第122回 杉本 圭司 氏 (株)Zeppライブ、(株)バックステージプロジェクト / 代表取締役
杉本 圭司 氏 (株)Zeppライブ、(株)バックステージプロジェクト / 代表取締役
今回の「Musicman’s RELAY」は、(有)PS COMPANY 代表取締役 尾崎友美さんからのご紹介で、(株)Zeppライブ、(株)バックステージプロジェクト /代表取締役 杉本圭司さんのご登場です。ご自身のバンド活動と並行してバックステージプロジェクトを埼玉県浦和に設立。X JAPAN、LUNA SEAなど多くのバンドのコンサートを手掛け、その後、レーベルやマネージメントなどプロモーターの枠を大きく越えた活動を展開。近年は(株)Zeppライブの代表として、アジアのマーケット作りに奔走する杉本さんに、ご自身のキャリアから、Zeppの海外展開までお話を伺いました。
プロフィール
杉本 圭司(すぎもと・けいじ)
(株)Zeppライブ、(株)バックステージプロジェクト / 代表取締役
1959年、東京都生まれ。1985年、コンサート制作会社・株式会社バックステージプロジェクト設立代表取締役。X JAPAN、LUNA SEA、など多数のコンサートプロモートを手掛けるほか、97年ビクターと共同でレーベル、ガイレコード設立、河村隆一他をリリース。その後、2012年、Zeppライブエンタテインメント設立と同時に代表取締役に就任。
1. ロックにすべてを変えられた少年時代
−−前回ご登場頂いたPS COMPANY 尾崎友美さんとはどのような関係なのでしょうか?
杉本:PS COMPANYのアーティストのコンサートをずっとバックステージプロジェクト(以下 バックステージ)でやらせていただいているので、尾崎さんは私から見るとクライアントですね。でも、彼女や彼女の世代の人たちって礼儀正しくて、必ず「お世話になっています」と言うんですよね。それは全く逆で、こっちがお世話になっているんですよ(笑)。
−−(笑)。尾崎さんはとても面白い方でした。独自の世界観があるというか。
杉本:あまり今までいなかったタイプというか、ちょっとぶっ飛んでいる感じですよね。尾崎さんは私と一世代違いますが、お会いする度に「この人はすごいな」と思いますね。
−−ここからは杉本さんご自身のお話を伺っていきたいのですが、お生まれはどちらですか?
杉本:東京で幼少時生まれ育ち、小学生の時埼玉に移り住みました。
−−音楽との出会いはいつですか?
杉本:小学生の頃ですね。私の音楽のルーツはラジオと5歳年上の兄貴なんです。ラジオはニッポン放送の亀渕昭信さんの番組を聴いていました。そんなある日、兄貴が聴いていたレッド・ツェッペリンのファーストアルバム一曲目「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」を耳にした瞬間、なんか変わっちゃったんですよね、すべてが。
その後、兄がグランド・ファンク・レイルロードの後楽園とレッド・ツェッペリンの武道館のコンサートに行って、家に帰ってきたときに、「圭司、ちょっと耳元でなんか言え」と。「兄貴、何言ってんのかな?」と思いつつ、耳元で「おい」とか「兄貴」とか言ったら「全然聞こえない」って(笑)。そのとき「コンサートってすごいんだな」と思いました(笑)。
−−早熟な小学生ですね。普通の小学生は洋楽とかあまり聴かないじゃないですか?
杉本:そうかもしれませんね。そういう意味では、亀渕さんにも兄貴にも大変感謝しています。亀渕さんには直接「私の音楽のきっかけはあなたでした」と言いました(笑)。
−−直接お礼を言われたと(笑)。
杉本:ええ(笑)。当時はツェッペリン、ローリング・ストーンズ、当然ビートルズもあって、フレンチ・ポップもあれば、トム・ジョーンズもいたりするという、すべての音楽のジャンルがベスト10に詰まっていたような時代じゃないですか。ですから、この仕事するようになってすごく助かったのは、その時代に聴いた音楽の引き出しがいっぱいあることですね。現代音楽のルーツはファッションや哲学全てが70年代にありますよね。だからそのルーツを持てた事が特にアーティストと話をするときにすごく役に立っています。
−−幅広く音楽を聴かれていたんですね。
杉本:ただ日本のフォークソングが苦手で、あまり聴いてないですね。日本のフォークソングってちょっと文学的すぎて、私には難しかったんですね。やはりロックンロールが自分には一番合いました。
−−楽器を手にしたのはおいくつのときですか?
杉本:バンドをやっていた私の叔父がリッケンバッカーのコピーモデルを持っていたんですが、そのギターがどうしても欲しくて、もらいに行ったのが中学2年のときです。そのギターでスリーコードを覚えて、ビートルズとかを弾き始めました。
−−杉本さんはギタリストだったんですね。
杉本:ええ。ギター以外は全然ダメです。ギターも下手ですけど(笑)。
−−その後バンドを組まれて?
