第111回 森田 太 氏 TOKYO FM 編成制作局 局次長 兼 編成制作部長 兼 SCHOOL OF LOCK!総合プロデューサー
TOKYO FM 編成制作局 局次長 兼 編成制作部長 兼 統合メディア室 室次長 兼 SCHOOL OF LOCK!総合プロデューサー
今回の「Musicman’s RELAY」は、ワーナー・ミュージックジャパン鈴木竜馬さんからのご紹介で、TOKYO FM 編成制作局 局次長 兼 編成制作部長 兼 統合メディア室 室次長 兼 SCHOOL OF LOCK!総合プロデューサー森田 太さんのご登場です。あらゆることに多感過ぎた森田少年は、ある出来事をきっかけに解き放たれ、その先にラジオがありました。TOKYO FMに入社されてからは、ジャパニーズヒップホップ界の伝説的な草分け番組「ヒップホップナイトフライト」や「やまだひさしのラジアンリミテッド」など数々のヒット番組を手掛け、近年は全国の中高生に絶大な人気を誇る人気番組「SCHOOL OF LOCK!」でネットとラジオを有機的に融合させるなど、常に革新的な番組を作られてきました。今回のインタビューでは森田さんの少年時代から、手掛けられた番組に込められた思いまで、お話を伺いました。
プロフィール
森田 太(もりた・ふとし)
TOKYO FM 編成制作局 局次長 兼 編成制作部長 兼 統合メディア室 室次長 兼 SCHOOL OF LOCK!総合プロデューサー
早稲田大学卒業後1992年4月にTOKYO FM入社。95年にジャパニーズヒップホップ界の伝説的な草分け番組「ヒップホップナイトフライト」を立ち上げた後、99年には同局の番組「やまだひさしのラジアンリミテッド」をスタート。「福山雅治のSUZUKI TALKING FM」」「MOTHER MUSIC RECORDS」小林武史氏とのコラボレーションによる「ap bank Radio」
箭内道彦氏のラジオ「風とロック」等、数々の話題性ある番組の立ち上げに着手。そして近年では、全国の中高生に絶大な人気を誇る人気番組「SCHOOL OF LOCK!」を立ち上げる。同番組は、低迷するラジオ市場に於いて革新的、かつ賞賛を持って迎えられている。(07年度放送文化大賞グランプリ受賞)また、「SCHOOL OF LOCK!」から派生した10代限定の夏フェス『閃光ライオット』には、数多くの中高生が集まり、また「ガリレオガリレイ」「ねごと」「オカモトズ」「サラバーズ」「渋沢葉」等多くの新人アーティストを排出。ラジオの枠を超えて若者と共に熱いコミュニケーションを行っており、ラジオというメディアを用いて全国の若者を扇動する立役者である。
- 「6個目の部屋」を持つ少年
- 「やりたくないもの」ではなかったのが、ラジオだけだった
- 「お前はこの業界とラジオを変えるから絶対に入れ」〜TOKYO FM入社秘話
- 様々なアーティストが入り乱れた「ヒップホップナイトフライト」
- 「ラジオが先か、リスナーが先か」〜双方向で10代が繋がる『SCHOOL OF LOCK!』
- 「SCHOOL OF LOCK!」は未来の鍵を握る学校
- 「選択肢を広げる」ことが音楽を発信する人の使命
1. 「6個目の部屋」を持つ少年
−−前回ご登場いただきましたワーナーミュージックジャパンの鈴木竜馬さんとはどのようなご関係なんですか?
森田:鈴木竜馬君は大人になってできた親友というか戦友ですね。僕たちは同い年なんですが、公私ともに仲良くさせてもらっています。彼とはリップスライムがデビューしたときに出会いましたから、もう13年になりますね。
−−リップスライムはもう13年になるんですね。
森田:リップスライム自体はもっと古いですね。最初は三人組でしたから。もう95年くらいにはいましたね。事務所に入って、ワーナーと契約したのが99年とか? それくらいだと思いますね。
−−大人になってからはなかなか本当に仲のいい友達はできにくいですから、鈴木さんは貴重な存在ですね。
森田:本当にそうですね。彼からはいつも刺激を受けていますね。
−−ここからは森田さんご自身について伺いたいのですが、お生まれはどちらですか?
森田:千葉の船橋です。まだ幕張メッセやマリンスタジアムが建つ前の埋め立て地が遊び場でした。埋め立て地生まれ、埋め立て地育ちという故郷のない人間なので、田舎のある人たちが本当にうらやましいです。自分たちの住んでいるところが、パワーショベルで人が作った土地だということを、小学校3年生の授業で初めて知ったんですよ。その授業があった日の帰り道のことは、今でも覚えていますね。なんだかいいしれない感情になって・・・「嘘だったんだ」という、人生で初めて裏切られた気持ちを味わったときですね(笑)。
−−そういう感情になるものなんですか・・・。森田さんはどんなお子さんだったんですか?
森田:わかりやすく言えば、廊下に出されて、教室では授業を受けさせてもらえないような暴れ者でした(笑)。
−−(笑)。それは肉体で暴れたんですか? それとも口で暴れたんですか?
