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第118回 山崎 芳人 氏 (株)キョードー東京 代表取締役社長

インタビュー リレーインタビュー

山崎 芳人 氏
山崎 芳人 氏

(株)キョードー東京 代表取締役社長

今回の「Musicman’s RELAY」は、マーヴェリック・ディー・シー・グループ代表 / 一般社団法人日本音楽制作者連盟 理事長 大石征裕さんからのご紹介で、(株)キョードー東京 代表取締役社長 山崎芳人さんのご登場です。美大在学中よりアルバイトをしていたキョードー東京に入社され、あらゆる裏方仕事をこなしながら日本中を駆け回った山崎さんは、84年ウィリアム・モリス・エージェンシーとの共同プロジェクト担当となり、エンターテイメント・ビジネスを学ばれ、2000年に代表取締役に就任。数多くの大物外国人アーティストを招聘され、同時にブロードウェイミュージカルの上演権を獲得し、日本でのプロデュースを手掛けられています。そんな山崎さんに下積み時代から最近のポール・マッカートニー、ローリング・ストーンズといった招聘の舞台裏など、たっぷりお話を伺いました。

[2014年1月21日 / (株)キョードー東京にて]

プロフィール
山崎 芳人(やまざき・よしと)
(株)キョードー東京 代表取締役社長


1971年、武蔵野美術大学卒業後、在学中よりアルバイトをしていたキョードー東京に入社。1984年に、アメリカの4大エージェンシーのひとつであるウィリアム・モリス・エージェンシーとの共同プロジェクト担当になり、本場のエンターテインメントビジネを学ぶ。2000年に代表取締役社長に就任。08年から12年まで、一般社団法人コンサートプロモーターズ協会会長を勤める。バックストリート・ボーイズ、ポール・マッカートニー、ボストン・ポップスなど、数々の来日公演を成功させ、ブロードウェイミュージカルの招聘及び上演権を獲得し、日本でのプロデュースを手掛ける。代表作に『シカゴ』『フォッシー』『フル・モンティ』『レント』『キャバレー』など。2012年には、『シカゴ』での、米倉涼子ブロードウェイ主演デビューを実現させ、同年の『ブラスト!』では、招聘公演としては初の47都道府県ツアーを成功させる。国外では、数多くのNYブロードウェイ作品のプロデュースに携わり、『ピピン』では2013年トニー賞最優秀リバイバル・ミュージカル作品賞を受賞。
2013年には11年ぶりとなる、ポール・マッカートニー来日公演を実現させた。

 

  1. ブラスバンドに熱中した中学時代
  2. 人形劇団の一員として東南アジアへ巡業〜キョード東京 内野次朗さんとの出会い
  3. 「車の運転ができて、体が丈夫ならいいんだ」日本国中を走り回る日々
  4. 興行史上最悪の赤字を生んだ“あの”アーティスト
  5. 10年に一回の大仕事〜ポール・マッカートニー、ローリング・ストーンズ来日
  6. 地味にコツコツ仕事を積み重ねてきた
  7. ライブに携わるということは、人に喜びを与えるということ

 

1. ブラスバンドに熱中した中学時代

−−前回ご登場いただいたマーヴェリック・ディー・シー・グループ代表 / 一般社団法人日本音楽制作者連盟 理事長 大石征裕さんとはどのようなご関係なんでしょうか。

山崎:私は一昨年の6月まで、全国コンサートプロモーターズ協会(ACPC)の会長をしていまして、音制連の理事長である大石さんと色々お話するようになりました。もちろん、その前からラルクのプロデューサーと我々プロモーターという関係はありました。

それで大石さんは日本人のアーティストを諸外国にどんどん出して行きたいということで、あるときラルクのNY、London公演を手伝って欲しいとお願いされました。AEGとライブネイションという全世界をマーケットとしたプロモーター集団がいるんですが、そのAEGを通してNY公演とLondon公演をやりたいと。二年前に亡くなった弊社の嵐田三郎はAGEとの接点を色々と模索し、日本人アーティストを海外に持っていこうとしていたんですね。それで、NYではマディソンスクエアガーデン、LondonではO2アリーナでやろうとか、大石さんにAEGをご紹介しながら話をさせてもらったのが一番強い接点です。

−−ラルクの海外公演が大きな接点だったと。

山崎:我々は黒子役と言いますか、AGEさんとの橋渡しをしたような感じです。結果、マディソンスクエアガーデン、O2アリーナともに公演は成功しましたし、その後の日本公演も協力させていただきました。

−−ここからは山崎さんご自身のお話を伺っていきたいのですが、お生まれはどちらですか?

