えない子の差が出るな」と思いましたね。

−−親の財力の格差ですね(笑)。

北川:本当にそうですよ(笑)。そのグヤトーンもおふくろが「かわいそうだから」と新小岩にある通販会社へ直接買いに行ってくれたんですよ。「現金だと安いから」とか言って。

−−当時は金持ちのボンボンを騙して、いい楽器を買わせるとか、そんな感じでしたよね(笑)。

北川:そうそう(笑)。「これ、いいから買ったら?」みたいに言ってね。「バンドやろうぜ」って誘ったり。あのときにイクイップメントの重要性を思い知りましたよ。

−−ライブにも結構行っていたんですか?

北川:そうですね。モンキーズも武道館へ観に行きました。あとアニマルズが来日したときには、TVでやっていたりしたんですよね。ジョン・メイオールがハービー・マンデルとラリー・テーラーを引き連れて来日したときもTVでやっていた気がします。

−−それは中学生の頃ですか?

北川:中学の後半ですね。あとレコードは高くて買えませんでしたから、ずっとロック喫茶で音楽を聴いていました。通っていた中学校は制服がなく、髪型も自由だったので、髪を伸ばしていたんですが、やはり中学生って分かるんですよね(笑)。当時は中野エリアから中央線沿線のロック喫茶にビクビクしながら行っていました。そのときに和田博巳さんがやっていた『ムーヴィン』というロックバーにも行ったんですが、怖かったですよ。扉を開けるとグレイトフル・デッドなんかが大音量で流れていて、「ここはちょっと違うなぁ…」と思いつつ、座ったんですけど、店のサービスはゼロなんですよ(笑)。その隣にあった『キーボード』という店は非常に親しみやすかったですけどね。高校で京都に行ったときも、本当はいけないんですけど『ポパイ』というロック喫茶に行きました。

−−ロック喫茶通いの少年だったと。

北川:そうですね。京都の『ポパイ』ではELPのファーストと、マウンテンの『ナンタケット・スレイライド』がかかっていました。ELPはそこで初めて聴いて「凄い!」と思ったんですよ。「これは聴いたことない」と思いました。マウンテンの『ナンタケット・スレイライド』もすごく良かったですね。その後、予備校か大学生のときに渋谷の『ブラックホーク」という店にはまったんです。そこでは松平さんという方がレコードを回していて、松平さんはもともとDUGで働いていた方なんですが、シンガーソングライターものとかスワンプをかけるんです。これにははまりました。

−−高校はどちらに通われたんですか?

北川:都立練馬高校です。実は中三の三学期に東京へ引っ越しきたときに「多分、都立高校は受からない」と言われたんですよ。東京は名古屋と学習指導要領が違って、ある試験を受けたら内容が全然違っていて分からなかったんですね。それを先生に言ったら「えっ?」ってことになって「これでは都立は無理だ」と。そのときに「もし都立に受かれば、オーディオを買ってやる」という親父の提案があって、当時浅丘ルリ子さんが宣伝していたサンスイのステレオがすごく欲しかったので(笑)、必死に勉強してゲットしました(笑)。

−−当時の都立高校は制服もなければ髪の毛も伸ばし放題で、ロンドンブーツとかはいている人もいましたよね。

北川:私もはいていましたよ(笑)。ズボンはブーツカットで。自由な時代でしたね。勉強も全然していなかったですし、うちの高校から東大って一人もいないんじゃないかな…?(笑) 練馬高校って当時できたばかりの学校で、畑のど真ん中にあって、学校を見たときには「あぁ…」と思いましたね(笑)。しかも練馬駅の周りにレコード店なんかほとんどないので、中野に行って買っていました。

−−その後、中央大学に進まれていますね。やはり大学時代も音楽三昧ですか?

