第134回 湊 剛 氏 元NHKディレクター
湊 剛 氏 元NHKディレクター
今回の「Musicman’s RELAY」はFM COCOLO/FM 802古賀正恭さんからのご紹介で、元NHKディレクターの湊 剛さんのご登場です。70〜80年代に若い世代に絶大な影響力を与えた「若いこだま」「みんなのうた」「サウンドストリート」「YOU」。また近年は佐野元春さんの「ソングライターズ」など、NHK・NHK-FMの数多くの名番組を手掛けられた湊剛さんに、NHK時代の自由奔放な番組作りから、日本の音楽の現状まで話を伺いました。
インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
プロフィール
湊 剛(みなと・たけし)
元NHKディレクター
1944年(昭和19年)生まれ。
1965年にNHKに入局。「みんなの歌」「ヤングミュージックショー」「若い広場」「若いこだま」「サウンドストリート」「YOU」など数々の音楽番組を手がけた。
近年は佐野元春の「ソングライターズ」も手がけている。
1. 内気な子を目立ちたがり屋に変えたエルビス・プレスリーの衝撃
−− 前回ご登場いただいたFM COCOLO/FM 802の古賀正恭さんとはどのようなご関係なのでしょうか?
湊:昔、NHK-FM「サウンドストリート」という番組があったんですが、DJに音楽評論家を誰か1人入れようと、平山雄一君を起用しまして、彼のアシスタントとして古賀君がずっとついていたんですね。彼も音楽が大好きなので、意見が合いました。その後、僕は上司を殴って大阪へ転勤にさせられたんですね(笑)。
−− (笑)。
湊:大阪へ飛ばされると決まったときに「もうNHK辞めようかな」と思ったんですが、3年間大阪で毎日遊んでいても良いと言われたので(笑)、「ラッキー」と思ってね。それで大阪に行った頃にFM802が始まって、栗花落(光)ちゃんや大阪に戻っていた古賀くんたちとの付き合いも始まり、それ以来、仲良くやっています。あと福岡風太は「春一番」から良く知っていますしね。
−− このリレーインタビューは福岡さんから古賀さんに繋がって、今回、湊さんに辿り着きました。
湊:風太とは長いですからね。僕は東京人の中では珍しく、大阪で気の合う人が多かったですね。大阪ってどっちかと言うと個人主義じゃないですか? だから東京の人はみんな嫌になって帰ってきちゃうんですけど、僕は非常に気が合いましたね。
−− 今も大阪にはよくいらっしゃるんですか?
湊:最近はあまり行かないですね。電話が来たり、向こうが東京へ来たり、あと「春一番」へ行ったり、そのくらいですね。
−− ここからは湊さんご自身のお話を伺いたいのですが、お生まれはどちらですか?
湊:新宿です。僕は昭和19年生まれなんですが、終戦の間際だから、うちの親父は「戦争に行かなくて済むかな?」と思っていたら赤紙がきて、終戦の年の6月か7月に出征したんですよ。
−− そんなギリギリに戦地へ赴かれたんですか・・・。
湊:ツイてなかったと言えば、ツイてなかった。僕はまだ乳飲み子で東京駅までお袋にだっこされて親父を見送ったそうです。それで8月の下旬に戦友が来て、一緒にフィリピン海溝を移動中に魚雷が命中して、その戦友は泳げないので、船の切れ端かなんかに掴まって助かったんだけど、親父は泳ぎが達者だったらしく、泳いでいっちゃってどこいったかわからないと。そんなことで、母は二十歳で僕を産んで未亡人になってしまったんです。
−− 泳げることがアダになってしまったんですね。
湊:そうですね。母方のおじいさんは新宿の戸山高校で英語の先生をやっていたので、英語が達者で、学校を辞めた後は自分で貿易商をやって、海外と交流していたんですね。お袋もその血を引いているのか英語が達者だったので、戦後おじいさんのツテでNHKの交換台で働きだして家族を養ったんです。その影響もあって、小さい頃から映画は、例えば『グレン・ミラー物語』『ベニー・グッドマン物語』『5つの銅貨』とかフレッド・アステアのミュージカルとか、洋画しか観た覚えがないんです。音楽もラジオから流れてくる『テネシーワルツ』だったり、物心ついたときから英語の曲しか聴いた覚えがないんですよね。
−− 音楽ではどんなアーティストが好きでしたか?
