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第119回 菊地 哲榮 氏 (株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長

インタビュー リレーインタビュー

菊地 哲榮 氏
菊地 哲榮 氏

菊地 哲榮 氏 (株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長 

今回の「Musicman’s RELAY」は、(株)キョードー東京 代表取締役社長 山崎芳人さんからのご紹介で、(株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長 菊地哲榮さんのご登場です。早稲田大学在学中に応援部で活躍した菊地さんは、渡辺プロダクション入社後、ザ・タイガース、沢田研二、木の実ナナ、天地真理など多くのアーティストのマネージメントと新人発掘を担当。独立後、ハンズ(現 ハンズオン・エンタテインメント)代表取締役に就任され、松任谷由実、アリス、ミスチル、ケツメイシ、森山直太朗、KARAなど数多くのコンサートを手掛けられてきました。今回は渡辺プロ時代のお話から、菊地さんの考えるコンサート&エンターテイメントビジネスまで、たっぷり伺いました。

[2014年2月13日 / (株)ハンズオン・エンタテインメントにて]

プロフィール
菊地 哲榮(きくち・あきひで)
(株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長


1946年1月9日北海道函館生まれ。
‘68年、早稲田大学理工学部電気通信学科及び早稲田大学体育局応援部卒業後、
渡辺プロダクションにて、ザ・タイガース、沢田研二、木の実ナナ、天地真理のマネージメントを担当。
‘78年独立後、松任谷由実、アリス、ミスチル、ケツメイシ、森山直太朗、KARAなどコンサートの企画制作会社ハンズ代表取締役(現ハンズオン・エンタテインメント)。他に2000年さいたまスーパーアリーナこけら落とし「NINAGAWA 火の鳥」、第19回福岡国民文化祭2004、2007年7月1日千葉市美浜文化ホールこけら落とし「美浜に吹く風」、2011年5月14日、東日本大震災支援チャリティコンサート等プロデュースを担当。
2010年04月子会社3社を吸収合併,現在、(株)ハンズオン・エンタテインメント代表取締役社長
趣味:スキューバダイビング、麻雀
現在、(社)日本音楽制作者連盟常務理事、千葉市美浜文化ホール芸術監督(初代館長),早稲田大学メディアネットワークセンター講師、 早稲田大学校歌研究会座長、早稲田大学応援部稲門会会長

 

    1. 文武両道の少年時代
    2. 「エンターテイメントは素晴らしい!」〜早稲田大学応援部での日々
    3. 渡辺プロダクション入社後、アーティストマネージャーに
    4. 新人セクションで天地真理を発掘〜全てはアーティストのため
    5. 細川健さんに見込まれてハンズの代表に就任
    6. ライブはアナログ、ゼロに近づくメディアにならない
    7. ライブを通じて「感動=幸せな未来」を伝えたい

 

1. 文武両道の少年時代

−−前回ご登場頂いたキョードー東京 山崎さんとはどういったご関係なんでしょうか?

菊地:山崎さんとは取引先という関係なんですが、ハンズ(現 ハンズオン・エンタテインメント)はもともとヤングジャパングループとキョードー東京グループが50%ずつ出資して作った会社なんですよ。

−−ハンズがヤングジャパン系列というのは存じ上げていましたが、キョードー東京も関係していたんですね。

菊地:ええ。ヤングジャパン50%、キョードー東京50%でスタートしたんです。それまで外国人アーティストしかやってこなかったキョードー東京グループが国内アーティストもやろうということで作った会社がハンズで、たぶん一発目はアリスだと思います。ハンズの初代社長はキョードー東京の内野二朗さん、私は2代目で、正式には昭和56年の1月からやっています。

−−ここから菊地さんご本人の話に移りたいんですが、ご出身はどちらですか?

菊地:北海道函館市堀川町で生まれ、会所町という町で大家族に囲まれて育ちました。今は名前が変わってしまったんですが、そこは函館山と函館港の中腹くらいにあって、よくソリに乗って遊んでいました。

−−函館って、すごくおしゃれな街ですよね。横浜とか神戸に通ずるような。

菊地:まず、食べ物が美味しいというイメージがありますね。あと函館山から見る夜景が素晴らしいです。香港に並ぶくらいの夜景ですね。函館は良い思い出ばっかりですね。

−−函館にはおいくつまでいらっしゃったんですか?

菊地:小学校2年までいたんですが、親父が関わっている事業が失敗したらしくて、逃げるように東京へ引っ越しました。今だったら飛行機でひとっ飛びですが、当時は青函連絡船で行くわけですよ。それで船の上からどんよりした津軽海峡を見て、見送りの紙テープが舞う中「もう帰ってこられないな、じいちゃん、ばあちゃんにも一生会えないな」と思いました。もちろん金がないですから自由席の汽車を乗り継いで、上野駅に到着しまして、千代田区立神田小学校に通うようになるんです。

−−またずいぶん都心に引っ越されたんですね。

菊地:神田小学校はオシャレな小学校でした。運動会のときに紅組と白組に分かれるじゃないですか。それで紅組、白組のどちらかが早稲田大学校歌「都の西北」を替え歌にして歌っているんですよ。もう片方は慶應の応援歌「若き血」で。

−−それはみんな早稲田か慶應のどちらかへ行くということですか?

菊地:いや、よく分からないんですけどね。でも、当時、神田小学校から千代田区立一橋中学校、それから日比谷高校、東大というのが、貧乏な公立通いにとっての出世コースだったんですよ。

−−いきなり函館から来て、ギャップがあったんじゃないですか?

菊地:雰囲気が全然違いますから、もうわけわかんないですよ。でも、神田小学校の先生たちのおかげで中学校は一橋中学校に行ったんですが、通うのが大変だったんです。というのも小学校5年の途中で、船橋の山奥に親父が家を建てちゃったんですよ。そこから学校が遠くて、弟をかばいながら総武線の超満員電車に乗って通学していました。

−−いきなり遠距離通学になっちゃったんですね…。

菊地:ひどい遠距離ですよね。1時間以上通学にかかりました。それで親父とお袋に「自転車で5分か10分のところに中学校があるのに、なんであんなとこまで通学しなくちゃならないんだ」と言ったんです。どうやら親父は一橋中学校、日比谷高校、東大という例の出世ルートを歩ませたいと思っていたらしいんです。

−−で、船橋の中学に転校したんですか?