北川:そうですね。私は大学に入ってすぐに寮に入ったんですよ。そこはNHKの寮で2人一部屋なんですが、そこにサンスイのステレオを持ちこんで音楽を聴いていました。その部屋の隣に多摩美の先輩がいて、その人がアルバート・アイラーとかアブストラクトなジャズを聴くんですよ。「これ、わかんないわけ?」とか言われて、私もわかったような顔をして朝まで聴いていました(笑)。

−−今の時代の若い人たちに較べて、ずいぶん大人っぽい音楽の趣味ですよね。

北川:贅沢な時代でしたね。部屋ごとに音楽の趣味が違うんですよ。それでみんなオーディオ持っているんですね。隣の部屋の人はフリージャズも聴くだけじゃなくて、メインストリーム・ジャズも聴いていたんですが、最初の頃はジャズの間が不思議でしたね。私はジャズの良さが分かるのに2年くらいかかりました。

−−ジャズが分かるまで聴き続けたんですか?

北川:そうですね。でも、アルバート・アイラーとかセシル・テイラーとかは難しすぎてわかりませんでしたけどね(笑)。4ビートの演奏に関しては「こういうパターンなんだ」と分かってから好きになって、今もジャズは好きですね。

−−ところで、大学は東京なのになぜ寮に入っていたんですか?

北川:親父がまた転勤になってしまって、そのとき両親は広島だったんですよ。その後は大阪に行ったり、親父とおふくろと弟は転々としているんですよ。寮費も安かったですしね。朝食・夕食付きで一ヶ月2万円くらいだったんじゃないですかね。だから、昼さえ我慢すれば、残りの全てをレコードに注ぎ込めたんですよ(笑)。バイトしてもすべてレコードでした。本当にレコードだけでしたね、人生…。

−−(笑)。

北川:音楽しか趣味がなかったんですよ(笑)。あと、オーディオですけど…同じですね(笑)。

−−音楽の地位が今よりも格段に高かった時代ですよね。

北川:確かにそうですね。私はミュージック・マガジン社に入りたかったので、当時、編集部があった桜ヶ丘に行ったんですよ。そうしたら北中正和さんがいらっしゃって「うーん、趣味と仕事としてやるのとは違いますよ」と諭されて(笑)。ちょうど買ったばかりのイギリスのトラッドか何かのレコードが手元にあったので「これ聴いたことがありますか?」と北中さんに出したら「聴いたことがない」と言うので、「ふーん」と思って(笑)。

−−生意気な学生ですね(笑)。

北川:音楽が無茶苦茶好きな子って生意気だったりするじゃないですか? 「これ聴いたことあります?」って訊いて、「ないんだ。ふーん」みたいな(笑)。そういう自分がいましたね(笑)。

−−そんな調子では北中さんに嫌われたんじゃないですか?(笑)

北川:嫌われたと思います(笑)。絶対嫌われました(笑)。よくよく考えると、本当に嫌な奴ですよね。

−−北中さんはそのときのことを憶えていらっしゃいますかね?

北川:その後、お会いしたときに「なんとなく憶えている」とはおっしゃっていましたね。それから北中さんとは何度か呑んだりしているんですけどね。

 

3. レコード代欲しさのバイトからCBSソニー入社へ

ソニー・ミュージックエンタテインメント 代表取締役 コーポレイト・エグゼクティブCEO 北川直樹氏

−−どういったいきさつでCBSソニーに就職されたんですか?

北川:大学3年の後半くらいにCBSソニーがアルバイトを募集していたんですよ。バイトとはいえ実際は青田買いという感じで、みんなスーツを着て面接を受けに来ていたんですが、私は就職までは考えてなくて、純粋にレコードを買う金を稼ぐためのバイト感覚で、普段のままの格好で受けました。就職は父親のコネでどこか入れればいいかな…くらいに思っていましたしね。それでアルバイトに採用されて働き出したんですが、その何人かは会社に残れるという話で、初めは全くそんな気はなかったんですが、だんだんと競争意識が芽生えてきて、大学4年生くらいになってくると先輩も「受けろよ」と促すので、受けてみたら、たまたまなんですけど入れたんですよ。

−−他の会社は受けていないんですか?

北川:受けてないです。バイトをずっとしていたので受ける余裕も時間もありませんでした(笑)。バイトとはいえ朝から晩まで働かされていましたから。

−−バイトからじゃなくて通常の入社試験を受けて入った人もいるんですか?