森田:口です。今でも覚えているのは、算数の授業で初めて”x”が出てきたんですよ。例えば、「2+x=5」でxが「3」だと先生は言うんですけど、「はい!はい!はい!」って大きな声で手を挙げて「xってなんですか?」と聞いたら、先生が、「xはxで、?(はてな)ということです」と言うんですよ。そこで僕は「でも誰かがxって選んだんでしょ? なんのxなの?」って全然授業が進まないんですよ(笑)。
−−正常な好奇心があればそう思うかもしれないですね。
森田:「なんでxにしたのか。xにした意味がわからない」と、「xが3の前にそれを知りたい」とか言っていましたね。あのときは、すぐそのまま廊下に出されたのですごく覚えているんですけど(笑)。
−−授業の邪魔をするなと(笑)。
森田:そうです。とにかく理科でも社会でも何でも質問していました。通信簿に「なんで どうして坊や」と書かれたんですけど、「なんで どうして」をすごく言っている子供でしたね。
−−でも、それは何の疑問も持たない子供よりは賢いってことですよね。
森田:どうなんでしょうね(笑)。あと、僕はちょっと不安性で、なにかいい知れぬ不安に襲われていて毎日泣いているような子供でした。一番覚えているのは、その夜の夕飯がハンバーグだったんですが、食べたらなくなっちゃうじゃないですか? それで、「お父さんもお母さんもなくなっちゃうの? 僕もなくなっちゃうの?」と聞いたら「なくなっちゃうよ」と言われて、世の中なくなっちゃうものだらけなんだなと思ったんですよ。
それで、学研のおばさんが持ってきてくれる本に「宇宙のひみつ」という本があって、そこには「宇宙は無限で果てなく続く」と書かれていて、でも僕らには果てが有る。果てのない宇宙の中に、果てのある僕らがいて、もう、どっちがどっちかわからなくなって、気持ち悪くなって本当に吐いてしまったんです(笑)。今でも宇宙の果てを考えると怖くなるんですが、当時も気がおかしくなりそうだったんですよ。「どっちが本当の世界なんだろう?」と。それくらいから色んなことが不安になっちゃったんですよね。「僕らが生きているこの世は何なのか」とか、「命とはなんなのか」とか考えるようになって、あまりにもそんな話ばかりしているので、「一回話を聞いてもらいに行っておいでよ」という感じで千葉大学病院の精神科の先生と話したこともありました(笑)。
−−感受性が強いお子さんだったんですね。
森田:あ、あと僕と姉はいわゆる霊感的なのも強くて、でも親は霊感みたいなものを信じないんですけど、やたら姉と僕が「あれは怖かったね。危なかったね」と言っているので、若干心配してましたね。それで病院に行ったら、相手も子供ですし、向こうの先生も楽しくわかりやすく教えてくれて、「人は5個の部屋があって、それぞれ見る、聞く、触れる、嗅ぐ、味わうなんだけど、普通の人にはない6個目の部屋が君にはあって、いろいろ不安になったり、幽霊が見えたりする。でも、もう少し大きくなると、その6個目の部屋は閉まるから、それまでの辛抱だよ。心配ないよ」と言ってくれて、「そうなのか〜」と思って(笑)。
−−まさにシックスセンスですね。
森田: とにかく色々なことに敏感だったんですよね。でも、14歳くらいに生まれて初めて打ち上げ花火をおばあちゃん家の2階から見たときにすごく泣いちゃって、おばあちゃんに「花火がキレイで泣いている」と思われるのが恥ずかしくて、なぜ僕が今泣いているかをおばあちゃんに説明したんですね。
−−なぜ泣かれたんですか?
森田:打ち上がった花火はすぐに消えてしまうけど、目を閉じたらまぶたに花火がいるんですよ。今もいるんですけど。つまり「なくなるけど、ずっと残るものもある」、「有限のもの達が一つずつ連なって、繋いでいって無限を創って行く」ということを花火が気づかせてくれたんです。僕らが「花がキレイだよ」とか「花火がキレイだよ」と、子供とか孫に伝えていけば、それは繋がっていくんだなと、有限と無限はセットで、「永遠」ってやつになるんだと、そこで色々整理できたんですよ(笑)。
2. 「やりたくないもの」ではなかったのが、ラジオだけだった
−−そういうことを一生考えない人がほとんどでしょうから、森田さんは一風変わった少年だったんでしょうね。
森田:そうかもしれないですね。それで花火に感動して「花火師になろう!」と、浅草の古着屋さんで花火師さんが着ているような法被を買って、「バイトで雇って下さい!」とお願いしたんですけど、30年以上前の下町なのでガラが悪くて、「ふざけるな! 帰れ、帰れ!」と追い返されました(笑)。「生命保険も入れない奴に花火師のバイトなんてできねえ」と言われて(笑)。それで「大人になるまで待とう」と思っていたんですが、そうこうしているうちに花火に代わるものに出会うんですよ。
−−それは何だったんですか?
森田:17才のときに人生で初めて女の子に告白したんですよ。文化祭の帰り道に。今はIKEAが建っているんですが、船橋港のあたりの公園で、そこに自転車を止めて告白してフラれたんです(笑)。そのときに女の子が「ありがとう。一生忘れないからね」と言ってくれたんですよ。「好きです」という言葉はすぐに消えてしまうけど、それは一生覚えていてもらえるんだったら、僕が観た花火と全く同じだなと、「今、口から花火、打ち上げたんだ俺!」と、そのとき思ったんですね。
「好きです」という言葉は音と想いでできていて、一瞬で消えてしまうんだけど、人に一生忘れられないものを届けられるんだったら、わざわざ花火師にならなくてもいいじゃないか、こいつはすごい宝物を発見したと思いました。でも、相手はキョトンですよね。フッたのにすごく喜んでいて、「何だ、この人?」みたいな(笑)。どうでもいい話ですが、その奇妙さが刺さったのか、その後、その子とは8年くらい付き合いました。
−−結局付き合えたんですね(笑)。
森田:はい(笑)。そこで「この地球で、音と言葉でできているものってなんだろう?」と考えて、浮かんだのが音楽で、「だから僕は音楽が好きなんだな」と納得しました。
−−もうその頃は音楽好きだったんですね。
森田:異常に好きでしたね。隣に住んでいる叔父さんが星光堂で働いていたので、一杯サンプルのアナログレコードが家にあって、それを聴いていたせいだと思っていたんですが、本当の理由がわかったような気がして。で、音楽を送り出すのはミュージシャンか、レコードを作っている人たちか、もう一つ浮かんだのがラジオ局だったんですよ。
音楽とラジオが世の中に音と言葉を出している。当時はその二つだけだったんですよ。ですから、将来、音楽を玉に詰めて花火のように発射するラジオの仕事に行くんだろうなと思っていました。音楽を主体で考えていたので、AMラジオは考えていなくて、僕、森田太(もりた ふとし)のイニシャルってFMなんですよ。で、FMラジオなんだろうなと(笑)。しかも僕って’69年に開局したTOKYO FMと同い年なんですね。同い年だし、FMだし、TOKYO FMでラジオの仕事をするんだろうな、と思っていました。
−−へ−、すごいですね!
森田:僕はみんながやるような就職活動もしていませんし、いわゆる「マスメディア志望」でもないですし、8才くらいから脈々と繋がる僕自身の、大げさに言うと哲学的整合性でラジオに辿り着いているんですよ。
−−そんな話、聞いたことないですよ(笑)。実際にラジオは聴かれていたんですか?
森田:もう毎日聴いていました。「FM Station」という雑誌で番組をチェックして、カセットに録音して聴いていました。僕はAMラジオってほとんど聴いたことがなくて、ラジオの世界に入って、みんな「オールナイトニッポン」だとか、そういった話をするんですが、全然ついていけないくらいAMは全く通っていないんですよね。
あと、小さい頃からよく遊んでくれた4歳年上の隣のお兄さんが、今はとんでもないビッグなカメラマンになってしまったんですが、NYでカメラマンをやっていたので、NYのFMをダビングしたカセットを送ってくれたんですよ。で、それもよく聴いていたので、海外のFM局のスピード感ある放送も原点としてあります。
−−ちなみにその頃はどんなアーティストがお好きでしたか?
