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第108回 加藤 公隆 氏 ユニバーサル ミュージック合同会社 執行役員 ユニバーサル インターナショナル マネージング・ディレクター

インタビュー リレーインタビュー

加藤 公隆 氏
加藤 公隆 氏

ユニバーサル ミュージック合同会社 執行役員
ユニバーサル インターナショナル マネージング・ディレクター

今回の「Musicman’s RELAY」はクリエイティブマンプロダクション 清水直樹さんからのご紹介で、ユニバーサル ミュージック合同会社 執行役員 / ユニバーサル インターナショナル マネージング・ディレクター 加藤公隆さんのご登場です。お父様の仕事の関係で約18才までの人生のうち実に15年間をフィリピン、イギリスで過ごされた加藤さんは、ルーツを求めて単身日本へ帰国。大学卒業後に一旦銀行へ入行されるものの、音楽への想いが強まり音楽業界へ転身され、営業、洋楽宣伝・編成に従事。SUM 41やアンドリューW.K.など数々のアーティストを日本でブレイクさせます。その後、34才という若さでユニバーサルの洋楽トップへと大抜擢され、その国際感覚を存分に発揮されている加藤さんにお話を伺いました。

[2012年10月3日 / 港区赤坂 ユニバーサル ミュージック合同会社にて]

プロフィール
加藤 公隆 (かとう・きみたか)
ユニバーサル ミュージック合同会社 執行役員 ユニバーサル インターナショナル マネージング・ディレクター


洋楽、ジャズ、クラシック部門を取り扱う音楽レーベル 「ユニバーサル インターナショナル」 の最高責任者であるマネージング・ディレクターとしてレーベル運営を統括する。
1996年 三和銀行 (現 三菱東京UFJ銀行) 入社
1998年 ポリドール株式会社 入社 ※ 営業、洋楽宣伝・編成などを担当
2007年  ユニバーサル インターナショナル マネージング・ディレクター 就任

 

  1. 物心ついた頃には海外へ
  2. ロンドンで味わったカルチャーショック
  3. スポーツとバンドばかりの寄宿舎生活
  4. ロックスターになる夢と日本への想い
  5. 15年のブランクを乗り越えて日本語を猛勉強
  6. 銀行から一転、「頑張れる」音楽業界で充実の日々
  7. 34才で洋楽のトップへ大抜擢
  8. ヒットを出したときの達成感を味わうために

 

1. 物心ついた頃には海外へ

−−前回ご出演いただきました清水直樹さんとはどのようなご関係ですか?

加藤:清水さんとの出会いは私が現場の編成担当をしていた頃で、担当したほとんどのアーティストを清水さんが招聘されていたんです(笑)。清水さんとは、2000年代頭、ロックがまだまだ盛り上がっていたときに、例えばSUM 41やアンドリューW.K.など最初はCLUB QUATTROからスタートし、最後にはさいたまスーパーアリーナをソールドアウトできるアーティストに育てていく体験をさせていただきました。目に見えてCDが売れ、コンサート会場が大きくなっていくというのは、やはり最高です。そして現在も多くの弊社の洋楽アーティストを招聘していただいております。

−−CDの売上枚数以上に体感がありますよね。

加藤:もちろん主はCDセールスですが、5千枚からスタートしたアーティストが30万枚、40万枚と売れるというような過程は、ライブ活動と連動しなければ起こらなかったでしょうし、そういうことを清水さんと一緒に体験できたことはすごく嬉しく思っています。清水さんには非常に感謝しています。彼にとって、私は“one of them”かもしれないですけど(笑)。

−−いや、そんなことないと思いますが(笑)。

加藤:清水さんは色々なレコード会社の方々とお付き合いをして、アーティストのブレイクを同時に体験されている方だと思いますが、そういう意味ではヒットに対してすごく敏感です。また、常にライブ会場にいらっしゃいますし、海外へのフットワークの軽さや、新しいバンドへのアンテナの張り方など、今クリエイティブマンがこれだけ大きくなったのはやはり清水さんの力が大きかったんだろうなと思いますね。

−−ここからは加藤さんご自身について伺いたいのですが、ご出身はどちらですか?

加藤:神奈川県横須賀市久里浜で産まれまして、2歳半のときに父の仕事の関係でフィリピンのマニラへ家族で移りました。マニラには6年半住みまして、そこで妹が産まれました。その後、私が8歳のときにまた横須賀へ戻り、横須賀で1年過ごし、9歳のときにまた父の転勤でロンドンへ行きました。

−−とても目まぐるしいですね。お父様はどのようなお仕事をされていたんですか?

