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第133回 古賀 正恭 氏 FM COCOLOプロデューサー

インタビュー リレーインタビュー

古賀 正恭 氏
古賀 正恭 氏

古賀 正恭 氏 FM COCOLOプロデューサー

今回の「Musicman’s RELAY」は福岡風太さんからのご紹介で、FM COCOLO/FM 802の古賀正恭さんのご登場です。大阪で青春時代を過ごされた古賀さんは、音楽に目覚めてから大阪・京都での数多くのコンサートに通いつめ、自然と関西ミュージックシーンに関わっていきます。雑誌の編集などを経て、上京。イベンターのホットスタッフ・プロモーションに籍を置かれつつもラジオ&テレビ制作に関わられ、大阪に戻ってからはFM802、そしてFM COCOLOで多くのラジオ番組、イベントを制作されてきました。今回は古賀さんご自身のお話から、ラジオを取り巻く環境と今後について、じっくり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也)

プロフィール
古賀 正恭(こが・まさやす)
FM COCOLOプロデューサー


1959年山口県下関生まれ、大阪育ち。
学生時代より音楽制作に携わるようになり、コンサート制作、雑誌編集などを経験。
86年からは数年間、東京で活動(TV、ラジオ、イベントなど)の後、91年に大阪に戻りFM802に参加。7年間イベント、キャンペーン等を担当。
98年より編成部に移動し、番組プロデュースを担当。
2010年より「大人のミュージック・ステーション」FM COCOLOをプロデュース。


 

    1. 感覚的には関西人、でも喋る言葉は標準語
    2. 小遣いのほとんどを音楽に注ぎ込んだ高校時代
    3. 好きなことをしていたら、いつの間にか業界にいた
    4. 大阪での編集者生活から、東京でのラジオ&テレビ制作へ
    5. 東京は面白い街だけど、“目的”になかなかたどり着けない街
    6. 「あいつ大阪に帰って来たみたいだぞ」FM802入社からFM COCOLOへ
    7. 音だけで勝負できる人たちを優先した選曲
    8. ラジオにとってストリーミングは脅威でなく共存する相手である

 

1. 感覚的には関西人、でも喋る言葉は標準語

−− 前回ご登場いただきました、福岡風太さんとはどのようなご関係なんでしょうか?

古賀:風太さんは僕らの世代の憧れの人でした。ラジオで高田渡さんや岡林信康さんたちの音楽を聴くようになって、そういうミュージシャンが出る「春一番」コンサートが天王寺でやっていることを知って行くようになったんです。その前には高島屋で「六番町コンサート」っていうのを月1回100円でやっていたんですよ。

−− 100円は安いですね。

古賀:当時としても安かったですね。天王寺の野音とか、高島屋のローズシアターに行くとチラシを配っているので、次はそれを観に行ったり。僕は当時京阪沿線の門真というところに住んでいて京都にも近かったですから、京都・大阪の大学でやっている無料コンサートにも行きましたし、今考えるとすごく幸せな生活でしたね。邦楽はラジオで聴くか、ちょっと頑張ってレコードを買うこともありましたが、基本的に音楽を聴きたかったらコンサートに行けばいいと思っていましたし、そこにはラジオで耳にした音楽をレコードより早く演奏している人たちがいて、どんどん聴く音楽の幅が広がっていきました。

−− そういったコンサートのプロデューサーが福岡さんだったと。

古賀:そうなんですよ。風太さんはいつも自分で舞台に上がって司会するので、「あのテンガロンハットのお兄さんはなんなんだろうな・・・」と思って観ていました。高校生になると、どういう人たちなのかなんとなくわかってきて、ミュージシャンとも違う世界の人だと思っていたんです。

その頃になると、いわゆるロック喫茶巡りとかし始めたんですが、ロック喫茶に行くと、ステージに上がっていた人がいたりね(笑)。当時、大阪にロック喫茶やコンサートが紹介されている情報誌があって、それを見て恐らく一番最初に行ったのは道頓堀の「サブ」というロック喫茶で、そこはどちらかと言うと子供は歓迎していない雰囲気だったんですね。その次に難波元町の「ディラン」へ行き、そして天王寺の「MANTOHIHI(マントヒヒ)」に行くようになって、そこが一番居心地よかったので、そのあたりをうろうろしていたんですが、コンサートが終わるとその界隈の人が来たりもしていたんです。

そのうち阿部登さんのチラシ撒きの手伝いをしたりとかして、「次のコンサートに早めに来て、楽器を運ぶのを手伝ったらタダで観せてやる」と言われて、「ラッキー」って思いながら行ったり、ほとんどその状態で現在まできています(笑)。

−− 長いおつきあいですよね。70年代からだと約40年ですか。

古賀:そうですね。でも、周りもそんな人たちばっかりですよ(笑)。グリーンズコーポレーションの鏡孝彦さんとか、ちょうど同じ頃にうろうろしていた人ですしね。一緒に遊んだり、手伝いとか一緒にやったり。

−− その頃から現在、大人になっても一緒に仕事をやられているというのはすごいですよね。

古賀:大人になっているかというのは疑問ですけどね・・・歳だけとって(笑)。

−− (笑)。

古賀:当時の関西ってサイズがちょうどよかったのかもしれないですね。大阪ならここ、京都ならここ、みたいに、新しい音楽を面白がる人たち集まる場所って決まっていたんですよ。人数もそんなに多くなかったですし、ひと世代違う人でもお互いにやっていることが見えたりとか。もう少し小さいエリアだったら全員顔が見えるんだけど、距離が近過ぎて、もめ事も起きやすくなりますからね。

−− 閉塞感も出てきますね。

古賀:ええ。大阪も閉塞感がないわけじゃないんですけど、適度な閉塞感なので(笑)。ある程度ほっておいてくれますし、一番大きいのは、東京の大きい産業としてやっている方々から少し離れているので、比較的好きなことをやっていても誰も何も言わないんですよ。だから内側で楽しんでやることができたかもしれません。

