第121回 尾崎 友美 氏 (有)PS COMPANY 代表取締役
尾崎 友美 氏 (有)PS COMPANY 代表取締役
今回の「Musicman’s RELAY」は、(株)徳間ジャパンコミュニケーションズ 代表取締役社長 篠木雅博さんからのご紹介で、(有) PS COMPANY 代表取締役 尾崎友美さんのご登場です。地元 福岡でヴィジュアル系の洗礼を受け、バンギャとなった尾崎さんは、アーティストへの思いを抱えて上京。芸能事務所、インディーズのアーティストスタッフなどを経て、(有) PS COMPANYを設立。雅-miyavi-、Kagrra,、Kra、the GazettE、Alice Nineなど数多くのヴィジュアル系アーティストを手掛けられてきました。そんな尾崎さんにご自身の生い立ちからヴィジュアル系への思いまで率直に語って頂きました。
プロフィール
尾崎 友美(おざき・ともみ)
(有)PS COMPANY 代表取締役
短大卒業とともに東京へ上京。大手芸能プロダクションを経て、1998年ヴィジュアルシーンに様々な夢や希望を描き、PeaceとSmileをコンセプトに有限会社PS COMPANYを設立。現在、the GazettE・Alice Nine・Kra・ViViD・ダウト・SCREW・BORN・レイヴの8バンドが所属している。
1. 東京のネオンの輝きに憧れた少女時代
−−前回ご出演いただきました、徳間ジャパンの篠木さんとはいつ頃出会われたんですか?
尾崎:篠木社長が常務のときからのお付き合いなので、けっこう長いですね。どちらかと言うと、仕事の話ではなく、ざっくばらんに楽しく、友達と言ったら大変失礼なんですが、気を許してバカ話ができる方なんです。2時間話していたら、仕事の話は5分くらいで、残りの1時間55分はゲラゲラ笑いながら世間話をしています(笑)。
−−現在、徳間ジャパンからリリースしているアーティストはいらっしゃるんですか?
尾崎:ダウトとSCREWを徳間さんでやっていただいています。きっかけは…あんぱんをもらったのを覚えています。
−−(笑)。
尾崎:「これを食べると頭が良くなるから食べなさい」と言われて。「怖い顔してらっしゃるのに何て変わった人なんだ」と思いました(笑)。篠木社長とは話が尽きなくて、二人で喫茶店から回転寿司屋さんに行って、お酒も食すこともなく8時間くらいしゃべっていたこともあります。
−−気が合うんですね(笑)。
尾崎:人生の先輩として色々な相談ができますし、会話のテンポも早くて、話があっちこっちに飛ぶので他の方が会話に入りづらいと言いますか、ざっくばらん過ぎて、周りで聞いている方がハラハラしてしまうとよく言われます。
ただ、5年以上前なんですが、篠木社長をすごく怒らせてしまったことがありました。お忙しい中、時間をいただいていたんですが、私が約束を忘れてしまって…。それですぐ電話したんですね。そうしたら、いつもとは全く違う冷静な声で「仕事は仕事だからちゃんとやるけど、あなたはあなたで頑張って行きなさい」と一言。「これはマズい」と思ってすぐスーツに着替えて、とらやの羊羹を持って毎日謝りに行きました。当然会っていただけないんですが、来たことだけでも伝えてもらって。数ヶ月してやっと許していただきました。
−−約束事にはとても厳しい方なんですね。
尾崎:義理とか筋を通すとか、道理をとても大事にされている方ですね。
−−ここからは尾崎さんご自身についてお伺いしたいのですが、ご出身は福岡と伺っております。
尾崎:はい。生まれが太宰府市で、育ちが筑紫野市です。
−−どのようなお子さんだったんですか?
