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第104回 砂田 実 氏 テレビディレクター/演出家

インタビュー リレーインタビュー

砂田 実 氏
砂田 実 氏

テレビディレクター/演出家

今回の「Musicman’s RELAY」は音楽プロデューサー 木崎賢治さんからのご紹介で、テレビディレクター / 演出家 砂田実さんのご登場です。慶應義塾大学を卒業後、TBSへ入社。テレビ黎明期より音楽番組を中心に数々の番組を手がけ、「日本レコード大賞」、「歌謡曲ベストテン」の総合プロデューサーも務められました。また、番組制作の傍ら、植木等、桜井センリらが出演したCMを手がけ、ACC金賞も受賞。さらに、ザ・ピーナッツ、森山良子、五木ひろし等のコンサート制作と幅広く活躍。その後、渡辺プロダクション 常務取締役を経て、現在はフリーで番組制作やイベントの演出制作を手がけられています。日本の高度成長期から現在まで、エンタテイメント業界の真っ直中を駆け抜けてきた正に生き証人、砂田さんの波瀾万丈な半生を伺いました。

[2012年3月23日 / 中央区銀座にて]

プロフィール
砂田 実(すなだ・みのる)
テレビディレクター/演出家


1931年10月17日生まれ。1955年に慶應義塾大学を卒業し、1956年にラジオ東京(現 TBS)へ入社。音楽番組を専門にプロデューサー業務を担当する。在籍中に、日本レコード大賞、TBS歌謡曲ベストテン、歌のグランプリ、東京音楽祭の総合プロデューサーを務めた他、CMディレクターとしてACC金賞を受賞。1976年にTBSを退社し、渡辺プロダクションへ入社。常務取締役を務める。1985年の渡辺プロダクション退社後は、フリーで番組制作やイベントのプロデュースを手がける。
著書:『気楽な稼業ときたもんだ』


 

  1. すぎやまこういち、青島幸男、浅利慶太…才能溢れる同級生と過ごした学生時代
  2. TBSへ入社もフジテレビで“ショクナイ”
  3. 個性的なテレビマンがテレビを面白くする
  4. 日本レコード大賞創設
  5. 1年間の謹慎後、「ザ・ベストテン」でTBS復帰
  6. 68歳で倒産「この世のものとは思えないほどしんどかった」
  7. テレビは世相を写す鏡

 

1. すぎやまこういち、青島幸男、浅利慶太…才能溢れる同級生と過ごした学生時代

−−前回ご出演いただきました木崎さんとのご関係は?

砂田: TBSを辞めた当時、ずっと現場に近いところで仕事をするためには制作会社を作るしかないと思ったんですよ。それで50歳手前になって独立をしようと思っていたときに、渡辺プロダクションの渡辺(晋)さんとソニーの大賀(典雄)さん、それから堤清二さんの3人からそれぞれヘッドハントされたんです。でも、サラリーマン的な感覚がないのでソニーなんて務まるはずはないし、ましてや堤清二はしょっちゅう一緒に遊んでいて、「あまりにもレベルが違いすぎてとても無理だ」と思っていました(笑)。渡辺さんの会社は、サイズも独立するための勉強をするにも丁度いいかなと思って、3年の約束で入ったんです。

 超ワンマンの会社は初めての経験だったので、渡辺プロダクションに入って驚きました。全て社長なんですよ。若いアーティストが曲を出すときに、普通だったらしかるべき責任者に任せるじゃないですか? でも、渡辺さんはディレクターが持ってくる詞に注文を付ける。次に曲を聴かせるんですが、渡辺さんって元々ベーシストでしょ。だから、その時間は渡辺さんにとって至福の至福だったんですね。まわりのみんなは渡辺さんが怖いもんだから、ろくに反論しないんですよ。ただ、木崎だけはあの調子で「社長、それは違いますよ」と自分の意見を通すんですね。そういう姿を見ながら「こいつといつか一緒に仕事したいな」とずっと思っていたんです。それでMASAKIというヴァイオリニストのプロデュースを木崎に任せました。やはりこれも人の縁と出会いと言いますか、渡辺プロには他にも魅力的な人が何人かいましたが、木崎が一番魅力的でしたね。今一緒に仕事をしていても気持ちよく仕事ができます。

−−木崎さんは人への思いやりが伝わってくるような方でした。

砂田:子供がそのまま大きくなったような人なんですよね(笑)。才能もありますしね。渡辺プロ時代には、沢田研二、アグネス・チャン、辞めてからもKAN、槇原敬之、BUMP OF CHICKENでしょ? 彼は今64歳ですが、ああいう風に時代を超えて活躍している人は少ないですよね。

−−ここからは砂田さんご自身についてお伺いしたいのですが、東京の青山で生まれ育ったと伺っております。その頃の青山はどんな様子だったんでしょうか?

砂田:その頃はまだ色んな意味で平和というか、良い雰囲気でしたね。青山の青南小学校というところに通っていたんですが、今の青山の面影は全くなくて、大きな家ばかりが立ち並ぶ住宅街でした。その後、戦争で全部焼けたんですが、青山に帰ってきて家を建てた人があまりいないんですよ。家柄はいいんだけど、あまりお金を持っている人がいなかった土地柄ですね。あとは将軍クラスの軍人さんが馬に乗って、馬兵を従えて出勤するんですよ。今でも良く覚えていますけどかっこよくてね。そんな時代です。

−−お父様は何をされていた方なんですか?

砂田:父は東芝の役員をやっていたんですよ。とにかくあの頃の父は、心根はすごく優しいんだけど怖かったですね。そして、東京でも有数のレコードコレクターだったんですよ。壁一面にレコードがあって。

−−学生時代はどのように過ごされたんですか?

砂田:日本が戦争に負けて、疎開先から東京に帰ってきたんですが、家が焼けてしまったので鷺宮に住んでいて、中学1年のときに都立第二十一中学校(現・東京都立武蔵丘高等学校)という学校に入ったんですね。そのときの同級生が青島幸男とすぎやまこういちなんですよ。すぎやまは圧倒的に頭が良くて常にトップで、毎日のように私の家に遊びに来ましてね。レコードを聴いたり、ガールフレンドはいないけど女の子への興味がものすごくある時期だから、「アラビアン・ナイト」という本があったんですけど、当時は肝心な所が伏せ字になっていて、二人で「ここはなんて書いてあるんだろうな」って想像したりね(笑)。何も知らないのに興味だけはあるもんだから。バカなことをやっていましたね(笑)。

−−その年代はみんな同じようなことをやりますよね(笑)。

砂田:ただ、すぎやまはとにかく頭が良かったですね。それで、1年経った頃に、彼は成蹊中学に行くんですよ。私は慶応の中等部がちょうど臨時で募集していたので入って、青島は早稲田の高等学院に進んだんですね。

−−慶応の中等部は当時からそう簡単に入れる学校じゃないですよね?