菊地:そうです。そしたら、なんにも勉強しなくても学年1番か2番なんですよね。

−−船橋の中学はそんなにレベルが低かったんですか?

菊地:レベルが全然違うんですよ。私は一橋中学校では真ん中くらいの成績だったんですが、転校した中学校ではいつも1番か2番で、そうなると人間おかしいもので、それを保つために勉強するんですよね。その中学校は地元の悪ガキがたくさんいて、とにかく荒れた学校でした。

−−ちなみに中学時代は何か部活をしていたんですか?

菊地:器械体操部と卓球部の両方に入っていました。それで高校は県立千葉一高に進んだんですが、そこでは器械体操部に入っていました。当時、千葉で国体があって、国体がある県は3位ぐらいまでが出場できて、国体に出場した記憶があります。

−−まさに文武両道ですね。

菊地:そうですね(笑)。器械体操部では高校3年生のときキャプテンになったんですが、運動部のキャプテンが集まって、夏の甲子園の千葉大会の応援をするために応援団を作ったんですよ。そのときに応援の指導をして頂いたのが早稲田大学応援部の先輩で、応援以外にも学校や親父が教えてくれないようなことを色々教えてくれたんです。例えば、恋愛のこととか、夢を持つこととか、友達は大事とか、いろいろな話をしてくれました。それまでそんなことを考えたこともなかったので目から鱗で、「やっぱり大学は早稲田だな」と思ったんです。でも親父もお袋もそんなにお金を持っていないですから、国立大学へ行って欲しいじゃないですか。それで国立も受けたんですが落ちて、受かったのは早稲田の理工学部だけだったんです。それで「まあ、いいか」と通わせてくれました。

−−それでも早稲田の理工ってすごくレベルが高いんじゃないですか?

菊地:私は国語とか地理とか全然駄目で、理系教科で受験できるところといったら、当時、早稲田の理工くらいしかなかったんです。あと東京商船大学の二期も受けて「商船大学もいいな」と思ったんですが、そのまま早稲田大学 理工学部の電気通信学科に入って大型コンピューターのフォートランという言語を勉強しました。

−−ちなみに大学でも器械体操をされたんですか?

菊地:いや、さっき話した先輩が応援部だったから、すぐ応援部に入っちゃったんですよ。

 

2. 「エンターテイメントは素晴らしい!」〜早稲田大学応援部での日々

−−応援部というのはくわしく知らないんですが、やはり独特の世界なんですか?

菊地:他の運動部って当たり前ですが試合があるので、自分の体のこと大切にするんですよ。つまり、歩けなくなるようなしごき方は絶対しないんですね。

−−あまりやり過ぎると試合に出られなくなっちゃいますものね。

菊地:そうです。でも、応援部には晴れの舞台はあっても試合がないですから、すごいしごかれ方をするんですよ。20段も30段もある石段をウサギ跳びで上がるさまを想像してみて下さい(笑)。

−−私の知っている応援団に対する知識は、まさに漫画「花の応援団」の世界と言いますか、ああいう怖いところなのかなと思ってしまうんです。

菊地:もちろん、そういう雰囲気は多少あるかもしれませんが、早稲田大学応援部は「一般学生の模範たれ」というテーマがありました。部がかざしている言葉に「逞しい根に美しい花を」というのがあるんですが、人前で応援する、その花のような出来事もやはり日頃の地道な訓練あってこそですし、あくまでも選手たちが花であり、俺たちは根っこであると。

−−いわゆる硬派ですか?

菊地:硬派ですね。チンピラでは一般学生の模範にならないですから。とても真面目で硬派です。春と秋の6大学野球は必ず全部応援、それ以外に箱根駅伝、サッカー、バレーボール、アイスホッケー、空手、ボクシング、レガッタとあらゆるスポーツの応援に行きました。ちなみにラグビーはあの当時集団応援してはいけなかったんですよね。

あと、早稲田大学応援部吹奏楽団とニューオーリンズジャズクラブ、ハイソサィエティオーケストラ、ナレオハワイアンズ、あとタモリがいたダンモ(モダンジャズ研究会)。これらが集まって各地区のOB会に呼ばれて、演奏旅行という全国ツアーをするんですが、私はそこで司会をやったりしていました。

−−それも応援部の仕事なんですね。

菊地:そうです。毎年10カ所近く行っていました。また、応援部主催の稲穂祭という学園祭を大隈講堂でやるんですが、その当時のトップアーティストたちを呼ぶんですよ。それで「なんでこんなビックアーティストを早稲田大学応援部は呼べるんだろう?」と思って先輩に聞くと、応援部や剣道部、空手部の先輩たちが渡辺プロにいると。しかも渡辺社長も早稲田なんだよ、と言うんですね。

−−なるほど。

菊地:私が3年生のときに稲穂祭の責任者になるんですよ。それで渡辺プロへ行ってザ・ピーナッツとか森進一とかの契約をしてくるんです。

−−要するに今やっていることは学生時代から変わらないんですね(笑)。

菊地:全く同じです(笑)。それで3年のときにザ・ピーナッツを呼んで200万くらい利益が出たんですよ。その当時の200万って、今の2、3,000万ですからね。その200万円をアタッシュケースに詰めて、それを銀行に持っていって「貯金お願いします」って。学生服を着た男がね(笑)。

−−すごいですね。菊地さんはそういったお金を管理する役割だったと?