尾崎:根暗というか、子供の頃から人前に出るのが苦手でした。今日もこのインタビューに緊張して、朝の5時に目が覚めてしまったほどです(笑)。先ほど母に電話をしたんですが、「昔からそういうのはダメよね」と言われました(笑)。
幼い頃に両親が離婚して母子家庭で育ったんですが、当時は離婚や片親が少なくて、今よりもかなり世間の風当たりが強かったんですね。両親の離婚の理由が父の借金とギャンブルで、最終的には父が母の印鑑を勝手に持ち出して、母を保証人にして蒸発したような人だったので、とにかく借金が大嫌いで、それが会社の経営方針にも影響していると思います。この会社はまさに「企業はまさに人なり」で、みんなの協力があるからこそ成り立っていますが、私が一つだけ自慢できることがあるとすれば、創業以来ずっと無借金経営ということです。
−−そうなんですか。正直、PS COMPANYさんというとヴィジュアル系のイメージが強いですから、尾崎さんもすごく艶やかな社屋と社長室でお仕事されているのかな・・・と思っていたんですが、とても質素なので驚きました。
尾崎:だって見栄を張る必要ないじゃないですか(笑)。みなさん「PS COMPANYの尾崎」と聞くと、噴水があるようなマンションで、高いシャンパンを飲みながら毎日フランス料理を食べているようなイメージを持たれがちみたいですけど、それは全く違うんですよ(笑)。私利私欲というか、お金が目的でやっているわけじゃないので。
−−なるほど。その根底には尾崎さんの家庭環境があったんですね。
尾崎:はい。とにかく絵に描いたような複雑な環境で…。親戚からはよく、「あなたは可哀想な子だ」と、言われていたんです。それが、子供ながらに何とも言えない気持ちになりました。「わたしって可哀想なのかな?」と。でも、母は優しいですし、肩身の狭い思いをしないように、何でも買い与えてくれていたんですね。決して裕福ではなかったですが、両親が揃っている家庭のお友達と同じレベルで、物でも洋服でもゲームでも何でも買ってくれました。それでも夏休みとかになると、母は仕事があるので親戚の家に預けられて、「不憫だ」と言われて。思春期を迎えるとだんだん腹が立つようになりました。この仕事を始めたときも、「普通じゃない」とか「これだから片親で育った子は」とか色々言われましたね。だから「絶対に見返してやる」って思った事を今更ながら思い出します。
−−東京に出て音楽の仕事をしたいと思ったきっかけはあるんですか?
尾崎:そういう家だったので、よく夜にテレビを観ていたんですよ。子供のときって夜9時頃に「テレビを消して寝なさい」とか言われるじゃないですか? その当時だと「8時だョ! 全員集合」とかまではみんな観ていたんですが、私は家に一人だったので、そのあとの「ザ・ベストテン」や「夜のヒットスタジオ」、「ベストヒットUSA」も観ていたんです。
−−音楽番組が多かったんですね。
尾崎:ええ。「ザ・ベストテン」のオープニングって、東京タワーとかの夜景から始まるんですが、ネオンがすごく綺麗で、「本当にこんな華やかな街があるのかな?」と思って観ていたんですよ。山しかないような田舎に住んでいたので、幼少ながら不思議で。恐らくこれが音楽業界に興味を持った最初のきっかけだったかもしれないですね。
2. ヴィジュアル系との衝撃的な出会い
−−中学時代はどうでしたか?
尾崎:うーん…?どうだったでしょうか?忘れちゃいました(笑)。 その後、高校に入学して、そこでヴィジュアル系に出会ったんです。
−−それは雑誌やテレビで見かけたんですか?