湊:やはり1956年のエルビスとの出会いが大きかったです。僕は登校拒否児で、「学校に行きたくない」と毎日駄々をこねて、お袋に一緒に学校へ来てもらったり、今からは想像できない内気な子だったんです。でも、56年の『ハートブレイク・ホテル』を聴いたときに、背筋がザーっとなったんですよね。
−− 衝撃的だった?
湊:そう。それから急に人間が変わったように目立ちたがり屋になって、中学に入ったら机の上に乗って箒をギター代わりに一人で歌ったり、絵に描いたようなエルビスファンになっていました。『ブルーハワイ』のとき、エルヴィスは白いパンツを穿いていたので、お袋に「トレパンで同じのを作ってくれ!」と言ったりね。お袋は裁縫がすごく上手かったんですよね。僕は不良だったから学ランのボタンとかも一個多く作ってくれとか、お袋を抱き込んでね。
−− 同級生はみんなそういう格好をしていたんですか?
湊:いや、そういうものを着ることに対してビビっていましたね。高校3年のときにようやく音楽仲間ができて、僕はギター&ボーカルができたから、みんなに練習させて、謝恩会みたいな会があるとコピーしていました。
−− やはりエルビスというのは衝撃的な存在だったんですね。
湊:衝撃でしたね。死んだときショックを受けたのは、エルビスとケネディとジョン・レノンですね。エルビスが死んだときに「嗚呼そうか、俺のアイドルはいなくなったんだ。俺がアイドルになろう」と決めてね(笑)。30才くらいのときですね。
−− 今、ジョン・レノンの名前が出ましたが、ビートルズもお好きだったんですか?
湊:もちろん。私はプレスリーからビートルズに転向したときに、「裏切り者」って言われたんですよ。
−− 好きなアーティストが変わるって「転向」というイメージだったんですか?
湊:昔って1回好きになったら、あまり変わらなかったじゃないですか。今の人はみんなダウンロードで、あれも好き、これも好き、とバラバラになっちゃうけど。当時は1回好きになったらなかなか変わらない。一生好き、みたいなファンもついたりするじゃないですか(笑)。エルビス・プレスリーには官能という感覚を教えてもらったんですよ。彼は元々ゴスペルやカントリーを歌っていたけれど『ハートブレイク・ホテル』でロック歌手になった。アメリカでは下半身を映さなかったじゃないですか。あまりにもセクシャリティが強くて。
−− 腰をクネクネさせて、いやらしすぎると。
湊:そうそう。不良性もあって「すげー格好良いなあ」と。でも、ビートルズが出て来たときにはやはり歌詞にやられたんですよね。最初は分からなかったですけど、その後、訳詞を読んで。歌詞とあのサウンド感がものすごく新しかったですね。
2. 「フォークとロックは誰もやっていないな」
−− やはり音楽番組への憧れがあったんですか?
湊:小さいときに観ていた「シャボン玉ホリデー」や「ヒットパレード」といった音楽バラエティは大好きでしたし、もちろん外国の番組にも影響されていました。それでどうしても音楽番組を作れるところに移りたいと、先輩たちにかけあって、家庭教養番組班に移りました。そこは「こんにちは奥さん」や「女性手帳」、ラジオだと「みんなの茶の間」みたいな番組を作るところだったんですよ。
−− それは朝やっているような番組ですか?
湊:そうです。その中でもプレスリーとか朝にはふさわしくない曲をバンバンかけていました(笑)。ある日、10分のスチール番組を初めて作ることになって、SEとロックミュージックと写真だけで構成したんですよ。自分的にはいい番組になったと思うんですが、それを観ていた部長が突然来て「湊くん、あれは失敗作だね」「君はこの部に向いていない」なんて言うんですよ。そこで「青少年班に行きたいので、なんとかしてください」とお願いしたら、青少年班の偉い人を紹介してくれて、青少年班に行くことになりました。そこは音楽番組の、青少年向けの番組を作っていました。
−− そこにたどり着くのに何年かかったんですか?