杉本:そうですね。中学のときに最初に組んだバンドのベースが、レベッカのベースの高橋教之だったんです。彼も元はギタリストで、チューリップのコピーバンドをやっていたんですが、「お前はベースだ!」って強引にベースを弾かせて(笑)。まあ、そのかわり彼はレベッカのベーシストになれたんですけどね(笑)。
−−杉本さんは高橋さんの恩人なんですね(笑)。
杉本:そこでベースを弾いてなかったらお前は今頃・・・って(笑)。そのバンドでは「ジョニー・B.グッド」とかいわゆるスタンダードなロックンロールをやっていましたが、まあ、ひどかったですね(笑)、
−−(笑)。当時、埼玉近辺ではバンドが盛り上がっていたんですか?
杉本:「浦和ロックンロールセンター」という非営利団体がありまして、いわゆるドネーションを募ったフリーライブを河川敷でやっていたんですよ。そのライブのヘッドライナーには内田裕也さんとか近田春夫さんとか、日本のロックバンドがいっぱい出ていました。「浦和ロックンロールセンター」は埼玉、浦和のロックマーケットを最初に開拓した人たちではないかなと思います。その中から安全バンドや四人囃子が有名になりました。彼らは洋楽のカバーから始めたグループじゃないですか。だからカッコよかったんですが、それでも歌詞が日本語なので当時の私の中ではしっくりこない部分もありました。
−−では、中高時代のアイドルは誰でしたか?
杉本:やっぱり全部洋楽ですよね。最初の衝撃はレッド・ツェッペリンで、ヘヴィロックが好きになって、その後、T.Rexやデヴィッド・ボウイとかグラム・ロックが好きになったんですが、16歳のときにセックス・ピストルズに出会うんですよ。それまで髪の毛を伸ばしていたんですが、パンクが出てきて髪の毛を切って、いきなりそっち方向に行きました。パンクの持つメッセージ性というよりも、ファッションも含めたあのインパクトですよね。それまであったロックのファッションをガラッと変えたじゃないですか。でも永遠のアイドルはキース・リチャーズですけど。
−−そうするとご自身のバンドもパンク系に行ったんですか?
杉本:行こうとしたんですが、その仲間がいなかったですよね(笑)。ですから、いわゆるオーソドックスなブリティッシュ・ロック、ストーンズとかを演奏していました。
2. バックステージプロジェクト設立〜RED WARRIORS 、X JAPANとの出会い
−−バックステージプロジェクトを設立されるきっかけはなんだったんですか?
杉本:先ほどお話した同級生の高橋教之は、私が紹介してレベッカに入ったんですね。それでレベッカがメジャーデビューして、しばらくしたらギタリストのshake(木暮武彦)がバンドの方向性の違いで辞めて、RED WARRIORSを結成するんです。
そのとき仲間内でshakeとダイヤモンドユカイを応援しようとしたんですが、応援すると言ってもまわりにプロフェッショナルが誰もいなくて、今みたいにライブハウスが山ほどある時代ではなかったですから、ライブハウスひとつブッキングするのも結構大変だったんです。そのときに「じゃあ、俺たちでコンサート作ってみようか」とバックステージを作ったんです。それが26歳のときです。
−−そのときはまだミュージシャンとして活動されていたんですか?
杉本:ミュージシャンとプロモーターと半分ずつくらいですね。プロモーターといっても資本金50万の会社ですから、そんな大きいコンサートができるわけではないですし、いわゆるローカルプロモーター、ローカルイベンターですよね。アマチュアを集めてコンサートやるくらいしかできないレベルと言いますか。ですから、きちんとプロ意識を持って仕事をしていたかというと、そうではなかったですね。
−−でも26歳で会社を作るのは結構早いですよね。
杉本:そうですね。法人格がないと世の中に信頼されないのかな? という思いもありましたしね。
−−会社の拠点は埼玉だったんですか?
杉本:そうです。会社は埼玉で法人登記しました。その理由は、RED WARRIORSがいたのと、埼玉は会場を借りやすかったんです。例えば、神奈川ですと神奈川県民ホールというのがあるんですが、会場費が高いですし、東京の渋谷公会堂も同様で、しかも抽選が1年前なんですよ。
それが埼玉ですと、結構会場があって、基本抽選が6ヶ月前で、割と稼働率も低かったので、たまに土日でも空いていました。だったら埼玉でいいんじゃないかと。それで土日にインディーのバンドを集めて、今でいう小さなフェスティバルみたいなイベントを始めました。これが結構当たりまして、このイベントに毎回出てくれて、私たちが思いきりプッシュして、一緒に仕事をし始めたのがX(現 X JAPAN)なんです。
−−それはインディーズバンドの観客動員がどんどん増えていった時代ですよね。
杉本:そうですね。1,500くらいのキャパの大ホールはソールドアウトしましたね。そのとき、急激に大きくなっていったバンドがXです。RED WARRIORSとXとの出会いは、バックステージという会社を立ち上げたときの、一番重要な出来事でした。その後、Xを中心としたフェスを作るようになって、彼らがいつも一緒にやっていたような後輩バンドにLUNA SEAがいたわけです。
−−バンド同士の繋がりで。
杉本:そうです。そういったバンドが出てきて、ヴィジュアル系というムーブメントが起きるんですが、ヴィジュアル系のアーティストとはほぼ全部と仕事をしました。
−−BUCK-TICKもですか?