山崎:長野県松本市です。本当に寒い土地で、家は風呂がなくて銭湯に行っていたんですが、頭を洗って家に帰ってくると坊主頭が凍っているんですよね(笑)。

−−(笑)。どんなお子さんでしたか?

山崎:私は松本市の中学校の吹奏楽部でブラスバンドをやっていました。その頃から体が大きかったので「体のでかい奴が音楽をやるなんていかん。スポーツをやれ」なんてことを言われたんですが、音楽が好きでブラスバンドをやっていました。

−−その頃はどんな音楽を聴いていらっしゃったんですか?

山崎:マーチばかりですね。やはり吹奏楽がメインですから。音楽との縁は中学の3年間のブラスバンドしかなくて、その後、大学は美術大学に行きました。でも、美大では成績が悪くて、ほぼ自分の才能にギブアップし、それでなんとなくこういうビジネスに入ったということです(笑)。

−−海外のミュージシャンには美大卒の人が一杯いますけどね。

山崎:私は武蔵野美術大学のデザイン専攻で、どちらかというと舞台装置、照明、コスチュームデザインとかそっちのほうが専攻だったんですが、ちょうど大学4年の頃というと学園紛争の時期で、学校へ行ってもつまらないし、才能のあるヤツと出来の悪いヤツとかなり差ができちゃうんですよ。武蔵美の同期で一番才能があったのが黒鉄ヒロシさんで、彼は恐らく2年で中退したんじゃないですかね。抜群にデッサンが上手な人でした、

−−武蔵美に入るときにはなにか志があったのですか?

山崎:なんですかね…美しいことというか美意識を感じるようなことをやってみたいと思っていました。ただそれだけだったのかもしれないですね。それと美大に行くと女の子が多いということですね(笑)。その当時デザイナーブームのハシリみたいな時期で、カッコよくて何かいい思いができるんじゃないかという感じだったんですよね。

−−美大に男子はまだそんなにいない時代だったんですか?

山崎:私は武蔵野美術大学の4年制だったんですが、2年制の短期大学は90%が女性ですね。4年制でいうと、男と女が半々。ですから石を投げれば女にぶつかるというくらい女の子ばかりだったので結構楽しかったですね。それで1、2年は基礎を色々学ぶんですが、デッサンは本当に上手くならなかったですね。かなり努力はしたんですけどね。

−−ちなみに大学4年も含めて運動はなにもしなかったんですか?

山崎:実は高校からラグビーを始めまして、大学2年までやったんですが、美大のラグビー部なんていうのはボトムなんですよね。そのボトムのさらに下は東京芸術大学、芸大なんです(笑)。みんな芸大を落ちて武蔵美に来ていますから、一年に一度の芸大との定期戦だけは頑張るんです。「俺たちラグビーで負けたらなんの取り柄もない」と(笑)。

−−そこだけは勝つと(笑)。

山崎:そうです(笑)。後は全部負けというひどい有様だったんですけどね。美大生として仕方ないところかもしれないですが、どうしても手を使う仕事が多いので、ラグビーで怪我なんかすると一年間落第しなくちゃいけないんですよ。そんなわけで、みんな大体2年くらいで運動は辞めちゃうんです。

 

2. 人形劇団の一員として東南アジアへ巡業〜キョード東京 内野次朗さんとの出会い

−−大学時代はバイトなどなさっていたんですか?

山崎:人形劇団の美術をやっていました。具体的には装置を手伝ったりする運転手と荷物運びのアルバイトをしていたんですよ。人形劇団は、午前中は幼稚園や小学校を回って、日本昔話とか、そういう子供の教育的な演目をやるんです。でも、それだけでは食えませんから夜になるとナイトクラブでちょっと艶っぽい演目をやるんです。

−−えっ、ナイトクラブで人形劇をやるんですか?

山崎:そうです。キョードー東京には、米軍キャンプや赤坂のニューラテンクォーターに代表されるナイトクラブにエンターテインメントを供給していたという歴史があります。ラテンクウォーターとかそういうナイトクラブには、フランス人のムーランルージュからダンサーを招聘していたんですが、やはりそれだけではつまらないということで、内野二朗さんたちが「日本人のレビューチームを作って、それを日本国内や東南アジアに派遣しよう」と42、3年前に始めました。そのレビューチームというのは当然ダンサーもいますし、ストリッパーやボーカリストもいるんですが、そこには必ずジャグラーとか、パペットとかそういった人たちもいたんですね。

−−それは知りませんでした。

山崎:衣装替えも含めて、お客さんがちょっと視覚の違ったもの見るためにそういう出し物が必要だったんですが、あるとき、内野さんが私がバイトしていた人形劇団の演目を観に来たんです。それで、その人形劇団がキョードーの作ったレビューチームと一緒に半年間東南アジアへ行くという話でしたので、内野さんに「ギャラはいりません。荷物運びでもストリッパーのパンツ拾いでもなんでもやりますから、連れてってください」と直談判しました。

−−それは人形劇団にいながらキョードーの仕事をさせてくれとお願いしたんですか?