−− ここからは古賀さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれは下関と伺っています。

古賀:確かに下関生まれなんですけど、父の仕事の関係で一瞬だけ下関にいたときに生まれただけで、下関のことはほとんど覚えてないです。父は九州出身、母は岐阜出身で、大阪生まれではないんですが、その後、新興団地があった大阪の枚方に引っ越しました。これは後から気がついたんですが、その団地に関西人ってほとんどいなかったんですよ。外から入ってくる人とか、関西人でも、当時団地って特殊な生活形態だったので、わざわざ一軒家を売って団地に来た医者の家族とか、多分家賃も高かったと思うんですね。父は会社の意向でそこに住んでいたらしいんですが、その当時にしたらとても大きい団地で、子供の僕にしたらその団地だけが世界の全てでしたし、その中ではみんな標準語を喋っていたんですよ。

−− 大阪に標準語の地域なんてあったんですね。

古賀:大阪市内から転校してくる子がいたら、みんなから「言葉がおかしい」っていじめられていたくらいですから。

−− いわゆるニュータウンですか?

古賀:ニュータウンですね。その影響で言葉がおかしいので、関西人の中に入ると「変な奴」って言われていましたね。小さい頃から吉本新喜劇は観ていましたし、感覚的には関西人なんですけどね。

−− 古賀さんの関西弁はネイティブな関西弁じゃない?

古賀:そうですね。

−− 古賀さんのお家は、今のお仕事に繋がるような音楽的な環境のあるご家庭だったんですか?

古賀:4歳上の姉がいるので、小学生から中学生のときに、姉の横でラジオを聴いていたのはすごく大きいですね。小学校高学年くらいには渡辺貞夫さんや日野皓正さんの演奏するジャズを聴いていましたし、MBSヤングタウンではフォークの人たちがしゃべっていたり、今考えると当時のラジオは幅広かったですね。

 

2. 小遣いのほとんどを音楽に注ぎ込んだ高校時代

−− 小学校・中学校時代はどのような少年だったんですか?

古賀:サッカー少年でしたね。たまたま小学生のときの担任の先生が当時としてはめずらしく自分でサッカーをやっていた人で、小学校の中にクラブと言うよりも、今で言う社会人サークルみたいなものを作ろうということで、僕らを集めて週1回練習して、そのうち中学生も参加するようになって、いろんなチームと試合をしたりしていました。

−− 正にクラブチームのようですね。結構、本格的にやっていたんですか?

古賀:チームとしてはしっかりやっていましたね。小学校時代は結構のめり込んでやっていました。中学校のときに、一つ隣のエリアに引っ越したので、初めのうちは通って行っていましたけど、だんだん離れていくようになりました。それとともに中学時代から音楽を聴いたり遊んだりすることが増えてきたかな。

−− ご自身でバンドを組んだりされていたんですか?

古賀:ご多分に漏れずギターを買ってもらってさわったりしていましたけど、あまりバンド組める人もいなかったですし、高校で1〜2回学祭のときにバンドを組んだくらいです。むしろ音楽をやろうとしたときに、コンサートで上手い人たちをたくさん観てしまって、「凄い!」なんて言いながら観る方が楽しくなってしまいました。

−− もう中学生くらいからライブを観に行く生活だったんですか?

古賀:その頃にはポツポツ行っていたと思います。

−− よく考えると昔は日比谷の野音とか、タダでライブを観ようと思ったら観られたりしましたよね。

古賀:そうそう。それと同じですよ。

−− その後、高校に進学されてからより音楽にのめり込んでいったんでしょうか?

古賀:はい。高校には行くけど、終わったらそのまま電車に乗ってミナミか天王寺に遊びに行くという生活がだんだん・・・(笑)。僕が高校のときに姉がちょうど大学生だったので、姉がウロウロしたところを家に帰ってきたら教えてもらって、その後に自分でウロウロするという感じでした。で、結構ぶっ飛んだ姉で、ある時期までは大阪のどこへ行っても「古賀の弟」と言われていました(笑)。

−− お姉さんは有名人だったんですね(笑)。

古賀:そうですね(笑)。世間的に言う不良ですけどね、そういうの(笑)。いわゆるヤンキー系ではなくて、学校を飛び出して面白い友達をどんどん探したり、色々なことを吸収していたんじゃないですかね。

−− 高校時代はかなり音楽に詳しくなっていたんじゃないですか?

古賀:聴く方も色々聴くようになっていましたし、ライブも頻繁に観に行き、小遣いもほとんど音楽に使っていたはずです。この間も一緒だったんですが、大阪で老舗のキングコングという中古専門のレコード屋さんがあるんですよ。そこのオーナーはアメリカ旅行に行ったときに、「レコードの中古屋をやったら面白い」と思いついたらしくて、自分で色々なところからかき集めたレコードを月に一回喫茶店の2階を借りて、そこで中古屋さんをやっていたんですよ。

−− 展示即売会みたいな感じですね(笑)。

古賀:そうそう(笑)。僕は何かでその存在を知って通っていたんですが、後々聞くと、僕はキングコングの最初期の客だったそうです。

−− 相当マニアックな話ですよね。学校でそんなことをしている友達とかいなかったんじゃないですか?

古賀:学校の友達ではいなかったと思いますし、何かウロウロしている間にそういう店があるぞと。そこへ行くと定価の半額でレコードを買えたので、もう月にLP一枚しか買えない生活には戻れませんよね(笑)。倍買えるというのはすごく大きかったです。

−− 以前、古賀さんは「大阪はFENが聴けなかったのが大きかった」とおっしゃっていますね。

古賀:それはあとで気がついたことですけど、大きかったと思いますよ。FENというものがあると色々なところから情報として入ってきたけれどね。

−− FENっていわゆる米軍基地の近くなら聴けたわけですよね?

