第113回 Jeff Miyahara 氏 音楽プロデューサー
音楽プロデューサー
今回の「Musicman’s RELAY」は、いしわたり淳治さんからのご紹介で、音楽プロデューサーJeff Miyaharaさんのご登場です。日本人と韓国人のハーフとしてアメリカで生まれ、思春期を過ごされる中で、音楽に魅了されていったJeffさん。韓国での活動を経て、本格的に音楽活動を開始するべく日本へ。2002年ワールドカップ日韓共同開催チャリティーソング「翼をください」での初プロデュースを皮切りに、Boyz II Men、Timbaland, シャリース, など海外アーティストの作品を手がけ、日本では クリス・ハート、JUJU、西野カナ、JASMINE、シェネル、Spontaniaといったアーティストをプロデュースして次々とヒット作を生み出しています。そんな超多忙なJeffさんにヤンチャだった青春時代から、日本の音楽業界の現状、そして今後の目標までたっぷり語って頂きました。
プロフィール
Jeff Miyahara(じぇふ・みやはら)
音楽プロデューサー
これまでJUJU、JAY’ED、西野カナ、JASMINEなどを代表したプロデュース作品は数々の受賞を獲得し、2,800万デジタル&CDセールスの実績を誇る。
今、日本で注目されている作曲兼音楽プロデューサーの一人である。
また、ボーイズ II メンや少女時代、シェネルなど、世界のトップクラスのアーティストとの仕事を通じ、海外にも活躍の場を広げている。
ロサンゼルスで生まれ、日韓のハーフという多文化・多言語的なバックグラウンドから生み出される楽曲やその音楽センスは文化や言語の壁を超える力も持っている。
- ロサンゼルスで生まれ育った少年時代
- ガレージバンド生活から音楽スピリッツが開花
- ロス→東京→キャンベラ? 〜初のレコーディング作業を経験
- ワールドカップ日韓共同開催チャリティーソング「翼をください」を制作
- 「自己主張せずに、仲良く仕事をしてみよう」〜道を切り開いた”cowrite”への転換
- エンターテインメントのストーリーを描く
- 日本を拠点に世界へ音楽を発信していきたい
1. ロサンゼルスで生まれ育った少年時代
−−前回ご出演いただきました、いしわたり淳治さんとはどのようなご関係なんでしょうか?
Jeff:2月27日にSMAPさんがリリースされた両A面シングル「Mistake!/Battery」でもご一緒させていただきました。いしわたりさんが「Mistake!」の歌詞を、僕は「Battery」の曲と歌詞を書かせていただいたんですが、SMAPさんはやっぱりすごく上手いですね。センスが抜群です。
−−Jeffさんは詞も書かれるんですか?
Jeff:元々はアメリカ人なので英語詞は任せてください! そして日本語詞は良くアーティストさんと共作で書かせて頂いてます。パブリックイメージがそうなのか、僕はセツナ系の楽曲を手掛けることが多かったりするんですが、実は自分の好みだったり、メインとして創りたい曲はそういう楽曲ではなかったりもするんですよ。
今はセツナ系というか、ドまっすぐよりも進化系でそういうフィーリングの歌詞が好まれる時代だと思うんですが、いしわたりさんの歌詞を見た瞬間に、本当に天才だと思ったんです。というのは、そういうセツナ系の恋愛感も持ちつつ、インテリジェンスもユーモアもあり、“ルネッサンスマン”というか、そこに活きているのが美術だったり、アートを感じました。
−−いしわたりさんの歌詞は奥が深いと。
Jeff:そうですね。もう、彼はダヴィンチなんじゃないですかね。ダヴィンチは芸術だけでなく、科学や天文学等でも素晴らしい仕事をしていたじゃないですか? 音楽の世界でも幅広いフィールドで勝負できる人とはなかなか出会えませんが、いしわたりさんはその数少ない人だと思います。今の業界を支える貴重な一人ですね。
−−ここからはJeffさんご自身について伺いたいのですが、お生まれはアメリカと伺っております。
Jeff:はい、生まれはアメリカのロサンゼルスです。
−−では、少年時代はロサンゼルスで過ごされたんですか?
