広告・取材掲載

第123回 Goh Hotoda 氏 プロデューサー / ミックス・エンジニア

インタビュー リレーインタビュー

Goh Hotoda 氏
Goh Hotoda 氏

Goh Hotoda 氏 プロデューサー / ミックス・エンジニア

今回の「Musicman’s RELAY」は、(株)Zeppライブ、(株)バックステージプロジェクト / 代表取締役 杉本圭司さんからのご紹介で、プロデューサー / ミックス・エンジニアGoh Hotodaさんのご登場です。芸術家のご両親のもとに生まれ、日本 / アメリカを行き来しながら学生生活を送ったGoh Hotodaさんは、シカゴでキャリアをスタートし、シカゴ・ハウスの黎明期に立ち合います。その後、ニューヨークへ移られてからは数々の有名アーティストのリミックスを手掛けられ、マドンナの『VOGUE』へ結実。その後も、ジャネット・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストン、坂本龍一、宇多田ヒカルなどの作品を手がけ、トータルセールス5800万枚以上、2度のグラミー賞受賞など世界的に高い評価を受けています。熱海のご自宅兼スタジオへお邪魔し、たっぷりお話を伺いました。

[2014年7月7日 / ご自宅兼スタジオにて]

プロフィール
Goh Hotoda(ほとだ・ごう)
プロデューサー / ミックス・エンジニア


1960年生まれ。東京都出身。シカゴでキャリアをスタートし、1990年マドンナの『VOGUE』のエンジニアリングを務め、今ではポピュラーとなったハウス・ミュージックの基盤を作った。 その後ジャネット・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストン、坂本龍一、宇多田ヒカルなどの一流アーティストの作品を手がけ、トータル5800万枚以上の作品を世に送り出す。2度のグラミー賞受賞作品など世界的にも高い評価を受けている。
仕事を通じ10年来の付き合いのあった『REBECCA』のNOKKOと2001年に結婚。『NOKKOandGO』を結成。
現在は日本国内にICON D-Control システムをベースとするスタジオを所有しており、米国とフランス、日本を中心に活動中。

 

  1. アメリカのラジオで音楽に目覚めた少年時代
  2. スタジオの電話番からのキャリアスタート〜シカゴ・ハウスの誕生に立ち合う
  3. 飛躍を求めてニューヨークへ〜週に3曲リミックスの日々
  4. 「このイントロを考えたのは誰?」マドンナ『VOGUE』制作秘話
  5. アーティストの情熱、想いをいかにスタジオで共有できるか
  6. 当時のR&Bに日本語がのれば新しいものになる〜宇多田ヒカル「First Love」
  7. 自分で仕事をどうこさえるかが大切
  8. 好きなことに責任を持って、ずっと好きでいなくちゃいけない

 

1. アメリカのラジオで音楽に目覚めた少年時代

−−まず、前回ご紹介下さいましたZeppライブ/バックステージプロジェクト杉本圭司さんとは、どのようなご関係なのでしょうか?

Goh Hotoda(以下G.H):杉本さんは、僕というよりも家内(NOKKO)と同じ埼玉県出身で、杉本さんというのはレベッカを結成するにあたって、影響力のあった方だったみたいですね。だから僕というよりも家内の方が昔からよく知っているんですよね。

杉本さんはどちらかというと自分がミュージシャンとして主役になるよりも、色々なものをコーディネートしたり、セットアップする方だったと聞いています。そして、杉本さんはプロモーターとしての道を歩まれて、多くの実績を積まれましたよね。実は先週も会って、色々話を聞いていました。

−−ここからはHotodaさんご自身のお話を伺いたいのですが、お生まれはどちらですか?

G.H:東京の国立です。

−−お父様は彫刻家だと伺っています。

G.H:玄関にも父の作品があるんですが、ブラジリアンローズウッドや黒檀といった希少な木材を使って独自の彫刻を作っていました。そして母親は声楽家でした。私は今、軽音楽じゃないですが、こういう仕事していますが、妹は小さい頃からピアノをずっとやっていまして、音大のピアノ科を卒業して今はクラシックの指揮者をやっています。

−−女性で指揮者をなさっているんですか?

G.H:ええ。まだメイン指揮者ではないんですが、アシスタントコンダクターとしてアメリカで仕事をしています。

−−一家全員アーティストなんですね。

G.H:そうなってしまいましたね(笑)。

−−おいくつまで日本にいらっしゃったんですか?

G.H:小学校終わるくらいまで日本にいましたから12歳くらいですね。

−−国立に住んでいらっしゃった頃は、どのような少年時代だったんですか?

G.H:うちは結構厳格と言いますか厳しくて、テレビはあったんですが、観せてもらえなかったんですよね。基本的に外からの情報はなし、みたいな感じでした(笑)。テレビを観られたとしても週末のみとか、そんな感じでしたね。それはそれで全く苦にはならなかったんですけどね。

それがアメリカに行った途端、ラジオを聴くようになったんです。たまたま自分たちが住むことになった部屋のラジオが、目覚ましラジオっていうんですか、目覚まし時計とラジオが一緒になっているやつで、それを聴くのが楽しくて。アメリカのラジオというのは局が無数にあって、ラジオを捻ればいくらでも音楽が聴けたんですね。

−−日本にいる間はラジオも聴いてなかったんですか?

G.H:70年当時、AMはもちろんありましたが、FMはまだ2、3局しかありませんでしたし、自分が聴きたい時間に音楽をやっているかどうか分からないですからね。

−−でもFENは聴けたんじゃないですか?

G.H:FENは入っていました。でも小学生にはちょっと早かったかもしれないですね。それで、アメリカ行った途端に、ラジオからクラシック、ポップス、ソウル、カントリーと何から何まで出てくるので、それが自分にとって最初の音楽との出会いでした。

−−ちなみに妹さんはずっとピアノをなさっていたとおっしゃっていましたが、Hotodaさんも習われていたんですか?

G.H:僕もやらされていたんです。「エリーゼのために」を弾けるようになるまではピアノは辞めちゃだめだと(笑)。あんまりやりたくなかったんですけどね。

−−そもそもアメリカに渡られた理由は何だったんですか?