北川:いや、あのときは全員バイトから入っているんですよ。営業もそうです。1年間様子を見て、使えそうな人間を社員にスライドさせるというやり方をやっていた時期だと思います。その次の年からその採り方を止めたので、そのやり方は失敗だったのかもしれませんけどね(笑)。

−−(笑)。入社してまずはどの部署に配属されたんですか?

北川:企画制作ですね。でも、やっていることはアルバイトのときとそんなに変わらなくて、荷物を届けたり、雑務が多かったですね。その後、名古屋に転勤になって、そこではずっと宣伝をやっていました。名古屋の宣伝は自分一人しかいなかったので自由にやれて楽しかったですよ。

−−一人ですか…CBSソニーにもそんな時代があったんですね。

北川:ええ。それで名古屋にいたときもせっせとヤマハへ行って…。

−−またレコード買いに(笑)。

北川:レコードを買っていましたね(笑)。

−−名古屋には何年いたんですか?

北川:名古屋は2年半くらいですね。名古屋ってヘビメタとかハードロックが強いマーケットだったので、ガールというアーティストを一生懸命やったんですよ。するとかなり売れたので、それを評価してもらって、東京へ戻されたんです。

−−そこから先は制作畑ですね。

北川:制作です。東京に戻って、宣伝をしばらくやりまして、その後、制作へ移りました。それで野中(規雄)さんが契約したヒューバート・カーというアーティストを担当したんです。ヒューバート・カーはMCAなんですが、MCAが「一押しにする」と言っていたので、『ミュージック・ライフ』とか周りに「一押しですから!」って言っていたんですね。ところがフタを開けてみたら、実はMCAの一押しはチャーリー・セクストンで、私はみんなからは嘘つき呼ばわりされて…(笑)。

−−(笑)。

北川:でも、そのときは「ヒューバート・カーは世界を股にかける」と本気で思っていたので「世界戦略ゲーム」という双六ゲームまで作ったら、デザイン費だけで1000万円くらいかかってしまって「お前はなにをやっているんだ!」と死ぬほど怒られました(笑)。でも、最終的には10万枚くらい売れたんですけどね。

−−それでも1000万はかけすぎですよね(笑)。北川さんはたまにやりすぎる傾向があるんですか?(笑)

北川:はい、あります。だから、あまり成功してないんですよ(笑)。

−−いやいや! その後の経歴はどんどんすごくなっていくじゃないですか。

北川:経歴というか肩書きですね。肩書きは上がっていくんですけど、これといった成果が…(笑)。

−−またまたそんなことをおっしゃる(笑)。その頃で印象に残っているお仕事はなんですか?

北川:エピックがなかなか今期の予算を達成できないというときに、「ヨーロッパの国々に行って売れるアーティストを探してこい」ということで、A&Rのみんなであちこちの国へ散ったときがあったんですね。それで私の担当がフランスで、フランスに何度も行っている間にジャン・カラコスという人と出会いました。その彼が「こういうのがあるんだ」と出してきたものが『ランバダ』で、盗作疑惑とかあったんですが、本人が「盗作じゃない」と強く言っていたので契約しました。それで、ジャン・カラコスの紹介でアングロサクソンじゃない色んな人種の人たちと飲み屋で会ったんですが、そこでは聴いたことのない新しい音楽が流れていて、それがライ・ミュージックだったり、北アフリカの音楽だったり、ハイブリッドですごく面白くて「こういった音楽を日本で紹介できないかな?」と思ったんです。

 その当時、そういった音楽はフランスで「エスニックミュージック」と呼ばれていたんですが、エスニックってある種、差別的というか、あくまでもこちら側から見たときの呼び方なので、私自身なんかしっくりこなかったんですね。当時、東京芸大の細川周平さんという人が、ミュージック・マガジンでそういった音楽をよく紹介していたので会いに行って、「エスニックミュージック」という呼び方について訊いてみたんです。すると彼も同意見で「エスニックとは違う」と。それで「イギリスにこういうのがあるんだけど知ってる?」と出してきたのが『ワールドミュージック』という本で、イギリスではこういう音楽は「ワールドミュージック」と分類されていると教えて下さったんですね。

 「これはいいな」と思いまして、立川直樹さんに「『ワールドミュージック』というコンセプトを立ち上げるので原稿を書いてくれませんか?」とお願いして、千部くらいパンフレットを作りました。それを中村とうようさんに「売らんかな主義のソニー」という風に言われちゃって…(笑)。海老原さんとかマガジンに色々と書いている人たちはすごく協力してくれたんですけど、とうようさんはなかなか手厳しいんですよね。

−−そのときは結構多くのアーティストと契約したんですか?