加藤:商社マンです。とにかく世界中を飛び回っていたんですが、フィリピンにいたとき父がやっていたのは、パイナップルの缶詰を作るときに余ったカスでクエン酸と肥料を作ることで、ジャングルの電気のない、周辺ではゲリラ戦で銃声が聞こえるようなところに長い時は一ヶ月とか行くこともあったようです。

−−いわゆる高度成長期の商社マンですね。

加藤:まさにそうです。それで、製造工程の中でパイナップルのカスを発酵させなくてはいけなかったらしく、それがものすごく臭いらしいんですね。ですから父は未だにパイナップルが食べられないんですが(笑)、そういうところに1ヶ月とか住み込みで行くんですよ。そのとき私が産まれたばかりだったので、自分の赤ちゃんのときの写真を持って、毎晩それを見ながら寝ていたという話を聞きますと結構泣けますよね(笑)。そんな父親のもとで6年フィリピンに住んで、家族は大変いい暮らしをさせていただきました。メイドさんが二人いて、運転手さんが二人いるみたいな。それで母親は相当いい思いをしたと思いますが、父親は苦しい環境に送り込まれて新しいことをやらされて・・・結局、オイルショック等の影響もあって失敗に終わったっていうオチなんですけどね(笑)。

−−(笑)。では、小学校はフィリピンで過ごされたんですね。

加藤:そうですね。マニラ日本人学校というところに通っていました。

−−加藤さんは小さいときどのようなお子さんだったんですか?

加藤:父親は音楽が好きだったので、よくギターやピアノを弾いていまして、常に楽器が家にはあったので、私も「ピアノを習いたい」と言い出したらしいんですね。ただ、幼すぎて、先生のいる前でピアノの上に乗っかって足で踏んだりしたらしく、すぐクビになりました(笑)。

−−ピアノを始めるにはまだ小さすぎたんでしょうか・・・(笑)。

加藤:「この子はまだ早いです」と言われて先生から断れたようです(笑)。音楽は本当に好きだったらしく、両親の話によると、手に持ったラジカセからエルビス・プレスリーを流しながら、家の中をかけ回っていたそうです。

−−その後、一旦日本に戻られたそうですが、そのときにカルチャーショックみたいなものはありましたか?

加藤:マニラでも日本人学校に通っていたので、そんなになかったですね。カルチャーショックと言っても、自分がどれだけ勉強ができないかくらいで(笑)。逆に久里浜の小学校のクラスメイトはカルチャーショックがあったかもしれないですね。

−−受け入れる側が驚いたと。

加藤:転入のときに挨拶したことを鮮明に覚えているんですが、その休み時間にクラスメイトが群がってきて「この人はどういう人なんだろう?」 みたいな感じでしたからね。それで小学校3年生の2学期から4年生の1学期までちょうど丸一年久里浜で過ごして、ロンドンへ行ったんですが、そのときは結構カルチャーショックがありましたね。

 

2. ロンドンで味わったカルチャーショック

−−ロンドンでも日本人学校に通われていたんですか?

加藤:ロンドンでは普通の公立小学校に入りました。そこから完全に英語の生活になりました。

−−現地校に通われたんですか。すぐに適応できましたか?

加藤:言葉がわからないので苦戦しました。でも友達を作ることは得意だったのでなんとかやっていました。現地校に入って英語の補修クラスも受けながら、普通の授業も受けて、徐々に慣れていった感じですね。そこで一番大きくショックを受けたのは、日本人は「子供は風の子」って言うじゃないですか? それで冬でも半ズボンにランニングだったりしますけど、向こうでは「正気か」と言うわけですよ。

−−なんて格好をしているんだ、と(笑)。

加藤:そうです(笑)。小学校の冬の遠足のときにジャケットを着ないで短パンで行ったら行かせてくれなかったんですよ。「君はコートを着てないのか? それでは風邪をひくから行かせてあげられない」と言われて。

−−白人は寒さに強いというイメージでしたが、違うんですか?

加藤:寒さに強い、弱いではなく、寒い日にコートを着ないで学校に来るとはどういうことだと。短パンなんかまずあり得ないと。それは結構ショックでしたよ。日本だと褒められるんだけどな・・・(笑)。

−−(笑)。

加藤:あと、その学校はお弁当と給食を生徒が選択できて、私はお弁当を持って行っていたんですが、初日にパカっとお弁当を開けたら、おにぎりが3つ入っていたんですよ。「イギリスだからサンドイッチだろうなぁ〜」と思って見たらおにぎりで(笑)、私は思わずフタを閉じたんですが、中身を見たクラスメイトが「何それ!」って駆け寄ってきて、相当ビックリされました。「気持ち悪い」って言われましたよ。

−−おにぎりはイギリス人からすると「気持ち悪い」という感じなんですか。

加藤:当時はそうですね。そのクラスは異文化交流に積極的なクラスで、ある日、先生が、「日本の家庭では何を食べるんですか?」とみんなの前で訊いてきたので、「みそ汁というものがあって、シーウィード(海藻)が入っています」と言ったら「えー!気持ち悪い!」と言われて、「気持ち悪いと思うのか。おいしいのにな…」と思いましたね。寿司なんて絶対ありえないと言われましたけど、今はイギリスのどこへ行っても日本食屋さんがありますね。

−−クラスの中には加藤さん以外に他の国の子もいたんですか?