菊地:応援部には代表委員主務と代表委員主将という役職があって、主将がいわゆる団長で、私は代表委員主務、つまりマネージャーだったんですよ。ですから全運動部をまとめたり、予算管理をしていたんです。

その次の年の昭和42年、全世界の学生のオリンピック、ユニバーシアードが開催されたんですが、世界中の学生アスリートが集まるから、そのアスリートたちを早稲田に呼んで、日本の武道、文化を色々見てもらって文化交流しようと計画したんですね。それで計算したら予算が200万だったんですよ。去年の稲穂祭で200万利益を出した経験がありましたから「ショーをやって、その資金を稼ごう」とまた渡辺プロへ行って、今度は伊東ゆかりさんに出てもらえることになったんです。あのときの伊東ゆかりさんといったら、全盛期の宇多田ヒカル、安室奈美恵とか浜崎あゆみみたいなイメージですよ。

−−「小指の思い出」の頃ですか?

菊地:そうですね。それで1万人収容できる早稲田大学記念会堂でやろうと。切符は完売して超満員になりました。一部が早稲田の学生アスリートの集い、二部が早稲田のOBの集い、そして三部が伊東ゆかりショーという構成で、チャーリー石黒と東京パンチョスというバンドがバックを務めました。それでショーが始まって、バッと照明をたいた瞬間に停電。まあ、これはよくあることですし「そのうち復旧するだろう」と思っていたら、全然復旧しないんですよ。

−−それは冷や汗ものですね…。

菊地:5分でも長いのに10分経っても復旧しなかったので、出演者の皆さんに別棟へ移動してもらって、時間稼ぎをしたんですが、それでも復旧しないので客席がザワザワしているんです。私も「200万の利益が200万の借金になってしまうかもしれない…」とビクビクしていました。

それで伊東ゆかりさんのマネージャーに「すいませんけど、これで歌って下さい」と単一の電池が入った応援部で使っているメガホンを渡したら「いいかげんにしろ! 伊東ゆかりを何だと思っているんだ!」と怒られて…そりゃそうですよね(笑)。そうしたらチャーリー石黒さんが「2、3曲歌ってあげたら?」とそのマネージャーを説得してくれたんですよ。

−−助け船を出してくれたんですね。

菊地:そうです。電気楽器はエレキギターだけで、ピアノ、ウッド・ベース、サックス、トロンボーン、ドラムとみんな生でしたしね。それで伊東ゆかりさんがメガホンを持って歌ったんです。私は急いで客席の一番端へ行って確認したら、伊東さんの歌声がちゃんと聞こえるんです。一万人入る会場ですよ? なぜかといったらみんな事情が分かっていますから、物音一つ出さずにシーンとしているんですよ。そのときはものすごく感動して、涙が止まらなかったですね。

それで2曲メガホンで歌って、3曲目の1コーラスか2コーラス目で、電気が復旧したんです。こんなの、演出しようと思ったってできませんよ(笑)。照明が七色に光り、お客さんもすごく盛り上がって、当然歌声もマイクに代わりますし、バンドもフルボリュームで演奏するわけです。そりゃ、感動しますよ。まさに地獄から天国でしたね。

その瞬間に「やはりエンターテイメントは素晴らしいな」と思いました。こういった感動をみんなに観てもらいたい、聴いてもらいたい。こういう仕事はいいなと思ったんです。

−−そこで菊地さんの道が決まったんですね。

菊地:ええ。それから今まで、私の仕事は何も変わってないですからね。

−−結局、伊東ゆかりさんの公演も利益が出たんですか?

菊地:計画通り200万ほど利益が出て、それを資金にユニバーシアードのアスリートたちを大隈庭園に招いて、剣道や空手、お花をやったり茶道をやったりしました。それで、庭園に提灯をぶら下げたんですが、これは学生たちに全部持っていかれましたね (笑)。「やばいな! これ返さなくちゃいけないのに…」って(笑)。

 

3. 渡辺プロダクション入社後、アーティストマネージャーに

(株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長 菊地哲榮 氏

−−菊地さんは大学卒業後、渡辺プロダクションに入社されますが、やはり先輩から誘われていたんですか?

菊地:そうですね。だって学生の時から、3〜4年渡辺プロに通っているんですからね (笑)。

−−渡辺プロダクションの同期は何人くらいいたんですか?

菊地:男が私を入れて4人、女性が3人でした。その年は渡邉美佐副社長が「女性を多く採ろう」という方針だったみたいです。渡辺プロに入ると新人研修を鎌倉の円覚寺で座禅をやるんですよ。朝の4時に起きて、掃除してね。

−−それはどれくらいやったんですか?

菊地:5泊6日くらいだったんじゃないですかね。私は応援部ですから、そんな研修、屁のカッパなわけですよ。でも、私だけ笑って楽勝ではまずいから、「こんなことやらされてたまんないよな」なんて言うんですが、心の中では「楽勝だな」って(笑)。みんなヒーヒー言っているんですから(笑)。

−−ちなみに落伍者はいたんですか?

菊地:いましたね。「こんなの耐えられない」って辞めた人はいました。馬鹿らしいって。確かに馬鹿らしいんですけどね(笑)。私はこの手の理不尽と矛盾には強いんです(笑)。

−−新人研修のあとは各部署に配属されるんですか?

菊地:新人研修後、「タイガースの現場に行け」と言われたんです。タイガースは昭和42年にデビューしたんですが、私はタイガースのことを全く知らなかったんです。もっと言うと髪の長いメンバーたちを見て「ああ参ったな、大学出てこいつらのマネージャーか…勘弁してくれよ」と。最初タイガースのことを「阪神タイガース」のことだと本気で思って、「渡辺プロは球団まで持っているのか」と思っていたくらいですから(笑)。

−−それが「ザ・タイガース」だったわけですね(笑)。

菊地:それでタイガースのマネージャーをやって、旅に一緒についていきました。大変でしたけど、面白かったですね。女の子が大挙大勢でワーって来るからとにかく大変です。今でこそ、駅とか空港には勝手に入れないですが、当時は楽勝ですからね。空港なんて柵がなかったんですから、タラップの近くまで女の子が来るんですよ(笑)。

−−渡辺プロの仕事は体育会系じゃないとこなせない感じがしますね。

菊地:そうですね。かなり肉体派じゃないと無理だと思います。あと、ホテルから出られないんですよ。今だったら上手く警備がついたりして脱出して、ご飯食べたら戻ってくるみたいなことができますが、あの当時はホテルから出られない。ですから食事も何もかもホテルの中で済ませるんですが、給料1万8千円の時代に何千円もするステーキを食べるわけです。もちろんそれは会社の経費ですが、アーティストと一緒に同じものを食べますから、ビッグ・アーティストと一緒にいるのもいいものだなと思いました(笑)。

