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第112回 いしわたり淳治 氏 作詞家、音楽プロデューサー

インタビュー リレーインタビュー

いしわたり淳治 氏
いしわたり淳治 氏

作詞家、音楽プロデューサー

今回の「Musicman’s RELAY」は、TOKYO FM 森田 太さんからのご紹介で、作詞家、音楽プロデューサーいしわたり淳治さんのご登場です。’97年ロックバンド「SUPERCAR」のメンバーとしてデビューされたいしわたりさんは全作詞、ギターを担当され、その多彩なサウンドでリスナーを魅了。解散後は、音楽プロデューサーとしてチャットモンチーや9mm Parabellum Bullet、ねごと、NICO Touches the Wallsなど数多くのアーティストを手掛け、また作詞家としてもSuperfly「愛をこめて花束を」、少女時代「PAPARAZZI」、SMAP「Mistke!」等を始め、数多くの楽曲を送り出してきました。今回のインタビューでは、SUPERCAR時代から今日まで、いしわたりさんのマネージメントをされているソニー・ミュージックエンタテインメント井上陽子さんとともに、お話を伺いました。

[2013年2月28日 / 千代田区六番町 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメントにて]

プロフィール
いしわたり 淳治(いしわたり・じゅんじ)
作詞家、音楽プロデューサー


生年月日:1977年8月21日出身地:青森県十和田市
1997年ロックバンドSUPERCARのメンバーとしてデビュー。
シンプルなバンドサウンドからダンス、エレクトロまでアルバムをリリースする毎にそのスタイルを柔軟に変化させ、オリジナルアルバム7枚、シングル15枚を発表。全曲の作詞とギターを担当。
2005年のバンド解散後は作詞家としてSuperfly「愛をこめて花束を」、少女時代「PAPARAZZI」などジャンルを問わず数多くの楽曲を手掛ける一方、音楽プロデューサーとしてチャットモンチーや9mm Parabellum Bullet、ねごと、NICO Touches the Wallsなど現在のロックシーンには欠かせない存在となった数多くのアーティストを手掛ける。
2007年には小説・エッセイ集「うれしい悲鳴をあげてくれ」を出版。雑誌等への執筆も行っている。
ソニー・ミュージックエンタテインメント CPファクトリー所属。

 

  1. 禁じられた学生時代
  2. 初めて作ったデモテープ
  3. 少しの秘密がスパイス〜SUPERCARデビュー
  4. 完全分業によるバンド内作詞家
  5. 本人が鳴っている音楽を〜チャットモンチーデビュー
  6. 音のプロデューサーがいるんだったら、歌詞のプロデューサーがいてもいい
  7. 夏は新人発掘の季節!〜審査員という仕事
  8. アーティストがやりたいことを叶えてあげたい

 

1. 禁じられた学生時代

−−まず、いしわたりさんご自身についてお伺いしたいのですが、お生まれは青森とのことですが、どのような生活環境だったんですか?

いしわたり:住んでいた町にはローカル線が一本しか通っていなくて、JRの駅がないんですよ。ですから、小中学生時代は町の外に出るのが非常に難しいんです。しかも中学校は私服禁止、男子は全員坊主、自転車に乗るときはヘルメットをかぶるような学校で、自宅に帰っても制服か名前の刺繍が入ったジャージで過ごすしかなくて、学年ごとに襟の色が違うので、その襟の色である程度人物が特定できるようになっているんです。

−−悪さをしないように(笑)。

いしわたり:そうです(笑)。でも、あまりにも閉鎖的な街だったので、そのことがおかしいと誰も思っていなかったんでしょうね。僕はその状況が嫌で、生徒会長になって全部変えたんです。親も生徒も皆が状況に慣れてしまっていて、それほどおかしなことだとは思っていなかったので、変えるのはとんでもなく大変でしたよ。

−−中学時代はどのように過ごしていたんですか?

いしわたり:野球ばかりしていました。

−−青森は雪が深いので大変だったんじゃないですか?

いしわたり:津軽みたいな豪雪地帯ではなくて、多く積もったときでも3〜40センチくらいですね。真冬には野球はできないから、ひたすら筋トレと走り込みですね。

−−ウィンタースポーツは?

いしわたり:小学校の体育の授業でスキーとかありましたけど。自分から進んで雪山に行ったことはないです。北国って、暖房をがんがんにつけるので実は部屋が暖かいんですよ。正直寒いのは苦手です(笑)。

−−音楽的にはどこから始まったんですか?

