第127回 大谷 英彦 氏 株式会社ソニー・ミュージックレーベルズ 執行役員
大谷 英彦 氏 株式会社ソニー・ミュージックレーベルズ 執行役員
今回の「Musicman’s RELAY」は、(株) LDH取締役副社長 森 雅貴さんからのご紹介で、(株)ソニー・ミュージックレーベルズ 執行役員 大谷英彦さんのご登場です。音楽より美術に興味があった大谷さんは大学卒業後、(株)CBS・ソニーグループ(現・株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント)に入社。約10年間の営業を経て、デフスターレコーズのA&Rプロデューサーとして、CHEMISTRYやAKB48のデビューに関わり、若干35歳で執行役員に。(株)ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ(現・株式会社ソニー・ミュージックレーベルズ ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ)でもJUJU、Flowerなどの多くのヒット曲を送りだしてきました。そんな大谷さんにご自身のキャリアから、レコード会社の今後までお話を伺いました。
プロフィール
大谷 英彦(おおたに・ひでひこ)
株式会社ソニー・ミュージックレーベルズ 執行役員
昭和43年(1968年)3月21日生まれ
平成 2年(1990年) 4月 (株)CBS・ソニーグループ 入社 営業本部 東京第2営業所営業課
平成 3年(1991年) 4月 社名変更により(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント
同社 仙台営業所、販売推進部SR第一販売推進課 等
平成11年(1999年) 2月 同社 営業グループ販売推進部第1販売推進課 係長
平成12年(2000年) 2月 同社 ソニー・ミュージックディストリビューション第1販売推進部 販売推進課 課長
平成13年(2001年) 2月 同社 デフスターレコーズ A&Rルーム プロデューサー
平成13年(2001年) 4月 (株)デフスターレコーズ A&Rルーム プロデューサー
平成15年(2003年) 7月 同社 執行役員
平成19年(2007年) 2月 (株)ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ 執行役員専務
6月 同社 代表取締役 就任 執行役員専務
平成25年(2013年) 6月 同社 代表取締役 執行役員社長
平成26年(2014年) 4月 会社統合により(株)ソニー・ミュージックレーベルズ
執行役員(乃木坂グループ、ERJ、KMU、SMAR担当)
- 脳天気でのんびりした少年時代
- 絵を描くのがとても好きだった
- ギリギリ間に合いCBS・ソニー入社〜営業を10年経験
- 制作へ異動し、いきなりプロデューサー〜松尾潔氏との出会い
- 音楽好きの人たちが新しい音楽を作り出すというフィロソフィー〜中島美嘉、JUJU
- 「好きなもののエキスパートになれ」
- 音楽に対する情熱とこだわりが大切になる
1. 脳天気でのんびりした少年時代
−−前回ご登場頂いた株式会社LDH 森 雅貴さんとはどのようなご関係でしょうか?
大谷:いわゆるレーベルとプロダクションの関係ですね。LDHさんに所属しているFlowerというE-girlsのメンバーでもあるダンスパフォーマンスグループを弊社でやらせてもらっています。また、その前にはLoveという2人組の女の子を一緒にやっていました。あとは育成中の新人アーティストもいます。
−−森さんと大谷さんは年齢も近いですよね。
大谷:そうですね。仕事に関わらないところでも気さくにお付き合いさせて頂いてます。飲み会とかご一緒することが多いですね。
−−大谷さんからご覧になって、森さんはどのような方だと思われていますか?
大谷:森さんはとにかく真っ直ぐな人ですね。当たり前の正しいことを正しくやろうとする人だなと思います。森さんは副社長ですが、部下がやれない部分を自分でカバーしようとしているところなんかは素晴らしいですし、自分も見習わないとなと思います。
−−森さんは良い意味でフットワークが軽やかそうですよね。
大谷:そうですね。そして、とにかく熱い人ですね。
−−LDHはすごくいい感じの会社でした。
大谷:活気があって、熱い人達が多い会社ですよね。非常に楽しく仕事させてもらっています。
−−森さんは、熱い想いをダイレクトに伝えていくために、仕事をする方と直接話をするように心掛けているとおっしゃっていました。
大谷:当然ビジネスなので、利害が発生する関係においては駆け引きみたいなことが起こりうると思うんですが、我々の業界には「今損しても後で得しようよ」って考える人がどちらかというと多いと思います。森さんもそういうタイプの方だと思います。
−−ここからは大谷さんについてお伺いしたいのですが、ご出身はどちらですか?
大谷:香川県高松市です。そこで18歳まで過ごしました。
−−音楽と接点があるようなご家庭だったんでしょうか?
