第125回 佐野 健二 氏 ミュージシャン
佐野 健二 氏 ミュージシャン
今回の「Musicman’s RELAY」は、(株)スターテック 代表取締役 / サウンド・デザイナー 志村 明さんからのご紹介で、ミュージシャン 佐野健二さんのご登場です。アメリカンスクール育ちの佐野さんは、大学入学を機に渡米。以後、ロスをベースに音楽活動をし、’83年カラパナに加入、来日公演で凱旋帰国されます。その後もジェイ・グレイドンなど一流ミュージシャンたちとの仕事と同時に、日本国内でも活動を開始。globe、安室奈美恵のミュージック・ディレクターや、矢沢永吉のツアーにベーシスト兼バンドマスターとして参加するなど、日米を股に掛けて活動されてきました。現在はEXILEのミュージック・ディレクターとして、各種プロジェクトのレコーディングやライブに深く関わられている“キャプテン”佐野さんにたっぷりお話を伺いました。
プロフィール
佐野 健二(さの・けんじ)
ミュージシャン
生年月日:1955年8月6日 出身地: 兵庫県
1983年 Kalapana加入。翌年、初来日を果たす。
1988年 角松敏生と共同で中山美穂のアルバム『CATCH THE NINE』プロデュースを手掛ける。
以降、早見優など日本のアーティストのプロデュースを手がけるようになる。
仕事の依頼は多岐に渡り、鈴木杏樹と共に『BSヤングバトル』の司会を担当したことも。
1994年 ジャッキー・グラハムの音源制作に携わる。ジェイ・グレイドンの日本とヨーロッパのツアーに参加。
1996年 globe、安室奈美恵のミュージック・ディレクターを務める。
約11年に渡り安室奈美恵のツアーのベーシスト兼バンドマスターとして活躍。
2001年 矢沢永吉のツアーにベーシスト兼バンドマスターとして参加。
2004年 EXILEと出会い、ミュージック・ディレクターとしてEXILEのレコーディングやライブに深く関わる。
現在もEXILE、Exile Atsushiのミュージックディレクター兼ベーシストとして活動中。
- 「これからの日本人は英語を話せなあかん!」〜父の後押しでアメリカンスクールへ入学
- バンドとスポーツに熱中する学生時代
- アメリカの大学へ進学〜黒人やハワイアンたちとバンド活動
- カラパナのメンバーとして凱旋帰国
- 小室哲哉の右腕として東奔西走〜安室奈美恵との出会い
- 「健二、お前バンドあるの?」矢沢永吉との濃密な一年
- こいつは日本を背負うボーカリストになる〜EXILE ATSUSHIの歌に感動
- チャンスをものにするために、日々自分を磨き上げることの大切さ
1. 「これからの日本人は英語を話せなあかん!」〜父の後押しでアメリカンスクールへ入学
−−前回ご出演いただきました志村明さんと初めて会われたのはいつ頃ですか?
佐野:僕は94年にジェイ・グレイドン・オールスターズというバンドの日本公演で来日したんですが、そのバンドはジェイ・グレイドンを始め、シカゴのビル・チャンプリン、TOTOのジョセフ・ウィリアムズとスティーヴ・ポーカロという、とんでもないメンバーの中になぜか僕だったんですね。ジェイとは仲が良かったということもあるんですが、そのバンドのツアー初日が中野サンプラザで、そのときのエンジニアが志村さんだったんです。とにかくモニター周りも外音も滅茶苦茶良くて、「この人すごいな!」と思いました。それ以後、仲良くさせていただいています。
実はそのライブのときに、僕たちが後でチェックできるようにワンカメラで録った映像があったんですね。で、5年前くらいに「この映像はよく撮れているからDVDで出さないか?」と言われて出すことになりまして、「音はどうしよう?」となったときに、志村さんに連絡したら、ボードからダイレクトに録ったDATがあったんですね。これがとんでもなくバランスがいい音で、その音を映像に合わせてそのまま商品になりました。
それ以来もう20年、安室奈美恵ちゃんなど色々な現場でご一緒したんですが、僕がEXILEを任されてから、ずっと志村さんを呼びたかったんですね。ただ彼もすごく忙しくて、9年前にやっと口説き落として(笑)、それ以来ずっとやってもらっています。ATSUSHIのソロも彼がやってくれています。
−−佐野さんはずっとロスをベースに活動されていますが、志村さんはアメリカのエンジニアにも引けをとらない腕だと。
佐野:ええ。ジェイ・グレイドンはものすごく細かいところまで気にする神経質な人なんですが、そんな人が「Hey, That man ‘s great!」って言うくらいすごくいい音だったんですよ。日本にも凄腕のエンジニアの人はいっぱいいらっしゃいますけど、僕は志村さんが日本No.1だと思っています。
−−ここからは佐野さんご自身について伺っていきたいのですが、お生まれは神戸だそうですね。お父様がナイトクラブのマネージャーをしていたとか。
佐野:そうですね(笑)。親父はちょっと派手目な感じでしたが先見の明というんですか、僕が5歳のときに「これからの日本人は英語を話せなあかん!」とアメリカンスクールに入れてくれたんです。
−−当時ではものすごく珍しいですよね。
佐野:学校で日本人は僕一人でした。当時、神戸には3つか4つアメリカンスクールがあったんですが、中でも一番落ち着いている聖ミカエル国際学校というところに入りました。ですから、僕は日本の学校に行ったことがないんです。
−−日本語はどこで覚えたんですか?
佐野:家に帰ると日本語をしゃべっていて、デイタイムは英語、ナイトタイムは日本語でした。物心つく前からアメリカンスクールへ通っていましたので、自然と英語も日本語も話せるようになりましたね。
−−お父様は海外で生活されていたことがあるんですか?