砂田:今ほどではなかったですね。せいぜい5〜6倍じゃないでしょうか。やはり当時はみんな貧しくて、慶応に入れるのは割と限られた人だったので逆に楽だったのかもしれないですね。早い話、父のおかげだと思います。

−−お父様の力は大きかったと。

砂田:半端じゃなかったですね。とかく私はファザコンでした。父は背も高いし、二枚目だし、頭も良い。それでいて趣味人でしたからね。

−−ご兄弟は?

砂田:弟が一人います。

−−弟さんは砂田さんとは関係ない道に進まれたんですか?

砂田:弟は東芝に入るんですよ。いわゆる長男タイプ、次男タイプってあるじゃないですか? うちはそれが逆で、私はやんちゃで弟はしっかり父のことを考えるようなタイプでしたね。まず父は長男だから東芝に入れと言ったんですが、東芝に全然興味がないので、しょうがなく試験を受けに行くんですよ。当時本社が川崎にありまして、大きな会社で中に貨物列車が引き込み線で入ってくるし、周りは頭良さそうな奴ばかりだし、「こんな所に入りたくないな」と思って、答案用紙を白紙で出したんですよ。

 父に怒られたことはほとんどないんですけど、そのときだけはコテンパンに怒られましてね(笑)。それで当時の東芝の社長の所に連れて行かれて謝ったりしました。そんなこともあって、どこに就職するか悩んでいたんですよ。当時もかなりの就職難で、行くところがなくて。丁度そのときにテレビが始まって、日本テレビを受けて入ったんです。

 

2. TBSへ入社もフジテレビで“ショクナイ”

−−放送局への就職は全然考えていなかったんですか?

砂田:考えてなかったですね。コンプレックスの固まりでしたから。高校時代の同級生に浅利慶太、先日亡くなった林光、日下武史、小林亜星、冨田勲、まだまだいますけど、本当にすごい人たちが集まっていたんですよ。

−−みなさん同級生なんですか?

砂田:そう、同学年です。しょっちゅうみんなで集まっては放課後に喫茶店に行ったりして、当時の若者は理屈っぽいですから、議論ばかりしているんですよ。それでしばらくしたら、浅利に「東大の演劇部と劇団四季というのを作るけど砂田君はどうする?」と聞かれたんですよ。私にはそんな才能ないし、卒業してすぐに結婚することも決まっていたので断ったんです。

 半年くらい前に、浅利がそのことについてテレビで話したんですよ。「そういういきさつで劇団四季を立ち上げましたが、ついてこられなかったヤツはテレビディレクターになりました」と言ってね(笑)。そのくせ劇団四季を作ったときに、私の所にしょっちゅう来て、「まだ食えないから、役者をエキストラで使ってくれ」と言うんですよ。冗談半分でしたけどね(笑)。

−−TBSの前に日本テレビに就職されていたんですね。

砂田:ただ、正式な社員ではなくて、アルバイトのような形でした。研修生のときは事務職をやって、その後に制作という流れだったんですが、私は営業に行ったんです。そこではCMを「○月○日○時に無事に放送しました」というスポンサーへの送り状を書く仕事だったんです。2週間くらい経ったら局長に呼ばれて、「アルバイトの女の子よりはるかに悪い。ダメだ、使えない」と言われて(笑)。「まいったな」と思っていたときに制作を見たら、当時、井原高忠さんという有名なディレクターがやっていた『光子の窓』という番組が天下を獲っていてね。井原さんは、寿司を”シースー”とか何でも言葉を逆に言う人で、こんな人の下につきたくないと思っていました(笑)。それで、しばらくしたらTBS(当時 東京ラジオ)が募集しているということで、日本テレビに仁義を切らずにTBSを受けたんですよ。

−−ほう、仁義も切らずに。

砂田:私は高校時代、学生運動をしていたんですね。“血のメーデー事件”ってご存じですか? 全学連(全日本学生自治会総連合)が警官隊とやりあって死者が出るんですよ。その真実を書いたビラを徹夜でガリ版を刷って作って、それぞれの持ち場を決めてビラをまくんですが、私は有楽町の方を任されました。

 それで有楽町の駅から街を見たら、各階にバルコニーのある建物があるんですよ。「あのバルコニーの上からお昼休みにばーっとビラを撒いたら、いっぺんになくなるな」と思ってばらまいたんです。その何年後かに同じビルでTBSの入社試験のガイダンスを受けたんですよ。旧 毎日新聞のビル。そういう偶然は面白いですね。

−−それは凄い偶然ですね…TBSに入社されてすぐに制作を担当されたんですか?

砂田: いえ、1年間ラジオの「モニター室」というところに行くんですよ。モニター室に行ってから制作に行くというのが1つのコースでした。このモニター室というのが実にくだらない。当時の毎日新聞は古いビルで、しょっちゅうゴキブリが這っているようなところにモニターがいっぱいあって、一日中放送を聴いているんですよ。そこで音のクリックとか、アナウンサーのミスなんかを記録する仕事なんです。それがシフト制になっているんですが、当時から横着ですから、そんなことを真面目にやるはずがない(笑)。片方でリールを回しておいてFEN(極東放送)ばっかり聴いていたんですが、これが楽しくてね(笑)。そのうちジャズが好きになって。

−−(笑)。

砂田:ときどきアナウンサーがミスをして、そっとドアを開けて「記録しないで!」ってお菓子を持って頼みにくるんですよ。私は「わかりました」なんて調子の良いことを言っていましたね(笑)。

−−その後、制作に移られた当初はどのような番組を担当されたんですか?

砂田:ドラマの方は、NHKからきた岡本愛彦さんなどそうそうたるディレクターが並んでいたので、「音楽だったら色んなことができそうだな」と思って音楽に行ったんです。少なくともテレビを選んだ以上ここで番を張らないと男じゃないなと思っていましたね。

−−ちなみに放送局への就職は今と比べて難しかったんですか?

砂田:そうでもないです。何十倍くらいですね。放送局への就職がすごく人気が出てきた時代があるんですよ。それこそTBSが人気企業ランキングのベストテンに入っている時代は大変でしたね。

 とにかくTBSの黎明期は色んな人がいました。経験者がいませんから経営者も色んなところからピックアップしてくるんですよ。あのときは良かったですよ。種種雑多なだけに一人一人が魅力的でしたね。それに、管理体制がちゃんとしてないですから最高でしたね(笑)。

−−砂田さんはショクナイもされていたそうですが、当時は全然問題ない雰囲気だったんですか?