大谷:ごく普通の家庭ですよ。両親は共働きだったので、よく祖父母の家に預けられていたんですが、祖父が宮大工をやっていて、子どもの頃に仕事現場をずっと見ていたので、僕はどちらかというと図画・工作や美術の方が得意でした。音楽業界なんで楽器やれるとか言いたいですが、歌も上手くないですし、楽器は何も出来ないです。
−−ごくごく普通の少年時代だったと。
大谷:少年時代は、脳天気でのんびりしてましたね。その時代とか香川の風土とかあるのかな。まわりの友達も同じで、日が暮れても家に帰らずに遊び歩いて。僕は剣道を習っていたんですが、稽古に行かず遊び呆けて叱られたり(笑)。今も変わらないですけど(笑)。
−−(笑)。音楽との出会いはいつですか?
大谷:確か小学4、5年生くらいの頃、家でステレオを買ったときに、お店で値引きの代わりにレコードをくれるというサービスがあって、それでレコードを5枚もらったんですが、それが全部ビートルズでした。「ラバー・ソウル」や「サージェント・ペパーズ」とか。
−−そこでビートルズと出会ったと。
大谷:ステレオが珍しくて使いたかったので、延々とビートルズを聴いていましたね。それが言うなれば音楽を積極的に聴くようになったきっかけでした。あとは沢田研二さんとか寺尾聰さんとか当時の流行歌を聴いていました。そういう音楽をかっこいいと思うような少年でしたね。
それで中学に入学する頃に、仲間内でRCサクセションが流行って、そこからロックンロールでチャック・ベリーに傾倒し、合わせてロカビリーが好きになったところで、パンクが好きになってイギリス音楽の虜になった感じですね。当時はまだレンタルレコードもなかったので、友達とテープの貸し借りをしていました。
−−ちなみに勉強の方は?
大谷:勉強はそんなにやってないです(笑)。進学に対する野望みたいなものがないまま「入れそうな学校に入ろう」みたいな感じで、高松第一高等学校というところに入学したんです。当時の高松一高は夏休みが一週間くらい長くて。その誘惑に負けて・・・(笑)。今は後輩に頑張っていただいて偏差値レベルが相当上がっているようです。
−−それは公立の学校ですよね。
大谷:はい。市立なんですが、ちょっと変わった高校で音楽科があったんです。当時は知る由もなかったですが、ヴァイオリニストの川井郁子さんとは同級生でした。
−−大谷さんは音楽科に入ったんですか?
大谷:いえ、とんでもないです。音楽はずっと2でしたから(笑)。音楽科は普通科と校舎が全く別棟にあって、完全防音で授業も全く被らないですし、みんな延々と音楽をやっているみたいでした。そして、2年生からは美術専門のクラスもあって。
−−そういう人に対する憧れみたいなものはありました?
大谷:いや、そんなになかったですね。軽音楽部とかの友達もいたんですが、僕は音痴ですし、音楽は聴く方専門でした。
2. 絵を描くのがとても好きだった
−−高校時代は何に熱中されましたか?
大谷:高校時代は絵を描くのがとても好きでした。美術・図画工作が得意だったので、1年生のときに選択で美術の授業をとりました。そこで推薦されると2年生から美術専門のクラスに入れるんですが、2年生になる時に選ばれて推薦されたんですよ。でも、遊びたい盛りで、先生に「今の実力で美大を受験したら、どれくらいの大学に行けるんですか?」と聞いたら、東京芸大じゃなくて武蔵美かどこかと言われて、「だったらいいや」と美術のクラスには行きませんでした。
−−それはちょっともったいないですね。
大谷:今ではちょっと後悔しています。子どもの頃って人より優れているものを得意だと思う反面その大切さをわからないじゃないですか? それに褒められて調子にのっていたんでしょうね。よく覚えているんですが、同級生で美術のクラスに入った子が、どんどん上手くなって、いい美大に入れそうだという話を聞いて、3年生になった時に受験勉強が嫌で「だったら俺も行けるのかな」ってよこしまな気持ちで先生のところに行って「やっぱりもう一回絵で・・・」と言ったら、「何をいまさら!」ってこてんぱんに叱られて・・・(笑)。そこで絶望の淵に落とされて。というか自分で落ちて。
−−そこから結構勉強した?
大谷:そうですね、大学は行こうとしてましたから。高校3年生の11月に「これはやばいな」と思って、そこから3ヶ月間は睡眠時間3時間くらいでとにかく勉強しました。
−−結局、大学はどちらへ進まれたんですか?
大谷:法政大学です。
−−大谷さんはやるとなったらやる人なんですね(笑)。
大谷:というと格好いいんですが、古い言葉ですが山勘が当たって運で受かったと思うんですよね。とても受からないと思っていましたし、受かったと言っても家族以外誰も信用してくれなかったですからね(笑)。
−−文系ですか?