杉本:ローカルイベンターとして色々やりましたね。BUCK-TICKもやっていました。BUCK-TICKの最初のインディーでのワンマンコンサートは豊島公会堂でやりましたね。あとはRED WARRIORSの流れでやっていたTHE BLUE HEARTS、JUN SKY WALKER(S)ですね。多分、メジャー契約のあるアーティストってほとんどいなかったんじゃないですかね。結果、みんなメジャーへ行ってスターになるんですが、当時はその前段階ですから。
−−バックステージプロジェクトの仕事が増えていった要因は何だったんでしょうか?
杉本:自分もミュージシャンでしたので、どちらかというとミュージシャンの目線でやっていたんです。私はスタッフですが、ミュージシャンと仕事するときは、対バンみたいな感じでした。
−−仲間の面倒を見ているような感じですか?
杉本:面倒というか、一緒にやっている感じですかね。親分・子分とか上下の関係ではなくて、「一緒になんかやろうぜ!」みたいな感じが支持されたのかもしれませんね。
−−バックステージを立ち上げたときにミュージシャンとしての未練はなかったんですか?
杉本:それは一切なかったです。私はDEVILSというバンドをやっていまして、すごくいいバンドではあったんですが、自分の気持ちは振り切ったというか、もう終わりという感じでした。それ以来まともにギターを弾いていないですね。
−−ちなみに会社スタート時、社員は何人いたんですか?
杉本:4人です。4人とも株主で役員でした。資本金は私がマジョリティーで、残りみんなが5万ずつみたいな(笑)。
−−他の3人もミュージシャンですか?
杉本:違います。当時の地元の仲間です。その中に1人だけプロのイベンター出身者がいたんですが、彼はすぐに辞めてしまいました。残りは私も含めて素人でしたが、多分それが良かったんですね。
3. 積極的なプロモーションで多くのアーティストがブレイク
−−バックステージプロジェクトにとって次の転機はなんだったんですか?
杉本:2〜3年して東京でコンサートを開催するようになったことです。バンドの成長とともに私たちも成長して、例えば、Xもデビューして渋谷公会堂2日間を売り切ると、次のステップとして武道館となります。当然私たちも武道館でコンサートをするようになる。そうすると必然的に、埼玉のローカルプロモーターではなくて、東京を中心とした関東一円をテリトリーとするイベンターとしての業務を求められるわけで、そういう仕事をし始めました。
−−周りは色々と言ったでしょうが、杉本さんご自身は絶対にいけるという確信はあったんですか?
杉本:なかったですね。日々時間だけが過ぎていったという感じです。「絶対に俺はこれで成功してやるんだ」みたいな、そういう決意はなかったです。
−−辛いことはなかったですか?
杉本:全然なかったですね。辛かったのは、お金がないくらいです。
−−(笑)。
杉本:でも、20代のお金がないって別に嫌じゃないじゃないですか。私の家も、事務所兼住まいでしたから。スタッフやバンドのメンバーなんかも事務所にいて、飲んじゃうと帰りたくなくなって、みんな寝袋で泊まっていました。それが別に嫌ではなかったですね。
−−振り返ると楽しいくらいですね(笑)。
杉本:だからサークルみたいなもんですよ。その当時のスタッフはもう私しかいませんが、今となってみればそれでも楽しかったです。
−−青春ですね。
杉本:青春ですよ。どこにも属さないですし、誰に雇われているわけでもない。自分たちが好きなアーティストと、自分たちが作りたいコンサートを作って、お客さんに喜んでもらう。やることはそれだけですから。結果としてそれが商売になってくれればいいとか、そういうことすら考えなかったです。
ただ、私が一所懸命やったことはプロモーションなんです。インディーってなかなかプロモーションしづらいですが、例えば、色々な雑誌の編集部へ行って売り込んだり、あとはメディアです。当時、テレビ埼玉が応援してくれたんです。後にNACK5ができて、こことガッチリ組んでアーティストをブレイクさせるという、そこにすべてを注ぎ込みました。だから好きなことをやっていて、プロモーションもしないということでは全然なくて、当然リスクを取っていましたから、宣伝に関しては必死にやりました。
−−コンサートプロモーターがそこまでするのは珍しいですよね。
杉本:やらないでしょうね。最終的に私はNACK5でDJを4年間やりました。それは番組の立ち上げのときに、NACK5設立当初ニッポン放送からいらした、残念ですが現在は亡くなられた当時の編成、制作部長の浅野さんと意気投合して、当然予算もないですから「杉本面白いな。DJお前やる?」みたいな感じだったんですが、私も「夜中にこういう番組をやらせてくれ」とか、「日曜日のこの時間帯にやらせてくれ」とか、色々と提案して、結果、日曜日の夜8時に1時間番組とその後深夜25時からの2時間番組を持ちました。その浅野さんの自宅が遠かったので、僕の自宅兼事務所に本当に良く寝泊りして、次に何をやる? みたいな。
なぜ日曜日の夜8時かというと、その時間って月曜日のことを考えたりして気分が沈む時間帯ですから、俗に言うサザエさんシンドロームです。ここで日本のカッコいいアーティストを出して、リスナーに明日の活力にしてもらおうと番組を始めたんです。それで色々なアーティストをブッキングして、番組に出てもらい紹介する。曲をヘビーローテーションでかける。ライブハウスでライブをやる、という一連の流れを作りました。
−−番組からブレイクしていったアーティストというのは?