尾崎:小学校の頃からずっと音楽が好きで、街のレコード屋さんに買いに行っていたんですね。そのお店のご夫婦に可愛がっていただいていて、高校1年の頃に「働かないか?」と誘われてバイトすることになって、短大を卒業するまで5年間働いたんですね。
そのときは、まだヴィジュアル系という言葉はなかったと思うんですが、メーカーさんが持って来る注文書で初めてヴィジュアル系アーティストの写真を見たんです。金髪以外の髪の毛の色を見て驚きましたね(笑)。それまではX JAPAN(当時X)さんの「ヴァニシング・ヴィジョン」というインディーズ時代の作品が、現在主流のインディーズ流通じゃなくて、地元の卸を経由して入ってくる感じで、ジャケットが絵だったので、写真は見たことがなかったんです。ですから、すごい髪の毛の色だし、男の人がお化粧しているし、「なにこれ?」って思ったのがヴィジュアル系との出会いです。
−−実際にヴィジュアルを見て衝撃を受けたと。
尾崎:びっくりしちゃったんですね。斬新すぎて私の頭の中で天変地異が起こった程、衝撃を受けました。それが確か高校2年生のゴールデンウィーク前だったと記憶しています。
−−当時はどこのライブハウスに行っていたんですか?
尾崎:博多Be-1というライブハウスに高校生のときから入り浸っていました。なぜか当時ライブハウス=不良のたまり場というイメージがあったので、母には何度怒られたか分かりません。
−−そのときは誰を追いかけていたんですか?
尾崎:誰というか、何でも観に行きました。今となってしまえばバンギャの生き字引みたいなもので、それはそれで悲しいですが(笑)。ただ、当時はヴィジュアル系のことなら何でも私に聞いて、というくらいライブを観ていました。
−−それは地元じゃなく東京から来るアーティストですか?
尾崎:東京や大阪のアーティストです。ツアーでまわってくる、今でいうインディーズのツアーアーティストですね。アーティストによっては一気にはじけてしまうアーティストもいらっしゃったので、次からは皆さん大きな会場でやるんですけども、バンギャの心理として、大きくなったら面白くないんですよ。もちろん、好きだったら(本命であれば)ずっと付いて行きますけどね(笑)。
−−筋金入りですね(笑)。
尾崎:そうですね(笑)。今でも博多Be-1のオーナーに「ここのタイルは私が貼ったようなものだ」と言いますけど、それくらいお金を落としていましたから「次うちのアーティストが行くときは会場タダにして」って言っています(笑)。とにかく楽しかったですね。
−−はじけていたんですね(笑)。
尾崎:はじけまくっていましたね(笑)。高校2年生から短大を卒業するまでの4年間は私の人生の中で一番楽しかった想い出かもしれない、いや、一番楽しかったです。
3. アーティストへの一途な思いから家出をして東京へ
−−ちなみに東京へ遊びに行ったりしていたんですか?
尾崎:好きなアーティストのツアーファイナルを観に行ったりしていました。あと、新宿のアルタも観に行きたくて、夜遅い便で着いてから行ったときに、平日の夜なのに「初詣か?」と思うくらいの人がいて驚きましたね(笑)。
−−遊びに行く度に東京への想いが募るわけですね。
尾崎:ライブもたくさんあるし、行きたくてしょうがなかったですね。その頃、母が再婚しまして、義理の父はとても立派な人ですごく仲のいい家族なんですが、「女の子が東京に出るなんてとんでもない、福岡にもいっぱい仕事はあるだろう」と言うんです。私は働くなら音楽業界しかないと思っていたんですが、福岡にはレコード会社や事務所がなく、ライブハウスやレコード屋さんしかないので。メーカーさんの営業所とかはありましたけど、皆さん本社から来ていますし、受付くらいしか仕事がなかったんですよね。5年もレコード屋さんで働いていたので、数社から「うちに来る?」と声をかけてもらっていたんですが、受付をやりたいわけじゃなく、やっぱり制作というか事務所に憧れがあったんですよ。
−−一途な想いですよね。
尾崎:そうですね。だけど、初心を貫く事はまさに狂気だと最近、切実に思います。
−−どうやってご両親を説得されたんですか?
尾崎:家出です。
−−そうでしょうね(笑)。
尾崎:書き置きをして家を出ました。
−−東京では最初どこに住んでいたんですか?
尾崎:永福町ですね。
−−それがおいくつのときですか?