大谷:はい。経営学部に入りました。
−−そして上京されて。
大谷:寮に入ったんですが上下関係がものすごく厳しくて、1年生は上級生に絶対服従で。僕はあまりそういうのが好きじゃなかったのでよくしごかれました。酒を一気させられたり、酔ってフラフラなのに走ってつまみを買いに行かされたり、飲めないやつが飲まされたりしてて。中には優しい上級生もいましたが、とにかく理不尽な事が多くて。2年生になって今度はしごく側に回るのは本当に嫌だなと思って、1年で寮を出てひとり暮らしをはじめました。
寮を出てからは昼間は工事現場のアルバイトをやって、夜はビリヤード場でアルバイトという生活をしていました。お金があったら友達と飲みに行ってばかりいました。
−−ビリヤードの腕は上がりましたか?
大谷:すごく上がりました。プロの選手もうちのビリヤード場へ来たりして、常連さんも凄く上手かったので、僕も自然と上手くなりましたね。そのビリヤード場はもうないんですが、大久保の端っこにあって「クロスロード」という名前だったんです。ブルースが好きだったので、「かっこいい名前だな」と思ったまま、なぜかそこで何年も働いていたんですよね(笑)。
−−ちなみに絵の方は描かれていたんですか?
大谷:ええ。確か「ARTWORK」という本があったんですが、それは規定のサイズに合わせたアート作品実物を各アーティストが同じものを50個作って、それを一つずつまとめて1冊の本にして全部で50冊を売るという本があったんですね。著名なクリエイターの方々が参加していらっしゃったんですが、編集部に飛び込みで持ちこんだらなんとOKが出て、一生懸命作品を50個作って。
あと、絵画教室に行ってみたり。ところがみんな海外旅行に行ってきましたって写真を貼って絵を描いていて、「これは間違えたな・・・」と思って、すぐさまやめて(笑)。往生際が悪いんですが当時はそれでも割と真剣で。
−−(笑)。そういった学生生活を送りつつ、(株)CBS・ソニーグループ(以下、CBS・ソニー)に入社することになるわけですよね。
大谷:ご多分に漏れず本当にだらだらとしたのん気な学生だったんですが、友達と学食へ行ったら横に日経新聞がおいてあって、ちらっと見たら“就職戦線早くも終盤”だと。「えっ終盤なんだ。まだ何もやってないんだけど!」という話になって(笑)。
−−それが何年生のときですか?
大谷:4年生のときです(笑)。結局、CBS・ソニーが就職協定を守っていてくれたおかげで間に合ったんですよ。大学も市ヶ谷で近い場所にあって。レコード会社の何社かはギリギリ間に合うところがあって、あわてて履歴書をバーッと出したらCBS・ソニーだけ受かりました。
3. ギリギリ間に合いCBS・ソニー入社〜営業を10年経験
−−CBS・ソニーって競争率高いですよね。
大谷:当時の記憶ですが多分5000人以上受けたと聞いてます。でも何人受けているのかなんて、そんなこと受けている方は分からないですからね。
−−5000人の中で通っちゃったと。何人ぐらい通ったんですか?
大谷:同期は120人ぐらいいましたね。
−−その頃は120人も採用したんですか。
大谷:90年入社でバブル期でしたからね…
−−その頃の社長って大賀典雄さんですか?
大谷:社長は小澤さん(小澤敏雄氏)です。僕はほとんど洋楽しか聴いていなかったので、邦楽のことが全然分からなかったんです。でも当時は『イカ天』が盛り上がっていて、会社の同期がみんなイカ天世代ですし、「バンドをやっていました」という人もいて、「うわー、こんなすごいクリエイティブな感じの中に入ってしまったんだ」と思いました。
−−レコード会社に入るときって、「音楽好きです!」とか「○○になりたいんです!」とか面接で熱っぽく訴えかけて必死で入るみたいな印象なんですが、大谷さんはそういうことはなかったんですか?
大谷:なかったですね。「何でもします」みたいな(笑)。
−−ディレクターになりたいとか、そういった気持ちもなかった?
大谷:そんなの恐れ多くて言えなかったです。何も分からなかったし、ただ間に合ったな、みたいな(笑)。
−−(笑)。ちなみに面接したのは誰なんですか?
大谷:僕の記憶だと、一次面接が村松さん(村松俊亮氏)で、最後は小澤さんでした。最終面接のひとつ前の面接の最後に「内定している会社はありますか?」と確認されて、実は内定が一個もなかったんですが、「あります」「もうちょっとです」みたいなことを言って(笑)。それで最終面接のときにもう一度内定のことを聞かれて、一緒に面接受けてるみんなが「JTBを断ってきました!」とか「○○内定頂いてます」とか言いはじめて「大谷君は?」って聞かれて、思わず正直に「何もないです」って言ってしまって。完璧に負けてるな、100パーセント落ちるなと思ったんですけどね。
−−どこを見ているのかよく分からないですね(笑)。
大谷:本当に分からないです(笑)。「呑気だなー、こいつ」みたいなオーラが出まくっていたと思います。
−−面接であがったり緊張したりする人もいると思うんですが、大谷さんはその辺はなかった?