いしわたり:SUPERCARというバンドは小学校からの同級生と、中学校からの同級生と、高校に行ってから知り合った女の子と4人で組んだんですが、音楽の話をその同級生たちとしていたかと言うと、中学校の後半になるまでほとんどそういった話はしていなくて、当時、ニルヴァーナとか、グランジの波がやってきたときにみんな聴き始めたのかな。

−−どうやってニルヴァーナなどの音楽を知ったんですか?

いしわたり:音楽誌の「ロッキング・オン」ですね。

−−ラジオとかではなくて?

いしわたり:ラジオは…あまり聴いていた覚えはないですね。聴いてはいたんですが、音楽は聴いていませんでした。SUPERCARのボーカルだった中村弘二という小学校からの同級生がいるんですが、僕も彼も兄がいるので、少し上の世代の情報が家にあったんですよ。CDとか、雑誌とか。そういうものがとっかかりだったと思うんですよね。

−−洋楽でしかもニルヴァーナってなかなか尖っていますよね(笑)。

いしわたり:そうですね。兄はボアダムスとかも聴いていて、「この人どうしたんだろう?」と思っていましたからね(笑)。あと、岡村靖幸さんが好きでしたね。

−−楽器はいくつから弾き始めたんですか?

いしわたり:中学いっぱいは野球をやっていて、高校2年からギターを始めました。それも、当時「BANDやろうぜ」という雑誌があったんですけど、バンドをやりたいと思って「BANDやろうぜ」を買えばいいだろうと思って(笑)。そこの通販ページで3万5千円のギターを買って、そこからスタートしました。今思えばその通販の店って渋谷の「KEY楽器」だったんですけど(笑)。

−−(笑)。では、ギターは完全に独学なんですか?

いしわたり:僕は全寮制の高専に通ってたんですけど、寮に入っていると、ギターを持っているやつが何人かいるんですね。そこで情報交換はあったかもしれないですけど、特別上手いやつはあんまりいなかったので、独学と言えば独学ですね。

 

2. 初めて作ったデモテープ

−−SUPERCARは結成から約2年でデビューされていますが、すごく早いですよね。

いしわたり:自分ではそうは思ってなかったですけどね。長くこの世界でやってると、あとから「ああ、自分たちってデビューが早かったんだな」と気付きましたけど(笑)。

−−メンバーもよく集まりましたよね。

いしわたり:ボーカルも家が500メートルくらいしか離れてないし、ドラムも中学時代に野球でバッテリーを組んでいたキャッチャーですしね。よくいたな、という感じです。

−−普通はプロになるのも厳しいので、卒業したら進学したり、就職したりしますよね。

いしわたり:しかも、僕らは高校3年生のときに組んだバンドだったんですよ。高校3年の夏に初めて曲を作って、町にいたビートルズマニアのおじさんの家が録音が軽くできるようになっていたので使わせてもらって、デモテープを5曲くらい録音しました。全曲1テイクか2テイク録ったらおしまいみたいな感じで録ったと思います。そのデモテープを9月か10月くらいにソニー・ミュージックに送るんですが、すぐに「会いたい」とお話をいただいてしまったので、ドラムのやつなんか就職を辞めたり、結構バタバタしたんですよね。

−−その感じですと、ライブもやってないような状況ですよね?

いしわたり:ライブはデビューするまでやったことなかったです。

−−それも面白い話ですよね(笑)。それほど曲の出来がよかったということでしょうか?

いしわたり:いやぁ…どうなんでしょうか(笑)。送られてきたデモテープは当時のSDという新人開発の部署に届くらしくて、なんで僕たちに連絡くれたのかを聞いたら、「字がきれいだったから」って言われたんですよ(笑)。毎日毎日封筒を開けていると、汚い字だと、それだけで開けたくなくなってくるらしいんですよ(笑)。

−−(笑)。各レーベルの新人開発の部署の人に話を聞くと、床に落ちたテープは拾わないと言いますしね。縁がなかったということで(笑)。そんな状況の中で、よく呼ばれたなというか。

いしわたり:本当に運がよかったと思います。

−−いしわたりさんが通われていた高専って、5年制ですよね。卒業はされたんですか?