Jeff:はい。17歳までロサンゼルスにいました。
−−Jeffさんは日本人と韓国人のハーフなんですよね。
Jeff:そうです。母が韓国人で、父が日本人です。父は、僕が8歳のときに家を出て行ってしまって、それからずっと帰ってこなくて…(笑)。それから母はパートを掛け持ちして僕を一人で育ててくれたんですが、ある日某化粧品に出会って、それからはコリアタウンでは少ない女社長として成功を掴んで、僕と妹をロス一番の高校に入れてくれました。ですから、僕は途中からすごいお坊ちゃんになってしまって、すっかり甘えん坊になってしまいました。お母さんは今は再婚して、ステップファーザーは尊敬出来る最高なお父さんで、僕は宮原という名字まで頂いちゃいました!
−−わがままなお子さんになってしまったんですか?
Jeff:わがままと言いますか、自分で責任を取らなくてもいいような、いい加減な日々を送るようになってしまったんですね。それでせっかく入れてもらった高校もギリギリの卒業になってしまって(笑)。自分で責任を取らなくてもいいような毎日ですと、学校も行かなくなりますし、アメリカは車社会なので、16歳で車を手に入れて、「学校行ってくる」と言って、途中で左に行くはずの道を右に行ったりして (笑)。
−−つまりドラ息子になってしまったと(笑)。
Jeff:本当にそうなんですよ(笑)。
−−高校以前はどのようなお子さんだったんですか?
Jeff:5〜6歳くらいから水泳を一生懸命やっていました。バタフライが得意種目で、200メートルとかで大会に出場して、ほとんど優勝したりしていました。ですから12〜13歳くらいまでは、スポーツしか知らない優秀で真面目な子供でした。
−−では、本当に高校に入ってからガラッと生活が変わってしまったんですね。水泳も止めてしまったんですか?
Jeff:僕はアジア人なので、身長もあるところから伸びなくなってしまったんですが、周りはどんどん大きくなって、しかも筋肉がすごいんですよ。14〜15歳くらいから男性は一気に体型が変わってくるじゃないですか? そのときに僕は一気に置いていかれてしまって。
−−やはり欧米人は大きいですか。
Jeff:大きいですし、手は長いですし、泳ぎも速い(笑)。得意だったバタフライも追いつかなくなって、「今までやってきたことは何だったんだ…」と思っていたときに音楽に出会ったんですよ。
2. ガレージバンド生活から音楽スピリッツが開花
−−音楽は小さい頃からお好きだったんですか?
Jeff:音楽は初めての恋人でしたね。アメリカは車社会なので、母がどこへ行くにも運転してくれて、後部座席で寝転がりながらカーペンターズやトムジョーンズ、エルヴィス・プレスリーとか聴かされていました。あと、たまにロスの「ヤオハン」という日本人向けスーパーマーケットで、日本のアニメの主題歌とか五輪真弓さん、欧陽菲菲さんの歌を聴きながら感動していたんですけど(笑)、そのときは自分が音楽をやるという考えは全くなかったんです。ただ、10歳年上の憧れのお兄さんが1人いて、彼もドラ息子だったんですが(笑)、最新の車に乗って、そこでポリスやトンプソン・ツインズ、ペットショップボイズ、イギーポップとか聴いていて、そこで初めてロックに出会いました。
−−それはおいくつの頃ですか?
Jeff:11歳だったと思います。それで、そのお兄さんにギターをもらって、いつか僕も弾けたらいいなと思っていたんですが、それまでスポーツばかりの日々でしたから、ギターは遊び程度だったんですね。でも、16歳になったときに「リサイクラー」というフリーペーパーに出会って、そこに「バンドメンバー募集中」と書いてあったんです。
それで電話したら、「いいしゃべり声しているし、一回オーディションにおいでよ」と言われたんですね。それで待ち合わせ場所に行ったら、そこは大豪邸で、ガレージを開けたらドラムセットやマーシャルの2段キャビネット、ギター&ベースがあって「すごいところだな」と思ったんですが、僕以上に、向こうは「アジア人が来てしまった」と驚いていました。
−−声だけでは分からないですものね。
Jeff:人種とか何も説明しませんでしたからね。僕は「人種について何も書かれてなかったし、何も言わずに来ちゃったのは申し訳ないけど、とにかくバンドがやりたくて来たんだ」と言ったら、「せっかく来たんだし、何か歌ってみなよ」と言われて、「何を歌えばいい?」と聞いたら、「今練習中だから、俺たちの曲を聴いて、何かインスピレーションが湧いたら歌えよ」ってSM57マイクをポンと投げられて(笑)。当時の僕は滅茶苦茶メタルっ子で、メタリカやスレイヤーとかが好きで、マイク持った瞬間、「わー!!」っと高い所までメロディアスなものを歌ったら、彼らが演奏を止めて、「お前最高じゃん!」と言ってくれたんですよ(笑)。
−−彼らも高校生だったんですか?
