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第106回 坂本 健 氏 株式会社ローソンHMVエンタテイメント 代表取締役社長

インタビュー リレーインタビュー

坂本 健 氏
坂本 健 氏

株式会社ローソンHMVエンタテイメント 代表取締役社長

今回の「Musicman’s RELAY」はスペースシャワーネットワーク 金森清志さんからのご紹介で、株式会社ローソンHMVエンタテイメント 代表取締役社長 坂本 健さんのご登場です。大学卒業後、株式会社日本リクルートセンター(現 株式会社リクルート)入社後、広報、経営企画、新規事業、電子メディアなど多くの業務に携わられ、同時にメディアファクトリーを通じて、その名の通り、あらゆるエンターテイメント領域へ事業を展開。ぴあ株式会社でもその路線を引継ぎ、チケット事業の拡大に尽力されました。現在、「ユーザーエンタメ360°」をコンセプトに、ローソンHMVエンタテイメントの代表として、様々なプロジェクトを展開する坂本さんに、ご自身のキャリアからローソンHMVエンタテイメントの展望まで、お話を伺いました。

[2012年6月19日、25日 / 品川区大崎 株式会社ローソンHMVエンタテイメントにて]

プロフィール
坂本 健 (さかもと・けん)
株式会社ローソンHMVエンタテイメント 代表取締役社長


生年月日 1949年9月3日生
1973年 4月 株式会社日本リクルートセンター(現株式会社リクルート)入社
1990年 3月 株式会社リクルート取締役
1993年 10月 株式会社メディアファクトリー代表取締役
1997年 6月 株式会社リクルート常務取締役
2001年 6月 ぴあ株式会社取締役
2003年 5月 同社常務取締役
2007年 6月 同社取締役専務執行役員
2010年 5月 株式会社ローソンエンターメディア 代表取締役会長
2010年 12月 HMV ジャパン株式会社取締役
2011年 5月 株式会社ローソンエンターメディア 代表取締役社長
2011年 9月 株式会社ローソンHMVエンタテイメント 代表取締役社長

 

    1. 音楽は欠かせないものだった少年時代
    2. 大学の新聞会が縁でリクルート入社
    3. リクルートをリクルートたらしめているもの
    4. 音楽に出会うきっかけを作る〜『ザッピィ』に込めたコンセプト
    5. 記録に残らなかった「ポケモン」シングル200万枚
    6. ぴあを経て、ローソンエンターメディアへ
    7. 音楽の「マインドシェア」は大きい

 

1. 音楽は欠かせないものだった少年時代

−−前回ご出演いただきました金森清志さんとは、どのようなきっかけでお知り合いになられたんですか?

坂本:中井猛さんがスペースシャワーの会長を退かれるときに、中井さんと金森さん、近藤正司さんと会食をして、そのときに紹介していただきました。お会いしたのはそれが初めてだったと思います。それからはスペースシャワーさんとコラボレーションできるような企画を検討するために、ここ1年間、やり取りをさせていただいています。

−−その後、コラボレーション企画に進展はありましたか?

坂本:渋谷WWWで、現在は廃盤になっているようなかつての名盤を、アーティスト本人が収録曲順どおりに演奏するライブシリーズ「HMV GET BACK SESSION」を開催しています。他には、道玄坂の「スペースシャワーTV ザ・ダイナー」でイベントやファンミーティングが行われるときにHMVの試聴機を置いたり、CDが販売できるようなスペースを展開するといった共同プロモーション企画など、色々なプロジェクトが進行中です。

−−今後のコラボレーションも楽しみですね。ここからは坂本さんご自身についてお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

坂本:東京の八王子で生まれ育ちました。当時の八王子は田舎で、周りは全部畑ですし、裏山もあって里山みたいな環境でした。小学校は歩いて片道40分くらいかかりました。

−−坂本家はどのようなご家庭だったんですか?

坂本:祖父も父も教師だったんですが、同時に田畑もやっている兼業農家でした。子供のころは野山を駆け回る毎日でしたね。

−−学生時代に音楽との接点はありましたか?

坂本:幼い頃は家に蓄音機があって、松島トモ子さんや小鳩くるみさんのレコードを聴いたりしていました。小学生の頃はラジオから流れてくる演歌かな。子どもながらお富さんとか古城なんかを口ずさんでいたのを覚えています。中学に入って、祖父が骨董市によく行っていたようで、ときどき面白そうなものを買ってきてくれていたんですが、ある日「こんなのがあったよ」といってギターを買ってきてくれました。教則本を見ながら弾いてみたり、レコードを何回もまわしてコードをコピーしたりしていました。ラジオでアメリカンポップスを聴き始めたのもこの頃ですね。

−−FENも聴いていらしたんでしょうか?

