広告・取材掲載

第147回 株式会社ARIGATO MUSIC 代表取締役 南部喨炳 氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」はアソビシステム株式会社 中川悠介さんからのご紹介で、株式会社ARIGATO MUSIC 代表取締役 南部喨炳さんのご登場です。大学在学中にバンドでインディーズ・デビューをされた南部さんは、バンド活動と並行して裏方業務を始め、2006年には自身のレーベル”SouthBell”を設立。株式会社ザザでマネージメント業をされる中で、「MAN WITH A MISSION」と出会い、以後、マネージャーとして二人三脚で国内のみならず海外での活動に邁進されています。そんな南部さんにご自身のお話からアーティストの海外進出の醍醐味・難しさ、そして今後の夢までじっくり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

プロフィール

南部喨炳(なんぶ・りょうへい)

株式会社ARIGATO MUSIC 代表取締役

1980年9月11日生まれ

1999年 和光高校卒業
2003年 慶應義塾大学総合政策学部卒業
2003年〜2004年 自身のバンド活動をしながら裏方業務(レーベルA&R / スペシャMC等)を始める
2006年 自身のレーベル”SouthBell”設立
2010年 株式会社ザザ取締役執行役員に就任(2017年4月に代表を退任)
2013年 株式会社FYD設立
2017年 株式会社ARIGATO MUSIC設立

20代前半、TV番組パーソナリティー、ラジオDJ、レーベルA&Rなどの職歴を経て独立。現在は音楽プロダクション、レーベルの代表として活躍中。また、「MAN WITH A MISSION」のマネージャーとしてデビュー前から携わり、その手腕と実績は高い評価を得ている。

 

 

1. アフリカのセネガルで受けたカルチャーショック

 

ーー 前回ご登場頂いたアソビシステム株式会社代表の中川悠介さんとはいつ頃出会われたんですか?

 

南部:中川君と出会ったのは彼が和光中学1年、僕は2年の先輩・後輩という関係ですね。彼が転校するまでの2年間一緒に過ごしました。

 

ーー 南部さんは高校まで和光だったんですか?

 

南部:僕は高校まで和光に行っていました。だからその当時からの付き合いですね。

 

ーー 中川さんとは学生時代からの知り合いで、今も仕事で繋がっていると。

 

南部:実は僕、フジパシフィック音楽出版(現フジパシフィックミュージック)のレーベルからインディーズ・デビューしたことがありまして、そのときにお世話になった笹島斌さんという常務がいらっしゃって、僕にとって業界のおじいちゃんみたいな存在なんですが、その笹島さんが「面白いやつがいる」と言っていたのが中川君だったんですよ。それで「お前なんでここにいるんだよ」って(笑)。僕も中川君も社会人になってお互い全然食えてなかったんですけど、そのときに目に掛けてくれて世話してくれたのが、その笹島さんだったんです。

 

ーー 笹島さんは色んなところにたくさんアンテナを張られていたんですね。

 

南部:笹島さんは本当に凄い人だと思います。当時フジパシが新しいことをやるために、笹島さんが分室を設けたんですが、そこにはTEN YEARSというORANGE RANGEの制作をやっていたチームがいたり、あと自分の所属していたレーベルがあったりとか、色々な人たちが「面白いことやろう!」と集まっていましたね。

 

ーー 出会った頃から中川さんは今と同じような雰囲気だったんですか?

 

南部:いや、全然ですよ。あんなデカくないですし(笑)。音楽好きだったなんてそのときは全然知らなかったですしね。でも、彼がアソビシステムでイベントを始めた頃から知っていましたけど、彼も自分の中でミッションを感じて、やりだしたのはここ数年じゃないですかね。二十代前半までは「楽しければいい」というか、「自分の好きなことを続けたい」って原動力だったと思うんですよね。

 

ーー ここからは南部さんご自身のお話を伺いたいんですが、どのような幼少期を過ごされたんですか?

 

南部:僕は神奈川の中央林間出身で、幼稚園・小学校は地元の公立に行ったんですけど、父の仕事の関係でアフリカのセネガルに転勤になったんですね。そこでの経験っていうのが今すごく財産となっています。

 

ーー アフリカのセネガルとは凄いですね。どのくらいいらっしゃったんですか?

