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第128回 松尾 潔 氏 音楽プロデューサー / 作詞家 / 作曲家

インタビュー リレーインタビュー

松尾 潔 氏
松尾 潔 氏

松尾 潔 氏 音楽プロデューサー / 作詞家 / 作曲家

今回の「Musicman’s RELAY」は (株)ソニー・ミュージックレーベルズ 執行役員 大谷英彦さんのご紹介で、音楽プロデューサー 松尾潔さんのご登場です。音楽的に芳醇な福岡で青春時代を過ごされた松尾さんは、早稲田大学在学中にR&Bやヒップホップを主な対象として執筆活動を開始。同時にラジオDJとしても活動され、久保田利伸との交流から音楽制作へ。SPEED、MISIA、宇多田ヒカルのデビューにブレーンとして参加した後、プロデュースした平井堅、CHEMISTRY等を成功に導き、2008年には、EXILE『Ti Amo』(作詞・作曲・プロデュース)で第50回日本レコード大賞「大賞」を受賞と、日本を代表する大ヒット・プロデューサーとして確固たる地位を築かれました。そんな“KC”こと松尾潔さんにご自身の生い立ちから、そのプロデュース術まで、たっぷりお話を伺いました。

[2014年12月22日 / (株)スマイルカンパニーにて]

プロフィール
松尾 潔(まつお・きよし)
音楽プロデューサー、作詞家、作曲家 / Never Too Much Productions代表


1968年1月4日生まれ。福岡市出身。
1980年代後半よりR&Bやヒップホップを主な取材対象としてライター活動を開始。ジェイムズ・ブラウン単独インタビューをはじめ、米英での豊富な現地取材をベースとした執筆活動、多数のラジオ・TV 出演を重ねる。
1990年代半ばから本格的に音楽制作に携わるようになり、プロデューサーとして平井堅を大ブレイクに導く。
1999年、テレビ東京『ASAYAN』の「男子ヴォーカリストオーディション」でCHEMISTRYを発掘、名付け親となり彼らの大ヒットした初期楽曲をプロデュース。
2002年、日韓共催FIFAワールドカップ公式テーマ曲『Let’s Get Together Now』をプロデュース。韓国で公式放送された初めての日本語詞曲となり歴史的な1位を獲得する。その後、東方神起の日本デビューに関わりK-POP市場の飛躍的拡大の原動力となった。
2008年にEXILE「Ti Amo」(作詞/作曲/プロデュース)で第50回日本レコード大賞、2011年にJUJU「この夜を止めてよ」(作詞/プロデュース)で第53回同賞優秀作品賞を受賞するなど、ヒット曲、受賞歴多数。プロデューサー、ソングライターとして提供した楽曲の累計セールス枚数は3000万枚を超す。
2014年、初めての音楽エッセイ集『松尾潔のメロウな日々』を上梓。
NHK-FMの人気番組『松尾潔のメロウな夜』は放送6年目を迎える。
 


 

  1. ソニー・ミュージックレーベルズ 大谷英彦氏は盟友であり戦友
  2. マニアに見られないマニア〜黒人音楽にのめり込んだ福岡時代
  3. 厚かましさと音楽の知識、英語を駆使し、ライター活動開始
  4. ライター&ラジオDJとして現在に繋がる出会いを獲得
  5. マニアックなライターから大ヒット・プロデューサーへ
  6. 取材を通じて学んだプロデュース術
  7. アーティストに毎回フレッシュな気持ちで向き合う
  8. アウトプットから逆算する曲作り
  9. 自分自身や自分のやりたいことに正直であれ

 

1. ソニー・ミュージックレーベルズ 大谷英彦氏は盟友であり戦友

−−まず前回ご出演いただきましたソニーの大谷英彦さんについてお伺いしたいのですが。

松尾:大谷さんは盟友であり戦友です。彼と初めて一緒に仕事をしたのはCHEMISTRYでした。CHEMISTRYはテレビ番組『ASAYAN』の中で選ばれた2人で結成しました。テレビ東京、電通、吉本興業、そしてソニー・ミュージックの4社で立ち上げた男子ヴォーカリストオーディションです。

CHEMISTRYのデビューの時点では大谷さんはまだいらっしゃいませんでしたね。彼が参加することによって活動が本格化したようなところがあります。そもそも当初は僕自身も『ASAYAN』に対して理解の欠如と偏見がありました。モーニング娘。や鈴木亜美さんが出てきた番組、くらいの認識でしたから、プロデューサーとしてオーディションに参加要請された時も「まさか自分が『モーニング息子。』なんてやるわけないでしょ」と思って(笑)。つんく♂さん、小室哲哉さんがおやりになって「で、なんで次が僕なの?」と。実際ソニーさんからお話を頂いたときは2度ほどお断りしました。でもオーディションの全国予選がスタートしていくつか素材を見せてもらう中で、ソニーの一志順夫さんと斎藤和久さんのプレゼンに心を掴まれまして、次第に「意外と面白いかも」と思いはじめ、3度目のお話のときに引き受けました。後にCHEMISTRYとなる2人もその中にいたんですが。

−−松尾さんも途中参加だったんですね。

松尾:地方予選の終わりあたりからです。で、ソニーのスタッフとミーティングを重ねてデュオ結成を提案しました。応募してきた子たちの大半はおそらくソロでデビューすることを夢見ていたと思いますけどね。

CHEMISTRYはソニーのデフスターレコーズから「PIECES OF A DREAM」というシングルでデビューします。確か大谷さんはその後にデフスターへ移ってこられたんですよ。営業畑のご出身という先入観もあり「ずいぶんカッチリとした方がいらしたな」というのが第一印象でした。彼はハンサムですからね。たいへん端整な顔立ちをされていますし、語弊があるかもしれないですが銀行員でも通じるような折り目正しさを感じたんです。僕はその頃営業の方と接する機会はなかったので、そういう方がチームCHEMISTRYのA&Rのトップに就かれても話の接点はあるのかと気になったんですよ。でもそれはほんの初めだけで、実際にお話ししたら音楽好きの熱い方ということがすぐ分かりましたし、何より年齢も一緒なのですぐに意気投合しました。CHEMISTRYにまつわる思い出や成功体験をふり返ると、常に大谷さんがそばにいらっしゃいますね。

−−CHEMISTRY以前からデフスターとはお仕事されていたんですか?

