第129回 中村 力丸 氏 株式会社八大コーポレーション 代表取締役
中村 力丸 氏 株式会社八大コーポレーション 代表取締役
今回の「Musicman’s RELAY」は松尾潔さんからのご紹介で、(株)八大コーポレーション 代表取締役 中村力丸さんのご登場です。「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」「明日があるさ」「黒い花びら」「黄昏のビギン」など数々の名曲を手掛けられた作曲家 中村八大さんの長男として生まれた中村力丸さんは、将来を模索される中で、ひょんなことから音楽業界に身を投じられます。以後、音楽出版社で仕事をされつつ、八大さんの死後は(株)八大コーポレーションも兼務され、まさに二足のわらじ状態で奮闘されます。現在は、八大さんの楽曲の著作権管理をされつつ、多くのプロジェクトを通じて、稀代の作曲家「中村八大」の作品の魅力を日本国内ならず世界へ発信されている力丸さんに、ご自身の生い立ちから、父・中村八大さんの素顔、その創作に込められた想い、そして今後のプロジェクトについてまでお話を伺いました。
プロフィール
中村 力丸(なかむら・りきまる)
株式会社八大コーポレーション 代表取締役
1963年6月8日生れ
1971年 青山学院初等部入学
1982年 青山学院大学法学部入学
1986年 同学部卒業後(株)サウンドクラフト系列の音楽出版社(株)ミュージクラフト勤務
1992年 父親の他界を契機に同社勤務を続けながら(株)八大コーポレーション代表取締役就任
1998年4月 (株)サウンドクラフト退社
1998年7月 イーエムアイ音楽出版(株)入社
1999年 イーエムアイ音楽出版から(株)フジパシフィック音楽出版へ
2010年12月末 (株)フジパシフィック音楽出版退社 現在に至る
- “「こんにちは赤ちゃん」の赤ちゃん”
- 洋楽にのめり込んだ思春期
- 音楽に心身共に捧げた父・中村八大との約束
- 八大コーポレーションとの二足のわらじ〜中村八大さんの権利意識
- 永六輔さんからのハードルの高い案件「おまかせ」
- 音楽出版の本流で仕事をしてみたい
- 「明日があるさ」リバイバルヒットを次へ繋げる
- 尽きせぬ「上を向いて歩こう」探求〜次の時代への決意
1. “「こんにちは赤ちゃん」の赤ちゃん”
−−松尾潔さんとお知り合いになったきっかけは何だったんですか?
中村:コルネイユというアーティストが2007年に出したアルバムに「上を向いて歩こう」のカバー・バージョンを収録することになりまして、そのときのプロデューサーが松尾さんでした。レコード会社からオファーが来て、話が整った段階で、松尾さんから「スタジオに是非来てください」とお声がけを頂きました。普通、カバー録音の許諾についてご連絡を頂く場合、事務的な話だけで終わり、現場のプロデューサーの方からお声をかけていただくことはめったにないので「光栄だな」と思い、スタジオへ伺いました。
それまでの松尾さんに対する印象といえば、沢山目にしていたブラック・ミュージックについて書かれているライナー・ノーツや原稿などから「普段はあまりご一緒することがない方なのかな」という勝手なイメージを持っていました(笑)。多分、松尾さんもそうだったと思いますが、お互いにいい意味でイメージが違っていたのではないでしょうか?松尾さんはとても丁寧で、当たりも柔らかい方ですが、根本的には男っぽい、骨っぽい方でいらっしゃいますよね。スタジオでの話はすごく弾みましたし、その後も親しくお付き合いをさせていただいています。
特に去年は、松尾さんがデューク・エイセスさんの「友よさらば」と「生きるものの歌」をプロデュースされて、「生きるものの歌」は永六輔作詞・中村八大作曲の曲ですし、ディーク・エイセスさんとも長くお付き合いさせていただいていることもあって、私も録音の現場に立ち会っていました。「生きるものの歌」は、もともとは永六輔さんが歌われた曲で、曲間に語りの部分があるんですが、「今回も永さんご本人にお願いしてみよう」という話になり、私が永さんにお願いする役割をいただきました。幸いにもご快諾いただいて、21世紀の新テイクを録らせていただくことができました。
−−仕事場での松尾さんのお仕事ぶりはいかがでしたか?
中村:スタジオへ伺うとミュージシャンの方やスタッフの方とのチームが常に完全に練り上がっていて、そのチームを統率されている姿がプロフェショナルだなと感心させられます。チームの皆様の相互の信頼が伝わってくるのです。
−−ここからは中村さんご自身のお話を伺いたいのですが、お生まれは東京ですか?
中村:はい。1963年6月8日に東京の逓信病院で生まれました。私は長男で、妹が3人おります。父の作品で言いますと、「黒い花びら」が1959年、「上を向いて歩こう」が1961年、その年から「夢であいましょう」が始まっていますから、とにかく父が忙しいときに私は生まれています。
父が結婚したときの年齢は31才で、当時は「八大さんがようやく結婚したよ」と仲間内で囃されていたそうです(笑)。その翌年に私が生まれているので、「赤ちゃんが生まれた!」という話題でまた盛り上がっていたと聞いています。
私が生まれた直後に、永さんが父と一緒に病院へいらしたのですが、ガラス越しに私を見る父の様子とか、父が口ずさんでいたメロディーから発展してできたのが「こんにちは赤ちゃん」です。だから、私は「こんにちは赤ちゃん」の赤ちゃんなんです(笑)。
−−あの曲のインスピレーションになった赤ちゃんが力丸さんなんですね。
中村:きっかけにはなりました。赤ちゃんの頃はそれなりに可愛かったと言われるので許してください(笑)。数字には縁があるようで、生まれた6月8日はそのまま「六・八」の日です。また、その日は土曜日で「夢であいましょう」の生放送の日でした。、その日の放送の映像は残っていますが、特集が「『上を向いて歩こう』が世界で流行っているらしいよ」という(笑)。実際に6月8日付のビルボード・チャートで2位、1週間後の6月15日付で1位になり、3週連続1位という、皆さんもご存じの「SUKIYAKI」の話になるんです。
−−とにかく素晴らしいタイミングでお生まれになったんですね。
中村:そうですね(笑)。「こんにちは赤ちゃん」がヒットしたので、梓みちよさんと一緒に写っている写真がたくさんあるのも嬉しいです。その翌年の1964年から1年間、父はニューヨークに移住します。
−−それは家族全員でニューヨークに行かれたんですか?