北川:そうですね。例えば、KALIというアーティストがいて、ビギンというマルティニークの音楽をやるんですけど素晴らしいんですよ。マルティニークってフランス領なんですが、そこの領主がパーティを開くときにワルツを現地の人たちにやらせたんですね。そうすると微妙にリズム感が違って、それがビギンという音楽になったんですが、妙なグルーヴがあって最高なんです。そんなアーティストたちをたくさんやっていました。でも、それが爆発的に売れたわけでもなく。

−−でも、『ランバダ』はものすごく売れたじゃないですか?

北川:あれだけでしたね。一発屋って言われて(笑)。なんか悲しい感じもあって(笑)。

−−でも「ワールドミュージック」というネーミングは日本で完全に定着しましたよね。

北川:そうですね。あれは細川さんと立川さんを頼って本当に良かったなと思います。

 

4. 映画宣伝の仕事が今の自分を作った

ソニー・ミュージックエンタテインメント 代表取締役 コーポレイト・エグゼクティブCEO 北川直樹氏

−−エピックのあとはアソシエイテッドレコーズへ行かれたんですか?

北川:いや、実はその前に映画会社のソニー・ピクチャーズに出向していたんですよ。そこで4〜5年、映画の宣伝をやっていました。

−−そうなんですか。北川さんは結構色々な部署を経験されているんですね。

北川:そうですね。転々としているんですよ。別に会社の上層部が私を育てるためというわけでもなく…(笑)。ソニー・ピクチャーズに行ったときも「戻ってくるな。そこで骨埋めろ」って先輩に言われたくらいで。

−−ソニー・ピクチャーズへの出向は不本意だったんですか?

北川:映画もすごく好きだったので、そんなことはなかったです。私はどっちかというとオタクなので、映画も結構観ていましたから「いいかな」と思って、骨を埋める覚悟で仕事していました。

−−音楽と映画ではまたお仕事のやり方が違ったんじゃないですか?

北川:映画のそれまでのルールは無視して、音楽流にやりました。当時関わった映画に『フランケンシュタイン』という作品があるんですが、SFXとか何も使っていなくて、ロバート・デ・ニーロが等身大でフランケンシュタインを演じているんですね。ですから、どちらかというと人間ドラマのような内容なんですが、アメリカからは「FearとLoveで売れ」って言ってくるんですよ。でも、試写を観てもデ・ニーロは等身大ですから全然恐くない。そこで「愛の物語でいこう」と思って、ポスターも、ロバート・デ・ニーロがゴツイ手で女の子の赤い花束から小さい花を一輪貰っているものに換えました。すると周りからは大顰蹙を買ったんですが、デ・ニーロが雄叫びを上げていて、その前に抱き合っている二人がいるみたいなポスターじゃなあ…と思ったんですよね。

 それで、おすぎさんだけが試写を観て「いい」って言ってくれたんですよ。私はおすぎさんとそのとき初めてお話したんですが、「これはすごい! ロバート・デ・ニーロが新しくて」と。そこで「そのコメント、そのままスポットで使いましょうよ。おすぎさんのコメントが本気だから説得力あります」と言ったら、おすぎさんは驚かれていましたが、結局、アメリカから言われて作ったみなさんご存じの映画らしいスポットと、「おすぎです!」ってやつと、2バージョン作りました。そうしたら、またみんなが「えー」ってなるんですよ。映画館の人も「こんな何言っているのか分からないようなスポットはありえない」と。でも、流しちゃいました。

−−おすぎさんのあの興奮気味のしゃべり方でCMを入れたのは、そのときが初めてだったんですか?