山崎:そうですね。「半年間東南アジアに行けるんだったら、大学はもう1年間くらい休学してもかまいません」と言ったら「分かった」と。ただ、僕は人形劇団の所属だったので、人形劇団として三人の演者のうちの一人になれるようだったらいいということで、僕はそれから約3ヶ月間、即席で色んなことを教えられて、演目もできるようにトレーニングしました。加えて、衣装替えの荷物運びとか他の仕事もあるわけですよ。

−−その東南アジアでの日々は楽しかったですか?

山崎:給料ゼロでしたけど本当に楽しかったです。バンコク、シンガポール、香港、と非常に楽しくやっていました。「給料はいらない」と言いましたが、食事代ということで一日3ドルもらっていました。当時の3ドルは今で言うと千円ちょっとですから、そこそこ飯は食えたんですが、酒も飲みたいですし、女の子とも遊びたいとなると足りないので、他のバイトで稼いだお金を全部使い、キョードー東京からも借金して、日本に戻ってきました。で、両親に「実は会社から金借りちゃったから、悪いけどちょっと返して」という話をして…。

−−親に泣きついたんですか(笑)。

山崎:そうです(笑)。それでキョードー東京の事務所に親と一緒に行って、内野さんに「大変お世話になりました。これは息子が借りたお金ですので返します」と親が言ったら、内野さんも「ご苦労様でした」と。続けて「山崎、お前はこれからどうするんだ?」と言われて、「学校に戻っても…」と言うと「じゃあ、お前は昼間学校に行ってこい。ナイトクラブのショーは20時半頃からだから18時頃会社へ来て、外国人のダンサーの送迎をしたり、譜面のチェックをしたり、荷物運びしたりしろ」と言われました。でも、「出勤時間は18時でいい。昼間は学校に行け」と言われたって、そんなんで学校へ行くわけないじゃないですか(笑)。

−−(笑)。

山崎:それから毎日ケセラセラな生活を送っていたんですが、親から「きっちり卒業はしろ」と言われて、半年ほどでそういう生活を止めて、会社にも「僕はきっちり卒業したいので、バイトは辞めます」と申し出ました。それで、卒業制作に取り組んで、全部終わる頃に内野さんからまた電話がかかってきて、「お前、今何している?」と言うので、「卒業制作も終わって、今のんびりしています」と言うと、「会社がめちゃくちゃ忙しいから、ちょっと手伝いにきてくれ」と。そりゃ恩があるので行きますよね。

−−卒業制作が終わって、自分からキョードー東京へ戻るという選択肢はなかったんですか?

山崎:一応、一般企業の宣伝部へ就職は内定していたんです。だからキョードー東京に戻るつもりはなかったんですけどね。もし、その会社へ行っていたら、どんな人生だったかはわからないです。その頃、ブラッド、スエット&ティアーズのライブを武道館でやったんですよ。私はそれを観に行って、その日から荷物運びをして、トラックでツアーに出ちゃったんですよね(笑)。それで大学から「なんで就職の最終面接日にも来ないんだ!」とすごく怒られて、ツアーというか出張から戻ってきたら、5年も学校にいて成績も悪いのに無理して卒業させて、就職まで世話したのにすっぽかすようなヤツはもう知らない、と学校に言われてしまったんですよね…。

−−学校からしたらそう言いますよね(笑)。

山崎:それでまた内野さんのところへ行って「就職なくなっちゃいました」と言ったら「そうだろう」って(笑)。それが昭和46年で、その年の6月にはシカゴ、7月はグランド・ファンク・レイルロード、秋になってエルトン・ジョン、レッド・ツェッペリンとすごく楽しい時代でしたね。

 

3. 「車の運転ができて、体が丈夫ならいいんだ」日本国中を走り回る日々

(株)キョードー東京 代表取締役社長 山崎芳人氏

−−当時、山崎さんのようなアルバイトはキョードー東京にいたんですか?

山崎:アルバイトなのか社員なのか、その辺は結構ボーダーレスだったんじゃないですかね。 全然会社っぽくなく適当だったと思います。

−−滅茶苦茶忙しかったということは単純に人が少なかった、ということなんでしょうか?