いしわたり:卒業はしました。正確に言うと、高専3年生でお話をいただいたときは、まだソニー的には育成期間だったんですよ。なので、4年生の1年間が育成で、5年生になった4月頃からレコーディングを始めて、その年の9月にデビューしました。

−−学校とはあまりかぶらないで済んだんですね。

いしわたり:そうですね。でも、学校があるからということで青森から東京に通っていたんですけど、卒業してからも1年間青森に住んでいたんですよ。

−−ということは、何か用事のあるときだけ東京に出てくると。

いしわたり:そうですね。ただ、意外と用事が多くてホテルに40連泊とかしてたんですけどね(笑)。

 

3. 少しの秘密がスパイス〜SUPERCARデビュー

−−1997年にデビューして、セールスはどうだったんですか?

いしわたり:ヒットがどれくらいからにもよるんですけど、当時SUPERCARがデビューしたときは、いわゆる小室哲哉さんの全盛期で、ミリオンヒットがバンバン出ていた時期だったので、そういう曲に比べたら全然です。

たしかファースト・アルバムの実売は20万枚弱くらいですけど、長くかけて売れたので 最初は10万枚を超えたくらいだったと思います。

−−じわじわと売れていったという感じですか。

作詞家、音楽プロデューサー いしわたり淳治 氏

井上陽子さん、いしわたりさん (写真は昨年のいしわたりさんデビュー15週年パーティーのときのもの)

井上(いしわたり氏のマネージャー):そうですね、洋楽のアーティストのように長期に渡って売り上げを伸ばした作品でした。SUPERCARはエピックの中にあったレーベル兼マネージメントの「dohb discs(ドーブディスクス)」という小規模な部署の所属でした。ソニー・ミュージックとは全く関係なさそうな下北沢の雑居ビルに入っていて(笑)。

−−SUPERCARのデビューにあたってどのような戦略をとられたんですか?

井上:今では珍しくありませんが、当時地方から通って活動しているアーティストというものを聞いたことがありませんでしたので、「青森在住アーティスト」という呼び方はそのハシリだったと思います。東京に住んでいないことに加え、あまり作品とは関係のない本人たちの実態や素顔を必要以上に明かさず、彼らの持つ音楽や佇まいの「清潔感」や「神秘性」を守ることでSUPERCARのアーティストカラーが出来あがってきたのだと思います。
そして雑誌が非常に影響力を持っていた時代だったので、各社には色々な意味で大変ご尽力頂きました。

いしわたり:最初の方のPVは自分たちで撮って編集したりもしてましたからね。当時ディレクターをやってもらっていた方がそういうのが好きで、本当にレコーディングもPVも遊んでいるような感じでしたね。編集って思ったより大変でしたけどね(笑)。当時、編集ソフトがそんなに進んでないので、ワイプひとつ編集するのに5分待つみたいな。

−−(笑)。PVの評判は?

いしわたり:どうなんでしょうね。面白がってくれている人はいたと思うんですけど、いわゆる一般的なクオリティーと比べるとだいぶお粗末なものだったと思うんですよ(笑)。

井上:クリエイター、代理店の方々の評判が非常に良く、それ以降は「是非自分にPVを撮らせてください!」というオファーがとても多かったですね。

−−ライブは結構されていたんですか?

いしわたり:デビューして1〜2年はイベントに出まくっていました。

井上:当時はバンドブームでもあったので、頻繁に各所でイベントがあり、特に雑誌社主催のイベントによく参加させて頂いていました。

−−同じ時期にデビューしたバンドと言うと?

いしわたり:TRICERATOPSとGRAPEVINEは同じ年だと思います。翌年にくるり、WINO、そのまた翌年にナンバーガール、ホフ・ディランが僕らの1年前ですね。

−−バンドがどんどんデビューするような時代だったんですね。

井上:ちょうど「RISING SUN ROCK FESTIVAL」の1回目に出演させて頂いたり、「SUMMER SONIC」も富士で開催された1回目に参加させて頂いたり。SUPERCARは野外ロックフェスが立ち上がり始めたあたりにデビューしたんですよね。

−−そういう意味ではいいタイミングだったということですね。

いしわたり:そうですね。ちょうどバンド・ブームが全盛の時代だったので。

−−みなさんいつ頃青森から東京へ移られたんですか?

いしわたり:1999の正月に東京に出てきたので、2枚目のアルバムのプロモーションから東京だったと思います。もう通うのに疲れていたので、ちょっと嬉しかったですね(笑)。

−−(笑)。

いしわたり:40連泊もして、その間に取材もやっていると、スタイリストとかいなかったので、衣替えをホテルでしなきゃいけないんですよ。だから、「何日になったらこれ送って」と家族に言って、今着ているやつをそのまま段ボールに詰めて送り返してみたいな感じでしたね。だからすごくしんどかったですね。

−−青森在住となると、東京では人気だけど、地元に帰ると騒がれないみたいな感じなんですか?