加藤:いました。私は英語を少し話せるとはいえ、現地の同年代と比較すると圧倒的にできないので、そうすると公立の一番悪いクラスに入るんですよ。ですから、私のクラスメイトはそれこそ本当にワルいやつらばっかりで(笑)。

−−実際悪い奴らだったんですか?

加藤:悪いと言っても小学生、中学生なのでそこまでは(笑)。一番ビックリしたのは、小学4年生でタバコを普通に吸っている子がいたことですかね。こっそりではなくて、公園で4年生の子供たちが集まっているところで普通にブワーっとタバコを吹かしていました(笑)。

−−すごい環境ですね(笑)。

加藤:すごいなと思いましたね。日本では、公園でタバコを吸っている小学生なんていないですよね。少なくとも私が小学生の頃は。当時イギリスという国自体が経済的にも不況で、失業率も10%以上、公立の先生がストを起こして授業がない日が続いたりしたため、13歳から私立に入ることになったんですが、立教英国学院に入るか、パブリックスクールに入るかどちらかを選ぶことになりまして、たまたまロンドンの郊外にあるミル・ヒル・スクール(Mill Hill School)という200年以上の歴史のあるボーディングスクール、寄宿舎に入ったんです。

 

3. スポーツとバンドばかりの寄宿舎生活

ユニバーサル ミュージック 加藤公隆 氏

−−イギリスの寄宿舎というと「ハリーポッターの世界」がパッと頭に浮かぶんですが、実際にそういう感じなのですか?

加藤:そうですね。一番例えやすいのはハリーポッターですかね。今度は寮に入るので、またそこでも色々カルチャーショックがあるんですよ。

−−そこは男子校ですか?

加藤:男子校です。最後の2年間だけ女子高校生が入ってくるというところで、そのときは夢のように華やかになるんですが、それまでは日本ほどではないですが、上下関係も厳しくて、先輩にこき使われます。寮はまさにハリーポッターのようにハウスに分かれていて、私は「ウィンターストーク」というハウスに同学年10人同じ部屋でした。ハウスはいわゆるチームみたいなもので、ラグビー、サッカー、水泳などの対抗戦もやりますし、それが卒業するまでずっと一緒なんですよ。学校のクラスは変わりますが、寮を移動することはないんです。

−−合わなかったら最悪ですね。

加藤:そうですね。いじめられるとけっこう辛いでしょうけど、私はみんなと仲が良かったんで、振り返ってみても最高に楽しかったですね。しかし入寮の初日、初めて顔合わせる同期生たちとみんなで食堂へ夕食を食べに行ったわけですよ。メニューはピザとポテトフライだったんですが、食べたらピザが段ボールのような食感だったんで、これから5年間毎日こういうメシを食うのかと思うと涙がでそうでした(笑)。

−−聞いただけで不味そうですね・・・(笑)。

加藤:ピザが重ねて積まれていて、それを一枚一枚はがしていくから、段ボールピザって言われていて(笑)。ミル・ヒル・スクールは一学年100名前後なのに敷地は非常に大きくて、一周するのに1時間くらい余裕でかかるくらいの大きな敷地に、ラグビーフィールドが6つ、体育館が2つ、屋内&屋外プールがあって、テニスコートも6面と、スカッシュ・コート2面に礼拝堂まで、それらが全部学校専用なので自由に使えるという素晴らしい教育環境なんですが、食事は本当に残念でした。とにかく最初の頃は生活環境が激変したため、辛かったですね。お腹も壊しましたし。毎日お米を食べていたのに、突然ジャガイモが主食になり、朝はソーセージとベーコンと卵とポテトと揚げたパンとか、そういう組み合わせがぐるぐる毎日ですからね。

−−でも、他の同級生たちは普通に食べているんですよね。

加藤:それで育っていますからね(笑)。それを食べて戦争に勝ってきたのかと (笑)。今はだいぶ美味しくなりましたけど、昔は、特に寮のご飯はひどいなんてものじゃなかったです。唯一金曜日の夜に許された宅配ピザやテイクアウトの中華などが最高のご褒美でした(笑)。

−−寄宿舎での1週間はどんな感じだったんですか?

加藤:イギリスの公立学校は土曜日は授業がないのですが、パブリックスクール(英国の私立学校)は土曜日午前中授業があって、午後に部活、それから家に帰り、日曜日の夕方に寄宿舎に帰ってくるというパターンですね。

−−部活は何をされていたんですか?