山崎:そう、単純に人がいなかったんです。それから、正式に社員に、という話になったときに、「すいません。僕は英語喋れません」と言ったら、「英語なんか必要じゃないんだ」と。では、なにが必要なのかというと「車の運転ができて、体が丈夫ならいいんだ」と言われました(笑)。

−−身も蓋もない答えですね(笑)。

山崎:それから約2年間、楽器車の運転手です。その当時は今のように、整理員のアルバイトとか雇わないで、全部自社の人間がやっていましたし、楽器車も社員が運転していましたからね。そういう意味では全国津々浦々、さすがに沖縄までは運転しなかったですが、北海道から九州まで運転していました。

−−まだ高速道路もロクにない時代ですよね。

山崎:そうですね。本当にこのまま居眠り運転で死んじゃうのかな、と思うくらい日本中を行ったり来たりしていました。

−−長距離トラックの運転手みたいですね。

山崎:ええ、まさに。コンサートがそんなに盛んな時代じゃなかったので、ナイトクラブのショーとかもありましたし、外国人のダンサーを連れて全国のキャバレー回りとか、もう何でもやりました。

−−山崎さんが入社した頃のキョードー東京はまだそんなに大きな会社ではなかったんですか?

山崎:業界では一番大きかったんですが、自主事業があまりなかったんですよ。勤労者音楽協議会(労音)さんのような鑑賞団体にコンテンツを供給することが多く、自主事業というのは、厚生年金会館やサンケイホールで年に1回だけとか、米軍周りとかしかなかったですね。

−−キョードー東京は最初グランドファンクとかロックグループを手がけていたのが、途中からラブサウンズ、イージーリスニング系はキョードー東京、ロック系はウドー、という風に棲み分けができましたが、そのいきさつはなんだったんですか?

山崎:うちの会社は永島達司さんがボスで、永島さんがコンテンツを供給してくれて、ナイトクラブと一般公演はキョードー東京、週末の米軍はウドーさんがやっていたんですが、ベトナム戦争が終わり、米軍がかなり日本から撤退して、米軍キャンプのビジネスが少なくなってきたんですね。それと同時にキョードー東京が手掛けたロックやラブサウンズはものすごく反響があって、それだったらカテゴリー別に分けようか、ということでラブサウンズ、MORのキョードー東京、ロックのウドーみたいな棲み分けを永島さん、内野さん、有働さん、嵐田たちがしたんですね。

−−なるほど。

山崎:先日、ニッポン放送さんが開局60周年を記念して放送した「NEXT STAGEへの提言」という番組で、齋藤安弘さんと一緒に出演したんですね。それで安弘さんと二時間くらいしゃべったんですが、大嵐の後楽園球場で行われたグランド・ファンク・レイルロードの公演の話とか、キョードー東京のラブサウンズ・シリーズの一番の目玉だったカーペンターズの話ですとか、色々お話しました。カーペンターズは、ニッポン放送さんと組んで、チケットを応募はがきから抽選するというキャンペーンをやったんですが、ニッポン放送の第一スタジオに50万通のはがきが集まったんですよ。

−−50万ですか! すごいですね。

山崎:あと、ベンチャーズは120公演とか全国津々浦々回っていたんですが、そのチケット封筒にひまわりの種をとめて、「ベンチャーズのチケットにはひまわりの種があります。みなさんどこでもいいから種をまいて下さい」と。そうするとオールナイトニッポンで「沖縄の○○さんのひまわりが芽を出しました」と放送したり、コンテンツとメディアとのコラボレーションをしていたんです。

−−その「ひまわりの種」は山崎さんのアイデアですか?

山崎:アイデアというほどのものではないですが、何か面白いことをやろうということで、私どもで考えました。ベンチャーズに「ひまわり君」という曲を作ってもらったりね(笑)。結構楽しくやっていました。

−−ロックコンサートやラブサウンズ市場の規模が一気に拡大した時代に、山崎さんは立ち会ったということですよね。

山崎:そういう点では面白かったなって思いますけどね。

 

4. 興行史上最悪の赤字を生んだ“あの”アーティスト

−−山崎さんの長いキャリアの中で一番の失敗は何ですか?