坂本:横田基地が比較的近かったのでFENも入りましたけど、家の真上を着陸するB29が低空で通過していました。それはすごい爆音でしたね。FENではカントリーとかブルーグラスを時々聴いていましたが、よく聴いたのは、日本のラジオ局でかけているポール・アンカやニール・セダカあたりですね。当時、文化放送の「ユア・ヒット・パレード」の人気がすごかったんですよ。毎週オンエアが待ち遠しかったですね。そのうちにテレビが出てきて「ザ・ヒットパレード」と「シャボン玉ホリデー」で、洋楽のカバー曲を聴いて洋楽が生活の中に自然と存在するようになりました。

−−坂本さんはビートルズ世代ですよね。

坂本:そうですね。中学後半にビートルズが入ってきて、ガツンときました。とにかく流れてくる音楽を聴きまくり、テレビでも音楽に関わる番組を視まくって(笑)。同じ頃コンポステレオを買ってきて、レコードで音楽を聴くようになりました。私と音楽の接点というよりは、受け手として音楽というものは欠かせないものとして生きてきたと思うんですよね。

−−団塊の世代は少年時代に洋楽の洗礼を受けた最初の世代って感じですよね。

坂本:ちょっと上にプレスリーの世代がいますが、洋楽のポピュラーなもので言えばそうかもしれませんね。おかげで青年時代は音楽漬けでした。ジャケ買いとかね。鮮烈に覚えているのはサンタナの横尾忠則さんのジャケット、あれはサンタナが何かも横尾さんが誰かもを知らなくて買いましたし、ピンク・フロイドの「原子心母」は邦題が良いっていうだけでタイトル買いしました。あと、私は「作詞買い」っていうのもしていたんですよ。

−−作詞買いですか?

坂本:レコード店で歌詞カードを見て、気に入った詞があると買うっていう(笑)。

−−色んな買い方しているんですね(笑)。

坂本:そうですね。詩といえば、岡林信康さんの「私たちの望むものは」には影響を受けました。「私たちの望むものは 私たちではなく私なのだ」という詞ですが、私は団塊の世代という、いつも塊で扱われていた世代でしたから、「私たちではなく私なのだ」っていうところに鮮明なインパクトがあって、割と私の軸になっている気がします。老いても(笑)。

−−ちなみに学生時代スポーツなどはされなかったんですか?

坂本:中学のときから陸上部だったので、高校でも続けていました。ただ、かたわらでやっていたバンドのほうが女の子と一緒にバンドを組めたりして楽しかったので、だんだんバンドに寄っていきましたね(笑)。プレイヤーとしての能力はあまりなかったんですが・・、民族音楽研究会という、要するに軽音楽部なんですが、ブルーグラスから始まり、カントリー、ラテンあたりをなめて、そして最後は、ちょうど私たちの時代はフォーク全盛期だったこともあり、PPM(ピーター・ポール&マリー)のコピーバンドをやったりしていました。

 

2. 大学の新聞会が縁でリクルート入社

株式会社ローソンHMVエンタテイメント 代表取締役社長 坂本 健氏

−−八王子にはいつまでいらっしゃったんですか?

坂本:大学進学してしばらくしてから、アルバイトをしながらアパート暮らしを始めました。大学に入ってからは音楽とはあまり関係のない生活になりました。アルバイト中心の生活で、また聴く方に戻りました。当時は学校に行ってもストライキがしょっちゅうあるので、授業をやっていないんですよ。私もストライキしている方ではあったんですが…(笑)。

大学では新聞会に入って、最初は割り付けをしたり、記事を書いたり、広告営業をしたりしていたんですよね。でも、新聞会というのは左翼系でしたので、だんだん運動に巻き込まれていって。

−−その新聞会がリクルートに繋がるんですか?

坂本:そうなんです。普通の企業に就職するのが多少難しいことと、やはりそういった企業には興味が持てなくてマスコミを志望していたんですが、みんな落ちて(笑)。そんなときに就職部の張り紙でリクルートの求人があったんです。リクルートは広告の供給会社だったので、大学新聞の広告を受け取りに何度か行っていたんですよ。リクルートは昔、大学新聞広告社といって、大学新聞向けの広告代理店だったので。

−−リクルートへはすんなり合格されたんですか?

坂本:すんなりかどうかはわかりませんが、普通、筆記試験の結果が出るのに1週間ほどかかるので、試験が終わった日はそのまま友達と麻雀していたんですよ。そうしたら、その日のうちに家に「明日面接に来るように」と連絡が来て、どこにいるか連絡もしていなかったので親があわてて探しまくり、何とか連絡がついて。当然、翌日面接へ行くことになりまして(笑)。でも麻雀を抜けて私だけ帰るわけにもいかなくて、結局朝まで麻雀をして面接に行きました。それからまたすぐに最終面接という風でした。このスピード感、他とは違うな、って思いましたね。

−−リクルートに入社してからは、どのような仕事を?

坂本:配属されたのは事業部という、高校生向けの就職ガイダンスを開いて、就職するにあたっての心構えなどを教える進路指導映画を上映して回る部署でした。今で言うインフォマーシャルですね。例えば、メーカーを取材して、会社の方針などを語ってもらって、それがPRにもなっているわけです。

−−それでPR費をもらう?

坂本:そうです。作った作品を高校の先生に見てもらって、問題なければ上映させてもらうんですね。

−−映像を撮影するのは?

坂本:映像は映画事業部というのがあって、そこで製作していました。そのフィルムを持って事前に決まっていたところで上映しながら、研修として飛び込みで新たな学校へ行って、上映できる学校を獲得していました。

−−学校側は無料なんですよね?