森田:一番好きだったのがエイジアとかですかね(笑)。あと邦楽ですけどYMOには衝撃を受けましたね。子供だったので激しいのも好きで、ハードロック、ゲイリー・ムーアやヴァンデンバーグ、デフ・レパードも好きで、そこから、すぐ80’sブームになって、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、マイケル・ジャクソンが好きになって、MTVとベストヒットUSAが二大大好き番組になりました。
当時、お母さんしかいない同級生がいて、お母さんは夜の仕事に行っていなかったので、その家がたまり場になっていて、近所の子11人くらい土日はいつもそこにいました。こたつを三個くらい作って、覚えたての麻雀をしているような悪い中学生だったんですが、MTVかベストヒットUSAが始まると全員でTVにかぶりつく感じでしたね。
−−不良なんだか、音楽好きなんだかわからないですね(笑)。
森田:そうですね(笑)。不良ではなかったと思うんですよね。「明るいワルガキたち」という感じですかね。
−−そして、17才にしてTOKYO FMに照準を定めたと。
森田:漠然とですけどね。これは今でも後輩とかに言うんですが、僕は別にやりたいことがあったわけじゃなくて、やりたくないことが人より多くあっただけなんですよ。圧倒的にやりたくなかったことが、ハッキリとあって。
−−それはネクタイ締めて会社に行きたくないとか、そういったことですか?
森田:それもありますし、数字が苦手なので、技術系も無理だし、お金数えるのも苦手だし・・・と考えていったらラジオしかなかったんですよね。消去法で残ったたった一つのものがラジオという(笑)。ですから、夢を叶えたなんておこがましいですよ、といつも言うんです。唯一、やりたくないものではなかったのがラジオだったんですよ。
3. 「お前はこの業界とラジオを変えるから絶対に入れ」〜TOKYO FM入社秘話
−−就職活動でTOKYO FM以外、受けてもいないんですか?
森田:お姉ちゃんの彼氏が博報堂で、家庭教師もしてくれた先輩がアサツーだったんですよ。その影響で、大学生時代に広告代理店でもバイトしていて、博報堂とアサツーは面接を受けました。でも、両方とも志望動機が「ラジオCMを作りたい」ということだったので、面接官の人に「他に受けている会社がTOKYO FMで、ラジオCM作りたいってさ、ラジオに行きたいんでしょ?」と言われて(笑)。
−−そりゃそうですよね(笑)。
森田:「あ、はい」と言ったら「そっち行きなよ」と。「ですよね〜」という感じで、2つは1次面接で辞退しました。ですから、まともに就職活動したのはTOKYO FMだけですね。
−−TOKYO FMってそんなに毎年定期採用をしていなかったですよね?
森田:そうですね。僕の5年前くらいから一般職採用が始まったらしいんですよ。それより前はコネ入社しかなかったと聞いてます。それで僕の代でも採用は何千人に1人という感じでした。当時テレビもラジオも先にアナウンサーの試験があって、一般職はその後にやるという流れだったのですが、僕は就職課にも全然行っていなかったので、そのルール、知らなくて。それで就職求人誌でTOKYO FMを見たら、試験の日が載っていたので、応募したんですが、募集要項に「自己PRをカセットテープに声で吹き込んで送れ」と書いてあったんですね。僕の中でFM局って、ドナルド・フェイゲン「ナイトフライト」のジャケットのイメージだったので・・・来た!これだ!って(笑)。
−−クールなイメージですね(笑)。
森田:ああいう格好良い人が、小さな部屋のターンテーブルの前で、タバコ吸いながらマイクで喋っている人たちしかいないと。だから、カセットテープでも何でも任せろという感じで、自分で作った曲を入れて。
−−DJになっていた(笑)。
森田:そうです(笑)。自分で作った曲を吹き込んで送ったんですよ。
−−えらい勘違いですね(笑)。
森田:それで初めてTOKYO FMへ行ったら、ものすごく大きなビルで「あれ?なんだこれ?」と思って(笑)。色んな課に分かれているし、人もたくさんいると。それでアナウンサーの試験だと気づいたのは、試験が始まる数日前でした。実はカセットテープが通る人って少ないんですが、折角呼ばれたからいいやと思って受けたら、結局そのアナウンサー試験で最終面接まで行ったんですよ。
−−最終まで残ったんですか? すごいですね。
森田:でも、僕だけニュース読みとか、アナウンサーの試験がだんだん割愛されていって。それに気づいたのが3次面接くらいなので「おかしいな?」と。僕だけ「モノマネしてよ」とか、向こうのスピーカーから飛んでくるオーダーが他の人と違うんですよ。結局、僕のことをアナウンサーで採る気はさらさらなくて、最終面接のときに「ごめん」と謝られて、「アナウンサーとしてはとっくに落ちていた」と(笑)。それで「一般職を受けてくれない? 制作という番組を作る部署があるんだけど、そっちをやらない?」と言われました。
−−もともとそのつもりだったのに(笑)。
森田:はい(笑)。一般職の試験は1ヶ月後にあるから、そっちへもう一回履歴書出し直してと言われていたんですが、なんかアナウンサーの試験をあそこまで行って、もう落ちたということはダメなんじゃないかと思ったんですよ。それでロックバーみたいなところへ行って、先ほどお話したカメラマンのお兄ちゃんが帰国していたので相談したんですよ。「カメラの仕事、俺も手伝うから大学出たらニューヨークへ一緒に連れてって」と。そうしたら「ニューヨークへはいつでも来られるから、日本でやれるところまでやってから来いよ」と言われまして・・・。
−−その言葉に引き留められたんですね。
森田:そうですね。でも、少しヤケになっていたこともあって、TOKYO FMの一般職の試験日程を注意深くチェックしていなくて、一般職の試験最終日に友だちと車でドライブしていたんですよ。それでTOKYO FMの前を通ったときにその友だちが「東京面接会場って書いてあるじゃん。受けるって言ってなかったっけ?」と言うので、「もういいかなーと思って」と答えたら、「行くだけ、行ってこいよ」と言われて見たら最終日(笑)。本当にマンガみたいな話ですけど、僕だけ車を降りて、会場に行ったら誰もいなくて、係の人が1人で椅子を片付けていたんですよ。
−−それは本当にギリギリのタイミングですね・・・。
森田:はい。実はその椅子を片付けていた人が僕に「一般職を受けろ」と言った人だったんですよ。それで声を掛けたら、「あっ、来た来た来た!お前何していたんだよ!」とか言われて。
−−(笑)。
森田:「来ねえと思っていたよ」と言って椅子を下ろして、誰もいないホールで2人並んで、最初の1次面接させてもらったんですよね。
−−私服のままフラッと入っていったんですか?