加藤:イギリスの学校はシーズンごとにスポーツが変わるので、秋から冬にかけてはラグビーをやり、1月〜4月くらいまでがホッケーのシーズンで、5月から夏にかけてクリケットのシーズンでした。メジャースポーツと言われているのがその3つで、私はラグビーとホッケーをやり、年間を通して水泳、夏はクロスカントリーとテニスを学校の代表チームでやっていました。

−−何だか盛りだくさんですね(笑)。

加藤:そうですね(笑)。スポーツとバンドばかりの学生生活でしたね。

−−バンドの練習も寄宿舎でできるんですか?

加藤:はい。大変理解のある学校でして、バンド練習用に使っていない部屋を貸してくれました。

−−当時のメンバーは同じ寄宿舎の友だちだったんですか?

加藤:別の寄宿舎の同じ学年の奴をピックアップしてやっていました。ドラマーが同じ寄宿舎で、彼とは大変仲が良かったので、それぞれギターを持ってこっそり寄宿舎を抜け出してロンドンの地下鉄で演奏して小銭を稼いでいました。

−−加藤さんが歌われていたんですか?

加藤:私はバッキングボーカルが得意だったので(笑)、メインボーカルを彼がやり、ギター2本で演奏していました。そして高校を卒業したときには記念に演奏しながらヨーロッパを周りました。「青春18キップ」みたいなものが向こうにもあって、行き当たりばったりの旅でしたがフェリーでベルギーに入ってからドイツを抜けてデンマーク、スウェーデンへ行き帰ってきました。

 

4. ロックスターになる夢と日本への想い

−−結局、18才まで約10年間は海外で過ごされたわけですか?

加藤:フィリピンの6年半を入れると15年以上ですね。イギリスは9年ですから。日本にいたのは2歳半までですので、日本の記憶はあまりなかったです。

−−高校を卒業されてからの進路はどのように考えていたんですか?

加藤:18才のときの夢はロックスターでした。寄宿舎にいるときは、スポーツを一生懸命やり、勉強も適当にやり (笑)、しかし将来何を一番やりたいかと考えたときに「音楽をずっとやっていきたい」と夢に耽っていました。

仲間とのバンド活動は続けていきたいとは思っていたんですが、それと同時に、15年以上も海外で過ごしていたので、今、日本に帰らないと一生帰れないという思いもありました。このままイギリスの大学に進学すれば、二度と日本に帰らないかもしれないし、大学卒業後に帰ったとしても日本の社会では通用しないだろうと。それでバンドのメンバーに「日本へ帰る」と決意表明しました。

−−別に日本に帰らなくてもよかったんじゃないですか?

加藤:そうですね…ルーツを求めたくなるんでしょうね、人間って。

−−ちなみに日本語の語学力はキープできていたんですか?

加藤:問題はそこでした。ずっと寮生活だったので、週末しか日本語を喋らない生活になっていて、私の日本語教育は完全に中学2年くらいで終わり、そこから日本語というものを勉強していませんでした。何とか頑張って日本の小説とか読んでいましたが(笑)、何とか頑張ってですからね。

−−英語の方が楽?

加藤:実際そうなってました。週に一度家に帰ると日本語で喋っていましたが、高校に入ると家にも帰らなくなり・・・(笑)。このままイギリスにいたら、日本語で仕事ができなくなるから、恐らく日本へ帰ることは益々なくなってしまう。それは日本人としてどうなんだろう? それでは駄目だと思いました。

イギリス人って自国に対して大変プライドを持っていて、羨ましく思っていました。自分の国に対してオープンに愛情を示して、しかもそれが右翼的ではなくて、それは本当に余裕のある国の証しだなと思うんです。その姿がすごく羨ましくて「俺も日本人としてプライドを持っているはずだ」と。イギリス人って「私ははイギリス人としてプライドを持っている」と日常的に言うんですよ。そこで「私も日本人としてプライドを持っているぜ」と言い返したとしても、本当は日本のことを何も知らないジレンマがありました。

−−ずっと日本に住んでいる人にはあまりない感覚ですよね。

加藤:完全にコンプレックスだと思います。日本人の顔なのに日本語もろくに喋れない、書けない、日本の事情もよく分かっていない人間が、このままイギリスにいても必ずいつか後悔すると思ったんです。バンドだっていつかできるし、イギリスに帰ってきたければいつでも帰ってこられる。でも、日本に行くのは今しかないと。結局、みんなに後ろ髪引かれながら、日本に帰ってきました。しかも、帰った日が卒業式のパーティーの翌日だったんですよ。みんながはしゃいでいる中、私は一旦家に帰って、タキシードを着替えて、パッキングしておいた荷物を持って家を出たんですが、友だちたちはタキシードのまま空港に見送りに来てくれました。この時は涙がでました。