中村:ええ。父と母と私で。ニューヨークに渡ったのが7月なんですが、10月に妹が生まれていますから、母はかなりお腹が大きい段階でニューヨークへ行っています。ですから、ベビーシッター的な役割で母の妹も一緒に行きました。私にとって大切な叔母です。
−−ニューヨークはマンハッタンに住んでいらしたんですか?
中村:そうです。マンハッタンの真ん中で。
−−今のニューヨークとは価値が全然違いますよね。
中村:そもそも海外旅行ですら当時は普通に行けないですよね。レートは360円の固定、外貨の持ち出し制限が厳しかったと聞いています。普通ではあり得ないプランが実現したのは、父を育ててくださった渡辺晋さんを始めとする仲間の方たちと、当時の東芝音楽の石坂範一郎さんを始めとするネットワークに支えていただいていたからです。ニューヨークへは父の意志で行っているんですが、その意志とは何だったかというと、「もっと音楽の勉強をしたい」という想いで、そういう気持ちを常に持っていた人でした。
帰国後、父が独身時代から住んでいた三田の東急アパートに戻りますが、事務所も兼ねていたので色々な人が出入りして、業界的な華やかなさと賑やかさのあった家だったと聞いています。でも、両親は「普通の家庭にしないと」と思ったのでしょう、馬込の家に引っ越すことになります。
2. 洋楽にのめり込んだ思春期
−−力丸さんも妹さんたちもピアノを習われたりしたんですか?
中村:私の知る限り、音楽を職業とされているご家庭には、非常に深く音楽教育をされる方と、放任される方と両極端だったりするのですが、中村家は完全に後者でした。音楽に限らないのですが、「○○しなさい」といったことは言われなかったです。ただ、私が小学校低学年の頃に、ピアノの先生が家にいらして、兄妹全員で一斉に習い出したことがあります。レッスンに行きなさいというよりも、そういう場を設けてくれた。せーので初めて、一番最初に脱落したのが私です(笑)。一回くらい発表会をやった記憶はあるのですが。結局、ピアノが好きな妹はレッスンを続けていましたが、プロになった子供はいません。
ただし、もし誰かがプロを志したとすれば、父は徹底的に教育をしてくれたと思います。だからこそ、強要すると言いますか「止めちゃダメだ」みたいなことは一切言われたことがないです。父が亡くなる直前、お見舞いの帰りの車中で、母に「仮にあなたにお父さんみたいな音楽の才能があって、音楽の道を志したとしても、必ずそこで苦しむことになる。努力が必ずしも報われるとは限らない世界から解放されているのだから才能がなくても良かったと、両親揃って思っている」と言われました。
−−それはすごく難しい問題ですよね。
中村:ほとんど例外なく、初対面の方に「あなたはピアノを弾くんですか?」と訊かれます。やはり若い男の子にとっては心地よい質問ではないですよね。もちろん今は気にしていませんが。ただ大勢の方に同じ質問をされると、私の方でも定点観測ができるんですね。「弾けません」「弾きません」とか答えは微妙に変えたりして。答えたときの相手のリアクションで、こちらもその方の情報が得られます(笑)。
−−それだけさんざん訊かれるご質問だったと。
中村:はい。結構な量のデータが蓄積されています(笑)。
−−音楽自体はお好きだったんですか?
中村:小学校3、4年くらいになると、ラジオを聴くのが流行ると言いますか、オトナっぽくて格好良く感じるんですね。当時のラジオはすごく影響力がありました。それでラジオを聴き出すと、沢山の洋楽が流れていて、それくらいの年齢ですから分かりやすい曲に反応するわけです。例えば、カーペンターズとかサイモン&ガーファンクルとか、そういう音楽が流れている。そうすると、我が家ではすぐにアクセスできるんです。
−−ご自宅にたくさんレコードがあるからですか?
中村:そうです(笑)。レコードもありましたが、当時は資料用にカセットテープのベスト盤等がたくさんありました。そしてすぐにビートルズに辿りつきます。小学校5年くらいからは「ビートルズ小僧」になりました。妹たちも音楽の趣味はバラバラで、いわゆるニューミュージックが好きな子もいましたし、マイケル・ジャクソンが好きとか、ピアノが好きだった子はクラシックを聴いていたり。そういったことも含めてとても寛容でした。
−−ビートルズはもちろん後追いですよね。
中村:はい。ビートルズが一瞬格好いいものではないとされた時代があって、そのあとにビートルズ再評価が起こった、まさにその世代ですね。ビートルズって当時はとても盛り上がっていましたよ。中学生くらいになると女の子はベイ・シティ・ローラーズやクイーンが好きになって、その後、誰もがイーグルスやビリー・ジョエルを聴くとか、そういった世代です。
もう一つ大きかったのが、小学校6年のときに「モンティ・パイソン」が放映されて。「モンティ・パイソン」は就寝時間が過ぎても特別に観て良かったんですよ(笑)。「モンティ・パイソン」を両親と並んで観ていた想い出があります。
−−家族並んで「モンティ・パイソン」ですか(笑)。
中村:あの時代、「モンティ・パイソン」を観ていた人はたくさんいると思うんですが、親子で観ていた人はあまりいないと思います(笑)。「モンティ・パイソン」は子供には刺激の強いネタもあったので、親子でお互いに恥ずかしいみたいなところもありました。今から考えると情操教育的にもよかったのかな・・・と(笑)。
−−八大さんはご自宅で音楽を聴かないんですか?
中村:印象的なのは、大河ドラマの放送1回目です。必ず、どなたが音楽を担当されて、どのような曲が流れるのか聴いていました。でも、ジャズやクラシックの特定の演奏家の録音をコレクションするとか、そういったことはなかったですね。恐らく、再生しなくてもいいくらい覚えているんですよね。実際に父が他界したあとに前田憲男先生と話をさせていただいたときに、「あ、先生も全て覚えているんだな」と感じました。プロの耳は凄いなと思います。むしろ今ではコンサートを観に行っていた印象の方が強いですね。記録を見ますとクラシックのコンサート、バレエ、オペラ、ミュージカル、ポップスと、幅広く足を運んでいました。
−−思春期の力丸さんはどんなお子さんだったんですか?
