第102回 栗花落 光 氏 株式会社FM802 代表取締役専務
株式会社FM802 代表取締役専務
今回の「Musicman’s RELAY」は北川直樹さんからのご紹介で、FM802 代表取締役専務 栗花落 光さんのご登場です。大学卒業後、入社されたラジオ大阪にて激動の時代を放送記者としてご活躍され、その後、制作部に移られてからは、多くの音楽番組やイベントを手掛けられました。’89年開局のFM802では、時流に流されない独自の選曲と「ヘビーローテーション」を駆使し、FM802をきっかけとするヒット曲を連発。FM802を音楽業界、放送業界、そしてリスナーから常に注目されるミュージックステーションに育てられた栗花落さんに、ラジオマンとしてのキャリアや、FM802独自のこだわり、そして今後のラジオ業界についてまでじっくりお話を伺いました。
プロフィール
栗花落 光(つゆり・ひかる)
株式会社FM802 代表取締役専務
生年月日 1948年12月4日生
1971年3月 同志社大学経済学部卒業
1971年4月 大阪放送株式会社 入社
1985年5月 同社 放送センター副部長職
1988年9月 株式会社FM802 入社
1993年7月 同社 編成部長
1995年6月 同社 役員待遇編成部長
1997年6月 同社 取締役編成部長
2001年4月 同社 取締役 業務推進局次長
2004年6月 同社 常務取締役 業務推進局長
2007年6月 同社 代表取締役専務(現)
1. ジャーナリストを志した学生時代
−−前回ご登場いただいた北川さんとはいつ頃知り合いになられたんでしょうか?
栗花落:以前、私はAMのラジオ大阪でディレクターをしていて、ソニー・ミュージック(当時CBSソニー)の自社番組を担当していたんですが、その頃北川さんが洋楽を担当されていて、それでお会いしたのがたぶん最初じゃないかと思います。その後、北川さんは邦楽を含め、色々なことをされるようになって、一緒にお酒を飲んだり、音楽の話をしたりするようになりました。今はそんなにしょっちゅうお会いするということもないんですが、おそらく最初にお会いしてから20年以上色々とお世話になっている関係ですね。
−−北川さんは大変な音楽マニアでいらっしゃいますよね(笑)。
栗花落:そうですね(笑)。時々お邪魔する西麻布のバーがあるんですが、そこでとにかく音楽の深い話をします。今まで彼のようなタイプの社長さんはめずらしかったと思うんですが、ソニー・ミュージックは北川さんが代表をされているというのがすごくステキだと思いますね。本当に音楽がお好きですからね。
−−ご本人も「音楽しかない」とおっしゃっていました(笑)。
栗花落:そうおっしゃっていましたか(笑)。パッションも含めて、それをずっと通していらっしゃるわけですからすごいですよね。
−−ここからは栗花落さんご自身について伺わせていただきたいのですが、ご出身は京都と伺っております。どのようなご家庭だったんですか?
栗花落:父は国語の教師をしていました。そんなに音楽が好きというわけではなかったんですが、両親ともにカトリックのクリスチャンでしたので、私も小学生の頃から教会に行くようになりました。当時、教会はラテン語でミサをやっていまして、グレゴリオ聖歌を歌っていた時代なんですが、音楽の記憶としてその当時のことが残っていますね。
それと母方の祖母が音楽に興味のあるモダンな人で、自宅のステレオで、クラシックのレコードやハリー・ベラフォンテの音楽を聴いていました。また、父は映画がものすごく好きで、当時映画のサントラはソノシートで売っていたんですが、よく買ってきていたので、それをよく聴いていました。
−−主に洋画ですか?
栗花落:そうですね。あの当時はハリウッド映画がポピュラーでしたので。それから少ししてミュージカル映画も始まるようになって、『マイ・フェア・レディ』とか『ウエストサイドストーリー』といったミュージカルにも興味が移っていきました。
また、グレゴリオ聖歌を歌っていたこともあって、歌うことが好きになっていたので、中学2年の頃はグリークラブに所属していました。ラジオでは『9,500万人のポピュラーリクエスト』という小島正雄さんがやっていたラジオ番組などを聴いていて、最初にビートルズを聴いたのもこの番組だと思います。クラシック以外のレコードで、最初に自分で買ったのは、おそらくPPMやボブ・ディランのドーナツ盤だと思いますが、その頃はやっぱりクラシックが一番好きで、ヘルベルト・フォン・カラヤンがヒーローでしたね。当時LPが1,800円くらいしましたね。だから今とそんなに変わらないですよね。
−−中学生にとっては大変な金額ですよね。
栗花落:月のお小遣いをはたいても買えないくらいでしたからね。あとはテレビなどで、歌謡曲なんかも聴いていました。そういう音楽が全て合わさって今に繋がっているのかなと思っています。
−−音楽以外にお好きだったことはありますか?