湊:8年くらいですね。その間ほとんど麻雀やっていましたけどね。NHKには職員が一万何千人いるんですが、麻雀ではずっと一位ですよ、本当に(笑)。でも、麻雀で一番になってもしょうがないなと思ったんですよね。この中にいるなら、みんなができないことで一番になりたいと思ったときに「そうか、フォークとロックは誰もやっていないな」と。まだ紅白歌合戦の視聴率が80%くらいあった時代ですからね。その時代に出会ったのが岡林、拓郎、陽水などなどです。
−− NHKの音楽番組といっても、いわゆる芸能番組とは違うポジションにいらっしゃったということですね
湊:青少年番組はそういうサブカルチャー的な番組ですから。
−− 例えば、美空ひばりさんと仕事をご一緒にするような部署ではない?
湊:全然違います。要するにカウンターカルチャーとか、オルタナティブな考え方でやっている人たちを探してくるんです。
−− NHKの中で最もロックな場所だったと。
湊:そうです。特に青少年班の青年班がそうです。少年番組班というのは「七瀬ふたたび」や「中学生日記」といった少年ドラマ、「みんなのうた」や「おかあさんといっしょ」のような幼児番組をやっていました。そして青年番組は「若い広場」だったり「YOU」「ソリトン」「トップランナー」といった番組ですね。
−− 僕らがイメージするNHKの価値観とは違う発想で作られた番組群ですよね。
湊:「湊とか波田野先輩が作る番組は“不良養成番組”」とよく言われていましたからね。当時は考査室という部署があって、「放送禁止A」はかけてはいけない曲、「放送禁止B」は上司が良いと言ったらかけて良い曲とか、そういうリストがあったんです。「放送禁止A」は例えば、なぎら健壱の『悲惨な戦い』という力士のまわしが取れちゃうと曲とか、『手紙』という曲は部落問題に触れているから駄目とか、たくさんありました。
−− 山口百恵さんも紅白で歌詞を変えて歌っていたりしましたよね。
湊:「真っ赤な“ポルシェ”」が駄目だから「真っ赤な“車”」にね。でも“ポルシェ”じゃないと意味がないわけじゃないですか。時代感とか伝えるには。まあ、ある種の自主規制ですよね。僕たちもこれはおかしいと思って、「誰も聴いてないだろう」と一回だけ”放送禁止曲”特集をやったら、上司が聴いていて始末書を書かされたりしましたね(笑)。でも、リスナーの反応は「良くやった」「面白い」「もっとやれと」とすごく良かったんですけどね。70年代というのは安保もそうだし、ベトナム戦争もそうだし、ある種、世の中がものすごく胎動していた時代で、音楽も60年代の後半からロックやビートルズのおかげもあって、すごく価値観が変わったんですよね。
3. 「懐かしい未来、新しい過去」というコンセプトを表現する
−− 湊さんが好き勝手に番組作りをし始めたのは、おいくつの頃ですか?
湊:40年くらい前ですから、32、3ですね。ピンク・フロイドが出演した「箱根アフロディーテ」と「中津川フォークジャンボリー」が71年で、その後くらいからです。それで「若いこだま」という番組を担当し始めて、同時に「みんなのうた」もやるようになりました。日常的にはラジオを何本か作りながら、「みんなのうた」を2ヶ月に1本という感じでしたね。「みんなのうた」で一番上手くいったのはやはり『山口さんちのツトム君』です。これは150万枚くらい売れました。
休みの日に自宅マンションで寝ていたら、夕方の5時頃マンションの下から「湊くん!」って声が聞こえて、下を覗いたら、みなみらんぼうさんが自転車でいたので、「あとで」って言って降りていって、「つまんないナァ」って言ったら、らんぼうさんが「あっ、それいただこうか」と(笑)。それで飲み屋に行きがてら「曲どうしようかな」なんて話して、当時「伊東にゆくならハトヤ〜」というハトヤのCMが流行っていたから、「あんな感じでどう?」と。それでできたのが『山口さんちのツトムくん』ですよ。
−− 大元は「ハトヤ」のCMソングなんですね(笑)。
湊:きっかけはね。曲のイメージができあがったのは、ほんの一瞬でした。20分くらいの話です。
−− 『山口さんちのツトムくん』は湊さんのプロデュース曲ということですか?