森田:そうです。私服で入って、その場で履歴書を書いて、小論文も書いて。「特別だからな」と言われて(笑)。これは本当に言われた言葉なので、身の程知らずに言いますが、「お前は絶対にこの業界とラジオを変えるから絶対に入れ。ラジオ以外へ行っちゃダメだ」と言われました。そこからは自力で入りましたね。
−−入るまでのエピソードがすごいですね。履歴書片手に何十社も回っている人たちに申し訳ないですね(笑)。
森田:そうですね・・・よく大学の学生たちに「夢がなくて当然で、夢を持っている奴なんて1万人に1人だから、毎日必死にやりたくないことだけノートに書いてください。それで残ったものが夢です」と言うんですよ(笑)。
−−消去法ですね(笑)。
森田:生まれた意味とか人生も全部後付けでいいし、大体夢も後付けですからね。と。
4. 様々なアーティストが入り乱れた「ヒップホップナイトフライト」
−−TOKYO FMに入社されてみて、いかがでしたか?
森田:週5日で家に帰ったのは1日くらいしかなかったですね。当然1年目のぺーぺーですし、昔の人は今みたいにやさしくなくて、体育会的な厳しさもあり、まさに丁稚奉公で、怖い先輩たちの言いつけを守っていたら家に帰れなくなってしまっただけなんですよね(笑)。でも、全然苦じゃなかったです。馬車馬のように働いていて・・・本当に楽しかったですね。
−−そして’95年に「ヒップホップナイトフライト」を手掛けられますね。
森田:実はRHYMESTERの宇多丸くんが大学の同級生で、1個下にMummy-Dくんがいたんですが、僕が入社した1年目にMummy-DくんがOB訪問に来たんですよ。そこで「君らの曲最高なんだから、TOKYO FMに入らなくていいよ。ラップ続けなよ。」と、僕が追い返したんですよ(笑)。
−−才能あるんだから会社員になる必要ないと(笑)。
森田:TOKYO FMなんて全然入る必要ないと。逆に「いつかヒップホップの番組を一緒にやろう。」と言いました。それから3年経って彼らがすごく良いアルバムを作って、ファイルレコードからリリースすることになったんですよ。それをきっかけに、日本のヒップホップの番組をやろうと思ったんです。そのとき25歳くらいだったと思うんですが、若造がよく分からない日本語のヒップホップの番組をやりたいと言っても、当然企画が通るわけがないんですが、当時編成局長をやっていた人が講談社から来た佐藤勝也さんだったんですよ(笑)。
−−過去にこのリレーインタビューでお話を伺ったことがあります。
森田:とにかく面白い方だったんですよ。まあ破天荒で、粋なとっぽい方で、僕みたいな子どもがそんなことを言っているのを面白がってくれたんですよ。ただ立場上、そんなタイムテーブルでスポンサーがつくはずもない、しかもよく分からない「ヘイヘイ ヨーヨー」みたいなことを言っている音楽で、企画が頓挫していたんですが、こっそり佐藤さんが手を伸ばしてくれて、雑誌社の繋がりで、あの“オヤジギャル”で有名な故 中尊寺ゆつこさんを紹介してくれたんですね。それで中尊寺さんの名前を使えば番組として大義名分が立つんじゃないか?と、「中尊寺ゆつこのヒップホップナイトフライト」という名前の企画を立ててくれたんですよ。
中尊寺ゆつこさんは当時ニューヨークに住んでいたんですが、ヒップホップにはまっていて、BUDDHA BRANDやYOU THE ROCKを紹介してくれて、そこにRHYMESTERや、キングギドたちをドッキングさせて、日曜日夜中の2時から朝の5時までの放送休止枠でヒップホップの番組をスタートするんですね。
当時「DA.YO.NE」が売れて、スチャダラパーはちょっと前から全然違うサブカルシーンの雄で、ジャパニーズ・ヒップホップシーンなんて世の中はそのくらいの認知しかなかったんですが、もう1つのシーンができはじめたんですよ。エイベックスがcutting edgeというレーベルを起ち上げ、ファイルレコードが頑張ってくれて。それでその月1回の番組を楽しみにしてくれる人が増え、渋谷で一大ブームみたいになっていくんですね。RIP SLYMEとか、KICK THE CAN CREWになる前のKREVAくんたちとか、みんなその渦の中にいたんですよ。第一回目のデモテープ募集で、送ってきたのがケツメイシだったり。
−−そうだったんですか。
森田:本当に黎明期ですね。そこからDJも育っていきましたしね。そういう番組を作ったんですが、当然予算がなかったんですよ。ですから、僕はみんなに1回5,000円みたいな感じで、自腹で払っていました
−−ギャラを自腹で払っていたんですか?
森田:はい。後半何回かは会社が出してくれましたけど。それで、番組のカセットテープがダビングされて、渋谷の色んなヒップホップショップで売られたり、完全な違法行為が始まって・・・私以外の人たちが勝手に商売し始めていくと(笑)。
−−(笑)。
森田:本当に面白いですよ。今でも、この世界で仕事していると「ヒップホップナイトフライト」を聴いていたという人に出会いますしね。レコード会社で、プロモーターの方に挨拶されたときに、必ず最初に言われるくらいですよ。「『ヒップホップナイトフライト』聴いていました」と。番組を宣伝する手段もないので、渋谷のマンハッタンレコードとか、今はないですけどCISCOとか、レコード店を中心に、中尊寺さんの絵で作ったフライヤーをわーっと配るんですよ。それがもう一瞬でなくなりました。今みたいにTwitterも何もないので、フライヤーが人手に渡って、話題になってみんな聴いてくれるという感じでしたね。
−−その後はどのような番組を作られたんですか?
森田:‘99年に「ラジアンリミテッド」という10代向けの番組を作りました。それまで若者向けの番組は深夜の「オールナイトニッポン」だったんですが、それをぶち壊した番組という風に言われていて、すごくうるさい、激しい、やかましい番組なんですよ(笑)。「ラジアンリミテッド」というのは英語で書くと“Radio Unlimited”。ラジオというのは無限で、限界がないんだよ、ということなんです。想像力の世界は永遠に続くし、ラジオの想像力は火星も行けるし、深海も行けるし、効果音1つでどこへでも行ける素敵なメディアだよという意味なんです。
−−時間帯はやっぱり深夜なんですか?