尾崎:22〜23歳くらいです。短大を卒業してしばらくは様子をうかがいつつ、家を探したりしながら福岡にいたんです。
−−東京に出てきたときには仕事は決まっていなかったんですよね?
尾崎:もちろんです。とにかく出て行くしかないと。
−−その行動力が素晴らしいですよね。
尾崎:それでも母には住所を教えておかないと、とかその辺は考えたんですよ。東京は物騒だと思っていたので、交番の前の物件を見つけて、ワンルームに、布団とコンポとテレビと電話さえあればなんとかなるだろうと。今でも覚えていますけど、東京に着いたその日の夜、コンビニに求人雑誌を立ち読みしに行ったんですよ(笑)。
−−(笑)。当時はインターネットもありませんでしたしね。
尾崎:事務所の求人は見つかったんですが、芸能界で「こんな有名なところに採用されるわけないよな」と思いながら、履歴書を送ったら無事採用されまして。今でこそ3Kとか言われて若い子はあまり来たがらない業界ですが、当時は人気があったんですね。結構な倍率をくぐり抜けて入社が決まりました。夢を見てるみたいでした(笑)。
−−すごいですね。採用されたのはお一人だけですか?
尾崎:全部で4人です。百何十人受けたので倍率百倍以上ですね。自分でも採用された理由はわからないですが、とにかく「この業界が好きです」と熱弁しました。働きたくてしょうがなかったと言うか、他の仕事を選ぶ余地がなかったですね。
−−その事務所ではどのくらい働いていたんですか?
尾崎:1年くらいですね。そこでマナーとか、業界のルールとか、色々なことを教えてもらいましたが、やっぱりヴィジュアル系の仕事がしたくなって辞めました。一つ心残りがあって、「福岡に帰る」と嘘をついて辞めてしまったんですね。それが申し訳なくてずっと悔いが残っていたので、その会社の方とはお会いすることもできないなと思っていたんですが、「今の尾崎さんをみたら喜ぶから今度セッティングするよ」と言ってくださった方がいて、近々お会いするかもしれないです。
−−その事務所をお辞めになってからはどうされたんですか?
尾崎:特にあてがあって辞めたわけではないので、また仕事を探しながらライブを観にいっていたんですが、たまたまあるアーティストから「スタッフとして手伝ってくれないか」と声をかけてもらったので、そのアーティストのお手伝いをし始めました。アーティストの人たちがすごく熱くて、「みんなで一緒にメジャーに行こうね」と何も経験がないながらも頑張ったんです。結果メジャーに行くことになったんですが、事務所にスタッフはいるし、「女だからいらない」と一言で切られてしまったんです。
−−それは悔しいですね。
尾崎:メンバーは残れるように頑張ってくれたんですが・・・とにかく悔しかったので、「メジャーに行くギリギリまでは辞めない」と思って。今考えてみれば、すごくちっぽけなプライドですかね(笑)?
プライドは高ければ高い程、人を地道にさせると言いますしね(笑)。
−−事務所としても、ボランティアでやっていたと思っていたんでしょうね。
尾崎:本当にそうです。そこで切られたから、悔しくて立ち上げたのがPS COMPANYなんですよ(笑)。
−−かっこいいですね。ちなみにその事務所は今でもあるんでしょうか?
尾崎:もうないです。だけど、これからヴィジュアル系で1番のアーティストを育ててみせるという気持ちでいっぱいでした。
4. PS COMPANY創立〜Miyavi-との直感的な出会い
−−PS COMPANYを立ち上げるまでが異様に早いですよね。東京に出てきてわずか2年ですか。
尾崎:今考えると恐ろしいですよね。無鉄砲と言うか。悔しい気持ちもあったんですが、ヴィジュアル系が好きだったからできたんだと思います。
−−そう思っていてもなかなかできることではないですよ。
尾崎:受け入れてくれる会社がなかったので、自分で作るしかなかったんです(笑)。
−−所属するアーティストがいて立ち上げたんですか? それとも立ち上げてから見つけたんですか?
