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第107回 清水 直樹 氏 株式会社クリエイティブマンプロダクション 代表取締役社長

インタビュー リレーインタビュー

清水 直樹 氏
清水 直樹 氏

株式会社クリエイティブマンプロダクション 代表取締役社長

今回の「Musicman’s RELAY」はローソンHMVエンタテイメント 坂本 健さんからのご紹介で、株式会社クリエイティブマンプロダクション 代表取締役社長 清水直樹さんのご登場です。上京後、模索の日々の清水さんは、面接でのある一言からコンサートプロモーターを目指されます。その後、グローバルエンタープライズを皮切りに、プロモーションから舞台監督、アーティストの送迎まであらゆるコンサートプロモート業務を経験。インディーロックやクラブシーンの台頭と共にクリエイティブマンプロダクションで数々のクラブツアーを企画、成功に導き、2000年からは都市型フェス「SUMMER SONIC」を開催と、常に日本の音楽シーンを盛り上げてきた清水さんにお話を伺いました。

[2012年8月9日 / 渋谷区神宮前 株式会社クリエイティブマンプロダクションにて]

プロフィール
清水 直樹 (しみず・なおき)
株式会社クリエイティブマンプロダクション 代表取締役社長


1965年 静岡県生まれ。
1987年 グローバル・エンタープライズに入社してコンサート・プロモーターを知る。
その後数社を経て、1990年 クリエイティブマン・プロダクションの立ち上げに参加。
洋楽のインディペント・プロモーターとして、1997年32歳 の若さで代表取締役に就任。
2000年 に日本初2大都市同時開催フェスのサマーソニックをスタートしたのを皮切りに、パンクスプリング、スプリングルーヴ、ラウドパーク、ソニックマニアと5つのフェスを立ち上げる。
2012年 外資最大手のプロモーター「LIVE NATION」とLIVE NATION JAPAN合弁会社を設立。
洋楽を中心としたプロモーターとしてロック、ダンス、メタル、アイドルなどオールジャンルで延べ1500以上の海外アーティストを招聘してきている。
(GREEN DAY / RADIOHEAD / COLDPLAY / LINKIN PARK / MUSE / METALLICA/GUNS N’ ROSES / STEVIE WONDER / EMINEM / LADY GAGA / BEYONCE / THE BLACK EYED PEAS / RIHANNA / DAFT PUNK / DAVID GUETTA / UNDERWORLD / THE PRODIGY / SEX PISTOLS / SLIPKNOT / TAYLOR SWIFT / JUSTIN BIEBER / KATY PERRY, ETC.)

 

  1. ごく普通の、音楽好きな学生だった
  2. コンサートプロモーターの仕事には業界の全てが詰まっている
  3. プロモーションから舞台監督まで一人でこなした下積み時代
  4. クラブシーンの台頭と共にスタートしたクリエイティブマン
  5. 飛躍のきっかけはRADIOHEAD
  6. ずっと持ち続けていたフェス開催への想い
  7. 年々進化を続けるSUMMER SONIC
  8. SUMMER SONICという存在を世界へ
  9. オーディエンスのニーズにこれからも応えていきたい

 

1. ごく普通の、音楽好きな学生だった

−−前回ご出演いただきました坂本健さんとはどのようなご関係ですか?

清水:健さんとは、ぴあ時代からお付き合いをさせていただいているんですが、現場に顔を出さない偉そうな方とは違って「軽く会いましょう」というような感じで一緒に食事をしたのが最初ですね。年代は健さんのほうがだいぶ上なんですが、最初に出会ったときからすごく親しみやすく話ができて、私が好きなバンドをオンタイムで聴いているというところから、世代を超えてお互いが好感を持ったんですよね。そうこうしているうちに健さんがローソンHMVに移られて、より深く色々な仕事で一緒にさせていただくようになりました。とにかく男気がある方なので、いつも気持ちよく仕事をさせていただいています。

−−ここからは清水さんご自身についてお伺いしたいのですが、お生まれはどちらでしょうか?

清水:静岡県の焼津市です。漁港として有名で気性の荒い町でずっと育ちました。

−−いつ頃まで焼津にいらしたんですか?

清水:高校卒業までいました。ですから田舎しか知らず、親戚や姉が東京にいたので、学生時代はたまに東京に行ったりしながら、なんとなく「東京に出てきたいな」と思っていましたね。

−−焼津と東京は新幹線に乗ってしまえば、あっという間ですよね。

清水:そうですね(笑)。ただ、当時は今ほど近く感じませんでした。鈍行で4時間かけて行ったりしていたので、東京で開催されるコンサートを観に行くということはなかなかできませんでしたしね。

−−どのようなご家庭で育ったんですか?

清水:父は国鉄に勤める鉄道員で、母は家で洋裁をやっていたような人なので、家の中に音楽的な要素は何もありませんでしたね(笑)。ただ、母は映画や海外のポップスが好きだったようで、「ロードショー」のような映画雑誌を毎月買っていて、家に置いてあったり、ポップスはアンディ・ウィリアムスとか、そういった音楽が流れていました。

−−清水さんが音楽好きになったきっかけは何だったんでしょうか?

清水:小学校の頃にベイ・シティ・ローラーズが流行って、そこからですね。あと、家でも小学校の高学年くらいにレコードプレーヤーからカセットデッキ、アンプまで全部ある家具調ステレオを買ったんですよ。それを買ったときのことは今でもすごくよく覚えていますね。昔はテレビが来るのをみんなが楽しみに待っていた、みたいな話がよくあったじゃないですか? もうその感覚ですよね。ステレオが届いて、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」とシカゴの「Chicago X」、あとは映画音楽のレコードを姉がチョイスして買ってきたんですが、初めてそのステレオで「ホテル・カリフォルニア」を聴いたときの衝撃はかなり鮮明に覚えています。そこから自分でも洋楽を聴くようになっていきました。

中学時代はレコード屋にしょっちゅう行っていたんですが、レコード1枚が2,500〜3,000円の時代ですから、なかなかアルバムを買えないので、お店の人に試聴させてもらったりして、1枚買うのに2時間くらい悩んで吟味していましたね。あと、スポーツも好きだったので、部活はバスケット部に入っていましたし、音楽だけを聴いていたわけではなくて、普通に音楽が好きな小学校、中学校時代だったと思います。

−−高校時代も音楽をよく聴かれていたんですか?

清水:そうですね。高校時代に貸レコード屋さんが全国でスタートしたんですよ。田舎の焼津にも駅前に貸レコード屋さんができて、そこに行って借りては、カセットテープにダビングして、翌日返しに行って、また他のレコードを借りて…と丸3年間繰り返していましたね。

−−ほとんど洋楽ですか?

清水:YMOだったり洋楽を感じるアーティストは聴いていましたけど、やっぱり洋楽が好きでした。あの当時、ジャンル分けはあってもみんな何でも聴いたじゃないですか? ロックからパンク、ポップス、フュージョン、R&Bまで聴きまくった高校時代でした。

−−東京へは大学進学で出てこられたんですか?