森田:夜10時ですね。TOKYO FMって夜10時から全国ネットになるんですよ。平日夜10時以降は、全国フルネットでやるんですね。そこが昔はずっと「サウンドマーケット」とか、大人向けの番組だったんですが、近年は大人が夜の10時に家に帰ってラジオを聴くという文化が薄れて、リスナーが子どもとか受験生になっていくんですよ。それでAM放送は先に10代にシフトさせたんですが、TOKYO FMは「赤坂泰彦のミリオンナイツ」という深夜の人気番組を築いたんです。それで赤坂さんの番組が6年くらいで終了して、その後にこの番組を作ったんです。
−−赤坂さんの後番組だったんですね。
森田:その後、やまだひさしくんという無名のタレントだった男の子が「もう売れないから北海道へ帰る」というところを、首根っこ捕まえて「絶対、成功させるから」と言って、番組をやらせたんですよ。
−−やまだひさしさんとは、どこで知り合ったんですか?
森田:僕の同級生に中曽根くんという男がいまして、今はシャララカンパニーという制作会社の社長をやっているんですよ。中曽根くんとはずっと相棒で、色んなことをずっと二人でやってきたんですよ。それで彼がbayfmの仕事をしていたときに、bayfmでやまだくんがちょっと喋っていたんですよ。それで中曽根くんが「ヤバイのがいる」と (笑)。トーク力がすごいので、彼を使おうと言って、それで企画書を出して、当時まだ無名だったリリー・フランキーさんにやまだくんのイラストを描いてもらったんですが、マイクがチ○ポだったのでモザイク入れたんですよ。リリーさんちょっと勘弁してくださいよ、みたいな(笑)。アー写にするんですからこれ、と(笑)。結局そのまま使いましたけど。
−−酷い(笑)。
森田:それで、10代向けの番組を彼で始めたら大ヒットして、レーティングとか、半年で「オールナイトニッポン」を抜いちゃったんですよ。L’Arc-en-Cielとか、ちょうど人気が爆発した頃で、彼らのレギュラーコーナーを番組に入れ込んだんですが、彼らの人気のあやかりもあって、わーっと膨れあがっていきました。
僕がそのときテーマにしていたのが、ボトムとエッジの融合というか、アンダーカルチャーなものとメジャーなものとの融合をテーマにしていて、インディーズパンクシーンの、Hi-STANDARDみたいなシーンの人たちがいっぱいゲストに来るんですが、横のコーナーはL’Arc-en-Cielとかモーニング娘。、嵐だったりと、アンダーグラウンドと大メジャーなものをミックスして届ける番組でした。あと、BGMが1分間に3回くらい変わるような早い展開でやる、ニューヨークのFMっぽいスタイルでしたね。
−−ニューヨークのFMを聴いてきたからこそ、ですね。
森田:そうですね。当時、スタジオに鍵盤を並べて、「ビヨヨヨヨ〜ン」とか「ボーン」とか「ブー」とか効果音を自分で入れていました。そんなことをやるディレクターなんて当時はあまりいなかったですしね。あと、CDも全部自分で出すので。
−−ディレクションだけじゃなくて、効果音まで自分でされていたんですか。
森田:昔はそうです。僕は原稿も自分で書きますし、音効も選曲も自分です。お金があれば構成作家やADを雇うんですが、お金がない、予算がないと全部自分でやるわけです(笑)。TOKYO FMの文化って、ディレクター、音出し、全部自分なんですね。僕は他の人に触らせるのがイヤなので、もう全部自分でやってました。
5. 「ラジオが先か、リスナーが先か」〜双方向で10代が繋がる『SCHOOL OF LOCK!』
−−そして、「SCHOOL OF LOCK!」を起ち上げるわけですよね。これが2005年の5月ですね。
森田:はい。「SCHOOL OF LOCK!」はラジオ業界的にも転換期だと人は言っていますが、自分の人生も含めて転換期ですね。
−−「SCHOOL OF LOCK!」はどういう経緯で企画されたんでしょうか?
森田:ラジオって、例えばリスナーがハガキを出して、DJがハガキを読んでみたいな、マンツーマンのメディアで、それは今でもそうなんですけど、その感じにすごく違和感を覚え始めていたんですよ。
そこでふと気付いたんですが、自分が小さい頃から今まで全部「メディアが最初」だったなと思ったんです。メディアが情報を最初に発表する。そこで初めて知る。ラジオにハガキを書いて出したとしても、ラジオで読まれることで、出した人がラジオで読まれたことを知るという。つまり読まれた内容を知るのは絶対にメディアからという、この情報の一方通行が、これからは双方向通行になるんじゃないかと思っていたんですよ。
ラジオを放送するからリスナーがいる。いや、リスナーがいるから放送をしている、そのどちらが先なのか分からなくなるような感覚を、まんまメディアのシステムにしたら面白いし、絶対にこれからそうなっていくんだろうなと。つまり、ラジオよりも先に、今日の企画やネタをリスナーが知っていて、それでリスナーが盛り上がっていることをそのままラジオの企画にして、その放送でまたリスナーが盛り上がってという、そういうキッカケの循環が面白いなと。実はこれを考えている作業は世田谷公園で行われたんですけどね(笑)。
−−公園でそんなことを考えていたんですか?(笑)
森田:世田谷公園に3日間泊まっていたんですよ。夏だったので家に帰らず、車の中で寝て(笑)。
−−家に帰らない。
森田:帰らなかったですね。この概念が落ち着くまで帰れなかったです。それで10代の番組をやりたいという想いがあったので、色んな10代を考えようと。10代と一口に言っても色々だし、ギャル、バンドマン、高校球児、東大目指すガリ勉、真面目な奴、暗い奴、いじめられっ子、いじめっ子、オシャレが好きな奴と、考えてみたらグチャグチャじゃないですか? どんな10代ってターゲットを絞るのが一番難しいなって思ったんですが、たった1ヶ所だけそいつらが一堂に会す場所があって、それが「教室」だったんですよ。教室は色んな奴らが一ヶ所に集められている。だから「教室でやろう」と思いました。それで教室って生徒たちがワーワー話す場所じゃないですか。ということは話すものが必要で、それはケータイだなと思いました。
−−その頃には高校生にもケータイが普及しだしていたんですね。
森田:そうですね。まだガラケーでしたけど、高校生のほとんどが持っていたんですね。それでみんなケータイでmixiとかSNSのはしりをやり始めていたんですが、彼らが持っているケータイの中に、みんなが繋がる場所がある。それでブルーハーツの「未来は僕らの手の中」という歌が頭で鳴って、まさに「君の握っている手の中から、君の未来が始まるんだ」という言葉や想いが浮かびました。なので番組の携帯サイトの中に、「掲示板」を作って、リスナーたちみんなが投稿して色んな話ができるようにしようと、BBSの運営するようにしたんです。すると24時間、リスナーみんながそこで語り合い、みんなが横に繋がり始めたんですね。放送以外の時間にワンサカ交わされているリスナーの話題から、番組企画を作ろうと。