山崎:ニッポン放送さんとの番組で、「また会いたいと思うアーティストさんはたくさんいらっしゃると思いますが、二度と顔を見たくない!という方はいらっしゃいますか?」という質問をされまして、皆さん「なるほど!」となると思いますが、10年程前に、ロシアの2人組の女性ユニットがいたじゃないですか? あれは、私が知っている中で最大の損害、興行的にこれ以上の失敗はないというほど最悪だったわけですよ。

−−t.A.T.u.ですね(笑)。TV番組をドタキャンしましたよね。

山崎:そうです。そのドタキャン娘たちが東京ドームのコンサートだけドタキャンしなかったんですよ。彼女たちはキャンセルが当たり前でしたから、「コンサートをやらなきゃギャラは払わない」と我々もプロテクションしていたんです。契約の問題なんですが、ザ・ローリング・ストーンズやポール・マッカートニーといった大物は、全額デポジットです。これは仕方ないんですが、t.A.T.u.に関しては、先に払っちゃったらキャンセルされる恐れがあったので、エスクロー口座という、要は供託金なんですが、中立の口座に決まった金額を入れました。このお金は、お互いに納得した条件をクリアしないとアーティストサイドにリリースされない、という口座で、これを利用することが割合多いんですよ。コンサートをやらなかったらお金は戻ってくる、やったら彼らのもの。だから、二公演やらなかったらお金が戻ってくる、と踏んでいたら、コンサートはちゃんとやるんですよね(笑)。

−−(笑)。

山崎:やらない方が損は少ない、というくらいチケットが売れていなかったんです。

−−やはり売れなかったんですね。

山崎:はい、もうワースト記録ですね。東京ドーム2回で恐らく実質1万枚くらいです。

−−東京ドームで、ということ自体ビックリですね。

山崎:あの当時あれだけアルバムが売れていて、あれだけ騒がれていたら、東京ドーム2日間が埋まるだろうという感じだったんですね。これは偶然ですが、今、ニッポン放送の専務をされている宮本幸一さんもわざわざ日曜日に電話かけてきて「山ちゃん、t.A.T.u.決まったら絶対のるから必ず声かけてくれよ」と言うくらいの盛り上がりだったんですよ。でも、気持ちいいくらいチケットが売れない。

−−どうして売れなかったんでしょう?

山崎:「ミュージックステーション」をすっぽかしたことで、全メディアを敵にしてしまって、露出は多いんですが、その扱い方が好意的ではなくなってしまったんですね。例えば、公演の初日にカメラが40台も取材に来たんですよ。これで色々なところで扱ってもらえるな、と思ったら、カメラは席ばかりを撮影して「こんなに空席があります」とか、「金券ショップでチケットが数百円で売っています」とか、そういった扱いなんです。あれだけネガティブにやられたら、誰もチケットを買わないです。公演が終わった後で「みなさんに損をさせてしまって大変申し訳ございません。必ずリカバーしますので」と言ったら、「山ちゃん、これだけ見事に負けちゃったら、もう笑っちゃおうぜ」みたいな雰囲気でした(笑)。

−−(笑)。

山崎:中途半端な結果だったら「馬鹿野郎!」となっていたでしょうけど、これはもうしょうがないよという感じでした。

−−天災にあったみたいなものですよね。

山崎:誰もが「顔も見たくない」と言うくらい、t.A.T.u.は興行史上最悪の赤字でした(笑)。

−−最近、またCMに出ていますよね。

山崎:10年ぶりくらいに出てきたから、なにかおかしいなって思うんですけど。

−−絶対信用しない?

山崎:信用しないです。でも、彼女たちはそんな悪い子じゃなかったのかもしれない。彼女たちのプロデューサーが社会主義国のアピールの仕方と言いますか、自由諸国の人たちに対して全てアゲンストするというスタンスに原因があったんじゃないかなと思うんですよね。嫌なことを言えば言う程、世の中が騒ぐというような錯覚で。事実、初めのうちは上手くいっていたんですよね。一番ひどかったのは、日本テレビのニュースに出るというので「絶対におかしなことをしないように」と念を押したんですが、本番一分前に北方領土のメッセージが書かれたTシャツに着替えたんです。それでもう叩かれて叩かれて…本当に大変でした。

−−反対にこの仕事をやっていてよかったなと思った瞬間はいつですか?