Jeff:高校生です。みんなドラ息子で(笑)。そこから音楽系のスピリッツが開花してしまいましたね。そのバンドではボーカル&リズムギターを担当させてもらいました。それまではアスリートのような生活だったので、コーラも飲んだことがない、ビッグマックも食べたこともない、夜中までテレビを観るとかもない、本当にストイックな生活だったんですが、いきなりガレージバンドの生活に出会ってしまって、どっぷりハマりました(笑)。
−−(笑)。
Jeff:もう、そのときはることは全部やりました。本当にワイルドな高校生活でしたね(笑)。
−−そんなワイルドな生活を送りつつも、高校は卒業できたわけですよね。
Jeff:もう卒業できたのは家族のおかげです。日本から祖父や祖母がわざわざアメリカまでやってきて、「うちの孫はそんな悪い子じゃないです。がんばればいい子なんです」と校長先生に話してくれて…。毎週のように校長先生に連絡を入れたり、FAXを送ったり、「いらないと思うんですけど、こういう石けんをもってきました」とか「このフルーツが美味しくて」とか差し入れしたり…。
−−つまり「泣き落とし」で卒業されたんですね。
Jeff:いやー、すごかったんですよ。本当に(苦笑)。
3. ロス→東京→キャンベラ? 〜初のレコーディング作業を経験
−−その後、大学には進学されたんですか?
Jeff:はい。うちの祖父の希望としては、イェール、ハーバード、スタンフォードといった名門校に行って欲しくて、僕はSATという試験のスコアはすごくよかったんですよ。だから頭が悪いっていうわけではないと思うんですが、全然学校に行っていなかったり問題が色々あって、それらの希望校は見事に全部落ちましたね。そうしたら、知らないうちに母が上智大学にも申請を出していたんですよ。
−−上智大学はお母様に入れられたと。
Jeff:そうなんです。で、入学したらとにかく東京が面白くて、すぐに夜の生活と恋に落ちてしまいまして(笑)、案の定、上智は2年で退学しました。学校から「退学という形にはしないけど、来年あなたの席はないから」って言われたんですよね。そのときに母に相談したら、今度はオーストラリアのホテル専門学校に行きなさいと言われて(笑)。
−−またゴッドマザーの指令で(笑)。
Jeff:そうです(笑)。その時18、19だったんですが、10年振りの涙を流しましたね。というのも、ロスから東京、それからシドニーに行ったときは良かったんですよ。大きな空港でしたし、いい街だなって思えましたから。でも、シドニーから学校のあるキャンベラへ行くときに10数人くらいしか乗れないようなプロペラ式飛行機に乗ったんですよね。「なんでこんなに小さい飛行機なんだろう?」と思って、外を見たらもう緑しか見えないんですよ。木しかない、ビルはゼロ、他に何もない(笑)。で、小さい滑走路が見えた瞬間に10年ぶりの大声で号泣です(笑)。
−−(笑)。
Jeff:飛行機の中で一人号泣(笑)。うぇーって泣き崩れて、もう周りの人たちも「こいつどうなってるんだ」って感じでした。
−−いわゆる島流しになったわけですね…。
Jeff:そうですね…この2年間は体罰だって思いました(笑)。まぁ、結果としてすごくいい学校でしたし、いっぱい学ばせてもらったんですが、2年間上智行っていたので2年間で卒業するはずが、また2年目に退学になりました。
−−オーストラリアでも退学ですか!?(笑)
Jeff:オーストラリアでも学校へ行かず、問題ばかり起こして…でも、この学校では今に繋がることをたくさん勉強できました。例えば、クライアントさんへの思いやりや、クライアントさんの要求にいかに応えていくかということは、ホテルマネージメントで満遍なく勉強させてもらいました。
−−サービス業としての心構えみたいなものができたと。
Jeff:音楽も年々サービス業になってきているじゃないですか? 僕も音楽プロデューサーとして、クライアントさんと一緒に、限られた時間の中でできるだけいいものを作っていく立場ですから、その経験はすごく生きていると思いますね。
−−実際にホテルで働いたりもされたんですか?
Jeff:3ヶ月のワークエクスペリエンスとしてホテルに勤めなくちゃいけないんですよ。それで自分のアイデンティティを探しがてら、韓国のホテルへ行こうと思ったんですよ。
−−それまで韓国には行ったことがなかったんですか?