いしわたり:本当にそうなんですよ。地元のCD屋さんで自分のCDが面出しされていると、「気を使われているんじゃないか・・・」と思っちゃって(笑)。東京で面出しされているのは、聴きたいと思ってくれている人がいるんだな、と思うんですけど、青森だと、聴いている人が周りにいないので、なんだかわからない気持ちになっちゃうんですよ(笑)。

 

4. 完全分業によるバンド内作詞家

作詞家、音楽プロデューサー いしわたり淳治 氏

−−SUPERCARではどのように曲作りをしていたんですか?

いしわたり:うちのバンドは完全分業でした。ボーカルが全部曲を作って、僕が全部詞を書いて。アレンジもデモを結構作り込んでました。最初にバンドを組むときに、いい曲書けるやつが曲を書いて、いい歌詞書けるやつが歌詞を書けばいいよね、と仲間同士でやり取りしたので。

−−自分の中で、詞を書くのが得意だなとか最初からあったんですか?

いしわたり:多分得意だったんだと思います。

−−得意になるような環境があったんでしょうか?

いしわたり:22歳になるまでほとんど本を読んでなかったんですよ。工業高専に行ったので、国語の授業も週に1〜2時間しかなくて。ですから・・・なんなんでしょうね。

−−でも、メンバーもいしわたりさんの詞がいいと思っていたわけですよね?

いしわたり:メンバーは詞に全く興味がない人が3人集まったので、何も言われたことないです。褒められたこともなければ、ダメを出されたこともない(笑)。だからやれたというのはあるんじゃないですかね。

−−それでも書き続けられていますし、バンドで培われただけじゃなかなかできないですよね。

いしわたり:最初はそれこそ無意識で作詞は始めましたけど、途中から作詞の勉強はものすごくしました。

−−作詞の勉強って、どのようなことをされたんですか?

いしわたり:僕はギリギリ歌謡曲全盛時代を知っている世代なんですが、まだ小さい頃だったので、あまり意識して歌謡曲を聴いていないんですよね。でも、職業作詞家の方のスペシャリティってあるじゃないですか。そこを無視してバンドの音楽だけを聴いて、バンドのノウハウだけで歌詞を書くと、やっぱりどうしても似てくるし、超えられない壁っていくつかあるんですよね。それを超えている方々が職業作詞家の皆さんだと気付いて、阿久悠さん、松本隆さん、その他にも今は当時の歌謡曲をまとめている本もいっぱいあるので、そういうのを手当たり次第当たって、詞の比較と研究をしました。

−−例えば、洋楽の歌詞なども気にされたりしますか?

いしわたり:滅茶苦茶見ますね。

−−日本と随分違いますよね。

いしわたり:違いますね。単に情報量が多いんですよ。早口でいけるし、単語の持っている力があるというか。文法も結構簡単というか。日本語は1文字1文字に母音もあるし、文末で肯定か否定かが分かる文章じゃないですか。なので情報を結構長く書かないと表現できないんですよね。でも英語っていうのはすぐで、No!と言ったらNoみたいな感じの力があるので。でもそれを日本語に落とし込めたら武器ですからね。そういう聴き方をしています。

 

5. 本人が鳴っている音楽を〜チャットモンチーデビュー

作詞家、音楽プロデューサー いしわたり淳治 氏

−−SUPERCARは何年まで活動されていたんですか?

いしわたり:2005年の2月26日までです。解散して8年経ちました。

−−解散後は自然と作詞の仕事がくるようになったんですか?

いしわたり:「バンドが解散したら自分はどうやって生きていくんだろう?」と途方に暮れているときに、キューンレコードの中山道彦社長に「チャットモンチーってバンドを今度やるんだけど、プロデュースしてみないか?」と解散ライブの2ヶ月前くらいにお話をいただいて、断る理由が僕にはないので「やります」と。あと、自分にやれるのは作詞だけだったので、作詞も続けようと思って、結果その2本をこの8年間やっているという感じです。

−−中山さんがいしわたりさんに声をかけた理由というのはなんだったんでしょうか?

いしわたり:僕も何度も聞いたんですけど、教えてくれないんですよ(笑)。

−−そうなんですか(笑)。チャットモンチーをプロデュースするにあたって、最初にディズニーランドに連れて行ったそうですね。それはまずメンバーの人となりを知ろうということですか?