清水:いえ(笑)。そこそこの成績だったんですが、突然勉強をしなくなったんですよ(笑)。私は変に見切りを付ける人間で、学校の勉強って生活に絶対必要なものじゃないじゃないですか? そう判断すると必要なものは英語くらいなのかなって思ったら、いい大学を目指して、出来るだけ就職を有利にするために勉強するという気持ちがなくなっていましたね。高校もそこそこのお金のかからない県立で、なおかつ普通科で。

−−それで音楽三昧だったんですね(笑)。

清水:そうですね(笑)。

−−ちなみに演奏する方への興味はなかったんですか?

清水:ベースを買って、色々やろうとしましたけど、ドラムがみつからなくて、一人で佐野元春さんの曲を練習していたくらいで、音楽的には自分から仲間を集めてバンドをやろうみたいな積極的に動くタイプでもなく、集う環境にはなかったですね。

−−わりと普通の音楽好きの少年という感じだったんですね。

清水:特別な何かがあったわけじゃないですね。小学校から高校まで、衝撃的なことは何もない。「何でこんな男が今プロモーターになってサマソニなんかやっているの?」みたいな(笑)、ある程度のことをすべて経験したぐらいの、ごく普通の学生時代だったと思います。

−−(清水さんのお部屋に貼られたポスターを見て) さっきから気になっていたんですが、スティーブ・マックイーンがお好きなんですか?

清水:そうですね。ひょっとしたら、スティーブ・マックイーンが私にとって最初のヒーローであり、アメリカへの憧れだったと思うんです。小学校1、2年の頃だったと思うんですが、大晦日にTVで「大脱走」をぶっ通しでやったんですね。普通、大晦日だったら紅白とか家族で観るじゃないですか。でも、兄貴が「『大脱走』を観るんだ」と言って、兄貴と二人で観たんですね。

そのときに観た「大脱走」のラスト、スティーブ・マックイーンがオートバイに乗って逃げようとする映像に衝撃を受けまして、それから彼は僕のヒーローになりました。とにかく彼の出演作を全部観て、彼に関するものを買い集めたり、彼が身につけていたタグホイヤーを真似して身につけたり、辛いことがあったら「マックイーンだったら、どうするんだろう?」と考えたりして(笑)、突っ張っていました。スティーブ・マックイーンは僕にとって、とても大きな存在ですね。

 

2. コンサートプロモーターの仕事には業界の全てが詰まっている

株式会社クリエイティブマンプロダクション 代表取締役社長 清水直樹氏

−−では、上京されるきっかけはなんだったんですか?

清水:進学も就職も何も決めずに、このままでは今で言うフリーターになるんじゃないかという感じだったんです(笑)。でも小さい町で、音楽に関わるにはレコード屋さんに就職するくらいしか道がないような感じで、ここにいても何も起こらない、始まらないというのはすごく感じていたので、とりあえず東京に出ようということは自分の中で決めていました。ただ、いきなり東京へ行って音楽業界に行けるほどの自信はなかったので、東京に出るための何か理由を探すために、音楽系の専門学校を調べる中で青山レコーディングスクールを見つけて、親も「大学進学したと思って数年は面倒みるか。」と言ってくれた。

−−それは親を説得するための口実ですね。

清水:そうですね。お金を出して貰って、後に返す約束でそこに行きました。

−−そちらは卒業されたんですか?

清水:全然(笑)。確かに授業では色々なことを教えてくれるんですが、ここにいても就職先を紹介してくれるわけでもなく、ただ単に耳に入ってくる情報だけなら、なにも得るものはないだろう、とそこでも自分の中で見切りをつけてしまって、半年くらいしか通いませんでした。そのときに自分では大学に行くくらいの3〜4年の期間は猶予があるなと思っていて、銀座の「ハンター」という中古レコード屋さんでバイトしながら「次は何だろうな」と思ったときに、英語をやっておかなきゃいけないなと思って、今度は英語の専門学校を探して、そこも繋ぎとして行きました。

−−そのとき英語を学んだのは、その後よかったんじゃないですか?

清水:まあ、そうなんですけど、実は大して勉強しなかったんですよ(笑)。それも東京に居続けるための口実でした(笑)。

−−親から見ると困った息子ですね(笑)。

清水:どうしようもないと思いますよ(笑)。東京には行ったけど何をしてるんだって。最低限、親に迷惑をかけちゃいけないなとは思っていましたけど、まあ、いろんなバイトしながらくすぶっていたんですよ。そういう期間が2年ちょっとあったと思います。

−−そのくすぶっていた時期からの転機はなんだったんですか?

清水:こんな私も2年経って、そろそろやばいなと思い始めたんですよ(笑)。「今はやる気になってないだけだ」って言っているだけの奴っているじゃないですか?(笑) そういう状態になりそうでしたし、さすがにもう20歳過ぎて、こんなことしていたらやばいなと思って、ちゃんと音楽業界に入ることを考えようと、求人情報誌を見ながら2社くらい面接に行ったんですね。そのうちの1つの事業内容に、「CD、レコード、出版、FMラジオの番組制作」と書いてあって、レコードやラジオを聴いて、音楽雑誌を読んで育ってきた私には全て直結することだったので、「ここ面白いな」と思って履歴書を送りました。

そうしたら「面接に来てください」という手紙が来ていたんですけど、その頃ディスコやビリヤードでオールしたりふらふらして家に全然帰っていなくて、やっと昼頃に帰ってきてその手紙を見たら、面接がその日の3時かくらいだったんですよ(笑)。「やばい!」と思ってあわてて行ったら、もう面接は終わりかけで、最後に一人で面接したんですね。それで志望理由を訊かれて、私もどういう会社かよくわかっていなかったので、逆に「この会社はなにやっているんですか?」って質問を返したんですよ。

−−それはまた酷いですね(笑)。

清水:そうしたらみんな驚いて(笑)。「とにかく音楽業界に入りたくて、自分がやりたいと思っていることが全てこの会社には入っていました。失礼ですけど、この会社のことを教えてください」と言ったら、「ここは、佐野元春の作品を作るための会社なんですよ」と。そのときはエムズファクトリーだったと思いますが、佐野さんは当時、雑誌を作ったり色々やっていたじゃないですか? 私は佐野元春さんが、日本のアーティストで一番好きなアーティストだったので、「そうだったんですか!」と佐野さんがどれだけ好きかを語り、面接官の方も聞いてくださったんですが、面接はそこで一旦終わったんですよ。

ただ、一人の方が「君は面白いからもう一度来なさい」と連絡をくれて、その方とマンツーマンの面接というか、話をさせてもらったんです。そこで色々な話をしているうちに、「君は何か面白い。何か持っているかもしれない。でも音楽業界のことを何も知らないから、コンサート業界からやってみたらどう?」と言ってくれたんですよ。その当時はプロモーターという言葉ではなかったかもしれないですが、そこにはアーティストがいて、それを聴くお客さんがいて、レコード会社やラジオ局、雑誌などのそれを応援するメディアもいて、実は音楽業界の全てがあるんだよ、と。「そこで働いてみて、次に自分が音楽業界の中で何をやりたいかを見つけてみたらどう?」と、今から考えると神の啓示のようなアドバイスをいただいたんです(笑)。そのとき初めて「コンサートプロモーター」という目標が芽生えたんですね。それまで田舎者が考える音楽業界ってレコード会社やラジオ、雑誌くらいで、コンサートは行っているんだけど、仕組みも誰がやっているのかもわからなかったんですよね。

−−その適切なアドバイスをしてくれた方とは、その後お会いしたんですか?