坂本:そうです。要するに企業側に対して、これだけの学校で上映しましたという実績を作るんですね。私は東北6県の担当だったんですが、それを3ヶ月間、一度も家に帰らずにやりました。ドライバーが付いていたんですが、最初の学校に向かう途中で事故を起こしてしまって、最初の仕事は事故処理ですよ(笑)。

そのドライバーさんはこの仕事のために免許を取ったばかりで、しかも車は中古で、常に右にハンドルを切っていないと真っ直ぐ進まないという・・。会社に「ドライバーも車も変えてくれ」とお願いしたんですが、なかなか新しい人が来なくて、ほとんど自分で運転していました(笑)。でも、食費・宿泊代などは出ていましたので、安い温泉を探して泊まったり、休みの日には名所を巡ったりしました。そのうえ、その3ヶ月分の給料はまるまる残りました(笑)。大変というより楽しませてもらいました。

−−成果は上がったんですか?

坂本:順調に上がりました。営業先の先生と話すことで、どんどん知識が増えますし、それに応えようと一生懸命やれば結果も付いてくるということを、その3ヶ月で習得しましたね。そういう意味ではすごい研修にもなっていましたね。

 

3. リクルートをリクルートたらしめているもの

−−リクルートではその後どのようなお仕事をされていたんですか?

坂本:広報をやっていました。当時、「日本リクルートセンター調べ」という就職に関する色々な調査をして、マスコミにリリースしたり、取材対応をしたりしていました。調査課というところで調査するんですが、そこに「こういう調査をしてほしい」という指示をしたり。また社内広報として、社内イベントも企画していました。リクルートでは、社員総会やキックオフで事業部ごとに方針を発表したり表彰したりするんですが、それをイベントのようにやるんですね。そのパーティーを盛り上げるためのアトラクションを仕込むのが、広報の仕事でもあったんですよ(笑)。

−−平たく言うと…宴会係みたいなものですか?(笑)

坂本:まあ、そうですね(笑)ただ、まじめな部分のプログラムや映像コンテンツ制作とかもやるんですよ。それまでは、当時の社長である江副さんがダンス好きだったので、プロのダンサーを呼んだりしていたんですが、そのうちミュージシャンを呼ぶようになったんですよ。そのときに、デビュー直後のサザンオールスターズとかハウンドドック、爆風スランプ、シャネルズ、高橋真梨子さんなど色々なアーティストにも来てもらいました。なにせ最盛期の会場は武道館でしたからね。

−−エンタメ系の片鱗がすでに出ていたんですね。

坂本:はい、それから今度は社歌も作ろうということになったんですね(笑)。ずっと歌い継がれる曲を作りたいから、毎年1曲作れば、その中からどれかいいのが残るんじゃないかと。それを社歌にしようと江副さんが言い始めたんです(笑)。毎年一曲作っていって歌い継がれる曲を社歌にしよう!と。最初はすぎやまこういちさんに頼んで、都倉俊一さんなどにお願いしました。結局3年やったんですけど、それ以上は続かなくて(笑)。

−−相当豪華な作家陣ですね。

坂本:イベントなどを、社内活性化の要素の1つとして位置づけていましたからね。リクルートでは「組織活性化の5つのポイント」というのがあります。一番目は採用です。採用して新しい人が入ってくることが、会社の活性化に繋がると。2番目は人事異動。同じ仕事をずっとするのではなくて、社内で転職するような環境を作ると、学ぶことが変わりますし、出会う人も変わる。3番目が教育で、4番目が小集団活動。日常の業務とは別に小集団が自分たちでテーマを決めて取り組み、コンクールで発表するんです。そして、5番目がイベント。歓迎会、送別会、誕生会、目標達成会、などなど多種多様なイベントをやっていましたね。

たとえば部ごと、課ごとに目標売上を達成すると、ボーナスとしてハワイとかグアム旅行に行けるというGIB(Goal In Bonus)制度というのがありました。これはよくできていて、個人の目標達成が条件だと、全く届かない人は諦めちゃいますよね。一方で目標に達した人はそれ以上やらなくてもいいやとなる。 でも、課で目標達成したらメンバー全員で海外旅行に行けるとなるとみんなが少しずつ積み上げるモチベーションが生まれて、みんなが最後まで頑張るんですね。リクルートはこういうモチベーションを上手く仕組化していました。最後まで手を抜けないような仕組みといえばそうなんですが、それをお祭りとして楽しくやっていましたね。

−−ちなみに江副浩正さんの影響力ってやはり大きかったんですか?

坂本:そうですね。江副さん自身は独裁的カリスマタイプではなくて、大学の文化系サークルのリーダータイプでしたが、とにかく江副さんが作った仕組み自体がすごいんですよ。それから、その仕組みに対してお金をちゃんと使ったということですね。社内のコミュニケーションに対する予算や、マーケティングの予算、採用のコストを十分にかけていたんですよ。採用費なんかもしかしたら日本一だったかもしれない。採用スタッフの人数の多さ、それから、全国の学校をまわるコストですよね。

−−本当にユニークな会社ですよね。そういった会社で坂本さんが頭角を現した要因は何だったんですか?