松尾:ええ。デフスターの前身は亡くなった吉田敬さんが現アリオラジャパン代表の藤原俊輔さんとたった2人でソニー・レコーズの中につくったチームですが、そこで平井堅をテコ入れするときに声をかけていただいたんですよ。

シングル「楽園」からチーム平井に合流して、その曲を含むアルバム『THE CHANGING SAME』から僕がトータルプロデュースを任せていただきました。アルバムはソニー・レコーズからリリースされたんですが、ほどなくしてデフスターが立ち上がり品番を変えて同社のアイテムとして出し直したので、僕が最初に関わったデフスター作品は『THE CHANGING SAME』ということになります。「ASAYAN」に関わったソニー・ミュージックのスタッフはこれまでのソニーにはいなかったアーティストをつくろうと意気込んでいたし、僕は平井さんのプロデュースも継続していきたい意向があったので、それらを実現しやすい環境を求めてCHEMISTRYはデフスター所属になりました。当時のデフスターは平井堅とthe brilliant greenの2組だけだったんですよ。

平井さんやCHEMISTRYの仕事を離れたあとも、ありがたいことにソニー・ミュージックとのお付き合いが途切れたことはありません。久保田利伸さん、鈴木雅之さん、Skoop On Somebody、Kくん、仲間由紀恵さん、松下奈緒さん……そしてJUJU、Flower。震災後にまた平井さんとご一緒させていただきましたし。ただ、2005年ごろからはエイベックスとのつながりもどんどん深くなっていきました。具体的には東方神起の日本デビューやEXILEの第二章スタートといった節目に関わらせていただいたのが大きいですね。奇しくもEXILEのATSUSHIくんやネスミスくんは「ASAYAN」の男子ヴォーカリストオーディションのファイナリストでした。

−−そう考えるとすごいオーディションでしたよね。

松尾:「むかしATSUSHIやネスミスをオーディションで落としておきながら、今EXILEとガッツリ組むってどんな気分ですか?」という非難めいた質問をよく受けるのですが、正直なところATSUSHIくんやネスミスくんを「落とした」という意識はそれほどないんですよ。僕からすれば応募者2万人の中からファイナリストの5人に選んだという事実のほうが重要で。その中でデュオを決めるときに、組み合わせとして川畑くんと堂珍くんがベストと判断して2人を選んだまでです。この2人にプラスATSUSHIくん、ネスミスくん、それに今はミュージカルの世界で大変成功している藤岡正明くんの5人が残っていたんですが、5人にはもちろん個性の違いはあっても決定的な優劣の差はありませんでした。僕が番組内で「佐藤くん(ATSUSHI)は大人数のグループやソロという形だったらいいと思う」と話したくらいですから。実際その通りになったわけですが、さっきお話ししたように悪趣味な質問を投げかけられることは今でも日常茶飯事です(笑)。

−−(笑)。そう思っていました。大変失礼いたしました。

松尾:男子ヴォーカリストオーディションでは途中から“最高のデュオ結成”が至上命題になりました。例えばサッカーの代表選考でも「トップの11人を集めるのではなくて、ベストのチームになるイレブンを選ぶ」といいますが、まさにそういうことですよね。デュオですから2人の相性もありますし、CHEMISTRYに関して言うとソニー・ミュージックの社風や得手不得手も考慮してああいう結果になったんです。

−−なるほど。

松尾:大谷さんの話に戻すと、CHEMISTRY以降は仕事上の接点はほとんどなかったんですよ。それが2008年のお正月にハワイで休暇をとっているときに、偶然ホテルでお会いしました。彼はその半年ほど前にデフスターからソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズに異動されたばかりで。自然な流れでいろいろお話したんですよ。プールサイドでピニャ・コラーダ飲みながら(笑)。「大谷さんは今、何をやってらっしゃるんですか?」と聞いたら「アソシでJUJUというアーティストをやっているんですよ」「あっ、知っていますよ。ニューヨークの子ですよね。あの子歌うまいですねえ」と。ただ、その頃のJUJUはアルバムを出していたものの、現在の活躍ぶりはちょっと想像できないような、まだマニアックな存在でした。「東京に帰ったら、改めてご相談させてください」と言ってくださって、それからJUJUで久々にご一緒するようになりました。

−−偶然の再会から仕事のお付き合いが復活したんですね。

松尾:いま思えば大谷さんだけでなくソニー・ミュージックとも縁遠くなりかけていた時期でしたね。僕は学生時代から市ヶ谷の黒ビルに出入りしていたので、一時は「もうソニーの名刺を持ったら?」と言われるくらいドップリ浸かっていたんですよ。二十歳そこそこで企画書持ち込んでプレゼンしていましたから。ですから「ソニー愛」というのかな、いびつな強い愛情を持っていて、だからこそ「僕の知ってるソニーはこんなんじゃない!」と気持ちが空回りすることもあり、その時期はちょっと仕事は勘弁という感じになりかけていたんです。ハワイでの再会以来、大谷さんという最良の窓口を経て、いちど退学しかけた学生が聴講生として戻ってきた感じですね(笑)。

 

2. マニアに見られないマニア〜黒人音楽にのめり込んだ福岡時代

−−松尾さんは福岡ご出身だそうですね。どのような家庭環境だったんですか?

松尾:両親と姉が1人の4人家族で、父親がジャズ好きでした。昭和ひと桁生まれの洋楽好きというのは、イコールジャズ好きという場合が多いのかもしれません。家にはジャズのレコードが結構ありましたし、コンサートに子どもたちを連れて行くこともありました。家にあるレコードを聴いて、それを観に行くという感じで。よく覚えているところでいうと、高校1年生のときに父と観たソニー・ロリンズは圧倒的なインパクトでしたね。親に対してもちろん反抗期とかもあったんですが、音楽的にはすごく影響を受けました。それからソウル・ミュージック、R&Bに興味が移っていくんですが、子どもの頃からジャズを聴いていたので黒人音楽のリズムやブルーノート・スケールはすごくなじみ深いものでした。

−−楽器は何か習われていたんですか?