杉本:その番組がすべての要因かというと分からないですが、僕の番組だけではなく、局も一体となって他の番組でも応援しましたから、アーティストプロモーションで媒体連動するプライオリティーの中の一つであること事実だと思います。当然RED WARRIORSはそうでしょうし、X、LUNA SEA、BUCK-TICK 、L’Arc〜en〜Ciel、イエローモンキーとかはガンガンかけていました。あと、THE BLUE HEARTS、JUN SKY WALKER(S)とかは、デビューと同時くらいに、NACK5で番組をやっていましたからね。私の記憶ですと神奈川や埼玉など、関東のローカル地区での状況は良かったと思います。結果としてそれが東京に吸い上がっていったんですね。
4. ローカルプロモーターからコンサート制作&エージェントへ
−−会社を東京に移されたのはその頃ですか?
杉本:そうですね。移るというか、東京にブランチを作ったんですね。埼玉がメインで、ブランチを東京にして「バックステージ東京」という会社を作ったんですが、ここで東京のコンサートをやるようになりました。それでコンサートが増えていったときに、今度は自分たちが作ってきたコンサートとプロモーションを全国でやってみたくなったんです。
例えば、Aというアーティストを、全国でどういうスケジュールを組んで、どういう風に売っていくかということも考えながら、コンサート制作をするようになりました。つまり、全国のブッキング・エージェントと、コンサートの中身を作る方に入っていって、バックステージの業態をローカルプロモーターからコンサート制作会社&エージェントに変更しちゃったんです。
−−中身に直接タッチしようと。
杉本:もうガラッと変えちゃったんです。その最初のグループがX JAPANでした。X JAPANの全国ツアーのブッキングをして、PA・照明・舞台、全ての制作を請け負いました。
−−やっぱりコンサートの中身を作るというのは面白いわけですよね。
杉本:もちろん自分では舞台を作れませんし、PAのエンジニアリングもできないですし、照明も吊れないわけですが、自分が出会ってきた中ですばらしいスタッフが何人もいて、こういう人たちを全部集めて、こういうアーティストと組ませたら絶対に良くなるな、という醍醐味ですよ。それがうまくいきました。基本的にXとラルク、LUNA SEAの照明プランナーはずっと一緒ですよ。
−−そうなんですか。
杉本:ええ。当然本人たちが違うスタッフを求めれば変えていくでしょうけど、結果、ずっと一緒にやっていました。
−−お互いに評価し合えているということですよね。
杉本:そうでしょうね。やはりコツが分かっているというか。だから、そういうスタッフが何名かいて、チームで動いていました。
−−要するに映画で言えば、「○○組」みたいな感じでしょうか。
杉本:それに近いです。私はすごく恵まれていて、やはりスタッフが素晴らしいんですよ。彼らなくして今の私はないです。だから、彼らが本当に良い制作をしてくれたから、アーティストも大きくなれたと思いますし、私も大きくなれたと思いますし、彼らも成長できたということですよね。例えば、照明のきっかけをこうしてくれとか、この色を変えてくれとか、舞台はこういうステージを作って、こういう演出をして、こういう風にやるというような指示を言ったことは1回もないです。
−−阿吽の呼吸ですね。
杉本:うまくいかないときは相手も分かりますから、「杉本さん、今日きっかけこうだったよね」とか言ってくれますから。こうしてくれ、ああしてくれ、こう変えろと、上から指示出したことは一度もないです。
−−杉本さんは、いつもバックステージ東京の方にいらっしゃったんですか?