砂田:許されているわけじゃないんですよ(笑)。チクられたら大変です。だけど、チクるヤツでいい番組作るヤツはいないですよ。私は諏訪(博)さんという当時の社長に可愛がってもらっていたんですが、デスクの脇を諏訪さんの秘書が「社長がお呼びですよ」と言いながら通り過ぎていくんですよ。どうしてかというと、正式に呼び出すと局長を通して、ということになるので大ごとになるじゃないですか。それで目立たないように社長室に行くと、「もうちょっと行儀良くやってくれる?」と笑いながら言うんですよ。部屋の真ん中には封筒があって、「これ、なんですか?」と聞いたら私のことが全部書いてあると言うんです。「見ていいですか?」と聞いたら「いいわけないだろ」と答えるんですが、真ん中に置いてあるんだから見ますよね(笑)。それには私がいつどこでどんなショクナイをしたのか、報酬まで書いてあったんですよ。

−−(笑)。社内の密告者たちの詳細なレポートだったんですね。

砂田:そうです(笑)。だけど、そんなに行儀良くやれるわけないですよ。とにかく好奇心で、何でもやったんです。

−−好奇心が一番なんですね。お金というよりも面白いかどうか。

砂田:面白いことですね。とにかく興味津々で、未だにそれは持続しています。

 

3. 個性的なテレビマンがテレビを面白くする

砂田実氏

−−他にも砂田さんのようにショクナイされるディレクターはいらしたんですか?

砂田:あまりいませんでしたね。もちろん久世(光彦)さんなんかはどんどんやっていましたよ。ただ、お芝居の舞台が多かったから派手にはやらなかったですね。私はちょっとひどかった(笑)。TBS在籍中にミュージカルと音楽制作をやりたいからといって、いずみたくと一緒に会社作っちゃうんですから。

−−音楽制作もされていたんですか?

砂田:そうですね。昔、銀座に日航ミュージックサロンという喫茶店あったんですよ。そこにお茶を飲みに行ったらすごく歌の上手い女の子がいて、それが佐良直美だったんですけど、あるとき「プロにならないの?」と聞いたら「なりたいです!」というので、いずみたくの事務所(オールスタッフ音楽出版社)に預けて、それでレコード大賞を受賞するわけです。佐良直美とか森田公一を、メジャーに向けて応援をしていました。アーティストの成長過程に寄り添うことができる素晴らしい仕事でしたね。

−−砂田さんがショクナイしていた作品で一番有名なのは植木等さんが出演されていた「なんである、アイデアル」のCMですか?

砂田:そうです。私は「なんである、アイデアル」で全日本シーエム放送連盟(ACC)の金賞をもらったと思っていたんですよ。ところが本(『気楽な稼業ときたもんだ』)を書くときに、当時の広告代理店の人に確認したら、そのCMがもらったのはタレント賞だったんです。

 それで、植木さんの契約が切れた後も、スポンサーが面白いからと私を継続して使ってくださって、それで新しいCMを考えたんですよ。植木さんに匹敵する人を探してもどうしても二番煎じになってしまう。それで人格のない人間、つまりパントマイマーでやったCMが金賞を獲っていたそうなんですね。もし知っていたら自慢もできたんですけど、全然覚えてなくてね。賞を獲ってからは色んな所から仕事がきて、パンシロンとか、キンチョールのCMを作ったりしましたね。

−−キンチョールのCMは桜井センリさんが女装で出演されていた作品ですよね。

砂田:そうです。CM撮影のときに桜井センリさんに商品を逆さまにして渡しちゃったんですよ。そうしたら「逆じゃないの?」と言われて「ああ、本当だ。ルーチョンキだな」と言ったところからあのCMが始まったんですよ。

 でも、当時の大阪電通の局長が「商品名を逆さまにするなんてダメだ」と言ってきて大変だったんです。そのときちょうど電通の担当部長と気心が知れていたので、相談したら「任せてください」と言ってくれて、2〜3日後に大阪ミナミの料理屋に呼ばれて行ったんですよ。そこには先客がいて、紹介されたのがKINCHOの専務だったんです。今は社長になっていますが上山直英さんという方で、彼がいきなり「砂田さん、あれ面白いじゃないか」と言うんですよ。そこからKINCHOのコミック路線が始まったわけです。

−−今だとギャグのCMもたくさんありますけど、当時はあまりありませんでしたよね。

砂田:CMって小学生やサラリーマンが飲み屋で言い出したら成功なんですよ。当時はCMも花盛りで、杉山登志さんというものすごく有名なCMディレクターがいたんですが、40歳くらいで自殺してしまうんですね。それで、ごく最近杉山さんのことが書かれた『伝説のCM作家 杉山登志』という本が出たので買いに行ったんですが、どこにあるのかわからないのでお店の方に聞いたんですよ。そうしたら、後ろから中年の紳士が出てきて「僕、持ってきますよ」と言うんです。それがある広告会社の経営者だったんですよ。私のことも覚えていてくださって、二人で話していたら、今度は別の男性が本棚のかげからひょいと出てきて(笑)。彼はその本に出ている映像作家で、長沢佑好さんという方なんですが、杉山登志さんと仕事をされていた方なんですね。それで、どうやら私たちの話を聞いていたようなんです。偶然そこで会って、2〜3日後には3人でお茶を飲みましたね。そういう偶然って面白いですよ。私は昔からそういう偶然が多いんですよ。

−−植木等さんやクレイジーキャッツとはどのようなきっかけでお仕事されるようになったんですか?