坂本:私は広報の後に就職情報事業で編集をやっていたんですが、それまでクライアントの方を向いたメディアづくりだったのに対して、私は読者を向いたメディアづくりを推進したんです。どれだけ読まれているのかとか、いかに読みやすいかとか。クライアントが言いたいことを載せるものから、読者が知りたいことや何に心を動かすかなどをメディアに反映させる編集に転換する、旗振りをやったんですね。たくさん読まれるようになれば広告効果が出ますし、効果が出れば次もリピートしてくれます。リクルートは基本的に営業に強い会社なんですが、それまでは新規のクライアントを取っては落とし・・を繰り返していました。そこで、継続的な構造にするために、今まであまりやってこなかった「読者の効果を上げること」に注力する風土に切り替えたんですね。

−−編集のクオリティを上げて、効果を高めて、持続性も上がったということですね。

坂本:そうですね。いわゆる、マーケティングと呼ばれるものですね。費用対効果のデータをクライアントに見せるサービスを作ったり。

でも、それは江副さんが言っていたことなんですよ。「わからないことはお客様(読者)に聞け、思い込みで動くな、とにかく聞いて回れ」と。企業にしてきたことを、今度は読者に対して徹底的にやる。その1つの手法が調査だったんです。どういうところに就職したいかなど、そういったことをお客さんに聞いて、クライアントにフィードバックする。これは商売の道具だったんです。この商売道具の価値を高めるためにマスコミにリリースして広めるのが広報の仕事だったんですね。就職動機調査や人気企業ランキングとかです。

 

4. 音楽に出会うきっかけを作る〜『ザッピィ』に込めたコンセプト

−−リクルートのお仕事の中で、音楽ビジネスとの最初の接点は何だったんですか?

坂本:最初は宣伝ですね。それまでは、求人系なので音楽とはあまり縁のない仕事でした。宣伝のときにはTVCMを作ったりするので、そこでどういう曲を使うかとか考える立場になりました。

−−CMで音楽を使う立場になったと。

坂本:はい。CMで使う楽曲にはかなりこだわりました。ラジオで深夜1時間の番組を週1で持ったりしたときに、そのオープニングの曲をクリフ・リチャードの「アーリー・イン・ザ・モーニング」っていう楽曲にしたりね。

−−それは普通、制作会社に丸投げだと思うんですけど…(笑)。

坂本:私から「この曲を使ってやりましょう」と提案し、楽曲選びもしていました。私はクライアントというよりも、企画から入り込む方なんですよ。それで代理店さんから、煙たがられたりすることもありました(笑)。

−−(笑)。CMの音楽制作に到るまでディレクションされたんですね。

坂本:まあ、よく言えばそうです(笑)。「情報が人間を熱くする」というタイトルで、リクルート初の企業CMを制作したことがあったんですが、それは最初、ジョン・レノンの「ラブ」で行こうと交渉に入ったんです。でも、楽曲の使用料が高かったので挫折し、結局イーグルスの「デスペラード」を使いました。出演契約なしで使えるアメリカのライブラリーの報道フィルム素材を使い、ケネディの演説シーンとNASAのアポロ打ち上げシーンを使ったものでしたが、とても評判の良いCMになったんですよ。その後同じ手法で雑誌のCMを展開しました。このときはベッド・ミドラーの「ローズ」を使いました。

私は音楽を作る側ではなくて、どちらかというと音楽を聴く立場でしたから、新しい曲を作るっていう発想があまりなくて、朝の番組だったら朝のテーマで、梅雨の季節だったら雨をテーマとか、そういうシーンに合った曲を決めるのが好きだったんですよ(笑)。

−−なるほど(笑)。

坂本:もちろんクリエイターが一緒に乗ってくれないとできないんですけどね。これらはあくまでも一部ですよ。他にも色々とやっているんですよ(笑)。

−−もちろん分かっております(笑)。今お話頂いたのは音楽との関わりというところですよね。

坂本:そうです。リクルート事件のときはコマーシャル自粛になって、自粛が終わった後にコマーシャルを再スタートさせるにあたり、メジャー感を出したいと思っていたんです。それでアミューズの大里さん、山本さんにご相談して、桑田圭祐さんの映画「稲村ジェーン」とタイアップすることになり、サザンオールスターズの「忘れられたBIG WAVE」を使ってCMを再スタートさせることができました。その時同時に「じゃらん」創刊時のCMもあってこちらには三宅裕司さんに出演して頂き、音楽は巻上公一さんの「♪東へ西へ〜じゃらん」という曲でこれは別に私が手掛けたというわけじゃないんですけど、書き下ろしでやりました。

−−当時は年間でどのくらい宣伝予算を使ったんですか?

坂本:「ビーイング」「とらばーゆ」「テクノロジービーイング」という求人3誌で80億くらいで、あと「住宅情報」とか色々ありましたから、150億を超えていたでしょうね。もちろん予算は私の一存では決められませんので、各事業部の編集長たちと色々と議論したり意見交換したり、あるときはぶつかったりもしましたね。

「ぼくらのヒット・パレード」

そのような中で、宣伝の仕事と兼務で編集局の局長になりました。そのときにムック本のプロジェクトを立ち上げて色々なものを出していく中で、95年に「ぼくらのヒット・パレード」というCDマガジンを出しました。これはいわゆるオールディーズの曲にもう1回スポットを当てようという企画で、その当時何が流行っていたかとか、テレビではどんなものがやっていたかなどを含めて掲載しました。音楽に直接関わる商品企画を仕事としたのは、これが最初になります。

−−これは何冊出されたんですか?