北川:恐らくあれが初めてだったと思います。というか映画の人たちってそういうやり方をしてなかったですよね。

−−あれ、すごく印象に残っていますよ(笑)。すごく早口で。

北川:ありがとうございます(笑)。確かに何を言っているかよく分かんないですよ。でも、おすぎさんが本当に「これすごい」と思っているんだなということが届けばいいと思っていました。MAのときも「これは絶対に届く」という確信がありましたから。

−−ソニー・ピクチャーズに行ったのは、今となってはいい経験だったんじゃないですか?

北川:そうですね。周りの先輩たちは「あれが良かった」って言いますね。音楽にずっといたら多分、駄目だったんじゃないかって。映画に行ったから今の北川がいるとおっしゃってくれますね。

−−ソニー・ミュージックに戻ってくるきっかけは何だったんですか?

北川:ソニー・ピクチャーズって資本がソニー・ミュージック半分、ソニー半分だったので、それぞれの会社から社員が出向してきていたんですが、資本がソニー100%になったので、ミュージックの人たちは全員引き上げたんですね。でも、私はそのとき『恋愛小説家』という映画の仕事に熱中していて、みんなが戻ったことに全然気がつかなかったんですよ(笑)。

−−会社の状況が目に入らなかったんですね(笑)。

北川:ええ(笑)。『恋愛小説家』の原題は「As Good As It Gets」で「どうにかなるさ」みたいなことらしいんですが、これでは売れないなと思って、あの頃は渡辺淳一さんが恋愛小説家として有名だったので、邦題を『恋愛小説家』にしたんです。これをアメリカに報告すると英語で「Love Story Writer」になるじゃないですか。すると「お前は全然この映画を分かっていない。ジャック・ニコルソンが泣くぞ」と言われました。その後、アメリカへ行って「日本の文字っていうのは、意味を持っている表意文字なんだ」と漢字の成り立ちから説明しました。「この『恋』という字も『愛』という字も、すべてに意味が込められているから、みんなに強く訴えかけるんだ」と。そこで「じゃあ、いくら売れるんだ」と訊かれたので「5億は絶対保証する」と答えると、「5億に届かなかったらクビだからな」って言われました。結果としては6億くらい行ったと思います。そんなことをやっていたので、みんなが帰っていたことに気づかなかったんですよ(笑)。

−−お仕事にのめり込んでいたんですね(笑)。アソシエイテッドレコーズに行かれてからはどんなお仕事をされていたんですか?

北川:TKプロジェクトというアソシエイテッドレコーズ内にある小室哲哉さんのプロジェクトです。ここからはもうジェットコースターですね。そこから何年間かはすごい経験をさせていただいたという感じです。小室さんは天才で色々なことを思いつくので、それを具現化するのが私の仕事でした。

−−一番お忙しいときの小室さんをやられていたんですか…。

北川:しかも私にとってこれが初めての邦楽でした。ちょうど鈴木あみちゃんをデビューさせるときですから、すべての仕掛けが本当に大きかったですね。お付き合いも広いですし。

−−それが2000年頃ですか?

北川:そうですね。それをずっとやっていたんですが、私たちの力が及ばなくて、アソシエイテッドレコーズがなかなか黒字化しないんです。その後、小室さんも離れ、辻仁成さんも別の方向に行くとなった時点でいくつか分かれていたアソシエイテッドレコーズを1つにすることにしました。それで新しいことをやろうということで、大沢伸一さんがやっているbirdというアーティストをやり始めて、そこから中島美嘉さんに繋がっていきます。

−−みんなの力を1つにしたら大きなアーティストが生まれたと。

北川:みんな一人一人がすごいスタッフでした。私はその上に乗っかってただけなんですよ(笑)。

 

5. レコードオタクが社長になった!?〜北川氏を襲ったショックな出来事とは

ソニー・ミュージックエンタテインメント 代表取締役 コーポレイト・エグゼクティブCEO 北川直樹氏

−−アソシエイテッドレコーズでの実績が買われてのコーポレート・エグゼクティブ、そして社長就任ということなのでしょうか?

北川:どうなんでしょうね…謎ですね(笑)。

−−(笑)。リーダーとして北川さんが生み出したスタイルというのは何だとお考えですか?