大谷:緊張はしたと思うんですけどね。でも当時から服装は自由で学歴不問だったんです。ですからCBS・ソニーという会社に対して好印象でしたし、面接を受けていても良い会社だなと思いました。他のところも何社か受けたんですが、親の仕事を聞かれたり、「堅いな」という印象があって。CBS・ソニーは緊張させないような、こっちからフランクになっていけるようなムードがありました。
−−入社されて、まず東京営業所に配属されたとのことですが、そこには何年ぐらいいらっしゃったんですか?
大谷:東京は2年ですね。仙台にも2年いました。そこから販売推進部へ行きました。
−−順当に営業の道を歩まれていたと。
大谷:そうですね。11年間営業でした。
−−営業の仕事は楽しかったですか? 最初の10年間は音楽業界にとってのバブル期にあたりますよね。
大谷:営業はすごく楽しかったですね。営業経験を重ねる時期と音楽業界が大きくなる時期が重なったんでかなりやりがいがありました。
−−売上的にはピークの頃ですよね。
大谷:新入社員で入社した頃は邦楽が東芝EMIと競っていて、「絶対シェア1位を獲るぞ!」というムードがあったのを覚えてます。その後は、仙台営業所でチーフの仕事をやらせていただき、販売推進部に異動して社内レーベル担当をした後は、新たにスタートする受託営業の立ち上げでジャニーズエンタテインメントさんとゼティマさん、フォーラーイフさんとお仕事をしました。多くの大ヒットに触れることが出来ました。
−−営業は性に合っていたと。
大谷:もともとレーベルの制作やプロモーションの仕事を希望して入社したわけじゃないので、営業に行って辛いみたいなことは全然なかったですね。僕は自分のところに来てもらうよりも、人のところに行くのが好きなんです。だから営業は全く苦にならなかったです。ただ、担当店が遠かったんですよね。僕の世代から女性セールスマンが増えていったんですが、自然と女性は近場を担当して、男は遠くに行かされるという流れができて(笑)。僕の能力にもよるんでしょうけど。当時吉祥寺に住んでいまして、担当エリアで一番近かったのが八王子だったんですが、八王子から市ヶ谷の会社へ戻るときに毎日のように吉祥寺駅を通過して戻るんですよ(笑)。あと始発のバスで長野の飯田まで行って、そこからぐるっと長野をまわって帰ってくる、というのを毎月やっていましたからね。
−−それは結構ハードですね・・・。
大谷:当時はそう思わなかったですけど、今思うと結構・・・まあ若かったので。
−−営業での大谷さんの評価はどうだったんですか?
大谷:評価は低かったですね(笑)。小切手を回収するのも上手くなかったですし。担当していた店が倒産したことがあったんですよ。そのお店は営業に行く度に、オーナーのお母さんが「ホテルを予約するんだったら○○がいいよ」「あそこのお店は美味しいから」とか教えてくれてすごく良くしてくれたんですね。で、悲しい事にそのお店が倒産する状況になって。債権確保のためにセールスとしては自社商品の回収作業を迅速にしなきゃいけないんですが、お母さんの佇まいを見たら辛くなって、売れ筋商品は残して、売れ筋じゃない商品在庫をメインに回収して帰ったんです。そうしたら、他メーカーの所長からうちの所長に「ソニーの売れ筋ずいぶん残っているな」みたいな連絡が入って、所長に無茶苦茶叱られたりしました。
−−人情派営業マン(笑)。大谷さんは出世欲はなかったんですか?