Jeff:はい。それで祖父に相談したら「韓国のルネッサンスホテルの支配人が知り合いだから紹介してやるよ」と。それで韓国へ行ったら、コリアンアメリカンコミュニティがあって、いつのまにかエンターテインメント業界の人とのつながりができたり、濃い3ヶ月になりました。
その後、オーストラリアに戻ったら、韓国で出会った先輩から「お前ギター弾くよね? 作曲できる?」って連絡が来て、「まぁ自信はあります!」って、本当は自信なかったんですけど、言うだけ言っておこうと思って(笑)。詳しく聞くと、今インターネット会社を立ち上げていて、そのための音楽が必要だということでした。「国際電話だし、俺は暇でもないから、できるかできないかだけ応えてくれ」と迫られて、「やります、できます」と答えたら、「わかった。明日20万円送金するから、それで5曲作ってくれ」と。
−−それまでレコーディングの経験はあったんですか?
Jeff:ないです、ないです(笑)。
−−では、完全にアマチュアだったんですね(笑)。
Jeff:完全にアマです。それでとりあえずプロデューサーを探さなければいけないと思ったんですよ。当時はDr.Dreとかシールがすごく大好きだったので、トレヴァー・ホーンとかリック・ルービンとか、とにかくプロデューサーがいれば、なにか作品にはなると思っていたんです(笑)。それでキャンベラ中の楽器屋さんへ行って「プロデューサーを紹介してくれ」と頼んで、ようやく一人見つけて、予算を伝えたら「少ないけど、やるよ」と言ってくれたので、次の週から彼のホームスタジオで楽曲制作を開始しました。そのスタジオはリビングを全部機材でつぶしたようなところで、360度サンプラーやキーボードに囲まれていて、その中心にプロデューサーの彼がいて、その姿を見た瞬間「ワオ!プロデューサーだ!」って思いましたね(笑)。
4. ワールドカップ日韓共同開催チャリティーソング「翼をください」を制作
−−楽曲はどのように作ったんですか?
Jeff:まず「表参道を歩いているようなイメージの音が欲しい」と言われていたので、それを彼に伝えると「だったらBPMをこれくらいにしよう」とか「この機材のこの音を使おう」とかアイディアを出してくれて、メロディは僕が口ずさんだものにコードをつけて、そんな感じで一曲できたんですね。その後は曲を作る過程で「なるほど…こういう風に作るんだな」と学んでいきました。もともと機械に強い方なので、サンプラーだとか機材を見ていて、なんとなくですけど覚えていった感じですね。
−−5曲作る間に音楽制作を覚えていった?
Jeff:役割、役目というのはそこで覚えていきましたね。それで、その5曲を送ったら、韓国の先輩から「お前最高だ。そのまま韓国においでよ」と誘って頂きまして。
−−音楽業界入りができちゃったんですね。
Jeff:そうなんです。びっくりですよね。それで韓国では先輩が面倒みてくれて、夜はスタジオに行って仮歌をやったり、ゴーストライターをして、昼間は通訳とか英語を教えたりしていました。そんな生活を2年間して、なんとなく音楽で勝負できると思ったタイミングで、いわゆる「アジア通貨危機」が起こりまして、状況が一転してしまったんです。
それまで経済的に余裕があったのが、事務所もない、ご飯もない、寝るところもない状態になってしまって、それで、仕方なく日本へ戻って水商売で働きました。自分で言うのも変ですが、かなりがんばって働いて、最後は店長になりましたけど、入ってくるお金もおかしくて、今だから言えるんですが、毎月40万円から70万円ぐらい入ってきていました。それを毎月貯金して、機材屋さんへ行っては、「ここからここまで全部下さい」と機材を買い込んでいましたね。
−−すごい…マイケル・ジャクソンみたいな買い方ですね(笑)。
Jeff:あくまでも音楽という夢があって夜の世界に入ったので、機材がある程度揃ったら仕事を辞めさせてもらおうと思っていたんですが、その頃には役員になっていたので、なかなか辞められず苦労しました。そして、2001年くらいから音楽だけに集中できる環境になり、そこからコツコツと音楽を作り始めました。
−−そのとき日本の音楽業界にツテとかあったんですか?
Jeff:何もなかったです。本当に誰も知らなくて、ただ音楽は絶対作ろう、絶対成功させてやろうとは思っていました。
−−そういう人は一杯いますけど、どうしたらいいのかわからないじゃないですか?
