第132回 福岡 風太 氏 「春一番」プロデューサー / 舞台監督
福岡 風太 氏 「春一番」プロデューサー / 舞台監督
今回の「Musicman’s RELAY」は遠藤ミチロウさんからのご紹介で、「春一番」プロデューサー / 舞台監督の福岡風太さんのご登場です。大学在学中に映画「ウッドストック」に影響を受け、野外コンサートを制作開始。71年からは阿部登氏らとともに「春一番」コンサートを開始し、イベント・プロデューサーの草分けとなった福岡さん。また、センチメンタル・シティ・ロマンスのマネージメントを手掛けられ、東京へ移られてからはフリーの舞台監督として忌野清志郎、中村あゆみ、ペギー葉山、ジョニー吉長、金子マリ、近藤房之助、有山じゅんじ、上田正樹など数多くのアーティストのステージをサポートされてきました。95年には「春一番」を復活させ、現在も現場の第一線で活躍し続ける福岡さんにお話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也)
プロフィール
福岡 風太(ふくおか・ふうた)
「春一番」プロデューサー / 舞台監督
1948年4月24日生まれ。大阪府箕面市出身。大学在学中に観た映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』に影響を受け、1971年に「春一番」コンサートを阿部登らとともにスタート。その後フリーの舞台監督として忌野清志郎、中村あゆみ、ペギー葉山、ジョニー吉長、金子マリなど数多くのアーティストのステージをサポート。2006年からハンバート ハンバートのマネージメントも手がけるなど幅広く活躍。
- 遠藤ミチロウは「春一番」から絶対に外せない人
- 音楽的環境に恵まれた少年時代から体育会系の中高時代へ
- 映画「ウッドストック」に刺激を受けて学生時代に野外コンサート制作
- 「春一番」は“福岡風太の作品”である
- センチメンタル・シティ・ロマンスのマネージメントで名古屋へ移住
- 清志郎と一緒に回った5年間が一番面白かった
1. 遠藤ミチロウは「春一番」から絶対に外せない人
−− 前回ご出演いただきました遠藤ミチロウさんとはどのようなご関係なんでしょうか?
福岡:彼は「春一番」というコンサートのレギュラーですよ。絶対に外せない人です(笑)。「春一番」というのは「反戦・反核・反差別」を三本柱に1971年からやっているんですが、70年代はものすごい差別があったじゃないですか。女性だったら仕事とか結婚とか、男にしたって在日さんなんか学校も上がれないし、就職もままならないし、だから仕方ないから水商売行くか、芸能とかスポーツ行くか、みたいなね。
−− 今も色々な差別が根強く残っていますよね。
福岡:そうですね。でも、最近の若い奴らは「差別」ということに対する意識が変わっていっているんだなと「春一番」を通じて感じたりしますね。言い過ぎかもしれないけど。自分が「春一番」というコンサートを続けてきて、演者さんとの会話の中で色々感じることってあるわけじゃないですか。だから「春一番」って面白いんですよ、私にとって。ものすごい肥やしだと思う。
−− そこで欠かせないのがミチロウさん。
福岡:ミチロウさんは思いっきり「反戦・反核・反差別」ですよ。パフォーマンス抜群じゃないですか。「ウォー!」って叫ぶだけで無茶苦茶格好いい(笑)。「その声、どこから出るの!?」って思いますもの。誰もマネできないし、あんなボーカル見たことないですよ。
−− 普通にお話されているときは、物静かな方ですけどね。
福岡:うん。滅茶苦茶優しい人です。
−− ミチロウさんは「春一番」には何年から出演されているんでしょうか?
福岡:多分96年からかな。95年に16年ぶりに「春一番」が大阪城野外音楽堂で復活して、96年から服部緑地野外音楽堂に移して、それから20年経つんですよ。「春一番」は私の相方、阿部登とずっと二人で作ってきました。彼が亡くなるまでね。私が東京に住んでいるときは東京で色々ライブを観に行って「あいつがいい」「こいつがいい」と目を付けて、お互いネタを持ち寄るわけですよ。阿部ちゃんは阿部ちゃんで、大阪で色々観ていてね。そういう阿部登との関係は大事でしたね。
−− 阿部さんが亡くなったのはいつ頃ですか?