大谷:出世とか考えたことなかったですね。当時の係長が本当に良く面倒を見てくれて、すごく人情が厚くて暖かい人だったんですよ。仕事が終わったら「飲みに行くぞ!」みたいな。その楽しみのために生きているみたいな不良社員でしたね(笑)。でも、僕のせいで飲みすぎてその係長の貯金がどんどん減っていって。
4. 制作へ異動し、いきなりプロデューサー〜松尾潔氏との出会い
−−そして10年間の営業・販売推進部のお仕事を経て、A&Rになられますね。
大谷:はい。販売推進部というところに7年いたんですが、平井堅のデビュータイミングやTUBEの「ブラボー」というアルバムのときに一緒に仕事をさせて頂いた吉田敬さんがデフスターレコーズ(以下、デフスター)を立ち上げるときに人を探してたらしくて、当時の僕の上司の榎本さん(榎本和友氏)がそろそろレーベルにと。
−−自分から手を上げたわけではないと。
大谷:あげてないです。営業楽しかったですし。
−−でも、制作は営業所とは全然違う世界ですよね。
大谷:全然違います。まずルーティンワークがあるようで無い。リリースも自分で決めて制作しなくては仕事はないのがレーベルですが、営業は決まったタイトルが毎月受注という形でやってきますからね。しかもいきなりプロデューサーだったんですよ。今アリオラジャパンの代表をやっている藤原俊輔さんと二人でそれぞれチームを持たせてもらって。当時、CHEMISTRYがデビューする直前に異動したんで、その前まで大堀さんという方がA&Rだったんですが、デビュー直前に「お前がやれ」と言われて、やらせてもらって。敬さんもすごくダイナミックな方で、「あとはお前に任せる」みたいな感じでした。
僕はデフスターに異動になる直前にゼティマさんの受託販推窓口をやらせてもらってまして、モーニング娘。もデビューから関わってたんです。ですから「ASAYAN」を絶えずチェックするクセがついていたので、CHEMISTRYも「ASAYAN」の企画の段階からずっと毎回見ていたおかげで、なんとかキャッチアップできたことはラッキーでした。プロデューサーの松尾潔さんもブラックミュージック好きの人間として一方的にですが知ってましたから不安よりも楽しさが勝ったりしてました。
レーベル業務についてはズブの素人でA&Rのエの字も知らなかったりで、先輩から語り継がれているA&Rマニュアルみたいなものを一生懸命読んだり、国内海外のプロデューサー自伝みたいなものを読んだり、一通り著作権関連の本を読んだり、とにかく慌てて勉強したんですが、なによりも人に支えられた面が強いです。制作面では松尾さんですし、宣伝面では当時の宣伝にいた人たちですし、ときたまピンポイントで鋭い突っ込みをする吉田敬さんの存在が大きかったです。
−−生活のリズムも全然変わってしまったんじゃないですか?
大谷:夜が全然終わらないですね(笑)。あまりに終わらなくて、自分がダメになる労働時間の長さが分かるようになりました。俺のリミットは14時間だな、みたいな。少ないですけど(笑)。
−−集中力の限界(笑)。
大谷:そうです(笑)。それ超えると急に無駄話やくだらない話はじめてしまって。
−−そのくらい忙しかった?
大谷:忙しかったですね。それで3年くらいCHEMISTRYのA&Rをやって、その頃に吉田敬さんがワーナーに移られたので、そこで立場がガラッと変わって、宣伝部担当になったんです。宣伝もやったことがなかったので、「どうしよう?」と思いましたが平井堅がちょうど「瞳を閉じて」で大ヒットしましたから、プロモーションはフルスケールで宣伝として色んな経験をするにはタイミングは良かったです。
−−先ほど「人に会うのが好き」とおっしゃっていましたが、宣伝のセクションは人に会うのが仕事でしょうから、充実していらしたんじゃないですか?
大谷:そうですね。A&Rのときは発売日に朝早く目が覚めてしまうとか、前の日に眠れないとかあったんですが、宣伝部になってからはみんなで頑張っている仕事を一つずつ繋いでヒットを目指すんでまずコミュニケーションの場が多いですし、スタッフ何人かで媒体に伺ったり、食事会をしたりとか、スタッフ同士で喧々諤々飲んで話したりとか。後は、A&Rの時もそうですが、仕事が変わると単純に新しく知り合いになれる方々が増えるのは嬉しかったですね。
−−そして、2003年に若干35歳でデフスターの執行役員になられますね。これは社内でも注目を浴びたんじゃないですか?
大谷:当時で言うとみんな若かったと思いますよ。
−−役員という名前がつくと、やることは変わるんですか?
大谷:執行役員になったから変わるというよりも、僕は宣伝部の担当だったので、単純にそれで変わりましたね。一気にプロモーションの仕事になっていきましたから。現場にはすでにキャリアのあるスタッフが何人もいたので、全体の統括をしつつ、スポーツ新聞を担当していました。
−−結構しっかりと宣伝を。
大谷:そうですね、執行役員だったのでレーベル全般もみつつ主に宣伝担当を4年くらいやって。2006年頃になって、AKB48の劇場公演を何度か観に行く機会があって凄く面白くて。当時のデフスターの代表の藤原に「やろうよ」って言って。
−−AKB48はデフスターがスタートなんですか。
大谷:最初はデフスターですね。ただ、あの頃は今みたいな状況ではなくて。
−−まだブレイク前ということですね。
大谷:はい。「会いたかった」を出して、2作目の「制服が邪魔をする」まで関わったんですが、その直後に人事異動でアソシ(ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ)へ行くんです。
5. 音楽好きの人たちが新しい音楽を作り出すというフィロソフィー〜中島美嘉、JUJU
−−アソシではどういうお仕事をされたんですか?