G.H:実は、父は先にアメリカへ行っていて、日本では基本的に母と妹と私の3人で生活していたんです。その後、父が彫刻家として認められるようになったので、家族みんなでアメリカに行こうと渡米しました。

−−アメリカに渡られて、言葉の壁などいかがでしたか?

G.H:当時、日本の英語教育は中学校になってからでしたから、アメリカの学校の授業を受けてもよく分かりませんでした。分かることといえば算数くらいで、算数は当時アメリカの方が全然遅かったので、算数だけはよくできたのを覚えています。

それで小学校6年生をもう一度アメリカでやってから中学校に行くという手もあったんですが、それも大変だということで、中学校卒業するまでは日本にいなさいと、自分だけ祖母のところに引き取られて、日本に戻ったんですよ。そして中学校の3年間を祖母のところで過ごしたんですが、そのときはアメリカで過ごした間に聴いていたラジオのおかげでポップスや音楽が好きになっていたので、中学校になってからは音楽を貪欲に聴くようになりました。

−−音楽が趣味になってしまったと。

G.H:そうですね。そこからは日本の音楽でも流行歌でも何でも聴くようになりました。当時、細野晴臣さん、坂本龍一さんもそうですが、そういった方たちが新しい音楽を生み出していました。あと井上陽水さんとか、そういった音楽に興味が出てきました。その後、アメリカと日本を行ったり来たりしていたんですが、今度は母親が「日本食のレストランをやろう」と言い出しまして、いきなり家庭の事情というか(笑)、またアメリカに引き戻されたんです。

 

2. スタジオの電話番からのキャリアスタート〜シカゴ・ハウスの誕生に立ち合う

−−お母様がレストランを開かれたのがシカゴだったんですか?

G.H:そうです。自分も「このまま日本にいても、ろくな大人にはならないだろうな」と思って(笑)、「アメリカにもう一度戻ってやってみようかな」と。それでアメリカに戻って1〜2年ぐらい母親のレストランを手伝っていました。80年代前半のアメリカは、お寿司やお刺身に対して「こんなもの人間の食うものじゃない」という風潮がまだあったんですが、そんな中でも、母親のレストランは結構成功しまして、自分もだんだん時間ができてきたので、もう一度自分の好きなことに時間を使おうと、レコーディングスタジオのアルバイトといいますか、電話番をするようになったんです。そこが自分のキャリアのスタートですね。

−−スタジオへ行って「雇って下さい」とお願いされたんですか?

G.H:ええ。そうしたら「夜の電話番みたいな仕事でよければ」と。夜中に電話はほとんどかかってこないんですが、スタジオは24時間仕事をする人とかいますから、誰か一人はいないといけなかったんですよね。

当時、言葉も100パーセント完璧というわけではなかったので、細かいことはよく分からないが、夜の電話番として「○○さんから××さんへ電話です」みたいなことくらいだったらできましたからね。あと電話だけ見ていてくれたらコントロールルームに入って何をやっていてもいいから、みたいな感じでした。それでマイクを立てる手伝いだとか色々やり始めたんです。

−−Hotodaさんはご両親ともに芸術家ですし、音楽のエリート教育をばっちり受けて、エンジニアリングの勉強もして、エリートコースでスタジオに迎えられたみたいなイメージがあったんですが、そうじゃないんですね(笑)。

G.H:全然ないです(笑)。レコーディング・エンジニアになるとか、そんなつもりはなかったですしね。ただ、自分が好きだった人たちがそのスタジオによく出入りしていたんですよね。

−−それがシカゴのPSスタジオですか?

G.H:ええ。そこはチェス・レコードのアーティストが、チェス・レコードの機材を全部買い取って創業したスタジオで、シカゴ・ブルースの面々もそうですし、アース・ウィンド・アンド・ファイアーのモーリス・ホワイトとかラムゼイ・ルイスとか結構色々な人が来ていました。スタッフもアーティストもほとんど黒人しかいないスタジオで、白人のエンジニア一人と私以外全員黒人でした。そのスタジオで過ごした5年間で色々な人たちと知り合えましたし、私にとってすごく大きな経験でした。

−−エンジニアとしての基本をPSスタジオで身につけたと。

G.H:そうですね。学校で教わったんじゃなくて現場で覚えたということですよね。そのスタジオのオーナーはエンジニア兼トランペット奏者で、ミュージシャンとしての仕事があると、スタジオそっちのけで出かけちゃうんです(笑)。そうすると「お前が全部やれ」みたいな感じで、最初は他の誰かがやっていたんですが、だんだん私が言われるようになって・・・「基本的にはあいつはノーと言わないから」って(笑)。夜中だろうが、土日だろうが、オーナーの代わりに作業していました。

一番面白かったのが、教会が寄付を集めるためにレコードを作りにくるんですよね。いわゆるゴスペルのバップティストチャーチの人たちで、そうするとバンドも含めて総勢60人くらいで来るんですよ。それを限られた時間の中で録音するので、私もたくさんのことをいっぺんにやらせてもらいました。1人でやったこともあるんですよ(笑)。全部マイクを立たせて。

−−えっ、全て1人でですか!?

G.H:ミックスは次の日オーナーがやったりするんですけど、録りは一人でしたね。

−−基本的な労働時間っていうのはあってないような感じだったんですか?

G.H:そもそも、そういう関係じゃないですからね。ただ好きだからやっていたようなもんですね(笑)。でも音楽の仕事ってそういうものじゃないですか? ある意味いつでも休みですし、仕事が入ったら終わるまでやらなくちゃいけないですしね。

−−いきなりプロの世界に放り込まれて、たくさん仕事をこなしながら色々なことを身につけられたんですね。

G.H:そうですね、当時は機材がアナログでしたから結構壊れちゃったりして、それも直さなくちゃならなかったり、メンテナンス・エンジニア的な仕事もしていました。

−−教えてくれる人がいなくてもできるものなんですか?

G.H:最初は「こうすればいいんだよ」って教えてくれますが、次は「この前やった通りにやればいいから」って、そんな感じでした。

−−その後、ユニバーサルスタジオへ移られますが、きっかけはなんだったんですか?