坂本:’58-‘59を一括りにして、あと、’60から’64まで1冊ずつ、全6冊です。

−−監修は誰がなさったんですか?

坂本:有名な人が監修していたわけではなく、社外のスタッフと私も含めた社内の人間で監修しました(笑)。私と同年代の人間でブレストして・・盛り上がりましたね。実作業は若くてこの時代のことを全く知らない人間がやったんですが、彼らは私たちよりも頭が良いから、すぐに私たちよりも詳しくなって…(笑)。

−−(笑)。でも、プロの評論家抜きでこういったものを作るのは大変ですよね。

坂本:企画会議は時間がかかって大変でした。事実関係を調べなければいけないので(笑)。

−−それにしてもCD付きで980円は安いですよね。

坂本:とにかく一人でも多くの人に聴いてもらいたい、ということで考えたんですね。しかし、実はそこに問題があったんですね。当時の著作権法で「’65年以前の海外で固定された音源についてはこの限りではない」という条項があったので、要するにコピー、海賊版でやっちゃったんですよ。著作権の方はちゃんと処理したんですが。

−−本国の方でってことですか?

坂本:海外盤を持っている人がいて、それを使ったんです。とにかくこの時代の曲をもう一度プロモーションするには1000円以下にしたかったんです。CDとブックレットで3000円とか4000円では買わないです。

−−このCDは曲がフルコーラスで入っているんですか?

坂本:入っています。当時の曲は短いですから。

−−ある意味、リクルートという大企業がそれやっちゃったんですか、みたいな感じですね(笑)。

坂本:そういう風に言われましたね。どこの馬の骨か分からない奴なら分かるけどリクルートがって。

−−問題はうやむやで終わったんですか?

坂本:いや、終わらないです。レコード会社の協力してくれていた人たちみんなが怒られちゃったんですよ。スペシャルサンクスで名前を入れていましたから。海賊盤に協力するなんてことは何事か!とみなさん上から怒られちゃって。

音楽のプロモーションメディアだから、多くの人に買ってもらうために「安くするためにはどうしたらいいか?」を一所懸命に研究した結果そうなってしまって…それで、懲りずに『ザッピィ』をやるわけですよ(笑)。

−−『ザッピィ』はどのようなコンセプトで発刊されたんですか?

坂本:音楽というのは、聴いて「そういえばこの曲!」って思ったときに買ったりしますよね。 詞が心に引っかかったり、失恋したときや恋してワクワクしているときなどの自分の状況にピタッとはまったり、色んなきっかけで曲にハマっていく。そういう人が私の友人にも多かったので、受け手側の発想でなるべく音を聴かせるようにすれば上手くいくと思っていたんです。でも、それを実践する機会がなくて、あるときに若い社員が「音楽情報誌をリクルートとしてやりたい」と言ってきたので、私は「音が聴ける雑誌の企画を作ってくるように」、と指示しました。

−−そして、毎回CDが付くという形になったんですね。

坂本:そうです。創刊号は30数万部売れたんですが、「ぼくたちのヒットパレード」みたいにフルコーラスで曲が入っていると誤解されてしまったんですよね(笑)。「97曲って書いてあるんだから、計算してよ…」と思ったりもしましたが(笑)、2号3号と売上がガーッと落ちていって、あるところで落ち着いて、そこから既発楽曲のレコメンド中心から、ビジネス的に考えて段々とJ-POP新譜企画にシフトしていきました。

−−当時、「なぜリクルートが音楽情報誌を?」という違和感がありました。なぜ専門外のことをやるのかなと。

坂本:考え方としては、情報がいっぱいあるけれどもチョイスするのが大変なカテゴリーで、自分にあったものを探すツールの提供がテーマなんです。求人はもともと色々な仕事がある中から何を選ぶかということですし、例えば住宅なんていうのは、正しい情報は千に三つだって言われたくらいで、ものすごい情報量があるわけですね。それで新聞に入ってくるたくさんのチラシを見て、「このチラシにインデックスをつけて一冊に整理したら使いやすいよね」っていうことをリクルートはやってきたんです。

−−なるほど。リクルートのビジネスは情報を収集して便利に見せるということですものね。

坂本:はい、音楽も無数にあるわけで、その中から自分の聴きたい曲とか、聴きたいのに探せてない曲みたいなものがどこかで聴けたらいいよね、という考えで、発想としては求人や住宅と一緒なんです。ジャンルとしては違和感があるかもしれないですけどね(笑)。

 

5. 記録に残らなかった「ポケモン」シングル200万枚

株式会社ローソンHMVエンタテイメント 代表取締役社長 坂本 健氏

−−リクルート在籍時に兼務されていたメディアファクトリーではどのようなお仕事をされていたんですか?