松尾:幼稚園の頃にヤマハ音楽教室でオルガン、小学校に上がってもしばらくはピアノを習っていました。それからスポーツのほうへ行くんですが、中学の野球部を引退してからは姉のギターを触ったり。高校でも運動部に入って水泳とかやっていたんですが、学園祭では水泳部の仲間とバンドをつくってベースを弾いて歌いました。

−−出身高校の修猷館って名門ですよね。音楽が盛んだったんですか?

松尾:わりと。ただ福岡という街はロックとフォークが圧倒的に強かったですけどね。クラスメートが中学時代にスピッツの草野正宗さんと同級生だったとか、その手の話を始めるときりがありません。

−−高校時代はどんな音楽を聴いていましたか?

松尾:ソウル、R&Bですね。高校1年くらいから親に内緒でディスコへ行ったりして、ブラックミュージックの「夜的な機能」っていうんですかね、そういう部分も自分なりには体感していました。そういう場にいる大人に憧れたりですとか。

−−10代でブラックミュージックに熱中する人ってあまりいなかったんじゃないですか?

松尾:いるにはいましたけれど、多数派ではなかったですね。地元の輸入盤のお店や中古レコード屋さんに行くと、お店にいる大人の人たちがいろいろ教えてくれて、「こんな面白い世界があるのか」と思いました。

−−高校時代はレコードを何枚くらい持っていたんですか?

松尾:高校を卒業する時点で数百枚でしょうか。高校生としては多いですよね。それを親に見つからないように、こっそり屋根裏とかに置いていたんですよ。

−−レコードを買うお金はどうしていたんですか?

松尾:「参考書を買う」と言ってもらったお金もありましたけど、基本は売買なんですよね。知恵を使いました(笑)。どこかのディスコがつぶれると「中古盤店の○○にDJが大量放出してるぞ」って話が伝わってくるんです。お店の値付け次第ではシェリル・リンとかコン・ファンク・シャンとかが1枚100円から500円くらいで買えちゃうんです。それを高校生がお年玉1万円を軍資金にまとめ買いするんですが、200円のものは50枚買えますよね。愛聴盤になりそうなものは手元にとっておいて、残りはカセットテープに落として別の店に売って。あとは全国の業者と切手で売買していました。

−−うーん、マニアですね。

松尾:そうですね。でもスポーツ少年でもあったので、学校の友達はそんなこと知らなかったと思います。一見マニアに見られないマニアなので(笑)。好奇心がすごく強かったんですね。知れば知るほど自分の好きなものがどんどん分かっていくじゃないですか。「僕が好きなのは、黒人男性ボーカルでも闇雲にスクリームとかシャウトする人じゃなくて、もうちょっとスムーズに歌う人だな」とか。そうすると買うもののハズレが少なくなってくる。高校生でいっぱしにプロデューサーとかミュージシャンのクレジットで聴くようになっていました。完全にオタクですね(笑)。Musicman’s RELAYの北川さん(北川直樹氏)のお話を読んでいると、「そうそうこの通り」って共感します(笑)。

−−ただ、レコードだけでは得られない情報もありますよね。

松尾:当時はネットもなかったですし。あとは紀伊國屋書店に行って輸入音楽誌とか、タワーレコードでビルボードを立ち読みするぐらい。音楽誌を読む習慣があまりなかったんですよね。日本のロック雑誌はつまらなく感じていましたし。そんな時間があるくらいなら国内外の小説を読みたかったんです。例外として、国内盤に付されているライナーノーツでいつも目にしていたブラックミュージック専門の評論家・吉岡正晴さんの文章は愛読していましたが。あとは高校を卒業してから鈴木啓志さんの文章に出会いました。これは大きかったですね。で、音楽誌というカルチャーをろくに知らないまま、いきなり音楽評論を書き出したって感じです。

 

3. 厚かましさと音楽の知識、英語を駆使し、ライター活動開始

−−黒人音楽に熱中されながらも、その後、早稲田大学に進まれますね。

松尾:高校では勉強に対しての興味は失っていましたが、現代国語と英語だけは好きでした。アメリカや海外に対する憧れを強く持っていたんだと思います。中学は西南学院という当時男子校だったプロテスタントのミッションスクールなんですが、そこで英語を習い始めたときにアメリカ人の先生に教わっていたおかげで、そんなに抵抗なく英語の本も読めました。洋楽をヒアリングして自分なりに訳したりもしていましたよ。

−−地元の大学に進学するんじゃなくて、東京の大学に行こうという意志はあったんですか?

松尾:東京に行ったらもっと音楽マニアがいるだろうと思ったんです。でも、そんなにはいなかったんですけど(笑)。東京は音楽以外にも楽しいことがたくさんあるからかな。僕も東京で生まれ育っていたら、スキーに行ったり、音楽以外の楽しいことをもっとやっていたんじゃないかなって気がしますね(笑)。

−−そして大学入学後はもっと音楽の深みにはまっていくと・・・。

松尾:当時は外タレのライブが終わった後にミュージシャンと話すことって意外とできたんですよね。僕は前からそこにいたような顔をするのが得意なんです(笑)。小学校、中学校を3つずつぐらい転校したんですが、そのときに覚えた技なんですよ。関係者風を装うみたいな。

−−子どもの頃に体得した処世術が活きましたね(笑)。

松尾:ライブが終わった後でもそこに平然と残っていて、なんか香典泥棒みたいですけど(笑)。香典を盗むかわりに、そこで人と知り合いになるんです。それをちょっと面白がる方もいて、「なにか仕事しているの?」とか「ライターでしょ?」って聞かれて、「あー、はいはい」って適当に話を合わせたりして。学生だから気楽なもんですよね。

−−その頃はもう英語は喋れていたんですか?

松尾:最初はもう固有名詞の羅列で(笑)。本(『松尾潔のメロウな日々』)にも書きましたが、生来の厚かましさと音楽の知識があったので中途半端な英語でもどうにかなりました。もちろん大学でも希望して英会話の特講を受けたり、多少は意識してブラッシュアップしましたけど、基本的には義務教育の英語と洋楽からの耳学問みたいなものです。最初は人に紹介されるがまま文章にまとめたりして、音楽誌にいくつか書くようになったんです。

−−その頃はどういった文章を書かれていたんですか?