湊:プロデュースというよりも、単純に思いついたというだけです。今でもそうですね。瞬間的に思いついたことが番組になったりします。よく眠れなくなるときは番組のことを考えるんですが、頭の中で全部でき上がってしまいます。オープニングからエンディングまで。MCも構成も、音楽の選曲も全部決まってしまうんですよ。
−− すごいですね。
湊:それで音楽番組はずっと作ってきたけれども、最近のテレビの音楽番組は全く面白くないし、すでにあるものは作りたくないと思って作ったのが、佐野元春の「ソングライターズ」だったり、前から忌野清志郎と仲が良かったので『トランジスタ・ラジオ』という名曲をドラマ化したり、今年は大瀧詠一さんの追悼番組もやりました。
後輩の中で、本当は音楽番組をやりたかったのに社会教養だったり、報道のドキュメンタリーだったり、そっち系の番組を作っている人たちと今は組んでやっています。音楽番組をやっている人はEXILEをやるか、AKBをやるか、ジャニーズをやるかですが、僕はそっち全然興味ないですから。昔から興味ないですけどね(笑)。私はカウンターカルチャーもサブカルも大好きなんですが、今はメインストリームが弱すぎるから、カウンターがきかないですよね。
−− うーん。
湊:それは完全に既存メディアのポテンシャルの低下と、ネットのせいですかね。便利になっていくと同時に失っていくものがワンセットで必ずあります。僕がなぜ70年代のカウンターカルチャーやサブカルを番組でやるかと言ったら、そこにいた人々は大量の情報に惑わされずに、今を生き抜く力を持っていた人たちだからなんです。若い人にも、50代の人にも、ロック好きな人にも、もう1回それを確認してもらいたいんですよね。
−− それは「春一番」にも共通したテーマですよね。
湊:全部そうですよ。最近、横浜の赤レンガ倉庫で「70’s バイブレーション」というのをやっているでしょう? 古い人がそういうことをやるのは当然だけど、30前後の若い人たちがアプローチしてくれないと、今の人たちには届かないじゃないですか。私は5〜6年前から思っていることですが、「懐かしい未来、新しい過去」なんですよ。なんでも未来が全部新しいわけじゃないし、過去が全部古いわけじゃない。
−− 「懐かしい未来、新しい過去」・・・良い言葉ですね。
湊:はい。音楽で言えば、その歴史観ですよね。古い言葉で言えば、温故知新ということにもなりますけど。その新しいコンセプトを表現できる人たちと、もう1回組みながら、死んでいきたいなと思っています。
−− そんな簡単に死なないでください(笑)。
4. カウンターカルチャー&サブカル=隙間産業がやりやすかったNHK
−− 湊さんは数多くの日本のアーティストたちと親交されていますよね。
湊:そうですね。NHKの中の人より外の人の方が大事だったから、必ずライブハウスに行きましたし、作ったLPもじっくり聴く。最後に本人と酒を飲む。酒を飲まない人とは飯を食う。この3個をやらないと、その人の側に行けないんですね。側に行って気に入ったら、何でも応援するという気になれますからね。
−− すぐに打ち解けてしまう?
湊:すぐ人の中に入り込みたくなるんですよね。もちろん、そのことを嫌がる人もいるじゃないですか。普通の銀行員とか公務員とか、一般の人たちは挨拶して徐々に仲良くなっていく。私はすぐ側にいかないと気が済まないんですよ(笑)。でも、優秀なアーティストは分かってくれるんです。もちろんお金も使いますよ。その当時はみんなお金を持ってないから。当時のNHKは今より伝票切れましたしね(笑)。
−− (笑)。ちなみに今のNHKの体質は、当時とあまり変わってないんですか?