−−ご家族はイギリスに残られて、単身日本に帰られたわけですね。

加藤:そうです。不思議なのは、3つ下の妹は私と同じ考えはなく、イギリス人と結婚して、未だにイギリスに住んでいます。子供も二人いて、余裕のあるゆったりとした暮らしをしているので、そういう姿を見ると「やっぱりイギリスっていいな・・・」とも思いますね(笑)。

 

5. 15年のブランクを乗り越えて日本語を猛勉強

ユニバーサル ミュージック 加藤公隆 氏

−−そして’91年に意を決して日本に帰国されますね。

加藤:帰国後、帰国子女の予備校に入り、周りもみんな帰国子女で、多くがアメリカ帰りだったためか、アメリカンな英語が飛び交うクラスだったのですが、帰国して1年たったくらいにそのクラスメイトから「公ちゃん、日本語が上手くなったよね」と同じ帰国子女に言われかなりショックだった憶えがあります。帰国直後はよっぽど日本語ができていなかったようです。改めて15年のブランクは大きかったですね。

−−日常会話だけでなく、日本語自体の勉強もされたんですか?

加藤:ええ。日本語の勉強はしました。結果、慶応大学法学部に入ることができたんですが、予備校の先生から「絶対に留年はするなよ」と言われ、その言葉を忘れずに試験前は家に閉じこもって勉強していました。自分は他の学生より日本語が不自由であると自覚していましたし、日本語での理解力も遅い、教科書もほぼ読めない漢字ばかりだったので漢字は形で覚えていきました(笑)。そして試験前はヤマを張って、文章ごと暗記し、それでなんとか専門教科を落とすことなく4年間で無事に卒業できました。

−−それは素晴らしいですね。ちなみにバンドは日本でもやっていたんですか?

加藤:掛け持ちでやっていました。バンドって出会いが重要ですから、いいメンバーとの出会いをひたすら探し求めていました。

−−日本に帰られてから「ロックスターになる夢」はどうなったんですか?

加藤:だんだん薄れていきました(笑)。自分がボーカルをやれるくらいの力があれば、確実に目指していた気がします。徳永英明さんや氷室京介さん、桜井和寿さんのように歌えたなら。でも、自分はベーシストでしたので、もしカリスマ性のあるボーカリストと出会えたら、その人を支えていったかもしれませんね。楽曲を作ることも大変好きで、その頃たくさん曲を作っていました。でも、残念ながらそういう出会いはなかったですが、今こうして、洋楽・邦楽でアーティストを支える仕事に就けていることは大変嬉しく思っています。

−−でも、卒業後は三和銀行(現 三菱東京UFJ銀行)に入行されていますよね。これはなぜですか?

加藤:その頃スノーボードにどっぷりはまっていて、音楽は片手間になっていたのもありますが、そもそも日本に帰ってきたのは、ちゃんと日本の大学へ行って、卒業して、日本で仕事をすることだったので、そこまでは自分できちんとケリをつけたいという思いもありました。

−−新卒でレコード会社に入社するという選択肢はなかったんですか?

加藤:趣味を仕事にすると嫌いになってしまうのではないかという若さゆえのピュアな考えがありました(笑)。今なら「やりたいことをやればいいじゃないか!」と言えるんですが、そのときは真面目に就職をしようと思いました。父親が商社マンだったので「商社がいいな」と思いつつ、漠然と海外勤務ができるような職業に就きたいと思っていました。英語も話せますし「これからは国際人として活躍したい」と。慶応の先輩つながりで三和銀行の先輩方に会ううちに、受かってしまったんですね。結局、商社も受けず、私の就職活動はあっさりと終わりました。

−−で、入行されていかがだったんですか?

加藤:当時、三和銀行は新入行員の99%が寮に入りました。

−−また寮生活ですか(笑)。

加藤:はい(笑)。同期が30人くらい同じ寮にいて、そこでもひたすら勉強させられ、1年くらい経って「これはちょっと違うかも・・・」と思い始めました(笑)。

−− (笑)。

加藤:同僚の方々は一生懸命仕事をしているのに、気合いの問題ではなく私はどうしても力が入らなかったんです(笑)。「これは向いていないのかも」と思って、先輩に「仕事楽しいですか?」と聞いたら、「楽しいというか、俺にはこれしかないからな」って言われた瞬間に、「あっ、自分には音楽がある」と思ったんです。銀行に入ったあともバンドは続けていて、寮に帰っても毎日音楽を聴いていましたし、入行前には9時5時で仕事が終わって、そのあとバンドをやって、いつかそちらで・・・なんて考えていたんですよね(笑)。