松尾:インタビュー記事とレコード紹介から始めました。『bmr』と『アドリブ』がメインでしたね。だんだん論考をまとめるような機会が増えていくのですが。

ちょうどその頃CDがたくさん出てきた時代で、レコード業界全体がカタログを増やす目的で旧譜をどんどんCD化しました。だからそのライナーノーツを書く需要もあったんです。また同時期に首都圏にJ-WAVEやbayfmなど第2FM局が続々誕生し、番組の構成者や選曲者として僕に限らず洋楽のライターさんがいろいろ駆り出されました。そのうちに「企画会議でぺらぺら喋っている若者がいる」とbayfmの浅地豊樹さんが面白がってくださって、「自分で喋らない?」と誘われてレギュラー番組を何本か頂きました。次に僕がやったのは、取材でアメリカのミュージシャンに会った際に「日本で自分のラジオショーを持っている」とアピールすることです。アメリカでR&Bはまずラジオ音楽であることと、ラジオDJの地位がすごく高いことを知識として持っていたので。

−−それは賢いですね。

松尾:それで取材でいろいろな人たちに出会えるようになって、まだ大学生のときに日テレ『EXテレビ』の取材で運良くサンフランシスコでジェームズ・ブラウンに会うことができたんです。これはとてつもなく大きな出来事でした。当時彼の単独インタビューは困難を極めていましたから。以降は、取材現場で「KCは今までどんな人に取材してきたの?」と聞かれるたびに「誰だと思います? 驚かないでくださいよ……ジェームズ・ブラウン!!」と答えていました。すると「本当かそれは!どんな人だった? Come in!!」って流れが生まれるわけです。それはもう面白いくらいに(笑)。

第128回 松尾 潔 氏 音楽プロデューサー / 作詞家 / 作曲家

 

4. ライター&ラジオDJとして現在に繋がる出会いを獲得

−−結局、大学卒業後もライターとして仕事を続けられるわけですね。

松尾:ええ。収入もそれなりにありましたしね。その頃はNHK-BSの海外レポーターみたいな仕事もさせていただいていました。このまま就職しなくていいじゃん!みたいな。楽しく遊んでもいましたから。

−−かっこいい(笑)。そりゃ就職しなくていいですよね。

松尾:でも、世の中はバブルが弾けて、音楽業界もそれからしばらく遅れて……そこまで読めてなかったんですね(笑)。

−−ライターって今や一番稼げない職業みたいな言われ方もしますよね。

松尾:でも当時ブロードキャスティングの仕事をするときは「黒人音楽のライター」という専門職をやっていることが信頼感に繋がったものですよ。

−−そのときはライターと言い、取材に行くときはラジオDJと言う(笑)。

松尾:一時期は取材で海外に100日から150日ぐらいいるような感じで、行ったり来たりの毎日でした。一番多い年は1年間に20往復以上していたんじゃないですかね。

−−海外取材のオファーは主にレコード会社からですか?

松尾:レコード会社のときもあれば、テレビ局、スポーツ新聞、いろんなところから常に仕事を引き受けていました。一切断らなかったです。

−−そして、松尾さんの名前が業界内に広く知れ渡ることになったと。

松尾:ある数年間はもう、R&Bやヒップホップのどの新譜を見ても解説には僕の名前、みたいな時期がありましたね。まだ20代でしたから体の無理もききましたし、就職した友達に対して、自分の就職しない、フリーランスを続けるという選択が間違っていないと証明したくて、だったら金を稼ぐ……みたいなところがあったんでしょう(笑)。ただその頃の自分を振り返ると、ちょっと良い車に乗って、楽しく遊んで、と田舎の子が舞い上がっていただけですよ。ですから、今楽しげに語りながらも恥ずかしい気持ちもいっぱいあるんですが(笑)、その頃に現在に繋がる多くの出会いがありました。

例えば、久保田利伸さん。海外進出を視野に収めていた久保田さんからすると、ブラック系のライターの僕はあくまで数多いるブレーンの1人だったんでしょう。ただ年下で物怖じせずに話しかけてくる僕はなかでも接しやすかったのかもしれませんね。いま僕はスマイルカンパニーにご厄介になっていますが、山下達郎さんも『bmr』で新譜情報を見るといつも“松尾潔”というやつが書いているから「どんな顔をしているのか見てみたい」とライブに招待してくださったんですよ。99年だったかな。終演後に達郎さんにご挨拶させていただいたら「あなたが松尾潔?」と言われて(笑)。

−−(笑)。

松尾:「で、いくつ?」と訊かれました。この時のエピソードを達郎さんは僕の本(『松尾潔のメロウな日々』)の序文として書いてくださいましたが、それを読み返すたびに出会いって面白いなと痛感します。

−−でも、達郎さんは松尾さんが書かれたものを評価してくださっていたわけですよね。

松尾:ええ、ありがたいことに。腐らずに真面目に書き続けて良かったです。今はネット社会ですから文章に対してのダイレクトなレスポンスも得やすくなりましたが、当時は「こんな原稿を書いて、誰がどこで読んでくれているのかな……」という疑問や不安が常にありました。少しでも反応に近いところへ行きたくてラジオの仕事をしたという部分もあります。

先ほどもお話したように、アメリカのR&BアーティストにはラジオDJをやっているということが何よりの信用になりました。でも日本においては達郎さん、久保田さん、鈴木雅之さん、あるいはDOUBLEでもそうですが、上の世代も下の世代もご自分と趣味が近いライターとして僕のことを見てくださっていたんですよね。

 

5. マニアックなライターから大ヒット・プロデューサーへ

−−私たちも松尾さんの名前は最初、ライターとして認知しましたし、その松尾さんが制作に入って来られたという噂は聞いていたんですが、あまり前例がないじゃないですか? ライターの人がプロデューサーになるみたいな。だから、正直「大丈夫なのかな?」という思いで見ていたんですよね。

松尾:そのことに関しては、達郎さんから今でもよく言われます。マニアックなライターや評論家出身でトップ10ヒットを何度も出しているプロデューサーというのは、前例がないと。

−−レコード大賞受賞ですものね。

松尾:そうですね。びっくりですよね(笑)。

−−ライターや評論家に対してみんなが心のどこかで思っている「ごちゃごちゃ言うんだったら自分で作ってみろ」という気持ちを、松尾さんはものの見事に実践してしまったわけですよね。