山崎:「ブラスト!」というミュージカルをご存知ですか? ブラスバンドパフォーマンスのミュージカルグループで、当時日本では誰も注目していなかったんですが、私はアメリカで公演を観て「これはいい!」と思い、日本に招聘しました。おそらく外国人アーティスト、いわゆるブロードウェイのプロダクションがこれだけ日本で幅広くマーケティングされているというのは、「ブラスト!」が最初で最後だと思います。この金のかかる時代に全国47都道府県全て回りましたから。

−−ヴェンチャーズの全国公演を思い起こしますね。

山崎:私の原点は、エンターテインメントをその地域、地域に供給する、プレゼンテーションするということですから、そこに戻ったような感覚でした。ヴェンチャーズはメンバー5人ですが、「ブラスト!」はアメリカから35人、日本人のクルーもいれると約50人の大所帯ですしね。それでも、「ブラスト!」バンドのマーケットというのが全国にあるんですよ。高校生、大学生、あと私みたいに小さい頃ブラスバンド少年だったいう方が結構いて面白いです。

−−全国にファンがいるのは強いですよね。

山崎:外タレというのは全国にマーケットがあるんですが、今はお金がかかるからほとんど東名阪くらいしか行かなくなっちゃいました。それで行かないからマーケットが育たない。ですから、きっちり供給してあげた方がいいのかなと思い、「ブラスト!」もやっているんですけどね。

−−「ブラスト!」というのはブラスバンドが演奏するだけなんですか?

山崎:演奏するだけです。とはいってもそれが全部ストーリ-になっていて、ダンスになっているんです。パフォーマンスとしては非常に上手いし、面白いです。

−−うちの娘も小6でブラスバンドやっています。

山崎:是非今年の夏は観に来て下さい。プログラムもあるので、本当にブラスバンド少年少女が面白いってみんな言いますね。

 

5. 10年に一回の大仕事〜ポール・マッカートニー、ローリング・ストーンズ来日

(株)キョードー東京 代表取締役社長 山崎芳人氏

−−昨年のポール、今度のローリング・ストーンズと大きな仕事が続きますね。

山崎:こういう公演って10年に一回あるかないかなんですよね。

−−なるほど…ポールは日本に対してどのようなイメージを持っているんでしょうか?

山崎:最終日の公演をご覧になりました?

−−いえ。私が行ったのは東京公演の初日でした。

山崎:東京の最終公演日に、我々も感謝の気持ちを込めて何かしようという話になって、事前に言うとポールもシャイなところがありますから「嫌」と言うので、完全にシークレットにしようと、ダブルアンコールの「イエスタデイ」になった瞬間に振ってもらうように、事前に観客全員にサイリウムを渡したんです。その5万本のサイリウムを見て、「こんな嬉しい事はない」とポールがウルウルきちゃって。それまでは福島の人に向けたデリケートなコメントをずっとしていたんですが、最終日はそれが言えないくらいポールは感動していました。で、そんなことも含めて「感謝している。是非また来日したい」と言っていました。

−−おお! 凄いですね。

山崎:ポールは71歳ですけど全然問題ないですよ。

−−ポールはとても若々しくて、パフォーマンスも素晴らしかったですが、何かトレーニングしているんでしょうか?

山崎:彼はリンダが存命のときからだと思うんですが、完全にベジタリアンなんですよね。ですからそういった食事と、後は運動をきっちりしていますね。もちろん、ケータリングは全部ベジで、我々も一日一回はそのケータリングルームで食事するようにしていました。でも非常に上手く料理していましたね。野菜だけで寿司を作ったり、本当に上手く作っていました。

−−それは専属コックが作るんですか?

山崎:そうです。コック3人と買い出し隊が3人来日していますから、お金かかってたまんないですよ(笑)。それで朝昼晩全部出ますからね。

−−ポール一行は全部で何人だったんですか?

山崎:ポール以下120名くらいですね。でも、ステージの上は5人だけですからね。

−−120名ですか…それも契約に入っているんですよね。

山崎:はい。大変な契約です(笑)。ゼロの数が我々の感覚と全然違います。

−−でも素晴らしい公演でしたし、大成功でしたよね。

山崎:ありがたいことにポールもストーンズも完売です。アベノミクスじゃないですけど、今は消費税値上げ前のバブリーなときかなという感じがします。でも、あまりご理解してもらえないんですが、為替で我々はえらい目に遭っているんです。一年半前は1ドル78円、今日は105円ですから、30%違うわけです。当然ドル契約ですからキツイですよ。

−−欧米のチケット料金と比べると日本のチケット料金は安いんですか?

山崎:安いです。アメリカの方がもっと高いです。平気で350ドルとかしますからね。去年の夏、ストーンズがハイドパークに10万人集めてコンサートやりましたが、前の方の席は1000ポンドですから日本円で約14万です。

−−ロックもすごいビジネスになりましたね。

山崎:本当に凄いビジネスだと思います。

 

6. 地味にコツコツ仕事を積み重ねてきた

−−山崎さんのキャリアの中で84年の「ウィリアム・モリス・エージェンシー」との共同プロジェクトはやはり大きな出来事だったんでしょうか?