清水:いや、それっきりです。私もそのとき、そのアドバイスがここまで人生を左右するような大事な言葉だとは思ってなかったわけですよ。業界に入るきっかけくらいにしか思っていなかったと言いますか。しかも、それ以降、邦楽の世界と縁もなかったですし、その方と会う機会もなく、実はそれが誰だったのかすら、よく分からないんです(笑)。

−−このインタビューが出たら分かるかもしれませんね。

清水:いや、その方も忘れているんじゃないでしょうかね…。私も今、面接をする立場ですが、正直とらなかった人のことは何十年も憶えていないですよ。ですから、これは一生のクエスチョンなんじゃないかなと思っています。

 

3. プロモーションから舞台監督まで一人でこなした下積み時代

−−その後、どのようにしてコンサート業界に入られたんですか?

清水:待っていても話は来ないので、また求人情報誌で仕事を探す中で、グローバルエンタープライズという会社に「コンサート企画・制作、海外アーティスト招聘」という文字があったので、そこへ面接に行きました。グローバルエンタープライズは渋谷の小さなマンションの中にあって、3人しかいない会社だったんですが、とにかくコンサート全般をやってもらえる、若くてやる気のある人を募集しているということで、私は何も知らなかったけど、気に入ってもらえて入社することができたんです。それが、私のコンサート業界に入ったきっかけで、21歳くらい、東京に出てきてから3年後くらいですね。

−−グローバルエンタープライズという会社を詳しくは存じ上げないのですが、どのような会社だったんですか?

清水:主にジャズやポップス系の大人向けの音楽、アーティストを呼んでいる会社で、制作は年間3〜4本程度だったんですが、1アーティストを呼んだら北海道から九州までくまなく何十ヶ所をまわって、それまでの数ヶ月はみっちりとプロモーションをやって、来日までに作っていました。私はコンサートプロモートの全てをそこで見ることができました。

−−数人しかいない会社だったら全ての業務に関わっていきますよね。

清水:そうですね。入社してすぐザ・クルセイダーズの来日が決まっていたので、プロモーションをやったんですが、一番ビックリしたのは、そこは舞台監督を雇わない会社だったんですよ。彼らは何もやらないのにお金だけ取られるから、舞台監督はうちの会社で回すんだということで、入ったばかりで、何も知らない私が舞台監督をやることになったんですね。

−−いきなり舞台監督ですか(笑)。

清水:照明会社もPA会社もいるし、楽器社もいる。「あとは君がコンサートをできるように色々まとめればいいんだ」と言われましたけど、業界に入りたてで右も左も何もわからないですから大変でした。会場に朝行って、セッティングをして、その当時バトンで色々飾り付けしていて、曲ごとにバトンを上げ下げを裏方でやっていたんですが、バトンを落としちゃったりだとか、当時の各地のホールのしきたりもわからないですから、いじめられるし、照明の人には「なんでお前いるんだ」って殴られたりとか、そんな感じでずっとツアーを回ったんです。

そこで終わっていたら今の私はなかったでしょうけど、「ここで辞めるわけいかない」と思ってやったのが、マーカス・ミラーのジャマイカ・ボーイズという、ドラムがレニー・ホワイト、ボーカルがチャカ・カーンの弟というスーパーバンドでした。彼らのアルバムはワーナーから出ていたんですが、国内盤はリリースされてなかったので、自分で輸入盤をカセットにコピーして、ミュージックビデオも自分の会社で何本か作って、それをTV、ラジオの制作会社に行っては「かけてください」お願いしました。

−−プロモーションもお一人でやったんですか?

清水:そうですね。プロモーションも教えてもらえないので、全部自分で新聞社とかFM局を調べて電話して、もちろんチラシも配りますし、あの頃は立て看板を勝手に電柱に立てたりするような時代だったので、今日は吉祥寺、明日はどこそこといった感じで回ったりしていましたね。よく分かっていなかったので警察署の横の電柱に立てかけていたら、肩をトントンと叩かれて「君、なかなかいい度胸だね」と警察官に言われたり(笑)。そのまま交番に連れて行かれて始末書を書かされて、そこで「社員と言うとまずいな」と思ったので「バイトです」と答えて(笑)、そういうところは機転が利いたんですけど、そんなことの繰り返しで、とにかくプロモーションと言われることは全てやっていたんですよ。

結果、レコード会社のついていなかったマーカス・ミラーのジャマイカ・ボーイズが大成功して、NYのメディアの人が日本に来たときに、テレビでも町中でもマーカス・ミラーを見かけて、「マーカス・ミラーは日本で大人気だ」という記事を海外で載せてくれたんですよ。それを聞いたときに満足感と言いますか、「自分で全てやったんだな」という達成感がありましたし、初めて自信がつきました。

何よりも、全部自分でやらなくてはいけないけれど、丸々それだけをやれる環境にあったことは良かった。マーカス・ミラーのときも相変わらず舞台監督がいませんでしたから(笑)、ジャズってミュージシャン同士がアイコンタクトでやりとりするんですが、私の配置が悪かったせいで死角が出来てしまって、でも配置を変える時間もなかったので、ステージ上に姿見を置いて(笑)、その鏡上でマーカスとレニーがアイコンタクトできるようにしたり、そんなことまでさせましたからね。そこで文句を言わないマーカスとレニーにはすごく感謝しました(笑)。

−−人間が出来ていますね(笑)。グローバルエンタープライズでは何年お仕事されたんですか?

清水:一年半か二年くらいですね。もちろん拾ってくれた会社には感謝しながら仕事をしていたんですが、自分のやりたい音楽ではないなということは、自分の中で感じながら仕事をしていたんですね。それで、プロモーションをする中で色々な方と顔見知りになったんですが、その中に鷲巣功さんというブラックミュージックの音楽ライターさんがいらっしゃって、鷲巣さんに何度もプレゼンするうちに「本当はこういう音楽をやりたいんです」という話になって、そうしたら鷲巣さんが「友だちに木下というのがいるんだけど、新しいことをしようとしていて人を探しているから会ってみる?」という話になったんですよ。

で、木下さんに会ったら、それまでやっていたサロンゴミュージックという会社を畳んで、ウドーさんで「ウドープレゼンツ」という会社を始めると。そこは今までウドーさんがやっていたものではなくて、ブラック系や小さなものをやっていこうという会社で「一緒にやる?」と誘って頂きました。ウドーといえばこの業界のトップですし、洋楽の全てが出来るんじゃないかと思って、「行きます」と。もちろんグローバルエンタープライズの社長にはお世話になりましたし、引き留められましたけど、「やりたいことなんで行かせて下さい」と辞めて、ウドープレゼンツが始まるときに参加したんです。

−−ウドープレゼンツではどのくらいお仕事をされたんですか?