松尾:元々プロデューサーをやりたくてライターを始めたわけではないですし、これを言うとちょっと偉そうなんですが、声をかけてくださる方がいたので「じゃあ、やってみましょうか」と始めたというのが実情です。アメリカのR&B情報を大量摂取して日本に伝え続けるという生活があまりに対米従属的に感じられて、嫌悪感めいたものを抱き始めていたのかもしれませんね。

−−言葉は悪いですが、最初はバイト感覚ですか。

松尾:不謹慎ながらまさにそうなんですよ。本当の意味でプロデューサーとしての自覚のほうが強くなったのはレコード大賞を受賞してからかもしれません。

−−レコード大賞にはそれだけの重みがあるんですかね。

松尾:ええ、僕の場合は。それまでも平井堅やCHEMISTRYでヒットは多く経験していましたから、作品がゴールドディスク大賞を受けることは何度かありました。ただあれはあくまで作品に対して与えられるものなので、プロデューサーの僕は授賞会場にも呼ばれないし、賞状の1枚もいただいたことはなくて。蚊帳の外というか、少し他人事だったんですよね。あとになって知って「○○さん、良かったじゃん!」みたいな感じでした(笑)。それで自分の仲間であるレコード会社のスタッフにボーナスが出るんだったら、ハッピーなことだなと。

ところがレコード大賞は作家も授賞対象ですからね。しかもラッキーなことに初エントリーでいきなり本丸の大賞だったので、悔しい思いは何もしていません。レコード大賞をいただいた2008年はちょうど50回という大きな節目でもあり、受賞後はTBSラジオの番組で第1回目受賞者の永六輔さんに引き合わせていただくという、嬉しい「おまけ」がつきました。

−−レコード大賞の第1回目は水原弘さんの「黒い花びら」ですね。

松尾:はい。『松尾潔のメロウな日々』にも書いたのですが、実は小学校3年生の時に永六輔さんと偶然お目にかかったことがあるんです。その時は頭を撫でてくださいました。「あの人誰?」と母親に聞いたら「日本一有名な作詞家で『上を向いて歩こう』とか『こんにちは赤ちゃん』を書いた人だよ」と。「へー、そんな仕事があるんだ」と思って、それから30数年後に永さんの番組へ呼ばれて、お話している・・・音楽の神様っているんだなと思いますね。永さんとは今年(2014年)初めてレコーディングでもご一緒しました。

−−それはどんなお仕事だったんですか?

松尾:デューク・エイセスの60周年記念シングル「生きるものの歌 / 友よさらば」をプロデュースさせていただきました。それだけでも身震いするほど光栄なことですが、「生きるものの歌」のオリジナルは永さんということもあり、ご本人がスタジオにお越しになって曲にナレーションを入れてくださいまして。忘れられない思い出になりました。

 

6. 取材を通じて学んだプロデュース術

第128回 松尾 潔 氏 音楽プロデューサー / 作詞家 / 作曲家

−−松尾さんのプロデュースのスタイルってどんな感じなんでしょうか? 例えば、ミュージシャンがプロデュースするというのは普通に想像できるんですが。

松尾:僕もあまり変わらないんじゃないですかね。プロデューサーとして師匠と言えるような人はいませんが、音楽ジャーナリスト時代にアメリカのR&Bやヒップホップのプロデューサーたちをたくさん取材していますから、そういった人たちを参考にしてはいます。

−−取材を通して学ばれたと。

松尾:音楽ライターというと、コンサートを観て、レコードを聴いて、以上。と思われる方が結構多いことに驚きます。僕はスタジオに入ってインタビューとか、レコーディングやミキシングの作業をずっと見せてもらうという直接取材にやり甲斐を感じていました。いろんなスタジオやご自宅を訪ねましたよ。R&B畑の人たちが多かったですけど、ヒップホップでもパフ・ダディ、ジャーメイン・デュプリ、ビートナッツ、ノー・ID、ウータン・クラン……MCハマーのスタジオ付き豪邸にも行ったなあ。若いジャーナリストということで気を許してくれたのもあったでしょうが。ビヨンセと結婚する前のジェイ・Zのレコーディング現場に立ち会っている数少ないアジア人だと思います。

−−あのときインタビューに来た松尾さんが、今、日本で大ヒットプロデューサーになっていることは、当時の取材相手はみなさん知っているんでしょうか?

松尾:彼らが日本へやってきたときに「今は制作するようになって、こういうヒット・レコードも出たんだよ」と話したことは何度かありますね。

−−ライターだと思って気を許して入れてやったのに、みたいなことはないんですか?(笑)

松尾:そういう視点は日本人特有のものではないでしょうか。みなさんはある意味もっとしたたかで「そうか。良かったじゃないか。じゃあオレにも良い仕事紹介してくれよ」って言われることの方が多いです。彼らは日本の音楽市場が大きいことを知っていますからね。あと、アメリカ人……僕が知っているのはもっぱらアフリカ系の人たちですけど、キャリアを増やしたり変えていくことも美徳のひとつとされていますよね。専業歌手からソングライターになったり、いろいろな人がいますから、「元々ジャーナリストで今はプロデューサー」って、日本ほど珍しがられないです。

−−確かに海外ではそういうケースが多いですよね。『ローリング・ストーン』誌の記者からプロデューサーとか。

松尾:そうですよね。ブルース・スプリングスティーンのプロデューサー兼マネージャーのジョン・ランドーとか。彼が書いたスプリングスティーンの記事を本人が気に入って、プロデューサーとして迎え入れて作ったのが『明日なき暴走』というのは有名な話です。ペット・ショップ・ボーイズのニール・テナントも元々雑誌記者ですしね。

あとは、音楽と置き換えて良いか分からないですが、映画の世界ですと、フランスのヌーヴェルヴァーグの人たちって評論家から監督になった人が多いでしょう? 僕の中でも仕事をガラッと変えたという意識はないんですよね。達郎さんに言わせると「この人は別に目指してたとかじゃなくて、やったらできただけなんだよ」と。

−−(笑)。

松尾:本(『松尾潔のメロウな日々』)の出版パーティーのスピーチで言われました。これは、褒められているのか、ディスられているのか(笑)。

−−最高の褒め言葉ですよ(笑)。

松尾:僕はちょっぴり公開処刑されてる気分でしたけどね(笑)。

−−MISIAや宇多田ヒカルさんのプロジェクトにも関わっていらっしゃいますが、これはプロデュースではないんですよね?