福岡:2010年ですね。阿部は還暦になる前に亡くなりました。還暦記念コンサートを準備していたんだけどね。ただ、追悼だ、何だ、もう気にしないようになりましたね。追悼だって言い出したら、たくさんいるわけだから(笑)、「春一番」では追悼はナシにしたんですよ。
−− ずっと追悼をやることになってしまいますものね。
福岡:そう。「明日は我が身」でもいいんだけど、自分より若い奴らがどんどん逝ってしまうから(笑)。「なにしとんの、お前ら!」みたいな気持ちもあるんですよ。俺なんか普通の人の100人分くらい酒を呑んできたのに(笑)。
−− そんなに呑まれるんですか(笑)。
福岡:呑みますね。おときさん(加藤登紀子)のツアーにしても、誰のツアーにしても、若く元気な頃は朝まで呑んでいてもバリバリできる体力があったもの。無茶苦茶でしたよ。しょうもない話だけど、PA隊の2人と京都の新京極商店街の裏は寺ばっかりなんだけど、寺の看板をガンガン掛け替えたり、アホばっかりやっていた(笑)。監視カメラがない時代だったからラッキーですよ。今は絶対無理ですよ(笑)。
−− (笑)。とにかく「春一番」があるかぎりはミチロウさんとの関係は続くであろうと。
福岡:そうですね。彼みたいなボーカルはおらんから。
2. 音楽的環境に恵まれた少年時代から体育会系の中高時代へ
−− ここからは福岡さんご自身のお話をお伺いしたいんですが、お生まれは大阪ですか?
福岡:そうです。親父は小学校の音楽の先生だったんですよ。生まれたのは多分市内だと思うけど、私が4つのときに今住んでいる箕面に引っ越すんです。というのも親父が肺結核を患って、転地療養を兼ねて、親父の恩師に箕面で土地を紹介してもらって、お風呂もついていない小さな家を建てたんですよ。その後、建て増し建て増しで現在に至っています。
−− ご兄弟はいらっしゃいますか?
福岡:妹がいましたが、10年前にガンで亡くしました。渡(高田渡)が死んだ年と同じ年です。親父は私が27才のときに、54才で胃がんで亡くなるんですよ。親父がガンで死んだ、妹もガンで死んだ、それで私も94年にガンで胃を4分の3とったけど生還しました。それこそ当時、清志郎のブカンをやっていて、事務所に辞表を持っていきましたから。今どき「ガンと仲良くしよう」とかしょうもない本がたくさんあるけど、ガンってどうなるか分からんからね。
−− 福岡さんは命拾いしたんですね・・・。
福岡:生き残った(笑)。生い立ちの話に戻ると、小学校のときは箕面少年合唱団に入っていました。これは結構有名な合唱団だったんですよ。親父の恩師の品川先生が指揮をしていて、普通、小学校の二学期って学芸会がありますが、ウチの小学校は合唱発表会というか研究会があって全国から先生たちが集まってきたんですよ。で、主役である私たちが歌うんですよ。
−− 合唱のお手本を示す、みたいな感じですね。
福岡:そう。その箕面少年合唱団でテレビに出たこともあるし、紀州の尾鷲まで演奏旅行に行ったこともあります。小学生のくせに(笑)。それで、バイオリンも習うようになりました。
−− そういう音楽的な環境はバッチリあったんですね。
福岡:小さいときはありました。それで、ラジオで親父が聴いていたのが、演歌とかそういうのとは違って、ラッキーなことにジャズだったわけです。それで親父は越路吹雪さんの追っかけで、よく宝塚まで行っていました。宝塚は箕面から近いですしね。親戚の人が来て遊びに連れていくのは、大阪城でも、通天閣でもなく、ウチは宝塚でした(笑)。子どもたちはファミリーランドで遊ばせてね。ただ、私は宝塚歌劇は一度も観てないんですけどね(笑)。
−− (笑)。
福岡:それで、だんだん変わっていくのは、箕面第二中学校に上がってからで、きっかけはハンドボールを始めたことでした。中学、高校とハンドボールをやったんですが、ウサギ跳びとか、今ややったらいけないことを思い切りやらされる世代の部活でね。
−− 「水を飲むな!」とか。
福岡:そうそう。思い切り先輩に殴られて当たり前みたいな。それって、今だったら裁判沙汰になるんじゃないですか?(笑) でも、それは私にとっては大きな財産でした。小さい頃から先生に殴られるというか、近所のおじさんやおばさんに「何してんの!のぶひろちゃん!」と叩かれるわけでしょう。私は本名「のぶひろ」なんですが(笑)、それで「やっても良いこと」「やったらいけないこと」をだんだんと覚えていきました。それって、親だけじゃなくて、近所のおじさん、おばさんからのしつけじゃないですか。そういう世代ですよ。
−− ちなみに中学時代もバイオリンはやっていたんですか?