栗花落:スポーツが好きでしたね。中学、高校とバスケットボール部にいたんですよ。ただ、私たちが創部して8人くらいでやり始めた部で、試合後半になると退場者が出て3人で試合をするようなこともあったので、残念ながら公式戦では一勝もできませんでした(笑)。ただ、今もスポーツは好きで、ひょっとしたら音楽よりもスポーツの方が好きかもしれないですね。20〜30代はテニスをものすごくやりましたし、今はゴルフをよくやっています。お正月もずっとスポーツの放送を見ていました。
−−その後、同志社大学に進まれるわけでが、大学時代は学校の先生か、ジャーナリストになりたかったそうですね。
栗花落:そうなんですよ。大学生になっても週何回か教会に通っていたんですが、教会の活動の中で広報誌の編集に関わっていたこともあって、ジャーナリズムに憧れを抱くようになりました。ですから、できれば新聞社に行きたいと思っていまして、何社か受けたんですが、試験が難しくて「これは絶対ダメだ」と思いましたね。案の定、全て落ちて一時は商社を受けたりしたんですが、ジャーナリズムの夢を捨てきれず最後の最後に受けたラジオ大阪になんとか引っ掛かったんです。ラジオ大阪入社後は希望通り報道部へ配属になりました。’71年から’76年まで報道部にいましたが、その頃は色んな大事件が起こった激動の時期で、ちょっと不謹慎ではありますが、そういう時期に報道に身を置けてよかったと思っています。
−−報道部では記者をされていたんですか?
栗花落:放送記者です。現場にデンスケを持っていって録音して、自分で原稿も書いて、3〜4分の指定時間に編集してニュースに仕上げるとか、場合によっては自分で話しながらということもありましたね。
−−その当時の事件で印象に残っている事件は何ですか?
栗花落:森永ヒ素ミルク中毒事件ですね。当時は裁判所の記者クラブにいて、公害裁判などが多く行われていたんですよ。その1つとして森永ヒ素ミルク中毒事件があって、大阪を中心に全国で裁判が起こったんですが、最終判決が徳島地裁であって、そのときは特番で現場に行きました。昔は大きい裁判があったときに、各社裁判所の前にテントを張って、そこから放送したんですが、わりと長期にわたって追いかけたのが森永ヒ素ミルク中毒事件だったんですね。他にも千日デパートの火災や北陸トンネル火災事故は現場に行きました。あと、学生運動も盛んでしたし、あさま山荘事件も報道部にいた頃に起きているんですよね。
2. お笑い・演芸路線の局で音楽番組を制作〜『ジャムジャムスーパーロックフェスティバル』開催
−−その後、制作部に異動されていますね。
栗花落:ええ。その頃の若い社員はローテーションで色んな部署に回されるんですね。報道部に入ってから5年経ったので、こっちの部署も経験しておけ、ということで制作部へ異動になりました。
−−制作の中で担当するジャンルは選べたんでしょうか?
栗花落:選べないです。制作部に配属されましたが、いきなり自分のやりたいことができるわけではないので、当然最初はADみたいな仕事をしていました。当時のラジオ大阪はどちらかと言えば音楽よりも、お笑い・演芸路線で、吉本とか松竹の芸人さんがしゃべるワイドショーが多かったんですよ。そういう番組のサブみたいな仕事から始まったんですが、仕事をする中で「自分はあまりお笑いの番組の制作は向いていないな」と思っていたので、音楽番組の企画書を自分で書いて、深夜2時とか3時の時間をもらって、少しずつ音楽番組をやらせてもらうようになったんです。
−−それはどんな音楽番組だったんですか?
栗花落:当時、大阪にスターキング・デリシャスというバンドがいたんですが、そのボーカルの大上留利子さんとやった番組ですね。当時、渡辺プロダクションの大阪支社に中井猛さん(元 スペースシャワーネットワーク会長)がいらっしゃって、初めて渡辺プロが歌謡曲じゃない音楽をやろうとしていたんですが、大阪ではそれを中井さんが担当されていて、第一弾がスターキング・デリシャスだったんです。それ以降、中井さんには業界の中で一番お世話になり、個人的にも友人関係になりました。
−−以前、中井さんにこのインタビューにご出演いただいたときに、栗花落さんと毎日のようにメールをしているとおっしゃっていました(笑)。大学もご一緒なんですよね?