松尾:ええ。MISIAやヒカルちゃんに関しては、あくまでもブレーンの1人として参加していました。アウトプットとしてはオフィシャルのキャッチコピーや文言みたいなものを作ったり、インプットとしては、当時は海外でたくさん仕事をやっていたバリバリのライター時代なので、そういう視点から忌憚なく物を言う役割でプロジェクトに参加したという感じです。でもMISIAも宇多田ヒカルも近くでお手伝いしたのはせいぜい1年くらいかと思います。

−−意外と短い期間なんですね。

松尾:MISIAにせよ宇多田ヒカルにせよ、デビュー前にスタッフの方からお声がけいただいてブレーン集団に加わり、成功するところまでは見届けてからすっとプロジェクトを離れました。もしそのままずっとプロジェクトに居続けていたらその後の平井堅もCHEMISTRYもEXILEもなかったでしょうし、あれがベストのタイミングだったのかなとは思います。僕が果たした役割があるとすれば、あくまで責任を負わない立場だからこそ言えた程度のものです。

あとブレーン仕事ということでいえば、MISIAと宇多田ヒカルの前にSPEEDがありました。SPEEDはピッカピカのアイドルでありながら脱アイドルというか、本格的なアーティスト志向のアイドルだったんですね。彼女たちは当時US R&BでトップだったTLCを仰ぎ見ていたんですが、僕はTLCの本拠地アトランタによく行ったりメンバーに会ったりしていたので、向こうのスタッフを紹介したり、アドバイスしたりしていました。アッシャーのライブをSPEEDのメンバーと一緒に観たのは今でも良い思い出です。もちろんロイヤリティは発生しないですし、プロジェクトごとにギャランティをいただくだけの関係でした。変な話、そこに留まろうとか、そのアーティストやスタッフに気に入られたいという意識もなかったです。

−−自由に意見できるスタンスだったと。

松尾:自分が感じたことを素直に言っていました。そのうちのいくつかは、実際に反映されているなと手応えを感じるときもありましたし、あれほど言ったのに全く聞いてくれなかったんだな……と次回作を聴いてガッカリすることも多々ありました(笑)。

 

7. アーティストに毎回フレッシュな気持ちで向き合う

−−個人的には葛谷葉子さんって好きでしたね。「サイドシート」とか。

松尾:おー、ありがとうございます。エピックでやらせていただきました。

−−でも、今いちブレイクしませんでしたね。

松尾:今いちじゃなくて、劇的に売れなかったんですよ(笑)。葛谷葉子さんはプライベートではR&Bばかり聴いてるような子だったんです。でも、本人のキャラクターや歌声がブラックネスを感じさせるものではなかったので、ストレートなR&Bを目指すのではなく無理なくグルーヴを感じさせるJ-POPを狙って制作したんですが。そのことで「針が振り切れてない」と思われてしまったのかな。当時のエピックはポスト吉田美和を探していた時期。結果、同時期にデビューしたCrystal Kayに会社が注力するようになってしまいました。ただ、葛谷さんの曲は良いし、間違ったことはやっていないという気持ちが強かったので、同じクリエイター陣を再招集してやったのがCHEMISTRYです。歌い手とレーベルだけが変わったんです。

−−そういうことなんですか。

松尾:CHEMISTRYはオーディション中に仮デビューしたんですが、その仮デビュー曲「最後の夜」は葛谷葉子の1stアルバムからのカバー曲です。それがトップ10ヒットになったから「ほら、やっぱり葛谷の曲良いじゃん」と。そのタイミングで、ミックスまで終えたのに塩漬けにされていた2ndアルバムをリリースして、これはまずまずの結果を残せました。その後、CHEMISTRYの1stアルバムでもあらためて葛谷さんに楽曲提供してもらいましたし、今でも彼女とは家族ぐるみで付き合ってますよ。

ソニーで初めてフルアルバムをプロデュースしたのが葛谷葉子なので、僕も大変な思い入れがあるんです。でも一所懸命やっても叶わないことがあるんだなというのを、こんなCD不況になる前に味わえたのはラッキーだったのかもしれません。

−−そういう意味で印象に残っているということですね。

松尾:いまだに音楽業界の中に入れば入るほど、特にミュージシャンで「松尾さんのヒットしたものもいろいろと聴いていますけど、葛谷葉子が一番好きです」という方が、びっくりするくらい多いですね(笑)。

−−松尾さんは鈴木雅之さんともお仕事されていますよね。鈴木さんと言えば、まさにソウル・ディスコに通っていたような年上のお兄さんって感じですが。

松尾:鈴木雅之さんとはライター時代に初めてお会いしました。いろいろなところで取材しているのに興味を持ってくださったみたいで、彼のFM802の番組にゲストで呼ばれまして。「ニュー・エディションが再結成してビデオ撮ったとき、撮影現場にいたらしいじゃん」と話を振られたので「ええ、まあ。(メンバーのボビー・ブラウンの当時の妻だった)ホイットニーにも会いましたよ」と軽く答えたんですよ。

−−サラッと凄いことを(笑)。

松尾:そういう感じを面白がってくださって、その後も彼がベイビーフェイスと対談するときに通訳として呼んでくださったり、プライベートでもちょくちょく会うようになりました。当初は「アメリカのR&B情報を聞きたいんだなあ」くらいに思っていたんですが、人間的魅力に溢れた方なのでお付き合いがどんどん深まり、出会いからちょうど10年たった2006年にプロデュースのご依頼をいただきました。何しろ少年時代から憧れていた数少ない日本人男性シンガーの1人なので、その鈴木雅之さんからプロデュースを依頼されたことを10代の自分に自慢したい誇らしい気持ちがありましたね(笑)。

−−(笑)。

松尾:アルバム『Champagne Royale』のレコーディング中には、そのちょっと前に知り合った大瀧詠一さんが「マーチンとやっているんだったら、スタジオへ遊びに行くよ」とお見えになったこともありました。

鈴木雅之という人は錚々たる名プロデューサーたちに愛されてきたシンガーなんですよ。大瀧さん、達郎さん、小田和正さん。尊敬する大先輩たちが美味しく調理されてきた“鈴木雅之”という極上の食材に、自分ならどう向き合うか必死に考えました。もちろん、チャートで良い数字を出さなければいけませんが、歴代のアルバムにも負けない内容のものを作らなくてはと。