砂田:すぎやまこういちがフジテレビで「おとなの漫画」という時事風刺のバラエティ番組をやっていたんですよ。で、TBSの社員なのにそれの脚本も書いていました(笑)。朝起きて、脚本を書いて、フジテレビに持って行って、何食わぬ顔でTBSに行くと。

−− (笑)。

砂田:当時のクレージーキャッツはまだスターになる前ですよ。すぎやまこういちから、「昼の10分、帯でクレージーキャッツのコントをやるから書いてくれる?」と頼まれたんですよ。最初はそうそうたる作家メンバーが名を連ねていたんですが、朝6時に起きて新聞を読んで、その場で脚本を書いて局へ持っていくという仕事が、流行作家に務まるはずがないんです。それで私と青島だけ残りました。

−−面白いことは頑張るんですね(笑)。

砂田:ええ(笑)。今でもはっきり覚えているのが、元々顔見知りだったクレージーキャッツに、すぎやまこういちがニヤニヤ笑いながら「今日から作家の砂田実さん」って言うんですよ。ハナ肇がガハハって笑う。桜井センリがピアノでポンポンなんてやって笑う。石橋エータローが「あれ? ここTBSじゃないよな?」って言う。谷啓が「またまたぁ」という顔をする。全員リアクション違うんです。それが全部ギャグになる。それで植木等だけはチューニングしながらじろーってこっちを見ているんですよ。あのグループはハナがトップなんだけども、実質は植木が仕切っているわけです。

 植木さんは本当にいい人でね。あの人が亡くなったときは本当に悲しかったですね。普段はろくなことないのでタレントと付き合うのが嫌いだったんですよ。だいたいナルシストで、エゴイストで。そうじゃなければタレントになんてならないでしょ?(笑) もちろん例外はあるんですが、そういうのは珍しいですね。だいたいはワガママで自分のことしか考えてないんですから、付き合わないのが正解ですよ。

−−(笑)。「おとなの漫画」の脚本はずっと書かれていたんですか?

砂田:「おとなの漫画」はずっと続いていたんですが、浅沼稲次郎が右翼の少年に殺されたときに、本気になって真面目な脚本を書きました。別に私はそのとき左翼でもなんでもないし、当時は右翼のフジテレビと言われていましたからOKは出ないだろうなあと。それをすぎやまこういちに言っちゃうと立場上辛いだろうと思って、いきなりハナちゃんのところへ行ったんですよ。あの人はノリやすいから「分かった。砂さん、任しとけ」となって真面目なテロ批判を書いたんです。

−−そのままやっちゃったんですか?

砂田:やっちゃいました。1時間くらい経ったら右翼の街宣車がフジテレビに乗り付けて。

−−1時間で来るんですか?!(笑)

砂田:はい。それで「今日の脚本書いたの誰だ!」ということになって私がTBSの社員だということがばれてクビになりました(笑)。それからは舞台の演出だけにしたんです。

−−それが、ザ・ピーナッツや五木ひろしさんですね。

砂田:そうです。ザ・ピーナッツ、梓みちよ、森山良子、尾崎紀世彦。菅原良一が最初で、最後が五木ひろしかな。私が色々と注文をつけるものですから、実力派じゃないとできないんです。いわゆる構成演出なんていうのはクリエイティビティがまるでないじゃないですか。下手するとスター様の仰る通りに曲を並べるだけで終わってしまうわけですよ。それじゃあつまらないと思ったので、その時期に合ったオリジナル曲を作ることにしました。これの最たるものが、ちあきなおみの『ねぇあんた』です。DVDにもなっているんですが、悪い男に振られても振られてもすがりついて、その男のことを心配するという歌詞なんです。「ねぇあんた、こんなことしてたら女に嫌われるわよ」の連続の曲。

 「たけしの誰でもピカソ」という番組で、ちあきなおみを特集するのを新聞で知って、番組を見てみたんです。そうしたら『ねぇあんた』が出てくる。映像で撮った記憶が全くなかったんですが、コロムビアの人が記録のために撮っていたんでしょうね。それでたけしさんが「これ凄いなあ。正にシャンソンだよ」と感心してくれたんですよ。そうしたらコロムビアも力を入れて売り出して、今ボックスセットが出ています。面白いですね。ちあきはもう出てこないのにコンスタントに売れているんですから。

−−これはレコード会社の人間にはできないですよ。

砂田:そういうのは嬉しいですね。雪村いづみの『約束』という曲は今でもコンサートの最後に歌ってくれていますし。ザ・ピーナッツの引退のときに、『帰り来ぬ青春』を、なかにし礼に詞を付けてもらって作ったり、加藤登紀子さんと一緒に作った『朝の食事』とか、番組でいずみたくと一緒に作った岸洋子さんの『希望』とか、ヒットと言うよりは、視聴者の記憶に残り、長く聴き続けていただいてる歌が色々とあります。よく考えるとそういった曲にはドラマ性があるということに気がつきました。

−−テレビ創成期に活躍された方にお話を伺うと、「思いつきを形にしたら上手くいった」というようなことをよく仰いますので、当時は相当楽しかったんじゃないかなと思うんですよ。

砂田:楽しかったですね。ほとんど生放送だったからよかったんですよ。だけど、その分だけ苛烈な時間の連続で、何日も家に帰っていませんでした。後にTBSは入社試験が厳しくなるんですが、そこから変わってくるんです。私たちのときは、縁故採用が6割、残りが正規採用という感じだったんですが、意外と縁故のヤツがいいんですよ。それぞれ個性的だし、色んな意味で才能のある人たちでした。テレビってそういうものだと思うんですよ。

−−そういった個性がテレビを面白くするんですね。

砂田:試験に英語を取り入れてからは東大生ばかり増えちゃって…。久世光彦さんにしても鴨下信一さんにしても、東大出身で作り手としても優秀なんですが、評論家になってしまう人がかなりいるんですよ。そうすると社内の空気が変わってしまうんです。

−−受験エリートみたいなのは入れちゃダメだと。

砂田:だってつまらないんですよ、みんな。

 

4. 日本レコード大賞創設

−−日本レコード大賞を創設されたときのお話もお伺いしたいのですが。

砂田:あのときは、日本作曲家協会の会長が古賀政男さんで、副会長が服部良一さんだったんですよ。お二人は既にレコード大賞を前年からスタートさせていたんですが、ある日揃って社長の所にみえて、「絶対にいい番組になると思うからTBSでレコード大賞を育ててくれないか」と頼みにいらしたんです。そこで私が社長に呼ばれて、面白そうだなと思って野中(杉二)さんというプロデューサーと一度レコード大賞を見に行くことにしたんです。行ってみたら文京公会堂というあまり大きな会場ではなかったんですが、お客さんが三分の一くらいしか入ってない。ところが作曲家協会が主催しているので当時のスターたちがたくさん出演しているんですよ。それをずっと見ていて「これは絶対にいけるな」と思ったんですね。野中さんはとても紳士的で私みたいに荒っぽくない人だったので、レコード大賞の組織の構築とか裏方をやってもらって、私は表に出て現場をやったわけですね。

 私は基本的に「大衆音楽に評論家はいらない」という考えなんですよ。良き紹介者であってほしいと。評論したって始まらないし、どんなに悪いこと言われても流行れば勝ちだとずっと思っていたので。でも、当時は平井賢さんを頂点として、評論家がグループを組んで、新譜を出すときにレコード会社が歌手を連れて行って彼らを接待したりするんですよ。そういう流れがあったので、レコード大賞をやることになったとき、平井さんたちが自動的に居座ってしまったわけです。そのときにTBSは一切選考には関わらない、運営だけやると決めました。最近はTBSの社員が審査の方に入っているようですが、あれは間違いだと思います。社員が審査に入ったら必ず裏から手を回してくる人が来ますから。社員、特に音楽担当者は芸能政治家になるべきではありません。

−−平井賢さんという方はその前は何をやってらした方なんですか?