佐野:それが全くないんです。ただ、進駐軍、GIがたくさんいた時代に、彼らに積極的に英語で話しかけていたようです。ですから、親父は最初GIが使う悪い英語しか知らなかったんですよ。
−−スラングですね。
佐野:そう、スラングです(笑)。二言目にはスラングが出るから授業参観のときなんか「あんまりしゃべらないで!」って言ってました(笑)。
−−帰国子女もまだ少ない時代に、アメリカンスクールでの生活は本当に貴重な経験ですよね。
佐野:はい。それはもう親父に感謝してもしきれないくらいです。親父は太く短く生きた人で、59歳で亡くなりました。今、親父と同い年なので、親父より長生きしないといけないなと思って頑張ってます!
−−佐野さんの音楽的なルーツはビートルズだそうですね。ビートルズを聴いてからすぐに楽器を始められたんですか?
佐野:ええ。ギターを始めました。全然弾けないですし、なんとなく触っているだけだったんですが、嬉しくて学校にエレキを持って行ってました!それを見た先輩たちが「ギター弾けるの?」と話しかけてくれて、彼らからギターを教えてもらいました。それで少し弾けるようになり始めてから、バンドを一緒にやったんです。その時僕は小学生でしたが、彼達は高校生でした!
−−バンドマン生活は小学校からですか?(笑)
佐野:小学6年生からです。長いですね(笑)。安岡力也さんがいたシャープホークスと言うグループのメンバーの1人が学校の先輩で、小学校6年頃からライブに連れて行ってもらったりしていました。あと、親父がディック・ミネさんと大親友で、三根信宏さんというディックさんの息子さんがその時シャープホークスと一緒にやってたシャープ・ファイブと言うバンドのギタリストだったこともあり、三根さんにも可愛がって頂いてました。
−−ずいぶん大人びた小学生だったんですね。
佐野:ませていましたね(笑)。
2. バンドとスポーツに熱中する学生時代
−−その後、中学で名古屋に移られていますね。
佐野:親父が名古屋へ単身赴任になって、名古屋で出世したんですね。それで僕たち家族も行くことになり、名古屋国際学園というアメリカンスクールに通っていました。
−−神戸と名古屋ってやはり雰囲気が違うと思うのですが、アメリカンスクールも違うのですか?
佐野:違いますね。名古屋の方は白人が多かったです。神戸にいる白人は「カナディアン・アカデミー」という学校に行くんですよね。そして、僕の通っていた聖ミカエル国際学校はインド系、中国系、白人もいましたが、比率でいうと50%くらいだったんですよね。名古屋の学校は白人ばかりで、彼らはダイレクトにロスやニューヨークから来ていて、新しいレコードをたくさん持っていました。「それ何?」「サンタナ」「サンタナ・・・?」みたいな感じでしたね。
当時、パワートリオ、例えば、ジミ・ヘンドリックスやクリーム、ブルーチアとかが出だした頃で、僕も3ピースバンドを作って、ドラムをやったり、ベースをやったり楽器を持ち替えつつやりました(笑)。これは失礼な意味じゃないですが、ミュージシャンは「モテたい!」「目立ちたい!」という気持ちから始めた人が多いと思うんですよね。僕も「モテたい!」と思って、ダンスパーティーで演奏していました(笑)。
−−勉強はどうでしたか?
佐野:二の次、三の次でしたね(笑)。でも、学校へ行くのは大好きだったんですよ。やはり、人といるのが好きなので。
−−社交の場として学校に行っていた?
佐野:そうですね。
−−その後、東京のハイスクールに通われていますが、ご家族は名古屋だったのですか?
佐野:ええ。学校のルールで一人暮らしはダメだったのですが、いとこが東京の大学に通っていたので、「一緒に住もう」と言ってくれて。
−−東京のハイスクールに来たかった理由があるんですか?
佐野:名古屋の親友たちはみんなアメリカに帰国しましたし、「俺は調布のASIJ(The American School in Japan)へ行く」と宣言しちゃったんですよ。当時ASIJは世界で一番優秀なアメリカンスクールで、みんなが憧れていた学校だったのですが、自分で言っちゃったものですから「行かないとマズいな」と思って、東京に来ました。
−−でも、テストとか難しいんじゃないですか?
佐野:まず、英語がしっかり喋れないと入れてくれません。それと両親の職業も宣教師や外資系企業など割としっかりしている人が多いんですね。でも、我が家の場合は全く違うじゃないですか?(笑) ただ英語は問題なかったですし、親父は学費を先払いしてしまったので、学校側は「うーん」と言いつつも強引に入学できました(笑)。
−−(笑)。アメリカンスクールって学費がかなり高いんですよね。
佐野:そうですね。そういう所も甲斐性があった親父に感謝ですね。
−−ASIJでの学校生活はいかがでしたか?
佐野:神戸、名古屋とはまた全然違いましたね。学校自体大きいですし、設備もしっかりしたいい学校ですので、まるでアメリカにいるような感じなんですよね。だから、余計に「自分はもっとちゃんとしなくちゃいけない」と思いましたね。ただ、東京という街自体が「すごい」とかそういう風には思わなかったですね。東京目当てで来たわけじゃないですしね。
−−もちろん東京でもバンドをされていたんですか?
佐野:ええ。学校のグラウンドの脇でギター弾いていたら、人が寄ってきて、自然と「バンドやる?」みたいな感じになって。そのときはサンタナとか、クリスマス直前のパーティーではブラスセクションを入れて、BSTやChicagoとかやりました。今から考えるとあまり上手くなかったですけど(笑)。
−−やはりパーティーでの演奏が多かったんですか?
佐野:そうですね。自分の高校のダンスパーティーや、違う高校のダンスパーティーとかに乱入したりですね。
−−親元から離れた高校生活となると、自由を謳歌されたんじゃないんですか?
佐野:好き勝手にやっていましたね。だからといって、グレるとかハチャメチャやって、学校でトラブルを起こすとか、そういったことは一回もないですね。やはり学校へ行くのが好きだったので。スポーツも音楽も熱心にやっていましたしね。勉強も落第しない程度にしていましたし(笑)。
−−音楽だけでなくスポーツもされていたんですね。
佐野:リトルリーグからやっていた野球はかなり本気でやっていました。
−−本気と言いますと、プロを目指していたんですか?