Jeff:そうなんですよ。あの頃はネットも今ほど普及してなかったじゃないですか。ですから、自分が好きなアーティストを研究して、「自分だったらこのレーベルのこの担当者に電話したらいいんじゃないかな?」とか考えて、何回かいくつか某レーベルさんにゲリラ電話してみました。あの当時は良く怒られました(笑)。
−−そのとき「Musicman」は見なかったですか?
Jeff:まだプロ用のスタジオにも入ったことのないド素人で、ネットワークもゼロだったので、存在自体知らなかったです。そんな状況の中でも自分で音楽は作っていて、そこにタイミングよく現れたのが、田村有宏貴さんでした。実は彼のお母様が湯川れい子先生なんですね。
で、田村さんと遊んでいたりしたんですが、僕の曲を聴かせたら「これ、おふくろに聴かせていい?」って言われたので、「もちろんいいよ!」と。それで湯川先生から「あなた才能あるわね」と言って頂いたんですが、同時に、僕を韓国に呼んでくれた先輩も「2002年のワールドカップは日韓共催で、僕みたいなコリア×ジャパンのアイデンティティを持ったミュージシャンはいないから、CDを出して、何が何でも結果を出しな」って言ってくれたんですよ。
それで田村有宏貴さんと一緒にワールドカップのチャリティーソングを作らせて頂きました。当初は東京スクールオブミュージックとか音楽学校に行って、優秀なアマチュアミュージシャンを探して自主制作で作ろうと思っていたんですが、「あなたたちが一生懸命やるなら私も協力する」と湯川先生がおっしゃって下さって、小田和正さんや長渕剛さん、藤井フミヤさん他、100人ほど錚々たる方々が参加して下さったんです。
−−それが「翼をください」ですね。
Jeff:はい。そのプロデュース、レコーディング、アレンジをやらせて頂きました。
−−それだけの大物の中で初プロデュースですか。すごいですね。
Jeff:湯川先生は「人生最初で最後の大きい仕事になるかもしれない。今はこのスケール感とか、これがどれだけすごい仕事がわからないと思うから」とおっしゃっていましたね。
−−「ウィ・アー・ザ・ワールド」みたいな感じですものね。
Jeff:みなさんそう言ってくださって、すごいびっくりで。それでCDを出して、その収益で国連を通してアフガニスタンの子供たちにサッカーボールやユニフォームを送ったんですよ。
−−でも、日本人だったらそこまで思い切ったことはできなかったかもしれませんね。
Jeff:本当にそうなんです、その当時は英語でメールとか、留守電を入れたりしていて、そういうのをあえて面白がっていた人たちもいたんですが、大半の人は「しょせん外国人なんだろ」「これ以上は伸びないんだろ」と思っていたと思うんですよ。僕も「日本語があまりしゃべれないことはデメリットだな」とか「日本人としての勝負じゃなくて、ちょっと変わった日系人としてしか見られていないんだな」と分かった瞬間に、今はいいかもしれないけど、果たしてこのまま行って、どれだけ需要があるのかなって考えたんですよね。で、このままでは将来性がないし、ダブルカルチャーという環境にいるならば、日本人としても、アメリカ人としても、あるいは韓国人としても100%できなくてはいけないと思い、そこからは日本語の会話も文法も必死に勉強しました。
5. 「自己主張せずに、仲良く仕事をしてみよう」〜道を切り開いた”cowrite”への転換
−−「翼をください」以後は順調だったんですか?
Jeff:いや、そんなことはなかったです。例えば、Boyz II Menやリア・ディゾンさんなどのプロデュースをやらせて頂いたんですが、なかなか難しい状況でした。それで2005年にコンペでw-inds.さんの楽曲制作をさせて頂いたのですが、その「夢の場所へ」という楽曲がオリコンデイリーで1位、最終的に2位になったんですね。それが初ヒットでした。
−−当時は事務所に所属されていたんですか?