中村:扱いづらいといいますか(笑)、神経質でした。サッカーや柔道など運動系のクラブにも入っていて、それなりに楽しんではいましたが。
例えば、中学くらいですとパスケースを大きくしたような透明の下敷きに、友達は昭和のアイドル的なタレントさんのブロマイドなどを入れていたんですが、私はケイト・ブッシュを入れていました(笑)。彼女は私にとってはアイドルでもあるのです。とにかく洋楽のヒット曲や話題の曲が毎月のようにリリースされて、ラジオで流れ、街を歩いていても流れてきました。もちろん欲しいレコードが全て手に入るはずはなく、父の仕事場のチューナーとカセットデッキで、一生懸命エアチェックしていました。
−−あとレコードの貸し借りとか。
中村:そうですね。貸した方は覚えているけれど、貸してもらった方は覚えていないという(笑)。そして高校くらいになるとさらに領域が広がって、プログレとかニューウェーブ方面にファンク・ミュージック、そして日本のロックとか、どんどん広がる一方でした。
3. 音楽に心身共に捧げた父・中村八大との約束
−−父親としての中村八大さんはどのような方だったんでしょうか?
中村:我が家は静かな普通の家庭だったんですが、それでも父の仕事は不規則な生活を強いるものでしたから、学校から帰ってくると、入れ違いで父が出かけていく、あるいは譜面を書いたりする仕事はどうしても夜になるので、私が寝る頃には仕事をしていて、朝早く起きると、ウイスキーと山のようなタバコの吸い殻が残っているという感じでした。これは花瓶なのですが、父が灰皿に使っていて、上に来るまで吸い殻が積み重なるんですよ
−−そんなにタバコを吸われたんですか。
中村:一日3〜4箱吸っていたんじゃないでしょうか。この灰皿はとても懐かしいので捨てられないんです。ある意味すれ違いの生活でした。毎日同じ時間に家を出て、帰ってきて、家で晩酌という生活では当然ないですし、日曜日だからといって休みでもない。その分、時間が空いているときは徹底的に優しい親でいてくれました。
よく映画に連れていってもらいましたし、大晦日は私が風呂掃除をして、その後に必ず一緒に入るなど思い出すことは沢山あります。小学校四年のときに、私が歴史好きで「お城を見たい」と言ったら、姫路城から大阪城、そして岐阜城から犬山城を見て帰ってくる旅行に連れていってくれたりもしました。本当にそういうことに関しては気を配ってくれていたと思いますし、母も上手にサポートしてくれました。そう言えば高校のときには「夜遊び」に連れていってくれたりもしましたね。
−−夜遊びですか?!
中村:ブラジル料理をご馳走してくれて、赤坂の「MUGEN」に連れていってくれたんですよね(笑)。「いいのかな?」みたいな(笑)。
−−親が「MUGEN」に連れていってくれるってすごいですよね(笑)。
中村:その頃にはブラック・ミュージックも多少聴いていたりしたので「面白いところがあるよ」って感じでしたね。
−−中村八大さんには恐いところはなかったんですか?
中村:生活態度の根っこのところで酷いことをしたとき以外では怒られたことはないですが、怒られたらそれは怖かったですよ。病気療養も含めて不在のときが多かったのですが、その分、家にいるときはすごく優しい父親でしたね。
−−お父さんにとっても一番心が安らぐ時間だったかもしれないですね。
中村:そうであったら良いのですが。
−−ちなみにお父さんが偉大な存在だといつ頃気づかれたんですか?
中村:自分で自覚する以前に幼い頃から「君のお父さんは偉大なんだ」って、周りからは常に言われていました。でも、それは功績があるから偉いのか、テレビに出ている著名人だから偉いのか、あるいは本質的なところでの生き方に触れているのか、そういうことはだんだん分かってくるんです。
家では、仕事上の父は見えないですよね? 基本的には仕事場で作曲や編曲をしているか、外に行って仕事をするわけですから、忙しいことや大変そうなことしか判らない。一方で、コンサートなど晴れの舞台に立ち会うときもあるわけで、そのときには子供のレベルでも「偉い」って分かります。でも、大人になってからわかること、亡くなってから初めてわかること、そういったことには終わりが無いです。「父は偉大なのだな」という気持ちは今こそ続いています。
−−歴史が物語ってくることもあるでしょうしね。
中村:ええ。分かれば分かるほど、次に知りたいことは増えていくので。ただ一番大きいなと思うのは、父は本当に音楽に心身共に捧げたことを実感できたときです。いつとは明確に言えないのですが、その像が定まってきて。ですから「君はそんなことも生きているときには分かっていなかったのか」と言われれば、その通り。本当の意味では分かっていなかったのだと思います。
−−なかなか客観的には見られないですよね。
中村:難しいです。実はまだ何も分かっていないのかもしれない。その問いは延々続いていますよね。
−−ある意味、神から選ばれた存在だったということですよね。
中村:神から選ばれた存在かもしれないけれど、自分で志を持って、自分がやりたいことをやれたということに対しての納得と感謝があったことだけは確かだと思います。父は「成人するまでは面倒を見る。成人したら自立しなさい」とよく言っていたのですが、そういった話のときに必ず「自分は、自分がやりたい、やろうと決めたことをやれた。だからこんな幸せなことはない」と話してくれました。だから、「成人したら自立しなさい」というのは「私はこれです」というものを見つけなさいということで、父のいいつけは本当にそれだけなんです。でも、それを見つけるのが大変なのです。
−−普通はなかなか見つけられないものですよね。
中村:私は青学の付属で大学まで気楽に来て、受験もなく良い経験を沢山させてもらいました。ただ大学になると、大勢の友人には恵まれましたが、あとは本当に無為に時間を過ごしていたように思えます。そして、卒業を控えた時期に「私はこうして生きていきます」とステートメントを出さなくてはいけない。でも、出ない。