いしわたり:そうですね。僕もバンドをやっていましたが、彼女たちとは年が結構離れていますし、彼女たちは徳島で、女の子3人でバンドをやっていたわけで、自分がやっていたバンドと同じものだと思って接してはいけないなと思ったんです。また、最初から一緒にスタジオに入ったら、彼女たちはカッコつけると思ったんですよ。音楽で舐められたくないと思って。だから、「音楽の話は一切しちゃ駄目」と言って、ディズニーランドへ一緒に行きました。彼女たちがディズニーランドへ行って、何がかわいいとか、何が楽しいとか、これはいいけどこれはナシだとか、そういうのが見たかったんですよね。彼女たちはどう考えたって、音楽だけでなく、キャラクターが商品になった方がいいじゃないですか。キャラクターを商品に落とし込むためには彼女たち自身を知らないと、作るものが過剰にカッコつけたり、過剰にキュートなものを求めちゃったりするだろうなと思って。つまり、彼女たちの身の丈に合ったものを作りたかったんですよね。

−−そういう手法をとると中山さんは予想していたんでしょうか?

いしわたり:どうでしょう。ただ、社長からは「大丈夫だよ。プロデューサープレイだよ」と言われたんですよね。「プロデューサーの顔をして、その場にいるのがまず最初の仕事だ」と言われて、「なるほど・・・」とは思ったんですが、すぐ後にだまされたことに気付くんですけどね(笑)。プロデューサーなんて現場に一人しかいないので、いつまで経っても誰からも何も盗めないんですよ。ですから、自分の思ったことをやるしかないんです。僕は数多のビッグプロデューサーの方々のように、魔法のように音楽を作ることはできないですし、僕はこの子たちの一番素敵な部分を形にしてあげることくらいしかできないと最初に思ったんです。

−−正にそれがプロデューサーの真理じゃないですか? いしわたりさんは最初からそれに気づいておられた。

いしわたり:今振り返ると、その考えは正しかったと思うんですが、当時はディズニーランドに行ったからいいものができたとか、そういう思いもなかったですし、当たっていてよかったな、くらいですよ(笑)。そんなに確信があってやっていたわけではないので。

−−やはり、いしわたりさんにはできると思って、中山さんは話を振ったんでしょうね。そんな大切なことをできそうもない人には頼みませんよ。何かしらの確信があったんじゃないかと思うんですけどね。それに見事に応えることができたから、ここまで続いてきたわけですし。

いしわたり:いや、本当に皆さんに感謝しています。

−−いしわたりさんはプロデュースや楽曲提供など、とにかく仕事量がすごいですが、これは全て依頼されてやっているんですか?

いしわたり:自分で作るというのはほぼなくて、全て「誰かと何かやってみよう」なんだと思います。あとは、完全に仕事として指名していただくこともあるんですけどね。

 

6. 音のプロデューサーがいるんだったら、歌詞のプロデューサーがいてもいい

−−プロデュースとして印象的なのは、やはりチャットモンチーと9mm Parabellum Bulletですね。9mmも素晴らしいバンドですよね。

いしわたり:9mmのインディーズ時代のジャケットを作ったデザイナーが僕の友達で、その彼から「格好いいバンドがいるから、ライブを観に行こう」と誘われて下北へ観に行ったら、それが9mmだったんです。実はちょうどその一週間くらい前に9mmのCDをタワレコで試聴していて、「凄いのが出てきたな」と思っていたんですよ。それで「知ってるよ!このバンド」と(笑)。ライブもとにかく素晴らしくて、ライブが終わったあとに、小さいハコだったのでステージに上がっていって、「超よかったよ!」と声を掛けて、その日のことをブログに書いたんです。「このバンドは凄い」と。そうしたらちょうど彼らはメジャーに上がるタイミングだったらしく、ディレクターさんから「1曲やってみませんか?」とお話を頂いたんです。

−−まさに「出会い」ですよね。9mmに対してはどのようなプロデュースを心掛けられたんですか?