−−(笑)。

菊地:現場マネージャーをやっていて、私は地元の営業の人と揉めるわけですよ。なぜ揉めるかというと、守るためにアーティストサイドに立ちますから、アーティストからクレームが出ないように準備するじゃないですか。その準備を事前に伝えてあるのに、それをやらないとか、お願いした楽器がない、似ているけど違うとか、言っているのにやっていないから怒るわけです。で、私があまりにも怒るから、営業会社から会社の上司に圧力がかかって、半年くらいでザ・タイガースの担当を外されました。

−−きっちり仕事をしているのに理不尽な話ですね。

菊地:次に伊東きよ子さんの担当になって、それから木の実ナナさん。実は事前にうちの班でマネージャーがついていないアーティストを調べていて、奥村チヨさんは売れていましたからマネージャーがついていたんですが、木の実ナナさんにはついていなかったので、楽屋に押しかけていって「もしよかったら私がマネージャーやります」と勝手にマネージャーになっちゃったんです(笑)。

−−そういうことが許される時代だったんですね(笑)。

菊地:そうですね(笑)。そのあと、園まりさんを担当しました。今はもうないですが、当時500〜1000人規模のグランドキャバレーが日本中にあって、そういった場所を回っていくんですね。ステージは一日3ステージあって一回目と二回目の間にキャッシュを回収するんですが、それが何百万にもなるんですよ。入社して2、3年の社員によくそんな回収をさせますよね(笑)。

−−まだ23、4歳ですよね。

菊地:ええ。そういうツアーを何回かやって、あるツアーのときに園まりさんに専属のギタリストをつけて、テンポとか音合わせ用に楽譜と何十箇所分の進行表のコピーを渡して「あとは頼むな」って。

−−つまり…菊地さんはツアーに帯同しなかったんですか?

菊地:「俺は東京で仕事が忙しいし、一緒についていても仕方ないし、このギタリストに全部任すから。付き人もいるし大丈夫だよね?」って園まりさんに言ったら「はい」って感じだったんですよ(笑)。そうしてアタマ一日だけ立ち会って、そのギタリストに言い含めて、私はトンズラしちゃったんですよ(笑)。

−−(笑)。

菊地:園まりさんたちが西日本のキャバレーを回っている間、私は大阪の梅コマにいたんです。そこで「布施明ショー」をやっていて、ゲストが奥村チヨさんと木の実ナナさんで、女房と一緒にナナさんに会いに行っていたんですね。それで夜どんちゃん騒ぎをしていたら、制作部長に何故か電話で捕まっちゃって「すぐ帰ってこい! お前なんかクビだ!」と言うわけです。でも、「そこまでにはならないだろう」と高をくくっていて、会社へ行ったら制作部長から「お前、クビだから。総務部長に言ってあるから」って言うんですよ。

−−それはピンチですね…。

菊地:実は総務部長は早稲田の先輩で、その人の所に行ったら、「今忙しいんだよ。夜、雀荘にいるから来いや」と言われて、夜、雀荘に顔を出したら麻雀しているんですよ。でも総務部長はヘタで「あっ、それ切っちゃ駄目。これでリーチですよ」とか言って、私は全然反省してない(笑)。で、麻雀が終わったあとに「お前、なんかチョンボやらかしたらしいな」と言われて、「お前はどうしたいんだよ」「いや会社は辞めたくないです」と。そうしたら「人事異動だな」と言われて、新人セクションに左遷させられたんです。

 

4. 新人セクションで天地真理を発掘〜全てはアーティストのため

−−新人セクションってどのような仕事をするんですか?

菊地:北は北海道、南は九州まで東京音楽学院という学校があって、そこに新人を溜めておくわけです。レッスンをさせてね。私が「この子は音程がフラット気味になるから修正して」「この子はリズム感が悪いから」とか指示して、半年に一回デビューさせてもいいかなという新人を集めて、東京で社長にプレゼンするという役目なんです。そこで出会ったのが天地真理です。まだデビュー前の18か19の頃でした。

−−菊地さんが天地さんを発掘されたんですね。

菊地:そうですね。可愛い子だなと思って、歌わせてみたら男のファルセットっぽい声を出すんですよね。「特徴的な声だし、これはいいかもしれない」と思いました。普通、新人セクションはデビューするまで担当して、デビューさせる段階になると、担当は制作セクションに移動するんですが、「ずっと天地のマネージャーをやろう」と考えました。

それでTBSドラマ「時間ですよ」のオーディションを受けさせたんです。オーディションの役は風呂屋のお手伝いさん役で、天地真理には全然合わないなと思いましたが、「まあいいや」と(笑)。するとオーディションに受かっちゃって、しかもそのお手伝いさん役ではなく、天地真理用に新たに役を作ると言うんです。一説には森光子さんが「真理ちゃんのために新たな役を」とおっしゃってくれたらしいんですが、ディレクターの久世光彦さんも「任せておけ」と言ってくれましてね。

−−すごいですね。それだけ天地さんに光るモノがあったんでしょうね。

菊地:でも、初回の台本を見ると天地真理の役が載っていないんですよ。思わず「あんまりじゃないですか」と久世さんに詰め寄りました(笑)。それでやっと出番と思ったら、2階に上がって、白いギターで「恋はみずいろ」を歌う天地真理、それを下から堺正章が見ているという5秒くらいのシーン(笑)。再度、久世さんに「1時間番組で5秒はないじゃないですか」と言ったら、「あれでいいんだよ。セリフなんて言ったってダメなんだから」「いやセリフくらいくださいよ」とお願いしたら、「ケンちゃーん」という一言だけ(笑)。