佐野:そうですね。長嶋さんに憧れて(笑)。サードだったんですが肩を悪くして、セカンドにコンバートされて。アメフトもやっていたので足もまあまあ早かったです。
3. アメリカの大学へ進学〜黒人やハワイアンたちとバンド活動
−−アメリカの大学へ行こうと決めたのはいつ頃ですか?
佐野:高校一年のときです。ASIJ自体が大学進学を目指している人たちの高校なので、カリキュラムのレベルも高いですし、講義も大学のような感じで、全部自分でコントロールしないといけないんですね。
それで音楽のクラスのときに、ASIJシンガーズというコーラスグループと、ASIJジャズバンドがあったんですが、バンドも格好いいなと思いつつ、僕はシンガーズに入って、そこで歌をやり始めました。今から考えると自然と今に役立つことをやっていたんだなと思いますね(笑)。
−−大学はどちらに進まれたんですか?
佐野:ラバーン大学です。ロスから40分くらい離れたところにあります。
−−行かれた大学は野球の名門校だそうですね。
佐野:そうです。向こうは大学が2グループに分かれていて、NCAAといってUCLAやUSCといった大きい大学のグループと、NAIAといって、もう少し小さい大学のグループがあるんですが、僕はNAIAの方に行きたくて、NAIAの中で一番の野球強豪校がラバーン大学なんです。このチームは卒業後大リーグへ行くために来るくらい強いチームだったんですよ(笑)。
−−それはすごいですね・・・。
佐野:高校ですと、まずフットボールシーズンがあって、バスケットシーズンがあって、野球シーズンがあると。他にもレスリングやトラック競技とかあるんですが、僕はメインの3スポーツ全部やっていたんですね。バスケは、僕は背が大きくなかったので、試合にはあまり出られなかったのですが、フットボールや野球は常にレギュラーでした。
で、大学に行ってもフットボールをやっていたんですよ。それで呑気に「そろそろ野球のシーズンだな〜」と思って、球場へ行ってロースターを見たら「全米選抜」だの「カリフォルニア選抜」だの、すごい奴らばかりだったんですよ。
−−野球部のメンバーがですか?
佐野:ええ。僕も日本で選抜に選ばれていたので結構自信があったんですが、そんなの全然意味なかったです(笑)。それで練習の初日に行ったら、日本だとノックやバッティング練習とかから始めますが、向こうは監督がいきなりチーム分けをして「グッドラック!」とグラウンドへ選手を送りだして、すぐ練習試合です。だからそれまでに体を作ってこなくてはいけないんです。投手だったらそこで100%で投げなくてはいけない。
−−すでにプロですね。
佐野:その通りです。トレーニングは自分でやって、いきなり練習試合。もうビックリしましたね。そのチームの3番手のピッチャーが、後にカンサスシティ・ロイヤルズでセーブ王になるダン・クイズンベリーだったり、僕の前でレギュラーだったニック・レイバは大リーグへ行って、その後フィリーズの監督になり、今はピッツバーグのコーチをやっています。
−−そういうところとはつゆ知らず行ってしまったんですね・・・(笑)。
佐野:そうです(笑)。補欠でしたから試合に出られないじゃないですか。生まれて初めての屈辱で。。色々あったんですが、2年目も体を作ってトライしたんですよ。でも、有望な新人をどんどんスカウトしてきて、毎年、毎年すごい奴しか来ないんですよ。
−−続々とすごい選手たちがやってくると。
佐野:大リーグのスカウトもたくさん見に来ますしね。ちなみに野茂英雄選手がドジャーズにいるときのバッティングコーチが、僕たちの監督だった人です。とにかく試合に出られないのがショックで、結局大学2年で野球は諦めました。フットボールはレシーバーとして4年生まで頑張りましたけど、だんだん音楽がメインになっていきました。
−−大学での音楽活動はどんな感じだったんですか?
佐野:Asian Students Unionというアジア系がみんな集まるサークルがあって、僕はそこに所属していたんですが、月一回集まってダラダラ喋っているだけで、面白くないんですよ、で、3回目の会合に行ったときに、そこの会長が「健二、もう来なくていいよ」って言うんですね。それで「なんで?」と訊いたら、「お前、スポーツもやっているし、こんなところに来ても面白くないだろ?」と。確かに面白くなかったんですが(笑)、そこから追い出されるんですよ。それで「よし、黒人のところへ行こう!」と思ってBlack Students Unionへ行ったんです。そうしたらフットボールで知っている奴もいたし、音楽やっている奴もいたんですね。
−−Black Students Unionって日本人が入れるものなんですか・・・?(笑)
佐野:普通は入れないです(笑)。Black Students Unionへ行ったら「ケンジは何しに来たの?」と言われて「ここに入りたいんだけど」と言ったら、「いやいや、黒人じゃないし。。」とみんな大笑いしだして、「いや、俺も黄色人種だから」と応えたら、「カラーということでは同じなのかな?」と話が真剣になり・・・(笑)。結局、そこの黒人たちとバンドをやり始めたんです。それで黒人ばかりのダンスパーティーで演奏をし始めました。
−−それは今の佐野さんのルーツになっていますよね。
佐野:なっていますね。でも、社会的に受け入れられないというか、名誉会員みたいな扱いになって、Black Students Union自体はフェイドアウト。で、次に入ったのがHawaiian Students Unionだったんです。ハワイアンたちは「何でもありだから」みたいな感じですぐ受け入れてくれました。ハワイは色々な人種が混じっていますからね。Hawaiian Students Unionに入ったことが、のちのちカラパナに入るきっかけになるんです。
4. カラパナのメンバーとして凱旋帰国
−−大学卒業が77年でカラパナに加入されるのが83年。この間の6年はどのような活動をされていたんですか?