古賀:基地から漏れてくると言いますかね。関西だと岩国なんですよ。本来、岩国だったら大阪でも電波が入るはずなんですが、NHK大阪の周波数とほとんど一緒だったので、ぶつかって聞こえなかったんです。だからNHKが終わっているときは聞こえたんですよ。大阪でも夜中、ニッポン放送とかがギリギリ聞こえてくるのと同じで、そういう風には入るんですが、四六時中は聞こえてこないんです。

それこそFM大阪ができるまでは、洋楽のかかるAMの番組を1つ、2つと聴いていました。ですから、FM大阪ができたときは画期的でしたね。万博と同じ年に開局だったんですが、友達に教えてもらって一生懸命チューナーを作って、それで「電波入った!入った!」みたいな(笑)。ステレオと言ってもスピーカーはたぶん1つしかなかったような気がするんですが(笑)、やはり音は良かったですよね。

 

3. 好きなことをしていたら、いつの間にか業界にいた

古賀 正恭 氏 FM COCOLOプロデューサー

−− その後、大学に進学されたんですか?

古賀:一浪していきました。結局、卒業はせずに8年間在籍したままでしたけど(笑)。京都と大阪の中間ぐらいのところに住んでいたので、学校は京都の学校に行ったんですよ。しかも無謀にも北山というところにある学校に行ったんですが、そうしたら通うのは遠いし、途中でめげちゃったんですよね(笑)。でも学生証で京都から大阪市内までの定期は買っていたので、学校へ朝行って、そのまま途中で抜けて、京都と大阪を行ったり来たりしていました。そうすると、あるときは京都の人たちと遊び、あるときは大阪の天王寺の人たちやミナミの人たちと遊んでいるときがあって、まだそのころって京都と大阪ってカラーが分かれていたんですが、その両方を同時に見られたので、すごく面白かったです。

−− 京都と大阪ではカラーがどう違うんですか?

古賀:大阪に住んでいる人たちは大阪に根付いた音楽を作っていると思いましたし、実際にそういう背景を持っています。でも、当時の京都は色々な人が入ってくるんですよね。その土地の人と言うよりは、地方の人とかが「京都は面白い土地のはずだ」とやって来る。だからやっていることは京都の方が尖っていて、大阪の方がもう少し柔らかかったし、でも、逆に京都は外から来た人たちが多かったので、土地に根付かないと言っちゃ根付かない(笑)。

−− なるほど・・・。

古賀:まだ若かったから、両方の街から刺激を受けていたと思います。例えば、パンクのようなシーンが来たときって、どちらかというと大阪の人たちは反応しなかったんです。京都は学生が多いので一発で反応があって、「これからはパンクだ!」と、そっちへなびいた人たちもすごく多かったですし、パンクって「Do it yourself」の精神ですから、全然経験のない人たちが「面白いことやろう!」という機運がすごくありました。

でも、大阪はもう少し街が生活に根付いているから、若造が簡単に何かしようとすると、ちょっかいを出されたり、「こんなバンド認められへんわ」とか言って、ライブハウスでやらせてもらえないとか少なからずありました。でも、それぞれに街のカラーがあって、そこから生まれる姿勢だったんだろうなと思うんですよね。

−− それが関西の面白さですよね。神戸へ行ったらまた違うわけでしょう?

古賀:神戸はあの頃から小洒落ているというか(笑)、東京を向いている感じがするのかな。ちょっと文化論みたいな話になってしまいますが、奈良は日本で一番古い都じゃないですか。そのあと京都ができて、未だに日本の都だと思って、そういう文化を持っている街でしょう? 大阪は後にできた街かもしれないけど、関西圏で言うと一番大きいエリアで、しかも、これはものすごく大きいなと思うんですけど、豊臣家以降、藩主が居なかったわけじゃないですか。江戸直轄だったから。だからある程度、好き勝手にやれたし、アナーキーだったと思うんですよ。その割に徳川直轄だから、大きいところに一番弱い(笑)。阪神タイガースを見ても分かるように、巨人がいるから阪神タイガースが生きるという(笑)。あそこに立ち向かっていって、勝とうとするけど、本当に勝てはしない阪神が本当は好きなんですよ、多分(笑)。

−− (笑)。

古賀:それが一番応援したい阪神(笑)。もし阪神が毎年優勝したら絶対人気がなくなると思いますし、阪急ブレーブスは一時期ずっとパ・リーグで1位でしたけど、全然客は入らなかったんですよね。関西であまり人気がなかったから。

−− みっともない負け方をして、ののしって。でも愛情の裏返しみたいな(笑)。

古賀:音楽もそうですけど、文化への接し方が、判官贔屓みたいなところがあるかもしれません。東京だと渋谷で音楽をやっている人と新宿でやっている人、下北でやっている人がそれぞれ勝手にやっていても成立しますけど、こちらだと比べる意識を持たないとしょうがないくらいの距離だったりしますからね。

−− ところで大学時代はほとんど学校に行っていなかったとお聞きしましたが?

古賀:ホントにほとんど行ってないです(笑)。その頃には雑誌の編集を手伝うようになっていて、そのままコンサートのお手伝いとか、バイトとも言えないことをしていました。そうすると大阪って小さいので、誰かが「ラジオやテレビの特番で何人かスタッフが必要だから来い」と言われて手伝ったり、そんなことばっかりやっていました。

−− 親御さんから「ちゃんと卒業しろ」とか「就職しろ」とかプレッシャーとかなかったんですか?

古賀:ある程度はあったけど、そんなにうるさい親ではなかったですね。1つは先ほどお話した姉が尖った人だったので、それに比べればマシと思われたのかもしれません(笑)。

−− ありがたい存在ですね(笑)。お姉さんは今なにをなさっているんですか?