栗花落:中井さんは私の2年先輩ですね。大学時代はもちろん知らなかったんですが、制作の仕事をするようになって出会いました。当時の渡辺プロといったら、すごいアーティストがほとんど所属していて、中井さんは放送局の中を肩で風を切って歩くような、そんな印象の方でしたね(笑)。「これが芸能界か…」みたいな。「こんな人とはお付き合いできない」と思ったのが最初の印象でした(笑)。
−−そうだったんですか(笑)。
栗花落:彼もロックをやり出して、そのイメージからどんどん変わっていくんですけどね。中井さんの渡辺プロ同期にはアミューズの大里洋吉会長とか、色んな方がおられたので、中井さんに紹介してもらいました。私の人脈形成で一番のポイントになったのは中井さんです。
−−ライブイベントを始められたのもラジオ大阪時代ですよね。
栗花落:そうですね。音楽番組の制作を重ねていく中で、’78年にようやく月曜から金曜の午後11時から1時まで、当時のゴールデンタイムに2時間の帯番組をやらせてもらえるようになったんです。それが『ジャム・ジャム・イレブン』という番組です。当時では破格の制作費 で作った番組でした。これが多分ラジオ大阪時代では一番想い出に残っている番組で、私のその後の人生に繋がった番組なんですが、この番組を渡辺プロの「ノンストップ・レコーズ」という中井さんが代表を務めていたセクションと一緒にやったんです。それでゲストのキャスティングなども協力していただきながら、月曜日は松任谷由実さんと加藤和彦さんに1週交代の生放送をやっていただいて、火曜日はアン・ルイスさんと桑名晴子さん、水曜日はデビューしたばかりの竹内まりやさんとダディ竹千代さん、木曜日は宇崎竜童さんと先ほども話に出たスターキング・デリシャスの大上留利子さん、金曜日は山田パンダさんにやっていただきました。
その『ジャム・ジャム・イレブン』では月に1回公開放送をやっていたんですね。最初は高島屋の上にあったキャパ600人くらいのホールでやっていたんですが、そのうちに1年に1回お祭りみたいなことをやりたいと思い始めて、’79年の夏に『ジャムジャムスーパーロックフェスティバル」というイベントを企画したんです。それを中井さんと一緒にやったのが、一番最初に手がけたイベントです。
−−当時ではめずらしいイベントでしたよね。
栗花落:そうですね。同じようなイベントですと、東京ではニッポン放送が『80’s JAM』というライブを同じく’79年にやられていますね。『ジャムジャムスーパーロックフェスティバル』は2日間開催して、合わせて2万人くらいの動員でした。パイオニアさんがスポンサーだったので、販売促進イベントとして無料で開催したんです。販促イベントというのは、なかなか我々の期待しているようなお客様が集まる感じにならなくて、本当に観たい人に来てもらうイベントにしたいと、2〜3年後に有料イベントにしました。ところがロックアーティストだけの出演だったのでチケットがなかなか売れないんですね。
−−結構、苦戦されたんですか?
栗花落:苦戦しましたね。沢田研二さんやRCサクセション、サザンオールスターズが出た年は利益が出ましたが、あとはチケットを売るのも苦労しました。それを少しずつ変えていこうということで、ラジオ局に応募する形にして、抽選で選んで、販促ではない、本当に音楽を聴きたいお客さんに来ていただくような形に変えていったんです。
3. 「FUNKY MUSIC STATION」FM802開局
−−そして’88年にFM802に移られますね。
栗花落:ええ。ラジオ大阪でイベントをやれたのは大きな成果でしたが、もともとお笑い・演芸路線のラジオ大阪で音楽番組をやっていくのはなかなか難しいものがありました。そうこうしているうちに、’84年にFMヨコハマが開局するんですね。FMヨコハマは、日本で最初のミュージックステーションで、「日本にもこういう局ができたんだな」と思いました。
その少し前の話になりますが、『ジャムジャムスーパーロックフェスティバル』をやっていたときにハワイのKIKI局のカマサミ・コングというラジオDJに出会うんですよ。当時CBSソニーから『DJ in HAWAI』というレコードが出まして、そのLP片面にはカマサミ・コングのトークだけが入っているんですが、それと自分の好きな曲をミックスして、自分のマイテープを作るための素材LPだったんですね。それを聴いて「かっこいいな。やっぱりアメリカのラジオはすごいな」と思ったんです。
70年代の後半というのは、大阪にアメリカ村ができて「日本のウェストコーストはアメリカ村だ」と、ものすごいムーヴメントが起きていました。当時はアメリカに行ってきた人が、アメリカのラジオをテープに録音して、それを車でかけながら走るというのが1つのファッションで、私もアメリカのラジオに興味を持って、カマサミ・コングに出会い、「この人の番組を大阪で作りたい」と思って交渉したんですよ。当然、生では難しかったので、ラジオ大阪のために毎週1時間ハワイで録音してもらったテープを流す『KAMASAMI KONG SHOW』という番組を始めました。
−−とてもしゃれた番組ですが、ラジオ大阪では浮いていたんじゃないですか?(笑)
栗花落:その通りです。本当に浮いていました(笑)。結局、聴取率も取れなかったですしね。そんな中’84年にFMヨコハマ、’88年にはJ-WAVEが開局と、いよいよ日本にもミュージックステーションができ始めました。特にJ-WAVEは話題になって、大阪にも一気にその話が伝わってきたんですね。もし大阪にこういうステーションができるときは、自分も関われたらいいなと思っていたときに、大阪にも第2FMができるという話が持ち上がったんです。
実はFM802の開局スタッフ石原さん(元FM802代表取締役社長 石原捷彦氏)が、ニッポン放送で編成部長をしていた時に『ライオンフォークビレッジ』というイベントを一緒に係らせていただいた関係で知り合いだったんです。それで石原さんがFM802を開局するときに私を指名してくれて、FM802に入ることになりました。すごくラッキーでしたね。
−−いよいよFM802が開局に向けて動き始めたわけですが、ミュージックステーションにするということ以外は何も決まっていなかったんですか?
栗花落:最初は決まっていませんでしたね。会社の名前が「802」になることは決まっていました。最初「802」はひらがなだったんですよ。初めて開局準備室に行ったら、そこに書いてあったのが「エフエムはちまるに」で「こんなダサい名前でいいのかな…」と思いました(笑)。
−−(笑)。そのときはFMヨコハマやJ-WAVEを聴いて研究したりされたんですか?