清水:ウドープレゼンツは長くなかったです(笑)。サロンゴミュージックから3人来て、私は一番下っ端で行ったんですが、サロンゴの人が全員数ヶ月でいなくなってしまったんですよ。で、「きついな〜」と思いながらやっている中で、木下さんの友だちの斎藤保さんという方がいて、その人がバンプランニングという会社でデュラン・デュランをやることになったので、プロモーションで入ってくれと言われて、そちらに行って。

−−バンプランニングに行かれたんですか。

清水:その頃のバンプランニングはもう林さんとかいらっしゃらなくて、林さんはすでにH.I.P.を作られていたと思います。で、バンプランニングは一度クローズしたんですが、その斎藤さんともう一人、今ビートインクをやっているレイ・ハーンが伴さんを説得して、再度始めたんですね。で、デュラン・デュランとパブリック・エナミーをやったんですが、その次がまだ決まっていなかったんですよ。斎藤さんも既にその頃にはバンプランニングを出ようとしていて、また会社変わるのかよ?と思いながら次に行ったところがジェイド・ミュージックという音楽出版社で、そこはイギリス人のカルーゾ・フラーという社長がやっていたんですが、当時イギリスのインディーズものを全部まとめているような会社だったんですね。ミュート、4AD、クリエイション、ベガーズ・バンケッド、ファクトリー、チェリー・レッド、あとパンクもの、ピストルズの海賊盤みたいなものからディスチャージ、G.B.H.のようなハードコアなものを日本の、主にバップさんやアルファさんだとかに紹介して、ライセンスしている会社だったんですが、そこがコンサート業務もやりたいということで、私もバンでは斎藤さんについて仕事をしていたので、一緒に会社を移りました。

入ってまず、斎藤さんはどちらかというとAORとかそっち系の人だったので、ボビー・コールドウェルをよんで業務をスタートしたんですが、その斎藤さんがそれ一回でカルーゾとケンカしてまた出ちゃった(笑)。この頃は楽しい先輩方に振り回されていました。その後、斎藤さんはカズ&アソシエイツに行って、例の如く私も誘われたんですが、そこで初めて「残る」という選択をしたんですね。

−−それがクリエイティブマンですか?

清水:コンサートをやるためにその名前を作ったんです。ただ、ジェイド・ミュージックという名前でボビー・コールドウェルをやったあとに、斎藤さんは出ちゃったので、クリエイティブマン・プロダクションとしてはまだ何も始まっていなかったんですね。でも、私はそこにすごく可能性と期待を感じたんですよ。イギリスのインディペンデントの宝のような音楽のライセンスが沢山あったので、自分でやりたい音楽がここにはあるし、ちょうどクワトロやクラブチッタといったスペースが始まった頃なので、クラブプロモーターとしてやっていこうという決断をそこでしたんです。

もちろん社長としてカルーゾ・フラーさんはいたんですが、コンサートのことは全然分からなかったので、私がチーフと言うことでクリエイティブマンをスタートして、スタッフを一人入れて2名からスタートさせたのが1990年です。私が25歳になった頃ですね。

 

4. クラブシーンの台頭と共にスタートしたクリエイティブマン

株式会社クリエイティブマンプロダクション 代表取締役社長 清水直樹氏

−−クリエイティブマンへいたる紆余曲折が、まるで運命のようですね。

清水:そうですね。一番ポイントだったのがパブリック・エナミーをバンプランニングでやったときで、すごく衝撃的だったんですね。クラブチッタでやったんですが、彼らのライブからは客席も含めて、ニューヨークでのライブのような緊張感や威圧感を感じましたし、プロモーションもすごく楽しめた。これが自分のやりたい音と仕事だと気づきました。アーティストの送迎など全て一人でやったんですが、最後に彼らを送ったときに、あのなかなか笑わないチャックDやメンバーたちが笑顔で「ありがとう」と言ってくれた(笑)。

−−あの厳ついメンバーたちが(笑)。

清水:そうなんです(笑)。彼らはおもちゃの拳銃をステージ上で撃つんですが、ボストンバックか何かに入れてくるんですよ。それを空港のセキュリティーのX線に通すと全部拳銃が写って(笑)、ビーッとアラームが鳴って「なんだなんだ」と騒然となって…。それで「おもちゃです」と必至に説明したり、とにかく面白かったですよ。そのパブリック・エナミーの衝撃を引きずりながら、「あんなコンサートをクリエイティブマンでも企画したい」と思ったんです。

−−クリエイティブマンとして手掛けた最初のアーティストは誰だったんですか?

清水:ペイル・セインツという4ADの4人組バンドです。その頃ロッキング・オンがストーン・ローゼズやインスパイラル・カーペッツのようなバンドに代表されるマッドチェスターをプッシュしていた頃なんですね。インディーからこういった音楽が出ているということで、ロッキング・オンやレコード会社が一緒にプロモーションすることによって、誰も知らなかった音楽がいきなりヒットして、ホールを埋めることができるような時代の幕開けで、前からペイル・セインツというバンドは面白いと思っていたので「この流れに乗ろう」と思いました。それで雑誌も協力してくれて、クアトロをツアーして超満員にしました。もちろんそのときもアーティスト送迎の車の運転から警備みたいなことまで全部自分でやって、受付もやって(笑)。会社には2、3人しかいませんからね。そこがスタートでした。

−−お忙しかったんじゃないですか?

清水:そうですね…でも、「自分がこれからどうなりたい」とかそんなことを気にもかけずに「今これをやることが自分の使命だ」くらいの気持ちだったので、とても楽しかったですし、そんなにあくせくやらなくて良かったんですよ。90年に呼んだアーティストは2〜3アーティストでしたし。それで91年に「パンクロック1991」というシリーズをうちとクラブチッタで始めて、その頃のハードコアと呼ばれるアーティスト、ディスチャージ、G.B.H.、エイリアン・セックス・フィーンド、カオスUK、スティッフ・リトル・フィンガーズといったバンドを、2月からマンスリーで6ヶ月間呼びました。そこに日本のアーティストも入れたりしたんですが、まぁ、あの頃は殺伐としていて、毎回お客さんとバイトの闘いなんですよ(笑)。ステージに上がろうとするお客さんとそれを止めるバイト、私もステージにいて上がって来た客を落としたり、一緒に落ちては、喧嘩して…私はそのシリーズで前歯を二本折ったんですけどね(苦笑)。

−−うわぁ…前歯を折られたんですか。

清水:ええ。大阪で殴られて。一番最初の、ディスチャージの大阪公演で、客同士の暴力沙汰が起こって、血だらけの客が救急車で運ばれるのを見て「このシリーズ続くんだろうか…」って思いましたね(笑)。「やばいな」と。名古屋では当時、極真の段持ちのパンクスがいて、そいつが毎回来るんですよ。「そいつをどうしよう?」と考えながら仕事していました(笑)、「アイツが上がってきたら誰が止めるんだ」って(笑)。

−−(笑)。

清水:結局、私がそいつを捕まえて、一緒にダイブして、そいつが私を捕まえようとするのを振りほどいてステージの前まで行って、上がろうとするんですけど、今度は警備員が私を客と間違えて止めるんですよ(笑)。それで「俺だよ!」って大声でパスを見せて戻ったり。

−−出禁とかにはできなかったんですか?