尾崎:アーティストは一人だけいたんです。スタッフをやっていたアーティストのローディーだった子で、こんなアーティストをやりたいって二人で夢物語を語って、メンバー集めから一緒に始めました。そのときに集まったメンバーの1人が当時17歳のMiyavi-で、Due le quartz(デュール クォーツ)というアーティストですね。
−−Miyavi-さんはどのような経緯でメンバーになったんですか?
尾崎:当時、自社にアーティストがいなくて食べていけなかったので、PS COMPANY主催でイベントばかりやっていたんですよ。そこに出ていたアーティストとMiyavi-が同級生だということで観に来ていたんですよね。「大阪の友達で…」と紹介されて、「うちでやらない?」と誘いました。
−−ちなみにMiyavi-さんのギタープレイを聴いたことは…。
尾崎:なかったです。
−−なかったのに誘ったんですか? それはヴィジュアルがよかったからですか?
尾崎:勘ですね。
−−すごい。その勘は普通じゃないですね。イベントは全てご自身でやられていたんですか?
尾崎:はい。事務所を立ち上げたのはいいですけど、所属アーティストはいない。事務所として立ち上げたからには、ちゃんと音楽的な活動をしていかないといけない、とか色々考えますよね。で、一番手っ取り早かったのがイベントなんですよ。とは言っても、立ち上げたばかりの名も知らない怪しい会社のイベントに出てくれるアーティストなんかいるはずもなく、必死でした。
日本武道館とか大きい会場で有名なアーティストさんのライブがあった後、昔はアマチュアのアーティストの子たちがお化粧して、ライブが終わった後に出てくるお客さんにビラ配りをしていたんですね。それをお客さんのふりして全部もらってきて、よさそうなアーティストがいたら「イベントに出てもらえませんか」とすぐに電話して、月に4回くらいイベントをやっていました。だから最初は事務所じゃなくて、イベント会社だと思われていました(笑)。
−−Miyavi-さんもそうですけど、演奏を見たわけでもないのに探し当てるのがすごいですよね。
尾崎:現、所属アーティストも曲なんかほとんど聴いたことなかったですからね。会って話を聞いて、「やりたい」って言うから、「じゃあやってみる?」と。
−−会社が軌道に乗ってきたのはいつ頃ですか?
尾崎:Kraまでは4人でやっていたんですよ。
−−それじゃあ滅茶苦茶忙しいですよね。何から何までやらないといけないわけですから。
尾崎:全部やっていました。ただ全てが手探りでしたね。
−−4人で3アーティストをみていたんですよね。それぞれの活動をするわけですし、ライブだって同じ場所でやるわけじゃないですよね?
尾崎:もう滅茶苦茶でした。それでも当初から残ってくれている社員もいるんです。本当にありがたいですよね。でも、今考えるとそれはそれで楽しかったです。
−−社員さんは今何人いらっしゃるんですか?
尾崎:社員だけで40人くらいですかね。企業は人なりとはよく言ったもので、私はただ創業者ってだけで何もしてない、本当に良い社員に恵まれています。
−−ミュージシャンだけじゃなく社員に対しても人を見る目があったんですね。
尾崎:私は「この人と仕事をしたい」と思ったら自分でアプローチするんです。室長の鈴木にはしつこいくらい、ストーカーのごとく「あなたと仕事がしたい」って言い続けて(笑)。彼女の肩書きも何となく知っていましたけど、以前何をしたかじゃないんですよ。これも勘ですね。
5. PS COMPANYに降りかかった数々の試練
−−PS COMPANYは創業されて何年ですか?
尾崎:17年目に入りました。
−−現在に至るターニングポイントはあったんでしょうか?
尾崎:ターニングポイントと言うか、やめようかと思うような危機は合わせて3回ありました。
−−やめようと思われた理由は?