Jeff:所属していなかったんですが、ちょっとお手伝いしている方がいまして、その方からいわゆるアイドル系の音楽、つまり自分の中のアイデンティティには当時理解力が無かった曲をいっぱい作れ、このメロディを研究しろと言われたんですよ。でも、僕は洋楽やHipHopが好きだったので、そういった音楽は「ダサい」と当時思っていて(笑)。まだ日本の音楽の価値観が分からなかったですし、自分が作りたい音楽も作れない、メロディ感とかコード感もわからない、メロディもなんだかわざとらしいし、「何なんだろう」とか思いつつ音楽を作っていて、本当に音楽が嫌になっていたんですよ。
しかも、誰も音楽を使ってくれない、収入もない状態で、そのときスペースシャワーでナレーションの仕事もやっていたので、それでなんとか食い繋いでいましたけど、もうそろそろ音楽もギブアップして…って追い込まれていたときに、奇跡的に今のSpontania、当時のHi-Timezに出会ったんですよ。彼らも「一緒に作ろうよ」と言ってくれたんですが、彼らはもう自分たちで音楽を作れていたので、「僕は一体何をすればいいんだ?」と考えたんですよね。僕が入ることによって、さらにいいものを作らないと一緒にやる意味がないじゃないですか。
−−確かにそうですよね。
Jeff:それまではproduced by Jeff、written by Jeff、strings、remix…etc.ともう全部が「by Jeff」じゃないと気が済まない自分がいたんですが、自己主張せずに、人と仲良く仕事をしてみようと思ったんです。Spontaniaとリアルタイムで意見を交換しながら音楽を作る、限られた時間の中で作業をする、そういう力を合わせていい音楽を作ることを学んだんですね。つまりcowriteですよね。そしたら、Def Techのマイクロさんが当時ユニバーサルでやっていたレーベルの第一弾アーティストとしてSpontaniaが誘われて、我々の頑張りがやっと形になったんです。
その一年後にはJUJUさんとも出会いました。当時Spontaniaはニューヨークにずっといたんですが、そのときJUJUさんもニューヨークにいてSpontaniaとJUJUさんは一緒にやっていたんですね。それで、もう一回コラボレーションを再開してみようとSpontaniaがJUJUさんに声をかけたんですよね。その頃アンサーソングやコラボレーションの波があって、僕らもその波に乗ろうと。JUJUさんは高い歌唱力とすごい表現力をもっている人で、トラックをもとにみんなでリアルタイムにメロディと歌詞を書いて、それがSpontania feat. JUJU「君のすべてに」という楽曲になり大ヒットしました。
つまり僕は「自分だけ」というこだわりからみんなで一緒に作っていくことの良さを覚えた瞬間に、それがヒットに繋がったんですよね。そして「君のすべてに」のアンサーソング「素直になれたら」で伊藤由奈さんとお仕事するようになり、また西野カナさんとのお仕事に繋がっていきました。
−−「君のすべてに」をきっかけに一気に仕事が増えたんですね。
Jeff:’09年はリアルにCD50枚出しましたから。
−−50枚ですか!? すごい数ですね。
Jeff:すごかったですよ。しかも、ほとんどのアーティストさんと一緒に共作したり、一緒にリアルタイムで作っていましたから。
−−録りもご自分でされるんですか?
Jeff:録りは全部やっています。だから外のスタジオへ行っても、僕がPro Toolsを操作しないと気が済まないんですよ。そして自分が好きなテイクをリアルタイムでコンプしていますし、セレクションもしています。
−−もう天才じゃないですか。
Jeff:いや、天才というか楽しんでやっていますね。だから、作業はすごく速いと思います(笑)。
−−確かにあとから聴き直してセレクションとか面倒臭いですよね。
Jeff:それはないですが、ぼくのこだわりとして、ファイナルプロダクツが見えるようにレコーディングしています。やはり、アーティストさんも最終形が見えれば見えるほど気持ちも入りますし、どこに向かっていけばいいのか分かるじゃないですか? 例えば、ダンス系とかだったら、僕はリアルタイムでピッチを直したり、EQ、FXとかフランジャーとかかけています。
−−スケジュールの方もタイトなんですか?
Jeff:そうですね。多いときに本録り3本という日もあります。というのは、そのくらいの感じでやらないと楽曲たちを回していけないんですよ。朝11時〜15、16時、16時〜19時くらいで休憩を入れて20、21時〜1、2時とか…こう説明すると確かに滅茶苦茶働いていますね(笑)。
−−今日はスケジュールを空けて下さって、本当にありがとうございます。
Jeff:いえいえ(笑)。今日も朝ソニー・ミュージックパブリッシングさんに行って、このあと16時からシェネルさんのレック、19時からはユニバーサルさんの宣伝会議があって、その後某飲料メーカーさんのタイアップ曲の仕上げをしなくちゃいけないという。これでもまだ楽な日ですね。本当にキツイ日はすごいですよ! 朝本録りやって、昼本録りやって、夜本録りやって、深夜はテレビの収録とか。
でも、ジャニーズさんとか、アーティストの方々ってみんなそうじゃないですか? 朝取材やって、ラジオの生放送に出て、夜はフィッティングやって、次の日の台本を暗記するとか。人間って徹夜して、辛い思いして、「もうやりたくない!」と思っても、なんだかんだこなすんですよね(笑)。それで次はそれが普通にできたりするもので、つまり、人間の馬力や人間のポテンシャルというのは、常に追いつめられないとネクストステージに行けないんですよね。自分一人では行けないですし、いきなり「やれ」と言われても無理ですしね。だから日々自分を追い込むような生活をしています。
6. エンターテインメントのストーリーを描く
−−今、音楽業界はCDが売れないとか予算がないとか色々言われていますが、この現状をどのように解決していったらいいと考えられていますか?