砂田:日経新聞の音楽記者です。これが滅法、色とカネに弱い方でね(笑)。日経の音楽記者でいつの間にかドンになっちゃったんです。だからみんなとにかく平井詣になるんですよ。新人とかレコード会社全部が。

−−(笑)。

砂田:そのことを三田完さんという作家が『乾杯屋』という小説で書いていたんですよ。よく調べていますよ。その通りですよ。それで「あのお父さんたちにとっても人生の華なんだろう。そっとしておこうかな」と思ってほっておいたんですけど、色々とよくない影響が出てきてそうもいかなくなってしまったんです。それで「この人を何とか引きずり下ろそう」と思って、色々と画策したんですよ。そうすると必ず御注進というのが行くんですよ。「どうも砂田というのがけしからんことをやっている」という話になってヤクザの親分が来るんです。TBSの下のレストランに呼ばれて、「砂田さん、人を斬るときは骨まで斬らないとあんたやられますよ」と言って帰っていったんです。

−−それは怖い!(笑)。

砂田:「上等だ」と思いましたね(笑)。銀座に山口洋子さんがやられている「姫」という名店があって、五木ひろしを7〜8年やっていたものですから打合せに行くんですよ。あるとき「たまには客になってみよう」と思って1人で行ったんです。そうしたら平井さんが両脇に子分をたずさえて女の子をはべらしているわけです。「おい砂田、ちょっと来い」と言うので「何か御用ですか?」と返すと、相手は立ち上がって「お前この頃生意気なんだよ。ただじゃおかねえ」と言い出した。私はケンカが嫌いじゃない方ですから「生意気なのはそっちの方なんじゃないんですか?」と言ったら掴みかかってきたんです。それで黒服がパッと近寄ってきて「砂田さん、ここじゃ勘弁してください」と言うんでね(笑)、私が店を出て行きました。そんなことがしょっちゅう。

 それで運営委員会の議決で一計を案じ、彼らを運営委員に棚上げしてしまったんですよ。思い出すのはその年のレコード大賞のときに、ディレクターが壇上に登って賞状を歌手に渡す位置決めをやっているんですが、それを見ていた平井さんは、自分の出番がないのが分かって「砂田ーっ! どういうことなんだこれはー!」って大きな声で怒鳴ってきたんですよ。それで「まあ、ちょっと出ましょう」と促して、一通り説明して「運営委員は賞状をお渡しにならなくて結構です」と伝えたら帰って行きました。つまり、壇上でテレビに映って賞状を手渡すことが、その人の華だったんでしょうね。

−−それ以上の恐い思いはなさらなかったんですか?

砂田:それ以上はなかったですね。それで、新聞社と、週刊誌の音楽担当記者と、しっかりとした成果を残している音楽評論家たちだけにしたんですよ。それからは目立つようなものはなくなりました。

−−そこまで影響力があったということですね。

砂田:私も某社長に賄賂を渡されたことがあります。昔、銀座東京ホテルというのがあったんですが、そこへ「今年の歌い手のレコ大の動向をお聞きしたい」と呼ばれて、「そういうことだったらいいかな」と思って行ったんですよ。すると、スイートを取ってあって、そこに社長と宣伝部長と役員がいるわけです。さんざん話をして、最後に画に描いたようなカステラを渡されるわけですよ。まさかと思って家へ帰って開けてみたら300万円入っている。これを返すのが大変でした。

−−(笑)。

砂田:返しに行ったら宣伝部長がうっすら涙を浮かべて「砂田さんが返しにこられて受け取りましたと言ったら私の立場がないです」と。ですが、ああいうのは必ず出した側から情報が出るんです。何も清潔ぶるつもりはなかったんですが、それやっちゃったらもう最後なので、「あなたたちの立場もないかも分からないけれど、受け取っちゃったら私の立場もないんですよ」と丁重にお断りしました。本当は欲しかったけどね(笑)。

−−(笑)。そういった人間関係以外にレコード大賞を始めるにあたって苦労されたことはありますか?

砂田:私はどうしてもこだわりたいことがあったんですよ。まず、もっと広い、ちゃんとした会場でやりたいと思っていました。当時一番良い劇場が帝国劇場だったんですが、菊田一夫さんがお作りになって、我が子のように大事にしていましたので外へ貸し出すなんてとんでもないことだったんです。それでお願いに行ったんですが、可愛いところのあるお父さんで、最後に「どうしても借りたいのー?」なんて聞くんですよ(笑)。結局は貸していただいたんですが、前の日からガードマンが張りついていて凄いんですよ。前日にテレビの機材を置くところから見張り付きだったんです。

 それと、この番組をどうしても12月31日、NHKの紅白の直前にやるべきだと考えたんです。ところがNHKに行ったらとにかく上から目線で、「何だか変なのが来やがった」という感じで、慇懃無礼なんですよ(笑)。「この野郎!」と思ったけれど、こっちが後発ですからね。何回か接待したり色々と頼み込んで、やっと了承を得て、ぴったりくっつけたんです。その代わり、レコード大賞に出ている人の大体は紅白に行きますから、出演者の送りを全部TBS持ちでやったんです、ハイヤーを待たせておいて。途中からだんだん変わっていきましたけどね。

 ところが、数年前にレコード大賞を紅白の前日にしたんですよ。それから視聴率がどんどん落ちちゃったんです。もちろん原因はそれだけじゃないですよ。音楽は多様化していますからしょうがないですけれども、要するに夜7時から紅白終わるまでがお祭りだという現場感覚が放送局の幹部にないんですよ。それが残念でしたね。

 

5. 1年間の謹慎後、「ザ・ベストテン」でTBS復帰

砂田実氏

−−その後はTBSの不良社員として、「ザ・ベストテン」を立ち上げられるわけですね(笑)。

砂田:「ザ・ベストテン」は私が管理職になってからなんですよ。だから正式には山田修爾という私の直属の部下がやったんです。実は「ザ・ベストテン」に行く前に、私が飛ばされた時期があるんですよ。鈴木道明さんという方がいまして、彼は超ワンマンなんですね。早稲田大学のボクシング部出身で、すごい体格をしていたんです。これが当時の今道(潤三)さんという名物会長に可愛がられていて、すごい権力者だったんです。