古賀:今は香港に住んでいます。姉は大学を卒業してからほとんど日本にいなくて、イギリス、中国と移り住んで、帰国して、また外に出て、今は香港ですね。そういった姉に比べると僕はマシだと思われたのかもしれません。

−− では、好きなことをやっていたら、いつの間にか業界に入り込んでいたと。

古賀:いつの間にか。風太さんのような先輩を見ていて、「こういうことをして生きていけるんだな」と思ったんですよね(笑)。

−− ちなみに春一番のスタッフに入っていたことはあるんですか?

古賀:春一番というのはコンサートをやるにあたって、毎年有志のスタッフを集めてきて、そこでチームを組むんですよ。それと並行して阿部登さんがプロダクション業務とか、オレンジ・レコードというレーベル制作みたいなことをやっていたので、僕はどちらかというとそちらに付いていました。あの頃だと、大塚まさじさんのツアーバンドを手伝っていたり、レイジー・ヒップというバンドがデビューするのを手伝ったり。

−− 多少、ギャラはもらえたんですか?

古賀:いや(笑)。親と一緒に住んでいましたから、適当にすねをかじって、家に帰れば食べるものもありましたし、寝泊まりもできますから、それでしのいでいたのと、うろちょろしていると周りにもう少ししっかりしている人がいて(笑)、「PARCOのチラシを配ってきてくれたら2千円あげる」とかそういう人からお金をもらったり。最初はそんな状態でした。

 

4. 大阪での編集者生活から、東京でのラジオ&テレビ制作へ

−− 将来のこととか、遠い先のことまでは考えてなかった?

古賀:未だに考えていませんけど(笑)、こういうことでお金をくれるというのが不思議でしょうがないですね。職業だと思っていないので。だって普通の人だったら趣味の延長線上で楽しんでいることでしょう?

−− 嫌なことは何一つやっていない?

古賀:うん。で、結果的に自分で稼げるんならいいけど、人の手伝いしているくらいだったら、そこにお金は発生しないと思っているので。話を戻しますと、僕がウロウロしていたあたりの人たちから、OBCが作っている「EASY」というフリーぺーパーの編集を手伝わないか?と言われて、その仕事を手伝うことで月幾らかもらえるようになり、そのうちに今のヒップランド・ミュージック、その頃はナベプロの関西支社で「HIP」という雑誌を作っていたんですよ。その編集スタッフを一回入れ替えることになって「編集スタッフを探しているから、お前入れ」と言われて、そこで月一の雑誌の編集をやりました。

−− 当時のナベプロ 関西支社のトップは中井猛さんですか?

古賀:そうです。その編集長に阿部登(笑)。彼は編集やったことないので、僕らとかプレイガイドジャーナルから抜けた子とかを集めて、最初5、6人で雑誌を作っていました。それで今、HEPになっているところにオレンジルームという小さいホールがあったんですが、そこのコンサート・プロデュースを「HIP」でやらないか? という話になり、3ヶ月に一回くらいそこでコンサート制作をしたり、テレビ大阪ができるから、そこでテレビ番組を持たないか? といって「HIP」というテレビ番組を半年くらい毎週作ったりしていました。大阪ってミニコミレベルのものと、メジャーなものといってもマスメディアがまだ小さかったですが、それぞれが手伝いあったりしていたので、そのどちらにも顔を出せたのは面白かったですね。

−− やはりそこは東京と違いますよね。

古賀:全然違いますね。自分たちも別にそこへ潜り込みたいと思っていなかったし、気がついたら巻き込まれていたという感じなんですよね。単純に楽しいからみんなやっていただけで。また、テレビ業界にも一人くらい変な人がいて(笑)、誰かに声を掛けたらみんな芋づる式に話が回ってきて、みたいな。

−− そういった生活をおいくつまで続けていたんですか?

古賀:今まで(笑)。今もその流れですよ(笑)。

−− それはすごい(笑)。

古賀:ただ、気がついたら会社の方が「お前、明日から社員ね」と言ってきただけで、何だかよく分からないけど毎月給料をくれる、みたいな(笑)。単にそれだけで。

−− 東京に行くきっかけは何だったんですか?

古賀:「HIP」という雑誌を作っていたんですが、あるとき中井さんが「雑誌やめた」と急に言い出したんですね(笑)。

−− 雑誌制作に飽きてしまったんでしょうか(笑)。

古賀:多分(笑)。阿部ちゃんも「飽きた」って言っていたかもしれません。それで「やることなくなっちゃったな」と思っていたら、大阪の朝日放送が「ぴあみたいな情報誌を作りたいからノウハウを教えてくれ」とぴあに相談して、「Q」という各週の情報誌を作るという話になったんですよ。

−− ぴあもよく協力してくれましたね。

古賀:まだ、ぴあの関西版が出る前でしたからね。それでぴあも東京の編集者を何人か連れてきたんですが、関西でも編集の人が必要だからと、「HIP」の元スタッフたちがゴソッとそこに入ったんです。

バックが朝日放送だったので、そういう意味ではそれまでに比べると大分バブリーな編集部で、編集部員も2、30人はいました。ただ「Q」も2、3年で発行を止めて、その後、ぴあが買い取り、正式にぴあの関西版になりました。そのときに「もう3年近く編集をやっていたし、この仕事はもういいかな」と思っていたときに、東京の友達から「こっちに来ない?」と誘われたので、そのタイミングで遊びに行って。

−− 遊びに行ったんですか?(笑)。

古賀:遊びというか・・・何で行ったのかよく憶えていないんですよね。「とりあえず東京行くわ」って(笑)。それが87、8年頃で、声掛けてくれた友達がホットスタッフ・プロモーションで仕事をしている子で、そこで新しいことをやるからそれを手伝えと言われて。