Jeff:解決と言うよりかは、進化ですよね。エンターテインメントというものには必ず需要がありますし、売れていないと言われる中でも嵐さんはシングルが80万枚近く売れ、AKB48さんもシングルだけでミリオンとか記録を作っているじゃないですか? もちろん、彼らは別格だとしても、みんなと同じフォーマットで作品を出しているわけですし、やはり音楽の需要や、みんなの欲しいものというのは、まだまだあるんですよ、きっと。ですから、「なぜ、このCDは売れて、このCDは売れないのか?」という問いの中に、アンサーがあるんじゃないかなと僕は思いますし、そこには必ず進化があると思うんですよ。その進化はアーティストさんかもしれないですし、プロモーションかもしれないですし、何かしらの進化で売れているということなんじゃないでしょうかね。
また、エンターテインメントのストーリーがしっかりしているものは、やはり売れます。今はエンターテインメントと言っても音楽だけではなく、映像もすごく大事ですし、メディアもありますし、そういったものを駆使して、どうやって人のハートを動かすのか、感動してもらうのか、というストーリーがしっかりしているものは売れる。それが本物のエンターテインメントであり、ビジネスだと僕は思っていて、個人的にそっちへシフトしています。やはり人に感動を与えたいという想いが強いですし、自分だけの自己満足ではいけないと思うんですよ。よく「オリジナルアルバムを作らないんですか?」と訊かれるんですが、僕がやっても自己満足の世界になると思いますし、今はそこに興味がないんですよ。まあ、それが売れなかったときに、心のダメージも大きいだろうなぁとも思うんですけれども…(笑)。
−−(笑)。Jeffさんは制約があったほうが仕事しやすいんでしょうか?
Jeff:それはありますね。でも“人を必ず感動させる”というストーリーがなければ、実績は作れないですよね。自分もそんなに実績を出している人間ではないですし、僕はそこが目標なんですよ。
−−いやいや、充分実績は出されているでしょう。
Jeff:すごく熱が集まっているところというのは“感動を与えよう”と最高の努力をしている人たちが生み出していると思います。ジャニーズさんだったりAKBさんだったり。もう、最高なスタイリストさん、最高なカメラマンさん、最高な作家さんがチームを組み、何万曲から1曲を選んで、それをリリースしている。アーティスト側も寝ずにトレーニングして、世の中に出ているわけじゃないですか。
−−K-POPもそういった傾向が強いですよね。
Jeff:そうですね。韓国のアーティストたちのおかげで、今アイドルが売れているという面もあると思うんですよね。K-POPの波が一段落して、それから何が来たのかというと、アイドルやアニメ系といった音楽じゃないですか。その中でもダンスに対する努力や、音に対するこだわり、パフォーマンスグレードの高さ、スペックの高さ、というのは韓国のアーティストたちから学んだ結果なんじゃないでしょうか。
ジャニーズさんでも他のアイドル系の方でも、「何でこんなにクオリティの低いものが売れているんだ?」という作品はほとんどなくて、僕は相当高いレベルまで来ていると思うんですよ。踊れないアイドルまでも、がんばって踊れるようになっていますし、そうでなければテレビにそもそも出ていない。ですから、激選された人たちしかステージに立てないですよ、ということを大きく示してくれたんじゃないかなと思います。
−−なるほど。
Jeff:繰り返しになりますが、基本は“感動”と“努力”です。今は本当に頑張っている人たちが目立っているのだと思いますし、その努力にふさわしい成功だと思いますよ。僕もスタッフサイド、アーティストサイド、プロデューサーとしてどんどん頑張って、感動を与えられるように、価値のある作品を作っていきたいです。
話がちょっと戻ってしまうんですが、2009年にCDを50枚出したときの僕はもうオートパイロットのように音楽を作っていたんですよ。そんなときにソニーミュージックアソシエイテッドレコーズの木村武士さんから「あんた、良い曲作ろうとしているでしょう?」と言われて、「もちろんですよ」と言ったら、「それがダメなんだよ! 感動する曲を作らないとダメだよ。説得力ある曲じゃないとダメ」と言われたときにショックでした。 深く反省しました。
−−器用にまとめようとするなと。
Jeff:そうなんですよ。成功体験の一番の欠点って、自分のコピーをやり出すということで、それだけはやりたくないですね。ですから、僕は毎年少しずつジャンルを変えています。今年はダンス、来年はアイドルみたいな。ですから、新しいアーティストさんのオファーとか、そういった新しい出会いを大事にしていきたいんですよね。
−−自然に出会った人との経験を生かしていく。
Jeff:無理せずに、自然に出会った人との経験を活かすのが一番だと思いますね。やはり縁ってあるんですよ。そのときのために常に準備を整えておきたいですね。
7. 日本を拠点に世界へ音楽を発信していきたい
−−Jeffさんにとっては、結局どこの国にいるときが、一番楽しいんですか?