清水:無理でしょうね。チケット持っていますし。ライヴの前に注意してもショウが始まったら忘れてますよ。とにかく今のお客さんは素晴らしいな…と思えるような時代ですよね。そこから自分もインディーを中心に更に色々な音楽を聴きだして、クラブチッタやクアトロといったクラブの人たちが、すごく私たちのことをサポートしてくれたんですね。一緒にリスクを負いながら新しいものをやっていこうと。そうしているうちにレコード会社とも徐々に仲良くなって、クラブツアーが年間10本、15本と増えていく、本当にその積み重ねですね。

−−その頃のレコード会社はインディーロックに対して結構サポートしてくれたんですか?

清水:そうですね。当時はアメリカからグランジが生まれた時代じゃないですか。ニルヴァーナ、パール・ジャムやマッドハニー。方やイギリスではマッドチェスターからUKロック、オアシスやブラーが出てきて盛り上がってきていましたから、お客さんがライブを観たいアーティストはCDも売れるし、そういったアーティストを紹介した雑誌も買うと、全てが上手くかみ合っていた時代でした。ですから、クリエイティブマンはすごく良い時代にスタートを切れたんですね。大手の会社さんがまだ見向きもしないようなクラブツアーやスタンディングのロックでSMASHさんが先行していて、そこを追いかけるようにうちが育っていたという時代ですね。

 

5. 飛躍のきっかけはRADIOHEAD

−−クリエイティブマンが飛躍したきっかけはなんだったんですか?

清水:それはRADIOHEADですね。海外のエージェントと交渉してアーティストを呼ぶのがプロモーターの一番中心の仕事なわけですが、私はエージェントもあまり知らず、英語も全然喋れない中で(笑)、92年にロンドンへ行って交渉していたんですが、信頼していたエージェントのチャーリーが「これ、次にやるバンドなんだよ」と言って、今や彼らの代表曲である「クリープ」のシングル盤とビデオクリップをくれたんですね。それを観て、聴いて、衝撃を受けて、「このバンドを呼びたい!」と思ったんですよ。

−−それはRADIOHEADがブレイクする前ですよね?

清水:そうですね。RADIOHEADって周りが売れていく中で、直ぐにはイギリスでブレイクしなかったんですよ。日本でもそこまで火がついていなかったんですが、とにかく呼びたいということで、1年から2年くらい交渉して、ようやく来てもらえました。やはり彼らにシンパシーを持ったオーディエンスやメディアもすでにいたので、クアトロツアーは即完売、クラブチッタも満員になって、そのツアーは大成功したんですよ。

そして、RADIOHEADが95年に「ベンズ」、そして98年に「OKコンピューター」という歴史的なアルバムを作るまでの過程で、クリエイティブマンは彼らをプロモートしていったんですが、「OK コンピューター」のツアーをやったときに、とにかく凄いライブなわけですよ。毎回ショーを観る度に驚かされて今、自分は世界でトップのライブバンドを体感している、そして毎回その感動が全身に伝わってくる。それを生身で感じながら、全国津々浦々何十ヶ所も廻りながら気づいたんです。クリエイティブマンは決して大きい会社とは言えない中で、このバンドと今後一緒に仕事をしていくのであったら、クリエイティブマンはもっとレベルを上げなければいけない、そして、もっと進化しないとこのバンドをプロモートしていくのに似つかわしくない会社になっていくだろうと。

−−つまり、クリエイティブマンはRADIOHEADに育てられたと。

清水:そうです。それまで、クリエイティブマンはある種の自己満足でずっと来ていたと思うんですね。その間にはもちろん、グリーン・デイであったり、素晴らしいバンドもたくさん出てきて、会社も徐々には大きくはなっている。ただ、大きい会社になるってこと自体を拒んでいた傾向もあったんですよ。インディーで格好良いことをやっていきたいと。

−−でも、そういうわけにはいかない、すごいものを観てしまったわけですよね(笑)。

清水:ええ。そういうバンドがまた将来にも出てくると考えたときに、今のままでいいのかと思ったんですね。もし進歩がなかったら、彼らは次、ウドーさんやSMASH、H.I.P.に行ってしまう。それを見過ごす会社で良いのか、それとも一緒に成長していく会社にしなきゃいけないのか、と考えたときに、やはり一緒に育っていく会社にしようと決断をしました。それまで自分が積極的じゃなかったプロダクションサイドであったり、会社としてのチケッティングだったり、そういった組織的なものを考えていくようになりました。

−−音楽好きから経営者としての視点で会社を見たということですね。大きいアーティストを扱うようになると、もちろん信用が一番ですが、バックヤードにやっぱり資金力っていうのが大事になってきますよね。

清水:確かにそうですね。ただ、そこまでは無理をしないで、着実に成功できていたので、マイナスはなかったんですよ。あと、テレビ局であったり地方プロモーターが一緒にリスクを持ってやってくれたのが大きかったです。今もそうですが自社だけでやって自分のところだけで儲けようというスタンスはあまりないんですよ。一緒にリスクをシェアしながら、アーティストを育てていこうという観点で続けてきたので、色々な方々と組みながらやっていきたいんですよ。仲間は多い方が楽しいですしね。

−−とはいえ、着実に成功を積み重ねられたわけですから、やはり素晴らしいですよ。

清水:RADIOHEADをやる前の97年かな? そのときに代表取締役になりました。イギリス人の社長が「もうプロモーターをやりたくない」といきなり言い出しまして。プロモーターというのはリスクが大きいですし、もう自分のやりたいことじゃないから「これからはお前がやれ」といきなり言われて…(笑)。しかも「君がやらないんだったら、この会社をたたむ」と言われて、社員もいましたし「やるしかないな」という感じで、仕方なくじゃないですが、別にやりたくてということでもなく、クリエイティブマンの社長になったんですね。

−−そういった形での社長就任だったんですか…。

清水:そうなんです。とにかく「社長になるんだ! この業界でNo1になるんだ!」という野心は全然なかった。

−−というより、どちらかというと好きな音楽に関わっていられたら良かったという感じでしょうか。

清水:中高生くらいからの感覚でずっといて、音楽業界に入っただけで、この仕事ができているだけでも自分はありがたい(笑)。そんなつもりでずっとやってきている。

−−実際に社長をやってみると、それまでとはまた別の仕事も増えると思うのですが、その辺はそつなくこなすことができたんですか?

清水:いやー、大変でしたね!(笑) 今だから言えますが2億近くとか、大きな借金を背負っているような時代がありましたね。社長をやっていたら、それって全部自分の責任なので、もしそこでちょっとでも歯車が狂ったら、もうその借金を全部背負って私は一生もがきながら…(笑)。笑えないけど。

−−当然、個人保証をさせられるでしょう?

清水:ええ。ただ、RADIOHEADやグリーン・デイなど、色々なアーティストをやる中で、このアーティストたちがどんどん育っていったときに、5年先、10年先の自分には未来があると予感していましたし、自分の中のお金に対する鈍感さといいますか、「なんとかなる」といった感覚の方が強かったんです。ひょっとしたらこういった業界で社長をやろうという人間は、きっちりとお金の計算をしながらやるタイプが多いとは思うんですが、その反面ある程度鈍感じゃなくては持たないんじゃないかなと思いますね(笑)。

−−確かに興行って計算できないようなことばかり起こったりしますものね。

清水:何かやろうとしたときに、ある程度「とにかくやろう!」という気持ちがないと、物事は動かない。

−−慎重に考えていたら全部ビビってやれないことばっかりになってしまいますものね。リスクに対しては鈍感力で(笑)。

清水:ええ(笑)。

 

6. ずっと持ち続けていたフェス開催への想い

株式会社クリエイティブマンプロダクション 代表取締役社長 清水直樹氏

−−そして、2000年にSUMMER SONICを開始されますね。

清水: SUMMER SONICが始まったから、今のクリエイティブマンがあり、続いている感じですね。

−−SUMMER SONICの構想というのは、例えば、FUJI ROCK以前からあったことなんですか?