栗花落:もちろん聴いていました。ただFM802は大阪のミュージックステーションなので、例えば、J-WAVEのようなハイセンスな番組をそのまま持ってきてもアカンやろう、と。大阪のラジオというのは昔から東京のラジオに対して対抗心があって、全然違うんですよ。それで「どういう局にしたらいいだろう?」と皆で議論して、ファンキーなミュージックステーションにしようということになりました。
大阪にはもともと「いなたい」という言葉があったんですが、「いなたい」というのは決して田舎くさいという意味ではなくて、すごく誉めた言葉なんです。その「いなたい」を英語に落としたらどうやろう、ファンキーや、と。それで「ファンキー」をキーワードにして、大阪らしいミュージックステーションということで始めました。
−−FM802に集まったメンバーはやはり関西の人たちが中心だったんですか?
栗花落:ほぼ関西の人間ですね。例えば、ヴィジュアルをお願いしたのは、石原さんの関係で黒田征太郎さんと長友啓典さんのお二人が主催しておられるK2というデザイン事務所だったんですが、お二人も大阪出身でした。そのK2からのプレゼンテーションが、黒田さんの手書きのロゴで、私たちは面白いと思ったんですよ。ロゴを1つに決めないで、色々なロゴを場面に応じて使い分ける、そういうステーションにするのは面白いんちゃうか、と。それで黒田さんにはいっぱいロゴを描いてもらって、その中のいくつかをFUNKYやFM802などのロゴにしました。
また、当時ラジオ局というのはOBC(ラジオ大阪)もそうでしたけど、社員が全部番組を作っていて、テレビのような下請け制作はラジオではなかったんです。でも、社員だけでやっていくことには限界があるので、番組制作は全部、制作会社に作ってもらい、社員はキューを振らないことにしました。それで大阪にラジオの制作会社はなかったんですが作ってもらい、東京のJ-WAVEでやっていた数社も大阪に支社を作ってもらって、10社ほどの制作会社と始めたんです。
−−これまでにFM802が掲げてきたキャッチフレーズはどれもビシッと決まっていて、大変興味深かったんですが、それぞれご説明いただけますでしょうか?
栗花落:最初が先ほどお話した「FUNKY MUSIC STATION」です。それから「18歳の感性」。これはデモグラフィックな何歳〜何歳というターゲットはやめよう、実年齢は何歳でもかまわなくて、常に18歳という人間にとって瑞々しい年代の感性を持った人をターゲットにしようということで決めました。それと「more good music, more good information, more good event」。これは当時、”モア・ミュージック、レス・トーク”というのがFM局で割とキャッチだったんですね。でも、大阪でやるんだから”レス・トーク”というのは無理やろということになり、それに変わるのは”モア・グッド・インフォメーション”。それで、”モア・グッド・ミュージック、モア・グッド・インフォメーション”、加えて”モア・グッド・イベント”。
昔のFM局はクールで、イベントというのはあまりやっていなかったんですね。J-WAVEもイベントはあまりなかったですし、他の大阪の先輩局なんかもそんなにイベントという思考をしてなかったんですが、たまたま私がOBC時代にイベントを色々やったこともあって、イベントをどんどんやっていこうと思い、”モア・グッド・イベント”というのもくっつけたんです。FM802は開局から20数年経ちますが、イベント展開というのがいまだに核となっています。
4. FM802がかけなあかん曲は他にいっぱいある
−−栗花落さん並びにFM802がすごいと思うのは、独自の選曲基準や、音楽出版社を作らないなど、ポリシーを貫かれているところなんですよ。
栗花落:当初かける音楽についてはそんなにこだわってなくて、演歌をかけない、アイドルをかけない、そして出版ビジネスはやらない、というようなことくらいで始めているんですけどね。
−−なぜ出版ビジネスをやらないことにしたんですか?
栗花落:OBC時代に「音楽出版」という部署があったんですよ。それで自分が音楽番組をやろうとしますよね。AMですからかかっても5曲くらいなんですが、その内の4曲くらいをその部署に決められてしまうんです。そして自分で選曲できるのは1曲です。
−−そんな番組を散々作ってきたので、絶対に嫌だと(笑)。
栗花落:ミュージックステーションで、みんな音楽が好きで番組制作をやるのに、かける曲が決まっているというのはダメですよね。そもそもテレビ局やラジオ局が音楽出版を持っているのは日本だけで、アメリカとかではテレビ局やラジオ局が音楽出版権を取るのは禁止されているんですよ。
−−そうなんですか。確かに公平性という意味では…。
栗花落:おかしいと思います。ミュージックステーションとして一番存在感を示せるのは、ラジオから、FM802からヒットが出るということで、それをみなさんに確認してもらうことでメディアの影響力を証明できると思ったんですね。それで「ヘビーローテーション」というシステムを作ったんです。
−−ただ、今に到るも音楽出版にしろ、有料皿回しにしろシステムは変わってないですよね。
栗花落:確かに「我々のような試みがいつまで続けられるか」と、この22年間ずっと思っていましたし、事実、レーティングが一時期下がって他局とほぼ変わらないくらいになった時期があったんですよ。
−−それはいつ頃ですか?