Jeff:それは日本です。僕はビジネスも日本でやるのが大好きですし、この緊張感がすごく好きです。例えば、日本だと14時スタートだったら、きっちり14時から作業を開始するじゃないですか?でも、ロスとかだと14時からと言っても、15時になってしまったり、スタジオで待っていたら「ごめん今渋滞中だから遅れる」と電話がかかってきたり、みたいなことが結構多かったりします。
−−結構ルーズなんですね。
Jeff:それがそのまま「じゃあ、また次回にでも」と、すごいユルい感じで仕事をしていて。もし、僕がロスにいたら一日中寝転んで、テレビとか観て、多分文句とか言っていると思います。「天気良いけどパッとしないよね」とか「なんでこの曲決まらないんだろう? 絶対A&Rの耳が腐っているんだな」とか、そんなひどいことは言ってないかもしれませんけど、多分ロスの環境とか周りのせいにしていたと思います。でも、日本の、何と言ったらいいのか…この24時間起きている感じ、日本の音楽業界を作ってくださっている諸先輩方の緊張感、24時間の中で奇跡を巻き起こす、この業界に僕は惚れているんです。
−−では、日本の音楽業界で仕事ができることは幸せだと感じていらっしゃるわけですね。
Jeff:本当に幸せですよ。今まで日本の音楽業界って、海外の作家さんやプロデューサーさんに対して憧れがあったじゃないですか。海外の有名プロデューサーが来日したら「わざわざ日本に来ていただいて、ありがとうございます」となっていたわけですが、今、海外の人たちはみんな必死に、日本へのプロダクトのために毎月何百曲、何千曲、何万曲送り込んできますし、入りたくても入れない海外の人たちがたくさんいますからね。そういう意味では僕たちの方が全然有利なんですよ。
今はビジネスとしては、みんな日本の方を向いていますし、やっと、アジア人が全世界に音楽を発信できるようになってきました。この前のPSYも含めて、アジアには優秀な作家さんがたくさんいますし、僕が1回プロデュースさせていただいたAZIATIXという韓国のグループは、リル・ウェインが所属するキャッシュ・マネー・レコードと、多額の契約金で契約を交わす時代なんです。
−−Jeffさんが手掛けるアーティストが世界へ羽ばたいたら最高ですよね。
Jeff:はい。アジア人がフィーチャーされる時代になったので、チャンスだと思います。まずは日本を大事にし、国内を固めておいてから、世界へ出て行けたら最高ですよね。幸せなことに、クリス・ハートさんや少女時代さん、BoAさん、Gummyさん、また台湾だとSHOWさんとか、本当に海外の素晴らしい才能の方たちとも一緒にやらせていただいていますし、「本当にJeffと一緒にやっていて楽しかったよ」と言って下さっているので、日本を拠点に僕ももっと頑張って、日本から世界へ音楽を発信していきたいですね。
−−これからもJeffさんが送り出す音楽を楽しみにしております。本日はお忙しい中、ありがとうございました。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
まさにあちこちから引っ張りだこ状態のJeff Miyaharaさんですが、トリプルカルチャーという環境にいたJeffさんのバイタリティーとサービス精神、そして音楽への情熱に圧倒されました。また、アーティストとともにいい作品を作るためには労を惜しまない、その姿勢に数多くのアーティストから支持される理由があるのではないかと感じました。あくまでも日本が拠点であり、日本の音楽業界が好きと語るJeffさん。これからどんなアーティストを、どんな作品を送り出してくれるのか、本当に楽しみです。