清水:そうですね。やはり洋楽のプロモーターをやっていたら、必ずそういう気持ちは持ちます。私が最初にフェスティバルというものを身近に感じたのが、91年にカーターU.S.M.、ネッズ・アトミック・ダストビン、メガ・シティ4という3つのバンドをクラブツアーで呼んだんですね。その3アーティストが、その年のレディング・フェスティバルに出ていたんですよ。

−−それは観に行ったんですか?

清水:いや、それは観てないんです。まだ「フェス行きますから、海外出張させてください」みたいなことは言えないような時代だったので(笑)。彼らは新人だけどメインステージでこれから推すアーティストとして出ていて、そして翌年のレディングでは既に出番がヘッドライナー前になっていたんですよ。ヘッドライナーがいてネッズ、ヘッドライナーがいてカーター、みたいな。自分がやった本当に小さなバンドが、イギリスでいきなりセコンドヘッドライナーですから、すごく自信になりました。ヘッドライナーはある程度実績のあるアーティストですから、今一番勢いのあるバンドは彼らということの証明なんですよね。

それで「すごいな。フェスティバルってどんなもんだろうな」と興味を持って、93〜94年くらいからレディング・フェスティバルや、アメリカのパンク系のワープド・ツアーというのに行き始めて、やはり「自分でもいつかやりたい」と感じながら観ていました。ただ、フェスは30〜40バンドも呼ぶので、どう考えても実績と信頼、それと資金力にしっかりとしたコンセプトがないとできないわけですよ。私はまだ始めて数年で、そういったものができる状況ではまだないのはもちろん分かっていたので、「自分もいつか」と思っているだけの90年代上半期だったんですよね。

−−なるほど。機が熟すのを待っているような状態だったんですね。

清水:そして、97年にFUJI ROCKが始まりました。FUJI ROCKはグラストンベリー・フェスティバルをヒントにして、キャンプをしたり、田舎に行くフェスということで始まったんですね。対して私が自分で行っていたのは、ロンドンから1時間〜1時間半で行けるレディングや、ワープド・ツアーもLAやサンフランシスコなど色んな街を自分たちで動いて観に行く「行って帰れるフェス」だったんです。それが自分にとって魅力でした。あまり知り合いもいない中で海外に行っていきなりキャンプできるかといったらできないですし、そういう人間がパッと行ってパッと帰れるフェス、つまり、すごく敷居の低い、音楽ファンができるだけ気軽に行ける都市近郊型フェスをやりたいと思いました。

97年以降、その構想を練って、SUMMER SONICをスタートできたのは2000年です。最初は富士急ハイランドでやったんですが、その前年の99年に「ビューティフル・モンスターズ・ツアー」というマリリン・マンソンをヘッドライナーにして、その他にBUCK-TICKなど日本のバンドも出したフェスを富士急でやったんです。それは自分の中で次にフェスをやる上での予行演習みたいな感じだったんですが成功して、翌年、大阪でも場所を探して、二大都市同時開催のフェスということで、SUMMER SONICをスタートさせました。

−−当時、SUMMER SONICに対して自信はあったんですか?

清水:自信よりもまずやらなきゃいけないという使命感があったんですね。それは自分の夢でもあるし、プロモーターとしてフェスを持たなければ今後生きていけないという、自分の中で答えがあったんです。例えば、自分たちがやっていたグリーン・デイが1回目のFUJI ROCKに出るわけです。それは私も協力したわけですが、バンドに「お前はフェスやらないのか?」みたいなことを言われたりするわけですよ。あと来日が決まった新人アーティストでも「いや、でも私たちFUJI ROCKに出たいから」ということで突然キャンセルされたりすることがいくつかありました。

そのときに、アーティストを取られたことが悔しいのではなくて、フェスを持っていない自分が悪いんだよなと反省したんです。アーティストは日本でもフェスに出てどんどん大きくなっていきたいのに、フェスを持っていない自分に力がないんだなと。だとした自分が早くフェスを初めないと、よぶアーティストに対しても申し訳ないと思いました。そして、FUJI ROCKの後は、「次は私がやろう」と強く決心しました。

−−SUMMER SONICの1回目はどんなラインナップだったんですか?

清水:私の中でアメリカのグリーン・デイとイギリスのRADIOHEADが一番重要なアーティストだったので、SUMMER SONICを初める際には、その2つをヘッドライナーにするのが夢でした。グリーン・デイは最初からOKしてくれたんですが、RADIOHEADは1年目ダメでしたね。それでレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンにあたって良いところまで行ったんですが、これも力及ばずダメで、四苦八苦してジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン(以下 JSBX)という公私共々仲の良い、当時すごく勢いのあったバンドにヘッドライナーをやってもらいました。

そのジョンスペの前にジェームス・ブラウン(以下 JB)が出たんですね。今では伝説みたいに語られているんですけど(笑)、ヘッドライナー前のJBの持ち時間は大体1時間だったんですが、JBって1時間で終わるわけがないアーティストなんですよ(笑)。ただ、フェスだからそこは1時間でやってくれと言って、マネージャーもOKしたはずが、フタを開けたら本人は「そんなの聞いていない。俺は俺のステージをやる」と言って、2時間やっちゃったんですよ(笑)。それでヘッドライナーのJSBXに残された時間が転換を除いて40分みたいな。

−−それは胃が痛くなりますね。

清水:JSBXには本当に申し訳なかったです。でも、彼らは友だちでしたし、彼らもJBのことをすごくリスペクトしていたので理解してくれて、「やれるところまでやらせてくれ」と言って演奏してくれたんですが、40分ではお客さんが納得いかないんですよ。それで「もう1回やらせろ」と言ってアンコールもやって、それでも50分くらいですかね、ヘッドライナーが(笑)。翌日の大阪でもやはりJBは2時間やろうとしたので、それはもう「1時間20分以上いったら切れ!」と自分から指示して、そのときは切りましたね(笑)。

−−2回もやられるのは嫌ですよね(笑)。

清水:JSBXに同じ思いをさせてはいけないと(笑)。そんな感じでスタートしました。

 

7. 年々進化を続けるSUMMER SONIC

−−SUMMER SONICは1回やるのにどれくらいの準備期間がかかるものなんですか?