山崎:そうですね。ウィリアム・モリスというのは一番古い、最大手のエージェントなんですが、色々な意味で「エンターテイメントビジネスとは何か」をきっちり教えてくれました。例えば、幾ら原価があって、どうやって儲けているのか、そういうことだとか、いわゆるユニオンに対する経費はどのくらいかかるとか、そういった目に見えないことまで色々と勉強になりましたね。

−−先ほど学生のときは英語が喋れなかったとおっしゃっていましたよね。

山崎:ええ。僕はこの業界に入ったときには一言も喋れない形でスタートしました。その後、仕事を通じて喋れるようになっていったんですが、それでも私の英語力は100点満点で10点くらいのものだと思うんですよね。ですが、英語のスペシャリストは周りにたくさんいますし、仕事の流れでどこにどんな盲点があるか、これまでの経験値で俯瞰して見ることができるかが英語より大切だと思いますね。

−−山崎さんはブロードウェイにも何度も行かれていると思いますが、演目など大体理解できるんですか?

山崎:いや、全然分からないです(笑)。でも、流れの中で、どこが面白くて、どこの装置がよくて、というのは何となく分かります。あと、これは日本だったら受けるのか受けないのか、その部分は分かっているつもりですけどね。でも、分からなくてもいいんだと思うんです。もし字幕出したりしたら話が進みませんしね。

−−そういえば、ポールのMCは同時通訳していましたね。すごいですよね。

山崎:あれは新宿のスタジオへ音を飛ばして、翻訳してすぐに送り返してくるんです。ですから、東京でも大阪でも福岡でもどこでも数秒遅れで字幕が出せるんですよ。

−−観ていて「すごい時代になったな」と思いました。あとステージサイドのスクリーンもずいぶん進化していますよね。

山崎:大きくて、昔より全然クリアですからね。

−−山崎さんはプライベートでもコンサートは結構観られるんですか?

山崎:大体仕事関係になってしまいますが、それは自分のライフスタイルですから。仕事も含めて年間で百公演くらい観ているんじゃないでしょうか。

−−山崎さんは叩き上げで社長にまでなられたわけですから、そのキャリアの中でいくつかポイントがあったんじゃないですか?

山崎:それはありましたね。正直言って外から見れば「あの人の方がふさわしい」というライバルは結構いたのかなと思うんですよ。先ほども話しましたように体はでかいんですが、意外と地味にコツコツ、例えば、地方周りが好きとか、そういう感じでしたので、そういう意味で言ったら私は地味なタイプだったと思いますけどね。

−−地道にお仕事を積み重ねられた結果であると。

山崎:地道だったと思いますけどね。私は色々な意味で会社に大きな損をさせてしまったり、訴訟問題になったり、そういう失敗をしたことも結構ありますし、「もうダメだ」と思った瞬間、会社をクビになるか、責任をとって辞めなくてはいけないという瞬間もかなりありました。そういったときにしぶとく粘ったのか、ラッキーだったのか、その辺はわかりませんけどね(笑)。

−−t.A.T.u.では大丈夫だったと(笑)。

山崎:t.A.T.u.では大丈夫でしたね、あれはもうみんな揃って笑っちゃったから(笑)。

−−失敗もそこまでいくと(笑)。

山崎:そう。あそこまで気持ち良く失敗したから。それに、「t.A.T.u.公演をやろう」と言ったらみんな「ブラボー!」「いいじゃない!」って言っていましたからね。誰も入らないなんて思わなかった。それがものの見事に外れたんだから「みんな同罪」というところはあるじゃないですかね(笑)。

−−今のライブエンターテインメント業界、広い意味では音楽業界だと思うんですが、こうすれば良くなるのに、と思うところは何かありますか?

山崎:今の日本のマーケットの中で言うと、やはり日本人アーティストが圧倒的で、75%くらいは日本人アーティストですよね。私はそれを良いことだとは思うんですが、一方でライブの本質を見つめ直すべきだと思います。例えば、ポールはシンプルなステージで、ギター一本でドームを埋めて、お客さんを満足させている。それに比べて、日本人アーティストの一部はステージセットやバックにたくさんお金をかけて、それに見合ったパフォーマンスをしているかと言ったら、私は疑問です。ですから、もう一度「骨太なライブって何なのか?」と考え直してもいいんじゃないかと思います。

−−今、キョードーさんが扱っているアーティストで、邦楽と洋楽はどういう比率になりますか?

山崎:扱っている本数や公演数で言いますと、圧倒的に日本人の方が多いです。でも、プロフィットや営業的なことを考えると、3分の2が国内で、3分の1が海外になるでしょうか。

−−自信をもって海外へ連れて行けるようなアーティストを待望している?