−−(笑)。

菊地:「何なんだよ、あれは」みたいな感じでした(笑)。そのうちマチャアキが天地真理をおぶったり、少しずつ出番が増えてきて、「あの子は誰だ」という投書もどんどん来るようになったんです。それで天地真理の人気が出てきて、昭和46年10月に「水色の恋」でデビュー、あれよあれよとベストテンに入りました。

−−結果的に仕掛けはバッチリだったんですね。

菊地:バッチリでしたね。当時、渡辺プロは会社を挙げて小柳ルミ子を売ろうとしたわけです。同時期にアイドルは2人も必要ないですし、こっちは全然ダークホース。向こうは大人数に対して、こちらは私とCBSソニーの中曾根さん、渡辺音楽出版の中島さんの3人でやっていました。もちろん全社挙げての小柳ルミ子はドーンと売れるわけですよ。こっちはこっちでギリギリベストテンに入ったくらいで、「これくらいがちょうどいいな」と思っていたんですが、2曲目の「ちいさな恋」で1位になっちゃうんですよね。

−−私はその頃、中学生くらいですからよく覚えていますが、圧倒的に天地真理派の方が多かったですね。同年代はみんな「天地真理が好き」って言っていました。

菊地:ブリヂストンが天地真理のスポンサーになって「真理ちゃん自転車」とか色んなものを作っていたんですよ。そこからお金を集めて、とにかく色んなイベントをやりました。例えば、応援部で培った人文字で “真理”と書いて、上からヘリコプターでその画を撮るとか、「恋する夏の日」のときは夏のリゾート地のテニスコートを全部借り切って、「テニスコートで真理ちゃんと遊ぼう」というイベントをやったり、天地真理のステータスを上げるのに懸命でした。

−−天地さんがそれだけ売れると、菊地さんも渡辺プロ内で一目置かれるようになったんじゃないですか?

菊地:いや、私は変人扱いされていたので。普通は上司が「この仕事をやれ」と言ったらやらなきゃいけないじゃないですか。でも、私はアーティストのためにならないと思ったら、全て拒否していました。例えば、営業部が「○○市のイベント」とか勝手にスケジュール帳に書くじゃないですか。私はそれをすぐ消すんですよ (笑)。

−−えらい強気ですね(笑)。

菊地:全てはアーティストを守るためです。

−−それはマネージャーの理想型ではあるんでしょうが、会社組織の中では許されなかったんじゃないですか?

菊地:会社組織には合わないですよ。結局、天地真理と私はケンカ別れするんですが、ケンカ別れをして喜ぶのは会社です。天地真理をやっと思い通りにできるわけですからね。その後、井上堯之バンドと沢田研二のマネージャーを担当するようになって、そこで井上堯之さんと出会うんです。

−−タイガース解散後ですね。

菊地:そうです。1974年8月4日に内田裕也さんが郡山ワンステップフェスティバルをやるんですよ。いわゆる日本版ウッドストックで、キャロル、クリエイション等、渋めのロックバンドがたくさん出ていて、そこに沢田研二&井上堯之バンドが出たんですよ。その同時期に「ジュリー・ロックンツアー’74」というのをやりました。これが私の記憶にある「初めての大型全国ツアー」なんですよ。それまでは地方の興行師の方達が「この日に来てくれ」と依頼されたスケジュールに従って行くだけだったんですが、「この日からこの時期まで全国ツアーで回るぞ」と連絡し会場を押さえて、沢田がデザインした11tトラックで全国を回るんです。それが今ある全国ツアーの原型ですね。

−−そこは全部自分で会場を仕切るわけですよね。

菊地:全部仕切ります。主導権はこちらにありますから。それで全国ツアーをやって、ツアー途中に地元の人たちとの野球大会をやったりね。こちらから主体的にエンターテイメントを持って行くという感じでしょうかね。

−−当時はそういう考え方はなかったんですか?

菊地:あんな大がかりなのはなかったですね。沢田研二のようなビッグアーティストがやるのは初めてだと思います。ツアーは大成功で、みんなキャッキャッ喜んでお祭り騒ぎのようでした。

 

5. 細川健さんに見込まれてハンズの代表に就任

(株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長 菊地哲榮 氏

−−菊地さんは78年に渡辺プロを退社されていますが、渡辺プロでの最後の仕事というのは何だったんですか?

菊地:渡辺プロでの最後は再び新人セクションにいまして、そこで最後に知り合ったのが、松原みきというアーティストです。

−−「真夜中のドア」の松原みきさんですね。

菊地:そうです。私は「会社にいるのは10年くらいかな」と思っていて、その頃がちょうど10年目で、色々考えているときに子どもが病気にかかるんですね。女房から電話がかかってきて、泣きながら「再生不良性貧血」だと。これは白血病の一種だそうで、血小板ができない病気なんです。今だったら脊髄移植で治せるそうですが、当時はその治療できなくて。それで辞表を出したのが女房の誕生日の5月15日。1ヶ月後に受理。子供が亡くなったのが6月16日でした。

−−亡くなられてしまったんですか…。

菊地:ええ、会社に辞表を出してちょうど1ヶ月後です。3歳半で亡くなりました。子どもが病気になったのは会社を辞める1つの大きな理由でした。それで辞表を出した後は2〜3ヶ月、ポカーンとしつつ「何しようかな」と考えていて、選択肢は3つあったんですよ。1つは、行けたかどうか分かりませんが理工系の会社に入る。もう1つは、もちろん音楽の仕事。3つ目は代議士の秘書。

−−代議士の秘書ですか?

菊地:そうです。学生の頃、親父の友人の、政治家のパーティーに行って「フレー!フレー!」と応援エールをやっていたんですよ。「おじさん、頑張りましょう!」とか言って(笑)。それで、その人は私が退職したということを親父から聞いていたので、親父から「秘書に来いって言っているぞ」と。それで議員会館の近くでその人に会って話を聞いたんですが、「やっぱり違うな」と思ったんです。

−−でも、ちょっとは考えたんですか?