大谷:アソシは当時、デビュー以来中島美嘉のプロデュースをずっとやっていたKONDI(コンディ)さん(近藤宣幸氏)という方が退社されて、僕は制作部長として異動しました。ちょうど、乃木坂ビル6階のエレベーターを挟んでデフスターとアソシがあったので、引っ越しも自分で台車を押して荷物を運びました。
−−フロア内異動みたいな感じですね。
大谷:ええ。台車で何往復かしながら荷物を運んでいたら、アソシの木村武士という、JUJUのプロデューサーが、「奇跡を望むなら」という曲を絶対に売りたいからと、エレベーターの前にラジカセを置いて社内プロモーションをやっていたんですよ。僕はそこを何度も往復する中でその曲を聴いていたら、「これ無茶苦茶良いじゃん!」って。それから頑張ろうってなって。じわじわと売れ始めた時は嬉しかったですね。
−−台車も押してみるもんですね(笑)。
大谷:本当に(笑)。木村武士の強い想いに引っかかったという。その頃はJUJU本人もしょっちゅう会社へ来て、電話をとっていたりしていたんですよね。デスクに座って(笑)。
−−そんなことをやりそうもない感じですけどね(笑)。
大谷:いやー、もう全然やっていましたね。
−−アソシの特徴は一言で言うとなんだったんですか?
大谷:これは僕が異動する前からですが、アソシは無類の音楽好きであれ!ということと、その音楽好きの人たちが集まって新しい音楽を作り出す!ということをフィロソフィーにしていましたね。音楽好きであることにおいては誰にも負けない気概と、でもエッジなものに傾くのではなくて、ちゃんと王道を見据えてヒットさせていくというのを両立させるんだっていう。
−−そういうのは外にいるとあまり分からないですよね。
大谷:分からないですね。ブランドっていう事だけではなくてスピリッツという部分は中に入らないとわからないものですね。
−−もうちょっとアピールしても良いのかもしれないですね。
大谷:アピールで言いますと、アソシは社歌があるんですよ。そのまんまの。アソシってもともといくつかの制作オフィスが合併してできたレーベルで、だからアソシエイテッドって名前になったんです。ですから、そもそもブランドが定まりづらかったというか、逆に定まっていない分、共通言語として音楽を好きかどうかということがフィロソフィーになったと思います。それが良かったのかなという感じですかね。ですからEPICレコードジャパン(以下、エピック)やキューンミュージック(以下、キューン)のようなブランド感とは違った、アソシならではっていうDNAは確かに存在します。しかも社歌の中では酒飲みばっかりでいつも赤字のレーベル像が歌われてて(笑)。
−−(笑)。これもまた外部から見ていると、六番町と乃木坂では、大分やっていることが違ったり、ライバル意識というか、そういうものがあったりするように見えるのですが、いかがですか?
大谷:今もライバル意識はものすごくありますよ。昔のように「CBS・ソニー vs EPIC・ソニー」みたいなとはちょっと違う気もしますが。こだわりやセンスとかに自分たちの「らしさ」をちゃんと標榜する意識は高くなきゃいけないと思うんですね。そういうライバル意識です。どんなジャンルであろうと乃木坂レーベルらしさがちゃんと滲み出てるような感じ。そういう事がもっと顕在化してくればより盛り上がってくると思うんですよね。
6. 「好きなもののエキスパートになれ」
−−2014年4月に全レーベルがソニー・ミュージックレーベルズに統合されました。グループが大きくなるに伴って大谷さんが見なくてはいけない領域が拡大し、責任感がより増したかと思うんですが、その辺はいかがですか?
大谷:もちろん、責任は増しました。エピックもキューンもアソシよりも歴史が古かったりしますし、領域の拡大と同時にそういう部分にも気を配ります。ただ統合したということが結果的に大きなヒットにつながることが最大の課題でもあるし、各レーベルの得意分野を切磋琢磨し競争力を高めることも重要です。そこに向けてどうハンドリングするかは、キューンの代表 石川将人さんは二十年来キューンですし、エピック代表の青木聡さんも僕なんかよりエピックのことを分かっているので、心配は少ないですね。それに、乃木坂ビルには洋楽であるソニー・ミュージックジャパンインターナショナルもあります。直接担当ではないですが、洋楽と邦楽が一緒になって面白い仕事もしていきたいですし、地の利を最大限活用したいですね。これからもどんどんコミュニケーションを図っていきたいと思います。
−−大谷さんは社員の方々にどのようなアドバイスをされていますか?