福岡:いや、卒業と一緒にやめました。
−− それでハンドボールで体育会系に転向ですか。
福岡:そう。それで豊中高校へ行ってもハンドボールは続けたんですが、豊中高校というのは進学校ですから、大概三年生に上がったらみんな部活を辞めていくんです。でも、ハンドボール部は三年生の部員が4人残って、4人とも浪人生になったけど、夏まで部活動をやりました。それで、もう落ちこぼれもいいとこで、英語のリーダーの授業で、明日は自分が当たるからと予習して行ったんですが、先生は私のことを飛ばしましたからね(笑)。
−− それは部活をやっていてどうせできないだろうと思われた?
福岡:「そんなものはお前に教えなくても、他の子に」と。面白いなーと思いましたけどね。私だって必死にどうのこうのというのはなかったですし(笑)。一学年550人の内、頭の4〜5人は東大、それで大阪大学へ50人くらい受かるわけで、関学とか私学は、みんな何とでもなるし、私学は押さえで受けに行くという学校でした。こっちも舐めたもんで、「どっかに引っかかるだろう」と思っていたんですが、結局どこにも引っかからなかったという(笑)。
−− (笑)。進学校の豊中高校に入られたわけですから、福岡さんも中学まで成績優秀だったんですか?
福岡:先生の子どもって、絶対に成績が良くなかったら格好がつかないんですよ。当時の箕面は田舎ですからね。だから、小学校のときはオール5ですよ。中学校のときも成績を落としたらいけないわけで、ナンバーワンを取れるチャンスがあったんですが、ナンバーツーでした。ナンバーワンが同じクラスの女の子だったんですね。クッソーと(笑)。
−− でも、学年2番は凄いですよ。
福岡:だから、豊中高校に入ったんですよ。天王寺、北野とか世間的にランクがあって、豊高というのも、そういう大学進学校で言ったら3つ目か4つ目の学校でしたからね。だから、いまだに「高校どこいったん?」という話になって、「豊高」と答えると「エーッ!」と驚かれます。「豊高出身の人が何しているの?」という感じですから(笑)。でも、豊高では結局550人中の450とかその辺をウロウロしていましたから。ハンドボールさえやっていられれば、それで十分でした。
3. 映画「ウッドストック」に刺激を受けて学生時代に野外コンサート制作
−− その後、一浪されて関西大学に行かれたんですよね。
福岡:そうです。浪人した4人の内、一番優秀だったのが大阪大学の基礎工学部、キャプテンが関西学院大学の経済学部と、やっぱりちゃんと勉強やれば立派なとこに入る。でも、ぼろかすの私ともう一人は行くとこがなくて(笑)。結局、夜間部に滑り込んで、みたいな。
それで、ハンドボールってチームプレイだったので、大学では個人競技をやってやろうと思って、日本拳法部という防具を着けて、ボコボコ殴り合う乱暴な部に入りました。あるとき学内選挙だと言って、みんなの学生証を集めてこいというわけです。「はぁ?どういう意味やねん」と。日頃、正義だなんだと、右寄りのことをガーガー言っている人間が、不正選挙やろうとしている。これは怒りましたね。
−− それは日本拳法部の先輩が言ったんですか?