G.H:PSスタジオは黒人音楽、ソウルやリズムアンドブルースがメインの音楽的に素晴らしく楽しいスタジオだったんですが、当時、MIDIが出てくることによって色々な音楽がアナログからデジタルへ移行する過渡期で、自分がこのままエンジニアとしてやっていくなら、新しい技術も身につけなくてはならないと思い、シカゴで一番大きく、最新鋭だったユニバーサルスタジオへ就職しました。

−−ユニバーサルスタジオとはどんなスタジオだったんですか?

G.H:フルオーケストラが入るようなスタジオで、それこそナット・キング・コールとか、そういった時代からある老舗スタジオだったんですが、僕が仕事に行っていた頃はいわゆるCM音楽を作るコマーシャルスタジオになっていました。そのかわり新しい技術の集大成みたいなスタジオで、最新鋭の機材がありましたし、CMの音楽プロデューサーですごくお金を持っている方が、新しいMIDIサンプラーとか、そういった高い機材をたくさん持ち込んで、ありとあらゆることをやるんです。30秒で終わっちゃう音楽ばっかりなんですけどね(笑)。

−−(笑)。そのスタジオには何人くらいスタッフがいたんですか?

G.H:昼の部、夜の部と別れていて各10〜20人近くいたんじゃないかな。昼はその当時で1時間、4〜5万円くらい払うクライアントがいっぱいで、17時にはピタッと終わるんですよ

−−17時からはまた別のプログラムが始まるんですか?

G.H:基本的にはなかったですが、17時以降、地元のDJとか若手の黒人ミュージシャンたちにスタジオをものすごく格安で貸していたんですね。彼らは普段、昼間の仕事をしていて、夜になったら自分の好きな音楽を作りにくるわけです。だからスタートが20時くらいで、次の日の朝4時までの作業になるんですが、エンジニアを誰もやりたがらなくて、また僕がやることになったんです(笑)。そのときに知り合った人たちが、今でいうシカゴ・ハウスの人たちで、亡くなったフランキー・ナックルズとか、ああいった人たちが夜中延々とダンスミュージックを作っていて、僕も一緒だったんです。

 

3. 飛躍を求めてニューヨークへ〜週に3曲リミックスの日々

Goh Hotoda 氏 プロデューサー / ミックス・エンジニア

−−シカゴ・ハウスの誕生に立ち合われていたわけですから、昼のCM音楽の仕事よりも断然、刺激的だったでしょうね。

G.H:そうですね。それで独立というほどの独立でもないんですが、ハウスミュージックの人たちと一緒に他のスタジオへ行って、ミックスするようになるうちに、自分の手掛けたハウスミュージックが何曲かヒットしたんですよ。それまで見向きもされてなかったハウスミュージックが、ある日を境にラジオでかかり始めて。その後に独立したんですが、いつまでもシカゴの中だけでハウスミュージックをやっていても限界があるといいますか、自分がレコーディング・エンジニアとしてもう一度キャリアを見直すために勉強をするか、あるいはレコーディング・エンジニアというよりもレコーディングミキサー、リミキサーとしてやっていくか、どちらかにしようと考えまして、ロサンゼルスへ行ったんです。

−−なぜロスだったんですか?

G.H:ロサンゼルスでは実際に仕事はしなかったんですが、当時日本のアーティストがよく海外レコーディングで訪れて、そうすると言葉も分かって録音技術のこともよく分かっているからコーディネーターとして一緒に来て下さいという依頼が結構あったんです。それでロスへ様子を見に行ったり、自分が憧れていたエンジニアの人たちがロスにいたので、そういう人たちとコンタクトを取って、相談したりしていたんですね。例えば、ビル・シュネーやバーニー・パーキンスといった当時のトップエンジニアたちですよね。それでレコード・プラントというスタジオがあったんですが、そこのマネージャーに「仕事したいんですけど」と言ったら、「もちろんトイレ掃除からだろ」って(笑)。

ただ、ロサンゼルスでやるのはなんとなく違うなと思うところもあったので、シカゴハウスの連中と一緒にニューヨークへ行って、アーサー・ベイカーとスタジオで週何回か仕事をしました。当時ニューヨークでもハウスというスタイルがかなりポピュラーになっていたので認めてもらうことができました。

−−ロスよりニューヨークの方が合っていると思われた?

G.H:そうですね。ニューヨークにはものすごくたくさんの人種がいるので、自分が日本人とか中国人とか韓国人とか、あんまり関係ないんですよね、アメリカ人じゃなくてもいいですし。

−−そこは楽だった?

G.H:楽というか、みんな平等な立場にあるという。長くいるとよく分かるんですが、本当のアメリカっていうのはテキサスとか、ああいったところが本当のアメリカって言うんですよね。

−−ニューヨークに行かれてからは、ずっと立場はフリーランスのままですか?

G.H:たまたまオープンするスタジオがあって、そこはダンスミュージックだけをやりたいというプロデューサーの意向でつくったスタジオで、そこに「一週間だけアシスタントとして雇ってあげる」ということで入ったんですが、エンジニアは誰もいなくて、結局そのスタジオでミックスの仕事をプロデューサーの人と一緒にやりました。毎月、プロデューサーからお金をもらって。そしたらある日、そのプロデューサーから「これからは自分で勝手にレコード会社に請求しろ」って言われたんですよね。お前が直接もらってこいと。

−−それはすごいですね(笑)。

G.H:そんなたくさんもらえたわけじゃないから、微々たるお金でしたけどね。ただ彼が自分で払いたくなかっただけです、きっと(笑)。「この住所に請求書を出してやれば、俺が払った分よりもちょっと多めにもらえるように言っといてやるから」みたいな感じで。

−−スタジオ代とミックス料が別々に出ていたんですね。

G.H:段々そうなってきたんですよね。そのうちにリミックスの仕事がどんどん入ってきて、時給がちょっとずつ上がってきました。また色々なプロデューサーと知り合って、そのプロデューサーとリミックスの準備をしたりとか。なかなか自分でリミックスをするところまではいかなかったんですけどね。

その中にシェップ(シェップ・ペティボーン)という、マドンナのプロデューサーがいて、「一緒にやろう」と誘ってくれてミックスのエンジニアをやらせてもらったんですよね。これは結構長くて、3年くらいやったと思います。もう当時のアーティストのほとんどの人のリミックスをしました。毎週3曲くらいずつやっていましたから。

リミックスというのは録音された現場は何も知らずに、ただ手元に来たテープを自分たちの思うとおりに変えていくんですが、そのテープを一番最初に開けさせてもらうわけですよ。だからどういうふうに録音されているかとか、音の作り方とか全部聴けたんですよね。これはレコーディング・エンジニアではなかなかできないことです。週に3日もセッションなんてないですからね。それを毎日できたわけですから、とても貴重な経験だったと思いますね。

−−音のレシピというか秘密を垣間見られたと。

G.H:そうです。トレヴァー・ホーンやロキシー・ミュージック、マイケル・ジャクソンはなかったですがクインシー・ジョーンズのトラックとか全て聴きました。それをシェップが「これはいる、これはいらない」と選別していくんです(笑)。

−−リミックスに関しては、好きにやっていいよとクライアントから完全に任されるんですか?