大谷:エンタテインメントビジネスの基本は、自分たちが良いと思ったものを作り、良いと思ってもらう宣伝をして、買ってもらうことだと思うんですが、同時に絶えず変わっていくマーケットを捉える感覚が必要となってきます。それは何かというと、世の中にいる今の人たちの気分やムードを見極めることなんです。毎月何タイトルも発売してくると、深く考えず、楽をする部分もあるんですよ。制作の規格だったり、プロダクツの制作費の規定、あとタイムスケジュールも存在しますから。タイムスケジュールは守らないといけないと思うんですが、そういう規定の中で流れ作業になっていくと、お客さんのマインドを忘れがちになりますから、そういう基本中の基本の当たり前のことを丁寧にアップデートする気持ちを忘れないでほしいと。当たり前のことはすぐ効率化されますからね。日々の生活の中ではクリエイティブ感性とマーケティング感覚を身体の中に絶えずインプットしておいて欲しいと思ってます。
−−大谷さんが今分析しているそのマインドというのは、どういうことなんですか?
大谷:例えばパッケージに限った一例だと、今の時代YouTubeとかで無料で自由に楽しむ人と、昔に比べてライブを観に行く人が増えているとしたら、CDというパッケージの存在感が当然薄くなっているはずです。お客さんの立場からしたら、もっと「良いものを買ったんだ」と思わせてくれないと、ほしい気持ちはすぐに冷めていくと思います。そのユーザーマインドを想定し、CDを買う動機についてあらゆる角度からアプローチしていかなくちゃいけなくて、販売価格以上の価値にすることをもっともっと突き詰めなきゃと思います。僕たちは楽曲というものを効率よく広めて届けるために最適な形状としてこれまでレコードやCDというソフトウェアをパッケージにして製造し販売してきました。そういった経緯をもう一度分解して捉えなおし、今の時代に置き換えたらどうすればいいか?って事を考え続けて欲しいです。値段以上にも以下にもなる価値観を創りだせるのがエンタテインメントコンテンツビジネスの醍醐味ですから、環境や状況に負けず、ユーザーマインド視点から自分たちのプランニングを作り商品の完成形を考えることが大事なんです。
それと、ダウンロードにフォーカスしてみれば、楽曲単体での購入が当たり前で、同時にアーティストに深く入ってきてくれるユーザーが少なくなってる。アーティストベースでの横軸より楽曲ベースでの横軸でのライブラリーが増えているに違いないと。ではどうすればアーティストベースの横軸が作れるだろう?って。そういうことを考え続けて色々トライしてほしかったり。
僕は音楽市場が全体の1/3になったところで、コアユーザーが同じく1/3になったかというと、そうは思ってないです。音楽の価値を高めて長く大事にしてくれるものを作ることは絶対にやらなきゃいけないことだと思います。
−−音楽好きを大事にすると。
大谷:バブル期というのは今思うと凄かったし、不思議な時代でしたが。その時代と比較すると相対的に音楽好きのコアユーザーに長く満足感を持ってもらうことがとても大事になっていると思ってます。
−−バブル期のやり方からの転換が必要ですよね。
大谷:そうですね。僕はシングルCDが滅茶苦茶売れている時代に入社しましたが、当時はタイアップで凄く売れる時代だったんですよ。当時、先輩から「自分の好きなことはせずに売れるものをやれ」とよく言われました。つまり、自分の好きなものはそんなに売れない。ただ売れるものを考えて、いっぱい売れるものを扱えと。当時はそれが正解だったんです。要はそんなに得意じゃないものでも、ある程度キャリアがあって、人脈もできて、それで運があればちゃんと利益が出るようなヒットが出せたんです。
でも、今はもうそう簡単に売れないじゃないですか。僕があまり得意じゃないジャンルで現場のA&Rをやるとして、それでも昔はアルバムで10万枚くらい売れたかもしれない。それが今、同じようにやれて3万枚くらいだと思います。これだと商業的には成功じゃないと、みんなどんどん自信を失っていく感じがあります。だからこそ僕は「好きなものを誰よりも得意になれ」「誰よりも得意なものを好きになれ」と言い続けています。これに関しては誰にも負けない、誰よりものめりこめて、知識もあって、ナンバーワンになれると思うものを見定めて、それを思いっきりやった方が良いよ、と。そういう話をすると「そんなこと初めて言われました」みたいなことを言われます(笑)。
−−(笑)。
大谷:でも、おそらく昔はみんなそんな感じだったはずですよ。「ロックの○○」とかみんな自分の屋号があって、「あいつはロックに関してはすごい」みたいな。だから、どこの誰はどのジャンルがすごく詳しいとかかなり気になります。
7. 音楽に対する情熱とこだわりが大切になる
−−レコードメーカーって本来、音楽を作る精鋭が集まっている集団なわけじゃないですか。だからそこにもっと磨きをかけて、良い音楽を送りだして欲しいです。
大谷:良い音楽を作り出し送り出すことを本当に大事にしたいですね。これからはすごく音楽が好きで、情熱がある人たちが集まって面白いエンタテインメントを生み出すんじゃないでしょうかね。多くの人にはどうでも良いことを、日々真剣にこだわって。そういったこだわりを持ち続けられるだけの情熱を持った人たちが新しくて面白い事を生み出すと思います。
−−ソニーミュージックの中の情熱は今までと変わらない、みんな諦めてないと?