栗花落:’96〜’97年頃ですね。少しずつレーティングが落ちてきて、当時、小室哲哉氏プロデュース楽曲をウチでもメインストリームの音楽みたいにかけだしたんですね。あのときの安室奈美恵とかは、どっちかというと歌謡曲寄りだったじゃないですか、ですから、それまではあんまりかけてなかったのが、徐々にそういうものがFM802のメインストリームとしてかかりだしていく。それは多分スタッフがレーティングとかを意識して、オリコンのチャートとかを見ながらヒットしているものをかけようとしたからなんですが、ミーティングでスタッフと大激論になって、結果「オンエアをNGにしてください」と。
−−それは栗花落さんから「オンエアNG」と切り出したんですか?
栗花落:いや、制作陣から「『オンエアNG』と言われたら当然かけられませんが、『かけていい』ということと、『レーティングをとる』ということ、この両方を一緒に言われたら逆に難しい。だから『オンエアNG』という決断をしてください」ということを迫られました。それでレーティングがある程度下がることを覚悟しながらNGにしたんです。
−−それは責任者としてすごい勇気のある、下手すれば辞めなきゃいけないみたいな決断だったと思います。
栗花落:当時の社長ともぶつかりました。やはり社長は色んな話を聞いてくるわけですね。「レーティングが落ちているのは、やっぱりヒット曲をかけへんからや」とかね。ジャニーズやSMAPとかもガーンと来ている頃で、ジャニーズなんかもウチは当然かけていませんから(笑)。
−−(笑)。
栗花落:だから「そういうものをかけへんからレーティングが落ちてるんや」と。「かけてる他局がぐんぐん上がってるのは当たり前や」みたいな話を上の人間も聞いてきて、すったもんだがありました。おそらくそこで聴取率を逆転されていたら、かけていたんでしょうが、ちょっとの差、首の皮一枚で負けなかったんですよ(笑)。
−−その事実が栗花落さんの背中を押したと(笑)。本当に勇気のある決断ですよね。
栗花落:それで周りからは「FM802はエイベックスをかけない」など誤解されたりもしたんですが、別に小室さんの音楽を否定しているわけでもなんでもなくて、オリコンのチャートを見たときに一番極端なときで6曲くらい小室さんプロデュースの曲がベストテンに並んだ時期なんですよね。だから「FM802がかけなあかん曲は他にいっぱいある」と。そういった曲をかけてヒットを作るのがミュージックステーションとしてのFM802の役割やないかと。
−−FM802の個性としてかけないということですね。そこは他局にまかせて。
栗花落:そうです。全部の局がオリコンのチャートを見て選曲して、どこの局も同じ曲をかけているようでは、日本の音楽シーンにとって決して良くない。それを何か誤解されて、小室さんサイドからも電話がかかってきたりしたこともありました。
−−そうなんですか…その誤解は解けたんですか?
栗花落:一応誤解は解けていると思います(笑)。
−−ちなみに今の音楽業界に対してどのようなことをお感じですか?
栗花落:私が最近よく思うのは、レコード会社がもっと自信を持ってCDを売ってほしいということです(笑)。もちろん時代の流れで配信という新しい音楽の届け方があって、それはそれで否定するものでもなんでもないんです。でも、結果的に配信で、私がすごく嫌いな言い方なんですが「データ」って言いますよね。「データ」で音楽が届けられて、「データ」で受け取っている人だけが、音楽にどういう形でこだわりを持てるか。例えば、20年後にその人の中に残っているかというと、それは難しいと思います。私にとって音楽との接触の仕方の1つはライブ、もう1つはCDです。パッケージとして常に自分の横にあっていつでも聴けるような状況で音楽を持っていてほしいです。
−−ただ、現実には若い人たちの小遣いもどんどん減り、CDは高いってことになり、ましてやTSUTAYAに行けばすぐ借りられる、配信だって高いくらいに思っている人はたくさんいます。
栗花落:今おっしゃったように小遣いのこととかを考えると、私はCDを借りたり配信で聴くというのもいいと思います。でも、それはラジオで聴くのと同じで、本当に自分が持っていたい、自分として大事にしたいものを選ぶための1つのステップで、その中から「これ」と選んだものをCDとして持っていてほしいんです。CDが高いというのはたまたま結果論として高くなっているだけで、パッケージをもっと売ろうと思うのであれば、値段も含めて色々なことを考えるべきで、もう少し方法論があると思います。
5. FM802からヒットを出す!〜「ヘビーローテーション」へのこだわり
−−「ヘビーローテーション」が実を結んだ最初の曲は何だったんですか?