G.H:当時はレコード会社のプロモーション部門の人が全部その辺の権限を持っていたんですよね。ラジオでオンエアするためのミックスと、クラブでかけるためのミックスの両方を作ったり、プロモーションも非常にクリエイティブな時代でした。

今と違って、リミックスは時間もお金もかかりました。僕たちはテープを全部デジタルにコピーしてリミックスしていましたが、オリジナルのレコーディングは全部アナログでした。それでサウンドワークスというスタジオを一週間ずっと貸し切って作業していました。

 

4. 「このイントロを考えたのは誰?」マドンナ『VOGUE』制作秘話

−−そのリミックス作業の流れでマドンナの『VOGUE』を手掛けられることになるわけですか?

G.H:ええ。マドンナが「トゥルー・ブルー」の後くらいから、もっとハウスっぽい音を作りたいとシェップに言ってきて、レコーディングからプロダクションまで全て一緒にやるようになったんですが、『VOGUE』って本当はシングルにもするつもりもなくて、B面用に作った曲だったんです。

−−そうだったんですか。

G.H:その当時の仕事の流れとして、私とシェップがそれぞれクラブで踊れるようなミックスを作るんですね。まずシェップがミックスを作って、「もう一つあなたの解釈で好きに作って」と彼は帰ってしまう。それで私は朝まで作業をするんです。そういうことをそれまでずっとやっていたので、マドンナの『VOGUE』も例外なく、「私が聴いたことのない組み合わせがもしあったら作ってみて」みたいな感じで任されたので、私はイントロとか全部作り直したんですよ。

Goh Hotoda 氏 プロデューサー / ミックス・エンジニア

−−マドンナの音源を好きにしていいと言われているわけだから、すごい話ですよね(笑)。

G.H:それでいつも通りに作ったら、マドンナからシェップに電話がかかってきて「このイントロを考えたのは誰?」と(笑)。結局、私が作ったものを編集し直して、それでシングルを作ることになったんです。

−−Hotodaさんのミックスが気に入ったと。でも、そのときシェップさんは立場がなかったんじゃないですか?

G.H:いや、別にそんなことないですよ。張り合ってやっているわけではないので(笑)、「良かったね」みたいな感じでしたね。

−−やはりそこで「良い」と言わせないと、次の仕事が来ないですよね。

G.H:積み重ねですからね。それでマドンナが「一緒に新しいアルバムを作ろう」と声を掛けてくれて、作ったのが『エロティカ』です。『エロティカ』のときはほとんどスタジオで彼女と一緒にいました。そのときは歌も一緒に録音しなくちゃいけなくて。

−−今は「こんな感じだった」と軽くおっしゃっているわけですが、当時としてはかなり緊張感のあるお仕事だったんじゃないですか?

G.H:そうですね。やはり緊張しました。当時はパンチインとかしなくちゃいけないんですよね。それも「何小節目から出して、何小節目に落としてください」みたいな指示ではなくて、スポンテニアスに「ちょっと戻せ」みたいな感じで、どこまでが「ちょっと」なのか全然分からない(笑)。

−−(笑)。マドンナの指示は的確でしたか?

G.H:やっぱりすごいですね。彼女には明確なヴィジョンがありました。あとビジネス・ウーマンとしてもすごくて、アルバムを作り終わって、最後にテープが何本あるか勘定していましたからね。何本使ったんだ、みたいな(笑)。

−−意外と細かい(笑)。

G.H:面白いですよね。当時、マーヴェリックという自分のレーベルをワーナーに作らせたばかりだったので、余計シビアだったのかもしれません。

−−それはHotodaさんがおいくつのときですか?

G.H:30歳前くらいですかね。

−−マドンナとの仕事をやった前と後で、Hotodaさんに対する周囲の評価は変わりましたか?

G.H:私はニューヨークに行ったときの目標があったんです。当時、ニューヨークのスタジオ周辺でトップテンと言われるようなエンジニアが5〜10人くらいいたんですが、自分としては必ずその中の1人に入りたいと思っていました。つまりトップコールになるということなんですが、マドンナの頃を境に、自分がトップコールに入れた感じが何となくしましたね。私は最初の頃、週給250ドルとかで働いていたんですよ(笑)。

−−1週間働いて2万5千円ですか?

G.H:安いでしょう?(笑) その次に1時間35ドルでいいよと言われて、「ヤッター」と思いました(笑)。マドンナの頃には時給60ドルくらいまで貰えたかな? その後は1曲いくらみたいになっちゃいましたね。

−−日本と比べてもそんなに高くないですね。マドンナの仕事をやって、1時間6千円みたいな感じですよね。

G.H:そうですね。作業する時間は長いですけどね。

−−そこだけ見ると日本の方が恵まれている気がしますね。

G.H:そうかもしれないです。そこに来るまで結構大変ですからね。パンチイン失敗しただけで、もう呼ばれなくなったという人もいますしね。スタジオは仕事場というよりも、キャリアを作るための、チャンスを繋げるための場でしたから。

−−でも、思えば20代のうちにマドンナまでたどり着いているわけですよね。それは成功が早いというか、出世が早いですよね。

G.H:うーん、どうなんでしょうかね。たまたまいい環境に居たんですね。頑張ってもなかなかそういう風にトントン拍子に色々な人と出会えることもなかったと思いますしね。後になって思えば、ニューヨークに行ったのが良かったですね。

 

5. アーティストの情熱、想いをいかにスタジオで共有できるか

Goh Hotoda 氏 プロデューサー / ミックス・エンジニア

−−シカゴでは、シカゴ・ハウス黎明期の現場で仕事をされ、ニューヨークでも最先端なアーティストたちと仕事をされていたわけで、世界の中で今、中心にいるという意識はありましたか?