北川:ないです(笑)。社長になってやったことは権限を私が信じた人たちに委譲することで、私に決裁権はほとんどないんです。自分はその人たちに「どう? 最近」「大丈夫?」と声をかける感じで成立している会社なので、他の会社とは少し違うかもしれないです。

−−新しいタイプの社長かもしれないですね。

北川:単にレコードを集めていたオタクだったんで(笑)。

−−(笑)

北川:そこしか誇れないんですが、レコードを2万枚くらい持っていたんですよ。

−−2万枚?! 今もですか?

北川:いや、聞くも涙なんですが、ソニー・ピクチャーズにいる頃に引っ越しでレコードのほとんどを一旦実家へ送ったんですよ。盤はもちろんジャケットも傷ついては駄目ですから、オザワレコードで買ったビニール袋に入れてセロテープで留めて、絶対傷つかないようにしたんですね。ビニール袋は1枚10〜20円するんですけど全部やりました。それで正月に実家へ帰ったら庭にブルーの山が2個あるんですよ。下にすのこが二重に敷いてあって…。

−−まさか…外に置かれていた?

北川:ええ…。聞けば、親父は濡れないように二重にすのこを敷いてビニールシートをかけてくれたと言うんですが、屋外で保管されていたことに頭がクラクラしました。

−−お父さんってレコードの扱い方とか分かっていなかったんですか?

北川:それが分かってないんですよ。レコード会社に入るのも反対していたくらいですから。もう全部がビニールとくっついてしまって、その当時ジャズやブルーノートも集めていたんですが、全部駄目になってしまいました。弟も実家にいたんですが、弟はフュージョンが好きだったので、そこから抜かれたフュージョンだけが助かっていました。

−−人生をかけて集めたレコードのほとんどが駄目になったと聞くと呆然となりますね。

北川:もう絶句です。怒りたいんですけど気持ちのやり場がなかったです。小学校時代から集めていたものだったんですけどね…。

−−それがまさか野ざらしとは…。

北川:本当にそうですよ。そこからレコード集めは止めたんです。全部の歴史がゼロになってしまいましたし、CDの時代だし「もういいや」と。ところが紙ジャケが出てきたじゃないですか。初めは無視していたんですけど、昔廃盤になったものも出てきますから「これいいかも」と思ってしまって、もう1回集め始めました。また、今は昔よりは財力があるので「レコードももう1回集め直してみるか」と思ったんですが、自分の持っていた盤はすごく丁寧に扱っていたので傷一つつけなかったんですが、中古だとそれは望むべくもなく…。とにかく、あの当時は余りにショックすぎて家で音楽は聴かなかったです。全てを失った感がありました。

−−私も今日のインタビューの中で一番ショッキングなお話でした。

北川:もの凄い喪失感ですよ。走馬灯のように記憶が頭の中を巡りました。横浜に岡田屋というデパートがあって、たしか5Fに入っていたすみやが広告を出すんですよ。例えば、分からないと思うんですが「ロジャー・ティリソンのアルバムを放出します」とか。それで朝、店が開くのを待っていて、エスカレーターを駆け上るわけです。他にも15人くらいがエスカレーターを駆け上ってきていて、「ロジャー・ティリソンを見つけるぞ」と(笑)。

−−ロジャー・ティリソンですか。レコード会社の担当者じゃなくちゃ知らないような名前ですよ。

北川:前にギタリストの佐橋佳幸さんと飲んで話をしていたら「北川さん、本当に社長なの? あまりにもオタクっぽくない?」と言われて、「オタクなんだよ!」って言い返しました(笑)。

 

6. 幅広い音楽を送り出す音楽業界でありたい

ソニー・ミュージックエンタテインメント 代表取締役 コーポレイト・エグゼクティブCEO 北川直樹氏

−−SMEの代表として、今後の目標はなんでしょうか?