清水:始めた頃のフェスは今よりもっと短期間の交渉でした。ステージも2つで、アーティストの数も少なかったですから。だから、アーティストの大部分がコンファームするのも4月とか5月、2〜3ヶ月前くらいですね。ただ、今は世界中にフェスがありますし、早くブッキングしなくちゃいけないです。どんどん前倒しになっていって、それこそ来年のSUMMER SONICの話を今、この時点でしていたり、1年以上かけながらブッキングするようになりましたね。当時はもっと手作りというか、行き当たりばったり感はありました。

−−端から見ていると途方もないことをやっているような気がします。他人事ながら大変そうだなと。

清水:でも、なんだかんだでできちゃいましたね(笑)。そのできちゃうのを2回、3回、4回と続けていくごとに、どんどん本物になっていくと言いますか。今は多くのスタッフに支えられて巨大化していますが。

−−例えば、去年はSUMMER SONICに出た人が今年はFUJI ROCKに出る、みたいなことが結構起こりますよね。

清水:そうですね。フェスは、そういう意味ではニュートラルなんですよ。今年、ウチでずっとよんでいるRADIOHEADがFUJI ROCKに、逆に去年、レッチリがSUMMER SONICに出たり、みんなニュートラルにやりますし、それをOKしないと後にウチも困るじゃないですか。ですから、そこで取った、取られたという感じはないんですよね。

−−でも、1アーティストに複数からオファーがあったりしますよね。

清水:ええ。そういう意味で、今年このアーティストを呼びたいけれど、向こうに行ってしまったっていうのはありますね。でも裏を返せば、ウチのアーティストがFUJI ROCKに出ることによって、FUJI ROCKのお客さんをつけてまた単独ツアーに来てくれればそれはプラスですし、その逆もあるということなんですよね。

−−なるほど。SUMMER SONICは今年で13回目になりますが、2年目から幕張での開催になっていますよね。

清水: 1年目を富士急でやったときに、すでに限界を感じました。入れられても1万5000〜2万人の広さで、なおかつ2ndステージというところが、しょぼい体育館みたいなところだったんですが、空調も効かない。しかも、そこでライブをやったのが、シガー・ロスとコールドプレイですよ。

−−シガー・ロスとコールドプレイですか…(笑)。

清水:今や世界的なアーティストになりましたけど、当時は空調の効かない会場で汗だくで演奏してくれました(笑)。

−−(笑)。幕張での開催が12年目となりますと、運営もかなりスムーズになっているんじゃないですか?

清水:そうですね。幕張では今がほぼ完成形に近い状況になっていると思います。2001年に幕張で始まったときは、屋外のスタジアムと屋内のメッセに1ステージずつでした。その後、メッセを全館使おうということで、屋内に3ステージ作るようになりました。ですから、SUMMER SONICは外でやっているけれど、インドア的な要素も持ったフェスだったと思うんですね。そして今度は、より屋外の要素を求めて、ビーチにステージを作り、マリンの川を渡ったところのビーチサイドに大きな芝生の公園があったので、そこにガーデンステージというのを作りました。結果、外に4ステージ、中に3ステージということで、すごくいいバランスになったと思います。幕張という場所は、普通にマンションがある土地ですから、位置関係を考えると音の問題も含めて、これ以上は広げられないギリギリのライン、環境で現在はやれていると思っています。

−−現在、SUMMER SONICはどのくらい動員しているんですか?

清水:今年は1日6万人ですね。日曜日は6万人で、土曜もほぼSOLD OUTになっていて、2日間で12万人です。大阪が4万〜4万5千人なので、4万人として考えても2日間で8万人、2日間でのべ20万人を集めるのが現在のSUMMER SONICですね。そこに今はSONICMANIAという2万人強のオールナイトのフェスをやっているので、これも入れたら22万人、あと今年はマリンスタジアムでエミネムとビーチ・ボーイズの単独ツアーもやります。

−−ビーチ・ボーイズもクリエイティブマンですか。

清水:そうなんですよ。それまで入れると1週間で25万人という感じですね。

−−25万人ですか…すごいですね。

清水:20歳くらいまで何をしたらいいのか分からなかったような人間が、それだけの人々を動かすようになったというのは、ある意味、若者に勇気を与えられるかもしれないですね(笑)。

−−ビーチ・ボーイズは今までの若いラインナップと随分カラーが違いますが、そういうビッグアーティストも扱われるわけですか?

清水:そうですね。これまでもエミネムやビヨンセ、レディーガガといったビッグアーティストを呼んでいるわけですが、そういうアーティストを呼んだときに、ライヴとその存在感は圧倒的なんですが…個人的な思い入れで言ったら、自分が中学、高校と、ただ音楽が好きで聞いていたときのアーティストが来ると心が踊りますね(笑)。そういう意味で今回のビーチ・ボーイズ、特にブライアン・ウィルソンが入ったラインナップは、それなりの経費がかかりましたが、この50周年ツアーはもう私がやるくらいの気持ちでした。

−−自分が一番観たい(笑)。

清水:自分が観たい、自分が会いたいという(笑)。ハリウッド・ボウルのショーも1泊3日で観に行きましたが、本当に素晴らしかったです。この仕事はいくらお金を儲けたから偉いのではなく、どれだけの人々を感動させられたかにあると思っています。まあ、会社が潰れたら負け惜しみになりますが(笑)。

 

8. SUMMER SONICという存在を世界へ

株式会社クリエイティブマンプロダクション 代表取締役社長 清水直樹氏

−−先ほど幕張で開催するSUMMER SONICは完成形であるとおっしゃっていましたが、今後、SUMMER SONICの未来をどう描いていらっしゃいますか?

清水:多分、今ある特に3大フェスはどこも「これ以上キャパを増やそう」という気持ちをあまり持っていないと思います。この、今のキャパの中で、より中身を充実させていくか考えていると思うんです。そして、できるだけ長くフェスティバルを続けていきたいというのがみんなの共通認識で、私もSUMMER SONICを望まれる間は長く続けていきたいと思っています。

−−フェスという文化のためですね。

清水:音楽フェスのない夏は寂しいです。そして、お客さんに選択肢がなければいけない。キャンプして田舎まで行かなくてはライブが観られない、それしかないというのはおかしいですし、逆にキャンプができずに、街の中で観るフェスだけでもおかしい。お客さんができるだけ自分のニーズに合ったフェスを選べることが、オーディエンスのために良いことだと思うので、我々もSUMMER SONICを続けていくことが重要だと思います。

−−それぞれ特色のあるフェスがあったほうがやっぱり楽しいですよね。

清水:ええ。単純に言えば、それがテーマであり、それに一番重要なのは何かと言ったら、音楽フェスなのだからアーティストのブッキングだと思います。私は2年前に、思い切ってロック・フェスにジェイ・Zとスティーヴィー・ワンダーをヘッドライナーにしたんですね。結果としては満足していますし、今ではベスト・ライヴに挙げる人もいますが、東京も大阪も動員はかなり落ちました。それはSUMMER SONICのお客さんが求めているアーティストではなかったということです。ブッキングは毎年が旨く行くわけではありませんが、出来るだけ皆が見たいものになるように、日程であったり、早い内の交渉だったり、もっと自分で努力しなくてはいけないと、その年に感じました。

今は1年以上前から海外に飛んでブッキングに動き、なおかつフェスは同じ日程にアメリカの色んなところでフェスをやっているので、日本での取り合いじゃなくて海外との取り合いになるんですよ。それを考えたときに、海外のフェスよりもできるだけ早く日本に、このアジアに来てもらうための交渉や、色々なことをしなくてはいけないので、その努力は今後もしていかなくてはいけません。逆に言えば「この時期はSUMMER SONICだから空けておこう」とマネージメント/エージェントが思ってくれるくらいのフェスにならないといけないし、世界にもSUMMER SONICという存在をどんどん拡げて、このフェスを怖がってくれるくらいにならないといけないなと思います。

−−最近のSUMMER SONICは欧米だけでなく、アジアにも目を向けられていますよね。

清水:そうですね。「ISLAND STAGE 〜ASIAN CALLING〜」には中国、台北、韓国、インドネシアといったアジアの国々からロックバンドが来てくれます。そういったアジアのバンドもどんどんメインに普通に出てくるようになったら素晴らしいですし、SUMMER SONICをよりアジアに近いフェスティバルにしたいといいますか、日本も含めたアジアのロックをどんどんSUMMER SONICで拡げていきたいというのが1つのテーマなんですね。

−−清水さんご自身がアジアに足をのばすこともありますか?