つまり、クラスのみんながガヤガヤしている教室に、夜10時になると先生たちが入ってくる。そして、先生が「さっきまで何を話していたのか、もう知っているぞ」と。「サクラちゃんが恋したって話だろ」とか「ヨシタケが東大落ちて挫折したって話だろ」とかって言う。でも、とっくにその話はリスナー同士で掲示板上で目にしているので、私たちメディアの方が遅いんですよ。それでその生徒と電話を繋いで、本当に泣いているサクラちゃんと電話で話す。サクラちゃんの悩みは昼間の内にみんなが知っているので、泣いているサクラちゃんを親身に応援するみたいな。
今まで散々「インターネットとラジオの融合」と言われていたんですけど、結局、言葉だけだったんですよ。でも「SCHOOL OF LOCK!」は初めてそれを有機物に変えたというか、僕たちがこの番組の中で生まれた事件や話題を元に、また書き込みがされるので、循環するんですよね。今の「SCHOOL OF LOCK!」という番組は、“鶏が先か、卵が先か”、もはや分からないんですよ。僕たちが企画しているのか、リスナーが企画しているのか、分からなくなっていくようなものを作っていったんですね。
−−番組を始める前にサイトを起ち上げたんですか?
森田:同時ですね。「SCHOOL OF LOCK!」はネット文化をどう使うか?というアンチテーゼであり、メッセージなんです。それを何で思ったかというと、知り合いの19歳の男の子に会って、その子の話を訊いたのがきっかけなんですよ。その子は非常に明るくて、元気な子なんですけど、ひきこもりなんですね。それで2年間学校へ行っていない。ただ、その子にはネット上に友だちが200人いると(笑)。2ちゃんねるみたいなものから、今で言うfacebookやTwitterみたいなものがいっぱいありますよね、そういったもので200人友だちがいるから、その人たちと話しているだけで一日あっと言う間で、忙しいんだと言うわけですよ。これはすごいなと思いました。200人も友だちがいて、どもーって握手してくる明るい登校拒否児ってすげえなと(笑)。
−−(笑)。
森田:でも確実に狂気を感じましたし、それは虚構の繋がりなんですね。「これを変えなきゃだめだ」と思って、これを変えるには彼らの世界へ一緒に入らなきゃと思いました。PC、ケータイのネット点と、ラジオ点を結んでトライアングルを1つにしようと。
−−なるほど・・・。
森田:ラジオが唯一できることというのは、彼らの中に肉声で入っていけることなんですよ。分かりやすく言うと、鹿児島のAちゃんがいじめられて悩んでいる。東京のBくんがそれをネット上で励ましている。Bくんだけじゃなくて色んな人が「頑張れよー」と励ましている。ラジオでスタッフが電話して、Aちゃんが電話に出てくれた。それでラジオで話す。初めてみんなはAちゃんの声を聞く。声だけで多分、その人に「元気ないの?」とか、「カゼひいてるの?」ってみんな言うじゃないですか。「疲れてる?」とか。声ってすごい情報量なんですよ。
そこで東京にいるBくんに電話を繋ぐ。それでBくんが出てきて、直接BくんからAちゃんに励ましの言葉を促すと、ネットではあんなに雄弁に語っていたのに、実際喋るとなるとすごい照れくさがるし、「あ、どうも」「あ、いいえ」とか言って、そのとき2人とも顔が真っ赤なんですよ。絶対にドキドキしているんですよ。そのドキドキしているっていうのが、生きているってことですよね。生きていないとドキドキしないし、それがライブ、生放送でしかできないことで、初めてその2人を繋ぐんですよね。そのときにAちゃんの心臓の鼓動は、ネットの虚構の繋がりじゃないものを感じているんですよ。そして、電話を切ったときに、その子への励ましの書き込みが10倍になるんです。その人の何気ない声を聞いて、実在する人なんだとなって。いわゆるLANケーブルの中に手を突っ込んでいって、その人の心臓を掴んで繋ぐ、それを可能にするのが、その頂点というか、三角形の上の点としてのラジオ。ネットの血管に生きてる血を流して、2つの命を繋げる・・・そういう未来の鍵を握る学校が「SCHOOL OF LOCK!」なんです。
6. 「SCHOOL OF LOCK!」は未来の鍵を握る学校
−−「SCHOOL OF LOCK!」のコンセプトを局にプレゼンしたときの反応はいかがだったんですか? 最初から賛同を得られたんですか?
森田:ないです、ないです。これは真面目な話、見放されましたね。そもそも味方がいなかったんですよ。というのはその当時、ターゲットが10代のラジオ番組にはスポンサーがつかないという風に言われていて、「オールナイトニッポン」等、代表的な番組が10代から撤退し始めたんですよ。どこの業界紙を読んでも、“10代のラジオ離れ”という言葉が紙面に踊り始めた頃で。
−−確かにそういう記事がたくさん出ていましたね。
森田:J-WAVEさん等は、もともと10代をターゲットにしていないような時代でした。そんな時、僕が10代の番組を全国ネットで起ち上げたいと言ったわけです。
−−完全に逆方向ですね。ましてや「10代さえ聴いていれば良い」とまで思っている。
森田:はい。もう無茶苦茶アゲインストだったんですけど、僕が言っていたのは「今の10代がラジオを聴かなくなったんじゃなくて、今の10代が聴くラジオがないだけだ」ということなんですね。食べ物だって、おばあちゃんがアイス屋に来ないんじゃなくて、おばあちゃんが食べたいアイスがアイス屋にないだけだというような感じに近いです。「なきゃ作ればいい。だって10代は生きているんだから」と思っていて、それで1人向かっていったのですが、当時の上司たちは見放して誰も助けない(笑)。
しかも喋らせる奴はまだまだ無名の俳優さんと、全く売れていない芸人さんという。そんな名前も聞いたようなことのない男2人が校長と教頭という名前で出てくると(笑)。他の人たちからは「全国ネット舐めてるのか、お前」みたいに言われていたんですけどね。それで、コーナーだけは名前のある人で作ろうと仲間だったRIP SLYMEやBUMP OF CHICKEN、ASIAN KUNG-FU GENERATIONとか、そんなに売れない頃から一緒に歩んできたみんながコーナーに入ってくれました。
−−そんな状況で、なぜ番組を始められたんですか?