北川:今のアメリカを見ていると、メジャーの会社が数社になって、出てくる音楽がすごく限られているように感じます。でも、昔はA&Mがあって、RCAレコードがあってみたいに、色々な会社から色々な音楽が出てきて楽しかったじゃないですか? ですから、たくさんのレコード会社がある、事務所も多い、そして色々な音楽をやっているアーティストがいる、みたいな日本の現状をどうやったらキープできるのか? ということを考えています。音楽は絶対的に素晴らしいものなので、どうにかして色々な音楽を送り出したいですし、私自身も出会いたいです。これだけ情報が氾濫する時代に、様々な音楽が存在しているということがすごく重要なんじゃないかって気がしているんです。

−−それはソニーだけに限らず、日本の音楽業界全部を視野に入れての考えですよね。

北川:そうですね。自分も個性のあるたくさんのレーベルからたくさんの音楽を享受させていただきました。みんないなくてはいけないような気がすごくしています。レコード会社もそれぞれ個性があるじゃないですか。そこじゃなきゃ埋められないものがあるように思うんですよ。どうやったらみんなが一緒にやっていけるんだろうとよく考えますね。

−−インターネット、音楽配信の時代を迎えて、SMEはまだiTunes Storeに楽曲提供をしていませんよね。今後、SMEとiTunesとの関係はどうなっていくんでしょうか?

北川:別に我々はiTunesと戦っているわけではないんですよ。iTunes Storeは世界でNo.1の音楽配信サイトですから、彼らは自分たちの成功モデルを持っていて「こういうやり方でなくては駄目」と当然言ってきます。でも、私たちとは相容れない部分もありますので、話し合いはしているんですが、なかなか折り合いがつかないということなんです。ですから、うまく折り合いがつけばウチもやることになると思います。それはお金の問題ではなく考え方の問題で、どうしてもお互いに譲れない部分があるということなんです。

−−また現実にCDの売上がどんどん下がってきていますよね。

北川:ええ。配信も頭打ちと言われていますから、次の新しいサービスを考えていかなくては駄目だと思います。それも多くの人たちが享受できるサービスを考えなくてはいけません。

−−この間、ソニーのアルバムアプリについて、制作チームの方々にお話を伺ったんですよ。

北川:そうですか。アルバムアプリも一つの試みなんです。デジタル上でアルバムを存在させていくという。上手くいけばみなさんにもオススメしていきたいと思っています。

−−先行投資ですね。

北川:そうですね。アルバムアプリもアーティストと事務所の協力がないと駄目ですし、事務所とアーティストとレコードメーカーが一緒にやっていくことが重要じゃないかと思います。試行錯誤しながら、他の事務所やメーカーからも評価されるようになっていけたらいいなと思います。

−−あとYouTubeへのアップロードは、現状ソニーとしてはやらないわけですよね。

北川:実は派手に打ち出してはいませんが、11月9日にYouTube上で公式チャンネルをスタートしています。

−−ソニーはYouTubeに対して背を向けているわけではないということですね。

北川:全然ないです。むしろお互いにやりましょうというところなんですよ。

−−ファン側から見ると是非前進させて欲しい動きですね。

北川:あとは法整備しかないのかなと思っています。法整備されることで色んなことが開かれていくんじゃないかと思います。

−−北川さんはSMEの代表であると同時に、日本レコード協会 会長にも就かれていますね。やはり日本レコード協会の会長というのは大変な役職ですか?

北川:大変だろうとは思っていましたが、やってみたらやはり大変でした。私が会長だといっても何も強制力はないんですよ。ですから皆さんの意見を尊重しつつ、それぞれの本音をどう聞き出すかが重要になってきます。

−−奉仕の気持ちがないと務まらないですよね。

北川:そうですね。レコ協と取締役会どちらをとるかでよく迷います。会社の方は全部任せているので、ある程度融通がきくんですが、現業をやっていたら多分疎かになるような気がします。レコ協の理事って現業の社長しかできないんですが、その規則を変えたらいいのにと思います。ただ、そうすると決定権のない人が出てきますから「会社に持ち帰ります」ということになって、進行が遅くなるんでしょうね。難しいところです。

−−北川さんはとてもお忙しそうですが、健康面はいかがですか?

北川:健康面は腰以外、全く気を遣ってないです。タバコも吸いますし、酒は朝まで飲んでいます(笑)。

−−役職の兼任が多くて、毎日飲まざるをえないくらいにお忙しいということもありますよね。

北川:相手が飲む人であれば2次会とかありますが、そうでなければ音楽を聴きたいので、音楽を聴けるところを探して飲みに行っていますね。大きな音で音楽聴けるところがいいです。1人でも行けるところがいくつかあります。

−−1人で飲みに行かれることも多いんですか?