杉本:基本そうですが、埼玉と行き来していました。振り返ると、私は10年おきくらいに大きいな変化を求めていて、それは「バックステージプロジェクト」という名前が物語っているんですが、うちの会社は「プロジェクト」の集合体で、基本的に担当スタッフが入口から出口までやるというやり方なんです。普通、会社の方向性をバッと変えるのってすごく大変じゃないですか。当然クライアントもいますし、周りの関係もありますから。ただ、そういう会社なので、私自身が勝手に動く分には割と自由で、コンサート制作をやるようになって数年経ったときに、レーベルを始めたんです。
5. ガイレコード設立と日本人アーティストの世界戦略
−−97年にガイレコードを始められますね。
杉本:はい。バックステージを作って12〜13年経った頃です。なぜレーベルをやるようになったかというと理由が2つあって、1つは、私がやってきたアーティストがみんな東京ドームでライブをやるようになってしまって、それってひとつの頂点じゃないですか。東京ドームでショーをやるようになるともう我々の出番があまりないんですよ(笑)。偉そうにエクゼクティブプロデューサーとか書かれていても。
−−(笑)。
杉本:現場的な出番がなくて。それで音楽業界の中心であるレコードビジネスに一度参入してみたいと思ったんです。そのときに河村隆一がソロをやるということだったので、何かお手伝いできることがあればという話がありまして、であればレーベルを作るべきだと提案したら、ビクターがその話に乗ってきて、97年にガイレコードから河村隆一がソロデビューすることになったんです。
そのときにレコード会社の仕組みを全部知りたかったんですね。レコードは1枚でだいたい平均3,000円の単価でその3,000円がどう分配されるのか、なぜその分配率なのかってよく分からないじゃないですか。これを知りたくなって、徹底的に勉強しました。それで、各レコード会社ごとにP/Lは違いますが、限界利益がどの辺まであって、これを下回るとこうなる、ということも全部計算できるようになって、その資料を持ってビクターと交渉したんです。ビクターもそれにすごく賛同…はしてなかったかもしれないけれど(笑)。結果良い環境と仕事を与えてもらいました。とても感謝しています。
−−あら、勉強しちゃったのね、みたいな(笑)。
杉本:だから毎日話していたのは法務担当ですよ(笑)。それで97年に河村が大ブレイクして偉大なシンガーとなり、ガイレコードは8人のスタッフだったんですが、売上が100億越えちゃったんですよ。
−−8人で100億ですか…!
杉本:8人で。それですごいなと思って。で、本来であれば勢いに乗ってアーティストをどんどん出していきますよね?
−−それが普通ですよね。
杉本:私はちょうどその頃、良くロサンゼルスへ行っていたんですが、ロスの目抜き通りにはもうヴァージン・メガストア以外レコード店がなかったんですよ。それで、アメリカのレコード業界の現状をマーケティング調査してみたら、ほとんどKマートとかああいったスーパーでCDが売られ、いきなり20万枚、30万枚コピーできるアーティストだけがレコードセールスの中心にいて、ロックバンドに限って言うのであれば、CDはもうマニア向けのショップでしか売っていないという事が分かって、日本もいずれそうなるなって感じちゃったんです。
−−それを97年の時点で感じられていたと。
杉本:ええ。それでまたアーティストと契約して、2〜3年とレーベルをやっていたら多分もたないなと思って、98年にレーベルを止めたんです。
−−先を見ちゃったんですね。勝ち逃げですね(笑)。
杉本:いや、勝ったのはビクターさんでした。でも結果として良かったんです。あのときにお金がすべてだとしたら、もう今はないでしょうね。もしあんな一気にお金が入ってきたらおかしくなっちゃいますよ。
その後レーベルを止めて、マネージメントを始めました。ただ、マネージメントと言っても、日本のいわゆるマネージメント&プロダクションではなくて、コンサートを中心としたエージェントですので、基本的にテレビに売り込んだりするようなことはあまりやっていません。レコード会社を決める、それからライブツアーをやる、それでもし、楽曲のプロモーションをするんだったら、どこかの音楽出版社と組むみたいな、エージェント的マネージメントを始めました。
−−要するにコンサート・ビジネスを大きくするためのエージェントということですね。
杉本:基本はそうですね。どちらかと言うと欧米式のマネージメントなんですかね?
−−アメリカのやり方は勉強なさったんですか?