尾崎:まずメンバー探しから一緒にやったDue le quartzが解散すると言われたときですね。私はマネージャーになりたくて東京に出てきて、その夢はすでに叶えていたんですよ。2年くらいの活動期間でメジャーには行けませんでしたけど、赤坂BLITZでライブができるくらいまで育っていましたし、当時は若かったこともあって、私の夢はDue le quartzそのものだというふうに思い込んじゃっていたんですね。
それで「あなたたちが解散するのであれば辞める」と言って、実家に帰ったんです。そしたら夜中にMiyavi-から電話がかかってきて「今、博多にいる」と言うんですね。そのとき彼は19歳だったので、スカイメイトでとりあえず片道分の飛行機だけ買って来たと。ただ家の行き方が分からないですし1000円しか持ってなくて「とにかく寒いから迎えに来て」って言うんですよ。もう「嘘でしょ?」って思いました(笑)。
−−なかなか壮絶な話ですね(笑)。
尾崎:本当に無謀ですよね。福岡まで来て、「俺はソロでやりたい、尾崎さんじゃなきゃダメだ」と言ってくれました。最初はずっと断っていたんですが、根負けしてやることになって・・・それから彼が30歳になるまでマネージメントをやっていました。
−−長いですね。それから彼は成功への階段を順調に上っていったわけじゃないですか。
尾崎:ありがたいですよね。本当に私が手掛けて売れた初めてのアーティストであり、現在所属しているthe GazettEをはじめ、すべてのアーティストと2人3脚で運営している弊社の礎となりました。
−−やめようと思った2回目は?
尾崎:権利問題でトラブルになった時ですね。業界では有名な話なので誰かに聞いていただければ。私はその出来事で心労がたたったのか、一度心臓が止まっているんです。
−−心臓が止まっている、というのは医学的にですか?
尾崎:そうです。一命は取り留めたんですが、電気ショックに5回もかかったり。もう病院に運ばれたときは心拍停止の状態だったんですよね。
−−そんな経験があるんですか・・・つまり一回死んだってことですか?
尾崎:死んでいるんです。仮死状態がかなり長い時間続いてギリギリ脳に酸素が行っていたので何とか一命を取り留めました。気がついたら病院の集中治療室にいて手足全部縛られていて、管が全身に通っていて…。これは後から聞いた話なんですが、その状態だと生存率20パーセント程度だそうで、助かったとしてもいわゆる植物人間の状態かもしれないし、どこかに障害が残る場合が多いそうです。
−−その頃には家出に対するご両親の怒りは解けていたんですか?
尾崎:Due le quartzの後にやったKagrra,が音楽雑誌の表紙だったり、テレビとかに出始めたら、「頑張ったね」と言ってくれるようになって、実家には帰れるようになったんです。そこから2年くらい利権をめぐる問題で壮絶な日々が続いたんですが、それを乗り越えて。
−−裁判が行われている期間は、かなり壮絶な時期だったのでは?
尾崎:2年間でかなりの本数の裁判を経験し、1本を除き勝訴という結果を頂きました。最初はもう裁判が嫌で嫌で・・・裁判は恐いし、人前に晒されることも嫌でした。それ以外にもここでは話せない様な事が本当にたくさんありました。でも私は間違ったことはしていませんし、ここで引いたら私みたいな人が今後も絶対出てくる。そういうことが起こり得てはいけないと自分を奮い立たせました。
−−試練ですかね。
尾崎:はい、本当に試練だったと思います。ある意味、私にとって公開処刑でした。
ただ、月日を経た今だからこそ思える事ですが、当時裁判をしたお相手の方々とはいつかこんな事もあったね、とお茶を飲みがなら笑って話せる日が来ればいいなぁと思います。
6. ファン目線を取り戻し、ヴィジュアル系に恩返ししたい
−−3つ目の危機は何だったんですか?