G.H:そんなになかったですね。シカゴ時代からそうなんですが、同じことをあまり長く繰り返さないようにはしていたんですよね。ハウス・ミュージックがマドンナの『VOGUE』あたりで一旦完結したなという思いが自分の中であって、これからは自分がやらなくても4つ打ちキックのスタイルが、ダンス・ミュージックの基本になるだろうなという感じはしましたね。

−−だからこそHotodaさんとしては「そろそろ次へ行くか」みたいな?

G.H:はい。それで、長年シェップと一緒にやっていた仕事をちょっと離れたんです。

−−ちなみにHotodaさんご自身はクラブへ遊びに行ったりしていたんですか?

G.H:当時はよく行っていました。踊ったりはしなかったんですが、DJの人たちと一緒に行ってEQとかチェックしていました。やっぱりクラブはものすごい音量で聴けるので。いいミックスはそういうクラブでもいい音がするんですよね。

−−サウンドチェックですか(笑)。これまた仕事ですね。

G.H:そうですね(笑)。それで今度は黒人のR&Bやジャズをやってみたいなと思いました。そのときに、私にはマネージャーがついていたんですが、そのマネージャーがたまたまベーシストのマーカス・ミラーのマネージャーでもあったので、そこからジャズ周辺の人たちとの繋がりもできました。

それでチャカ・カーンのアルバム『The Woman I Am』の3曲をマーカス・ミラーがプロデュースして、もう1曲はスクリッティ・ポリッティのキーボーディスト、デヴィッド・ギャムソンが作って、私はその4曲をミックスしたんですが、そのアルバムがたまたまグラミー賞を獲ったんですよ。

−−グラミーってたまたまで獲れるものなんですか?(笑)

G.H:(笑)。でも、意外とノミネートはされるんですよ。当時でも結構ありましたよ。R&B歌手のフレディ・ジャクソンとか、色々な人をやりましたが、ほとんどノミネートはされていましたね。でもノミネートだけでは意味ないですからね。

その後は「ジャズの仕事をもう少しやってみよう」とさらに突き進んで、今度はデイヴィッド・サンボーンと一緒にアルバムミックスをやりました。サンボーンはいつもNEVEのアナログコンソールで音を作るのが好きな人なんですが、私はアルバム全部をSSLでミックスしたんですよ。それでProToolsは当時100%使えるわけではなかったんですが、ProToolsを使ったことをデジタル嫌いのサンボーンに色々と説明しつつ、一緒にやったアルバム『Inside』がグラミーの最優秀コンテンポラリー・ジャズ.・アルバムを獲りました。チャカ・カーンのときと違って、このアルバムは全曲ミックスしましたから、非常に嬉しかったですね。

−−デイヴィッド・サンボーンとのミックス作業はどのような感じだったんですか?

G.H:ミックス中、サンボーンと一緒にいるんですが、サンボーンはミックスをずっと聴いたりするのではなくて、とにかく色々な話をするんですよね。それで「どうしてもこのソロが気に入らないんだ・・・」と言われて、「十分いいじゃないですか。全然問題ないですよ」とか言ったりね(笑)。

−−(笑)。

G.H:サンボーンは「いやー、ちょっとなー」と言って、サックスをカチャカチャいじり始めるんですよね。そうしたらプロデュースしていたマーカス・ミラーが「これは長くなるから、俺はちょっと家へ帰る」と言って、ロサンゼルスへ帰っちゃうんですよ(笑)。案の定、「今はリードがピロピロ鳴るけど、明後日あたりには完璧になる」と言い出して、「よし、明後日、再録音するぞ」と言われて(笑)。

それで録音したんですが、サックスのソロを何度も何度も吹くんですよ。「今の良かったからとっといて」「わかりました」とやり取りするんですが、全部同じですよ。何も変わらない(笑)。

−−何度吹いても違いが全く分からない?

G.H:分からないですね。

−−恐ろしいですね・・・エンジニアとして成功する才能の中に、そういうアーティストたちと楽しく付き合っていけるか、という要素もありますね。

G.H:ええ。そういう時間を共有できるというのは本当に大事です。その前にシンディ・ローパーと2曲くらいミックスをやったんですよ。そのときのシンディーは今の旦那さんと一緒になって、幸せいっぱいだったんですが、その2曲は前のボーイ・フレンドと一緒にいた頃に歌った曲なので、歌い直したいんだけど、なかなかそのときの気持ちになれないと言うんですよね。だから、仕事というよりも、ほとんどシンディの悩みというか話を聞く感じでした(笑)。

−−相談相手、カウンセラーですね(笑)。

G.H:そうです(笑)。それでミックスを聴くと「やっぱり違うのよね」とか言われて(笑)。「そうですよね、はい」なんて感じで一週間くらい延々作業していました。

−−一週間! 本当に大変な仕事ですね・・・。

G.H:周りに誰もいないですからね。アシスタントも様子を見に来て、音が出ていないなら自分に用事がないんだなと思って部屋に入って来ないですから。

−−心のどこかで「早く歌ってくれ」みたいな気持ちにはならないものなんでしょうか?(笑)

G.H:(笑)。サンボーンのときと同じで、シンディも何度歌っても同じなんですけどね。で、「いいじゃないですか」と言っても、「いや違うんだ」と、この繰り返しです。結局「まあいいから」と説得してラフ・ミックスを作りました。それで後になって、10何曲を違うプロデューサーと一緒に作って、私とやった2曲ももう一度ミックスし直したらしいんですが、「あのときみたいな音にならない」と言うんですよね。それで私とやったときのミックスを使ってもいいか? と電話がかかってきました(笑)。

−−みなさん、こだわりがすごいですね。

G.H:アーティストの情熱、強い想いをいかにスタジオという空間の中で共有できるかが大切なんですよね。本来スタジオってそういう所だったんですよ。

 

6. 当時のR&Bに日本語がのれば新しいものになる〜宇多田ヒカル「First Love」

−−その後、坂本龍一さんともお仕事をされていますね。

G.H:もうその辺は前後していますね。サンボーンの後ろとか前とか。宇多田ヒカルもそうです。

−−宇多田ヒカルさんに初めてお会いになったとき、どのような印象を持たれましたか?