 私はショクナイしていたので一番目をつけられていたんですが、知らん顔して延々とやっていたんです。真夏のあるとき、ショクナイでTBSの隣りの国際芸術会館でダンス稽古をやっていたんです。ところがあまりにも暑かったので、オープンリールがオーバーヒートして止まっちゃったんですよ。これじゃあダンスの振り付けもできないので、TBSの中の稽古場だったら冷房がつけられると思って、ADに空いている所を探させて全員そこへ引っ越したんですよ。

−−それはちょっとまずいですよね(笑)。

砂田:まずいですよ(笑)。そこでやっていたら、振り付け師の顔色がふっと変わったんです。そうしたらドアの所に鈴木道明さんが立っているんですよ。

−−ついに現場をおさえられてしまった、と(笑)。

砂田:これはいよいよクビだなと思いましたね(笑)。私はいずれにしても辞めて独立するつもりでしたから、例えば庶務へ飛ばされたら辞めようと思っていました。ですが、私の使い勝手があるうちは飛ばされないだろうとも思っていたんですよね。ところがその日の夕方に会社に行ったら局長を始め管理職が誰もいない。会議室で私をどうするかと会議をしているんです。

−−(笑)。

砂田:呼ばれて会議室に行ったら「明日から出てこなくていい」と言われました。「制作局に籍はあるんですか?」と聞いたら「籍は置いておく」と。しょうがないですよね。確信犯ですから最初からこちらが悪いのは分かっていますしね。それで「会社には来なくていい」と言うわけです。それからというものショクナイ大会ですよ。もう、こっち専門です。

−−むしろ集中できますね(笑)。

砂田:それから1年後に、鈴木道明さんから呼び出しが来ました。これはいよいよどこかに飛ばされるんだと思ったら、ニコニコしているんです。それで「TBSもいよいよベストテン番組を始めることになったから、明日から出てきてお前がやれ」と言われました(笑)。

−−1年間の謹慎を解かれたといっても、堂々とショクナイをされていたので全然謹慎って感じじゃないですね(笑)。

砂田:謹慎するようなら最初からショクナイやらないですよ。あの時代、テレビと同時にCMや勤労者音楽協議会、民主音楽協会の組織団体も花開き、その全てに魅了されました。とにかく好奇心が旺盛で何でもやりましたね。それに、テレビ・サラリーマンの枠に自分を置きたくありませんでした。

 面白いのは、丁度そのときに音楽マニアだった父が東芝EMIの設立に関わるんです。そうするとレコード大賞の時期に東芝EMIの宣伝部長が私の所に色々と頼みにくるんですが、そのときが一番嫌でした。

−−(笑)。

砂田:そのうちに、父は滅多に喋らない人なんですけど、新聞読みながら「お前最近TBSの天皇って言われているそうだな。天皇と言われるのは良いけど政治家にはなるな」と言われて、これは良い言葉だなと思いました。そういう粋な親父だったんですね。本格的にTBSに復帰して、部会に出席したときに「僕はもう昔からずっと変わってないけれど、世の中の方は変わりますね」と言ったら、みんな爆笑ですよ。

−−名文句ですね(笑)。

砂田:しかも厚遇で、その「ザ・ベストテン」の前身の番組をやるために1つ部屋をあてがわれるわけです。そこで割と優秀なスタッフを率いて番組を作りました。私が諏訪さんという人に可愛がられていたと言いましたが、諏訪さんは私に「制作なんかにいたら偉くなれないよ。とにかく営業なり編成なりに代われ」と言うんですよ。私は「嫌です。番組を作りたくて入ってきたんですから、事務やるんだったら辞めますよ」と生意気に言いました。それが2回あったんです。3回は有無を言わさず、ですよ。

−−行かされたんですか?

砂田:いきなりネットワーク営業部へ辞令が出たんです。今はもうない部署なんですが、当時は出世コースなんです。それが嫌味な部で、行ってみたら東大と慶応しかいない。幸いなことにそのネットワーク営業局に慶応高校時代の同級生がいて、彼が「昨日諏訪さんが来て、『砂田こっちに連れてくるから頼むぞ』って言って帰っちゃった」と言うんですよ。私は「しょうがない、これは辞めどきだ」と思ったんです。ショクナイばかりしていたので多少遅れをとるだろうと思っていましたが、ろくに仕事ができない人間が部長になって指図されるのは嫌だったので、何とかして部長だけにはなりたいなと思ったんです。実際辞令が出たら部長になれたので、それから半年後に辞めたんですよ。丁度その頃、渡辺晋さんにヘッドハントされて。

−−砂田さんにはそれだけ光るものがあったということですよね。

砂田:私は人より優れていて頭が良いとは思わないですし、たまたま何となく面白いと思ってくださった方がいただけなんじゃないですかね。

−−でも、色んな番組やイベントで実績を残されていますから。

砂田:そうですね。私の直属の部下にギョロなべくん(渡辺正文氏)というのがいて、これがまた極めつけの不良なんですよ(笑)。

−−業界でも有名ですよね。

砂田:すごいんですよ。「サウンド・イン”S”」という洋物の良い番組を作ったんですが、1年遅れで制作に入ってきてメキメキと才能を発揮する。ただこれがまたとにかくカネと女に弱い。

−−(笑)。

砂田:それでも魅力がある奴だったんですよ。私とは仲が良かった。一見あまり仲良くないように装って、1ヶ月に1回ミーティングやるんですよ。私は「人事の奴が今お前のことを洗っているから気をつけろよ」と言って、ギョロなべの方も「編成が色々とお前を…」なんて情報交換をしていました。それからプロダクションの情報交換。どこにどういうタレントが行くとか、社長はどうだとか、そういうのを月に1回やっていたんです。凄かったのは、ギョロなべが海外を、私が国内大会を受け持ち、「東京音楽祭」という大規模な音楽イベントを立ち上げるんですよ。これは普通のサラリーマンじゃできないです。だってフランク・シナトラや、サミー・デイビス・ジュニアを呼ぶんですよ。ヨーロッパからもシャーリー・バッシーとか、スターになりかけた人を集めるわけです。