ただ、ホットスタッフでイベンターの仕事をするんじゃなくて、今もライターをやっている平山雄一さんが、ライター業だけではなくてNHK-FMの「サウンド・ストリート」をやると。それと並行してテレビ神奈川のテレビ番組も制作で携わるから、お前はそれを手伝えということで、NHKに行ったら湊剛さんという不思議なプロデューサーがいて(笑)、その人のもとで週一番組を手伝い、テレビ神奈川に行ったら住友利行さんという「ファイティング80」とかをやっていた方がいて、それもお手伝い。つまりホットスタッフに在籍してはいたんですけど、やっている仕事はテレビやラジオの仕事の手伝いを一緒にしていたんですね。あと、平山さんの取材の手伝いとか。

−− 今までお話を伺ってきて「その仕事、俺にやらせてくれ!」みたいに自分から名乗り上げることってあまりなかったんですか?(笑)。

古賀:ないっすね(笑)。だって何ができるか分からないんですもの。やったことないですし(笑)。

−− 来るものを拒まずで(笑)。それにしても肩の力が抜けてますね。

古賀:うん。自分ではどの仕事も「面白そう」と思っていましたし、周りの人も声を掛けてくれるんだったらやれるのかな?と思って。駄目だったら諦めればいいやと(笑)。

−− 常にお声がかかっているのが凄いですよね。人徳ですね。

古賀:いやいや。人徳はないですが、何かやらせてみたら面白いかもと周りが思ってくれたんでしょうね。

 

5. 東京は面白い街だけど、“目的”になかなかたどり着けない街

古賀 正恭 氏 FM COCOLOプロデューサー

−− 結局、東京には何年いらっしゃったんですか?

古賀:91、2年に大阪へ帰ってきたので、5年ですね。

−− ということは、バブル期は東京にいらっしゃったんですね。

古賀:バブルの最後の方ですね。でもホットスタッフは当時西麻布にあったので、やっぱりなんか変な感じでしたね。バブリーな人が一杯居ましたし、湾岸あたりがどんどん拡がってきて、インクスティックができたり、GOLDができたり、そういう時代でしたね。

で、たまたま知り合った人から「ラジオ放送をやるからちょっと手伝え」と言われて、話を聞きに行ったら、bay-fmの開局チームで、88年くらいから編成表を見せられつつ、言いたい放題するというミーティングに参加していました。そうしたらbay-fmの浅地さんが「お前ちょっと番組をやれ」と、未経験なのに3時間くらいの生放送のディレクターをやることになって。

−− いきなりですか(笑)。

古賀:基本、NHKのスタジオへ行って末端の仕事の手伝いはしていましたけど、制作は全くやったことなかったんですけどね。でも「できるから」と言われて「そうなんですか・・・」と(笑)。

−− すごい話ですね(笑)。古賀さんは東京に対してどのような印象を持たれましたか?

古賀:すごく面白いところだと思いました。ただ、実際に行って気がついたのは、大阪にいて自分が見ていた東京の風景と全然違うなと。それが何かというと、大阪では雑誌の編集とかしていたので、情報やものを携えて関西までプロモーションしに来る東京の人とよく会っていたんですよ。だから、そういう情報やものがきっちりまとまって東京の中にあるんだと思っていたら、実際にはそういったものがバラバラだったんですよね。

例えば、1つの面白いバンドをプロモーションしに来た人がいて、「いいバンドだな」と思っていたら、また全然違う人が次のバンドを持って来た。この2つのバンドはすごく似ているし、同じような感じだったから、「絶対にこのバンド同士は仲が良くて一緒にやっているはずだ」と思いつつ東京へ行ったら、全然知り合いでもないし、お互いの音楽を聞いたこともない・・・そういう状況がいっぱいあったんですよ。

あと、東京から大阪に何か仕事で来る人って、東京の現場の人じゃないんですよね。東京の現場の人は東京の仕事で手一杯だから、中堅クラスからちょっと上の人たちが地方にいらっしゃるわけです。だから、東京だとペーペーじゃ絶対に会えない人たちと大阪では会えたんです。例えば、先ほど話に出たナベプロの中井猛さんだったり、その中井さんが「知り合い」と連れてきた人が、エピックレコードの丸山茂雄さんだったり(笑)。

−− なるほど(笑)。

古賀:私みたいなぺーぺーが東京で丸山さんに会えるかと言ったら、なかなか会えないじないですか。ところが、私たちが東京の何かの現場で丸山さんと一緒になったときに、「お久しぶりです」と普通に会話していると周りが驚くんですよね。

−− 何で知っているの?と。

古賀:何でお前みたいなペーペーがこんな人を知っているんだと。そんなことも印象に残っています。あと、東京はすごく面白い街だし、色んなものが動いているんだけど、そこへなかなかたどり着かない街なんだろうなと感じましたね。たどり着けない人たちはどんどんつらくなるというか、夢だけは持っているけど現実的にならない街なんだろうなっていう感じがして(笑)。大阪だとある程度夢を持って、それが現実的にならなくても、勝手に想像しながら過ごせる街なんだけど、東京の場合はそういう現実が全部突きつけられるんだろうなという気がしました。

−− 東京の方は、システムが全部かっちりと出来上がっている感じはしますよね。だから、放送局とかもいわゆる下請けの制作会社は制作会社、本体のディレクターはディレクターと、全部がカチっと決まっていて。

古賀:そうですね。それで、なかなか交わらないという。ホットスタッフの現場の人たちがNHKとかテレビ神奈川、bay-fmといった放送局の人たちを知っているかといえば、東京ではほとんど付き合いがない。付き合いがあったとしても事業部だけで。でも、大阪にいると、もう否が応でも顔を合わせるし、どこかで一緒になるし、というのが当たり前だったんですよ。

−− そういうことなんですね。

古賀:これも後で気がついたんですけど、関西から東京に出て行くタイプの人って、特に最近はイベンターの人が多いんですよ。それも、イベンターの人がプロダクションに入るんです。なぜかというと、関西のイベンターって、アーティストプロモーションみたいな仕事も並行してするので、だんだんプロダクションの代理業務みたいなことになるんですね。だから、プロダクションに引っ張られて上京するんですよ。

 

6. 「あいつ大阪に帰って来たみたいだぞ」FM802入社からFM COCOLOへ

−− 大阪へ戻る理由は何だったんですか?