−−ものすごく甘い考えですね(笑)。

加藤:甘々な学生の考え方ですね(笑)。そんなことが通用するわけもなく、一年で進路変更の決断をしました。私は、寮生活に慣れているのでどこでも寝られますし、体育会系のノリもなんら問題はないんですが、大変残念なことに仕事自体が向いていなかったんです(笑)。そこから再就職活動となりました。コネもないので、とりあえずレコード会社に履歴書を送りまくりました。

それから半年くらい経って実家からポリグラムという会社から電話があったとの連絡を受け、面談の約束をさせていただき、面談した翌日に職場へ電話がかかってきて「今決めていただかなくても結構なんですが、ぜひ来てください」と言われまして、「今決めます。ありがとうございます」と。

−−即決ですね(笑)。

加藤:はい。それですぐに母親へ電話をし「次決まったので銀行辞めるね」と報告したら「情けない」と言われ(笑)。そしてその場で辞表を書き、自分の直属の上司にそれを渡したのが’98年1月中旬くらいでした。それで寮へ帰ったら今度は寮長に呼び出され、「お前は一生演歌をやる羽目になったらどうするんだ? 全国行脚しなきゃいけなかったらどうするんだ?」と説得されました。でも「全然かまいません。それでもやりたいと思っています」と答えて、辞めさせていただきました。

 

6. 銀行から一転、「頑張れる」音楽業界で充実の日々

−−ポリグラムでは最初何をされたんですか?

加藤:面談の時に「決まったとしても営業ですけどいいですか?」と言われましたが「営業でも何でもやります」と。それで入社が決まり、CDセールスから始めました。

−−その当時の社長は誰だったんですか?

加藤:石坂敬一さんでした。

−−営業の仕事はいかがでしたか?

加藤:毎日楽しかったですね。

−−銀行とは違った?

加藤:全然違います。

−−何がそんなに違うんですか?

加藤:職場で、机の上で音楽が聴けるなんて(笑)。レコード店に行くことが仕事なんて。バイヤーさんと音楽の話ができるなんて。仕事とはいえ、音楽を好きなだけ聴けるなんて。こんな幸せなことはないと思いました。

−−それはさすがに銀行ではできないですよね(笑)。

加藤:はい。私は「こんなに自分に合った仕事はない、これならどんなに嫌なことでも頑張れると思いました。本当に頑張れるというのはこういうことだと(笑)。いまも気持ちは変わりません。
もう楽しくてしょうがなかったです。「新人のコンベンションに営業のスタッフも来てください」と言われて、行ってみるとアーティストが歌っているじゃないですか。「コンサートじゃないぞ、これは」「あっ、業界の人が来ている」「業界の人たちってどんな人たちだろう」と・・・(笑)。毎日刺激を受けていました。

−−すごいミーハーですね(笑)。

加藤:(笑)。ワクワクしながら仕事していました。私はあの時の気持ちをいまでも忘れられません。あと、CDショップに行ってバイヤーの人と「何が好きなんですか?」と音楽の話をして気があったときの喜びとか忘れられないです。「私もこのアーティスト大好きですよ!」「この新人いいですよ!」って。本当に楽しかったです。

−−レコード会社の営業の仕事では、銀行での経験も生きたんじゃないですか?

加藤:大変役に立ちましたね。数字は見慣れていましたから。営業の仕事の一環でお店からのオーダーを毎月集計しなくはならないのですが、ここでも役立ちました。

−−新人らしからぬスピードでやっていたんじゃないですか?

加藤:どうなんでしょう。結局いつもギリギリになって作業していましたから毎月シメ日は徹夜でしたよ。

−−結局、営業の仕事は何年されたんですか?

加藤:1年です。その後、現社長の小池が私を洋楽へ引き抜いてくれました。

−−それは希望を出していたんですか?

加藤:私が入った年の9月くらいに「洋楽プロモーター募集」という社内公募があったんです。私は入社したばかりでしたが、ものは試しということでエントリーしまして、面談もしました。結局、そのときは見送られ、別の方が決まったんですが、翌年1999年1月に公募で洋楽宣伝に決まった方と同じくしてポリドールの洋楽宣伝に異動になりました。

 

7. 34才で洋楽のトップへ大抜擢

 

ユニバーサル ミュージック 加藤公隆 氏

−−それでいよいよ洋楽に来たわけですね。

加藤:毎日ワクワクでした。「ラジオ局に行ってラジオの現場をやれるなんて。プロモーションしているアーティストがスティーヴィー・ワンダーやスティングなんて・・・と、大変充実していました。

−−局担当みたいなことをされていたんですか?