福岡:そう、主将がね。「それはアカンやろう! やっていいことと悪いことがあるだろう!」と言ったら、ボコボコにやられて「大学も辞めろ」と言われて、大学を辞めました。それで、家に帰って親父に「やっぱり合わん」とか、どういう風に言ったかは覚えていませんが話したら、親父は「せやけど、大学だけは出とけ」と。それで受け直したのが関西大学の社会学部というところです。
−− 大学に入って何をやっていましたか?
福岡:一生のターニングポイントになったのが、1970年の大阪万博。あれで、通訳をやりました。それも、外国人が住んでいる団地の管理事務所の通訳だったんです。24時間勤務を3日に1回。これは面白かったです。だって、世界中の人を相手にするんですから。
−− 語学はバッチリだったんですか?
福岡:英語は、英会話の学校に行っていました。当時はそんなに英会話の学校もない時でしたけど、そこは親のスネかじって行っていましたね。
−− 通訳ができるほど英語は達者だったというわけですか。
福岡:そこそこね。例えば、ブルース・ブラザーズ・バンドにしても、忌野清志郎&BOOKER.T&THE MG’Sのツアーにしても、舞台監督をやったのは、英語を喋れるからなんです。ツアーを通じてMG’Sのベース、ドナルド・ダック・ダンとはすごく仲良くなりましたよ。
−− 大阪万博の通訳のギャラはどうだったんですか?
福岡:普通のサラリーマンの1.5倍くらいは貰っていたんじゃないでしょうか。通訳は万博の準備期間と片付け期間、あわせて1年間やっていました。それで同じ頃に映画「ウッドストック」を観て、刺激を受けて、通訳のギャラを使って70年にフリーコンサートを3つ作っていくわけですよ。一軒家を借りて、給料、ギャラなんかは、八百屋さんや魚屋さんみたいにザルにお金を入れて管理して。
−− 3つとも野外コンサートですよね?
福岡:野外コンサートなんかほとんどない時代でしたから。それは、無理くそにでもやるぞと。
−− ウッドストックを見て、いきなり「よし、俺たちもやろう」と。そのエネルギーが凄いですよね。
福岡:若かったんですよ。22歳とか。1回目の春一番、71年のときは23歳。普通に四大卒業したら就職した歳のはずなんです。
−− 新入社員の歳にやった。
福岡:「BE-IN LOVE-ROCK」「ロック合同葬儀」「感電祭」とフリーコンサートを3つ作り、年末に演劇センターでやっていた佐藤信さんの黒テントを観に行ったんですよ。そこで田川律さんから「お前、大阪でコンサートやっているらしいやんけ。前座的にコンサートをテントの中でやろうや」と言われて手伝うようになったんですよ。
そのとき黒テントは「翼を燃やす天使たちの舞踏」という芝居をしていたんですが、音楽担当というか、テーマソングを岡林信康さんが担当していたんです。それでテントの中の前座コンサートには、はっぴいえんどとか当時日本語でロックをやっている人たちがたくさん来て、そういったミュージシャンたちとの人脈が、黒テントで全部繋がったんですよ。こちらから尋ねていくこともなく(笑)。一応、通訳の退職金があったから(笑)、ずっと黒テントの公演を追いかけてね。
−− 一緒に旅をしたんですか。
福岡:役者もスタッフもみんなで炊き出し、毎晩カレーだったと思いますけど、そういう旅の仕方ですとか、「なるほどな」と思いましたね。どこかホテルに泊まるとかとは違うわけじゃないですか。テントの中で寝袋みたいな、そういうツアーの仕方を自然に覚えていきました。だから、例えば、センチメンタル・シティ・ロマンスで旅をするときも、ホテルなんかほとんど取りませんでした。こちとら、ライブハウスでそのまま寝袋でコローンと酔っ払って転がって(笑)、翌日のバンドが「おはようございまーす!」と来て、「おお、そうかそうか」と言って交代していく、みたいなそういう時代でしたね。
−− 今のライブハウスではあり得ない光景ですよね。
福岡:だから、今の子たちは、ツアーのための車を持たないじゃないですか。どこまで行っても、ドラムからアンプまで全部ある。その辺のツアーの仕方の違いは、春一番というコンサートを続けてきたから見えるというんですかね。今時の若い子たちが、どのようにしているんだろうと。あ、曽我部恵一は車にメンバーを積んでくるけどね(笑)。
4. 「春一番」は“福岡風太の作品”である
−− 「春一番」の第1回目が71年ですよね。当時の福岡さんは全くの素人で、会場を借りるところから、何から何まで、経験ないことをやっていらっしゃるわけで、それはとても大変な作業に思えるんですが。
福岡:いやー、大変ですよ。PAさんがいないから、ボーカルアンプを並べて、舞台にミキサーを並べて。自分でミキサーをやらなければいけないわ、MCをやらなければいけないわで、無茶苦茶大変ですよ。
−− それも福岡さんがやっていらっしゃった?