清水:去年、今年とあちこちに行きました。上海、北京、ソウル、台北、香港…。色んな所に行って感じるのは、彼らは日本のフェスティバル、プロモーターをすごくリスペクトしてくれているんですよ。しっかり海外アーティストのツアーを成功させて、FUJI ROCKやSUMMER SONICという海外に行っても申し分ないフェスティバルを作ったと。彼らもそれを手本としてやっていきたいと思っているので、みんながウェルカムで、積極的に色々なことを聞いてきます。私もその姿勢に感銘を受けますし、一緒にやっていきたいなという気持ちにさせられますね。

国の問題って特にアジアでは色々ありますけど、音楽が好きな人たちと話していると、全然そういう違和感がないんですよね。逆に国じゃなくて人だということを、ここ数年感じていて、だから色々な問題を飛び越えて音楽を愛している者同士、一緒にどんどんやっていったらいいんじゃないかと感じました。ですから、このプロジェクトは今後絶対に続けていきたいですし、大きくしていきたいと思っています。

 

9. オーディエンスのニーズにこれからも応えていきたい

株式会社クリエイティブマンプロダクション 代表取締役社長 清水直樹氏

−−今年2月にLIVE NATION JAPANを共同で設立されたのは大きなニュースになりましたが、これはどういった経緯だったんですか?

清水:LIVE NATIONは誰もが知っている世界でNo.1のプロモーターであり、360度ディールという画期的な事業を進めた会社で、もちろん興味を持っていて、彼らの方もここ4〜5年、ウチにアプローチをしてきていたんですね。最初のアプローチはクリエイティブマンを買いたいと。彼らはそういう会社なんですよ。世界各国のプロモーターを買って、それで大きくなっていく。だから日本でもフェスを持っている、なかなか勢いのあるプロモーターを買おうということだったんですね。

私はそのとき、LIVE NATIONに買われる気はなかったし、サマーソニックは自分にしか出来ないブッキングだったので守っていきたいという意志が強かった。ただ、一緒に会社を作るということだったら、是非やりましょうとずっと言い続けてきたんです。でも、その時は彼らがそれを許す環境ではまだなかったんですね。絶対に自分たちで全てをやる。それでどんどん大きくなっていくのがLIVE NATIONスタイルだったんです。この4〜5年の間で彼らは色々な人たちと交渉をしたはずなんですが、なかなか結論を出せずにいた。そして僕も一向に考えを変えない中で、結局はクリエイティブマンと一緒に会社をやるのが日本では一番いいスタートになるのでは、ビジネスとしてチャンスがあるんじゃないかという決断してくれたんです。そして、去年の8月に交渉をスタートさせて、今年の5月のLADY GAGAからLIVE NATION JAPANをスタートしました。

−−LIVE NATIONは最終的にクリエイティブマンをパートナーに選んだと。

清水:そうですね。何が良かったといったら私はブレなかったんですよ。とにかく買われる気はないということは一貫していましたから。逆に彼らは「それくらい意志の強い人間とやった方がいい」という気持ちになってくれたんじゃないかな。

−−ちなみにクリエイティブマンとLIVE NATION JAPANの棲み分けは、どのようになっているんですか?

清水:私もLIVE NATION JAPANを作ったときに、「クリエイティブマンとぶつかるアーティストが出てきたらどうするか」と色々と考えたんですが、だったら両方フェアにコントロールしてしまえばと思いました。LIVE NATION JAPANはU2やマドンナなど、基本的は大きいものをやるところという認識ですね。実際、今まで日本に呼べないアーティストがいたわけですよ。それが、LIVE NATION JAPANがあることによって呼べるようになるのは、日本の音楽業界にとっても良いことだと思いますし、とにかく今、旬でトップであるアーティストをできるだけ日本に呼べる会社としてLIVE NATION JAPANは絶対に必要だと考えました。LIVE NATION JAPANは私とクリエイティブマンのフランク竹下でやっているんですが、2人でうまくバランスをとって、何かぶつかったときにも日本側でしっかりと考えながらやっていけば問題ないだろうと思っています。

−−日本におけるライブ事業の今後について、清水さんはどのようにお考えですか?

清水:俗に言う「これからはライブの時代だ」というほど単純なものではないと思います。やはり、CDの売上とライブは反比例するものではなく、比例するもので、それが落ちていくということは、私たちにとっても危機感は絶対にありますし、ロックマーケットが縮小しているのは実感しています。

そんな中でも自分が大切にしていたクラブショーなんかはどんどん人が入らなくなっているので、自分としてはとても寂しい気持ちにもなりますが、オーディエンスが欲していないも無闇にやり続けていけばいいのかといえば、そうではないとも言えます。我々はリスナーと同じ位置に立って、今、求められているものを瞬時に作っていかなくてはいけないと思います。

この先ロックアーティストは少なくなっていくかもしれません。現に、ここ数年プッシュしてきたポップス系やR&Bといった洋楽アーティストは今どんどん躍進しています。それは先を読んでやってきたものが、実を結んでいるからだと思いますが、またロックは生き返るし、更におもしろい音が未来には待っていると思っています。この先に何があるのか、なかなか読めませんが、私は絶えずリスナー感覚を持ってやっているので、それはこれからも大事にしようと思っています。その感覚を忘れずに、いまだに海外へ行って色々な情報を得て、絶えず音楽と共に歩んでいるので、必ず次のリスナーやオーディエンスが求めているものを、クリエイティブ側から提供できると信じていますし、提供できる環境にあると思います。

そして私達にはSummer Sonicという世界に誇れるキラーコンテンツがあるので、アジアや世界規模で更なる事業を広げて行くチャンスは十分ありますね。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。清水さんのご活躍とクリエイティブマンプロダクションの益々のご発展をお祈りしております。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 今や日本を代表する洋楽プロモーターとなったクリエイティブマンですが、ビッグネームだけでなく注目されだした活きのいい若手まで、その目配りにはリスナーの目線、現場感を感じます。今回、清水さんにお話を伺って、その源には音楽好きで、コンサートプロモート業務を現場で一から経験されてきた清水さんのパーソナリティが反映されているのだなと感じました。今、リスナーが何を求めているかを敏感に感じ取り、さらにアジア、そして世界をも視野に入れている清水さん、そしてクリエイティブマンが、今後どのようなエンターテイメントを提供してくれるのか本当に楽しみです。