古賀:東京に行っている間に付き合っていた彼女と籍だけ入れていたんですよ。

−− 彼女は大阪の人ですか?

古賀:はい。だから、最初から別居で通い婚みたいな感じだったんですよね。それで、多分3年くらい経ってからだと思うんですけど、子どもができたので「そろそろ帰って来い」と言われて(笑)。結局帰ったのは子供が1歳になってからかな。

−− じゃあ、1歳になるまで子どもとあまり接点がなかった?

古賀:はい。たまに大阪へ戻って、遊んでいるくらいで(笑)。それで大阪に帰って来て、何をしようとも決めてなかったんですが、仲間たちがFM802の仕事をしていて、僕もラジオの仕事は東京で多少やっていたので、「ラジオの仕事を何かできるといいな」と周辺をウロウロしていたら、FM802の社員の人から連絡があって「事業部というイベントのセクションが人を探しているから、その仕事をしないか?」と誘ってくれました。それで2月に帰って来て、4月からそのセクションの契約社員みたいな形で働き始めました。

−− とんとん拍子ですね。ブランクなしで。

古賀:実際にはその事業部の人から連絡があったんですけど、よくよく聞いたら、中井猛さんとか今ウチの社長になっている栗花落 光とかに「あいつ大阪に帰って来たみたいだぞ」という話が届いていたみたいで、声をかけてくれたんですよ。あと、仲が良かった冨田君という人がいて、彼は栗花落さんとOBC時代からずっとチームを組んでいた人間で、その後、FM802のディレクターとして制作会社に入っていて、そこら辺も含めての誘いだったようです。

また、「あいつは東京でイベンターにいたらしいから、イベントのことできるぞ」と思われたらしくて(笑)。確かに籍はホットスタッフだったけれど、あまりイベントのこと分かってないんですけど・・・って(笑)。それがFM802が開局してから丸2年たった頃なので91年、2年間契約社員で働いて、その後「そのまま社員になれ」と言われて社員になりました。最初の10年が事業部で、その後から番組の編成というセクションに移りました。

−− 漂ってますね(笑)。ちなみに栗花落さんとも以前からお知り合いだったんですか?

古賀:OBCのフリーペーパーの仕事をしているときに、直接の担当じゃないけどそのOBCの中に栗花落さんもいましたし、その頃OBCが「JAM JAM」という番組をやっていて、その番組に付帯した大きい野外コンサートを年に1回やっていたんですが、その「JAM JAM」コンサートの制作チームが、ほとんど知り合いだったんですよ。さっき言った冨田くんはイベントのディレクターでしたし、グリーンズの鏡くんとか、みんな現場で走り回わっていたんですが、その番組の担当ディレクターが栗花落さんだったんです。もっと言うと、そのときの舞台監督やPA、照明は、現在FM802でやっている「MEET THE WORLD BEAT」という年1回のイベントでも一緒です。

−− その頃からスタッフが変わってないんですね。

古賀:ええ。OBCでやっていたイベントを「もうちょっと進化させたいな」と思って、FM802に持って行ったのが「MEET THE WORLD BEAT」なので。

−− 栗花落さんをインタビューしたときに「イベントをやったはいいけど、OBCの中では浮きまくっていた」とおっしゃっていたんですが・・・(笑)。

古賀:まあ・・・(笑)。そのイベントの発端は「春一番みたいなイベントをラジオ局でできないのか?」というところだったんですよね。大阪は街が小さいですから、メジャーのラジオ局の人たちやプロダクションの人たちが「春一番」に対して興味を持ったら、すぐ風太さんに接触できたんです。ナベプロの中井さんが「春一番」を観に行って、OBCのディレクターであり、大学の後輩でもある栗花落さんに「こんな面白いイベントがある。音楽番組をやるなら観ておいた方が良いぞ」とアドバイスしたらしいです。

−− FM COCOLOの方に移られたのはいつですか?

古賀:今から7年前になるのかな。実はFM802とFM COCOLOって、元々は全然別の会社でやっていて、FM COCOLOはそれなりに面白い放送を色々とやっていたんですが、会社内は混乱していたようで、今から7年くらい前に「ウチの放送がグチャグチャになっているから何かできないか?」とFM802に話を持ちかけてきたんですよ。

−− ライバルに相談してきたと。

古賀:普通だとありえないことなんですけど、こちらからすると面白い話だったので、まず番組制作の部分だけ手伝いますと。そのときに提案した企画書が、実はFM COCOLO用に考えたものではなくて、ラジオのデジタル放送化に伴う多チャンネル時代に向けて「もう1つチャンネルができるとしたらどういう放送をしたらいいか?」とシミュレーションしていた企画だったんですよ。

−− それが「45歳以上を対象とした放送局」というコンセプトだったんですか?