−−凄いですね。

砂田:私と違って諏訪さんへのヨイショも実に上手い。彼は海外事業を担当していたので、1年に1回、カンヌで開催されるMIDEMという音楽見本市に行くんですよ。私も一緒に行くんですが、私はずっと遊んでいるわけです(笑)。それから、グラミー賞のときも私が行ったってしょうがないのに、会社のお金で一緒に行くんですよ。それで帰りに色々と回ってくるわけです。本当に、今のTBSでは考えられないですよ。最高でしたね(笑)。

−−(笑)。でも、その不良コンビが業績を残したわけですよね。

砂田:そうです。ただ、ギョロなべが可愛そうだったのは、ああいうやり方をしていたので敵が多すぎて、50代で亡くなってしまいました。もう大分前ですね。あのタイブの人はこう言っちゃなんですけど、やっぱり長生きしたら辛いですね。私だって同じなんですけども(笑)。

 

6. 68歳で倒産「この世のものとは思えないほどしんどかった」

−−ナベプロから独立されて、制作会社を作られますね。

砂田:ええ。かつてのTBSの後輩に仕事を頼みに行くのは何としても嫌だ、どうしたらいいかなと考えていたときに、当時電通がTBSから枠を買い取って制作を丸投げしていたんです。そのキーマンを捜し出して、その人と仲良くなったので、独立してすぐにレギュラー番組が2本あったんです。だから何にも地を這うような苦労をしないで、売上が伸びたんですよ。

−−目の付け所が良かったですね。

砂田:ところが、苦労をして積み上げてきていないのと、経営感覚の全くないディレクター上がりが、しかるべきスタッフも付けずに始めるわけですから、あっと言う間に倒産するんですよ。倒産する前の1年半っていうのは、この世のものとは思えないほどしんどかったですね。KSD事件というのがありまして、KSDというのは中小企業からお金を集めた保険なんですが、その理事長がまた強欲な人でね。2年に1回、東京ドームで大会をやるんですが、これの第一部が、自民党の幹部がずらっといて、第二部がエンターテインメント。これを全部引き受けて3億ですよ。どう使ったって1億残ります。

−−それは使い切れない額ですね(笑)。

砂田:半年前から2000万円ずつ振り込んでくるのでこれはありがたいと思いつつ、こんな仕事をやってちゃいけないなとも思っていました。

−−要するにKSD事件の余波で資金が振り込まれなくなって潰れてしまったわけですね。

砂田:そうですが、それは潰れたきっかけであって、元々は経営能力のないテレビ局上がりが渡辺プロへ行って勉強しようと思ったのが間違いだったんです。渡辺プロみたいな強力なオーナー会社は、普通の経営感覚とは違いました。

−−そうなんですか…。

砂田:だから渡辺プロに行って培ったのは忍耐力だけです(笑)。それでも良い所はありましたけどね。仲間はみんな良かったですし。

 それで結局、一番のきっかけになったのが先ほどお話ししたKSD事件のことで、身の丈に合わないことをやったためにどんどん資金繰りが悪化していきました。それでも、あと半年経てばKSDがあるからこれで繋げると思っていたある日、新聞を読んだら(自民党がらみの金銭問題で)ものの見事に理事長逮捕ですよ。

−− (笑)。

砂田:それで不渡りになったときに弁護士に「砂田さん、一応家を出てください」と言われたので、女房と一緒に慌てて身の回りのものだけまとめて家を出るわけです。それでホテルマンションみたいなところを転々としました。少し落ち着いたあたりで、元田辺エージェンシーの川村(龍夫)さんが私の面倒を見てくれたんです。私が「何でここまでやってくれるの?」って聞いたら、「ブルーコメッツのときにお世話になったのと、砂田さんだけ私に対して普通に接してくれた」と言うんです。

−−その普通というのは?

砂田:あのときの生意気なテレビマンは「おう、川村。タバコ買ってこい」なんて平気で言っていたんです。ところが私だけ「川村さん」と呼んでいたと言うんです。そんなこと当たり前のことじゃないですか。それでも向こうが覚えている。それですごくいい弁護士を紹介してくれて、私のデータを調べて「これは倒産しなくても良かったね」と言われました。でも、私はあの倒産経験がなかったら調子に乗ってもっととんでもない男になっていたと思いますよ。

−−実質何年間ですか? 85年に創業して14年間くらいですか。

砂田:そうですね。制作会社は若い人に譲って別の会社を作ったんです。その会社が倒産しました。

−−それはいつ頃からスタートしたんですか?

砂田:63歳からです。アメリカに会社を作ったり、当時は海外ロケの全盛ですから、そのロケのコーディネートや、アメリカの原盤を東芝EMIへ売り買いする仲介をやったりと、そういう仕事をやっていました。ですから、制作会社は私がヘッドハントした2代目にやらせていたんです。ただその男は非常に真面目で良い奴なんですけど、セールス能力が無かった。だから今は全く霞んじゃいましたけど。

−−倒産してしまった後、その時はすでに68歳、どうやってそこから復活なさったんですか?

砂田:とにかく前に進むしかないと思いました。私のかつての部下が制作会社の社長をやっていて、そいつは社長兼舞台の演出家だったんですよ。私のショクナイの舞台演出にくっついて勉強した奴なんです。自分が演出家で会社にあまり居られないから「砂田さん、社長室使ってください」と言ってくれて、そこの社長室を使って、少しずつ色んな仕事を始めたんです。

 倒産したときは、少なくともそのとき付き合っていた電通とか色んなところには、一切音信不通にしようと思ったんです。そんなときに行くと、愚痴を言いに来たか、下手すると金を借りに来たかとしか向こうに思われないじゃないですか。だから、もう1回這い上がれる可能性があるところまで行けばいいと思って3年は我慢したんです。それで少しずつ、毒にも薬にもならない仕事をやりだして、それで4年目に入ったときに電通に行きましたね。後はハッタリですよ。「まだまだ現役でやってますよ」というと仕事をくれるわけです。それで這い上がって行ったわけですね。

 独立してからはありがたいことに、倒産あがりにもかかわらず、かつての部下がトヨタのイベントをくれたんです。これは国技館でやる1日1億円のイベントでした。トヨタのディーラーを集めて、1年に1回、そのイベントで慰労会をやって、一流ホテルに泊めるという接待をトヨタはずっとやっているんです。それを任してくれました。これでやっぱり利益があがりました。それから色々な発注が来るようになって。

−−持つべきものは友人と後輩ですね。

砂田:そう思います。私はTBS時代、勝手気ままやっていましたから。ただついてくる奴はついてくればいいというのが逆に良かったですね。だから『ザ・ベストテン』をやった山田修爾くんは、本当によくくっついてきてくれて、未だに顔を出してくれます。よくドラマのTBSと言われたけど、音楽のTBSとは言われませんでしたから、ちょっと悔しかったんですけど・・・・その基礎は私が彼と一緒に作ったとは思います。彼は『ザ・ベストテン』を作ったことによって、株を上げましたよね。

 

7. テレビは世相を写す鏡

砂田実氏

−−砂田さんは良い意味で、本当に都会的というかスマートでいらっしゃる。

砂田:いやいや。やっていることは泥臭いです。離婚はするは。倒産はするは。

−−(笑)。砂田さんの著書『気楽な稼業ときたもんだ』を読ませていただきましたが、なるほど、噂通りのモテ男だなと感じました(笑)。4回ご結婚なされているのが何よりの証拠です。

砂田:自分では特別なことだと全く思っていないんですけど、初めて聞かれた方はたいてい驚かれるんですよね。

−−ちなみに今の奥さんとはどこで出会われたんですか?