福岡:全部1人でやりました。
−− 照明は?
福岡:照明はもう…適当というか(笑)、会場の明かりだけで。そんな遅くまでやらなかったと思います。
−− 第1回目の「春一番」は天王寺公園野外音楽堂で開催ですね。この野外音楽堂は動物園の辺りにあったんですか?
福岡:そう、動物園の中にありました。しょうもないエピソードを言うと、やっぱりゴールデンウィークですから、動物園の方もイベントがあるわけですよ。ゾウの体重を量るとか(笑)。
−− (笑)。
福岡:それでも、こっちはドカドカ音を出すわけですよ、すぐ側ですから。で、あるとき私がダブルデートしたんですが、もう一方のカップルの男が、動物園のオランウータンの飼育係だったんですよ。それでその彼女が「もう5月の連休は大変やねえ、うるさくて」とフラッと言ったんですよ(笑)。「エッ!」と思いましたけど、自分の身分は明かせませんでした(笑)。
−− そこで「やっているのは自分です」とは言えないですよね(笑)。
福岡:そう(笑)。向こうは思いっきり迷惑がっていますからね(笑)。
−− 天王寺公園野外音楽堂では何回やったんですか?
福岡:天王寺公園野外音楽堂では9回。
−− 9回もやっているんですか?! よくやらせてくれましたね。
福岡:いや、だから、そういう時代だったんですよ。天王寺の野音というのはプロレスの興行もやるし、なんでもありだったんです。ただ、PAで音を出すには向いてない場所で、それでもやってしまうという。今にしたら「野外コンサートのパイオニア」だとか、どうのこうの言われますけど、他にやる人がいないから私がやっただけなんですよ。
−− 「春一番」は1回目から反響が大きかったんですか? 例えば、お客さんの入りとかどうだったんですか?
福岡:いやー、大したことないんじゃないでしょうか。そんなものは問題じゃないです(笑)。今でもそうです。今の今でもそうです。
−− 別にお金が儲からなくても良いと。
福岡:そうです。私が作っているのは、商品と違って、作品なんです。作品だから、それを評価してくれるんだったら、金は後でついてくるだろうと。だって、ゴッホさんなんて可哀想じゃないですか。死んだ後に描いた絵が何億の値段が付いたりして。
−− 絵描きが絵を描くときに、いくらで売れるか考えてないでしょうしね。描きたいから描くというか。
福岡:やっぱり私はそういう人が好きですね。わけのわからない人。「何考えてるんや、こいつ」みたいなね(笑)。
5. センチメンタル・シティ・ロマンスのマネージメントで名古屋へ移住
−− 「春一番」はスポンサーをつけようとか、一切なさったことはないと聞きますが、それはあえてですよね?
福岡:もちろん。
−− 金を貰ったら口も出されなきゃいけないんだから、余計なことはしてくれるなということですか。
福岡:そういうことです。そこに関しては、阿部ちゃんと徹底してやりました。お客さんが買ってくれる切符代だけでまかなうぞと。それを演者さんがちゃんと理解してくれるかどうかですよ。だから出演交渉をやっていても、ギャラの交渉とか絶対にしてこないですもんね。
−− 誰一人もされたことはない?