古賀:そうです。FM802ができてもう20年くらい経っていたので、若い子たちを対象とした番組を自分たちだけではできなくなってきていましたし、それだけだと飽和しちゃうので、もう一個上の世代の人たちで、その当時の歌謡曲でもなく、AMでもなく、FMを聴いていた人たちがそのまま上にあがって聴けるような放送局を持てば面白いかもしれないし、自分たちの制作ノウハウが使えるかもしれないというアイディアをぶつけたら、FM COCOLO側が「面白いからやってみましょう」と、それで制作に関わるようになりました。

それから2年くらい経ってから、FM COCOLO側が放送局を引き上げるという話が出てきて、ラジオは許認可事業なので、簡単にはなくならないはずだと思っていたんですけど、その1年前に名古屋の放送局RADIO-i(レディオ・アイ)が、経営が上手くいかなくなり認可を戻したんですよね。総務省もそれを認めたので、これからはそういうことが起きるかもしれないという話になって、2年間やっていたプロジェクトを私たちは続けたかったので、一応会社の中で相談して、FM COCOLOを引き取ることになりました。

 

7. 音だけで勝負できる人たちを優先した選曲

−− 今、FM802の中にFM COCOLOがある形なんですか?

古賀:認可に関してFM802が改めて認可し直してもらって、FM802の中で、FM802という放送局とFM COCOLOという放送局2つの認可を貰って放送しています。

−− いわゆる一局二波ですね。場所も同じところから放送しているんですか?

古賀:今は全く一緒です。前は向こうが持っていた南港という、湾岸のところにあったスタジオで全部やっていたんですが、そこを全部引き上げて一緒にやりましょうということで。

−− エルダー層向けの第2波ができて、リスナーにとっても楽しいんでしょうけれども、制作側にとってもやりやすい環境になりましたよね。

古賀:私たちの方もそうですけど、若い子に向けて意識しなくちゃいけないFM802が、リスナーの年齢がどんどん上がることで、若い子に振り切れない状態になってくるんですよ。ですから、FM802側を中心にして見たときに、振り切れるようになったのはすごく良いですね。

−− ファッションと同じで、全方位に向けると中途半端になっちゃいますしね。FM802はいまだにジャニーズはかからないんですか?

古賀:一応ジャニーズはかけてないですね。AKBとかあそこらへんのアイドルもかけてないです。

−− どこらへんまでOKになったんですか?

古賀:今だと、Perfumeやきゃりーぱみゅぱみゅはかけていますね。そんなに多くはかからないですけど。最初にこの放送局を作ったメンバーの性格もあるんでしょうけど、どっちかというとバンドものとかの方が好きっていうカラーは確かにあります。FM802開局のときに制作チームにかなり意識させたのが、音楽って色んなものが出てくるけど、関西にわざわざ来てコンサートまでやっている人たちを優先させようと。地方まで来て、地方の人たちの顔を見て音楽を作ろう、音楽を広げようとしている人たちだから、きっと自分たちの感覚とも合うはずだと思ったんですよね。

それから、80年代後半くらいからレコーディングでいくらでもごまかせる時代になってきたので、制作スタッフには「なるべくコンサートを観て、それで良いと思ったものをかけなさい」と言いました。そうすると必然的にアイドルものとかは、どうしてもオミットされていきます。テレビとか視覚的な要素まで放送できるんだったら可能性があるんですが、ラジオはそれがないですから、音だけで勝負できる人たちを優先した方が良いだろうという判断です。

−− 栗花落さんとお会いしたときは、小室哲哉さんの楽曲もNGだったんですよね。

古賀:TMも小室さんプロデュースの曲も最初はかけていたんですよ。でも、そうすると、自分たちの入れたいものの隙間がどんどんなくなっていくんです。別にNGを増やそうということではなくて。

−− あれだけ売れているんだから俺たちがやらなくてもいいだろうという。

古賀:そういうことです。わざわざやらなくても他で一杯かかるだろうからいいだろうと。わざわざそこの部分を空けて、自分たちがかけたい曲をかけていたという感じですね。

−− 例えば、EXILE関連の曲はかかっているんですか?

古賀:EXILEはまあまあかかっていますね。今ってこれをやめようとかって判断するのは相当難しいです。AKBみたいに分かりやすい形があればいいけど、どの形をやめるのかという判断は本当に難しいです。

−− AKB関連の曲はかかっていない?

古賀:今のところ。それも、やめたいものを多くするというよりも、かけたいものをどうやって広げるかということの方が大きいので。本当はNGにしない方が良いという意識はあります。だから、EXILEはNGにしていないけれど、結果的にオンエアはすごく少ないです。基本、制作の人たちが自ら選曲するので、さっきみたいな下地を持っていると、どうしてもかかる頻度は少なくなります。

−− 要するにFM802からヒットを出そうという気持ちは未だに続いている?

古賀:意識はありますけど、だんだんその感覚は、結果も含めて薄れていますね。1つのメディアでポーンと何かが売れるということも少なくなってきているし、音だけでヒットすることが少なくなっています。それから、これだけCDそのものが売れないと、どれが売れたのかよく分からないんですよね。

一番大きかったのが、やっぱりレコード屋が関西でもどんどん少なくなってきて、前は放送局としてレコード屋さんとコンタクトを取って、今どんなものが動いているのか教えてもらったし、そういった情報を資料として集めて自分たちがチャートを作っていたりもしたんですが、今はそういうお店がなくなってきて、お店自体もタワーとかHMVとかだと東京で一括仕入なので、大阪だけのお店の数字とかってなかなか出ないんですよね。

−− 地域性が薄れていますよね。

古賀:レコード会社も宣伝体制を地方に置くんじゃなしに、東京で一括して置いて、その指示の元にやるから、大阪でちょっと売れる兆しがあっても、変な話、東京に逆に潰されちゃうんですよ。今はこれをやらなきゃいけないから、大阪で反応があっても東京で言われたことを優先しなくちゃいけないという。

 

8. ラジオにとってストリーミングは脅威でなく共存する相手である

−− FM COCOLOにはFM802のような制約はないんですか?