尾崎:3つ目は、Kagrra,という私が初めてメジャーに出したアーティストが解散をしまして、メンバーはスタジオミュージシャンやプロデューサー、マネージャーとして事務所に残る中、一人だけ他の事務所に移籍したんですが、移籍の3ヶ月後の2011年7月18日に自殺してしまったんです。その子だけが、うちを出た子だけが亡くなってしまって・・・それが本当にショックで。そのときは自分を責めましたね。あのとき私が引き留めればこんなことにはならなかった。インディーズの頃から12年も一緒にいて、離れて3ヶ月ですよ。もし引き留めていれば・・・私が殺したのと一緒だと・・・。
−−いや、ご自身を責める理由もないですよ。誰もそうは思ってないと思います。
尾崎:皆さんそうおっしゃいますが、「もう解散しなさい」と言ったのは私なんです。「一番良いときに散りなさい」って言ったんですよ。申し訳ないけど、もう今が頂点だと思うと。でもそのかわり、君らの面倒は私が生きている限りは一生見るって言ったんですね。
−−引導を渡したってことですね。
尾崎:渋谷公会堂がソールドアウトしても、申し訳ないけど武道館に立っている君たちが見えないと。これも勘ですね。でも、アーティストも「僕たちも実はそう思っていました。言ってくれてありがとう、すっきりしました」と。
−−なるほど・・・。
尾崎:その後、私は失語症になりました。喋れなくなっちゃって。
−−それはどのくらい続いたんですか?
尾崎:1年ちょっと続きました。その間はいつ元気になるか分からないけど、私が帰ってくるまで自分たちが会社を守らなくては、とアーティスト、今いるスタッフたちが頑張ってくれたんですが、結局リハビリも込みで2年間かかりました。
−−病院には行ったんですか?
尾崎:行ってないです。実家で療養していました。誰とも喋りたくないし、完全にシャットダウンの状態でした。会社の人間とかが何人か来てくれたんですが、全然喋れないわけですよ。とにかく無でしたね。
−−それにしても壮絶なことが次々に起こりますね・・・。
尾崎:だからこそ、今は感謝しかないですね。やっぱりその間に色々考えました。14年間やりましたし、会社を誰かにお譲りして実家に帰るのもいいのかな、疲れちゃったな、とか色々思っていたわけです。でも、その間も社員が寝ずに頑張ってくれたりだとか、大変だったと思うんです。もちろんそのときに見切りをつけていった社員もいます。でも、今残っている社員たちが私を守ってくれていたんです。それで去年の8月にやっと外にリハビリ程度で出られるようになって完全に復帰したのは12月です。
−−えっ、それは最近の話だったんですね。
尾崎:そうです。もう感謝の念でいっぱいです。すごく心配してくださった方もたくさんいて、その中の一人が篠木社長だったり、守ってくださった方がたくさんいらっしゃったんです。私はこの業界に入ってから髪を切ったことがなくて、ワンレンのロングだったんですが、今年、the GazettEの1月11日のツアーファイナル、横浜アリーナ公演前日に髪を70センチ切りました。それは、今までもこれからも彼らと一緒に歩んでいくと言う意思表明と私の彼らに対する感謝の意として切りました。
−−髪を短く切られた後、何か変わりましたか?
尾崎:とにかくすっきりしました。私自身またゼロからのスタートであり、年齢的に頑張ってもあと1クールかなと思うんですが、その1クールを精一杯頑張ろうと決心しました。
−−お若いのに本当に色んな経験をなさったんですね・・・でも周りの方々が支えてくれたんですね。
尾崎:はい。社員やアーティストは家族みたいなものですね。結局、私は会社と結婚したようなものですから。私にはもうこれしかないんですよ。
−−今、ヴィジュアル系は世界へ広がっていますが、PS COMPANYの今後の展望についてどのように考えていらっしゃいますか?