栗花落:J-WALK『何も言えなくて…夏』ですね。この曲が最初にFM802からヒットしたということを正式に認めてもらった曲です。全国的にヒットしたのがリリースしてから1年後くらいなんですよ。最初は大阪だけではやり始めて、大阪のシェアが全国シェアの中の75パーセントくらいあったんですね。もともと大阪のシェアというのは17〜18パーセントなんです。それが75パーセントということは最初は大阪でしか売れてなかったわけです。それが徐々に全国へ広がっていって、最終的にその75パーセントが30〜20パーセントにシェアが落ちたときに全国でヒットしたんですよ。そこまでに1年かかりました。また、KANの『愛は勝つ』や槇原敬之の『北風』、Mr.Childrenのデビュー曲『君がいた夏』もそうですね。
やはりラジオから、FM802からヒットしたということが確認できないと意味がないですからね。例えば、テレビの大型タイアップにのると、それで売れたと言われますから、当時は大型のCMタイアップやドラマタイアップの付いている曲は一切「ヘビーローテーション」対象外にしようということにしました。
−−そうなると必然的に新人に目をつけないといけないですね。
栗花落:基本的には新人です。そういう素材でブレイクしたときに初めて「大阪のラジオからヒットした」と言ってもらえるんです。ただ最初の頃はどういうやり方でやっていけばいいのか暗中模索でした。元々「ヘビーローテーション」というのはアメリカのラジオ局が取っていた手法で、曲を絞り込んでヒットさせようというのではなくて、売れそうな、売れてきている、かなりリアクションが出ているような曲をヘビーなローテーションでかけようというものだったんです。それを取り入れて、ウチの場合はミュージックステーションとしての影響力、存在感を示すためにこれをやってヒットさせようと思ったんです。
−−他にも矢井田瞳やLOVE PSYCHEDELICO、ウルフルズ、DREAMS COME TRUE、MY LITTLE LOVER、ゆず、スピッツなんかもそうなんですね。
栗花落:スピッツなんかは、シングル2作目のB面をヘビーローテーションにしたんですよ。『ニノウデの世界』という曲ですが、そのときはあまりヒットしなかったです。それから2年半後くらいにもう1回、2回目のヘビーローテーションをしたんですよね。
−−2年半後にもう一度ですか。すごいですね。
栗花落:2回やっているのは何人かいるんですよ(笑)。KANもそうですし。
−−やっぱりそのアーティストを信じているんですね。
栗花落:はい。どこかでこだわっていて。もちろん売れなかった人はいますよ。でも、スピッツはその後の『裸のままで』の2回目のヘビーローテーションのときからブレイクしだして、それはデビューから4年くらい経っているんです。その曲だけじゃなくてアーティストをブレイクさせることに意味があると思っているので、ライブがしっかりしているとか、アルバムをちゃんと作れるとか、そういうアーティストを選んで長期のタームで応援させて頂くようにしてきたんです。
−−尊敬すべき姿勢だと思います。具体的にヘビーローテーションの選定はどのようにされているんですか?
栗花落:まず制作会社やDJから毎月、洋楽1曲・邦楽1曲を推薦してもらいます。その中から編成部で決めています。2曲ずつで4曲選んでいた時期もあるんですが、その半年後くらいに今の形に固まって、それから20年間ずっと同じやり方でやっています。
−−それだけの実績を上げたことで、東京や他の地方からFM802のヘビーローテーションに対して熱い視線を感じたりしませんか?
栗花落:最近はCDが売れなくなってきているので、FM802のヘビーローテーションから売れたということがなかなか示せなくなってきています。私は終始3割くらいの打率でヒットに繋がって欲しいという気持ちがあったんですが、最近はなかなか難しいですね。そういった中でも、植村花菜の『トイレの神様』はFM802がかけたところから始まっています。9分の長い曲を朝のDJが初めてフルでかけたんです。この曲にはものすごく反応があって、大ヒットにつながりました。他では阿部真央とかアーティストとしては今すごくブレイクしてきていますが、昔と比べると打率があまり良くない状況になってきているんだと思います。
−−ただ、それは音楽業界全体のことですよね。
栗花落:特にウチの場合「三重苦」と言っているんですが、ジャニーズ、AKB、韓国POP、この3つをあえて外して、今ではほとんどかけていません。ということでなかなか厳しい状況なんですが、先の’96〜’97年の話と一緒で、いつまでも同じ状況が続くわけではないでしょうし、お陰様でこれらをかけないでもレーティングは堅持しているのであまり問題ないのかなと思っています。
−−昨年12月に発表されたFM COCOLOのFM802への事業譲渡というニュースには驚いたんですが、そもそもどういったいきさつだったんですか?
栗花落:もともとFM COCOLOはInterFMと同時期に外国語のFMとして誕生した局なんですが、FM802の子会社で制作を行う「802メディアワークス」という会社が一昨年の4月からFM COCOLOの編成・制作を委託されていたんです。
−−2年前からFM802が制作していたんですか。
栗花落:ええ。90%くらいそうでした。委託を打診されたときに、外国人だけがターゲットですとビジネス的に難しいので、「Over45のためのミュージックステーション」というキャッチフレーズに代えて、リボーンさせて頂けるのであればと要望を出したんです。そのとき、ちょうどFM802が開局から20年経ったころですから、FM802のリスナーもDJもスタッフも全部20歳年をとっていたんですね。ですから18歳の感性で若い人をターゲットにするミュージックステーションというコンセプトだけでは難しくなってきている時期でもあったので、もしFM COCOLOがOver45ということであれば、DJも自然にそちらへ移行できますし、Over45なリスナーもこちらを聴いて下さい、20年前のFM802の開局当初のイメージがそのままありますからと。
−−それは面白い試みですね(笑)。
栗花落:今のFM COCOLOでしたら「FM802の選曲がキツくなってきたな」という方にも聴いてもらえます。また、ウチのメインDJも何人か移行して、そっちでやっているんですよ。東京にもそういう局ができると面白いなと思っているんですよね。
−−その編成・制作の委託を経ての事業統合なんですね。
栗花落:そうです。経営も含めて全て事業譲渡したいという話がありまして、昨年の12月に発表しまして、今年の4月からはFM802が日本で初めてラジオ2波をやることになりました。
6. 日頃からラジオを聞く習慣をもう一度持ってほしい
−−現在、ラジオのサイマル配信「radiko」は地域を区切って放送していますが、今後、このエリア制限が外れる方向に進むということはあるんでしょうか?