坂本:最初は書籍のみでしたね。けらえいこさんの「たたかうお嫁さま」という、結婚しようとする二人が奮闘する姿をコミック仕立てで描いた作品がコンスタントに売れていたんです。そういった作品をいくつか出していたんですが、中には売れ行きが良くない作品もあったので、少し整理して、しばらく新しい作品は出さずに売れている作品に注力しました。新企画は絞りに絞っていましたね。

−−「ポケモン」のカードゲームやゲーム関係の書籍も出されていましたよね。

坂本:そうですね。リクルートの新規事業の中で「カードゲームをやりたい」ということで、最初MLBのカードの企画とかを持ってきたんですよ。でも「日本のものでやらないとダメだ。マスにならないから」と突き返しました。そうしたら、「ポケモン」のゲームのプロデューサーの石原さんがカードゲームを作っていまして、色々なところにアプローチしていたらしいんですが、最終的に私たちとやろうということになってスタートしました。それで、ちょうど「ポケモン」のアニメもスタート時期で、カードゲームのプロモーションのためにアニメの提供に入って、アニメのビデオ販売とオープンエンドの楽曲を担当しました。

−−それはタイミングが良かったですね。

坂本:そうですね。まず任天堂のゲームがあって、ゲームの派生商品としてのカードゲーム、ゲームとカードゲームのプロデューサーは同じ人なんですが、ちょうどTVアニメも始まると。それで音楽は別の会社に決まっていたんですが、直前になって降りてしまったので、「音楽もやってくれないか?」と打診されて。メディアファクトリー内に「ピカチュウレコード」というレーベルを作って、ポケモンのシングルを出したんですよ。

−−これは大ヒットしましたよね。

坂本:200万枚売れましたからね。でも、レコード協会に加盟していませんでしたし、流通も最初ゲーム流通を使っていたので、記録には残っていないんですよ。子供向けの企画ですから、「子供はレコード屋さんに行かない」という判断の下、ゲーム売り場で売るためにゲーム流通を使ったんですね。

−−記録には残っていないんですか…。

坂本:そうなんですよ。本当はダブルミリオンなんですけどね(笑)。今で言う「初回限定盤」みたいな概念はなかったんですが、CDにピカチュウのソフトシールを付けて、キャラクターグッズとしてもとっておけるようにしたので、損益分岐が滅茶苦茶高くて…(笑)。そのときは「もうプロモーションでもいいや」と思うぐらいの勢いで出したんですね。結果「ポケモン言えるかな」というB面の曲がヒットしました。151種類のポケモンを歌詞に入れ込んだラップの曲で、子供たちの間で、話題になってバーッと広がっていったんですよ。

−−「メディアファクトリー」は書籍の出版に留まらず、業務をどんどん広げていきましたよね。

坂本:せっかく「メディアファクトリー」という名前の会社なんだから、書籍に限らず色々なことをやれるようにしようということで、カードゲームをやったり、レーベルをやったり、映画やイベントの出資、ゲームソフト出資、アニメ制作など幅広くやりました。

−−映画もやっていましたよね。

坂本:そうですね。レスリー・チャンと常盤貴子さんが主演した映画『もういちど逢いたくて/星月童話』をやったときは、日本と韓国と香港の合作映画だったんですけど、それぞれの国のビジネスはそれぞれでやって、それ以外の国はシェアしましょうというビジネスモデルでやりました。

−−音楽関係も進出しましたよね。

坂本:ええ。当時のパイオニアLDCさんと合弁で小室さんのオルモック、YOSHIKIさんとの合弁でEXSTASY RECORDSですね。

−−93年から何年までメディアファクトリーの代表をされていたんですか?

坂本:2000年までです。リクルートと兼任で。

−−その間リクルート本体ではどのようなお仕事をされていたんですか?

坂本:広報、経営企画、新規事業…あと、電子メディア事業、今で言うネットですね。私は兼務ばっかりしていたんですよ。「兼務の健」と言われたくらいで(笑)。

−− (笑)。新規事業というのはどのようなお仕事だったんですか?

坂本:年に二回、新規事業の提案を受け付けるんですが、それを募集する仕組みを作って審査して、それに少し予算をつけて実験してみると。社内ベンチャーみたいなものですね。

−−その審査をされていたんですか?

坂本:審査する人を集めたり、提案者の企画のサポートをしたりといった、運営側ですね。またこれとは別ですが、メディアファクトリーにもいくつか役割があり、企画にも携わっていました。本業は先ほど話したようなことですが、リクルート事件の直後に江副さんがダイエーに株を売っちゃうわけですよね。それでダイエーが筆頭株主になって、中内功さんが会長として入ってこられました。

中内さんがリクルートを買ったときに、リクルートのアイディアとか色々なものに期待したわけですよ。ところが「ダイエーのことなんかできない」というような人たちも少なからずいて、リクルート本体がなかなか動かないので、メディアファクトリーを長崎の出島みたいな役割にして、そこで企画部隊を作り、福岡ドームでのイベントの企画や集客のためのプロモーションプランを立てていました。もう一つは、ローソンチームです。ちょうどLoppiが立ち上がる時期で、Loppiでエンタメ商材を売るというので、その仕込みやプロモーションメディア「ラクダス」の編集・発行などをしました。

 

6. ぴあを経て、ローソンエンターメディアへ

−−そして、2000年にリクルートを退社されてぴあでお仕事を始められますね。

坂本:ええ。それもメディアファクトリーの延長線上で、雑誌のぴあを中心にメディアファクトリーのように事業を広げていけたらと考えていました。ぴあはエンタメ業界に強いブランドがありますので、メディアファクトリーよりそれが楽だと思いました。メディアファクトリーは一からやっていた分、たくさんロスもしましたので…。最初の一年はコーポレートをみて、二年目に出版へ移ったんですが、その後チケットの仕入れ販売事業の強化ということで、そちらへ移りました。

−−それはチケットぴあの立て直しということですか?