古賀:聴いている人が45歳以上の人たちですよ、ということだけ意識しようと。それで音楽のジャンルに関しては、今更つける必要もないし、昔のアイドルとかもかけています。FM802ではかかっていなかったけれど、アイドルも時代を感じさせるものとしてはすごく大きな存在だったので、例えば、松田聖子をかけたり、そういうことはちょこちょこあります。

−− つまりそれは懐メロという意味合いですか?

古賀:ある意味そうですね。それに聴いている人たちは分別がつくので、FM802だとわざわざ「そういうのはやめよう」ということにしていたけど、FM COCOLOでは言わなくてもいいのかなと。偉そうに聞こえるかもしれませんが、今のFM COCOLOはラジオから聴き手へ、特にその40代の人たちへ、啓蒙活動をする必要は全くないだろうと。

むしろ、その人たちから色んなものを教えてもらったり、共有できることの方が大きいと思うんですよね。想定している世代が団塊の世代とそのちょっと下、団塊の世代の人たちから後の世代の人たちなんですが、別にその人たちに対してこちらがどうのこうの言う必要はあまりないかなと考えています。

−− それで野中さん「パイレーツロック」みたいなマニアックな番組が成立しちゃうわけですね(笑)。

古賀:むしろ、マニアックのなものの方が、外にあまり出てこない分、飛びつきやすいというのはあるんじゃないですかね。FM COCOLOに入ってから、反応で言うと、いわゆる世間的な大きいヒット曲をかけたときよりも、マニアックな曲をかけたときの方が、リスナーからの直接のリアクションはすごく大きいです。

−− 栗花落さんにお話を伺ったときに、ラジオの使命は“listen to the music”じゃないんだと。“meet the music”なんだと。音楽と出会える、そのために人の作ったプレイリストを聴く、そして新しい音楽を発見する。これがラジオの最大の醍醐味じゃないかとおっしゃっていたんです。

古賀:そうですね。

−− そういう意味でいくと、いわゆるサブスクリプションタイプというか、SpotifyやApple Musicなどのストリーミングはまさに人の作ったプレイリストを聴くというスタイルの音楽の聴き方ですよね。これはやはり放送局にとっては脅威なんですか?

古賀:あまり脅威としては感じてないですね。むしろ、どうやって共存していくかを考えています。そういう意味では、有線と一緒だと思っていて、有線はチャンネルがいっぱいあって、それを選ぶ人がいるのと、ラジオとの共存みたいなことだと。普通にダウンロードして音楽を聴くとかCDを聴くのと、ラジオの違いは先ほど言った、自分で選ぶんじゃなしにこっち側で選んだものを聴いてもらうということだと思うんですよ。そして、今あるサブスクリプションタイプの音楽の聴き方とラジオの聴き方で考えると、大きな違いはDJの存在だと思います。

音楽を並べて、音楽の良さだけを聴くんだったらサブスクリプションでもできると思うんですが、そこにDJがいて、曲の説明や紹介をしたりするのは、ラジオのアピールすべき店であり、個性になってきます。そういう意味では棲み分けができていると思うんですよね。濃い音楽ファン、つまり自分で深く掘っていっていけるタイプの人は、もしかしたらサブスクリプションの方が良いかもしれない。そして、もうちょっと薄いタイプの人たちは、ラジオの方で説明も受けながら聴くのがいいかもしれない。だから、レコードの時代に安い輸入盤と解説がついている日本盤で買う層が違ったのと一緒で、それくらいの共存の仕方のような気がしますけどね。

−− サブスクリプションは無限に曲を聴けるんですけど、人の言葉というか喋りが一切入らないものを丸一日聴けるかというと、意外に聴けないんですよね。

古賀:喋りがアクセントになっていますからね。サブスクリプションをラジオ代わりに聴くというのはあると思いますけど、それでCDを買うかどうかというのは別の話でしょうね。

最近特に思うのは、私が年を食ったせいかもしれないですけど、技術や方法論、色んなものが進化して、便利になって、色んなことができるようになったんですけど、いかんせん人間の身体ってここ100年、200年でそんなに進化してないじゃないですか。確かに100m走で10秒を切る人がいっぱい出てくるとか、そういった進化はあるかもしれないけれど、普通の人間で言うと、例えば、情報処理能力がずば抜けて変わったかとか、暗算がすごくうまくなったかとか、そんなことはないじゃないですか。

−− そこらへんは全然変わっていないでしょうね。

古賀:人間の記憶力とか色んな感じ方って、そんなに変わらないと思うんですよね。そうしたら、例えば、24時間音楽聴けますとなったときに、私もそうなったら嬉しいなくらいには思っていたかもしれませんが、自分の生活の中でそこまで必要かどうかは難しいところですよね。

−− そんなには音楽を聴けないですよね、実際。

古賀:必要というよりも、処理できなかったりする。そういう意味では、今考えたときにアナログレコードの時代、LP片面二十数分くらいで、ひっくり返さなきゃいけないとか、すごくよくできていたなという気もしますし、CDは普通に1時間入りますが、1時間通して同じテンションで音楽を聴けるかと言ったら、違うような気がします。

−− そう考えるとラジオって長時間聴き続けることができますよね。

古賀:ある時期からラジオって、どちらかというとラジオに向かって座って番組を聴くというよりは、何かしながらずっと垂れ流しているという生活スタイルが多いと思うんですよね。そうすると、その分だけ聴いている人は増えるけど、聴き方の濃度が違いますよね。だから、音楽も何となく入ってくるくらいがちょうど良かったわけです。本当に濃い音楽って、すべて立ち止まって聴かなくてはいけなくなるから、そうすると聴ける時間というのが限られてきますしね。ですから、今後はツールが進化して便利になった分だけ、逆に聴く側がその使い方を自分たちでどう調整するか?という時代になるんじゃないかと思っています。

−−本日はお忙しい中、ありがとうございました。古賀さんの益々のご活躍をお祈りしております。

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