−−それはプレッシャーですね……。

松尾:でもそれがキャリア・アーティストと仕事をする醍醐味ですからね。新人アーティストは、僕が最初の男になるわけですよ(笑)。CHEMISTRYなんかは一番分かりやすい例ですが、名前まで僕が付けて世に出すわけですから、最初に定義づけができるんです。でも、キャリア・アーティストはそうはいかない。鈴木雅之さんなんて、すでに大きな成功を体験されて確かな評価も獲得されているところに、僕みたいな、しかも下の世代の人間がプロデュースするわけですから。

実際、「俺のアルバム、初めて年下に任せるから」と直接言われましたからね(笑)。もちろん「重いっス」みたいな重圧感もありましたが、僕は結構そういうときに燃えちゃうタイプなんですね。ストレスとプレッシャーは似て非なるもので、良質のプレッシャーは背中を押してくれます。若いんだし、僕がここで失敗するようなことは、先人も昔に失敗しているよ、とか妙にそこは開き直ってやりました(笑)。

−−そこは厚かましく(笑)。

松尾:楽天的なんですよね(笑)。あまり失敗を引きずらないんです。嫌なことがあったり、嫌な人だと思っても、すぐに忘れちゃいます。

−−良い性格ですね(笑)。嫌な人でも毎日会うわけじゃないですしね。

松尾:そうなんですよ(笑)。それにずっとフリーランスでやってきているせいか、あまり引きずらずに済みます。また別の人の仕事やればいいさって。

−−同じ会社でずっと一緒にいろと言われたら大変でしょうけどね。

松尾:レコード会社の悪名高きスーパーエグゼクティブについて、もうちょっと現場寄りの人からグチをこぼされたりするでしょう? で、「お会いしたけど、全然そんな雰囲気は感じなかったな」と言ったら、「松尾さん、彼と同じ会社で毎日顔を合わせてくださいよ。全然違いますから」って言われることはよくあります(笑)。

その度に「そうだよな、僕ってそこを知らないよな」と。でも、それこそが僕の武器だとも思います。毎回フレッシュな気持ちでお会いしているからこそ、躊躇なく新しい提案もできるわけですし。

−−先入観なく意見を言うことができると。

松尾:例えば「こんな曲どうですか?」という提案をキャリア・アーティストに対してするとしましょう。「今までこういう曲はまだおやりになったことがないと思うんですが、いかがですか?」と言うときに、「もうやっているよ、それ!」と僕以外のスタッフは全員思っているとか、もしくは「やってないんじゃなくて、本人がやりたくないんだよ」とヒヤヒヤしてるかもしれないけれど、「あー、そうなんですか。じゃあ何でやらないんですか? 今のあなたにはピッタリですよ」とまた訊けるのが、僕のような外部プロデューサーの強みだと思っています。

あと「アーティスト経験のない松尾潔にプロデュースなんてできるのかな? 事務所とかレーベルの人はマツオマツオって言うけど」という猜疑心を払拭できないまま僕に向きあってる若いアーティストもいると思います。実際、僕はマイクの前に立つ気持ちが分かりません。でもそのことを最初に言っちゃうんですね。その上で自分のできることを言います。僕よりCDを買ったりライブを観たりしているミュージシャンはそんなにいないはずだから、僕の耳と実績を信じてほしいと。そこまでいった段階でも「そんな人に私の気持ちはわからないと思う」とアーティストが心を閉ざしていたら、残念ですが仕事はできませんね。だからプロデュースの第一段階はアーティストとのお見合いなんです。食事をともにしながらというのが僕の好きなパターンですけど。

−−自分のことを分かってもらって、受け入れてくれているかをチェックする?

松尾:もちろん自分のことを分かってほしいですし、逆もですね。あとは、食事の時間が楽しく過ごせれば、少なくともスタジオで一緒に晩ごはんを食べるときも楽しいだろうと。まあ結婚するわけじゃないですからね。数週間、数ヶ月を一緒に過ごせればいいわけですから。

 

8. アウトプットから逆算する曲作り

−−松尾さんは発注がなければ何もしないそうですね。

松尾:(笑)。

−−ストックは常にゼロというのは凄いなと。普通ならネタを仕込んでおいて、ちょっと引き出しから出してきて・・・ということをやると思っていたんですが。

松尾:厳密に言えば、不採用になったもののストックが多少はありますよ(笑)。でもそれは1日1曲作ることを日課にしている人からするとストックとも呼べないかな。

−−とにかく24時間、外が晴れていようが雨が降っていようが、ずっと曲を作っている方とかもいらっしゃいますよね。

松尾:毎日とにかく何行かだけでも書く小説家みたいに、4小節でも曲を作る、みたいなね。

−−(笑)。それは人のために何かをしようと思わないと力が出ないということですか?

松尾:そういうところもあります。僕がこの1年間で依頼された作曲以外でピアノに向かったのは、子どものために「おもちゃのチャチャチャ」を弾いたくらいです(笑)。

曲作りに関して、よく「曲は降りてくるんですか?」と聞かれたりするんですが、そんなことは全くなくて、アウトプットから考えるんです。アーティストにも僕の曲の作り方はこうなんだと説明するんですが、まず「こういう曲を作りたい」のもっと先の、「聴く人たちに与えたいイメージ」を考えます。例えば、恋が終わった後の痺れるような熱を感じさせたいと思ったら、それならこういうメロディ、コード進行だろう。そして、そこに伴う歌詞はこういうものだろう、と逆算するのです。つまり完成図そのものではなく、完成図を見た印象のところから逆算しているから、曲作りに手詰まりを覚えることもないんです。

−−この家に住んだ人がどんな人でどんな家庭を築きたいと思うだろうか、というところから家を作るようなものですね。

松尾:そういうことです。

−−建築家だってこういうイメージとか、何もネタがないと家を作れないですよね。

松尾:仮に建築家に例えるなら、住宅なら住宅、公共施設でも良いんですけど、用途が決まっているからこそ作るという感じでしょうか。楽器を演奏したりプログラミングすることにも執着はありません。クレジットにこだわらない範囲でコーラスに参加したり鍵盤やベースを弾いたことはありますが、それを自己実現の場とは考えていないので。