菊地:ちょっとは考えました。面白いかもしれないなと思って。もしかしたら今頃、代議士になっていたかもしれないですね(笑)。それで、私が先に渡辺プロを辞めたら、続いて辞めたのがいたんですよ。それは藤田君という渡辺プロの後輩で、一緒に天地真理の宣伝プロモーションをやっていた宣伝部の人で、彼から「音楽の仕事、一緒にやらない?」という話になりました。あと、細川健さんが「一緒にやろうよ」と誘ってきて、ポケットパークという会社を1978年11月に創ったんです。

−−細川健さんとはどういう繋がりだったんですか?

菊地:渡辺プロとヤングジャパンで一緒にやった「アトリエ」というアーティストがいたんです。女性ボーカル、男性二人のギター&コーラスのグループで、その担当を私がしていて、細川さんとはアリスのコンサートの前座を無理矢理お願いしたりしました。それもあって、細川さんから声がかかったので、藤田君と「じゃあ3人で100万円ずつ出し合って、300万円で株式会社を作ろう」ということになったんです。その時点では、所属アーティストはゼロでした。その後、松原みきのお父さんが「娘がどうしても菊地さんにマネージメントしてほしいと言っている」といらっしゃったんです。私は「カネもないし、力もないから、やめた方がいいですよ」と答えたんですけどね(笑)。

−− (笑)。

菊地:「渡辺プロでやった方がいいですよ」と。それで一旦帰ってもらったんですが、「娘が絶対に菊地さんのところでやりたい」とまた来られたんです。そこで諦めて貰うために「でしたら渡辺プロに行って、ちゃんと話をつけてきた方がいいですよ」と提案したんです。

−−自分で言ってきてくれと。

菊地:はい、私が話をするんじゃなくて、お父さんが行って下さいと。「うまく話が収まるんでしたら考えます」と伝えました。そうしたらお父さんが話をつけてきちゃったんです(笑)。「話をつけてきました」というので、ビックリしました。確認のために渡辺プロにいる応援部先輩の高橋さんに「いいんですか?」と聞いたら、「いいよ。もう社長も“うん”と言ったから」「じゃあ、分かりました」と。正直参ったなと思いましたね(笑)。

−−菊地さんは「絶対に話がつくわけない」と思っていたわけですよね。

菊地:もちろん。だって、渡辺プロがお金をかけてレッスンさせて全部面倒見ていた子ですから、絶対に手放すわけないと思ったんです(笑)。そうしたら、説得してきちゃったというから、参ったなと。それで松原みきのマネージメントをやることになるわけです。

ポケットパークを作ったときに、社員が私と藤田、もう1人渡辺プロを辞めた関根君がいたんですが、とにかく収入源がないので、エピックの丸さん(丸山茂雄氏)に「関根を出向させるから何かお金になる仕事あげてくれない?」と頼んだら「あーいいよ」と。藤田は藤田で、パルコ劇場に出向。私は私で、オフィス・トゥーワンで音楽番組の雇われプロデューサーになりました。

−−なんだか人材派遣会社みたいな感じですね。

菊地:自分も派遣しちゃうんですけどね(笑)。その出向料で会社を運営していたんです。

−−では、オフィス・トゥーワンの仕事もしつつ、松原みきさんのマネージメントもしていたんですか?

菊地:ええ。松原みきは、ポニーキャニオンの金子ディレクターが手を挙げてくれて、ポニーキャニオンから1979年11月5日にファーストシングル「真夜中のドア〜Stay with me」でデビューが決まるんですよ。それで私もどんどんお金をつぎ込んでいくんですが、そうこうしているうちに会社のお金がなくなってしまって、もうダメかなと思ったときに「POCKET PARK」という会社名と同名のアルバムが約20万枚売れるんです。「これで会社が続けられる…」と思いましたね(笑)。

−−まさに綱渡りですね(笑)。

菊地:あと渡辺プロの頃から知り合いの、フジテレビプロデューサーの疋田拓さんが「夜のヒットスタジオ」に月一回も松原みきを出してくれたんですよ。これは助かりましたね。もう何の力もないですし、お金も全然なかったのに、疋田拓さんは「松原みきが個性もあって面白いから」といって出してくれたんです。それで「夜のヒットスタジオ」出演の影響もあって売れていくんです。

それで松原みきが売れたので、「菊地は渡辺プロから独立してもアーティストを売り込む力がある」と細川さんに見込まれて、「ハンズに来て社長をやってくれ」と声がかかるわけです。でも、私にはポケットパークがありましたし、ずっと断っていたんですよ。それが何回と口説かれて、ポケットパークを続けることを条件に、昭和56年1月からハンズの社長をやり始めました。細川さんは結構気前が良くて、びっくりするくらい給料をくれたんですよ。「こんなにくれるんだったら一所懸命に頑張らなきゃいけないな」と思いました(笑)。

−−(笑)。

菊地:「これ、もらい過ぎなんじゃないの?」と言ったら、「いや、社員にもこれくらい出しているから」と(笑)。「分かった。じゃあ、給料分ちゃんと働くよ」と働き始めて、初めにしたのは地方のイベンターさんに会いに行くことでした。それはなぜかというと、イベンターさんたちは「アリスは自分たちが売った」と自負していたんですよ。それがハンズを作ったことによりキョードー東京グループへ移行しちゃったから、イベンターさんたちは怒っていたんですね。

−−キョードー東京に横取りにされたと。

菊地:それで「今度、ハンズの社長になった菊地です」と挨拶に地方をまわったら総スカンですよ(笑)。「俺たちがアリスを売ったのに、なんでキョードー東京なんだよ。ひどいじゃないか」とブツブツ言われてね。それは私がやったわけではありませんが、「ごめんなさい。また何かあったら一緒に仕事しましょう」ととにかく謝りました。「嫌だよ」とか言われましたが(笑)。

それで1980年に、佐野元春君がデビューするんですね。私は佐野君の曲を聴いて「面白い、これはいける」と思って、主にイベンターさんのネットワークに佐野君を紹介したら、皆さん是非、やりたいと返事が返ってきました。レコードもヒットしコンサートも全会場ソールドアウト、わーっと売れました。これでキョードー東京グループとイベンターさんの2つのネットワークができました。