栗花落:個人的にはそういった流れもあると思います。radikoも昨年の震災で半月だけエリア制限を外して、どこでも聴けるようにしました。また、今までも有線では全国で聴けましたし、KDDIの「LISMO WAVE」というサービスもありますが、どれも有料ですよね。そういう面で、エリア制限を取っ払うときは、エリア以外は有料で聴けるという形が1つのフォーマットだと思います。エリア制限解除に向けては音楽業界のライツホルダーの人とかにもご理解いただき、分配のルールをちゃんと決めていかなくてはいけませんが、KDDIはFM放送を有料で配信できているわけですし、radikoもそういう所に向かっていくのではないでしょうか。
−−ラジオ局としてはエリアが広がって不利なことってあるのでしょうか?
栗花落:デメリットがあると言っている局があるのも事実です。少なくとも私の個人的な見解では、FM802はルールさえできれば広がってもいいと思います。ただラジオって基本的にローカルメディアですから、あくまでも私たちは関西の人をターゲットに関西の情報で関西のことをテーマにして番組を作っています。聴取エリアが広がったからといって全国を意識して番組は作らないですよ。あくまでもローカルを意識してしか作れないです。
−−私の友だちでもニューヨークから配信されるネットラジオを聞いているんですが「ニューヨークの今を知るにはこの局を聞けばバッチリだ」と言っていたりします。そういう風にネットだと世界中の局で音楽を楽しめると思うので、聞けるようになったらいいなと思うんですけどね。
栗花落:おそらくそんなに時間はかからないで、そういう方向に行くんじゃないかなと私は期待してます。またradikoはもともとPCで始まったものですが、スマートフォンでもアプリから聴けるようになったことで、若い人にラジオを聴いてもらう大きなチャンスになると思っています。そういう面でradikoにとても期待しています。テレビなど色んなデバイスに初めから組み込まれているというケースも出てきていますし、去年から今年にかけて驚異的に増えたスマートフォンもラジオの受信機が増えるようなものですからね。昔はラジオって何かに付いていたんですよ。私たちの世代で言うとラジカセが1家に1台必ずありましたし、車でもカーラジオが付いていますけど、今の若い人は車も乗らなくなっている、と。1家に1台は必ずあるというようなデバイスにラジオが乗ることがなくなってきたので「ラジオってどうやって聴くの?」という人が出てきたりしていたんですね。
−−一時期ありましたね。ラジカセが無くなった後、ラジオってどうやって聞くんだということが(笑)。私は震災の後に携帯ラジオを買いました。あのときは本当にラジオが聞きたかったです。
栗花落:ただ、震災などが起こったときに「ラジオがあった」と必ず言われるんですけど、私は震災や災害が起こったときにだけ、みなさんが急にラジオを聴かないと思うんですよ。常に聴いている習慣があるから有事のときに生きてくるんですね。習慣のない人はどこかからラジオを探して聴くということはなかなかできないんです。ですから日頃からラジオを聴く習慣をもう一度持ってほしいと思います。
−−やはりラジオを聴く若者は減っているんですか?
栗花落:若者は減っていると思います。それはラジオがない家もたくさんあることからも明らかです。今、セット・イン・ユースが落ちてきている一番大きな要因は若い人が減っていることですね。
−−受験勉強しているような人は何も聴かずに勉強しているんですかね?
栗花落:ウチの娘なんかは結構ラジオを聴くので、聴く人はかなり聴いていると思います。でも、聴かない人は全く聴かない。例えば、家で母親がラジオを聴いている、あるいは父親がラジオを聴いているから聴いてますよとか、そういう環境にある人は聴いてくれていると思います。全く聴かない人は、そもそもラジオのある環境にいないんです。一切ラジオを聴かない人たちが増えてきているというのが問題なので、若い人に向けてラジオの魅力をどうやって伝えていくかというのが今の民放連の最大のテーマです。
7. ラジオは「meet the music」〜自分の見地を広げよう
−−環境もあるかもしれませんが、生活スタイルの変化も大きいですよね。iPhoneやiPodに音を取り込んで音楽を聴いている人が多いじゃないですか。
栗花落:そうですね。自分が選んだものを自分が好きなものだけ食べるというのと一緒で、色んなものに出会っていこうという、探求心とか好奇心が薄れてきているんだと思います。多分これは音楽だけではないんですが、音楽では特にそういう傾向が強くて、音楽が好きな人も自分が曲を入れたiPodだけをずっと聴いているとか、自分が買ったCDだけ聴いてるとか、そういうことになって世界が広がらないんですよね。
ですから、ラジオを聴いて、色々な音楽と出会ってほしいです。ラジオの場合は「listen to the music」じゃなくて「meet the music」なんですね。他の人が選曲したものと出会うんです。そういうコンテンツがないと自分の見地が広がらないと思います。ラジオで音楽を聴くことは、友だちから口コミで聴くことに近いものがあるので、できればもうちょっとラジオを聴いて音楽の見地を広げて欲しいと思います。
−−音楽的な広がりだけでなく、そこに繋がる文化的な広がりもありますからね。