山崎:もちろんそうですよ。日本人は言葉の問題でなかなか難しいところもありますが、そういうアーティストに出てきてもらいたいです。

 

7. ライブに携わるということは、人に喜びを与えるということ

(株)キョードー東京 代表取締役社長 山崎芳人氏

−−まだ呼んでないなというアーティストや、是非自分でやりたいなというアーティストはいますか?

山崎:自分でどうのこうのっていうわけじゃないですが、2012年11月ですから14ヶ月くらい前なんですけど、ロサンゼルスのハリウッドボウルという2万人入る野外コンサート場で、71歳のバーブラ・ストライサンドを観たんですが、彼女ってまだ日本に来ていないですよね。

−−来てないですね。

山崎:とにかく、世界一売上の多いアーティストというか、彼女は富裕層に支持者が多く、ユダヤ人ですので、その繋がりでチケット代が15万とか20万しても売れますし、それプラス、寄付金もどんどん集まるんですよ。でも、日本人はいわゆるユダヤの人たちに対して100万円を寄付しようと思う人は誰もいないじゃないですか。だから招聘するのは難しいんですよ。

−−昔、シナトラが来日したときに「よく来たな」と思ったりしましたけどね。

山崎:シナトラはあくまでもエンターテイメント・ビジネスとしてコンサートをやっていますから分かりやすいんですが、バーブラの場合はコンセプトがあるわけです。ブルックリンのバークリーセンターのこけら落としがバーブラだったんですが、なぜかというとバーブラがブルックリン出身だからで、ツアータイトルが「バック・トゥ・ブルックリン」。ブルックリンでスタートして、最後は映画でお世話になったハリウッドでコンサートをやると。

−−なるほど…バーブラ、観たいですけどね。

山崎:バーブラは良い曲がたくさんありますよね。「追憶」とか。でも、彼女のビシッとしたジョークはなかなか日本人には分からないと思いますけどね。政治の批判も結構するんですが、ちょうどオバマが再選された後だったので、共和党が負けた話をグチャグチャしていました(笑)。

−−最後になりますが、山崎さんの目指すライブ・エンターテインメントとはどういったものでしょうか?

山崎:うーん、それは語り尽くせないですね。

−−ライブなりエンターテインメントがもっと人々の生活の中で身近になってほしいですよね。

山崎:その通りだと思いますね。別にそれは東京だけじゃなくて、全国どこでもそうだと思います。それとライブというものをもっと大事にしてもらいたいですね。別に音楽だけじゃなくてもいいですが、ライブというのは、人間との空気感のあるコミュニケーションですから。インターネットとかそういうものだけじゃなくて、ライブというものをもう少し大事にしてもらえたらなと思いますね。

−−ライブ関係の仕事というのは、おそらく今の音楽業界の中で1番人気で、専門学校 等で話を聞いても「ライブの仕事をしたい」と思っている若い人が多いみたいです。

山崎:そういう意味ではキョードー東京も応募が非常に多いんですが、よく話を訊いてみると「本当に音楽が好きなの?」と思うような、音楽がそう好きでもないような人が多いんです。音楽はファッションみたいなところもあるのかもしれませんし、本当にライブが好きだったら「じゃあ、君たち週に何回ライブ観ている?」と訊くと意外にそうでもないという。その辺がよく分からないですね。

−−では、ライブ・エンターテイメント業界を目指す若い人たちにメッセージをお願いします。

山崎:ライブに携わるということは、人に喜びを与えるということです。まずそこを理解して欲しいです。そして、私もそうだったんですが、まず裏方をやらない限り、アーティストを引っ張ってはいけません。ライブ・エンターテインメントを目指してくれるのなら、やはり最後はプロデューサーになって欲しいですが、そのためにはやはり裏方からしっかり積み上げていかないと難しいのではないかなと思います。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。山崎さんのご活躍とキョードー東京の益々のご発展をお祈りしております。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 学生時代から今と変わりなく音楽の様々な側面に携われていた大石さんは、レコーディングからライヴまであらゆることに精通し、まさに現場の方という印象でした。バンドと共に行動し、考え、悩み、実践する、その行動力が「ラルク アン シエル」を始め、数々バンドを成功に導いたのだと感じました。また、早くから日本以外にも目を向けられ、アジア、ヨーロッパに足を運ばれていた大石さんの経験と知識は、今後コンテンツを海外に送りだそうとしている日本にとって、ますます重要になってくるのではないでしょうか。

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