G.H:やはり日本人としては歌が相当上手いなと思いました。宇多田ヒカルは録音当時15歳だったかな? そのときに、キャリアをスタートさせるのはもっと後でもいいんじゃないかな? と正直思いました。まだ学校とか、色々なことを経験してからでも遅くないんじゃないかと。そのくらい彼女は若かったんですよ。

お父さんとお母さんと飛行機に乗って、ニューヨークと東京を行ったり来たりで大変だったと思います。それは「Automatic」とか「time will tell」とかの歌詞に現れていて、若いのにすでに立派なシンガーソングライターだなと思いましたね。

−−「First Love」のミックスにはすごく衝撃を受けました。

G.H:私はダンスミュージックとR&Bをやってきた経験がありましたから、彼女の音楽は結構手っ取り早いというか、自分にとっても理解が早かったです。当時はマライアとかブランディとか16歳、17歳くらいのR&Bが日本で流行っていましたよね。でも歌詞が英語だから、何を歌っているか分からないじゃないですか。そこで当時のR&Bサウンドに日本語がのっていれば、非常に格好いいもの、新しいものになるだろうと思っていたんですけどね。

−−宇多田ヒカルさんのときにレコーディング・エンジニア印税みたいなものはなかったんですか?

G.H:最初に2曲やったときに、レコード会社の人が「まだ若くて子どもで新人なので安くしてくれないか?」と言ってきたんですね。これはデモみたいなものだからと。私はそのときに「ダメだ」と言ったんです。スタジオもみんなきちっとやるんだったら、例えデモだろうが、みんなへお金を払いなさいと。そのときに印税と言えば良かったんですけどね(笑)。

−−言わなかった(笑)。

G.H:それで1枚目は印税を貰わなかったんですが、2枚目、3枚目は貰いました。

−−その後、パリに向かわれますね。なぜパリだったんですか?

G.H:グラミーを取った後に、次にアメリカの中で仕事をしたいなと思ったのは、やったことがないということもあったんですが、カントリー・ミュージックくらいしかありませんでした。今でもカントリー・ミュージックは大好きなんですが、ナッシュビルの中に日本人が入るのはなかなか難しいんですね。自分は黒人の中に結構簡単に入れましたが、日本人がナッシュビルの世界に入るというのは相当難しいものがあるんです。

−−なるほど。

G.H:もちろん、子どもの頃からテキサスとか白人社会の中にいた日本人であれば全く問題ないと思います。日本人と思われないですから。でも、私たちのように日本の文化を持っている人間では難しいだろうと思っていたので、ヨーロッパへ目を向けました。それ以前にデペッシュ・モードと仕事をしたり、イギリスでは何回か仕事をしたことがあるんですよ。でもイギリスはアメリカの延長なので、レコーディング技術もアメリカとあまり変わらない。そこで、パリという異色文化と言いますか、そういうところに行ったらどうなるのかなと考えたんです。

−−英語圏ではないヨーロッパですね。

G.H:今はあまり関係ないですが、19世紀とか昔のパリって芸術家の登竜門だったじゃないですか。誰でもみんなパリを目指すと言いますか、そういう舞台だったわけで、そのパリでちょっとやってみようと思ったんですね。ニューヨークに自分の機材を置いていた部屋があって、そこで編集したりしていたんですが、その部屋を全部解約して、荷物も全部整理して、それでパリにアパートを借りました。家賃もニューヨークと同じくらいか、もっと安く借りられたんですよね。

−−パリへ移られて、まず何をなさったんですか?

G.H:パリに行ってから何もすることがないので、学校に行ってみようと思ってフランス語学校へ行って(笑)・・・仕事のないときしか行けないんですけどね。それで昼間はフランス語学校で他の外国人たちと一緒に勉強して、夜は友達とか音楽関係の人と会って話をしていました。それで何人かレコード会社の人を紹介してもらって、「面白いアーティストがいたら一緒に仕事させてください」と履歴書を渡したんですよ。その履歴書を見て「なんであなたはパリにいるんだ」「居る必要は全くない」と言うんですね。アメリカで一所懸命頑張ってやればいいじゃないか、バカにしているんじゃないか? みたいな(笑)。

−−立派な履歴書なわけでしょう? マドンナとかグラミー賞とか書いてある…(笑)。

G.H:そうそう(笑)。それで相手にしてもらえなくて、まあいいやと思っていたときに、たまたまアラブの友達と知り合いまして、「アルジェリアの若い歌手をプロデュースしないか?」と言われたんですよ。それがFAUDELでアルバムを1枚作りました。そのアルバムはフランス郊外のスタジオとパリのスタジオを行ったり来たりしながら録音して、ニューヨークでミックスしました。

バジェットはレコード会社からも出ていましたが、基本的にはアーティストである彼のプロダクションが払っていたんですね。それでギャラを交渉するときに、彼はポルシェに乗っていたんですよ。それで「ポルシェと取り替えっこしよう」と言って、ポルシェを貰いました(笑)。

−−すごい(笑)。パリでの生活は楽しかったですか?

G.H:そうですね。今でも友達がいっぱいいますしね。よく「ニューヨークは懐かしいですか?」と訊かれるんですが、ニューヨークは懐かしいと思わないですし、今は行きたいとも思わないですね(笑)。

−−それは意外です。

G.H:ニューヨークは、自分の学校みたいなところなので、もう卒業したらその中に戻ってどうこうということはまずあり得ない。でも、パリにそういう感覚はありませんし、すごく楽しかったですからね。ギャラと取り替えたポルシェで、酔っ払って、凱旋門をぐるぐると回ったりとか(笑)。当時はヨーロッパ中が飲酒運転に寛大でしたからね。

−−それからHotodaさんは世界中のスタジオでお仕事されていますが、その国の個性というか、違いというのはありましたか?