佐野:大学を卒業した頃に親父がアメリカに来たんですよ。僕は大学での専攻が経済・経営でしたし、ミュージシャンの知り合いもたくさんいたので、ライブハウスを併設したレストランをやろうと、親父と事業を始めたんです。でも、無理がたたって僕は体を壊してしまって、見かねた父親が「お前、本当は何がやりたいんだ?」と聞いてきたので、「俺は音楽がやりたい」と打ち明けたんです。そうしたら「わかった。ただし30歳まで芽が出なかったらキッパリ止めろ」と言われました。
そこからミュージシャンとしての下積み生活です。ボーリング場の横にくっついている汚いバーで演奏したり、とにかく色々なバンドに入って演奏をしました。あと、大学で知り合ったハワイアンたちとやっていたバンドがオリジナルをやっていたので、ショーケースをし始めたんですが、そのバンドで一緒だった奴がマウイへ帰ったときに、カラパナを辞めたマッキー・フェアリーと出会ったんです。それでマッキーに俺たちのテープを聴かせたら「お前たちのバンドに入りたい」と言い始めたんですが、マッキーにはドラッグの問題とか色々あることを僕たちは知っていたので、3日後に結婚式を控える中(笑)、急きょ、僕もマウイへ飛んで三人で会いました。マッキーに「光栄だけど、やるのはロスだよ」と言ったら「OK」と。それでマッキーがロスに来て、一緒に活動をし始めたんです。それが81年ですね。
−−マッキーと一緒にやったバンドは何と言うんですか?
佐野:マッキー・フェアリー・アンド・ナイト・ライフというバンドです。最初はシャイン(SHINE)という名前だったんですが、ローマ字読みにすると”しね”じゃないですか? それはよくないなと思ってバンド名を変えたんです。
−−そこは日本を意識して(笑)。
佐野:はい、日本でデビューしなきゃいけないですから(笑)。そして、マッキーが入ったということで、ローカルのゴールデンベアというボブ・ディランとかも出たことがあるライブハウスで、ライブができるようになったんです。その後、マラニ・ビリューがカラパナを辞めたと言うので、マラニのユニットを前座で出したんです。そうしたら、ファンが「マッキーとマラニ両方が出るライブがある」と気づいて、結果そのライブハウスが始まって以来、初めて6日間Sold outになりました。
−−すごい(笑)。
佐野:初日、車でライブハウスへ向かったら、ものすごく渋滞しているんですよ。「絶対事故だよ」「やばいね」とか言ってチンタラ進んでいたら、「ん・・・? これ客じゃん!」と気づいて (笑)。
−−渋滞の原因が自分たちのお客さんだったんですね(笑)。
佐野:びっくりしましたけど、嬉しかったですね。83年にカラパナのリユニオンをやるという計画が立ち上がったんですが、僕たちは1枚目のアルバムを出したばかりで、やっと軌道に乗ってきところでしたし、マッキーもずっと誘いを断っていたんです。でも僕は「マッキー、絶対やった方がいい。それで借金だいぶ返せるし」って説得したんですよ(笑)。
−−(笑)。
佐野:「俺たちは違うギタリストを入れて前座でやるから、カラパナやれよ」と言って「わかった」と。それで83年の頭に僕たちが前座で、カラパナのリユニオンがあったんですね。そうしたら、評判がすごく良くて、リユニオンで全島ツアーをするということになったのですが、そうしたら「話が違う」とマッキーがまたごねて「やるんだったらカラパナのベースに健二を入れろ」と言うんですよ。嬉しかったですけど、今やっているバンドを辞めるのは嫌だったので、最初は断りました。それから色々やり取りがあって、「アルバムだけじゃなくて、ツアーでウェストコーストや日本へ行くんだったらやってもいいよ」とオファーを受けたんです。
−−ちょっとマネージメントの仕事も入っていますね(笑)。
佐野:そうなんですよ(笑)。そう要求したら、話がまとまっちゃって。その後アルバムを作って、来日公演もやりました。キザな話ですが、親父との約束も果たせましたし、メジャーとして来日できました。
−−お父さんはその来日公演を観に来てくれたんですか?
佐野:いや、観に来てはくれませんでした。ただ、後から知ったんですが、俺が出ている『Player』とか雑誌の記事は全部持っていたんです。それを色々な人に見せていたみたいで。ちょっと嬉しかったですね(笑)。
−−愛ですね(笑)。
佐野:はい(笑)。来日公演のときはとにかく嬉しくて、羽田に降りて地べたにキスしましたよ(笑)。
−−それは何年ぶりの日本だったんですか?
佐野:7年ぶりです。
−−来日コンサートで凱旋というのがかっこいいですよね。
佐野:いやぁ、本当に嬉しかったですね。「ヨッシャー!!」という感じです(笑)。ライブは芝浦のインクスティックでやりました。
−−イギリスからフェイセズの山内テツさんが凱旋したのと同じですよね。
佐野:当時よく言われたんですよ、「テツさんに続いて二人目ですね」って。そのときはあまりピンとこなかったんですけど、そういう意味だったんですよね。来日ツアーのときも「カラパナに日本人が加入して再結成した」ということで、結構取り沙汰されて、インタビューを受けたりしたんですよ。それで、色々聞かれるのはやはり僕じゃないですか? 僕は入ったばっかりだし、僕以外全員オリジナルメンバーなんだけど、なんだかリーダーみたいになっていて・・・(笑)。
−−(笑)。
佐野:それで色んなこと仕切り始めて、次のアメリカツアーも大成功したので、カラパナをもっとちゃんとやろうということになったんです。来年にはデビュー40周年になります。
−−では、カラパナは佐野さんがいなかったらなくなっていたかもしれないんですね。
佐野:僕のおかげとかそんなんじゃなくて、たまたま僕が入ったことが、バンドが続く一つのきっかけになったのだと思います。
−−今もメンバーとしてのポジションは変わってないわけですよね?
佐野:変わってないです。9年前にマッキーが自殺してしまって、その時点でもうやめようとしたんですよ。やはりマッキーとマラニの二人がいたからこそやっていたところもあるので。ただ、ファンは「聴きたい」と言ってくれますし、マッキーの一周忌のときにローカルのミュージシャンたちが「メモリアルでやろうよ」と言ってくれて、カラパナをやったらすごく良かったんですね。そしたら「…続ける?」みたいな(笑)。「みんなマッキーの音楽を聴きたがっているから、マッキーのためにもやるか!」ということになって、未だに続いています。
5. 小室哲哉の右腕として東奔西走〜安室奈美恵との出会い
−−日本で仕事をするきっかけは何だったんですか?