湊:いや、すごく変わっていますよ。ただ、物産系とか商事会社の人がNHKの偉い人になるのではなくて、一番いいのは芸大の学長とかがやるのがいいんですよ。アカデミズムで人格のしっかりした人たちがいて、自由なNHKを作れるような状態が一番良いんじゃないかなと思いますね。
−− NHKって二面性があって、湊さんがやっていたようなアナーキーな番組を流しつつ、一方ではカタイ保守的な部分もあるわけじゃないですか。
湊:昔の日本人には中流思考があったんですね。その時代の紅白の視聴率が80%だったのが、今は40%くらいになっているわけじゃないですか。その40%の中の5〜10%が、今までの日本人的な考え方の層だと思っているんですよ。それで、あとは上の5〜10%がノイジー・マイノリティで、これがガッと増えたのは、お金の時代になって、お金をいっぱい持っている人たちが増えてしまったからだと思うんです。そして、フレキシビリティとか日本人感がどんどん減っていったというのかな。
−− 格差が拡大したことで、日本人らしさが失われていった?
湊:お金がすべての時代になり過ぎたのかなという。ただ、NHKで一番良かったのが、そんなに大きな会社だから、私たちみたいな隙間産業がやりやすかったんですよ。
−− 懐は意外に深かった。
湊:深かったです。本当にそうです。
5. 60年後半から70年代の音楽を見つめ直す
−− (笑)。上司を泣かせたことがあるんですって?
湊:ええ。ボブ・マーリーの『No Woman, No Cry』も和訳で「泣くな女、女泣くな」とそのままテロップ入れたら、放送前に上司が観に来て「湊くん、あそこの“泣くな女、女泣くな”を“女性たちよ、悲しまないでくれ”に直してくれないか」と言うから、ちょっと待ってくださいよと。「“女性たちよ、悲しまないでくれ”としたら、歌の詞にならないんですけど」という話で。それで押し通しましたけどね(笑)。だから、始末書だらけになるし、終いには泣いた上司もいますね。
−− 上司を泣かした(笑)。
湊:「何で君は僕の言うことを分かってくれないんだ」って(笑)。
−− (笑)。湊さんはNHKを定年まで勤め上げたんですか?
湊:いや、ちょうどWOWOWができるときに、私が大阪にいるときですが「来ないか?」と誘われました。NHKよりもお金の条件も良いということもあったんですが、最終的に「私の好きなように番組作りをやらせてくれるなら行く」と言ったら、「それでいいから」ということで移ったんです。それでトップと話してみたら、「ウチは貸しレコード屋や貸しビデオ屋で良いから、番組を作る必要はない」と言われたんですよ。それだったら私が居る必要はないですねってなりますよね。結局WOWOWは『ツイン・ピークス』のビデオを持って来て流してうまくいったんですけどね。
−− それでWOWOWは辞められたと。
湊:まあ、他にも色々あったんですけどね。WOWOWを辞めた後は、友達の会社の役員になって、NHK BSで『サタデー・ナイト・ライブ』を借りてきて流したり、ザ・ローリング・ストーンズのライブを撮ったり、南こうせつさんや奥井香さんと音楽番組を作ったりしました。結局、すべて音楽が下地になっているんですよね。今はエンターテインメントな歌番組というよりも、もうちょっとドキュメンタリー的な、音楽のできる過程とか、歌詞の作り方とか、そういう番組を作っています。
−− あと先ほど70年代にシフトしていると仰っていましたよね。
湊:ええ。なぜ70年代に今シフトを変えているかというと、60年後半から70年代、アメリカもUKも日本も、優秀なソングライターがたくさん出ていたんですよ。昨日、久しぶりにイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」を聴いていたんですが、あれって「もう私たちは戻り道がない商業主義という名の下のホテルにチェックインしてしまった」という、80年代を示唆する歌だったんですね。その予測通りアナログからデジタルになり、その後ネットの時代になって、どんどん便利になるにともない、音楽がコンビニエンス化して、情報になってしまった。同時に邦楽も参考にするのは洋楽じゃなくて、邦楽の曲になってしまった。要するに、身近な邦楽の曲をパクるから、どんどんポテンシャル、中身の質が落ちていく。今年も去年もそうですが、ヒットした曲って1年もっていますか? その年を代表する曲って思い出すことができますか?