坂本:立て直しと言いますか、もう少し拡大・成長するためですね。最初はネット販売に関わっていたんですが、そのうちチケット事業全体を見るようになって、そこからライブ系への関わりができました。

−−そしていよいよローソンエンターメディアに…。

坂本:いえ、その前に花畑牧場、つまりアップフロントに少しいたんですよ(笑)。

−−えっ? そうなんですか?

坂本:ぴあを辞めることになった時、メディアファクトリー時代の仕事を通じてお世話になっていたアップフロントの山崎直樹さんと食事をする機会がありました。そこで「今後どうするの?」と訊かれたので、「これからは食もエンタメの時代ですし、農業とかそういった関係の仕事でもしようかなと考えているんですよね」と言ったら、「実はうちにあるんだよ、牧場が」と(笑)。それが花畑牧場だったんですよ。それで「次が決まるまででいいので、手伝ってほしい」と言われて、花畑牧場の顧問をしました。

−−花畑牧場は一時期すごく盛り上がりましたよね。

坂本:もともとは空港にお店があって、あとは北海道物産展とかに出展していました。北海道に来れば買える、物産展に行けば買えるというものでしたが、インターネットでも買える仕組みを構築しようということで、主にネットの部分を担当しました。

−−坂本さんはやはりネット周りがお強いんでしょうか? 心得があるといいますか。

坂本:といいますか…いえ、パソコン、インターネット、モバイル等々新しいものが大好きな、単なるユーザーなんです。仕組みは詳しく分からないけれど、技術チームをそばに置いて、商品の出し方とか見せ方とかの指示を出すんですね。

−−つまりウェブサイトのプロデューサーなんですね。

坂本:そうですね。ユーザー目線で、使いやすさとか買いやすさを意識してサイトを作りました。それからタイムセールなどの売り方ですね。出店した楽天からは「タイムセールをやられたら困る」と言われましたが(笑)。しかたないんですよ。手作り商品なので生産数には限りがあるものですから、色々な人が買えるように一日に出す数を4つに分けて、4回タイムセールを実施したら、爆発したんです。

その後は、母親の介護のために一度辞めて、介護が落ち着いた頃にアップフロントに戻り、また顧問として少しお手伝いしていました。そうしているうちにローソンの新浪社長から、子会社のローソンエンターメディアを強化したいので、なんとか手伝ってほしいと声をかけられました。元々メディアファクトリー時代にLoppiまわりのことを色々やっていたので、古巣と言えば古巣ですし、お引き受けしたのです。

 

7. 音楽の「マインドシェア」は大きい

株式会社ローソンHMVエンタテイメント 代表取締役社長 坂本 健氏

−−チケットの仕事では、かなりライブとかに行かれるのですか?

坂本:そうですね。出来るだけ現場に行くようにしています。取り扱いの大きな公演はもちろんですが、小さなライブハウスも気になったアーティストがあれば行きますね。また、この季節は全国各地の夏フェスめぐりも私の夏の定番になっています。

−−年間どのくらい行かれるのですか?

坂本:チケットの仕事は音楽が一番多いですが、ほかにも演劇・ミュージカル、クラシック、スポーツ、イベント・レジャーと多岐にわたっているので、合わせると年間80回は超えています。やはり現場で、お客様の顔や反応、男女比、年齢層、アーティストのパフォーマンス、主催者・運営者のご苦労などなど直接見聞きすることで、私たちのサービスをどうしなくてはならないかの肌感覚が養われますよね。

−−その一方、HMVとの合併を経て、ローソンHMVエンタテイメントの代表取締役社長に就任され、CD/DVD流通も事業領域となったわけですが、会社の現状をどのように見られていますか?

坂本:オリジナルレーベル「Mastard Records」からのリリースや、独自イベント、ローソンとHMVのコラボ店舗を出すなど、音楽領域では特にシナジーが出てきています。CDが売れなくなってきている理由は、インターネットを筆頭にいくつかの要素が絡み合っているわけですが、欧米に比べればまだ日本の落ち込みは緩やかです。

−−「Mastard Records」から出されているような作品は、ある程度の年齢以上をターゲットとした作品ですよね。

坂本:そうですね。若い人はそもそもCDプレイヤーを持っていないですし、音楽はパソコンかモバイルで聴いています。ですからダウンロードに移行しやすいですね。CDを売るためには、ある年齢以上のマーケットをきちんと作らないとダメだと思うんです。今は、買う人はいるんですが、買う人向けの商品が不十分な気がするんです。

−−また、HMV SPOTという小型店舗も展開されていますが、これは今後全国的に増やしていく予定でしょうか?