加藤:そうです。初めに担当させていただいたのがNACK5、FM-FUJI、InterFM、そして東北・北海道のラジオ局でした。その後、TOKYO FM、J-WAVE、MTV、WOWOW、スペースシャワーなども担当をさせていただきました。

−−一番洋楽っぽいお仕事ですよね。

加藤:そうですね。2年くらい宣伝マンをやり、それから洋楽編成をやることになりました。編成をやり始めて間もない頃ですが、仕事は一通り経験したつもりだったんですが、今一つ面白くなくなってきたことがあり、それはヒットが出ていなかったからということもあるんですが、一時期「MBAの勉強でもしようかな」と思い始めたこともありました。

−−おお(笑)。

加藤:しかし、勉強を始めた途端にヒットが出始め、仕事がさらに面白くなっていきました(笑)。BON JOVIの担当をさせていただいたり、SUM 41、ジャック・ジョンソンやフーバスタンクが大ヒットするなど、まるで仕事を辞めるなと言わんばかり。不思議な感じもしますが、前だけみてひたすら仕事をしていたのですが、結局勉強どころではなくなってしまい、気付いたらインタースコープ、ポリドールUK、マーキュリーUK、アイランドUKのレーベル・マネージャーになっていました。

レーベル・マネージャー時代はU2、エミネム、ブラック・アイド・ピーズ、ファーギー、プッシー・キャット・ドールズ、グエン・ステファニー、その他数多くの素晴らしいアーティストとお仕事をさせていただきました。

−−それはおいくつのときですか?

加藤:32歳くらいですね。その後34歳の時に全ての洋楽すべてを任され、現職に就きました。

−−すごい出世のスピードですね・・・そのときはどんなお気持ちだったんですか?

加藤:内示を受けたときは本当に椅子から転げ落ちるかと思うくらい驚きました。さらに事の重大さを理解するのにしばらくかかりました。

−−やはり現場担当の頃のお仕事の成果と、海外とのリレーションを期待されての大抜擢だったんでしょうか?

加藤:日々、石坂元会長、小池社長から相当鍛えられたおかげだと思います。ほぼ毎日石坂元会長の鉄拳を喰らいながら厳しく鍛えていただき、逆に小池社長には自由にやらせていただきつつ結果を求められていましたので、どちらもとても自分自身の糧として今に活きています。

−−途中で嫌になりませんでしたか?

加藤:1回も嫌になったことないです。むしろ大変感謝しているくらいです。

−−でも、正直そこまで一足飛びに出世しちゃうと周りからのプレッシャーも強いですよね。

加藤:大変なプレッシャーですが、ある時から私は「自分の役割をきっちりと果たそう!」と思いそれに徹することにしました。大変ありがたいことに今の部門のみんなは日々、力を合わせて頑張ってくれていますし、求められた以上の仕事をしてくれています。

 

8. ヒットを出したときの達成感を味わうために

−−やはり海外に行かれることも多いんですか?

加藤:そうですね。一番多いのはロンドン、ニューヨーク、ロス、本社があるところですね。洋楽周りで行くことが今は多いです。

−−海外で「なぜ日本はCDがまだ売れているんだ?」みたいな話は出ますか?

加藤:そうですね。日本はまだ需要があるため、各社パッケージにこだわって制作をしているというのもありますが、海外は完全にデジタルが当たり前になってきているので、日本もその波がいずれくるとも思われています。海外ではデジタルに関してもの凄い勢いを感じますからね。

−−いわゆるPandoraやspotifyといった新しい動きですか?

加藤:ええ。日本にも確実に来ると思いますし、サブスクリプションは海外では今やスタンダードです。

−−ただ、それに対して日本の動きは正直ちょっと遅すぎるような気がするんですが、日本の音楽業界は具体的にどうしたらいいと思いますか?

加藤:日本のこの現状を変えられるのは、もうカルロス・ゴーンみたいな人が来て、バサッと状況を変えないとなかなか難しいと思います。今すぐ変われば、立ち直り、再び伸びてゆく可能性は多いにあると思います。

−−先延ばしにすればするほど、いわゆるハードランディングになってしまいますよね。

加藤:海外の人が「日本にはspotifyがない」と聞いたら「え?なに?」とびっくりすると思いますし、そういうサービスの考え方が定着していないことにも驚きを感じると思います。もはやヨーロッパやアメリカでも、サブスクリプションサービスは普通の選択肢の一つですから。

−−ユニバーサルはそういった新しいサービスに対しては、どのようなスタンスなのですか?