 

南部:小学校2年生ぐらいから4年生ぐらいまでの2年間ですね。まあ、すごくカルチャーショックを受けますよね。気候とか町並みが違うっていうのはどこへ行ってもそうだと思うんですが、やっぱり価値観がもう圧倒的に違いますし、子供ながらに「危険だ」と何となく感じていました。

 

セネガルのダカールに着いたときの記憶とか強く残っているんですが、日本から送ったはずのダンボールが届かないと。何箱も。まあそんなの向こうでは当たり前ですよね。途中、誰かが取って行っちゃうこともありますし。で、どうにか届いたけど、3箱くらい足りないぞみたいなやりとりを親がやっている間にも、人がブワーっとたかってくるわけですよ。「自分が運んでやるから」と要はチップくれみたいなことなんですが、子供にとって見知らぬ黒人の人が大勢たかってくる光景は怖かったんですよね。

 

ーー 日本からいきなりだったらビックリしますよね。

 

南部:「うわぁ、ここに住むのか」っていう。とにかく凄いカルチャーショックでした。その経験があったから、自分自身の持つ価値観が全てではないし、当たり前だと思っているものが当たり前じゃないんだという考え方は、今も活かされていると思います。「じゃあ、自分はどういう生き方をするのか?」みたいなものの指針として、アフリカでの経験はずっとあり続けていますね。

 

ーー ある意味度胸もついたんじゃないですか?

 

南部:度胸も付いた…といっても逆にビビリでしたけどね。住んでいたのは守衛さんがいるようなマンションで、基本的に外で遊べませんでしたから。日本のように子供たちだけで公園でサッカーなんてことはできませんでしたね。

 

ーー 現地の人と友達になるという感じではないんですか?

 

南部:そうですね。ただインターナショナルスクールに通っていたので、そこにはセネガルの方はいなかったんですが、他の色々な国の、もちろんアフリカ大陸の人もいれば、アメリカ、ヨーロッパ、アジアの友だちはできましたね。そのまま日本にいたら恐らくファミコンでもやっていたんでしょうけど、それとは真逆というか、日本人は完全にマイノリティーでしたし、全く英語も喋れなかったので、最初はポカーンとしていましたね。もうとにかく嫌でしたよね。しかも、現地語はフランス語なんですよ(笑)。

 

ーー それはややこしいですね。2年で英語は喋られるようになりましたか?

 

南部:子供だったので喋られるようになりますよね。日本に帰ってきちゃって英語はすぐに忘れてしまいましたけど、そこで得た価値観とか、自分は将来世界で活躍できるような仕事をしたいなということは、なんとなくその頃から思っていたかも知れないですね。

 

あと、そういう環境の中で自分の親がしてくれていた振る舞いとか、思い返すとすごかったなと思います。当時、父は今の自分と同じぐらいの年齢だったと思うんですが、勇敢だなと。子供のために凜としてくれていたんだと思うんです。母も僕の手を引っ張って「あんたビビってんじゃないわよ」みたいな感じで。まあ肝っ玉母ちゃんだったんで(笑)。そういうのとかも今思うとすごいなって思いますね。それは自分が親になってみて、改めて実感しますね。

 

 

2.スカバンドで大学在学中にデビュー

 

株式会社ARIGATO MUSIC 代表取締役 南部喨炳 氏

ーー 音楽はいつ頃から興味を持ったんですか?

 

南部:僕は中学ぐらいからスカが好きになったんですよ。

 

ーー スカから入っている?

 

南部:いきなりオーセンティックなスカを聴いたわけじゃなくて、例えば90年代アメリカのオルタナロックムーブメントの中で派生して出てきたバンドたちを聞く中で、スカバンド、スカパンクとかそういうものに出会うようになって、「管楽器入っているパンクってあるんだ」みたいな。自分はそれが性に合って、中三のときにサックスをやり出したんですよね。和光ってやっぱり変わった学校でスカバンドが結構いたんですよ。

 

ーー 学校にスカバンドがいたんですか?