杉本:そういったマネージメントでアーティストをブレイクさせるのが、アーティストにとって一番良い形だというのは河村隆一のときから分かっていましたし、これで成功すれば、アーティストは100%喜びますし、周りとの関係性も絶対に良くなるなと思っていて、それがたまたまアメリカ流だったんです。
また、同時にもう一度原点に立ち返って、コンサート・ビジネスを拡げるような仕事をしようと思っていて、タイミング良く周りから「日本人アーティストの世界戦略」について相談される機会が増えてきたんです。
−−なるほど。
杉本:私も日本人アーティストが世界にマーケットを作れたら素晴らしいなとずっと考えていたので、やってみようかなと思いました。それで一生懸命、海外に対してアプローチをかけていったら、自然とマーケットができてきて、特にヴィジュアル系は食いつきが良く、色々なアーティストの海外ブッキングをしに向こうのプロモーターと年に2度、3度会うと、やはり仲良くなるじゃないですか。特にアジア各国に仲間ができてきて、それでアーティストを売り込むようになったんです。当時、会社として複数アーティストの海外ツアーで年間100万ドル、1億円くらいの売上をどう立てるかというのが、私の中の目標で、この100万ドルの売上を立てるのに3〜4年かかりました。
−−やはりアーティストを海外へと言っても、一筋縄ではいかないんですね。
杉本:そうですね。一番壁になったのは、やはり日本のレコード会社が海外にライセンスできないことですね。マーケットがないというのが1つですが、日本のレコードメーカーはあくまでも国内だけの産業ですから、アーティストを向こうへ連れて行くのは全部、私の仕事になっちゃうんですよ。
−−それはレコード会社が一切協力をしないということですか?
杉本:そうでは無くてレコード会社にそういうビジネスがないんです。以前、ポニーキャニオンさんはブランチを作って、アーティストを売り込もうとしていましたが、それはレアケースで、海外で人気のあるアーティストというのは、私の知りうる限り、偶然が多いんですよ。たまたまその国にファンになった人がいて、自分の国へ持ち帰って、ラジオ局に持っていったらかけてくれて話題になっちゃったとか、日本のテレビ番組の海外ライセンスで、オンエアーされ楽曲がアニメやドラマタイアップで認知されたり、ローカルアーティストがカヴァーしたり、などそういう偶然がいくつかあって、戦略的にこの国をこう攻めて、こう売っていこうと考え出したのはここ数年の話じゃないですか。それはいわゆるジャパニーズ・ムーブメント、クール・ジャパン系のイベントなどがあるからですよね。
−−事務所が頑張っているとかはありますが、レコード会社は海外に行ってないですよね。
杉本:あくまでアジアにおけるレコードライセンスですが、利益にならないからです。例えばレコード会社が1人スタッフを駐在させて、かかる経費をレコードのライセンスインカムだけでは稼げないですから。アジア各国の年間レコード売り上げ高を見れば一目瞭然です。だからレコード会社は悪くないんです。そのようなビジネスをやる前提が無いのです。
6. Zeppを通じてアジアにマーケットを作る
−−Zeppと一緒に仕事をするきっかけは何だったんですか?
杉本:アーティストを海外へ売り込む仕事を続けて、自分の中ではある程度満足できた部分もありました。例えば、アーティストによってはキャパ5〜6000のアリーナでライブができたりする。でも、それでは商売にならない。そこで、アーティストを世界に持っていって売ることは、今の日本の機能だと難しいんじゃないかと考えたんです。そうであれば、インフラを作らなければいけない。
−−そのインフラとは何だとお考えだったんですか?
杉本:私はずっと各国にブランチを置いて、そこにプロモーターやマネージメントをこしらえることが必要だと思っていたんですが、もしかしたらライブハウスを作るほうがいいんじゃないか? とあるとき考えたんです。それは、私がずっとライブハウスからアーティストを作ってきたからなんですよね。
それで、ソニーミュージックとそういう話をし始めたんですよ。そうしたらソニーもZeppを海外で展開したいと思っていたけれど、具体的に一緒に組める人がいなかったという話になったので、じゃあ一緒にやりましょうと。
−−それが何年前ですか?
杉本:3年前ですね。もしライブハウスがあれば、ある意味そこを拠点として色んなことができるじゃないですか。例えば、Zeppシンガポールがライブハウスでありプロモーターでありマネージメントであり放送局である、みたいなところまで展開しようと思えばできるわけです。それは私たちが全部ノウハウを持っていますから、逆に言えばローカルの人もそのノウハウを得ることができます。もしかしたら、その土地その土地にZeppができることによって、新しいポップカルチャーを一緒に作れるかもしれません。私のテーマはローカライズなんですよ。現地の人たちとお互いの共通する目標に向かって進み、最終的にはその国のマーケットをお互いが広げていくのが私の理想とするところなんです。
−−もちろん地元のアーティストも対象になるわけですよね。
杉本:当然そうです。でも最初にマーケットを作っていくのは、恐らく欧米のアーティストだと思うんです。彼らは日本にこれだけ来ているのに、その先のアジアへそれ程行けてない。理由は距離感とマーケットとvenueですよ。これらが解消されれば、彼らは乗り出してくると思います。
−−ということは、まずは欧米のアーティストがツアーをやるようになると。
杉本:ツアーが増えることは確実ですね。だから全体の比率としては、例えばローカルが50%以上にして、欧米のアーティストは20%くらいで、日本とか韓国とか、アジア系のアーティストは各10%くらい、という比率でスタートしてもいいと思うんです。ただ、ゆくゆくは、欧米のアーティストとアジアおよび日本のアーティストの比率が逆転して、アジアマーケットを作っていくことができるんじゃないでしょうか。
−−今、Zeppはどこにオープンさせようとしているんですか?