「松尾さんは0から100まで自分で作りたくないんですか?」と聞かれても、僕よりもギターが上手い人がいると分かっている以上、その人に頼むでしょうと。しかもレーベルがお金を出してくれると言っているんだから、こんなありがたい話はないです。まあ作詞は必要にかられてペンネームを使い分けて書いてるうちに様になってきましたけどね。作曲はあるかぎられた曲調しか自信がありませんが、近くに才能ある作曲家がたくさんいるから大丈夫です(笑)。

−−今はレコーディング・エンジニアまでなさる方もいらっしゃいますものね。

松尾:僕はそこにあまり才能も興味もなかったというか、いろんな人たちとワイワイ言いながらやるのが好きなんですね。だから常にファミリー的にお付き合いしている仲間がいますよ。確固とした会社にしているわけではないんですが、大体おなじみのコアな人と、その周辺の人たちがいます。僕は“星座”と“星雲”と呼んでます(笑)。

 

9. 自分自身や自分のやりたいことに正直であれ

−−目標としているプロデューサーはいらっしゃいますか?

松尾:目標というとおこがましいですが、プロデュースを始める直前の27歳とリタイア願望がピークに達していた40歳という大事なタイミングでお会いしたクインシー・ジョーンズには大きな影響を受けています。「これは初めて直面するな」という事態で真っ先に思い浮かべるのは「クインシー・ジョーンズだったらどうするだろうか」ということです。彼だったら南に行くだろう、じゃあアリフ・マーディンだったら北西かなとか。歴史に学ぶタイプなんですね。プロデューサーとしての僕は借り物人生といってもいい。それが楽しみでもあり、大げさに言うとプライドなのかな。どんな時も自分を先に考えないということでもあるので。

−−それは松尾さん最大の長所ですよ。

松尾:アーティストを目指したことがないし、当たり前ですが今も目指していませんし(笑)。だからアーティストを出し抜こうという気持ちもないです。自分にはない才能をもった人たちのお手伝いをすることが楽しいんだから。

−−あわよくば俺がステージの真ん中に立ってやろうという思いがない。

松尾:ライター時代にそういうのが見え隠れする人もたくさん見てきました。例えばヒップホップの世界ですと、ノトーリアス・B.I.G.という90年代ナンバーワンと言われたラッパーが暗殺されたあとに、そのプロデュースをしていたパフ・ダディがラッパーとしてデビューするとか。パフ・ダディがその道に行きたくて行ったのかは分からないですけど、少なくとも僕にはないですね。そんな時間があれば1曲でも多くレコードを聴きたいし、美味しいものを食べたりおしゃべりを楽しみたいです(笑)。

−−最後になりますが、アーティストとして、またスタッフとして音楽に携わっている人たちにアドバイスを頂けますか?

松尾:回り道と呼べる時間は人生に1秒もないことを最近痛感します。それともう1つ、今になって思うのは、自分自身や自分のやりたいことに正直であれということです。やっぱりそこに対して気持ちを偽ると、結局高くつくと。

−−正直にやってきたことは、後から振り返ってみても悔いのない結果が出ている事が多いですよね。

松尾:先ほど名前を挙げてくださって本当に嬉しかったんですが、葛谷葉子さんという人は、僕が今までお仕事をしてきた中でも最も才能豊かな音楽家の1人です。音楽の才能って、歌を歌うことも才能ですし、曲を作ることも才能ですが、その人のそばにいるだけで「生まれもって音楽に愛された人」と思わせるアーティストってめったにいないんですよね。

葛谷さん、そして男性ですと、僕の今のところの最新ヒットなんですが、JUJUさんの「ラストシーン」を作曲した川口大輔さんもそういうステージにある才能です。川口さんもかつては僕のプロデュースで歌手デビューした人で、要は葛谷さんと同じなんです。二人がスターになることを僕は夢見ていたし奮闘努力もしましたがどちらも叶いませんでした。

でも僕はレコード契約がなくなるまでずっと諦めずに仕事を続けましたよ。だから彼らがメジャーで出している作品というのは全部僕のプロデュース作品なんです。スタートからゴールまで。彼らのアーティスト活動にプロデューサーの僕はお役に立てなかった。でも葛谷さんと川口さんは現在作曲家として僕の仕事には欠かせない仲間になっています。それはあのときに僕なりに、決してスマートではなかったかもしれないけれども、一所懸命に向き合ったからこそ今も応えてくれているのかなと思うんです。そう自分で信じたいだけなのかもしれないですけど(笑)。

−−いや、アーティストとの素晴らしい関係が築けていますよね。

松尾:当時、口の悪い人からは「ヒットが出るかどうか分からないアルバムをコツコツ作るよりは、もう早めに切り上げて、もっとヒットポテンシャルの高いものをやればいいのに」と言われました。他にもたくさんお声がかかっていましたから。でも、そう言われても僕の心が動かなければ。こんなタイアップが決まっていて、事務所も大きいし、みたいな、葛谷さんや川口さんにないものを目の前にダーッと並べられても、全然心が動きませんでした。そういう意味ではアーティストとの付き合いって恋愛と似ていますよね。本当に好きで付き合ったのであればとことん付き合うわけです。

−−高スペックをいくら並べられても、恋した心は動かない。

松尾:桂冠詩人のアルフレッド・テニスンが「恋をして恋を失った方が、一度も恋をしないよりましである」って言ってます。自分が好きでやったことは、失敗しても学びが大きいですからね。人の顔色を見ながら「売れるかも」と思ってやって、それで売れなかったときは本当に自己嫌悪になっちゃいますが、好きでやったうえでの失敗は反省の材料になります。

−−それをまた次の作品で活かせるわけですから、プロデューサーというのは幸せな仕事ですね。

松尾:ただ、赤字を出さない程度の数字は残さないと(笑)。若い人たちに「続けるコツはありますか?」と訊かれたときにきまって言うのは、大勝ちしなくても良いけど、とにかく負けないゲームを続けるというのがプロとしては最低限必要、ということです。負けなければ次の試合に繋がる。それがサスペンデッドゲームでももう1回試合ができるじゃないですか。

−−そして、すべての経験に回り道はないと。

松尾:はい。すべてのことに意味はあるのだと確信しています。

−−本日はお忙しい中、ありがとうございました。松尾さんの益々のご活躍をお祈りしております。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

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