 

南部:いたんですよね。スカタライツっていうオーセンテックスカをやっているバンドの曲を、体育祭とか文化祭とかのステージでやって、そのあと、リズムアンドブルース・ジャグっていう、要はディズニーランドでかかっているようなオリエンタルな感じの音楽に触れたり、他の学校には中々なかったような音楽に当時から触れていました。

 

ーー そういう音楽が好きな生徒が和光にはたくさんいたんですか?

 

南部:そうですね。そういう連中がマジョリティーだったっていうことですね。和光は校則が基本的に緩いんですよね。だからピアスだろうが髪を染めようが自由だし、音楽的なところも「そんなJ-POPとかよりこっちの方が絶対カッコイイよ」っていう考え方がマジョリティーだったというか。

 

ーー すごい学校ですね。

 

南部:とにかく自由で、そういう意味で言うと「何でも良い」というか、そういう気持ちは当時からあったかも知れないです。で、オリジナルのバンドを高校時代からやり出して、来年で20周年になります。

 

ーー そのバンドはまだ続けられているんですか!

 

南部:もちろん今は仕事もありますし、メンバーも全員結婚していますから、常にという感じではないですが、毎年5月4日にクラブチッタでスカのバンドを20バンドぐらい集めたイベントをやったりしています。でも、自分が一番カッコイイと思うものを体現するっていうのは今でも大切にしている部分ですね。

 

ーー デビューしたのもそのバンドだったんですか?

 

南部:そうですね。大学は慶應のSFC、湘南藤沢キャンパスに行ったんですが、そのバンドで大学時代にフジパシの傘下のレーベルからデビューすることになります。

 

ーー 大学時代には海外ライブもやったそうですね。

 

南部:ドイツのスカレーベル「PORK PIE」が好きで、そのレーベルに「おれら今度ヨーロッパに行く機会があるからぜひ観に来てくれ」とDMを投げたら、観に来てくれて「お前らすごくいいな」って契約することになったんですよ(笑)。本当に単純な話なんですけど。

 

ーー 凄いですね!

 

南部:「え!マジで!」って。自分が憧れていたレーベルのファミリーになれるなんてことが起こるんだなと思いました。そのレーベルで3枚くらいリリースさせてもらって、その都度ヨーロッパとかを回って、計5回くらいはワールドツアーをやりましたね。そこで異文化に触れることで「日本のこういうところを変えたいな」ってすごく思うようになったんですよね。とにかくヨーロッパは音楽との距離感が全然違うんですよ。

 

ーー 音楽がより身近な存在ということですか?

 

南部:そうですね。ヨーロッパの人たちにとって日常の中に音楽があると強く感じました。例えば、僕らがドイツのベルリンでライブをやりますって言ったときに、普通「そんな日本から来たバンドに客が来るわけねえだろ」って思うじゃないですか。逆にドイツのバンドが来ましたって言って、名前なんて知られてないスカバンドだったら、客なんて日本じゃ入らないですよね。ただ、向こうでは入るんですよ。それって一つに、ハコにお客さんが付いているんですよね。毎日の日常生活の中で行きつけのバーへ飲みに行く感覚で「あ、今日は日本のバンドか」というノリなんですよね。

 

ーー なるほど。

 

南部:対して日本のライブハウスは「このバンドがやっているから観に行こう」だと思うんですよ。ドイツではライブハウスに行くってことが日常に、習慣レベルに落とし込まれているというか。

 

ーー 居酒屋に飲みに行くぐらいの感覚なんですね。

 

南部:その感覚でやっているなと思いました。なぜそういったことが成立するのかと言えば、基本的にドイツのライブハウスって、宿は絶対確保してくれますし、食事は着いた日と翌日は出るんです。それで物販はやらせてもらえて、入ったお客さんの数によってチャージバックでギャラも払ってくれるので、どんなバンドもツアーを回り続けられるんですよね。日本だと絶対そんなことなくて、チケット買わされちゃうし、ノルマ払わないといけないし、結局バイトしなきゃいけなくなってしまうわけです。

 

だからドイツの状況を見て「これを日本でもやりたいな」と。「自分たちの好きな音楽を自分たちで守るためには、こういう文化にしていかなきゃいけないんじゃない?」っていうのはドイツですごく感じましたね。それを日本でどうやったらできるのかなって今でも考え続けています。

 

ーー 自分でお店やっちゃうとか?