佐野:85〜6年かな? カラパナのライブが終わって、日本のコーディネーターみたいな人が、「佐野さん、ロスに住んでいるんですよね? 色々教えてくれませんか?」ということで、ロスに来始めたんですね。そのときは単にスタジオを紹介したりしていただけなんですが、あるとき「角松敏生さんが中山美穂さんをプロデュースするから一緒にロスに行きます」と連絡があったんです。角松さんはカラパナのこともよく知っているし、僕にも会いたいと言っていると。
そうしたらコーディネーターだけじゃなくて取り巻きがすごくて、色々なことを教えてあげたんですが、あまりにもハチャメチャなので、見かねて「もう僕がやりますよ」と申し出たんです。そうしたらレコーディングもスムーズにいきましたし、みんな仲良くなりました。角松さんと僕はそこで意気投合して、角松さんがハワイでレコーディングするというので、合流してレコーディングが始まったんですね。そのアルバムができて、僕が日本に来たときにコーディネーター軍団とレーベルの人たちが「次こういうのがあるんですけど、手伝ってもらえませんか?」と、一つの仕事が次の仕事につながっていったんです。
−−なるほど。
佐野:それで91年頃、AORをやりたいという人が「ジェイ・グレイドン知らない?」って言うから、そのときは僕も面識はなかったんですが、友達に紹介してもらって、彼のスタジオを使わせてもらうことになったんですが、一瞬にしてジェイとは友達なっちゃいました(笑)。
−−一瞬にしてですか(笑)。
佐野:やっぱりジェイ・グレイドンってすごいミュージシャンじゃないですか? スティーリー・ダンの「ペグ」でギターソロ弾いたり、マンハッタン・トランスファーも手掛けていたり。「すごいなー」と思っていたんですけど、向こうは向こうで、「英語の上手い日本人がテキパキ仕事しているから、話を聞いたら有名なバンドでやっているし、面白い奴だ」と思っていたそうです。それで僕がプロジェクトをやるたびにジェイのスタジオを使うようになって、カラパナでも使うようになったんですね。
僕はいつもジェイに「お前はなんでツアーに出ないんだ?」って言っていたんですが、ジェイは「めんどくさい」と。すごく几帳面で神経質な人なので。でも、俺たちカラパナのことを見ていて「ツアーをやってもいいかな」と思うようになったみたいで、「『エアプレイ フォーザプラネット』というアルバムを出して、それを引っさげてツアーやる。だからレコーディングでベースを弾いてくれ」と言われて、アルバムの2曲を弾きました。
それで「ツアーはどうするの?」とか「呼び屋はどこ?」とか色々聞いていたんです。そうしたら「まだ何も決まってないけど、ベースはお前がやれよ」といきなり言うんですよ(笑)。「えー!? なんで俺が?」「ツアー慣れしているし、お前がいた方が心強い」と(笑)。「アルバムには他にもすごいベーシストがいるじゃない?」「彼らはそういう面倒くさいことはやらない」「面倒くさいことは俺がやれってことかよ」って(笑)。
−−仲の良さがすごく伝わってくる会話ですね(笑)。
佐野:でも、光栄な話でしたし、ツアーに参加することになったんです。1回目のツアーをやって好評だったので96年にもやりました。とにかくとんでもないメンバーのツアーで、ビル・チャンプリンが僕の前で歌っているのには鳥肌が立ちました。ジェイがシーケンスを使いたくないと言い出して、9ピースバンドでオールライブなんですよ。本当に素晴らしかったです。
−−その後、小室哲哉さんとお仕事をされますね。
佐野:そうですね。ロスで知り合った寿司職人がいたんですよ。その人は日本でマネージメントをしていたと言っていて、「昔の友達に小室って奴がいて、バンドやっているんだよね」「有名なの?」「めちゃくちゃ有名みたいだ」と、話は聞いていたんですよ。それで日本にいたときに、エイベックスの人と知り合って、「スーパーモンキーズというアイドルグループがいるんですが、その一人がソロでデビューするので聴いてもらえますか?」と。それが安室奈美恵だったんです。ライブを観に行ったらとんでもなく歌が上手くて、「どうしてこの子をアイドル扱いしているんですか?」「この子、凄いことになりますよ」と言ったんです。「じゃあ、今度アルバムを作るときにお手伝いしていただけますか?」「喜んでやりますよ」と言って帰国したら、奈美恵ちゃんのプロデュースで小室さんがロスに来ることになって、globeもやるからということで紹介されて。そこからですよ、何もかも任され始めたのは。
−−何もかも、ですか。
佐野:ええ。一時期はとんでもなかったですよ。奈美恵ちゃんのツアーのリハをやって、KEIKOのボーカルディレクションをやって、マークのラップの作詞につき合って、globeの音源もレコーディングやって、3〜4時間寝てからまた奈美恵ちゃんのリハとか。
−−小室さんの右腕として。
佐野:そうですね。もしこの時点で僕が金に走っていたら大金持ちになれましたね。カミさんには申し訳ないですが、あまりそっちは追いかけなかったです。後で「1億くれたらやるとか言えばよかったのに」とか言われましたけど、そんなこと全然考えてもなかったです。ディレクションは2000ドル、セッションは2000ドルってそういう風にやっていたんですよ。ま、言った方がよかったかなと思いますけど(笑)。
−−(笑)。
佐野:マネージメントがいたら言っていたかもしれないですけど、全部一人でやっていたので(笑)。
−−後にも先にもないくらい小室さんの時代はすごい時代でしたからね。
佐野:そうですね。ちょっと手に負えないなと思い始めたのが、globeのツアーもやってほしいと言われたときですね。奈美恵ちゃんのツアーもやっていましたから、初めて小室さんに「できない」って言いましたよ。「ここ終わったらヘリでここまで来ていただいて、終わったら車でここまで移動して、新幹線で次の会場に向かって」ってそんな感じだったんですよ。「俺死んじゃうから、これ・・・」って。
−−正に分刻みですね。
佐野:「さすがにこれは無理」って言ったら、周りにいた10人近くのスタッフたちが下向いて、そ〜っといなくなるんですよ。小室さんに対して「嫌だ」とか「無理」とか言う人がいなかったから、どう対応したらいいかわからなかったんですね。誰もいなくなってからも「本当に無理だから」と言ったら、「うん、わかった。じゃあベース探してくれる?」と言われて、ロッド・スチュワートのところでやっているベースのカーマインがやってくれる事になりました。そこからは奈美恵ちゃんの仕事とカラパナしかやらなくなったんです。
6. 「健二、お前バンドあるの?」矢沢永吉との濃密な一年
−−佐野さんはカラパナやAOR系の音楽をやっていたわけじゃないですか? TKサウンドはいわゆるデジタル系ですが、そのあたりの切り替えはすぐにできるものなんですか?