−−(笑)。
中村:出せない。そして、出すものがないから余計に父と話すときに構えてしまう。例えば朝ご飯を食べているとして、そのあとにお茶でも飲みながら普通に話せばいいのに「その話はお昼ご飯のあとに」とかアポを取って、昼に父のもとへ行く。父は気を遣ってくれて、普段はそのようには振る舞わないのに父親然として座って待っていて、母もお茶を出してくれたりして、余計に気まずくなったり(笑)。今から考えると両親とも良く付き合ってくれたものです。
そこで何を話すかと言えば、漠然とした話をして・・・。教職課程は取っていて、嫌いではなかったので、「教員採用試験を受けてみる」とか、嘘でもないけれど言い訳ですよね。何かはっきりしない。
当時はいわゆるバブル前夜といった感じで、世の中ちょっと嫌な感じになってきて、財テクなんて言葉が流行っていたんです。たまたまテレビでそういったことをやっていて、何気なく「うちは財テクみたいなことしているの?」と訊いたら、すごく怒られました。情けなかったんだと思います。本業以外で財テクみたいなことを考えることが情けないと。口には出しませんでしたが。親として子供が「これだ」と思うものを見つけられない人生は寂しいと思っていたのでしょう。親心として寂しい人生は送らせたくないと。父は良いことも悪いこともたくさんあったけれど、自分で選択した道に進んで、人生を歩んでいる実感がある。それは音楽の道だったけれど、もちろん音楽ではなくてもいい。好きなことをやって自分で責任を取る人生ではなく、流されてあとになって悔やむ人生を歩むのは不憫だったんじゃないですかね。
−−なるほど・・・。
中村:父は5人兄弟の4番目なんですが、長兄に中村二大(じだい)さんという面白い伯父さんがいました。何をしているかよく分からないけど、顔が広くて、嫌われずにふわーっと生きている人っているじゃないですか?(笑)最近はあまり見かけないタイプですけど。まさにそういう伯父さんで、不思議な魅力がある人でした。そもそも早稲田大学で渡辺晋さんに父を紹介した人でもあります。その伯父さんとPA業界の重鎮 サウンドクラフト(現:エス・シー・アライアンス)の八幡泰彦さんが仲良くされていて。ご存じの通りサウンドクラフトは音響会社なのですが系列に音楽出版社があって、そこで人を探しているという話が来るんですね。
私自身「音楽業界で働きたい」という気持ちは全然持っていませんでした。父も同様で、万が一に備えて自分が紹介できる会社を書いたメモを後年見つけたんですが(笑)、そこには音楽業界の会社は一つもありませんでした。
ただ、その話を聞いたときに「音楽出版」という言葉にすごく引っかかったんです。直観的なものではあったのですが、言葉が響いたというのでしょうか。そのときに「できる」とか「できない」ではなくて、「やってみよう」と思えたのです。そして八幡さんにご紹介をいただいて、サウンドクラフトの系列会社のミュージクラフトという音楽出版社でアルバイトを始めて、そのまま正社員になりました。
4. 八大コーポレーションとの二足のわらじ〜中村八大さんの権利意識
−−ミュージクラフトはどのような会社だったんですか?
中村:基本的に海外のライブラリー・ミュージックを扱う会社です。ライブラリー・ミュージックは、プロの現場で必要になる音楽を直ぐに使えるようにストックしてあるカタログのことです。やはりヨーロッパで発達して、当時のイギリスの大手3社の内の1社とダイレクトに契約していました。サブ・パブリッシャーとして著作権を管理し、同時に原盤のライセンスもしていくというビジネスです。当然レコードをプレスしてたくさん売ろうという発想ではありません。プロフェッショナルの現場にダイレクトにプロモーションをして、テレビや映画、ビデオパッケージなどに使ってもらい、使用料をいただくという仕事でした。
最初は何も分かりません。まさにルート営業で、カバンにLPやCDを詰め込んで、得意先を回っていました。放送局さんにはもちろん出向いて行きましたし、いわゆる音効さんと言われる方たちにも営業周りをします。音効さんには色々な出自の方がいらして、映画の世界で巨匠と称されるような方から、全然違う業種から商売として参入されてきた方まで、とにかく多彩な方がいて非常に勉強になりました。
−−下積み生活ですね。
中村:下積みというか、本当に良い経験ですよね。LPやCDは時事報道向けとか、ロマンチックなテーマ音楽とか、各楽器のソロとか、ジャンルごとに編集されているのですが、とにかく自分のカバンに入っているものの中身は知っておこうと、全曲を一度は聴くようにしていました。自分の好みなどは一切無縁に、あらゆるジャンルの音楽を聴けたことは、今すごく役に立っています。
−−八大コーポレーションのお仕事をされるようになったのはいつからですか?
中村: 1992年6月10日に父が他界しました。これが契機となりました。もともと1950年代から中村音楽事務所という事務所が存続していたのですが、1986年に父が心機一転、従来の事務所を発展させる形で、八大コーポレーションという株式会社を立ち上げました。但し、そのときは私は直接関係していませんでした。
これは、父に訊いたことではないのでよく分からない話なのですが、八大コーポレーションを設立するときに、私も少数の保有ですが株主になっていました。それこそ「自分はこうして生きていく」というステートメントを出すということが約束だったので、「会社を頼むぞ」なんて言われたことはないですし、多分そういう発想はなかったと思います。なかったのだけど、これはどういうことなのだろう?と。
−−法務上、取締役を立てなきゃいけないみたいな感じだったんじゃないでしょうか?