いしわたり:僕は彼らのことを「ライブ屋」と呼んでいて、ライブがMaxで格好良くなることを一番に考えていました。ほとんどのバンドって、ライブでは暴れるパフォーマンスをしている感じがするんですが、彼らを最初に観たときに「暴れなくてはやっていられない」感じがしたんですよ(笑)。どこからその力が出るのか分からないけれど、説得力のある激しさと言いますか。

−−それを作品に落とし込まなくてはいけないと。

いしわたり:そうですね。僕が一番力を入れたのが作詞で、ボーカルの卓郎を家に呼んで、「9mmの曲にのる歌詞って、もっとこんな感じなんじゃないか?」と一緒に突き詰めました。演奏に関しては自分たちが生き生きしていればいいので、まずやりたいようにやってもらう。そして気になるところを少し直していくという感じですね。あと、曲のカロリーが高いので(笑)、なるべく曲を短くするように心掛けました。

−−ケースバイケースでしょうけど、歌詞のディレクションというのはクレジットとしてどうなるのですか?

いしわたり:二人で書いたら「共作」、「こういう風に」と指示を出した場合はディレクションとなる場合もありますし、その都度その都度ですね。

井上:「ワーズプロデュース」というオリジナルな言い方をさせて頂いているんですが、音のプロデューサーがいるんだったら、歌詞のプロデューサーが存在してもいいよね、という話は昔から彼としていて、アーティストが書いてきた歌詞にいしわたりが手を加えさせて頂いたら、「ワーズプロデュース by いしわたり淳治」というクレジットで作品が出ています。

いしわたり:僕がやっている作業は割とメンタルな方と言いますか、散らかってしまっている言葉をギュッとわかりやすくしている感じですね。

−−でも、それって大変な作業ですよね。

いしわたり:そうですね。その子と心の距離を縮めないといけないですしね。歌詞ってどんな人でも本来直されたくないんですよ。ですから、いかに信頼してもらって、心を開いてもらうかが大変です。

−−自分の内から湧き出てきた言葉なわけですから、そう簡単には直されたくないですよね。

いしわたり:ええ。もちろんそれは自分も分かっているので、どこがこの子にとっての地雷なのか、距離を充分に測りながら、作業するんですけどね。

−−Superflyの「愛をこめて花束を」のときはどういう作業をされたんですか?

いしわたり:Superflyをプロデュースしている蔦谷好位置くんと以前から飲み友だちで、「愛をこめて花束を」はドラマのタイアップ曲だったんですが、歌詞が難航しているので手伝ってほしいということで打ち合わせて、1週間くらいで歌詞をいろいろと直しました。この曲は以前からあった曲で、ライブでやっていたそうで、なので歌詞を全部変えてしまうとファンが困惑しても良くないので元の歌詞もある程度残しつつ、そのドラマのタイアップに合わせた内容に直して欲しいという少し複雑な依頼でしたし、勝負曲ですから、ヒットソングとして機能するものにしたいという。

−−でも、目的はしっかり果たしましたよね。

いしわたり:いや、だからこれも全部「今思えば」ですよ(笑)。いつだってやっているときは必死なだけですから。

−−ちなみに詞先で書かれたことはあるんですか?

いしわたり:生涯一度だけあります。それはKiroroの玉城さんと作業したときで、僕は「作詞だ」と思って打ち合わせに行ったら、「曲はないので、詞を先に頂きたい」と言われて・・・(笑)。今のところそれが最初で最後ですよ(笑)。

−−やはり勝手が違いますか?

いしわたり:いや全然問題ないんですけどね。そんなことを言ってくれる人がそれまでいなかったと言うだけで(笑)。でも、初めて作曲家の気持ちが分かりましたね。自分の書いた曲が、どうやって料理されて帰ってくるのか、帰ってくるまで分からないわけじゃないですか? 作曲家は曲を書いて、歌詞がのって帰ってきて「こんな歌詞なんだ」とみんな思っているんでしょうけど(笑)、僕はそのとき初めての経験でしたから。「こんな曲がのるんだ」って(笑)。

−−(笑)。例えば、詞のストックとかはされていないんですか? フレーズとか。

いしわたり:もちろんノートとかに走り書きを色々しているんですが、それを作詞のために使おうと思っているわけではなくて、何でも書いているんです。例えば、知らなかったことを知ったときは全部書いています。

−−シンガーソングライターの方と違って、作詞家は依頼があってから書かれる方が多いみたいですね。

いしわたり:僕はオーダーが多ければ多いほどやりやすいんですよ。「何をやっても自由です」と言われると、逆に「何やってもいいのに、これやったんだ」という不自由と戦うわけじゃないですか?(笑) 逆に「こういう言葉を使って、こういう世界観で、こういう結論にして欲しい」と言われると、その中で遊ぶ分には何をやっても、どこに落とし込んでもいいわけですからね。自分でゼロから枠から決めるのって実はすごく大変なんですよ。

 

7. 夏は新人発掘の季節!〜審査員という仕事

作詞家、音楽プロデューサー いしわたり淳治 氏

−−普段、音楽を聴かれたり、ライブに行かれたりして、新しい音楽をインプットしているんですか?