佐野:そうですね。良い音楽は良い音楽だと思っていましたから。globeはだいたい僕がベースを弾いていますし、小室さんも打ち込みに生の音を入れながらやっていたんですよ。そこが僕も気に入っていました。奈美恵ちゃんも初めの頃、例えば「SWEET 19 BLUES」もほぼバンド演奏で、シーケンスのトラックがあって、バンドがのっかるような形でしたしね。それが私は楽しかったんですよ。でも、私はAORファンからバッシングを受けたんです。「なんでジェイ・グレイドンと世界ツアー回っている人が、安室奈美恵をやっているんですか」と。
−−うーん。
佐野:「ハァ?」って感じですよね。じゃあ、ネイザン・イーストはエリック・クラプトンとやっているから、ブリトニー・スピアーズと一緒にやったらダメなの? と。ネイザン・イーストはどっちもやっているじゃないですか。良い音楽は良い音楽ですし、必要とされて自分がOKだなと思ったらやるのは、ミュージシャンとして当たり前だと思います。
−−妙な規律を求める人たちが(笑)。
佐野:そうなんですよ。僕にはそれが理解できなくて。「ああそう。ごめんね」みたいな(笑)。「でも、安室奈美恵って子は本当に日本でナンバーワンになるよ」と。まあ、間違ってなかったから良かったんですけど(笑)。
−−音楽に対してフラットな佐野さんだからこそ、たくさん依頼が来たんでしょうね。
佐野:そうなんですかね。その場所、その場所で上手く音を作れる、状況もきちんと整えられる、ということをずっとできてきたので、それが評価されたのかもしれません。
−−佐野さんは矢沢永吉さんとも仕事されていますよね。これはどういったいきさつだったんですか?
佐野:ロスに『ASANEBO』という和食屋があるんですが、そこのオーナーが僕の大親友で、矢沢さんとも大親友だったんです。実は大昔に1回だけ私は矢沢さんと会っているんです。僕のアメリカン・スクールの後輩が、ずっと矢沢さんのバックをやっていたんですよ。ロバート・ブリルという人なんですが、そのロバートと矢沢さんがリトルトーキョーへ来たときに偶然会って、ロバートに「おー、久しぶり」と。そのとき僕は矢沢さんに「何なさっているんですか?」と聞いちゃったんですよ(笑)。僕は「キャロル」は知っていたけど、「矢沢永吉」は知らなかったんです。矢沢さんは「俺も音楽やってる」「あー、そうなんですか」って。後で知って大失敗(笑)。
−−大失敗(笑)。
佐野:それから十何年経って、その『ASANEBO』で矢沢さんと再会したんですよ。それで嫁さんに「(囁くような声で)矢沢さんのところに挨拶行ってくるから」と言ったら、「行かんでええ。あんたのことなんか覚えてへんから」って。「やかましいわ」と(笑)。それで「どうも、佐野健二です。実は・・・」と自己紹介をしたら、「あー、ロバートの先輩」と覚えて?(笑)いてくれて、一緒に飲むことになったんですが、その当時、僕は酒飲めなかったんですよ。
−−弱かったんですか?
佐野:弱かったんですよ。全然飲めなくて。今はバカみたいに飲みますけどね(笑)。それで大きめのグラスに日本酒を入れられて。オーストラリアでのトラブルが有った頃だったので、矢沢さんが「こっちに家族を連れてくるかも」「じゃあ、そのときは連絡してください」と連絡先を渡して、乾杯したら一気するんですよ(笑)。それで僕はぐでんぐでんになってしまったので、すぐ帰りました。
−−(笑)。
佐野:その3週間後くらいに矢沢さんから「飯でもどう?」と電話を頂いて、そこから親しくなっていきました。
−−音楽を通じて知り合ったとか、そういうことではないんですね。
佐野:ええ。男同士みたいな感じでした。それで何回かは飯食っているだけで、別に音楽の話もしなかったんですが、だんだんビートルズの話とかするようになって。
−−矢沢さんとツアーに出たのは2000〜2001年の1年だけですか?
佐野:はい。1回だけです。私はもっとやりたかったんですが、「健二、お前忙し過ぎるだろう」と言われて(笑)。僕は「ツアー出るんだったら、オーディションやってバンド作りますから」とジョークで言っていたんですよね。そうしたら矢沢さんが「そうか、よし! いつかやろうな!」と言ってくれてたんですね。
実は、その年に矢沢さんはドゥービー・ブラザーズともう1回やる予定があったんですが、スケジュールが合わずポシャってしまったんですね。それで矢沢さんから「健二、お前バンドあるの?」と連絡があって、「オーディションやっていいんですか?」「ああ、やろう、来週」「来週?!」(笑)。
−−急ですね(笑)。
佐野:それで急いでメンバーを集めて。事前に矢沢さんの奥さんからは「健二、よろしくね。矢沢は多分見ているだけだと思うけど」と言われていたんですが、念のためマイクロフォンは置いておいたんですよ。それでオーディションが始まって、1曲目に『止まらないHa-Ha』をやったら、矢沢さんが「いいね! それもう1回やって」とジャケット脱いで歌い始めたんですよ。「このギター誰?」「彼はデヴィッド・ボウイのところでやっている人なんですけど」「そう、いいねー」とかやり取りしつつ3曲やったら、「OK、ありがとう。健二、また連絡する」と言って矢沢さんは帰って、「何、今何が起こったの(笑)?」みたいな感じでオーディションは終わりました。そうしたら夜中に電話がかかってきて「このバンドでやろう」「でも、キーボードがいらないんだよ」と。
−−矢沢さんの中にキーボード抜きのバンド構想があった?