福岡:はい。
−− ギャラの交渉とか、銭金の話を一切しないで出演させるというのは、それ以上のプロデューサーはいないですよ(笑)。でも、多少潤ったときは、そういう分け前というか、成功報酬というのは出しているんですか?
福岡:潤ってはいないものの、少々は渡しています(笑)。79年で1度、「春一番」の幕を下ろすと決めたときも、それは映画になって残っていますが、「ギャラは全員壱万円や」と。それでダブルキャストで、またギターを弾いていたらそれは五千円(笑)。
−− プラス五千円(笑)。春一番はいつも赤字なんですか?
福岡:いや、絶対赤字にはなりません。そこはグリーンズコーポレーションの鏡 孝彦社長がちゃんとやっている。ギャラの加減なんかも、きちんと調べてやっている。このバンドは京都でやって、「春一番」やって、ここでやって、みたいな。そのさじ加減は見事ですよ。鏡が通っていた奈良の郡山高校というのはめちゃくちゃ進学校で、コンサートとかに行ったらいけなかったらしいんだけど、彼は70年代の春一番コンサートを観に来ていたんですよ。
−− 鏡さんは元観客だったわけですね。
福岡:そうです。鏡の例でも分かるように、大阪って人脈が狭いんですよ(笑)。だから面白い。
−− 「春一番」が中断した理由なんですか?
福岡:1回中断したのは、私がセンチメンタル・シティ・ロマンスをやりたかったからです。あと、天王寺の野音がなくなることになって、「野音がなくなるんだったら終わりだろう」と。それで、私自身は名古屋へ移住して、センチメンタル・シティ・ロマンスのマネージメントを始めます。
−− センチメンタル・シティ・ロマンスと活動していたのは何年間くらいですか?
福岡:彼らは86年の6月に全然詞が書けなくなったんです。最後のアルバムというのははっぴいえんどのカバーで、「何考えとんねん」と(笑)。それで事務所でのバンドミーティングのときに「もう1回原点に戻ろう。おときさんのバックも辞めよう」と提案したら、「そういうわけにはいかん」と。それで「バカ野郎!」とテーブルをひっくり返して、私は辞めたんです。阿部登は「金持ちに詞は書けん!」とうまいことを言うたんですが、センチメンタル・シティ・ロマンスも生活ができるようになったら詞が書けないようになったわけです。
−− それは難しい問題ですよね・・・。
福岡:最後のアルバムがはっぴいえんどのカバー? それで私は「ロックバンドちゃうわ、こんなもん!」とテーブルをひっくり返して仕事全部辞めて。私の嫁さんは泣いていましたが(笑)。「辞めてきたわー」と言ったら、「これから何すんの!」みたいな(笑)。
−− お子さんもいらっしゃったわけでしょう? ロックですね(笑)。その後どうされたんですか?
福岡:大道具のバイトを始めて、その後、東京へ出るわけですよ。
−− でも、本当は東京なんか行きたくなかったわけでしょう?
福岡:いやー、まあ行きたくないというより、名古屋に居たくないと。「もうええわい!お前らなんやねん!」と。
6. 清志郎と一緒に回った5年間が一番面白かった
−− その後、東京へ行かれたわけですが、それはフリーの舞台監督としてですか?