−−なるほど。

菊地:ウチとしては複数のネットワークがあった方がいいじゃないですか。各地区のイベンターさんも必ず複数と取引しているんですよ。ウチのニューアーティストが出たとき全てのネットワークに紹介することで、より熱い担当者、よりいい条件で話が進められるんですね。

ウチの会社ってニュートラルなんです。どこと付き合ったらいけないというのがない。私は社員に「ここと付き合え」とか「ここと付き合うな」とか強制しないです。もちろん未収金があったり、チョンボがあったら駄目ですが、それ以外は好きにやれと言っています。自分が付き合って気持ちいい人と仕事やるのがいいよと。だからプロモーター・イベンターさんとの付き合いは多ければ多いほどいいと思います。選択肢が多くなりますし、アーティストに一番合った担当者、条件だって一番良いところとやれますからね。それは、プレイガイドさんも同様です。ぴあさんもローソンチケットさんもイープラスさんもCNさんも同じです。

 

6. ライブはアナログ、ゼロに近づくメディアにならない

−−まず、事務所が所属アーティストのツアーをやりたいとなったとき、ハンズオン・エンタテイメントさんに話が持ち込まれるわけですよね。タイトルとかテーマとかその辺は事務所が持ち込むわけですか?

菊地:事務所さんが持ち込んだり、こちらも提案したりして、同時に話し合いながらですね。「コンサートテーマ・内容・演出プラン」「コンサート時期」「会場規模」「動員数」「地区の各本数」とか。

−−骨格作りをするんですね。

菊地:そうです。骨格を決めていく。その情報を一斉にプロモーター・イベンターさんへ振ると、それぞれ各地区の会場の日程がバラバラに出てくるので、それを精査して日程調整していきます。次に制作費をどれだけかけようかとか、大体の予算を組みます。最近、プロモーター・イベンターさんはリスクを冒さないで、委託形式が主流です。1本やって手数料いくらというやつです。昔は、ハイリスク・ハイリターンで買い取ったんですが、今でも買い取るパッケージ型式なのはユーミンくらいかな。

−−1本いくらという。

菊地:1本いくらという買い取りパッケージ型式はウチでは、ユーミンだけですね。とはいうもののほぼ正確に計算できちゃうから、実際は委託に近いんですね。そういう意味では今は殆ど委託ですね。

−−コンサートの中身の演出とか、音響の設備とか、舞台とか、そういった話にも関わっているんですか?

菊地:もちろん関わっています。アーティストによっては、こちらが演出家を人選して「この人はどうですか?」「こういう演出はどうですか?」とプロダクションに提案する場合があります。ロック・アーティストの場合だとアーティスト或いはマネージメントがイメージしたものを、その通り作るのが優秀な舞台監督です。アーティストと舞台監督で作る過程で、私たちが参加して、舞台監督と一緒に制作費のコントロールするんです。

−−コンサートグッズの制作・販売の管理などもされるんですか?

菊地:もちろんです。グッズをコンサートの全体予算の中に組み入れないと、コンサートは成立しません。ウチの総売上の3〜4割以上がマーチャンダイズの売上です。当然、マーチャンダイズの売上は、当日キャッシュです。

−−一番ありがたいですね。

菊地:昔はただついでにグッズを売っていた感じでしたが、今は本格的に、特に大きなツアーに関しては戦略プランを考えないといけないです。まず売れ残り在庫を持った瞬間に利益は減るんです。儲かったと思っても売れ残り在庫の分を計算したら全然利益が出てないということがあります。在庫を残すと、倉庫代、管理料、廃棄代、配送郵送代、全部経費となりマイナスです。ですから、コンサート後は通販をして、とにかく在庫を減らすんです。

−−その読みが大変なんですね。

菊地:そのためには、当日に何が何個売れたかというのが即分からないとダメなんです。今は、小さなレジの物販用システムがあって、これを2~30台並べ、開演前3時間、終演後1時間くらい売って、データは全てそのシステムで管理しています。販売終了後、即パソコンで集計し、それを見て、無くなりそうなグッズの追加発注や、売れ残っているグッズを把握して「これは明日アンコールのときにアーティストに首に巻いて振ってもらおう」とか戦略を練るんです。「追加発注」は、1週間後、2週間後そしてツアー全体の読みで、売り切れをさせないようにする。逆に在庫が残りそうな商品は前の方に置くとか、とにかく智恵を使って売っていきます。

−−商品管理を徹底的にやらないと儲けが出なくなる。

菊地:レコードの市場規模は表に出てきますが、グッズって出てこないじゃないですか。

−−確かにグッズは出ないですね。

菊地:コンサートの市場規模は、プレイガイド全社の情報を合算し計算すれば2,070億円(2013年見込み)と出せますが。でもグッズの市場規模は表に出ない。私の感ですが、同じくらいの2000億円くらいあるかと思うんです。

−−ライブの世界ではCD不況とかあまり関係ないですね。

菊地:でもCDというか、音源は出してくれないと困ります(笑)。

−−そこは一心同体ですよね。

菊地:先日、亡くなられた日本のメディア学者、東京大学名誉教授の浜野保樹先生の言葉で名言だなと思ったのが「メディアはゼロに近づく」です。これは、形もゼロに近づくし、価格もゼロに近づく。例えば、メディアがハードディスクだとしましょう。約30年前、1MBが1万円だった。100MBが100万円。今は2TBが1万円、昔200億円の価値が1万円に、今、1MBは0.00000000005円、とゼロに近づいている。レコードもそう、メディアはどんどん小さくなる、価格はどんどんゼロに近づく。そのうちに電気信号、電子情報となって形は消えてゼロになる。

音楽もクラウド状に共有すればいい、何も狭い部屋に自分でレコードを持つ時代じゃなくなってしまった。だからメディアはゼロに近づく、価格もゼロに近づく。しかし、ゼロに近づくメディアにならないのはライブ。そういう意味で、ライブはアナログ、ゼロに近づくメディアにならない。

 