中村:いや、私は取締役ではありませんでした。また他に出資してくださった方もいらっしゃいましたから。
−−お気持ちはあったということですかね。
中村:分からないです。私もこういうインタビューをいただかなければ、こんなことを考えないんですが、どういう意味があったのだろうかと、少しだけ思います。ただ、引き継いだときは全くの白紙に近い状態でした。当時の八大コーポレーションはプロダクション業務をメインとしていました。父が作編曲をするとか、ピアノ演奏をするとか、ギャランティ・ベースでやっていたので、あれだけ病気をしていると当然会社も苦しくなるわけです。会社の財政状況は見事にフラットでした。大きな借金もないですし、銀行にお金もない(笑)。これはちょっと信じられないかもしれないですけど、本当のことだったのです。
−−何十億円というお金が残っていると勝手に思っていました。
中村:当時の税理士さんから「どこかに金の延べ棒があるんじゃないか?」と言われました(笑)。
−−海外にあるとか(笑)。
中村:あったらいいのですが(笑)。ほとんどの方にそうは思われないので、もう慣れているのですけど、シビアですよ。しかもタレント本人がいなくなってしまったので、マネージャーさんたちに残っていただくのも現実的ではない。では、事務所としてやるべきことがないのか? と言ったら、ないはずもないだろうと。実はやるべき仕事は後からたくさん出てくるのですが、私も音楽業界にいたこともあり、私がやらせていただくことになりました。当時のスタッフの方たちも、「これからは力丸さんにやっていただくのが良いと思う」と快くおっしゃって下さいました。
また、勤めていたミュージクラフトでも、「それは君の家業だろう」と事情を理解していただけました。その頃には、契約などの仕事も含めて業務全般を任せていただくようになっていたこともあって、有り難いことに「会社は辞めないで」とも言っていただいて。結果、両方やらせていただくことになったんです。そして、八大コーポレーションの仕事を実際に行い始めてから、著作権の録音権自己管理についてリアルに分かったんです。もちろん全く知らなかったわけではないですが、それまでは直接携わっていませんから、どんなライセンスをして、どれだけの実態があるのかということは、自分が携わってみて初めて分かったことでした。そうすると、「エーッ?!」みたいな話がたくさんありまして・・・(笑)。
−−高名な方で著作権を自己管理されているというのは、あまり聞いたことがないです。
中村:ある意味、専属楽曲もそうじゃないですか。自己管理していたのがレコード会社なだけであって。もちろん、いわゆるレコード会社の専属作家の方たちと父とでは出自が違いますけれど。かといって、今みたいに、音楽出版社がたくさんある時代の話でもないので、そういう意味で父が録音権の自己管理をしてきたということは、私としてはむしろしっくりくるんですね。時代状況を検証するとそうだろうなと思います。
当時の父は作曲家としては新人だったけれど、その以前からジャスプレイヤーとしてのキャリアがあったわけで、長い間音楽の世界を見ていますし、当然ブレーンというか、助言などもいただいている訳です。そのような状況の中で、録音権を自己管理して、レコード会社などに直接ライセンスしていたと分かったんですね。
−−ということは、永さんの作詞の方も同じですよね。
中村:そうです。現在は詞曲共に、当社でライセンスをさせていただいています。現在の水準から振り返ってみると、これまで自己管理を継続してきたことに一定の意義はあると認識しています。そして、何といっても日本人の遵法精神の高さに支えられて成り立っていることを痛感しています。
−−きちんとした権利意識を、八大さんは当時からお持ちだったということですよね。
中村:今だと「なるほど」と思えます。ただ、引き継いだ時点では「どうやって対処すれば良いのだろう?」という事例にぶつかっても、それこそ教えてくれる人もいないですし、訊く人もいないので、無手勝流、自分でやり始めるしかないんですよね。
5. 永六輔さんからのハードルの高い案件「おまかせ」
−−八大コーポレーションでの最初のお仕事は何だったんですか?
中村:父の香典返しです。
−−香典返し、ですか?
中村:はい。母が「香典返しはお父さんらしくて、気の利いたものが良いわね」と。それで父の演奏を収めたCDを香典返しにしようという話になったんです。納期は四十九日まで。そこで原盤をお借りしてきて、著作権の利用申請もして、プレスに廻して(笑)。
−−それが最初の仕事ですか(笑)。
中村:はい(笑)。そこでデザインとか、中には写真集などを入れたのですが、そういう刷り物の方が時間かかることなど覚えたりして(笑)。幸いなことにこの香典返しはすごく好評をいただきました。当時はCDの香典返しって新鮮でしたし、気が利いていたのかな?。
−−いや、頂いたらすごく嬉しいですよ。
中村:すると、その後の一回忌から、三回忌、七回忌、十三回忌って、全部作らなくてはいけなくなって、だんだんとネタ切れに(笑)。でも、今でも作っていますよ。
−−中村さんから見て、永さんと八大さんのご関係ってどういう風に見えていましたか?
中村:私が子どもの頃から、永さんはとにかく父や我々家族に対して気を遣ってくださる方、もちろん、テレビやラジオによく出てくる有名な方でもあるのですが。ときどき食事をご一緒したりとか、旅行などの機会があると、「何食べる?」「あそこへ行くと良いよ」とか、それは丁寧なアドヴァイスをいただいたりしていました(笑)。
−−親戚のおじさんみたいな。
中村:いやいや、そんな近い距離感ではないですよ。父の仕事上の大切な方であり、とにかく父のことを大事にしてくださる方です。
−−永さんと八大さんは親友という関係性なんでしょうか?
中村:もちろん。但しその以前に先輩後輩という関係ですよね。永さんは早稲田大学で父の2つ下の後輩に当たります。とにかく永さんはいつも気を遣って、父を立ててくださって。それは今も変わりません。父が亡くなった6月10日のお昼頃に永さんが病院へ立ち寄ってくださって、「永です。八大さん、これからコンサートの現場へ行って参ります」と、父も一緒に出演する予定であった現場へ向かわれて。永さんがその舞台に立たれているときに父は他界しました。
−−その最後のご挨拶のときに、八大さんの意識はあったんですか?
中村:聞こえていました。その晩に、永さんから「君が頑張らなきゃダメだよ」と仰っていただきました。永さんからの父への想いを背景に、まだ一人前ではない私を本当にサポートしてくださいました。ですから、早く永さんから信用を得たいという気持ちで一杯でした。そうして自分なりに努力していると、永さんからは、永さん特有の仰り方で、色々な案件に対して「おまかせ」というご返事をいただけるようになるのです。でも、その「おまかせ」というのは、「私は八大さんを信用しているから、君に任せているんだよ」という、すごくハードルが高い意味合いなんです。
−−プレッシャーがかかりますね(笑)。
中村:もちろん、永さんから「おまかせ」という言葉をいただける以上のプレッシャーもないけれど、プレジャーもないですよね。だから、もうそのお言葉がどれだけ支えになっているか。永さんはそういうことも全部踏まえて「おまかせ」と言ってくださるんです。ですから、私はベストを尽くす、それしか手立てはないのです。
−−30歳を迎える直前に大転機ですね。
中村:そうですね。不思議なことですが、そういう風に意識が変わると、人とばったり出会うことが増えるんです。それも、後から振り返ると、そのときに会うべくして会ったベストなタイミングという感じで。
−−それはお父さん譲りじゃないですか? 永さんと八大さんの出会いのように。
中村:二人が日劇の前でバッタリと出会ったという話もそうだと思いますが、やはり物事に対してリアルになると視界が広がるのではないでしょうか?。実際にそういう体験を重ねると、そのときに生じた偶然が、実はすばらしい必然であったのだと思えてくる。それに困っていると、そこにピッタリと助けてくれる人が現れるというか、誰かが紹介してくれるのです。「だったら、こういう人がいるよ」と。
−−人が引き寄せられてくる。
中村:本当に不思議です。そういう人たちによって助けていただくと、自分の視界やフィールドが広がっていくんですね。本当に一人では何もできません。もちろん、著作権の話も含めて、常に時代を見ていかなくてはいけないなと思っています。何だって良いことも悪いこともある。ただ先ほどの録音権の自己管理については、効率という単一の観点から言えば、それは効率的ではありません。一件、一件対応するわけですし、相場はあっても定価をつけているものではありません。無償で許諾するケースもあります。頂いたお話ごとに判断をさせていただいているわけですね。
6. 音楽出版の本流で仕事をしてみたい
−−イーエムアイ音楽出版に移られるきっかけはなんだったんですか?