福岡:そんな簡単に舞台監督の仕事なんてないんだけど、ラッキーなことに88年に中村あゆみの全国ツアーの舞台監督になったんです。その最初のミーティングで、あゆみは「福岡さん、福岡さん」と言っていましたが、終わりの頃は「おい、風太!」(笑)。それはスタッフとメンバーがこなれたということですから、スタッフ冥利に尽きるわけですが(笑)。
−− ファミリーになったみたい。
福岡:たった1ツアーで。だからこそ、打ち上げで本当に「お疲れ様」と言い合えるわけでね。一期一会でみんな次の仕事に向かうと。演歌とか延々同じスタッフの場合が多いですけど、ロックはそういうものだと思います。それで、少しずつ仕事が来るようになって、一番忙しかった頃は清志郎と江口洋介とペギーさんとマリーン、ツアー4本を1人でやっていました。
中でも、清志郎との仕事は最高でしたね。もう舞台監督人生をかけて、清志郎と一緒に回った5年間が一番面白かったですから。「監督、こんなことやっちゃだめだろう!」ということも全部やりました。会社所属の人たちは始末書だなんだとなると、ちょっと調子悪いじゃないですか。でも、こちとらフリーですから恐いものナシですよ。「えらいすんまへん!」と謝って、「はい、はい」と始末書にハンコ押して。
清志郎のツアーではそんなことをいっぱいやりましたよ(笑)。ライブハウスでステージから水を撒いたりね。「屋内だし、日比谷の野音と違うんだから」と言われても「やかましいわ!」と水をバッシャー撒いて。でも、客は喜んでいるんですもん。それでバラシのときに、PAさんも照明さんもみんな一緒になって「おもろかったなー」言いながら後片付けするんですよ。そういうチームでした(笑)。やっぱり清志郎のスタッフは分かってくれる人たちでしたね。
−− ちなみに福岡さんにとって東京ってどういう場所なんですか?
福岡:東京とは、仕事をするところですね。住むところではない。もともと住んでいる人はいいんでしょうけど、なんですかね・・・やっぱり東京には住めないです。
−− 東京ではどこに住んでいらっしゃったんですか?
福岡:鶴川です。良く一緒にやっているハンバート ハンバートの佐藤良成は和光高校出身なので、絶対にバスの中で会っているはずなんです(笑)。あるいは駅で見ているはずなんです。そういう巡り合わせなんですかね。久しぶりにCHABOと清志郎がジョイントするみたいなライブがあって、そんなライブ、チケットはすぐ売りきれるわけですが、高校三年生の佐藤良成は、何とか観ようと会場に潜り込んで、警備員に捕まっているんですよ(笑)。その日、こっちは舞台監督で、サラシ巻いてやっているわけですよ。
−− ニアミスしているかもしれませんね。
福岡:そのときのスタッフパスは、後になって良成にプレゼントしました(笑)。
−− 大阪に戻られて、最初になさった仕事は「春一番」の再開ですか?
福岡:そうですね。阿部登とまた近くなったからね。
−− どっちから「またやろう」と言い出したんですか?
福岡:私ですよ。それで「春一番‘95」を2日間やったんですが、翌年も話を持ちかけたら阿部ちゃんは「お前、それは詐欺やろう」と(笑)。実は前の年に「もう終わる」と言って、新聞とかにいっぱい書いてしまったから(笑)。それでイベント名に”祝”をつけて「祝春一番」にしてね。
−− 復活からすでに20年ですね。
福岡:そうね。その間に高田渡も死んでしまって・・・高田渡と西岡恭蔵の死は、春一番的にはとても大きな穴でした。だからって、さっき言ったけど追悼というのも嫌で。嫌というか「やってられるか!」という気持ちでね。あと、藤井裕も石田長生も松永孝義も、それこそ、子どもたちに観せたいアーティストたちでしたからね。
−− もうこうなったら福岡さんの命が続く限り「春一番」やるしかないですよね。
福岡:よくそう言われますけど、嫌ですね(笑)。本当に大変です。
−− ちなみに福岡さんの後継者はいらっしゃるんですか?
福岡:そんなのいません(笑)。倅は自分で勝手にやっていますしね。「春一番」というのは、私がいなくなったら終わりだと思います。もし生きていたら、来年も「春一番」やる気でいます。だから、毎日チラシをパッパッと貼りつつ、あちこちでライブを観ているわけです。
−− 未だに福岡さんご自身がライブを観に行って、出演者に直接声をかけるんですか?
福岡:そうです。絶対それは基本です。
−−本日はお忙しい中、ありがとうございました。福岡さんの益々のご活躍をお祈りしております。