佐野:ええ。それ以前に、家のカミさんと僕と矢沢さんの家族で、矢沢さんがキャンピングガーを運転して、キャンプへ行ったんですよ。そのときにずっとビートルズを聴いていて、矢沢さんは「4ピースでやろう」という話はしていたんですよ。でも「ボス、あなたの80年代の曲なんか、てんこ盛りキーボードじゃ無いですか〜(笑)」と言ったんですが、「できるだろ!」と言われて(笑)、それで4人でやったんですよ。サックスは入れましたけどね。
−−その1年間は矢沢さんとずっと?
佐野:はい。奈美恵ちゃんが終わってから、すぐ矢沢さんにスイッチして、矢沢さんのツアーをやりました。
7. こいつは日本を背負うボーカリストになる〜EXILE ATSUSHIの歌に感動
−−EXILEの仕事をするきっかけは何だったんですか?
佐野:2003年の終わり頃、今はLDHの幹部なんですが、当時、大阪のイベンターをやっていた人が、「佐野さん、EXILEって知っています?」と大阪城ホールのコンサートに誘われたんです。僕はツアーが終わってロスへ帰るつもりだったんですが(笑)、頼み込まれて観に行きました。そうしたら大阪城ホールが満杯で、お客さんは女の子ばかりで「すごいな」と思いつつ、やっぱり職業病ですね、音をチェックしたり、上へ行って聴いたりとかウロウロして(笑)。
−−(笑)。そのコンサートのときはバンドがいたんですか?
佐野:いました。彼らのライブはすごくエンターテインメント性に長けていましたし、ATSUSHIやSHUNのボーカルは上手いと思いました。でも、音がちょっと悪いなと(笑)。それで、ライブ終わった後にステージを見たら、バンドがバーッと先に帰っているんですよね。最後のアンコールで挨拶しているときに。「あれ? もう帰るんだ」と思って。
終演後、LDHの幹部たち2人が来て「どうでした?」と言うので、「滅茶苦茶良かったじゃないですか。格好いいですね〜」と当たり障りない感想を言っていたんですよ。すると何か、色々突っ込んでくるんですよ。「いやいや、ですから・・・どう思いました?」「何が? 俺が思ったこと知りたい?」「はい」「じゃあ、いいですか。音、バランスが良くないですね。そしてバンド、ふざけてます。15分間のバンド紹介があったんですよ。15分間ですよ。しかもポップアップや映像を使って。チケットが6000円か6800円か知らないですけど、ライブの15分間といったら数百円分じゃないですか。ファンはそのためにお金を使ってないんですよ」と言いました。「それはファンに失礼すぎる。バンドでそれをやっちゃいけない」とあーだこーだ(笑)。
−−(笑)。
佐野:そうしたら「もし良ければ今後EXILEをやってもらえないですか?」と言うんですよ。「いや、俺がやるとなったら全部変えますよ」と応えたんですが、それでもいいと言うんですね。これは後で分かったことなんですが、EXILE HIROが松浦さんから「EXILEはライブの音とかバンドとかを安室奈美恵の現場みたいにちゃんとしなくちゃダメだ」とポロッと言われたらしいんですよ。それをイベンターの人が聞いていて、奈美恵ちゃん=僕だったので、僕を引っ張ろうと思ったみたいなんですね。
−−なるほど・・・。
佐野:これは失礼な意味じゃなくて、もし、単なるアイドル系だったら僕は絶対やってないです。まず、歌がちゃんとしていて、ファンに対する情熱や愛があるのであれば、全然OKなんです。そのときのATSUSHIやSHUNの歌は良かったですしね。でも、僕は奈美恵ちゃんの仕事もまだあったので「1回目は弾かないね」と言ったら、「ちょうどいいです。実はこの後ミュージカルをやるので」と、私がミュージカルのバンドを作って音楽監督として最初は関わりました。ATSUSHIとはそのリハーサルの2日目から毎日会うくらいすごく仲良くなったんですよね。
−−佐野さんはあっという間に仲良くなっちゃいますね(笑)。
佐野:2日目の夜に「今日って何してるんですか?」とATSUSHIから電話がかかってきて、私は西麻布の立ち飲み屋で飲んでいました。「行っていいですか?」と言うから、「おいでおいで」と(笑)。それで2軒目にカラオケへ行ったら、ATSUSHIがスティーヴィー・ワンダーの「マイ・シェリー・アモール」を完璧に歌ったんですよ。
−−おー。
佐野:僕は驚いて「君、いくつだっけ?」「23です」「なんでこの曲知っているの?」「親父がこれ大好きなんですよ!」とか盛り上がって(笑)。「Choo Choo TRAIN」を歌いながら、「マイ・シェリー・アモール」が好きだというポテンシャルがすごいなと思いました。それで、もっと色々な音楽を聴かせてやろうと、そこからの5年間は「これを聴いてみて」と毎年CD30枚とかプレゼントしていました。そうすると、いつ時間があるのか分からないですけど、ちゃんと全部聴いているんですよ。「フランク・シナトラの歌ってタメがすごいですよね。フレーズは違うのに最終的に格好良い」とか言ってくるんです。じゃあ違うバージョンを聴こうと次はトニー・ベネットを聴かせるとか、とにかく色々な音楽を聴かせました。私はその時点で、こいつは日本を背負うボーカリストになるなと思いました。ですから、結果的に僕は女の日本一と男の日本一と一緒に仕事をしているんですよね。
−−安室奈美恵さんとATSUSHIさん、ですね。
佐野:ええ。本当に幸せ者だと思います(笑)。
−−ところで、佐野さんはキャプテンと呼ばれていますよね。
佐野:私はリーダーと呼ばれるのが嫌で、そうしたら誰かが「じゃあ、“キャプテン”じゃないですか」と言い出したんです。キャプテンの方が良いな、野球もキャプテンだったし、みたいな(笑)。そこから11〜12年間、キャプテンですね。
−−キャプテンというと“翼”を思い出しちゃいます(笑)。
佐野:そう、みんなそれを言うんですよね(笑)。私はデレク・ジーターの方が良いんですけどね(笑)。
8. チャンスをものにするために、日々自分を磨き上げることの大切さ
−−2012年にはソロアルバム「Culture Chameleon」をリリースされましたね。
佐野:そろそろやった方が良いんじゃないかな?と思いまして。エイベックスも「好き勝手やってください」と言ってくれて(笑)。本当にありがたい話です。
−−アルバム制作はどのように進められたんですか?