G.H:それはありますよね。スタジオ自体というよりも、そこでの時間の過ごし方が違います。秘密を共有し合うような空間というのは、アメリカならではですし、フランスのスタジオはどちらかというともっと文化を交流し合うところと言いますか、レストランの延長みたいな感じで、フランス人はお酒飲みながら仕事する人も多いですね。

−−スタジオでお酒ですか。

G.H:夕方になると「食前酒でもどうですか?」となって、そのうちに「もう夕飯にしましょうか」と(笑)。昼食に2時間以上かけたり、優雅でしたね(笑)。

 

7. 自分で仕事をどうこさえるかが大切

Goh Hotoda 氏 プロデューサー / ミックス・エンジニア

−−拠点を日本に移されるきっかけは何だったんですか?

G.H:2000年頃NOKKOと再会して、彼女がたまたま休業中だったので、じゃあ一緒にどこか旅行でもしましょうと、一緒に世界中を回ったんですよね。そんなことをしているうちに9.11が起きて、私とNOKKOがパリからニューヨークに戻れなくなっちゃったんですよね。そして、たまたま被災したニューヨークの友達が妊娠していて、アパートが崩壊するわ、もう滅茶苦茶だったので、私のアパートを彼女に貸してあげたんです。それで、その間に私とNOKKOは、彼女の実家、埼玉の方に半年間くらい居て、一旦ニューヨークへ2人で戻りました。

ただ、最終的には日本で暮らそうと思っていたので、土地を探していたんですが、なかなか見つからず、日本へ仕事で戻ってくるたびに伊豆旅行とかよくしていたんですよ。その道すがらにいつも行く寿司屋があったんですが、その寿司屋へ行って「この辺に住めたらいいんですけどね」と話したら、後日「いいところがあるんだけど、見に来ませんか?」とニューヨークに電話がかかってきて・・・(笑)。それがこの土地なんです。

−−寿司屋さんから?

G.H:そうです(笑)。

−−それが10年くらい前ですか?

G.H:そうですね、その頃はまだニューヨークにいたので、すぐに家を建てるとか考えていなかったんですが、たまたまNOKKOが妊娠したということもあって、子どもをニューヨークで育てるのももちろんいいけれども、日本で育てることを考え始めて、熱海に移り住みました。

−−ちなみにNOKKOさんとはレベッカのときにお仕事をされていたんですか?

G.H:そうです。私がニューヨークで週給250ドルのちょっと後くらいですね(笑)。ニューヨークには、リミックスとかプロモーションで来ていましたね。ソロになってからもミックスは必ず頼まれていました。「人魚」もそうですし、あとソロアルバムも何曲かやりました。

−−アーティストと結婚するというのは、人ごとながら大変なことだと思うんですが(笑)。

G.H:(笑)。そうですね、やっぱりワン・アンド・オンリーなので。だからといって、こうしてほしいとか、ああしてくださいという気持ちはなくて、好きなようにするのが一番いいと思うんですよ。もちろん、家族ではあるけれども、アーティストとしてこうした方が格好良く見られるだろうとか、こうした方がいい印象を持たれるだろうということも考えられれば、意外と楽ですよね。近くに熱海中学校というのが統合されてできて、市役所の方からNOKKOに「校歌を作曲してほしい」という仕事とか、そういう仕事もきたりとかして、それをサポートしているのは意外と楽しかったですね。

−−今はNOKKOさんのマネージメントもなさっているんですね。

G.H:自分のキャリアはアシスタント時代があり、レコーディング・エンジニアという時代はあまりなかったんですが、ミキサー時代があり、NOKKOと結婚したことによって、新しい仕事として、プロダクションのオーナーが加わるんですね。このアーティストの管理という仕事は、レコーディング・エンジニアやミキサーと物の見方が全然違うので、とても新鮮でしたね。

−−今はNOKKOさん以外のお仕事はできるだけセーブしている?

G.H:そんなことないですよ。何でもやります。最近だとAqua Timezというバンドのミックスを2曲やっています。あと、今度NOKKOのバンドを作るんですよ。夏フェスじゃないけど、簡単なイベントでもアコースティックでできるようなバンドを作ろうと。プロのプレイヤーに頼むとどうしてもお金も時間もかかってしまうので、若い子たちを探しているんです。たまたまインディーズでミックスを頼まれたときに、なかなかいいピアノを弾くなという人がいると、その人に連絡をとって、家に呼んだりとかして(笑)、「今度イベントがあるから一緒にやってくれない?」と。逆にその子の次の曲を私がミックスしてお返ししたり、そういう物々交換みたいなことをして(笑)。ですから、今は色々な若い人たちが出入りするようになっています。

−−すごくいいネットワークですね。

G.H:あと、マーカス・ミラーもそうですけど、アメリカの色々なプロデューサーが「何曲かアルバムミックスをやってください」とネットでどんどん送ってくるので、そういう仕事もありますね。

−−そういう時代になっちゃったんですね。アメリカに行かなくて済む。

G.H:そうですね。また、面識のない人から「ミックスをお願いできませんか?」といきなり依頼が来ることもあります。その中でスペインのベーシストなんですが、マーカス・ミラーのようなベーシストになりたいみたいで、私がマーカスのアルバムを何枚かやっているのを聴いて、「ああいう音にしたいんです」と連絡が来ました。それで彼の作品はスペインの中では流通できるんだけれども、日本の中でできないから、レーベルを紹介してあげたり、ライセンス契約を手伝ってあげたり、ミックス以外のこともやったりしますね。

−−若い方を育てているということですよね。

G.H:どんなに過去に成功していても、今はそれだけではなかなか仕事が入ってこないです。ですから、自分で仕事をどうこさえるかが大切だと思います。ヴィジョンを作っていくとか、そういうことを自分で前向きに考えるようにしないと、展開はなかなかないですよね。

−−受け身では展開していかないと。

G.H:家で電話が鳴るのを待つなんて、今はないですよ。みんなケータイ持っている時代ですからね(笑)。

 

8. 好きなことに責任を持って、ずっと好きでいなくちゃいけない

−−Hotodaさんにとって、2つの国の文化を小さい頃から肌身に感じて育ったということは、大きな影響を受けていますか?