森田:編成会議っていう新番組の有り無しを決定する番組決定会議があるんですが、そこに徹夜で作業してギリギリ完成した企画書を出したわけです。上司のチェックもなく、全員初見の。今話したことほど細かくは話していないんですけど、もう少し分かりやすくした文面で、だから「SCHOOL OF LOCK!」なんだという話をしたときに、シーン…。
−−(笑)。
森田:シーン…。誰も何もリアクションがないですね。まあ失敗したら責任とりたくないですからね(笑)。横目でチラチラと誰かが賛成の口火を切るのを伺ってるような状態ですねまさに。。その時、今は天国でお酒飲んでる、当時編成担当役員だった故・岡田専務が机を叩いて「面白いじゃないか!やろうぜ、おい!」とでっかい声で言ってくれて、企画が通ったんですよ。岡田さんは非常にロックな方で、岡田さんだけが味方だったと言っても過言じゃないですね。それで番組が始まって1ヶ月経ったら、携帯電話のアクセス数が月間3000万になったんですよ。1年後には1ヶ月で6000万、3年後にはアクセス数が、2ヶ月で1億くらい行くようになったんです。
−−そこまで見事にネットとラジオを融合させた番組なり企画って他にないですよね。
森田:ないと思いますね。多分、月間で最高6000万ページビューというのは、当時、テレビ番組でもないと思います。今はスマートフォンになっちゃって、全部PCになっちゃったので、数字自体は少し落ちているんですけど、それでも多分1番だと思います。
−−中高生への浸透率はほぼ100%ですか?
森田:そうですね。聴いていないけど名前は知っているというレベルだと、なかなかの浸透率だと思います。
−−ウチの社内で「『SCHOOL OF LOCK!』を聴いている人いる?」って訊いたら、さすがに30代以上は知らなかったんですが、一番若い女の子が「最初の1年間くらい、BUMP OF CHICKENとかが出ていた時代は聴いていた」と。それで「なんで聴かなくなったの?」って訊いたら、「大人になってあのテンションについていけなくなって、今は卒業しました」と言ってました。
森田:その方は今、おいくつですか?
−−24歳くらいでしょうか。
森田:「SCHOOL OF LOCK!」は基本的には中高生向きなんで、18歳、つまり高校卒表したら卒業しなくちゃいけないですからね。番組企画で卒業式もやりますよ。
−−そうなんですか(笑)。
森田:普通、番組っていっぱい聴いてほしいじゃないですか。でも、「SCHOOL OF LOCK!」はラジオと電話で「もう明日から聴かない」って宣言してもらう時がある。要は、いつまでもラジオとか家で聴いているなと。バイトしたり、好きな子を見つけて、その子のために頑張ったり、大学に入っていっぱい遊べ! みたいなことを毎日言っているんです。だから18歳を過ぎたら本来は聴いちゃダメなんですよ(笑)。
−−(笑)。
森田:もちろん、ミュージシャンがいっぱい出るので、音楽が好きな人は引き続き聴いていますけどね。でも、基本は18歳を過ぎたらもう、いつまでも「高校時代は良かったな」みたいなのはやめなさいと(笑)。
−−「SCHOOL OF LOCK!」は今どのくらいの影響力を持っているんですか? アーティストプロモーションをしている人たちがみんな大注目しているという話はよく聞くんですが。
森田:一番の指針になったのはアクセス数ですよね。2時間の番組で200万って、ヘビーリスナーがどんなに何回も見ても追いつかない数字なので。あと、武道館や野音でイベントをやったら埋まりました。
−−番組を聴いている人で。
森田:はい。2006年〜2009年と、ZEPPツアーをやるんですけど、それはもうチケットも完売ですね。番組に出ていてレギュラーコーナーをやっているバンドとツアーに出るんですよ。それと別で、夏に閃光ライオット。これは10代の新人発掘フェスですね。
−−閃光ライオットも森田さんの企画ですか?
森田:そうです。ソニーに、今は天国でお酒飲んでる、故・伊作さんというとんでもない人がいて、その人と一緒に立ち上げました。でも、閃光ライオットは一人歩きしていて、ソニーとか「SCHOOL OF LOCK!」と関係ないところで本当に大きくなっちゃいましたね。今では毎年1万組くらい応募が集まりますし、観客で野音が埋まって、外に入れない子が4,000人いるという状態です。
−−それは森田さんの想定を超えましたか?
森田:想定以上ですね。アクセス数が5,000万を超えたときに、あまりにもメッセージが多くて、スタッフが対応できなくなっちゃったんですよ。メールとかも来過ぎて、本末転倒になってきちゃったんですね。だから無理にアクセスを増やす企画とかもうやめようと言いました。スポンサーとか営業マンというのは、そういうのを増やしたいわけですよ。自分たちのバナーをクリックする数が増えれば嬉しいわけですから。でも、それだと一人一人のリスナーと会話できなくなってしまうし、番組が死んじゃうから、そういうことはもうやらないからと言いました。
−−クオリティが保てないと。
森田:いじめで悩んでいる1人の子とじっくり話した方がいいからと言って。実は番組前にスタッフがリスナーにいっぱい電話するんですよ。だから本番の放送に出ない子たちがいっぱいいて、スタッフの子たちは放送されないけれど悩み相談にのっているんですよね。だから番組の放送上に出てくるのは氷山の一角で、放送されていないけれどすごい数の悩んでいる子たちとスタッフはずっと話しているんです。そういう子たちは、放送されてなくても、それだけでもすごく救われたりしているんですよね。10代って本当に感性が豊かで、その分クリスタルみたいになっているので、打てば響くんですけど、ちょっとしたことで人生の壁にぶち当たるんですよ。もう受験に落ちたら人生の終わり、失恋したら人生の終わりみたいな。
−−それはものすごく神経を使いますね・・・。
森田:そうですね。表の番組では、それこそ受験生応援企画やっていたりするのに、裏では、電話でいじめられっ子とスタッフが話していたりするんです。
−−でも、それで救われる子がたくさんいると。
森田:はい。リスナーへの番組からのメッセージは「今ぶち当たっているのは壁じゃなくてドアだ」ってこと。必ず鍵穴があって、鍵さえ持っていれば開くからと。番組の開始当初「10代の心を開くラジオが登場」と広報に書かれたことがあって、それはもう大至急取り止めてもらいました。「そんな人の心を開く番組なんてないから。ドアは開いたり閉じたりするんだよ」と言って(笑)。閉じているときは閉じていていいんです。無理に開くことはない。ただ鍵さえ捨てなければいい。鍵を捨てたら人間をやめるときで、10年でも鍵さえ握っていれば、いつか開けるよ。いつか出てくるからと。チャンスさえ知っていてほしい。だから未来の鍵を“握る”学校にしたいんだと、今も強く言っています。
7. 「選択肢を広げる」ことが音楽を発信する人の使命
−−「SCHOOL OF LOCK!」の行き先、未来はどこへ向かうんですか?