加藤:本社は積極的に推進していますね。CEOのルシアン・グレンジ氏の最近のメッセージの中に、ユニバーサルはいつまでも変わることなくA&R重視の会社であり、音楽を繁栄させていくテクノロジー、特にデジタルに大変重きを置いていると言っていました。ですからspotifyは立ち上げ当社から一緒にやってきていますし、iTunesはグローバルでは今やNo.1ビジネスパートナーです。

−−そういったサービスからのインカムがすでに柱になっていると。

加藤:実際、柱になってきています。日本は今すぐどうこうできることではないかもしれませんが、少なくともまだCDが売れているときに、その手立てをしていくことが大事だと思っています。

−−CDが売れていると言いましても、ある特定のアーティストが集中して売れているだけで、そこが売れなくなってしまったらどんな数字になるか、想像がつくわけじゃないですか。その割には動きが遅いんじゃないかと思うんですよ。

加藤:確かに遅いかもしれません。国によってはspotifyやサブスクリプションが違法ダウンロードを抑制し、売上も上がってマーケットを支えていたりもしているので一石二鳥になっています。私たちもそっちの方向にも行かないと、次の世代が音楽を聴いたり、入手したりする方法が全部違法になっちゃいますよね。音楽はタダではなくきちんとお金を払っていい音楽を聴く、という感覚を持ってもらうためにもサブスクリプションで「好き放題聞けるんだったらいいよね」という方向に行くべきだと思います。

そういう世界になると音楽が当たり前のようにどこででも流れて、音楽がより身近なものになることが想像できます。しかもネット環境はこれからもどんどん進化して、5年後には私たちが想像する以上の世界が広がっている可能性があるわけじゃないですか。

−−この10年でどんなことになったかを考えればそうですよね。

加藤:ええ。5年後、私たちが想像する以上にきっと色々ネットに繋がっているでしょう。となれば、自分の好きなときに、好きな音楽を好きなだけ聴けるということも簡単に想像でき、音楽業界にとっては再び壮大なチャンス到来なのではないでしょうか?

−−海外ではそういった状況が現実になりつつある?

加藤:はい。例えば私のイギリスの同僚たちは、iPadとspotifyで部屋ごとにプレイリストを作ったりしています。各部屋に置かれたワイヤレス・スピーカーと繋げ、ベッドルームでかけるプレイリストはこれ、ダイニングではこれといったように。しかもすべてそれが指先で操作できてしまうんです。

−−それは便利ですね。

加藤:もちろんどうしてもパッケージで聴きたい場合はCD、また音質にこだわる場合はSACDやSHM-CDなどを買えばいいわけですし、選択肢がより増えていくことが想像されます。しかも選択肢が増えるということは、それだけ音楽に触れる機会が増えるわけですから、音楽業界にとっては絶対チャンスなんです。

−−最後になりますが、ユニバーサルの洋楽リーダーとして、今後の目標はなんでしょうか?

加藤:洋楽のみならず「ヒットを出し続ける」ということです。ヒットを出さないと何も面白くありません。日々、みんなでヒットを出すために多大なる労力と時間とお金をつぎ込んで、それがヒットに繋がらなかったら、何の見返りもなければ、何の喜びもなく、誰にも褒められないわけです。ですから、みんなでヒットを出したときの喜びと達成感を味わうために、愛情と情熱を持っていかにヒットを出すかを徹底的に追及していきたいと思っています。

−−やはりヒットを出すことが音楽ビジネスの醍醐味ですよね。

加藤:ええ。ですから、今はみんなが少しでもヒットを出せるよう環境作りを常に心掛けています。部署に50人以上もいますと、常にどこかで障害や弊害、事故が生じています。対媒体、対事務所、対アーティスト、部内、社内と絶え間なく何かが起きています。グッド・ニュース、バッド・ニュース共に。一生懸命働いていれば、当然のことだとも思います。そういう毎日の中で少しでも業務がスムーズに流れるようにどうすればよいか、常に考えていますし、とにかくみんなが働きやすく、やり甲斐を感じてもらえるような環境作りを心掛けています。

−−現場にいる方々にはどのようなアドバイスをされているんですか?

加藤:「ウチは言われたことをやるだけの部署ではない」と言っていますね。自分たちで考えて自分たちでヒットを出すという気持ちを常に心掛けてほしいと思っています。そのために何をすべきか。いつもと同じではなく、何か変わったことはできないか?失敗してもいい、チャンスがあると思ったら絶対掴んで欲しいですし、それを私は全力でサポートしていこうと思っています。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。加藤さんのご活躍とユニバーサルミュージックの益々のご発展をお祈りしております。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 海外に長く滞在されたそのご経歴やそのヴィジュアルから、一見スマートな印象の加藤さんですが、お話を伺っていくと、ご自身でもおっしゃていたように多分に体育会的かつ逞しさすら感じさせる方でした。また、音楽業界に転身されて「どんなに嫌なことでも頑張れる」と思ったほどの音楽好き、そして海外生活で培われた国際感覚と語学力、海外への視野、そして変化への柔軟な姿勢など、なぜこの若さで加藤さんが洋楽のトップに抜擢されたのか、納得させられました。加藤さんの動向に今後も注目です。