7. ライブを通じて「感動=幸せな未来」を伝えたい

(株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長 菊地哲榮 氏

−−ずいぶん前から「ライブ回帰」と言われ続けていますよね。

菊地:何千年も前から、人が集まるところに、音楽とリズムがあり、音楽・リズムがあるところに人が集まった。映画『2001年宇宙の旅』で、類人猿が骨を叩いた。骨は道具であり技術ですよね。あの骨が未来の宇宙船とコンピューターになるわけです。しかし、人間の知恵を使った最大の発明は、言葉と音楽じゃないかなと思っていて、それを体感できるのがライブだと思うんです。人間が近くにいて、共鳴する。例えば、二つの音叉(木箱付き)がありますね。木箱の開いた口を向かい合わせにして 音叉の片側をポーンと鳴らしてから、少しして手で止めても、叩いてない一方の音叉はまだ共振していますよね。

−−はい。

菊地:ライブって、これと同じなんですよ。片方がステージでもう片方が観客。ポーンと片方を叩くと発振し、もう片方が共振し呼応し合う。ライブも身体が共振し、その場にいるみんなが同じ振動数で揺れていくじゃないですか。そこで肉体も心も魂も、感動を引き起こすと思うんですよね。映画でも1人が悲しいなと思うと一斉に共鳴して泣き出すじゃないですか。また1人がグッと感動すると、感動の波動って拡がっていくんです。我々はそういうステージを作るのが仕事だと思っています。

会場の大小に関わらず、そのために私たちは何をするべきか常に考えています。その前提として、関わった人達がみんな気持ち良く仕事できる環境を作ることが本当に大切なんです。ですから、誰かが揉めていたり、壊れそうになったりしたら、我々は助けに行かなきゃいけないんですよね。心身全部を感度のいいアンテナのようにして、じっと見ているとおかしいところが分かるんですよ。おかしい波動が流れていると言いますかね。社員にはそういったところに敏感でいなさいと言っています。

−−円滑に回る環境作りが一番の仕事だと。

菊地:「仕事」って人類が作った知恵なんですね。例えば、不満、不便、不自由、不可、不和とか“不”がつくものがあるじゃないですか。つまり、困っている人がいる、あるいはもっと便利であってほしいと願う人がいて、その“不”を取り除くために「仕事」があるんですね。

私がやっているのは、ライブビジネスにたくさんある“不”を解消することです。その気持ちの根底には「助けたい」「支えたい」「癒したい」「元気にしたい」という願いがあるんですね。最初にライブビジネスの“不”を変えたのは渡辺プロダクション創業者の渡辺晋さんとキョードー東京創設者の永島達司さんです。このお二人が必死になって、芸能プロを音楽ビジネスへ、反社会的勢力を排除し、変えてくれたから今の我々の音楽ビジネスが安心して出来るんですよ。

−−菊地さんはそこを受け継いで40年以上やっていらっしゃるわけですね。

菊地:大学のときから45年間、仕事は一貫して変わってないんですよ。ずっと同じ(笑)。ただ、以前は「自分が感動したい」だったんですが、今は「感動したい」から「感動を伝えたい」に変わっていると思います。そのために、今まで感動した経験ってとても大事なんです。自分が感動しないものを人に提供できないですから。

−−感動の経験ですか。

菊地:感動=幸せな未来を伝えられる、と思っているんです。なぜかと言えば、自分がそうですから。自分がいただいたものに関して、やっぱり誰かに伝えておかなくてはいけないと思うんです。もちろんお金や物も大切ですが、うちの会社の一番の財産は経験と、人間のネットワーク、絆だけなんです。ウチには他に何にもないです。モノは何もないんです。音響も、照明も、舞台も、そして、演出家も舞台監督も、アーティストも抱えていない。いるのは社員だけです。社員が多種多様のネットワークを持ち、人間的信頼感でビジネスが成立していると思います。

−−その信頼感がハンズオン・エンタテイメントの一番の強みなんですね。

菊地:そうです、感動のエンターテイメントの提供、顧客・取引先の満足の提供、特に社員の成長が弊社の行動憲章です。そしてクオリティの高い仕事が最大の営業力なんです。だから「ウチはいいことをやっています」ではなくて、一つ一つの仕事をきちんと確実にやれば、それが自然と伝わっていきます。営業はそれしかないですし、いい仕事をしていれば、仕事は来ると信じています。

−−最後になりますが、菊地さんはエンターテイメントビジネスに対して、どのような展望を持っていますか?

菊地:国内のマーケットをしっかりと押さえた上で、これからはアジアに向かっていくと思います。中国と韓国に関しては難しい問題も抱えていますが、それ以外のアジア諸国はみんな親日ですし、人口ボーナスがありますから、展開しやすいと思います。国内ツアー〜アジアツアーと連動した形で、例えば、福岡・沖縄・台湾・香港などなど・・・。アミューズさんはじめ大きな会社が積極的に進出してますが、その他のアジアに進出したいがスタッフが足りない、どうすればいいのかよく分からない、そのような会社のお役に立ちたいと思ってます。

−−国内市場にだけこだわっていたら終わると。

菊地:そうですね。国内のライブエンタテインメント市場は、これからもっと活況を呈すると思います。その上、2020東京五輪が重なって、ここ数年間、国内の大中小の会場が枯渇してきます。又、日本は先進国として先駆けて、少子高齢化問題に直面します。ビジネスというより、音楽の役目でしょうか、高齢者層に如何に元気になって頂くか。今研究しているのは、音楽療法です。これからの養老院・介護施設で求められているのは、エンターテインメントですね。このことに非常に興味があって、今後、取り組んでいけたらと思っています。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。菊地さんのご活躍とハンズオン・エンタテインメントの益々のご発展をお祈りしております。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 学生時代から今と変わりなく音楽の様々な側面に携われていた大石さんは、レコーディングからライヴまであらゆることに精通し、まさに現場の方という印象でした。バンドと共に行動し、考え、悩み、実践する、その行動力が「ラルク アン シエル」を始め、数々バンドを成功に導いたのだと感じました。また、早くから日本以外にも目を向けられ、アジア、ヨーロッパに足を運ばれていた大石さんの経験と知識は、今後コンテンツを海外に送りだそうとしている日本にとって、ますます重要になってくるのではないでしょうか。