中村: 1994年に4PMがカバーした「SUKIYAKI」がRIAA(全米レコード協会)認定のゴールドディスクをいただけることになりました。ゴールドディスクは、昔は基本的にアーティストにしか出さなかったんですが、その頃には音楽出版者・作詞者・作曲者にもいだけるようになっていました。もちろん、九さんのヒットが一番歴史的な価値があることに変わりはありません。
録音権の自己管理は日本国内の話で、海外について「SUKIYAKI」は、EMI MUSICが管理しています。そして「この受賞は非常に名誉なことなので」と当時イーエムアイ音楽出版の社長でいらした佐々木南海彦さんが、永さんと私の母を招待してくださったのです。ただ、永さんのスケジュールが合わず、名代みたいな形で私もくっついて(笑)、ニューヨークにあるEMI MUSICのオフィスへ伺いました。
この年には、ゼルダのサヨコさんのソロプロジェクトで「上を向いて歩こう」のカバーをしていただきましたが、そのときにプロデュースをされていたファイブ・ディーの佐藤剛さんと出会っています。その後に繋がる出会いがあった年でした。「SUKIYAKI」には海外含めてエピソードは山ほどあって、語り出すと時間が幾らあっても足りないくらいです(笑)。
−−本当にたくさんエピソードがありそうですよね(笑)。
中村:結構難しい話もあるんですよ。ラップで滅茶苦茶悪い言葉に無断改変されて使われてしまったけど、それが既にヒットしていてどうしよう、とか。
−−それは困りますね・・・。
中村:その対応も最初は自分で考えるしかない訳です。恐らくはそういった姿勢が佐々木さんに面白がられて、1998年に「イーエムアイ音楽出版に来ませんか?」というお話をいただくくことになったと思います。その頃にはミュージクラフトではほとんど総ての業務について任せていただいていたのですが、抱えていた競合先とのトラブル案件なども片付いて、今までがむしゃらにやっていた流れが、少しだけ収まってしまった感じがあったんですね。とても悩んだのですが、そもそも「音楽出版」という言葉が引っかかって、その言葉によって現在があるとするならば、やはり音楽出版の本流で仕事をしてみたいと思い、イーエムアイ音楽出版にお世話になることを決断しました。八大コーポレーションがあることは前提としていただいて1998年7月にイーエムアイ音楽出版へ移りました。
−−イーエムアイ音楽出版でも営業をされたんですか?
中村:そこからはガラッと変わって、邦楽の管理部門に就きます。当初はまず使われている用語から分からないみたいな状態でした。もちろん「SUKIYAKI」の件を始め、それまでにお付き合いをいただいていたこともあって、知っている方もたくさんいらして、とにかくフラットに、やさしく接してもらいました。私はそういう環境の中でゼロから教えてもらいながら、仕事をしていました。
そして、翌年の1999年の4月には結婚をしまして、6月に新婚旅行へ行ったんですよ。ところが帰って来ると「新婚旅行へ行っている場合じゃないですよ」みたいな話になっていて(笑)。何か社内が落ち着かない雰囲気で、そうこうしているうちに「どうも会社がなくなっちゃうらしい」とか「売られるんじゃないか」とか色々な噂が耳に入ってきました。そして、フジパシフィック音楽出版(現:フジパシフィックミュージック)とEMI Musicとの間でディールが成立して。日本国内についてEMIのカタログはフジパシフィック音楽出版がマネージメントをすることになりました。それに伴って、私は1年3ヶ月でイーエムアイ音楽出版から解雇されました。もっとも私だけではありません、社員全員でした。
−−社員は何人いらっしゃったんですか?
中村:20人程度の規模でした。ただ、私が所属していた管理部のスタッフは全員フジパシフィック音楽出版に移ることになり、私はその舩に乗っていて10月1日からお世話になることになりました。私からすると、ただでさえ右も左も分からない状態だったのに、気がつくと朝妻一郎さん率いる日本最大手の音楽出版社にいることになってしまって・・・(笑)。
−−気がついたらフジパシに辿り着いていたと(笑)。
中村:緊張しました。結果としては私のこれまでのキャリアの中でも最も重要で、恵まれた経験となりましたが、音楽出版の業務はある程度勤めないと本当にできないものなのです。つまり個々のディールについて、その成り立ちの背景を知っていないとならない。「なぜそうなったのか?」というストーリーも含めて、カタログというものを把握していないと無理で、さすがに1年3ヶ月では・・・と思ったのですが、そんな言い訳もできないですからね。ここでも多くの方のご協力をいただきながら何とか業務を進めることはできましたが、それでもことが起きれば、知っていようが知るまいが、自分なりに取り組むしかないのです。
−−中村さんは常にそんな感じですよね(笑)。やらざるを得ないというか、自分で切り開くしかない状況に身を置かれて・・・。
中村:覚悟を決めると、助けてもらえるのです。また、フジパシフィック音楽出版に移って以降も、イーエムアイ音楽出版の邦楽でも新規の案件がかなりありました。更にフジパシフィック音楽出版本体の業務も担務させていただけるようになり、とにかく仕事には恵まれました。
−−しかも八大コーポレーションの仕事もあるわけですよね。
中村:フジパシフィック音楽出版は忙しい会社としても有名だったのではないでしょうか?八大コーポレーションの仕事との両立は、今の体力では絶対に無理ですね(笑)。もちろん八大コーポレーションにもスタッフは置いているのですが、判断すべきことは全部私がする訳です。
−−ハードな新婚時代ですね。
中村:でも充実していました。フジパシフィック音楽出版で目にした事例やそこで得た知識などは、八大コーポレーションでも活かせる貴重なものですし、八大コーポレーションでお付き合いをさせていただいている方が、フジパシフィック音楽出版の業務の思わぬところで手助けしてくれたりとか、そういうことはたくさんありました。勤務をさせていただいた会社のいずれでも「すいません、ちょっと抜けて八大コーポレーションの打ち合わせへ行かせてもらいます」と言えば出してくれたわけで、本当に感謝しています。お世話になった方々には、恩返ししなくてはいけないという想いは常にありますね。
7. 「明日があるさ」リバイバルヒットを次へ繋げる
−−フジパシ時代はずっと邦楽管理をされていたんですか?