杉本:具体的に進めているのがシンガポール、台湾ですね。私は先日インドネシアとマレーシアへ行ってきましたが、そこでも興味を持っているパートナーがいます。これは100%Zeppが運営するかは分からないですが、パートナーシップを組んで先に進もうと話し合っています。
−−ホールの規模はどのくらいになるんでしょうか?
杉本:日本のZeppと同等が希望です。最低でもでも1800は入らないと収支がとれないでしょうし、ピンポイントでシンガポールだけ作ってもダメなんですよ。仮に日本からシンガポールへ行くとしたら移動だけで8時間1日仕事じゃないですか。それでショーをやって帰るのに最低3日間かかる。余裕を持つと4日ですよね。これで1ショー1800キャパだとやはり欧米のアーティストはわざわざ行かないですし、ローカルプロモーターもアーティストが求める出演料と売り上げのバランスが合わなく、どちらも収支に苦しみますよね。でも、真ん中に韓国か台湾、香港があれば本数を増やせるので、コストコントロールしやすく、出演料も掛け算が出来、無駄なく行けるわけです。1日オフで次の日ショー、1日オフで次の日ショーと。これができるとアジアマーケットはビジネスとして成立します。
−−アジアサーキットができるということですね。
杉本:そうです。ですから、最低でも東アジアに1つ、それから南アジアに1つ、Zeppがどうしても必要なんです。
−−現在、(株)Zeppホールネットワークと(株)Zeppライブという2つの会社になっていますが、それぞれどのような役割を担っているんですか?
杉本:この(株)Zeppライブというのは、バックステージの資本とソニーミュージックの資本の会社で、ツアーオペレーションやプロモーター、あとアーティストの送り出しなど、すべての業務をやるのが(株)Zeppライブです。対して(株)Zeppホールネットワークというのは、いわゆるホールの持ち主ですね。
−−そうすると海外拠点の作りは(株)Zeppライブが行っていくんですね。
杉本:土地を探したり、向こうのゼネコンを決めたりするのは(株)Zeppホールの仕事ですね。(株)Zeppライブはブッキングやプランニングを行います。
−−アジアで作るZeppもステージの大きさや照明機材、PA機材など、全部統一されるんですか?
杉本:そうです。ですから例えばガールズアイドルが昼間、日本のZeppでショーをやって、夜は韓国でショーをやるとかできたらいいですよね。そのまま羽田からビュッと行って、金浦に着いてそのまま夜のショー。機材が同じスペックですから、東京で音を作っちゃえば、全部そのリハーサルの流れでできる、というところまで行けたらいいですね。
−−いや、でも行けるんじゃないですか?
杉本:アーティストやスタッフの精神が慣れるまで少し時間がかかるかもしれませんけど、ステージスタッフやアーティストが「え、リハなしでやるの?(笑)」という。欧米のアーティストって基本的にはあまりリハやらないじゃないですか。テックがチェックしてあとは本番ですから。日本人アーティストもそういう風に徐々になっていくんじゃないですかね。
−−そうならないと、費用ばかりかさんじゃいますものね。
杉本:そうなんですよ。PAも照明も全部あるわけですから人は要らないですし、もっと言うと、マネージャーもツアーマネージャーが1人いればいい。でも日本を含むアジア各国のアーティストは海外へ行くときにものすごくいっぱい人を連れていくじゃないですか。よく向こうのプロモーターが「勘弁して」と言われることが多いです。帯同する人が増えれば増えるほどローカルプロモーターの仕事と経費が膨らむので。
−−いつの間にか関係のない人まで一緒にご飯を食べていたり(笑)。
杉本:そうそう(笑)。プロモーターとの契約書の中では、必ずウェルカムディナーで人数制限かけますものね(笑)。
−−ポール・マッカートニーやストーンズといったビッグアーティストになると、大所帯になるのは仕方ないんでしょうけどね。
杉本:我々がツアーを組む場合、今は主に3000人以内のライブハウスです。例えば香港で1000人のキャパだとすると日本で言うとオンエアイーストですよね。売り切れても、売り上げが日本円でチケットプライス6000円だとして、600万、現地経費(宿泊含む)で350万かかるとすると、現地プロモーターのBEP80%でマックスで170万円の出演料ですよ。そのは中にエアー、運搬、スタッフの経費、全て納めるには、どうするか? そんな中メンバー入れて25人行ったら、収支がとれるわけないです。マーケット規模で言うと、アジアで考えれば大体どの国も三分の一以下で例えば、日本で3000人集客するアーティストは比率で1000人以下です。アレンジが必須なんです。
7. 日本独自のコンテンツから世界的なスターが生まれる