北川:多いです。みんな誘っても嫌がるじゃないですか?(笑)

−−そんなことないでしょう(笑)。ご自宅ではやはり音楽を聴かれる時間が長いんですか?

北川:実は余震でレコード針が飛んでしまって、その針は6万円もするんですよ。ですから、次はいつ飛ぶかと思うと恐くてレコードを聴けなくて(笑)、最近はテレビドラマをよく観ています。日本のものはほとんど観ていますし、アメリカのドラマも映画も好きです。酔っ払って帰っても、4TBあるハードディスクに録っておいた番組を観るのが楽しみですね。今はTBSでやっているドラマ『深夜食堂』が好きですね。つげ義春と滝田ゆうを足したみたいなテイストなんですよ。痺れます。『3丁目の夕日』よりもサブカルっぽくて。

−−音楽を聴くこと以外に趣味はありますか?

北川:あまりないです。海外出張に行っても必要以上に外へは出ずに、文庫を読んでいたりします。僕は海外へ行くよりもタワーレコードに行きたいですね(笑)。それと古いレコード店でアナログ盤を漁るのが好きですが、買ったあと持ち帰るのが大変です。

−−徹底して音楽ですね。すごいです。

北川:今もそうなんですが、本当はロック喫茶をやりたかったんですよ。「ブラックホーク」みたいな店を。でもロックバーに行って思うのは、知識だけでは駄目で、マスターのハートがお客さんを掴むんですよね。立ち仕事ですし、それをやるには歳をとりすぎたかもしれません。あと…お酒もたくさん飲んでしまいますので(笑)。

−−(笑)。

北川:西麻布に「PB」というバーがあるんですよ。ここのマスターが同じ歳なんですけどすごくて、注文があってもその合間に1曲1曲変えるんですね。選曲も同じ歳なので合います。「この曲よく知っているな」と驚くほどです。あと、若くて、勉強熱心なマスターがやっているのは「0603」で、同じ西麻布にあります。あと、浪岡さんの「セイリンシューズ」、「ハートソングカフェ」がお薦めです。

−−自分の好きな曲を一曲ずつ選んでプレイリストを作るのは楽しいですよね。

北川:自分でDJをやってみてわかったんですが、次にどの曲を選んで、どうやって繋げようかとか考えるとゾクゾクしますよね。この順番でこの曲を聴くと曲がより引き立つとか…楽しいですね。

−−昔のラジオマンはそういうことに命を懸けていましたよね(笑)。

北川:そうなんですよね。あるとき、知り合いがバーをオープンすると言うので、人を介していくつかジャンルに分けて選曲してくれないかと頼まれて、そのときはけっこう真剣に作ってしまいました(笑)。そういうときに燃えちゃうんですよ(笑)。

−−ここまでお話を伺ってみると、北川さんは中学生の頃からやっていることも、行っている場所もあまり変わっていないですよね(笑)。

北川:それくらい狭い世界で生きているんですよね、きっと(笑)。レコードの中に全てが入っていると思っていたので。今日色々と話してみて改めて思いましたよ。私には音楽以外に何もなかったんだということに(笑)。

−−(笑)。本日はお忙しい中ありがとうございました。SMEの益々のご発展と北川さんのご活躍をお祈りしております。 

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

今まで「Musicman’s RELAY」では多くのレコード会社のトップの方にお話を伺ってきましたが、北川さんほど音楽やレコードについて、あくまでもリスナー目線で、嬉々として語られた方はあまり記憶にありません。衝撃を受けた音楽、レコード収集の苦労、そして思い入れ。音楽にのめり込んだ少年時代の頃と全く変わらぬ情熱を持って語られる姿は、とても魅力的でした。ご本人は「単なるレコードオタク」とおっしゃっていましたが、個性的かつ有能なSME社員を一つにまとめ上げることができるのは、この北川さんの人としての魅力があってこそなのではないかと思いました。北川さん率いるSMEが今後どんな音楽を送り届けてくれるのか本当に楽しみです。

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