 

南部:ええ、本気で考えてます(笑)。

 

ーー そうなんですね。

 

南部:やっぱり自分たちが学生時代の頃って良い意味で音楽って売れたじゃないですか。それってCDというメディアがブームだったっていうのもありますし、コンポとかああいった家電が広まった影響ももちろんあると思うんです。ただ今そうじゃない中で、今後どういう風になっていくんだろうとみんな真剣に考えなくてはいけないと思うんですよね。

 

あと、若い子たちに「音楽ってこんなに格好いいんだよ」「音楽業界ってこんなにクールなんだよ」っていうことをどうやって伝えれば良いんだろうということはすごく思っています。僕らの世代までは、中学・高校時代に「バンドで食いたい」と思っている奴っていっぱいいたと思うんですよ。「バンドで食いたい」「音楽業界で働きたい」って奴が。でも、今の子たちって「バンドで食えるわけねえし」って最初から思っています。でもそこを変えたいんですよね。「バンドで食えるんだよ」っていう。音楽って最高にカッコイイし、人にこれだけ影響を与えられるし、社会をこれだけ変える可能性があるんだよっていうことを伝えていきたいという思いがどんどん強くなっています。

 

ーー 次世代を育てることも重要だと。

 

南部:そこはこの先の自分のテーマでもあるし、もうちょっとすれば40歳になってしまう自分に何ができるのか、ずっと考えています。要するに日本を元気にしたいみたいな気持ちなんですよね。日本の音楽を元気にしたい、音楽業界を元気にしたいみたいな気持ちは20代には全く無かったんですけど、今はすごく強いです。そこには中川君の影響もありますね。

 

 

3. MAN WITH A MISSION自体がコンテンツである

 

ーー その後、南部さんはご自身でレーベルを作られますね。

 

南部:はい。26歳のときに「SouthBell」というレーベルを作りました。

 

ーー これは自分たちのバンドのためのレーベルですか?

 

南部:そうです。当時、バンドのツアー中はバンドで飯を食って、ツアーがない期間はバイトをやっていたんですが、フジパシの傘下にあったドナドナレコーディングスというレーベルのヘッドが「お前面白いから裏方の方もやってみたら?」って言って下さったんですけど、当時、僕は居酒屋のバイトで滅茶苦茶稼いでいたんですよ。神奈川県下ですごく売上を上げていて、「時給いくら貰っていたんだろう?」っていうくらい貰っていました。一バイトでしたけど、僕好きなんですよね、サービス業(笑)。それでお金には困ってなかったんですが、その裏方の仕事の初任給が10万円だったんですよ(笑)。

 

ーー 滅茶苦茶安いですね(笑)。

 

南部:それで「どうしようかな…」みたいな(笑)。でも、音楽を生業としてやっていけるんだと思って、その話を受けて、A&Rの補佐だったり、当時着うたが出始めてそのレーベル担当をやらせてもらったり、あと、スペースシャワーTVでMCの仕事をやらせてもらったり、A&Rとして自分でアーティストを発掘するようなこともやりだしました。その後、25歳のときにフジパシの分室が解散することになって、自分が手がけたアーティストもいましたし、みんなが空中分解するのももったいないから、アーティストと自分のバンドを引き連れて、26歳のときに作ったのが「SouthBell」です。

 

ただ、経営なんて勉強もしたことないですし、単に楽しくてやっているだけなので、今は当たり前のようにわかるんですけど、レコードビジネスって先行投資じゃないですか。原盤作ってレコーディングしました、スタジオさんにお金払います。音ができたのでプロモーションして、リリースして、っていったいいつになったら印税だなんだって入ってくるんだって思っているうちに、あれよあれよという間に、凄い金額の赤字になっていったんですね。

 

ーー ピンチですね…。

 

南部:そのときに沢井原兒さん(以下、原さん)というサックス奏者がいるんですが、その方がICJという配信会社で社長をやられていて、当時フジパシの配信の窓口が僕だった関係で、年末に自分の状況を原さんに説明したら、「ICJの中にレーベル作らせるからそこでやろうよ」って言ってくださったんです。