砂田:家内は、私が倒産する前に、異業種交流会で出会ったんですよ。私はそういうのがあまり好きじゃなくて、慶應の後輩にどうしても一回来てくれと頼まれたので行ったんです。するとそこに女性経営者とか、テレビ以外の人たちが大勢いて、違う業種の話を聞くのは面白いなと思いました。偶然なんですが、最初に行った時、今の奥さんが幹事をやっていて受付にいたんです。私は新参者だから一番端っこにいましたが、「この人、絶対前に会っているな」と本当に思ったんです。ケレン味がないですから、人がたくさんいるのに、「前にお会いしましたよね?」って大きな声で言ったんです。そうしたら「いえ、お会いしてません」と言われてしまって(笑)。立場がなかったんですけども、強烈な印象を受けました。彼女は野村證券で女性のトップだった人ですから、半端じゃないんです。それなのに、少女のようなピュアさがあって不思議な存在でした。

−−ファンドマネージャーのようなこともやっていらした?

砂田:そうです。だから損か得かの世界で生きてきた人なので、ジジイで、離婚3回もしていて、一文無しという私を不思議に思ったようです。そのうちに「砂田さん、何を食べているんですか?」と聞くから、「コンビニの弁当だとか、近くの安い店とかそんなものばっかりですよ」と答えました。そしたら、「そんなもの食べてちゃダメですよ。一番大事な年齢なんだから」という会話から交際が始まりました。全く別の世界で激しく生きてきて、でも根が同じだったんでしょう。今は幸せに毎日をおくっています。

−−波瀾万丈とも言えますし、人に真似できないような濃厚な人生ですよね。

砂田:悪いものじゃないですよ。波瀾万丈と言ったって面白かったですからね。

−−日本のテレビやエンターテイメントの絶頂の時代を生きてこられたわけですからね。

砂田:来年、確かテレビ放送が始まって60年なんですよ。そうすると各局昭和30年からのテレビ史の懐古番組をやるはずなんです。今度六本木でトークショーをやるんですが、私の今までのことをスピーチするんです。よくあるような経営者の成功談義ではなくて、ダメな男の面白い人生の話をする。色んな人間関係があるので、それを広げていって、その集大成で番組を作って局に売り込もうと思っているんですよ。それをTBS時代の部下と一緒にやりたいですね。

 それと、最近やっと芽が出てきたMASAKIというヴァイオリニストなんですが、この子が本当にいい子でいいもの持っているんですけど、さらにレベルを上げるために服部克久さんに全面的に協力してもらって。これからが楽しみですね。服部さんはいいですよね。決しておごりたかぶらないし、私は大好きです。服部克久さんと、宮川泰さん、前田憲男さんの3人とずっと仕事していたんですが、3人とも最高ですよ。

−−先ほどお話された「集大成の番組」とは具体的にどんな番組になるんでしょうか?

砂田:意外と大衆はテレビのことを知っているようで知らない面があるんですよ。特にテレビ創造期のことを知っている人はほとんどいないですから。そういうのが1つの物語になった番組ですね。あと、「今のテレビは酷い」というようなことをよく聞きますけど、テレビはそれ自体が変わっていくものなんですよ。だから昔と比較するのはナンセンスです。だって、インターネット番組がどんどん増えてきていますし、テレビ自体がどうなるかわからないんですから。

−−最後に音楽業界やテレビ業界に対してどのように思われていますか?

砂田:私はただ感心しています。特に今の音楽業界。というのは、やっぱりみんな歌が上手いですよね、リズムも感ありますし。私の時代のアイドルは本当にバカが多かったんですよ。今の子は少なくとも知的ですよね。

−−日本の音楽全体のレベルが底上げされたということですね。

砂田:そうですね。ただテレビはね。特にお笑い系タレントにものが言えないんですよ。立場の強いお笑いタレントなんかには、こっちから相談しているんですから。たまに今の若い人が「砂田さんの時代は良かったですね」なんて言うけども、時代のせいにしたらダメなんですよ。だけど、やはり私の場合は時代が良かったのは確かです。

−−それは間違いないですね(笑)。

砂田:だからテレビには色々注文はありますね。でも、今のテレビにも丹念に作っている番組がたくさんありますよ。放送作家出身で、秋元康とか小山薫堂とか素晴らしい人がたくさん出ているじゃないですか? その時代でどんどん変わっていく、テレビというのは、その世相を写す鏡みたいなものですよね。そういうものだと思います。

−−そんな中、砂田さんは未だに現役で頑張っていらっしゃることに驚かされます。

砂田:たぶん難しいのは、我々はみんな現役のつもりでやる。そうすると勘違いするんですよ。全て自分でやろうとすると、感覚がずれていて仕事なんてこないですよ。私は大きいところだけ押さえて、やっぱり40代、50代の人に頑張ってもらうわけですよ。そういうチームワークができているから成り立っているんですね。

−−本日は貴重なお話をありがとうございました。これからも砂田さん手がける作品を楽しみにしています。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

型にはまらない大胆な仕事っぷりでテレビの歴史に大きく貢献された砂田さん。才能溢れる方々との交流はもちろん、砂田さんご自身の武勇伝など、お伺いしたお話の全てが刺激的で、あっという間に時間が過ぎてしまいました。この大胆さと話術も“モテ男”と呼ばれる由縁なのかもしれません。また60年近く、エンターテイメント業界に関わりながら、少しも薄れない好奇心と情熱、そして80歳とは思えない若さにも驚きです。テレビ放送60周年の記念すべき日に、砂田さんが制作された番組を拝見できることを心待ちにしています。

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