中村:そうです。一貫して管理畑で。フジパシフィック音楽出版の業務もかなり担務させていただきました。そんな中で、2001年にウルフルズさんとRe:Japanというユニットで「明日があるさ」がリバイバルヒットしました。このヒットのきっかけは缶コーヒーのジョージアのCMでした
そのCMプロジェクトには当初から坂本九さんが所属していらしたマナセプロダクションの曲直瀬道枝さんが深く関わっていらっしゃって、「九ちゃんだけじゃなくて八大さんにも、という気持ちがあるの」とおっしゃって下さいました。幸いなことに「明日があるさ」は両アーティスト共に大ヒットしました。父の楽曲でそういう経験は、私が引き継いでからは初めてだったんですね。
−−初めて大ヒットを経験されたわけですね。
中村:はい。先ほどお話したアメリカでのゴールドディスクの受賞ですとか、そういう経験はありましたが、日本国内では初めての経験でした。実はまだその1回しかないのですけれど(笑)。そのときに、初めて八大コーポレーションとしてある程度まとまったお金というものを見ることが出来ました。恐らく、みなさんの思われるような数字より全然桁が少ないです(笑)、でも今までとはちょっと違うなという数字。その数字も、来年はないなと思えるわけです。先達の方の想いがあってのヒットだったので、「このお金は何かに活かさなければいけない」と思い、父の係わった仕事についてのデータベースを作ろうと考えました。実際、遺品や資料が箱に詰まったままだという切実な問題もありました。これらを「きちんと整理しておかないといけない」という使命感も強かったです。
そしてデータベースを内製で作りました。アーカイブ的なところに手を付けたとみれば、かなり早い段階であったと思っています。具体的にはまず有体物に番地をつけて保管したかったんですね。そうしないとどこに何があるか分からないですから。とにかく1個ずつ箱へ入れて、番地を付けて、現在はこの部屋の隣にあるコンテナへ収納する。また、スキャニングで取り込めるものは取り込んでデータベースにしていく。文字情報、記事なども可能な限りテキストにして放り込みました。
−−それは膨大な作業ですよね。
中村:ここでも多くの方のご協力をいただいています。写真などまだ残っているものもあるのですが、基本的に父が残してくれた物などの資料は、一通りこの時期にアーカイブできました。そして2000年代に入るとカバーというものに対する意識が大きく変わったように思います。積極的なアプローチが増えてきた。音楽出版の仕事の本質というのは、楽曲の管理と開発。「良いカバーを作り、広めていくことこそが本分だな」と自分の意識も高まってきました。
そして、「上を向いて歩こう」が創作されてから50年、さらにその2年後の2013年には、全米1位になってから50年という2つのアニバーサリー・イヤーが迫っていました。データベースは日々の業務、例えば番組の取材などには便利に使っていましたし、物の整理も進んではいたのですが、もっと積極的にデータベースを二つのアニバーサリー・イヤーに生かすことはできないか? と思案していました。
そんなときに佐藤剛さんが、父の足跡や「上を向いて歩こう」などの楽曲にまつわるエピソードを1個ずつ探ること自体にすごく価値があるし、やらなくてはいけないことなんだよ、とおっしゃって下さったんです。それは中村力丸のためでも、八大コーポレーションのためでもなく、日本の音楽界のためにやらなくてはいけないことだと力説してくださいました。
−−なるほど。
中村:佐藤さんご自身もJスタンダードという概念を提唱されて活動をなさっていましたし、ご存じの通り大変に情熱のある方なので、お話をしていると引き込まれてしまいます。そして「これって本当はどうだったんだろうね」といった疑問が次から次へ、本当に雪だるま式に膨らんでいきました。そのうちに「本当のことを調べて、まとめて、書籍化すべきだ」と佐藤さんが知っているライターさんを3人くらい紹介してくれるという話になったのですが、「他のライターじゃ駄目だ。佐藤剛が書くのだったら連載にしよう」と提案してくださったのが、スタジオジブリの鈴木敏夫さんです。『熱風』というフリーペーパーで、佐藤さんの連載で我々の研究のアウトプットがスタートしたのが、2010年の初頭でした。
連載に先立つ2009年頃から具体的な作業をスタートしたのですが、そのときにデータベースがとても役に立ちました。既存のデータベースを佐藤さんにお渡して共有しつつ、キーパーソンの方へ一緒にインタビューをさせていただきながら裏を取りました。ただ、作業過程を通じて分かってくることも多いのですが、「でも本当はどうだったんだろう?」というような疑問が更に出てきて、いよいよフジパシフィック音楽出版の仕事と両立することは時間的に限界だなと感じてきました。そして、2010年の末に11年3ヶ月お世話になったフジパシフィック音楽出版を退職させていただくことを願い出て、快く送り出していただきました。
8. 尽きせぬ「上を向いて歩こう」探求〜次の時代への決意
−−フジパシを退職されて、八大さんのお仕事一本に集中されたわけですね。
中村:はい。「熱風」の連載も非常に好評でした。そして東日本大震災があって・・・あの年で印象深いのは、9月9日、また数字の話で坂本九さんの日なのですが、「6・8・9」トリオのコンプリートアルバムを作ろうという話が出て。トリオによる作品数は量的には割と少ないんですよ。
−−そうなんですか。意外です。
中村:CD2枚分くらいしかないんです。それでEMIのスタジオで2チャンのマスターをデジタル化して、多少補正をかけたりしました。その作業のときに、スタジオ環境で九さんの歌声を聴けたのはすごく印象的な出来事でした。またその年は佐藤さんの連載が単行本『上を向いて歩こう』になり、またNHKさんが50分に及ぶ「上を向いて歩こう」のドキュメンタリーを撮ってくださいました。このときも取材に立ち会ってアメリカの西海岸へも行って、調査をしました。
1963年にアメリカで九さんのレコードを発売するきっかけとなった1つの話があって、当時アメリカのキャピトルレコードにデイヴ・デクスター・ジュニアという、大物A&Rがいました。彼の自伝が残っていて、そこに「SUKIYAKI」の件も書いてあります。曰く、フレズノというロスから車で3時間くらいの田舎町でリクエストのあった「SUKIYAKI」という曲が面白いという電話があって、ひっかかったので聴いてみたら「これは何かある」と思ったと。