佐野:これがとんでもない話で(笑)、レコーディングするのに10日間しかなかったんですね。僕はロスで4リズムをヨーイドンで録りたかったんです。それでジェイ・グレイドン、ビル・チャンプリン、ジョセフ・ウィリアムス、デヴィッド・T・ウォーカーなど、みんなに電話したら、たまたま全員ロスにいたんですよ。
「ソロアルバムをやるから来てくれないか?」と言ったら、みんな集まってきてくれて、今日はギターがデイヴィッド・T・ウォーカーで、明日はジェイ・グレイドン、カルロス・リオスみたいな感じでした。ドラムもビートルズのカバーだったらグレッグ・ビソネットという、今、リンゴ・スターとツアーを回っている人なんですが、彼に叩いてもらって、TOTOのボーカル、ジョセフ・ウィリアムズはビートルズ・フリークなので、彼をボーカルに入れたり、そういう感じでセッションを進めました。
−−参加メンバーが豪華すぎますね・・・とにかくロサンジェルスの10日間で基本的な部分は全部作ったと。
佐野:全部やりました。すごいミュージシャンばかりだったので、本当にグルーヴィーな素晴らしいテイクが次から次へと録れました。
−−参加したアメリカのミュージシャンたちは、日本のミュージシャンと比べてやはり違いますか?
佐野:いや、日本でも素晴らしいミュージシャンはたくさんいますし、テクニカルでは全然引けを取らないですよね。ただ、いざこういうノリというか、グルーヴ感が欲しいというときは向こうのミュージシャンとやります。ただ、僕が今、日本で一番私が気に入っているドラマー Fuyuはすごいですよ。ATSUSHIのツアーで一緒にやったんですが、とんでもない奴です。
−−今後のもう1回ソロアルバムを出すご予定はありますか?
佐野:「Culture Chameleon」の続編みたいなものをもう1枚出したいと思っています。来年が良いかな? とは思っているんですが、スケジュールが埋まっていて時間がないんですよ。ですから、再来年くらいには出したいですね。
−−今、ほとんどの活動は日本になっていますか?
佐野:そうですね。まず、私が弾くのがEXILEとATSUSHI。でも、メンバーを選ぶなどバンド周りは私が全部ケアーさせてもらってます。三代目のバンドも私が選びますしこの間、E-Girlsがツアーをやったときも、女性グループをチョイスしました。たまにレコーディングもやっていますし、ディレクションもありますから、ずっと日本なんですよ。
−−家はLAに。
佐野:LAです。明後日帰ります。
−−やっぱり本拠地はロスだと。
佐野:はい。帰りたいです。もう3泊できれば帰るんですよ。身体が疲れてもマインドがリフレッシュできるので。でも最近はその3泊もできないんです。
−−日本は出張で来ている感じなんですね。
佐野:そう(笑)。出稼ぎです。まだ旅芸人です(笑)。
−−アメリカと日本の2カ国の音楽業界でずっとご活躍されてきて、今思うことはなんですか?
佐野:音楽が好きでやり続けて、今このレベルでまだ仕事ができている。本当に幸せだと思います。やりがいはありますし、来年還暦なんですが、まだ現役を続けようと思います。見た目がブサイクになって、人のためにならない、ファンのためにならない、愛を伝えられない、感動を与えられないようになったら、やっぱり退かなきゃいけないですけど、まだ、もう少し出来る自信がありますので。
−−トップクラスのアーティストに支持される理由は何だとご自分では思っていらっしゃいますか?
佐野:自分で言うのは恥ずかしくて嫌なんですが、頼りがいがある人でありたいと思っています。やっぱり、任せられるというのが好きなんですよね。それをちゃんとやる。
−−佐野さんは世話役がお好きなんですね。
佐野:世話を焼くの好きですね。頼られるのが好きです。
−−人のためになりたいということですよね。
佐野:そうですね、どちらかというと。それはイコール、自分もちゃんとしなきゃという気持ちがあります。そう決めているからこそ、私は今の自分でいられるし、そして、奈美恵ちゃんもそうだし、ATSUSHIもそうだし、しっかり育っています。私は子どもがいないんですが、音楽的子どもは、長女が奈美恵ちゃんで、長男ATSUSHI、次男がTAKAHIROみたいな(笑)。そういう気持ちでいますね。
−−一流の子どもがいっぱいですね(笑)。
佐野:はい。だから親父は大変です。親父ちゃんとしなきゃ、みたいな(笑)。
−−最後になりますが、日本やアメリカの後輩たちに対してメッセージをお願いします。
佐野:今、自分が好きでやっていること、特に音楽業界でやっている人だったら、自分が好きで選んでやっていることなんですから、責任を持って、自信を持って、楽しみながらやらないと、自分に嘘をつくことになると思うんですよね。ですから、音楽をやるんだったら、自分で選んだことなんだから、ちゃんとやろうと言ってあげたいですね。
−−もっとポジティブにやろうと。
佐野:そう、ポジティブに。チャンスというものは絶対に来ますから、そのチャンスを見極めて、ものにできる自分を日々磨き上げておけば大丈夫だと思います。
−−本日はお忙しい中、ありがとうございました。佐野さんの益々のご活躍をお祈りしております。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)