尾崎:アーティストもそれぞれですから、全部が全部いっせいのせーではないと思うんですよ。海外展開に関しては、アーティストがやりたいと言えばやります。ただ、今はちょっと違うことを考えています。現在、音楽業界全体が氷河期に入っていますよね。ずっとこのままではないだろうという希望を持たないとやっていられませんし、色々な意味で派手なことは控えていますが、今は種蒔きの時期であり我慢の時期だと思っているんです。それは、自分が2年間お休みさせていただいて、今まで見えなかったところが見えてきたので、そこを掘り返せばいいだけなんだ、と思ったんです。芽が出てくるのは、今年の年末から来年で、花が咲くのは再来年と計画しているので、焦ってはいないです。
−−その種は今いるアーティストたちなのでしょうか?
尾崎:当たり前ですよ(笑)。弊社に所属しているアーティストをやらないと失礼な話です(笑)。まずそこを軸に考えています。私は若輩者なので偉そうなことを言える身分ではありませんし、ヴィジュアル系に恩返しできれば良いかなぁ・・・くらいに気負わず考えています。
−−10代の頃からヴィジュアル系が好きで、人生を掛けてきたその集大成を今から、ということですよね。
尾崎:そうですね。自分のところだけが良ければいいんじゃなくて、まずは自分のところを軌道修正して地に足をつけて初心に戻らなきゃ、ということなんです。自分はヴィジュアル系が好きで、バンギャだったのでバンギャが求めていることは恐らく、いや、同じ目線だと思っていますからわかります。私の強みはここだけなんです。
−−ファン目線ですね。
尾崎:まさにファン目線です。心はバンギャのままでいたいと思いつつ、それを最近まで忘れていたんです。先ほど「昔は楽しかった」と言いましたが、それを自分で忘れていました。地元でお休みしているときに、昔の友達がお見舞いにきてくれたんですよ。それで「昔は楽しかったよね〜」って想い出話とかしてくれたんですが、同時に「今はそういう楽しさってないよね」という話もしていたんです。
そこで気づいたんです。みんなが忘れていることがあるんじゃないかな、と。私も忘れていました。結果が出ないかもしれないですから、偉そうなことは何も言えないんですが、根拠のない自信だけで17年間やってきているので、「神様、もうワンチャンスを私に与えてください。」と思っています。ついでに背伸びする事もやめました。もう一度フラットに戻ろうと思いましたね(笑)。
−−最後に尾崎さんの考える、アーティストとの2人3脚、そしてPS COMPANYの今後の展望をお聞かせください。
尾崎:私にとってのアーティストは、本当に難しいものだと思っています。様々な経験をして、新しい武器を手に入れる時、どうしても一時的に結果は悪くなる。それでも手に入れに行くか、すでに使える武器だけをより磨いていくのか?だと。そして、アーティストも然り全ては「人」と「人」から始まり、人は人についていくものであり、連れていってもらうもの。リレーションであり、そこから未来予想図を皆で作り上げて、ともに共鳴できるもの。それが社員そしてアーティストの夢と希望になるもの。常に初志貫徹を貫く、常に初心に戻る、そしてそれを繋ぐアーティスト、そして社員はすべて家族(カンパニー)なんです。
そして、今、この世知が無い世の中で、自分も含めて忘れがちなのは「義」だと思います。もしかしたら、慌ただしい数年前は私も見えていなかったのかもしれません。下手すれば信念がぶれていたのかもしれません。だから、色々なことで悩んで、もがいて、様々な経験を経て「人」としてこの「義」という言葉が最後に一番大切な事だと気付かされました。大抵のチャンスのドアにはノブが無い、自分からは開けられない。誰かが開けてくれた時に迷わず飛び込んで行けるかどうか? そしてそこで進んでいけるかどうなのか? そのストーリーはまだまだ続いていくので楽しみにしています。これは私の考えだけでなく、弊社所属アーティスト、弊社社員全員の誇り高き信念です。それがPS COMPANYの一番の強みだと思います。
−−本日はお忙しい中ありがとうございました。尾崎さんのご活躍とPS COMPANYの益々のご発展をお祈りしております。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)