いしわたり:人よりは音楽を聴いていないのかもしれませんね。どこと比べたらいいのか分からないですけど。ただ、「閃光ライオット」の審査員をしているので、夏が来ると毎週末100バンドくらいのアマチュアバンドを観るんですよ(笑)。

−−毎週末100バンドですか!?

いしわたり:そのくらい観ますね(笑)。それをライブと呼ぶのかよく分からないですが。

井上:二次審査はバンドにスタジオに来てもらって、生で演奏を観せて頂くという審査なのです。書類審査はSDのスタッフが見て、いしわたりは二次審査から最終まで毎年関わっているので、トータルでかなりのバンド数になります。

いしわたり:1ヶ月半くらい週末は日本中のどこかに行っていて、6週間で1回の土日で約80バンド観たとしても、それでも480バンドは観ているんですよ。あと、「出れんの!?サマソニ!?」の審査員もやっていまして、それは動画の審査なんですが3〜400観ていますから、夏が来るとアマチュアの音楽しか聴けないんです(笑)。

−−すごい数ですね・・・ちなみに前回ご出演いただいた森田さんとの出会いは「閃光ライオット」ですか?

いしわたり:そうですね。2年前の「閃光ライオット」で審査員をやらせていただいたんですが、そのときに初めてお会いしました。一番の接点はそこで、以後「SCHOOL OF LOCK!」にも呼んでいただいたりしていますね。

−−いしわたりさんはアマチュアバンドを観る際に、一番どこを気にされますか?

いしわたり:やっぱり華ですね。天性の華ってやはりあって、それがまだ蕾でもなんでもいいんですが、そこだけは養えないところなので、そういう子がいると「あっ」って思いますね。

あと、どんなに格好良い演奏でも人って歌われたら歌を聴いちゃうんですよ。だから何を歌うか、どんなメロディを歌うか、どんな声か、どんな歌い姿か、というのはもうバンドの中でとても大きな比重を占めるんですよ。例え、バンドと言えども。

−−やっぱりヴォーカルの影響力が一番ですか。

いしわたり:はい。絶対歌を聴くじゃないですか。どんなに格好良いイントロでも、どんなに格好いいバックの演奏でも、歌になった瞬間、結局歌を聴くんですよ。

−−そして、歌がよくなかったらもう聴かない。

いしわたり:そうなんですよ。だからそこは格好いいバンドだったら、なおさらシビアなんだよということなんですね。

−−歌詞に関してはいかがですか?

いしわたり:僕が気にしているのは、みんなと違うことがしたくてバンドをやっているはずなのに、一緒になっているよということを伝えてあげたいんですよ。世の中で流れる歌を大きく分けたら、恋愛の歌、その中に上手くいっている恋愛と失恋がある。それと自分探しの歌、柱はこの3つしかないと思うんですよ。もちろん童謡であったり、色々あるかもしれませんが、ポップ・ソングの王道としてはこの3本の柱しかないと僕は思うんですね。ですから、表現の劇薬というか、例えばストレートに「会いたい」とか「頑張れ」とか、こういう極論を書いてしまった場合、それらを、これこそが誰もが感じている「真理」や「核」なんだ、と言えば聞こえがいいですけど、誰にでも言える普通の歌詞、と言われたらそれまでなんです。だから問題はこれらをどう表現するかなんです。

−−なるほど。

いしわたり:「それをどう表現しているの?」ということを僕は問いたいんですね。「辛い」「悲しい」「会いたい」だけでラブソングを書くのは簡単なんですが、「それがみんなと何が違うの?」と。「それがやりたかったんです」ということであればいいんですけど、みんなと同じことをして違うように思われようというのは無理な話ですからね。出来ることなら、その人しか気付いていないけれど、皆に思い当たる部分がある「まだ名前のついていない感情」のようなものに、その人が初めて言語化して名前をつけてあげる、みたいな歌詞を書いて欲しいんですね。

 

8. アーティストがやりたいことを叶えてあげたい

−−音楽業界は厳しい状況が続いていますが、いしわたりさんはそのことに関してどのように考えていらっしゃいますか?