−− うーん、難しいですね。
湊:ないでしょう? まあ、あまり好きじゃないけれど、せいぜい映画『アナと雪の女王』くらいですよね。
6. 死ぬまでに「会えて良かったな」と思えるアーティストに会いたい
−− 日本の音楽業界というか、アーティストのポテンシャルは落ちてきている?
湊:完全に落ちていますね。中には良い人もいますけどね。
−− その原因の一つは洋楽を聴いていないからと湊さんはお考えなんですか?
湊:そうですね。放送局も洋楽をかけなくなってしまって、それで聴かなくなった。あと、アメリカでもイギリスでも、偉大な先達を若い人たちがリスペクトしているじゃないですか。そういった環境で若いアーティストも生まれているわけで、日本だけがだんだん地盤沈下している印象があるんです。やっぱり売れなきゃしょうがないという結果主義が全てになっているのも大きいですけど、いかがなものかなと思いますよ。
−− やはり今の音楽業界に対して我慢ならない?
湊:いや、我慢ならないというか、レコード会社自体がもう存在が難しいですよね。だって、ちゃんとしたディレクターがいないですものね。ですから、矢沢の永ちゃんのやり方が正解なんじゃないですか。自分のレーベルを作って、全部自分でやって。利益率は良いですからね。だから、レコード会社はこれからどうしていくのかなと純粋に思うんですよ。
−− 最近始まったストリーミング配信などに関してはどういうお考えですか?
湊:あれって「何万曲あります!」とアピールしてお金を取っているけど、いくら曲数を増やしても聴かないんじゃないかな。
−− ラジオ的な、アメリカで言えばパンドラ的な、向こうが勝手に選曲をしてくれる形ならいいと思うんですけどね。
湊:今トークショーを積極的にやっているのも、ラジオもそういうことをしなくなったし、テレビではできないからなんですよ。やはりリアルなものの方が私は絶対良いと思っていて、現代はどんどんリアリティがなくなって情報化しているから、逆にリアルで突出力のあるものを求めていくんじゃないかなと。もちろんネットは情報伝達のツールとしてはもの凄くいいけど、こうやって話をしたりするのにもニュアンスってあるじゃないですか。人間同士の声とか顔とか。そういうものが大事になって来るんじゃないでしょうか。
−− 湊さんが現在、注目しているアーティストは誰ですか?
湊:僕が今年からプロデュースしている「寿渕まな」です。個人がメデイアになると考えているので、彼女のプロデュースを通して、特に70年代のPOPミュージックをモチーフにしたオリジナル楽曲を制作中です。彼女は「懐かしい未来、新しい過去」を表現してくれる子なんです。僕が女の子のプロデュースをするのは、石川セリさんの妹でROMYさんという方がいるんですが、そのROMYさんのレコードを一緒に作って以来だから30年ぶりになります。彼女は70年代ロックを完璧に歌える子なんですよ。
−− 今時の子なのに。
湊:そうです。カルメン・マキ&OZの『私は風』という12分くらいの長い曲を見事に歌いきりますし、ミカバンドの『タイムマシンにおねがい』『塀までひとっとび』とか、彼女が歌うと本当に素晴らしいんですよ。とにかく、この1年はその子に本気で取り組んでいきます。最近は時代の変化が激しいですから、なかなかトータルで長持ちするようなアーティストが出てくるのは難しいです。だからこそ、死ぬまでに、寿渕まなもそういう子なんですが、彼女以外にも「この人に会えて良かったな」と思えるアーティストに出会いたいですね。
−−本日はお忙しい中、ありがとうございました。湊さんの益々のご活躍をお祈りしております。