−−杉本さんはもうプロモーターというポジションではなく、日本のミュージックビジネスを世界に展開するための総合プロデューサーという感じですよね。
杉本:そういう風に言っていただけると嬉しいですね。
−−コンサート関係の方々ともインタビューさせていただきましたが、そういう発想でコンサート・ビジネスを考えてらっしゃる方って意外に少ないんじゃないかなと思います。
杉本:確かに会社単位で考えていくとすごく大変でしょうけど、私は個人単位で身軽に動けますし、どんどん色んな会社と接していくことができるので、それは大きいと思います。
−−杉本さんってずっと新しいことだけをやっていますよね。
杉本:そうです。常にチャレンジしているんです。それが本当に良いのか分かりませんけど、もう止まれないんですよ。私は常に何かに向かってチャレンジしていないとダメな性格なんです。
−−Zeppのアジア構想が成功したら大分世界が変わりますよね。
杉本:ええ。ローカルのマーケットが間違いなく変わるということと、日本人アーティストおよびアジアのアーティストの海外進出が確実に変わります。ただ、小屋だけ作ってもダメなんですよ。それをどうオペレーションして、どう進めていくかという、はっきりした考えを持っていないと機能しないです。
−−それこそまた地元のラジオ局と番組を作るとか。
杉本:そういうことですよね。シンガポールとかマレーシアで話をしている相手は、いわゆるデベロッパーなんです。ですから技術や資本力では会場は簡単に作れるんですが、彼らから質問されるのは「ここで何をやるんだ」ということなんです。
−−中身がよく分からない。
杉本:そうなんです。だから私は中身を説明するわけです。それで一緒にポップカルチャーを作ろうというところに行きますよね。私が持って来たノウハウ、私たちが作ってきたノウハウを、全部ここで出す。それで、確実にこの国に新しいマーケットが生まれて、ポップカルチャーが生まれれば、子どもたちの役に立つんだと説明します。
−−ご自身としては、成果を出すのに何年くらいを想定されていますか?
杉本:私は今54歳ですが、とりあえず私の中では10年プロジェクトで、65歳までには自分の目標としているイメージにまでなんとか持っていきたいですね。
−−杉本さんのお仕事の総仕上げという感じですね。
杉本:本当にそうですね。ですから、この10年が私にとって非常に重要で、日本のエンターテインメントビジネスに少しでも寄与できるものを作りあげなくてはと思っています。
−−最後になりますが、世界展開が可能になるアーティストというのはどういうタイプだと考えていらっしゃいますか?
杉本:今はやはりグラミーにないジャンルだと思うんですよ。これは2つあって、アニメとアイドルです。この2つのジャンルの中には日本の番組をライセンスしタイアップした曲を歌う全てのアーティストが入ります。したがって音楽のカテゴリーではなくマーケットとしてのジャンルです。例えば、音楽のカテゴリーだとカントリーやロック、R&B、ヒップホップというのは欧米の彼らが作った音楽であり、彼らが作ったマーケットじゃないですか。ここに入っていくのは、やはりすごく大変で次のステップだと思います。現在のマーケットだと英語じゃなきゃいけないとか、絶対条件がいくつかあると思うんですよ。
対して、アニメとアイドルは私たちのオリジナルですから、このマーケットを世界に拡げていくというのは、確実にできると思います。今、(株)Zeppライブが共同主催しているシンガポール,インドネシアのAFAという数万人集めるアニメイベントや、韓国、台湾のロックフェスを見て回ると、アニメに関して言えば100%日本のコンテンツです。こんなコンテンツは他国にないじゃないですか。でもサウンドはロックから歌謡曲まで幅広いんですよ、これの総称をアニメと呼べば良いと思います。例えば、ロンドンの「ハイパージャパン」というイベントは、音楽だけのイベントではないですが、2日間で8万人が行くんですね。8万人ということはのべで1日4万人ですからポール・マッカートニーと同じ客数を持っているわけですよ。
−−そう考えるとすごい動員ですよね。
杉本:もちろん中身の音楽はロックやヒップホップ、あるいはEDMとか、今あるものの1つかもしれないですが、アニメやアイドルという日本独自のコンテンツが世の中で認められるのであれば、やはりここから初めてのスターが生まれてくると思います。
そして16歳の時、自分の夢だったロックンロールバンドの成功が、今まだ終わらない永遠の夢です。“I wanna be famous, a star of the Rock’n Roll”ですよ。
−−本日はお忙しい中、ありがとうございました。杉本さんの益々のご活躍をお祈りしております。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)