G.H:それはありますね。色々と思い出すんですよね。あそこで食べたものがどんな味だったかなとか、聴いた音もそうですし。たくさん引き出しがあると言ったらナンですが、色々なところで得た経験というのが仕事に活きていると思います。

−−それは大きいですよね。例えば、日本の東京しか思い浮かばない人と、ニューヨークはああだった、こうだったと、大人になって旅行へ行くのではなくて、そこで暮らす、その空気を知っているというのは全然違うことなんだと思うんですよ。

G.H:それがまた新しい時代になって、どんどん変わってきているんですけどね。

−−Hotodaさんは、小さい頃から自分は好奇心旺盛だなという感覚はありましたか?

G.H:それはありましたね。あまりいい言い方ではないですが、完成するのがつまらないというか、一番楽しいのは完成するまでのプロセスで、それをずっと味わっていたいわけですよ。そのためには終わらないように違うことを見つけてくると、また終わらないじゃないですか、いつまで経っても(笑)。

−−(笑)。

G.H:別にそれまでやってきたことを止めたわけじゃないんですけどね(笑)。

−−お話を伺って、ガツガツは全然していないんだなと思いました。実に大らかというか、好きなことを好きにやっているという。

G.H:その「好き」という気持ちから始まっていますから、それが変わっちゃうとブレちゃいますよね。好きなことを始めたからには、好きなことに責任を持って、ずっと好きでいなくちゃいけない。だから、嫌いになるような仕事はなるべく近寄らないというか(笑)、避けて通った方がいい。「でも仕事だから・・・」とやってしまえば、それはそれで形になったり、お金になったりするかもしれませんが、自分のためにいいかというと、それは別ですよね。

−−いい意味で言うんですが、Hotodaさんにはどこか軽さがありますよね(笑)。

G.H:まさにそうです。身軽じゃないとできないです(笑)。例えば、「お前のやり方が気に入らないから全部やり直せ」と言われたら怒って帰っちゃうエンジニアっていますよね。

−−いますね(笑)。

G.H:そこで怒って帰るんじゃなくて「解釈が違うんだな」という風に捉えられるかどうかですよね。少なくとも、自分が好きだと思ったものが、この人は嫌いだということなんですから(笑)、すごく分かりやすいじゃないですか。

−−やり直すしかない(笑)。

G.H:そこで怒って帰っちゃったら、次に何をやってもまた同じことですからね。むしろチャンスだと思った方がいいと思うんですよ。

−−でも最後は「これでいい」と言わせるまで作業されるわけですよね?

G.H:そうですね。だから根比べというとナンですけど、向こうが飽きちゃうまでやります(笑)。

−−(笑)。

G.H:面倒なことはたくさんありますが、ミックスって人と一緒にやるのが面白いんですよ。今はみんな「ネットで確認するからいいです」となりがちですが、実際に同じ空間でスピーカーから爆音で鳴らしたり、「これでいい」「いや、ダメだ」というやり取りが大切だと思うんですけどね。

−−空間を共有して、ミックスを確認し合うわけですね。

G.H:だから私もなるべくここに来てもらっていますね。全部一緒に聴いて、話し合って、作業が終わったら一緒にシャンパンでも飲みましょう、みたいなね。

−−最後になりますが、日本の音楽業界の現状をどのように見てらっしゃいますか?

G.H:少なくとも今の状態のままでは、やっぱり続かないと思いますね。CDメディアもそうだし、ダウンロードも五十歩百歩という印象です。

−−例えば、ストリーミングで聴き放題というのはいかがですか?

G.H:確かに聴きたいなと思ったときに、すぐYouTubeとかストリーミングで確認したり、サンプルとしてはアリかもしれないですが、音楽を楽しむという意味では、きっと楽しんでないと思うんですよ。だって広告がいっぱいあるような、テレビを見ているようなものですよね。ですから、新しい文化のあり方としては、全然違う形で音楽というのがプロデュースされていくんだろうなとは思います。それと、日本はCDを何枚出荷したとか、ダウンロードは何万件でトップだとか、現実に伴っていないことが多いような気がするんですよね。

−−チャート至上主義的な…。

G.H:そう(笑)。実際にその人たちがCDを買って聴いているかと言ったら、ちょっとどうかなと思いますしね。もちろんお店には並んでいるんですけどね。個人的に興味があるのはヘッドフォンの存在で、今オーディオがなくなってきて、ヘッドフォンが定着してきていますよね。そのヘッドフォン思考の音楽というのがもしかすると、新しいマーケットというか、新しいメディアになるかなと思うんですよね。ヘッドフォンで聴く音楽というのが。あと、ハイレゾリューションも面白いと思います。

今度考えているプランがあって、NOKKOたちがやっていたレベッカとか、デヴィッド・ボウイもそうですが、80年代の音楽を今聴くと、ものすごく音が小さいんです。80年代というのは生ドラムからドラム・マシーンとか、デジタル機器に移り変わった時期であり、レコードからCDに移り変わった時期でもあるので、音が小さくまとまっている音楽が多いんです。でも、中身は制作費用をしっかりかけ、アイディアがよく練られた、格好いい作品が多い。逆に大雑把な作りで、マンションの一室でミックスされたような最近の作品の方が音は大きくなっていて、非常に不公平だと思うんですよね。全然お金もかかっていないのに音だけデカくて(笑)。

−−(笑)。それは当時の録音技術の問題だったりするんですか?

G.H:きっとそうでしょうね。ですから、そういった80年代の作品をもう一度ミックスし直して、ラウドにガツンッとしたものにして、それをハイレゾリューションで提供する。そうすると、昔の映画を4Kのテレビで観るみたいな、そのくらいのディティールが出てくるんじゃないかと思います。

−−それは是非聴いてみたいですね。

G.H:もしかしたら、そういった作品がハイレゾリューションのマーケットでブレイクするところなんじゃないかなと思っているんですよ。ソースはものすごくいっぱいありますしね。

−−80年代もいい音楽がいっぱいありましたからね。

G.H:もちろん、できるものとできないものがあるとは思うんですが、できるんだったら、全てミックスをし直してみたいです。例えば、レベッカとか、ああいったエレクトロ・ポップみたいなものは、今のEDMみたいな音楽と非常に似ているところがありますから、若い人たちにも聴いてもらえると思いますし、意外と新しい発見というか、日本のポップスの原点が浮かび上がってくるんじゃないかなと思っています。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。Goh Hotodaさんの益々のご活躍をお祈りしております。
Goh Hotoda 氏 プロデューサー / ミックス・エンジニア

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

関連タグ