大谷:諦めていないと思います。ただ、日々やらなきゃいけない仕事はもちろん存在しますし、そこでどうしても結果がうまく伴わないと、「やっぱり自分に能力がないのかな」とか「やり方を間違えているのかな」という風に思ってしまう人もいると思うんですよね。だから、諦める前に好きなことを徹底的にやってみてほしいですね。
−−それはそうですよね。
大谷:逆にそこにやりがいとか、「すげえ楽しいなーこれ」みたいに思えるような仕事をする人たちが今後、どんどん増えると嬉しいですね。その前に、ちゃんとゴールまでたどり着けるだけの準備や知識や体力や人脈や礼儀やみたいな、基本の土台をしっかり築く仕事を身につけないと、ではありますけどね。
−−車屋さんには車が好きであってほしいし、オーディオ屋さんにはオーディオに命をかけていてくれないと伝わらないですよね。レコードメーカーの社員もそういうことですよね。
大谷:本当にそうですよ。この前CDショップのクラシック売場に行って店員さんに、「探しているのがありまして」と一声掛けると、「これを聴くんならこれも良いですよ!」とどんどんオススメしてくれたんですよ。僕は全然詳しくないから(笑)。
−−音楽のコンシェルジュですね。
大谷:そういったこだわりを持ったプロを見ると嬉しくなってくるんですよね。自分もそうありたいなと思います。この業界ってスタッフにもスーパースターがたくさんいらっしゃるじゃないですか。でも、僕はお話してきた通り、そういう人間ではありません。その中でも正しいプロ意識をもっていれば誰でもスーパーチームの一員になることは出来ます。僕がそこに運良く参加できていることで言うと、スーパースターになるよりも、遙かに高い確率でできる可能性がある証明ですよね。だからそのチームの一員になれるように、普段から情熱を持ってこの仕事に向き合っていけば、最終的には必ずヒットにたどり着くと思います。
−−新人発掘に力を入れているそうですが、新人を出していくのに、どのようなことを心掛けていらっしゃいますか?
大谷:新人アーティストを手掛けるA&Rには、「自分たちが選んであげたんじゃなくて、向こうがパートナーとして私たちを選んでくれているんだ」と言っています。向こうは人生のすごく大事なときにアーティスト契約ということで、上手くいかなったら何年か棒に振る覚悟で契約してくれるわけですから、こちらも緊張感を持ってほしいと。アーティストとの関係においてですね。楽しさのなかにも緊張感をと。
−−そこで軽い気持ちになってはいけないぞと。
大谷:そうです。思いを忘れずに緊張感を持って組んでほしいなと思います。また、僕が新人アーティストを積極的にやろうと思った理由がありまして、オリコンさんによると2013年からぐっと新人アーティストのデビュー数が減ったらしいんですよ。
−−今までは厳しい時代に新人が減るかというと、意外と新人の数が多かったりもしましたよね。
大谷:今まではあんまり急激な増減はなかったらしいんですが。
−−市場が縮小してしまうと多くは出せませんからね。
大谷:これはまずいぞと。積極的に新人アーティストと契約することが、将来はどんどん良い状況を生み出していくと信じてます。ただ、放っておくと「新人はコストもかかるし、上司はダメだと言うだろうな」と勝手に判断されてしてしまう事もよくあるので、こちらから「どんどんやろうよ」と言っていくようにしています。
−−新人というのは、普通のメーカーで言えば新製品ですし、売れているものだけやっていたらいずれ行き詰まってしまいますよね。
大谷:その通りですね。新人アーティストを探し、デビューさせるのは結構労力がかかりますし、ヒットさせるとなると相当大変ですが、A&Rとしてはものすごく成長します。僕たちにとって本来の新規ビジネスとは、新人アーティストを発掘し、デビューさせ、ヒットさせていくことだと思ってます。デビューして2〜3年くらいのアーティストの売上シェアが全体の2割から3割くらいの売上構成比であるようなレーベルにすることを今後の重要な課題にしていきたいと思っていますね。
−−本日はお忙しい中、ありがとうございました。大谷さんの益々のご活躍をお祈りしております。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)