坂本:欠落している地域には出店します。ちょっと欲しいなと思っても、近くにお店がないと購入意欲が下がりますよね。 そういう意味では、HMV SPOTとか全国10000店のローソンでの予約・受け取りが出来るとか、身近な所にお店がある状況は大切だと思っています。インターネットで予約して店舗で受け取るユーザーも多いんですよ。ファンは特に新譜の場合など、一刻も早く手に入れたいんですね。

−−通常のローソンでも予約はできるんですか?

坂本:はい、全国のローソン店頭に設置された端末「Loppi」内の「HMV@Loppi」で予約可能ですし、ローソン店舗で受け取ることもできます。注文した商品は2〜3日で到着します。ネットを使用しなくても注文できますし、支払いも一緒にできますので、利便性が高いです。

−−そうすると、クレジットを利用できない若い世代からの需要もありそうですよね。

坂本:そうですね。あと、ネットを利用しない上の世代の方もですね。このサービスの認知を上げていくことも現状のテーマの一つです。

−−最後になりますが、ローソンHMVエンタテイメントの今後の展望についてお聞かせください。

坂本:我々が掲げているコンセプトは、「エンタメユーザー360°」です。メーカーさんやプロダクションさんでも、360°という言い方がありますが、それとは少し異なり、私たちの流通を通して、ユーザーが求めているものを全方位で提供できるようにしていこう、ということです。

買い方にしても、リアルなお店も必要ですし、ネットも必要です。今後について言えば配信なども必要ですし、ユーザーが一番使いやすい状況で流通させる、ということを実現したいと思います。それから、採算性がないから廃盤になっているようなものでも、求めている人がいたら買いたい人たちを集めて、それを復刻していったり、コンピレーションという形態も含めて、ユーザーの側からメーカーさんに色々と働きかけていきたいですね。

今、レーベルも始めていますが、直接メーカーさんからは出されないとしたら、私たちの方でそういう音源を作って、提供するというところまでやっていきたいと思っています。つまり、レーベル会社をやるというよりは、そのような機能をコンテンツホルダーさんに提供していきたいと思っているんですね。グッズの製作もそうですし、興行の方でも一緒に出資したりしながら参加していけたらと思っています。

−−今の音楽業界の中にそういうポジションの会社って他にあるんですか?

坂本:レーベル自体は他のCDショップも持っていますが、チケットからグッズ周り、CD・DVDというところまで、総合的にやっているところはないと思います。

−−チケットも含めてライブまでやれるわけですからね。

坂本:ライブはますます重要になっていくでしょうね。CDの売上は落ちていますが、ライブの動員数は増えています。またライブ会場でのCD/DVDの購入、グッズの購入などもライブの楽しみ方の中に組み込まれてきています。ライブに行くにはそれなりにお金もかかりますが、自分の好きなバンドやアーティストのライブ、またフェスのためにお金を貯めて、年に何回か行くっていう人は多いんです。「ライブは別の財布」という感じがしますね。

−−確かにそうですね。

坂本:ですから、われわれはライブやフェスのチケットの購入の利便性とか、当日までのわくわくした時間に対するサービスとか、終わった後のアフターサービスとか・・まだまだサービスの拡大をしていかないとユーザーの期待にこたえられない時代に入ってきています。こうしたニーズへの対応で来るようにしていくことが極めて重要だと思っています。

−−やはりローソンにとっても、エンターテイメントビジネスを持つという意味は大きいんですか?

坂本:ローソンでは「マチのほっとステーション」「“みんなと暮らすマチ”を幸せにする」というコンセプトでやっているんですね。全体の取扱や売上からすればエンターテイメントはそんなに大きくはないんですが、そのマチそのマチに暮らす人たちにとって、エンタメの「マインドシェア」は大きなものがあると思います。

いろいろ悩んでいた人が、ある曲がきっかけで元気になったとか、詞とか音楽が与えるものって大きいじゃないですか。音楽だけじゃなくて、お芝居にしてもスポーツにしても、「好きなもの」が持つ力ってとてつもなく大きいですものだと思うんです。心のシェアを大きく持っていると思うんですね。

−−エンターテイメントが人の心に与える影響ってすごく大きいですよね。

坂本:ええ。コンビニってものすごく身近にあるものじゃないですか。引き続きローソングループはエンタメサービスNO.1であることで、親しみがあって心と心で繋がっている存在でありたいんですね。エンターテイメントを提供することによって、一人ひとりの人生をより豊かにするお手伝いができたらと思っています。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。坂本さんのご活躍とローソンHMVエンターテイメントの益々のご発展をお祈りしております。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 メディア、エンターテイメント全般に渡り、様々な業務を経験されてきた坂本さんのお話には、今後生かすことができるヒントがたくさんあるように感じました。その根底には坂本さんも強調されていた「聞き手の立場」「受け取る側」つまりユーザー視線があります。ユーザーの立場に立って、求められているサービスや利便性を考え、音楽、あるいはエンターテイメントが持つ力によって「マインドシェア」を獲得するというお話は大変興味深かったです。今度、坂本さん率いるローソンHMVエンターテイメントがどんな企画を打ち出していくのか楽しみです。