フレズノってどういう町かというと、日系移民の方が血と汗を流しながら入植されてぶどうを栽培していたところなんです。今もカリフォルニア・レーズンのプランテーションがたくさんありますが、そこにNHKの方と同行して現地にいらっしゃる日系人の方たちの話を伺いました。1963年に日系人の方々がどれだけ社会的に苦労されていたか、その中で、九さんの歌声が流れてきたこと。その時に感じられた思いを、お会いした老婆の方が“proud”っておっしゃってくれたんですね。
−−誇らしいと・・・。
中村:正直に感動しました。その後も、連載が好評だったので続編を作ったりして、まだ色んなことを調べているんですけどね(笑)。
−−ネタは尽きないですね(笑)。
中村:尽きないですよ、本当に。1つ、これも結実したのが2013年世田谷文学館で開催していただいた「上を向いて歩こう」展です。これも文学館の方が、「なんで文学館でポップスをやらなきゃいけないんだ」という声を説得していただいたお蔭で実現しました。本やこの時の図録を併せて読んでいただけると、私たちが調べてきたこの曲の色々な側面が浮かんでくると思います。戦前から戦後にかけての日本の歴史、特にアメリカとの関わりが浮かんできて、その軸はすごく興味深いです。戦争の影響と、その後に入ってきたアメリカ文化への憧れ、あるいはある種の相克というのが総ての係わった人間のなかに存在しています。さらにこの曲がそののちまでもどういうかたちで命を持って動いてきたのかを考えていくと、感慨深いものがあります。
その流れの中から生まれてきたのがオノ・ヨーコさんに英語詞をお願いした「Look At The Sky」です。テイスト・オブ・ハニーや4PMでカヴァーされたときの英語詞は、全然“上を向いて歩こう”ではありません。それは必然があってのことなのですが、永さんの書かれた詞に沿った英語詞で歌いたいという声はこれまでにもたくさんありました。
ただ、この曲の持つ意味・背景を踏まえたときに、単純に英語が堪能だからという理由だけでは英語詞を依頼できないわけです。歌に託した永さんの心象をも訳していただきたい。そこで永さんと同世代でいらっしゃって、やはり戦争というものに大きく運命を翻弄され、さらに日本と欧米の双方の文化に精通された方として、ヨーコさんであればこの歌の持つ何か特別なものをも英語詞にしていただけるではないかと思い至りました。「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 泣きながら歩く ひとりぼっちの夜」という歌詞には主語がない、性別も年齢も分からない(笑)、非常に英語にしづらい歌詞なんです。正直ハードルは高いことは覚悟していましたが、ここでも多くの方に助けていただきながら、信念を持ってお願いすることができました。ヨーコさんも即断即決の方でいらっしゃるのでしょう。「私で良かったら」とお返事をいただいて、すぐに「Look At The Sky」という英語詞を出していただけました。
−−歌ったのはオリー・マーズでしたね。
中村:日本の方で「歌いたい」とおっしゃって下さる方もいたんですが、海外でこの曲の意味を伝えたいという想いがあったので、できれば最初は外国のアーティストに歌って欲しいと考えていました。そんな折にオリーを偶然見て、彼の持つ親しみやすさと勘の良さに感心しました。少し時間がかかってしまいましたが、オリーに歌ってもらうことが出来ました。
−−私は新聞で「Look At The Sky」の記事を見たときに、「そうだよ!」と思って手を叩きました。「SUKIYAKI」じゃないだろうと(笑)。
中村:やはり永さんもご本心では色々な思いを持たれていたのかもしれません。本当に喜んで下さいました。きちんと「ありがとう」とのお言葉もいただきました。無上の喜びです。
−−最後になりますが、今後予定されている企画などありますでしょうか?
中村:もちろん「上を向いて歩こう」に限らず様々な作品の良質なカヴァーを世に送り出すこと、そして「上を向いて歩こう」については、この曲の物語の舞台化を考えています。
−−ミュージカルということですか?
中村:音楽を主軸にした舞台です。まずは音楽ありき、“Live”を楽しんでいただくことを主眼にします。そこに「上を向いて歩こう」という曲に関わる人間の物語、“Story”を併せてお伝えしたいのです。それも単純に作者や歌い手だけの物語ではないことをお伝えしたいのです。
−−「上を向いて歩こう」という名曲が世に出て行くために関わった人たちの群像劇になると。
中村:そうです。これまで「SUKIYAKI」のヒットについては、ともすると単なる「偶然だよ」みたいに言われることすらあったのですが、違います。必然でもあったのです。そこにはこの曲に主体的に関わっていた、日本の音楽を世界に向けて発信していくという志を持たれたミュージックマンの方たちが存在していて、その情熱と力の賜物でもあったのです。中村八大を育ててくれたのは誰か、この曲を世界に向けて発信してくれたのは誰か、これはMusicman-NETさんだから言っているのではなくて(笑)、本当にそうであったという話です。
−−日本でそういう舞台ができるというのは感慨深いものがありますよね。ブロードウェイではそういうミュージカルを色々やっているじゃないですか。
中村:「SUKIYAKI」と銘打っている以上は、求められるハードルが高くなることは覚悟しています。中村八大からの視点にはなりますが、関わってくださった方達への感謝を込めていきたいと思っています。
−−目標はブロードウェイですか?
中村:実際にそれくらいの気持ちは持っています。同時に、何の権威もなくてよいから、思いもかけないような所で音楽が広がる瞬間に立ち会いと願っています。何よりも、音楽好きの若い方や、音楽業界にいらっしゃる若い方がご覧になって楽しめて、希望が湧いてくるものにしたいのです。
−−お話を伺っているだけでワクワクしてきました。いい舞台になることを願っています。
中村:ありがとうございます。もとより簡単に実現できるものではありませんので、ぜひとも応援してください!
−−本日はお忙しい中、ありがとうございました。中村さんの益々のご活躍をお祈りしております。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)