いしわたり:本当にみんな悩んでいることだと思いますし、僕も本当に色々なところでこういう質問をされて困ってしまうんですけどね。アーティストに関して言えば、聴く人がいて、作る人がいるという関係は、一緒じゃないですか。数字が違うだけで。そこは何も変わらないわけですよ。

−−現場で音楽を作っている人間たちが悪いというわけではないですしね。

いしわたり:そうですね。一番の命題は、どの業界でもそうだと思うんですけど、0円にどうやって勝つかということじゃないですか? ネットにタダで上がってしまっているものを、わざわざ買う人がいるのかと。つまり、0円よりも価値のあるものを作らなきゃいけないということですよね。それがアイドルの握手券でいいのかとか、色々な議論はあると思うんですけどね。

あと、アーカイブ化によって眠っている曲たちがまるで新曲のように押し寄せてくるわけじゃないですか。そうなると新曲を作る意味というのが全く変わってくるというのもありますよね。

−−それはあるかもしれないですね。新曲の意味が大分薄れていますし、過去の名作と勝負みたいな面もありますよね。とあるアーティストにとってのライバルは過去の自分の曲だったりしちゃうんじゃないですかね。

いしわたり:そうだと思います。

−−どちらにしても、作る側にはしんどい時代になっている(笑)。

いしわたり:まあ、でも作ることってずっとしんどいですけどね。いつだって敵がいて、いつだってライバルがいて。でも正直、中古CD屋さんとかに行くと、CDって過去の物だなって感じがすごくしますよね。廃品が置いてある感じがするというか、あのパッケージと中に盤が入っているんだということに、もう見慣れすぎていて、飽き飽きしていて、その物自体に魅力があまり感じられなくなっているように感じますね。

−−残念ながら同感です。その上でこれからプロデューサーを目指している人たちに何かアドバイスはありますか?

いしわたり:うーん・・・プロデューサーって、自分がそうだったように、あまり人からアドバイスをもらってまでやるものじゃないのかもしれないですね。

−−みなさんそうかもしれませんね。

いしわたり:むしろ、誰かと同じようにやっていては駄目なんだろうという感じはあるかもしれません。

−−アーティストに自分のイメージや主張を押しつけてくるプロデューサーもいると思うのですが、いしわたりさんは素材をいかに生かすか、ということを常に考えられていますよね。

いしわたり:僕がスタジオへ行って、プロデュースをするときにも、自分から何かをすることはあまりなくて、まず演奏してもらって、物足りないところや気になるところがあったら止めて「今のところは僕にはこう聴こえるけど、いいの?」と聞くんですよ。そこで「それが狙いなんです」「そう聴かせたかったんです」ということであれば「OK、できてるよ。次行こう」と。ただ「もうちょっとサビが映えるようにしたかったんです」と言われたら、「じゃあ、こうやって演奏する手があるよ」と教えてあげる。そうやって曲を立体的にしてあげたり、スッキリさせてあげるとか、わかりやすくしてあげるとか、そういったことをしているんです。

−−本人たちの意思を尊重されているのですね。

いしわたり:やりたくないことはやらなくていいですし、僕は彼らがやりたいことを叶えてあげたいわけですから。

−−最後になりますが、「この人をプロデュースしてみたいな」と思われることってありますか?

いしわたり:それはときどきあります。「プロデュースしたい」という大げさな、おこがましい感じではないんですが、「ちょっと話をしてみたいな」とか「こうやったらもっと面白いものができそうだな」とか思うことはあります。

−−具体的なお名前は言えますか?

いしわたり:・・・言えないですね(笑)。おこがましいです。

−−ですよね(笑)。これからもいしわたりさんが送り出す音楽を楽しみにしております。本日はお忙しい中、ありがとうございました。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 「やりたくないことはやらなくていい」、いしわたりさんのこの言葉が印象に残りました。プロデューサーには様々なタイプがいるかと思いますが、いしわたりさんの、バンドを理解し、その意思を尊重しつつ、言葉や音を磨き上げていくプロデュース手腕があるからこそ、手掛けられたバンドが輝いているのだと強く感じました。ご自身の経験に基づいたものも多くあるのかもしれませんが、そこだけに依らず、常にアーティストと向き合う姿があるからこそ、多くのアーティストからプロデュースや作詞を求められるのではないでしょうか。いしわたりさんが今後どのようなアーティストを送り出すのか、そして、どのような言葉を紡いでいくのか、とても楽しみです。

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