 

「これで一安心だ…」と思ったら、年明け1月4日に「ごめん南部、この前の話なかったことにしてくれ」って言われて「どっひゃー!」みたいな(笑)。ただ、「ICJじゃできないけど、俺の息子(沢井大河氏)が作家のマネージメント会社をやっているから、そこでやろう」って紹介してもらったのがザザだったんですよ。そこで間借りさせてもらう形で自分のレーベルを始めて、その後3年くらいで黒字化して、代表から「作家のマネージメントも手伝ってくれない?」って話になったんですね。それでザザの業務もやるんだったら、ザザ内に俺のレーベルも一事業部として入れようという話になり、その後に自分がザザの役員になって、代表取締役になったのが1〜2年くらい前です。

 

ーー FYDはどういう経緯で設立されたんですか?

 

南部:わかりやすく言うとFYDはMAN WITH A MISSIONのためのマネージメント会社で、僕は1アーティスト1マネージメントが理想だと思っているんですよ。他の大手のマネージメントさんってスケールメリットが絶対あるから、それがないなりにどうやっていくかが自分の中でのテーマではあったんですよね。

 

ーー MAN WITH A MISSIONとはどのように出会われたんですか?

 

南部:彼らが日本で活動をし始めて3回目くらいのライブで初めて観ました。フジパシの方にマネージメントを探しているアーティストがいるから、ということで紹介していただいて。やっぱりパッションがすごいなと思ったんですよ。しかもはちゃめちゃじゃないですか。だから鮮明に覚えていますけどね。そこからはメンバーと二人三脚でずっとやってきています。

 

僕は海外でアーティストを成功させたいという想いが前からあった中で、MAN WITH A MISSIONには色々な可能性があるんじゃないかなと思っています。言語の壁、宗教の壁、人種の壁、国籍の壁とか色々な壁で今まで日本人、アジア人が成功できなかったものが、MAN WITH A MISSIONだったら超えられるんじゃないか、というのは強く思いましたね。彼らは究極の生命体ですけど(笑)。

 

ーー それは最初に観たときからそう思ったんですか?

 

南部:もちろん一番最初に観たときからそう思ったかと言われたらそうではないですよ(笑)。ただ、メンバーが叶えたい夢を聞くうちに「もしかしたらこのバンドだったら何かできるかもしれない」と思いました。例えば、サッカーの香川真司選手が、本田圭佑選手が海外で活躍すると日本は元気になりますよね。でも音楽は、もちろん活躍されているアーティストもいらっしゃると思うんですけど、グラミー賞の主要部門を獲ったアーティストがいるかといったらゼロですよね。ビルボードの1位も古くは坂本九さんがいらっしゃいますが、ロックバンドではいないです。そういったところで、音楽を通じて日本を元気にすることを自分はやってみたいなと常々思っていて、その使命をオオカミたちも共感してくれているんだと思うんですよね。

 

ーー MAN WITH A MISSIONには色々な可能性を感じます。

 

南部:これは自分の夢なんですけど、僕はMAN WITH A MISSIONをディズニーランドにしたいんですよね。そういうバンドっていないじゃないですか。バンド自体がコンテンツというか、MAN WITH A MISSION自体がコンテンツという。

 

ーー そういう発想なんですね。

 

南部:あくまでも自分の中で思っていることですけどね。コンテンツとしてどういう質でできるか、それを世界のマーケットにどういう風にしてグローカルにするかということを考えています。今までの発想って「日本で作ったものをそのままどう輸出できるか」って話だったと思うんですよ。そうじゃなくてローカライズをきっちりさせることがすごい重要だと僕は思っていて、中国に行くんだったら中国人が好きそうなMAN WITH A MISSIONというコンテンツにしてあげる。今までの音楽の発想って、欧米の流れでの「これが世界の中心の音だよ。みんな聴いて!」っていう流通系統でしたが、今ってそうじゃないと思っているんですよね。別に中国からもヒットが出るし、どこからもヒットが出るっていう時代に少なからず数年でなると思っているんです。

 

▼インタビュー後半はこちらから!

第147回 株式会社ARIGATO MUSIC 代表取締役 南部喨炳 氏【後半】

関連タグ