森田:これはもう僕の持論というか、絶対これは外したくないんですけど、クラス40人いたら聴いてくれるのは5人でいいんです。クラス全員が聴いたら絶対に終わっちゃうんですよ。だからクラス40人が聴くような番組は絶対に作っちゃダメだとみんなに言っています。
−−あーなるほど。
森田:世の中で一番エネルギーが高い瞬間って、“誰かが誰かに何かを教えるとき”なんですよ。「なあ、あのさ、これ知ってる?」「何?」「知らないの?!すごいヤバイよ」って言うとき、すごく高いんですよ。
音楽でも「この曲めちゃくちゃ良いから」「ウソだ〜」「いや、聴いてみて!」と言うときって(笑)、生命エネルギーが高いんですよ。それで聴いた人が「本当だ!」ってなったときって、2人ともすごく嬉しいんですよね。これをキープするというのが結構大事で、みんなが知っていると、もう終わっちゃうんです。テレビでよく見る、流行りのタレントさんとか、流行り言葉とかがそのたぐいで。だから、できれば内緒にしておいてほしいんですよね。「SCHOOL OF LOCK!」ってものがあるってことは、絶対に内緒にしておいてほしいです。キミだけが知っていて良かったねということにしておきたいんですよ。
−−ラジオとネットの融合って結局、radikoみたいなことではないんだ、と「SCHOOL OF LOCK!」のお話を伺うと感じますね。
森田:そうですね。でも、もっと広く言うと、ラジオはただのツールでしかないんですよ。僕は業界紙からインタビューを受けたときにいつも「FMラジオのことメディアだと思っていませんから」って言うんですよ。この記事を社長が見たら絶対に怒るけど、載せちゃってくださいねと(笑)。
−−(笑)。
森田:だから僕にとって、ラジオもケータイも年賀状も一緒なんです。大事なのは真ん中にある核ですよね。「SCHOOL OF LOCK!」という見えないコンテンツがブレなければ、ネットだろうがラジオだろうがテレビだろうが別に何でもいいんですよ。そのコンテンツというものを、これから作っていくのが僕たちの使命ですし、「俺はメディアにいるんだぜ」みたい人は本当にやめた方がいいと思います。そんな時代は90年代、バブルと共に泡になってますから。
でも、バブルと共に終わってなかった、まだバブルの恩恵を受けた感覚の人たちがいるのも事実ですし、なかなかこの業界を含めたイノベーションは、2000年代入ってもそんなに起こらないだろうなという感じですよね。ラジオが聴かれなくなってきているとよく言われますが、今までが異常なだけで、やっと正常になってきたと僕は思っているんですよ。元からラジオってこのぐらいだよと(笑)。あと音楽、ロック好きな人間とかも、元々このくらいだと思うんですよね。みんなバブルのときに、300万枚みたいな、ちょっと夢を見ちゃって、身体がでっかくなっちゃったので、「ぶかぶかだよ」「いや、あのときが太りすぎだっただけで、その位が健康に丁度良いんだよ」と(笑)。こんなもんだよなと思います。
−−健全な姿になってきている。
森田:と思うんですけどね。
−−ラジオ局はどこも経営が大変だと思いますが、TOKYO FMはその中ですごく持ち直しているんでしょうか?
森田:これは本当に言葉にしづらいんですけど、利益と人気というのは時にシーソーなんです。たとえば営業利益が上がれば、なぜか人気が下がる、というケースもあります。このシーソーを真ん中にするというのが非常に難しい。これを成し遂げるのがプロだと思います。
−−そのバランスを取ることが難しい。
森田:「SCHOOL OF LOCK!」はそれが比較的できているんですよ。クライアントさんも滅茶苦茶いるけれど番組企画も楽しいという。このシーソを真ん中に保つという概念を、これからのクリエイターは覚えなきゃいけないと思います。
−−最後になりますが、音楽業界に提言などございますか?
森田:選択肢を広げようということでしょうか。広くメディアも入れてしまいますが、音楽を発信している人たちの責任として、「選択肢を広げる」という感覚は、絶対にみんなが持つべきものだと思っています。「こっちの方が良い」ではなくて、「これもあれも全部良いところがある」という風にしないといけないと思うんですよ。
その選択肢を広げるという方法やカルチャーをもっと広めていくと、利益追求な面からも成功するものが増えると思うんです。去年のオリコンの1位から40位まで見てみたら、さすがにちょっと驚きました。この驚愕の状況をまず否定しないで、どんどん肯定することで選択肢を増やしていく。みんながメディアとクロスして、選択肢を増やしていけば、文化はもっと豊かになるはずなんですよ。やっぱり洋楽を聴いていて、ジャズやLed Zeppelinも好きだけど、アイドルも好きなお母さんが、子どもを育てた方が良いですもん。その子どもはその環境で育つから、1つに偏らない。そういう意味では「選択肢を広げる」というのが、僕たち世代の使命かなという気がしています。
−−本日はお忙しい中ありがとうございました。これからも森田さんの手掛ける番組を楽しみにしております。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
森田さんが手掛けられてきた番組は、今でこそ誰もが知る大ヒット番組ばかりですが、お話を伺う中で、番組開始当初は、それまでの主流とはかけ離れた企画だったり、アゲインストな状況が多いことに驚かされました。それでも番組が始まり、大ヒットする、また話題を集めるようになったのは、森田さんの的確な状況判断と斬新な発想とともに、強い信念があったからこそと感じました。その最たる例は「SCHOOL OF LOCK!」であり、それはラジオという枠を超えて、今や様々な方角に拡散を続けています。今後も森田さんが何を仕掛けてくるのか、とても楽しみです。