栗花落:そうですね。今おっしゃっていただいたカルチャーっていうのは頭の中ですごくあります。一時期、「カルチャーメディアステーション」って言い方をしていたこともあるくらいですから。音楽は文化全般の代表的なコンテンツで、そのほかに映画、舞台、食など色々ありますが、音楽を通してそういった文化に遡及していくという考えが自分にはあって、「ジャーナリズム」っていうのもそこに近くなってくるんですが、音楽をジャーナリスティックに聴いてほしい、取り上げてほしいと、結構昔からスタッフによく言っていました。今の時代は特にそうですが、音楽が若い人たちにとってものすごく影響力のあるメッセージ発信だと思うので、音楽を作るアーティストの気持ちみたいなものをできるだけ良い形でリスナーに届けていくということは、大きなジャーナリズムに繋がると思っているんです。そこを始点に音楽を聴いたり、伝えるということをウチのスタッフには常に心掛けていてほしいと考えています。
−−そういう考えをスタッフのみなさんに浸透させてきたんですね。
栗花落:ミュージックステーションとして、その姿勢だけは持っていてもらいたいですね。これはあくまでも理想なので、なかなか浸透させるのは難しいですが、ただ単に売れているからかけるとか、そういうことだけではないんです。
最初から一緒にやってきているスタッフやDJは割とその辺を理解してくれていると思います。ただもう20数年経っているので、今の若いスタッフや若いDJがそういうことをどれくらい考えてくれているかは私もちょっと分からないです。もちろんそれは時代と共に変わっていくべきですし、若い人が自分の考え方でその時代に則したラジオを作っていったらいいと思っています。ただ、私がラジオをあと何年やれるか分からないですが、ここにいる間は、「これだけは分かっておいてくれ」ということは伝えていこうと思っています。
−−ラジオにとって人気DJの力も大きいと思うので、そういったパーソナリティを作るっていうのも大事ですね。
栗花落:そうですね、ラジオのスターは必要です。東京でも最近、小島慶子さんが話題になっていますが、そういう人があちこちから出てくることは大切です。FM802で言うとヒロTやマーキー、シャーリー、山添まりといったラジオのスターを作らないとダメです。もちろん何をかけるかっていうのも大切なんですが、DJがやはり重要だと思います。
−−具体的にDJ養成のようなことはされているんでしょうか?
栗花落:ウチは毎年1回DJオーディションというのをやっています。その中から数人を選んで、まず夜中の番組とかを担当してもらいます。そこで養成期間みたいなものがあって徐々に上のレベルの番組へと上がっていきます。今ウチにいるDJのおそらく9割方はそのDJオーディションから出てきた人です。ヒロTとかマーキーとかシャーリーといった初期からいたDJを除いたほとんどのDJがそうです。
−−DJも自社養成しているんですね。
栗花落:ラジオDJって自社養成しかないですね。どこかで養成されるということはあまりないです。別のメディアでやっていたタレントを使うんでしたら別ですけどね。
−−そのDJオーディションは開催時期が決まっているんですか?
栗花落:例年、3〜5月に募集期間があって、7月のスタジオオーディションを経て、7〜8月に決めています。
−−最後になりますが、栗花落さんとFM802にはこれからも唯一無二という存在を貫いて、ラジオ界を引っ張っていっていただきたいと思っています。
栗花落:ありがとうございます。現在、全国にラジオ局が100社あるんですが、どのラジオ局も今苦戦しています。ただ、底を打っている感じも無きにしもあらずなので、色々なところでラジオの新しい可能性を探り、もう一度ラジオというメディアが見直されることを期待しています。ラジオのように音だけで表現したり伝えたりするコンテンツは、人間にとって絶対に必要で、イマジネーションを持ちながら色々な情報を個人が自分なりに理解していくメディアはなくならないとよく言われますが、アメリカを見ていてもそう思いますし、音楽のマーケットが健全で良い状態を保っていくためにも、ラジオがもうちょっと頑張らないといけないと思っています。
−−本当にそう思います。私たちの世代だとラジオが音楽を支えているという印象があります。
栗花落:私たちはあまりそういうことを言いたくないんですが、そう思いたいですね。ラジオでしか伝わらないこともいっぱいありますから、そういうものをみなさんに楽しんでもらえるためにもラジオはなくしたらいけないメディアだと思います。もちろん、ラジオ局自体もたくさん問題は抱えているんですよ。特にテレビと兼営の局なんかだとラジオをお荷物だと思っているようなことがあったりしますから、なかなか足並みは揃わないんですが、ラジオが果たせる役割っていうのは大きいと思いますし、何が契機となってもかまわないのでラジオに触れてほしいと思います。
−−本日はお忙しい中ありがとうございました。FM802の益々のご発展と栗花落さんのご活躍をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
長時間にわたり柔らかな物腰で語られた栗花落さんですが、その言葉の端々に音楽とラジオに対する思いが溢れていました。FM802の個性とは何か、使命とは何か、そんな強い信念の元、周囲のプレッシャーをはねのけて貫き通したこだわりがあったからこそ、リスナーの信用と共に実を結び、FM802の存在は確固たるものになったのではないでしょうか。ラジオというメディアの素晴らしさや価値について生き生きと語る栗花落さんと1局2波体制となるFM802に今後も要注目です。